Top            浮世絵文献資料館           浮世絵の世界                  浮世絵の誕生と終焉(全文)         加藤好夫
  (1)浮世絵と浮世絵師の誕生   はじめに    現在、浮世絵は西洋の「UKIYOE」観の影響を受けて時代を超えた普遍性をもっています。葛飾北斎という  名や『北斎漫画』などの版本や「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」などの版画が、世界の美術愛好家の話題か  ら消えてなくなることなど考えられません。   しかしそれらを生み出した下掲のような製作のシステムやプロセスが現在どうなっているかというと、ほ  とんど機能しておりません。そもそも現代において、木版は表現メディアの中心ではなく、銅版・石版など  と同じ版画の一つにすぎません。また複製版画を作る昔ながらの彫師や摺師などはおりますが、歌麿や写楽  のような版下絵師はいませんし、彼らを世に送り出したことで知られる蔦屋重三郎のような版元も存在しま  せん。つまり江戸の「うきよゑ」を生産する仕組みはすでに失われているのです。   一方でもっと時代をさかのぼってみますと、このような製作のシステムやプロセスが鎌倉や室町の時代に  あったとも聞きません。要するに「うきよゑ」には始まりと終わりがあるということになります。   以下、本稿ではその誕生と終焉までを近世の文献を利用してスケッチします。        浮世絵の製作システム  浮世絵の製作プロセス    一 浮世絵と浮世絵師の誕生    A 浮世絵の元祖   浮世絵誕生の時期については、浮世絵の元祖を誰にするかで、変わってきます。元祖には、これまで二つ  の説が行われてきました。一つは、岩佐又兵衛(慶安三年(1650)七十三歳没)説で、これだと17世紀前半  の誕生になります。もう一つは菱川師宣(元禄七年(1694)享年未詳)説で、これだと17世紀の後半という  ことになります。   まず岩佐又兵衛説からみていきます。これは江戸時代からよく行われていた説です。      宝永六年(1709)『風流鏡か池』巻二「夢はすゞりのうみ」独遊軒好文の梅吟作・奥村政信画・江戸   この浮世草子の中で、作者は「うき世絵の品さだめ」と称し、次のような絵師を取り上げてそれぞれ品評  しています。    「中むかし土佐流の人」の絵は「筆かれ過て、人丸の顔骨はなれしを見るやう」   品評「不出来」  「うき世又兵衛と云し絵師」の「小町」は「おとくじやうによく似たる」(注1)  評価「不出来」  「近代やまと絵の開山、菱川と云し名人」の「うつし絵」は「たへなりし筆のあや」 評価(上出来)  「今の鳥井(ママ)奥村など、きさき、官女、むすめ、娵(よめ)、遊女の品をかきわけて、大夫、格子(かう   し)それより下つかた、その風俗(原文ふうそく)をうつし絵は、さりとは絵とはおもわれず、生たる人   のごとくなりし」 品評(上出来)        『風流鏡か池』巻二「夢はすゞりのうみ」(独遊軒好文の梅吟作・奥村政信画)       この「うき世絵の品さだめ」には、「風俗をうつす」浮世絵師の系譜として、土佐派-浮世又兵衛-菱川  -鳥居・奥村といった流れが既に想定されています。ただこの段階では「うき世又兵衛」なる絵師の正体が  まだはっきりとしていません。そして約九年後、それを具体的に記した文が登場してきます。     享保三年(1718)「四季絵跋」英一蝶著・江戸  「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人うき世又   兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞつて風流   の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべにまよひ、   時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よしなきうき名   の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり」(注2)        「四季絵跋」(英一蝶跋)      一蝶は、うき世又兵衛を越前生まれの岩佐某の渾名と見なし、この岩佐、菱川の流れを「道」と称して、  自らが学んだ狩野派とは明確に区別しています。そして岩佐・菱川ともに「時勢粧」を「うつす」という点  では共通するとして両者を結びつけます。では「時勢粧」とは何でしょうか。   『日本国語大辞典』によると、「時世粧」「今様姿」とも書くとして、『誹諧時世粧』(松江維舟編・寛  文十二年(1672)刊)の「時世粧」は「いまようすがた」と読み、また浮世草子『男色大鑑』(井原西鶴・  貞享四年(1687)刊)四・一の「時世粧」には「いまやうすがた」のルビがあって、当時流行の歌謡という意  味があるとしています。ちなみにいうと、江戸の方でもこの「時勢粧」は使われ続け、享和二年(1802)刊、  歌川豊国画著・式亭三馬閲『絵本時世粧』では(いまやうすがた)のルビを振っています。また曲亭馬琴も  『燕石雑志』(文化七年(1810)刊)の中で「菱川が画はみなこの頃の時勢粧(ルビいまやうすがた)なり」  と記しています。   