◯『百戯述略』〔新燕石〕④227(斎藤月岑著・明治十一年(1878)以降成書)
〝浮世絵
荒木摂津守村重が落胤にて、岩佐又兵衛と申すもの【俗に浮世又平と作り候は、浄るり節「傾城反魂香」
に浮世又平と作り設けしより、誤り申候】時世の人物を画き出し候が始にて、慶長の頃行はれ候哉に之有
り候、其後も此有るべし候、江戸には、貞享、元禄の頃、英一蝶、菱川吉兵衛師宣、宮川長春の輩、専ら
当世の風俗を写し候より行はれ、正徳、享保の頃、羽川珍重、鳥居庄兵衛清信、西村重長、奧村政信、続
て懐月堂安慶、石川豊信等が専らに一枚絵画き出し、梓に鏤めて世に行はれ、彩色摺は紅と萌黄の二色に
之有り、明和の頃、鈴木春信より一変いたし、彫刻入念、彩色の返数も相増し、専ら流行いたし、其後、
寛政頃、鳥居清長巧者にて、専らに行はれ、歌川豊春、喜多川歌麻呂等も多分に画き出し、勝川春章は歌
舞妓役者肖像を画き出し、門人多く、一枚絵多分に画き、世に行はれ申し候、又其の頃、東洲斎写楽と申
すもの、似顔絵を画き始め候へども、格別行れ申さず候、歌川豊国は豊春門人に御座候処、享和、文化の
頃より春章の風を一変いたし、歌舞妓の肖像を画き出し、文化頃より天保の頃迄、絵入読本、一枚絵、多
分に画き、後年筆も上達仕り候へども風韻之無し、門人国貞も同様にて、歌舞妓役者、当世の婦女の姿を
ば巧者にて、久しく世に行はれ候、
豊春の門人豊広が弟子に、一立斎広重【近藤十兵衛】是は、山水、名処、一枚絵に画き出し、世に行はれ
申し候、
葛飾北斎は、始め春章門人にて春朗と申し、後菱川宗理が門人と成り候由、是は一流をなし、山水、人物、
草木、禽獣、虫魚、何にても画き、格別の巧者にて、寛政の比より嘉永まで、年来、読本、草双紙、一枚
画、数多画き、九十歳にて終り申し候、其の画風何れにも依らず、一流にて一癖之有るを嫌ひ、且つ賤し
め候輩も之有る由に御座候へども、先づ稀成る画者に御座候、其の画本「北斎漫画」其の外数部、諸国へ
わたり行はれ申し候、後年戴斗と改め、又為一とも号し申し候
北尾重政は其の師不詳、是は巧者にて、普通の浮世絵師と違ひ、雅趣之有り、寛政中専らに行はれ候処、
画入読本、草双紙、摺物、其の外、多分に梓行いたし、文政中終り申し候、其の弟子北尾政美は、蕙斎と
号し、後鍬形紹真と相改め申し候、是も上手にて、寛政比より、草双紙其の外画き、後光琳の風を慕ひ、
一派を立て、略画式を題し、絵本数多あらはし申候、其の外、浮世画は数輩之有り、容易に認め兼申候
本銀町なる笹尾邦教と申す縫箔渡世のもの、文化中「浮世絵類考」をあらはし、京伝、三馬、南畝翁註
を加へ候処、天保中、浮世絵師渓斎英泉増補いたし申候、何れも写本にて、未だ梓行仕らず候〟
〈この斎藤月岑記事は、明治初年、東京府知事の諮問に対して答申したもの。自ら『増補浮世絵類考』(天保十五年
序)を編集しただけあって、浮世絵界全体を見渡した記事になっている。ただ、月岑の個人的な好みが反映してい
るのか、葛飾北斎と北尾重政は別格扱いである。北斎は当然であろう。しかし春信・春章・清長・歌麿・写楽・広
重等を差し置いて、重政となると、意外な感じもする。現代人にはつかみ所のない大きさのようなものを、江戸の
人々は、北尾重政に感じ取っていたのだろうか。意外なのはそればかりではない。歌川豊国については「風韻之無
し」である。ずいぶん冷めた評価ではないだろうか〉