※ 底本 …「日本の美術1」№260『英一蝶』(小林忠著・至文堂・昭和63年刊)p22所収
原文に送り仮名および濁点・句読点を適宜補った。
「四季絵跋」英一蝶の跋文・享保三年(1718)正月記
〝夫大和絵は、そのかみ、土佐刑部大輔光信がすさみに、堂上のうや/\しきより、田家のふつゝか成る
さま、岩木のたゝずまゐ、やり水のめいぼく、是に始まりて、末々に流れ、予が如きの拙なき迄、これ
を元とす。近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、
世人うき世又兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、
こぞつて風流の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪の
よるべにまよひ、時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひ
て、よしなきうき名の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり。さるが中に、事に
当りて、謫居にさすらへし事、十とせにあまり廿とせに近きを、ありがたき御恵のめでたき、もとの都
に帰りきぬ。ある人、昔の筆の四時のたはれ画を、ふたゝび我に見す。其頃は眼すゞろに心たくまし
く、髪筋を千すぢにわくること、わざもことたらざりけらし。しかし、今の世のありさまにくらぶれば、
髪のつと襟をこえず、ふり袖大路をすらず、たゞあまざかる田舎おうなのすがた絵とも思ふべからんや。
蛍星うつりかはりて、此一巻を見る事、誠や浦島が七世の孫に逢へるのためし。且つは悦びをそふるの
こゝにて、それが為に跋す。
享保戊戌 孟春日
北窻翁英一蝶書〟
※ 一蝶の三宅島謫居は元禄十一年(1698)十二月~宝永六年(1709)九月まで
「享保戊戌」は享保三年(1718)