岩佐、菱川の流れの最大の特徴が、刻々と変化する当世の姿を画くことにあること、これは既に共通の認  識になっていたようです。     もっとも、菱川師宣を元祖とする説が全くなかったわけではありません。      享保十九年(1734)『本朝世事談綺』菊岡沾涼著・地誌・江戸  「浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正(ママ)信   等なり。是を京都にては江戸絵と云」      天明七年(1787)『絵本詞の花』宿屋飯盛編・狂歌絵本・江戸  「浮世絵は菱川を祖とし夷歌は暁月を師とす、此ふたつのものは、わざをなじからねど、姿のおかしくたは   れたるかたによれるは、そのさかひめなしとやいふべき」      ただ、この宿屋飯盛(石川雅望)でさえ、文化五年(1808)に成ったとされる自らの『浮世絵師之考』で  は、岩佐又兵衛を巻頭に据え次に菱川師宣を配しています。結局、江戸時代、菱川説は主流になりませんで  した。       『浮世絵師之考』(石川雅望編〔六樹園本・白楊文庫本〕)      しかし何と言っても、岩佐又兵衛元祖説に絶大な影響を与えたのは、寛政年間(1789-1800)の成立とさ  れる大田南畝の『浮世絵考証』(別名『浮世絵類考』)です。   ここで彼は、岩佐又兵衛、菱川師宣の存在の痕跡を古書の中から採取して考証し、前出一蝶の「四季絵跋」  を引用して、これを補助線のように使って、この系譜が従来の画系とは違う独自な流派であることを明示し  ました。そして鳥居・奥村・西川・石川・春信・勝川・歌川等の先駆者の業績をたどり、さらに当世の喜多  川歌麿・栄之・写楽・春朗(北斎)・宗理(北斎)・豊国等の名を連ねて、岩佐~菱川の系譜が彼らにも及  んでいることを明確にしました。南畝はいわば浮世絵の中に特筆するに価するものを認めて、別項を立てた  わけです。このような位置づけは、当時絵師といえば御用絵師の土佐・狩野だということを考慮すると、大  変に画期的なものでした。南畝に、御用絵師をさしおいてまで浮世絵師を高く評価する気持ちがあったとは  思えませんが、結果として「一隅を照らす」一員として浮世絵師の存在を認めることには一役買いました。  まさか本当に「これ則ち国宝なり」になるとは思ってはいなかったでしょうが。       「浮世絵考証」(大田南畝著)     大田南畝は、多彩な交友関係で知られていますが、浮世絵界とも生涯接点を持ち続けた人で、例えば鳥文  斎栄之に自分の肖像を画いてもらったり、松平定信が鍬形蕙斎に依頼して成った『職人尽絵詞』には詞書を  寄せたり、『北斎漫画』には序文を贈ったりしています。そしてまた膨大な量を残した随筆類にも、浮世絵  師等の動向をたくさん書き残しています。   彼は浮世絵が華やかに開花した時代の生き証人でもありました。明和二年(1765)の錦絵の誕生、清楚な  鈴木春信の女絵、勝川春章・一筆斎文調の役者似顔絵、鳥居清長のいかにも清新で伸びやかな天明調の美人  像、そして寛政期の歌麿の円熟した女絵と写楽の奇怪な役者似顔絵等々、これら浮世絵の黄金期というか、  浮世絵の節目節目を間近でつぶさに見てきた人です。   彼の『浮世絵考証』は、その生き証人の考証ではあり、しかも天明狂歌・戯作壇の大御所として知られる  四方赤良の言であり、そして三尺の童でも知らぬものはないという蜀山人の見解でもありました。説得力の  なかろうはずはありません。これに続く人々が南畝の周辺から現れ始めます。   享和二年(1802)には京伝の『浮世絵類考追考』が成り、文化五年(1808)には上掲のように飯盛(雅望)  の『浮世絵師之』が成ります。こうして浮世絵は単なる慰みものであるばかりでなく、考証に価する研究対  象として育っていくことになりました。実にその方面の先鞭をつけたのが大田南畝なのでした。   以降、天保四年(1833)の序を持つ無名翁(渓斎英泉)の『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)も、  弘化元年(1844)序の斎藤月岑著『増補浮世絵類考』も、慶応四年(明治元年・1868)成立、竜田舎秋錦  の『新増補浮世絵類考』も、すべて岩佐又兵衛を浮世絵の元祖としています。      徳川幕府が瓦解した明治以降も、この岩佐又兵衛元祖説はとくに問題視されることもなく受け継がれてい  きました。ところが昭和に入って異変が起こります。藤懸静也説です。    「又兵衛の画法を、後の浮世絵の画法に比較すると、浮世絵の法とは違うのであって、浮世絵派の先をなす   ものではない。画材の上からいふても、当世画を画かず、画法から見ても浮世絵の手法のもとをなすもの   ではない。されば又兵衛は浮世絵に関係づけることはできない。況んやその元祖説をや」(注4)      又兵衛と師宣以降のいわゆる浮世絵派との間には画法において連続性が見られない。また題材上でも、又  兵衛は当世画すなわち「時勢粧」を画いていないとして、浮世絵元祖説を否定しました。代わりに、後世の  浮世絵の画法上の始原を辿ってゆくと師宣に行き着くこと、庶民の鑑賞を前提として作画したこと、表現メ  ディアとして版画を重視したこと、菱川派という画系を形成したこと、以上のような論点を根拠として、菱  川師宣を浮世絵の元祖としました。     しかしその後、岩佐又兵衛に関する研究が進んで、藤懸説が否定の根拠とした「当世画を画かず」が、実  は必ずしもそうではなく、又兵衛もまた「当世画」を画いていたと認められるようになり、再び岩佐又兵衛  元祖説が注目されはじめました。かいつまんで言いますと、江戸初期の寛永年間(17C前半)盛んに画か  れた遊里や歌舞伎の風俗画、そして寛文年間(17C中期)の遊女や若衆(役者)の一人立ちの姿絵、これ  らの「時勢粧」を画いた風俗画の中から浮世絵が生まれたというわけです。そしてこの時代伝説的な名声を  得ていた岩佐又兵衛こそ浮世絵の元祖にふさわしいというものです。     (注1)「おとくじやう」は「お徳娘」いわゆる醜女の「お多福」   (注2)「日本の美術1」№260『英一蝶』小林忠著・至文堂・昭和63年刊   (注3)「浮世絵類考 論究・10」「六樹園本『浮世絵師之考』の本文」『萌春』207号 北小路健著   (注4)藤懸静也著『増訂浮世絵』雄山閣・昭和二十一年刊    B 浮世絵の元祖は菱川師宣     さて、本稿は菱川師宣説に立っています。その根拠は大きく分けて三つあります。  1 菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼び、また彼を「浮世絵師」と呼んだ人が現れたこと。  2 菱川師宣は版画を重視したこと。  3 菱川師宣の画いた題材が後の浮世絵師にほぼ踏襲されたこと。   以下、順次見ていきます     1 菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼び、また彼を「浮世絵師」と呼んだ人が現れたこと。     a「浮世絵」の出現      元禄四年(1691)刊・菱川師宣画・絵本『月次のあそび』の序   「爰に江城のほとりに菱川氏の誰といひし絵師、二葉のむかしより此道に心を寄、頃日うき世絵といひしを   自然と工夫して、今一流の絵となりて(云々)」(注1)      この絵本に出てくる図様は、年始参り・万歳・寺参り・花見・灌仏会・子規・印地切・施餓鬼・十五夜・  重陽・恵比須講・顔見世・師走光景と、正月から師走までの市井の年中行事が画かれています。序者はこう  した市中の人々の営みを画いたものを「浮世絵」と呼んだのでした。どうやら菱川師宣の絵を「浮世絵」と  称した最初の例のようです。   ところでなぜ元禄四年刊の版本を下掲の天和二年(1684)刊の前にもってきたかというと、これには次の  ような事情があります。この『月次のあそび』、実は再刊本で、初版本は『年中行事』の書名で延宝八年  (1680)の刊行とされています。それなら「浮世絵」の初出を延宝八年とすればよいのではないかという議  論も当然起こるのですが、どうもそうもいかないらしいのです。問題はこの序文にあります。この「うき世  絵」という言葉を含んだ序文が初版時からそもそもあったか否かで専門家の判断が分かれているのです。そ  のため今のところ初出年を特定できません。それでとりあえず延宝八年の可能性を残すために前に出してお  いたという次第です。      天和二年(1684)『浮世続絵尽』序・菱川師宣画・江戸  「五月雨のつれ/\にたよりて、大和うき世絵とて世のよしなし事、その品にまかせて筆をはしらしむ」(注1)      この序の年代は確実のようです。ここの題材は、女郎(遊女)若後家・野郎(役者等の女色・男色)で、  いわゆる好色物の人物画ですが、これらを序者は「大和うき世絵」と呼んでいます。これらの題材はこれま  でも画かれてきましたが、おそらく従来のありきたりの言葉では表現しきれないものを師宣の絵に認めて、  序者は「浮世絵」という造語を使ったのだと思います。     なおそれに関連して云いますと、延宝九年(天和元年・1683)刊の俳書『それそれ草』所収の句「浮世絵  や下に生たる思い草」これが「浮世絵」の初出ではないかという指摘があります。(注2)興味深いことに、  この句の「浮世絵」とは春画だとの見解もあります。(注3)そうしますと「浮世絵」という言葉には生ま  れた当初から春画のイメージがつきまとっていたと見てもよいと思います。     その他にも現代の我々に感覚からすると奇異な用例があります。     天和二年(1684)『好色一代男』巻七「末社らく遊び」井原西鶴作・浮世草子・大坂  「扇も十二本祐禅浮世絵」     この扇について、後年、江戸の柳亭種彦は「浮世ぐるひする者の専らもてはやしゝ扇なるべし」と考証し  ています。要するに、浮世狂い(遊女に夢中)に名高いお大臣の持ち物で、時代の最先端をいく宮崎友禅の  超豪華版扇絵、これを西鶴は「浮世絵」と呼んだというのです。   上掲菱川師宣の「大和うき世絵」もこの西鶴の「浮世絵」もともに天和二年刊、すると江戸と大坂でほぼ  同時期に「浮世絵」という呼称が使われたようです。しかし現代の我々の感覚からすると、「友禅が浮世絵」  という言い方は奇妙に感じます。現在、宮崎友禅から「浮世絵」という言葉を連想する人はまずいないでし  ょう。これはどう考えればよいのでしょうか。おそらく時間の経過とともに師宣の絵の方が「浮世絵」とい  う言葉との親和性が強くなっていって、その系統以外の絵を「浮世絵」と呼ばなくなってしまたからだと思  います。時を経るに従って師宣の絵が、あるいは菱川系統の絵が「浮世絵」の呼称を独り占めにしていった  のです。その経過については後にもう一度触れますが、やはり菱川師宣の浮世絵の元祖たる所以がここにも  あります。     b「浮世絵師」の誕生     天和三年(1683)『大和武者絵』序 菱川師宣画  「大和武者絵、爰に海辺菱川氏といふ絵師、船のたよりをもとめて、むさしの古城下に、ちつきよして自然   と絵をすきて、青柿のへたより心をよせ、和国絵の風俗、三家の手跡を筆の海にうつして、これにもとづ   いて自工夫して後、この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり(云々)」(注1)      これは津の国の闇計(あんけ)という人物の序文です。この人の正体は分かりませんが、菱川師宣を初め  て「浮世絵師」と呼んだ人物のようです。なおこの絵本についても、延宝八年と推定される初版本が存在す  る由ですが、実はこれも上掲『月次のあそび』と同様に序文に問題があり、この序が延宝八年の初版時から  付いていたかどうかをめぐって見解が分かれています。   ともあれ、延宝から天和にかけて、菱川師宣の出現に触発されて「浮世絵」と「浮世絵師」という呼称が  現れたというわけです。師宣を浮世絵師の元祖とする理由はここにあります。    (注1)松平進著『師宣祐信絵本書誌』日本書誌学大系57 青裳堂書店 昭和六三年刊  (注2)諏訪春雄著「浮世絵の誕生」『浮世絵芸術』130号。なお諏訪氏『それそれ草』の刊行を延宝八年と      している。頴原退蔵著『江戸時代語の研究』は延宝九年刊。国文学研究資料館の「日本古典籍総合      目録」は延宝九年跋とする。  (注3)小林忠著「日本のシュンガ」学習院大学のウェブライブラリー「浮世絵の構造」26    2 菱川師宣は版画を重視したこと。     前出の岩佐又兵衛を含む寛永寛文期の風俗画は版画ではなく肉筆です。肉筆は言うまでもなく一点きり。  所有者以外の人が目にすることはほとんどありません。あるとすれば虫干しくらいなものでしょう。   しかし量産可能な木版画ということになると、様子が違ってきます。供給側と需要側と双方に大きなメリ  ットがあります。   一つは量産効果による低価格化です。これで市中の人々の入手ハードルが随分低くなります。評判が上が  ればさらに低価格で供給できます。つまり廉価であるがゆえに新たな購買層の拡大が期待できるのです。   もう一つは板木が版元にとっては資産になるということです。要するに版権の発生です。評判が上がって  増刷すると、版木が利益を生み出します。版を重ねれば重ねるほど利益が上がります。版木は文字通り金の  なる木として、それ自体が売買の対象となりました。   そのうえ次のような相乗効果もありました。供給側は購買層を市井の大衆に定めています。すると商売と  しては、その層が好んで受け入れるものを、常に開拓する必要に迫られます。なぜなら浮世絵師はそれを売  って生活するほかないからです。生活費が保証される狩野や土佐の御用絵師たちとは違い、売れねば生活に  窮します。このせっぱ詰まった境遇が、結果として浮世絵師の旺盛な活動のエネルギー源となりました。錦  絵(多色摺)技法の発明・確立はそのエネルギーがもたらしたものでしょうし、西洋伝来の透視遠近法や精  巧な写生画法を素早く摂取して肉体化したのもそうした境遇ゆえなのでしょう。   そして遊女・役者・相撲絵・武者絵・歴史画・浮絵・風景画・花鳥画・判じ物・開化絵・光線絵等々、浮  世絵は次々とジャンルを拡大してきました。これらは常に何をどのように画いたら人の目を惹くか、あるい  は買ってもらえるかということに敏感であったからこそ必然的に湧いてくる拡大エネルギーだったのでしょ  う。つまり浮世絵に漂うダイナミズムは表現メディアを木板にしたことと大いに関係しているというわけで  す。   浮世絵界は版元・画工・摺師・彫師・草紙屋からなる独特の分業体制の下、大衆の需要に応えるべくして  発展していきます。それもこれも浮世絵界が販路を市中の庶民に求め、市民版画を表現メディアとして選ん  だからにほかなりません。版画を重視した菱川師宣はこの点でも浮世絵の元祖にふさわしいといえます。  3 菱川師宣の画いた題材が後の浮世絵師にほぼ踏襲されたこと。     上掲『月次のあそび』『浮世続絵尽』『大和武者絵』のところでも触れたように、師宣はさまざまな分野  のものを題材として画き続けました。当世の遊郭(遊女)・芝居(役者)・市中の男女の風俗、他にも武者  絵・名所絵・雛形本・花鳥図・浮世草子の挿画・そして春画等々を画きました。これらのほとんどは後世の  浮世絵師たちにも受け継がれていったものです。   一例を挙げましょう。『大和武者絵』には、敦盛と熊谷次郎直実の一ノ谷・宇治川の先陣・忠盛最期・渡  辺綱と鬼・源頼光と四天王の大江山鬼退治・悪兵衛景清と美尾谷十郎の錣引き・巴御前・楠正成と正行別離・  俵藤太大蛇退治などの図様が収録されていますが、これらは奥村政信や北尾政美によって引き継がれたのち、  一勇斎国芳によって「武者絵」という新たな分野が形成されました。   郭(遊女)・芝居(役者)については云うまでもありません、実に明治の半ば頃まで、つまり19世紀後  半まで、師宣の題材は後世に至るまで連綿として画き続けられてきました。つまり題材の面からも、師宣を  浮世絵の元祖と見なすことはできるのです。     C「浮世」を冠した言葉の時系列     浮世絵・浮世草子・浮世人形等、「浮世◯◯」という言葉が菱川師宣が登場するあたり、つまり延宝・天  和(1673-1683)から目立つようになります。年次ごとにまとめた一覧が以下にありますので参考にしてく  ださい。       「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列     これらを見渡すと、ポイントが二つあります。    1「浮世絵」とは「浮世」と「絵」の合成語で「浮世◯◯」という造語の一つであること  2「浮世絵」を画く絵師は菱川師宣に限らなかったということ    1「浮世絵」とは「浮世」と「絵」の合成語で「浮世◯◯」という造語の一つであること。   今でこそ「浮世絵」は固有名詞となっていて、浮世絵といえば誰しもが歌麿・北斎の絵を思い浮かべるの  ですが、当初は云うまでもなくそうではありません。   実は「浮世」という言葉を冠した「浮世◯◯」という造語が次々と生まれたのは、17世紀後半期以降の  ことです。実に夥しい数ですが、さしあたって「浮世絵」という言葉が出現する前後を見てみましょう。     どうやら寛永二十年(1643)の「うき世くるひ」の用例がもっとも古いようです。「浮世狂い」には遊女  との色恋に夢中になるという意味がありますから、ここでも「浮世」と「遊女」の強い結びつきが感じられ  ます。   以下、一つ一つその意味について述べる紙幅がありませんので、言葉だけを追ってみます。     延宝年間あたりから「浮世◯◯」の用例が次第に多くなっていくのが分かります。そして先ほど見たよう  に天和初年には菱川師宣の絵に「浮世絵」と「浮世絵師」の名称が与えられます。(初出を延宝八年とする  説もあります。上出「a「浮世絵」の呼称」の項を参照のこと)   さて「浮世◯◯」という形の造語はいったいどれくらいあるのでしょうか。   頴原退蔵博士の「『うきよ』名義考」という論文には、約八十余例が収録されています。そのほとんどが  俳諧やいわゆる井原西鶴の『好色一代男』から始まる「浮世草子」の作品中に見られます。天和から享保  (十七世紀後半から十八世紀前半)にかけての約五十年、発生のほとんどはこの時期に集中しています。  どうやら競って命名したような感がないでもありません。「浮世」という言葉には、後に再度触れることに  なりますが、「最新流行の」という意味合いもありますから、おそらくこの「浮世◯◯」という造語を新た  に作ること自体が当時大いに流行したのでしょう。   ともあれこの「浮世◯◯」、その多くはいつの間にか消滅してして使われなくなってしまいました。ただ  なぜか「浮世絵」と「浮世草子」だけは生き残り固有名詞化しました。もっとも「浮世草子」が日本の近世  文芸の領域内だけで使われるのに対して、「浮世絵」の方は日本を超えてほぼ世界全体で流通するという違  いはありますが。    2「浮世絵」を画く絵師は菱川師宣に限らなかったこと。       まず用例を見てみましょう。     延宝八年(1680)(①『年中行事之図』序 師宣画 江戸・②『大和武者絵』序 師信 江戸)   ①「菱川氏(中略)頃日うき世絵といひしを自然と工夫して」   ②「菱川氏(中略)この道一流をじゆくしてうき世絵師の名をとれり」       ※①の序は元禄四年刊の再刊本『月次のあそび』に付けられたという説あり。また②の序は天和三年刊     の再刊本『大和武者絵』に付けられたという説あり。要するに、延宝八年の段階ではまだ「浮世絵」     「浮世絵師」の用例は存在しないというのです     天和二年(1682)(①『好色一代男』井原西鶴作 大坂・②『浮世続絵尽』序 師宣画 江戸)   ①「扇も十二本祐禅が浮世絵」   ②「大和うき世絵とて世のよしなし事、その品にまかせて筆をはしらしむ」     天和三年(1683)(『大和武者絵』序 師宣画 江戸)   「菱川氏(中略)この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり」     貞享四年(1687)   (①『男色大鑑』井原西鶴作 大坂 ②『女用訓蒙図彙』奥田松柏軒編・吉田半兵衛画 京 ③『江戸鹿子』藤田理兵衛著 江戸)   ①「承応元年秋(若衆絵に)浮世絵の名人花田内匠といへる者、美筆をつくしける」   ②「友禅と号する絵法師有けらし、一流を扇にうき出せしかば、貴賤の男女喜悦の眉をうるはしく、丹花     の唇をほころばせり。これに依て、樸(やつがれ)人のこのめる心をくみて、女郎小袖のもやうをつく     りて或呉服所にあたへぬ。それを亦もて興ずるよしを聞きて、書林の某、世にひろめんまゝ新にたく     みてよと望めり。辞する詞なくして、つゐに浮世絵の逸物吉田氏が筆をかりて、粗(ほゞ)かゝしむる     也」   ③「浮世絵師 堺町横町 菱川吉兵衛/同吉左衛門」     元禄元年(1688)(『色里三所世帯』井原西鶴作 大坂)   「菱川が筆にて浮世絵の草紙を見るに」     元禄年間(1688-1703)(『好色濡万歳』 桃の林紫石作 江戸)   「本所の片ほとりに恋川舟思と云うき世絵の名人ありけり」     延宝から貞享にかけて、西鶴は同時代の宮崎友禅の扇絵も、承応年間(1652-55)の花田内匠の若衆絵も、  菱川の絵も同様に「浮世絵」と呼んでいました。また吉田半兵衛の絵を「浮世絵」と呼び、江戸の菱川、京  の吉田とを「当世ぬれ絵かきの名人」と並び称する見方もありました。つまり菱川師宣の絵だけが「浮世絵」  とされたわけではありません。     どんな点から彼らの絵が「浮世絵」と称されたのでしょうか。      花田内匠の人となりについては今ひとつよく分かりませんが、どうやら若衆絵に優れていたようです。い  わゆる衆道(男色)関係の美少年の容姿を画いたものと思われます。ただ承応年間当時、花田内匠の絵が実  際に「浮世絵」と呼ばれていたかどうかははっきりとしません。おそらく西鶴は、若衆の絵柄に名高いとい  うところに着目して、当時出回りはじめた「浮世」を冠したように思います。      宮崎友禅は元禄時代(1688-1704)活躍した染色絵師です。   元禄元年(貞享五年・1688)(『友禅ひいながた』友尽斎清親序・国立国会図書館デジタルコレクション画像)  「宮崎宇治友禅といふ人有て、絵にたくみなる事、いふに斗なく、古風の賤しからぬをふくみて、今様の香   車なる物数奇にかなひ、上は日のめもしらぬおく方、下はとろふぬ女のわらはにいたるまで、此風流とな   れり」     西鶴が友禅の絵を「浮世絵」と称したのは、当代の物好き連中の贔屓をうけ、奥方から女童まで貴賤を問  わず絶大な人気を誇っていた点を評価したのであろうと思います。『友禅ひいながた』には、衣裳の文様・  風呂敷・扇・団扇など、様々な分野の斬新な図案が載っています。したがって、こちらの「浮世絵」は人物  画ではなくて、衣裳の文様や扇・団扇のような持ち物の洗練されたデザインに対する呼称です。     次の「浮世絵の逸物」の吉田半兵衛。この詞書きのある『女用訓蒙図彙』の巻四は小袖の雛形模様が画か  れています。やはり『友禅ひいながた』同様、最新の衣裳デザイン集なのです。そこに「浮世絵の逸物」吉  田半兵衛が画工として起用されたわけです、最新の衣裳模様を画くに、もっとも人気のある浮世絵師を配し  たということなのでしょう。     元禄年間の「本所の方ほとりの恋川舟指」なる人については全くわかりません。ただ草双紙を大人の読み  物にしていわゆる黄表紙というジャンルを確立した安永~天明期(1772-1788)の恋川春町が同じく恋川を  名乗っている点は少し気にかかります。この戯作名は彼の屋敷があった小石川の春日町に由来するとされて  きましたが、倉橋寿平が戯作名ばかりでなく浮世絵師としても恋川を名乗ったのには、遠く元禄の浮世絵師・  恋川を意識した可能性が全く無かったとも言い切れないような気もします。あくまで推測ですが。      ともあれ「浮世絵」の呼称は、それが出回った当時は菱川絵以外にも使われていたわけです。それが時を  経るに従って菱川絵と浮世絵の組み合わせが有力になっていきました。それに比べて「花田内匠」や「宮崎  友禅」や「恋川舟思」と「浮世絵」の組み合わせは単なる一過性のものあったようで、天和・貞享・元禄以  降も使われた形跡はありません。ただ吉田半兵衛の場合は菱川師宣と並び称せられてしばらく使われていた  ようです。しかしこれも次の用例あたりを最後に見かけなくなります。     宝永七年(1710)『寛濶平家物語』京(『古画備考』より「浮世絵師伝」「前書き」)  「板行の浮世画を見るにつけても、むかしの庄五郎が流を、吉田半兵衛学びながら、一流つゞまやかに書い   だしければ、京大阪の草紙は半兵衛一人にさだまりぬ。江戸には、菱川大和画師の開山とて、坂東坂西此   ふたりの図を、写しけるに」     この後の享保以降になると、西川祐信・鳥居清信・奥村政信と「浮世絵」の組み合わせが多くなっていま  すきす。無論「菱川」と「浮世絵」の組み合わせは相変わらず使われ続けます。生前も死後も画名と「浮世  絵」がワンセットになって使われ続けたのはおそらく菱川師宣だけでしょう。この点から云っても、師宣は  浮世絵の元祖たるにふさわしいのです。  D「浮世」の意味      前述のように「浮世絵」とは「浮世」+「絵」ということになりますが、それではこの「浮世」にはどの  ような意味があるのでしょうか。      文化七年(1810)『燕石雑志』飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著 随筆・江戸  「菱川が画はみなこの頃の時勢粧(ルビいまやうすがた)なり」     「時勢粧」は「ジセイノヨソオイ」とも読みますが、これは浮世絵の漢語的表現。馬琴によれば、菱川師  宣の絵はみな当世の諸相を写した浮世絵だというのです。     文化十一年(1814)『骨董集』山東京伝著・考証随筆・江戸  「昔はすべて当世様をさして浮世といひしなるべし」(文化11年(1814)刊)      これも馬琴と同様、山東京伝も「浮世」とは当世様と同じで現代風の意味だとします。      文政九年(1826)『柳亭記』柳亭種彦著・随筆・江戸  「浮世といふに二ツあり。一ツは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一ツは浮世は   今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり」       種彦によれば「うきよ」には二つの意味がり、一つは「憂世」、つまり辛く切ない世、あるいは空しくは  かない世という意味の「憂世」と、もう一つは「今様」、これは京伝のいう「当世様」と同様で現代風、当  代の流行の最先端といった趣きのある言葉です。     「浮世」という言葉には、「当世」つまり現代という意味と、例えば「浮世小紋」や「浮世模様」のよう  に「現在流行の」とか「現在評判の」といった意味あいとがあったようです。つまり「浮世絵」とは、現在  もっとも流行しているもの、あるいは現在とりわけ評判高いもの、それらに注目して画いたものということ  になります。不易流行という言葉を使うと、不変を象徴する常緑の松や能などによっていつの世にも再生し  てくる故事古典の世界は、狩野や土佐の伝統的な流派の専任領域だと敬して遠巻きに眺めるばかり、注文さ  れれば画くこともありましょうが、やはり浮世絵師は尽きることなく変転する当世の流行を画くことに全力  を傾けるというのです。   では江戸時代、最先端の流行が絶えず生み出されるところはどこか。云うまでもなく、それは江戸の吉原・  深川のいわゆる遊里や、中村・市村・森田の歌舞伎の三芝居、ともに悪場所と呼ばれるところに他なりませ  ん。したがって、当世の流行を専ら追跡する浮世絵が、あるいは時には流行の先駆けさえする浮世絵が、遊  女や役者に注目するのは当然なのであります。     これについて明治期の坪内逍遥が大変興味深いことをいっています。  「わが徳川期の民間文芸は、かつて私が歌舞伎、浮世絵、小説の三角関係と特称した、外国には類例のない、   不思議な宿因に纏縛されつつ進化し来つたものである。或意味においては、この三角関係が三者の発達上   に有利であったともいえるが、わが文芸をして遊戯本位の低級なものたらしめたのは、主としてこれがた   めだ。というのは、この関係は、正当にいうと、更に狭斜という一網を加えて、四角関係と見るべきもの   で、随ってわが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノグラフィーに   傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわけにはゆかない   宿命を有していた。つまり題材も、趣味も、情調も、連想も、理想も、感興も、主として狭斜か劇場かに   関係を持っていて、戯作(文学)と浮世絵(美術)とは、これを表現する手段、様式に外ならなかったの   である。前にいった如く、この四角関係は、或時代までは、互いに相(アイ)裨(タス)けてその発達を促成した   気味もあったが、後にはその纏脚式の長距離競走が因襲の累いを醸して、千篇一律の常套に堕し、化政度   以来幾千たびとなく反復して来た同じ着想、同じ趣向のパミューテーションも、維新間際となっては、も   う全く行き詰りとなってしまった〟(注)     (注)「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著『早稲田文学』大正十四年二月号(『明治文学回想集』上)   〈「狭斜」は色町。具体的には幕府公認の吉原(公娼)や深川など江戸市中に点在する岡場所(私娼)    バッフンネリー(buffoonery)は品のない道化(おどけ)パミューテーション(permutation)は並べ替え    の意味〉      坪内逍遥によれば、近世における戯作(文学)・浮世絵(美術)・歌舞伎(芝居)・狭斜(遊里)のそれ  ぞれは切っても切れない四角関係にあり、戯作や浮世絵は劇場や狭斜を表現する様式に他ならないというの  です。その中でも浮世絵は他の全ての領域と深い関係を持っています。役者似顔絵・死絵・芝居番付・劇場  絵等で芝居と繋がり、遊女絵で遊里と繋がり、草双紙(黄表紙・合巻)・読本・人情本・滑稽本・咄本の挿  絵担当で文学とも強い繋がりをもっています。浮世絵はまさに江戸から明治にかけて、実に二百年以上にも  亘って四角関係の一翼を担い続けました。菱川師宣にしても遊里・芝居は云うまでもありません、また井原  西鶴の浮世草子『好色一代男』の挿絵も担当していますから、文学との繋がりもありました。これまた菱川  師宣の元祖たる所以です。     さらに付け加えて「わが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノグラ  フィーに傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわけにはゆ  かない宿命を有していた」とも言及しています。それを証するかのように次のような記述も残されています。     貞享年間(1684-7)(『諸国此比好色覚帳』作者未詳)   「当世ぬれ絵かきの名人、お江戸のひしかわ、京の吉田半兵衛」     元禄八年(1695)(『好色とし男』作者未詳(二・一))   「菱川、吉田が浮世枕絵有程ひろげて、爰な男はかつかうよりもち物がちいさいの」      元禄十五年(1702)(『当世誹諧楊梅』調和・其角等の点)   「浮世絵もまづ巻頭は帯とかず」     菱川師宣も吉田半兵衛もともに当代きっての春画の名人として鳴り響いていたのでしょう。その彼らの画  くものを「浮世絵」と称したわけですから「浮世絵」という言葉の中には春画のイメージが最初から付きま  とっていたものと思われます。   これに関しては、頴原退蔵博士の「『うきよ』名義考」も、「浮世絵が単に美人画、若くは遊女役者の姿  絵を意味するだけでなく、屡々秘戯画の意として用ひられて居る」として、「浮世絵」が「春画」のイメー  ジと強く結びついていることを指摘しています。     頴原退蔵博士によれば、そもそも「浮世」という言葉自体には、「当世」「流行」といった本来の意味あ  いのほかに「色気」とか「享楽的」「好色的」とかいう意味あいが認められるし、あるいはもっと露骨に  「遊女」や「野郎」をさす言葉として使われている場合もあるといいます。   付け加えて云うと、元禄二年の「浮世絵人形」には「その下半身の服を取ると性器が現れる仕掛けがして  ある」ともありますから「浮世」という言葉には「猥ら」という意味合いさえ含まれているらしいのです。
    「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列     いづれにせよ、菱川師宣の絵に上述のような多義的な意味合いをもつ「浮世」が結びついて「浮世絵」と  呼ぶことになったわけです。それとともに「浮世絵」出現の当初から「好色」「猥褻」といったイメージも  また運命として背負うことになりました。現代でも浮世絵というと、春画を連想する人が未だに多いのです  から、これはまだまだ引きずっているに違いありません。     以上「浮世絵」と「浮世絵師」という言葉の誕生の様子を見てきました。延宝末あるいは天和初年にかけ  て、まず菱川師宣の絵に「浮世絵」の呼称が使われます。その後、斬新なデザインで人気のあった宮崎友禅  扇や衣裳の図様にも「浮世絵」という名称が使われましたが、結局のところ、菱川の当世絵と「浮世絵」と  の組み合わせが分かちがたく結びついていって、菱川系統の絵以外に「浮世絵」の呼称を使うことは絶えて  なくなってしまいます。こうして「浮世絵」の呼称の方は「春画」や「好色」「猥褻」のイメージさえを内  包しながらも次第に流通していったのですが、「浮世絵師」という呼称のほうはそう単純ではありませんで  した。菱川師宣たちいわゆる浮世絵師は、自分たちが画く絵を「浮世絵」と認めることはあっても、自分た  ちが「浮世絵師」と呼ばれることには少なからぬ抵抗感も持っていたようです。この「浮世絵師」という呼  称が定着するまでの曲折は、次回に回します。                  (2016/07/29)   (2)浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折     前回は、「浮世絵」と「浮世絵師」という呼称が、延宝末年かあるいは天和初年(1680年前後)に生まれ  たことを述べるとともに、その後「浮世絵」という呼称が菱川師宣の絵とが分かちがたく結びついていった  様子を簡単に辿ってみました。   今回は、その分かちがたく結びついていった様子を、新たに編集し直した下掲の「浮世」を冠した言葉と呼  称「浮世絵」の時系列に拠って再確認するとともに、それが「浮世絵」という一つの画派の確立に結びついて  いった様子を振り返ります。そして「浮世絵師」の呼称の曲折についてはその後に述べます。       「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列
   二 浮世絵派の確立     A 結びつく菱川絵と「浮世絵」    元禄年間に入ると、菱川師宣の絵と「浮世絵」との結ぶつきはいよいよ強固になっていきます。      ①「菱川が筆にて浮世絵の草紙を見るに、肉(シシ)置(オキ)ゆたかに、腰付に丸みありて(云々)」     (『色里三所世帯』井原西鶴作・元禄元年(1688)刊・大坂)
  ②「(遊女・小紫)きりやうのやんごとなき事、尊朝の仮名ぶみ、菱川がうき世絵もをよばず」     (『諸わけ姥桜』遊色軒作・元禄五年(1692)刊・京)
  ③「菱川、吉田が浮世枕絵有程ひろげて」     (『好色とし男』作者未詳・元禄八年(1693)刊・京か?)
  ④「あのやうな美しいこもそうは江戸みやげに貰うた菱川がうき世絵の外みた事は御座らぬ」     (『好色艶虚無僧』桃林堂蝶麿作・元禄九年間・江戸)
  ⑤「京屋の御琴といふ米(よね)は松の位のわかみどり。宍戸与一が仮名文、菱川の浮世絵もおよばず」     (『風流日本荘子』京の錦作・元禄十五年(1702)刊・京)     菱川師宣の没年は元禄七年(1694)ですから、生前はもとより没後も「菱川が浮世絵」という言い方が、大  坂でも京都でも江戸でも、浮世草子の世界では一種の決まり文句のようなものになっていたのでしょう。ここ  に師宣の絵が三都に鳴り響いていた様子が見てとれます。   さてこの「菱川が浮世絵」ですが、その絵柄には共通点があります。①と③が春画、②と⑤が遊女、④は  若衆。浮世草子の分類でいうといずれも好色物ということになります。①は井原西鶴の文。西鶴は以前から師  宣の春画には注目していたようで、「菱川が書しこきみのよき姿枕を見ては、我を覚ず上気して(云々)」と  いう文がすでに『好色一代女』(貞享三年・1686)に見られます。   「浮世絵」という呼称についていうと、西鶴にはこれ以前に「祐善が浮世絵」(天和二年・1682)とか「浮  世絵の名人花田内匠といへる者」(貞享四年・1687)といった用例が既にありました。これらは洗練された扇  や魅力的な若衆絵に対して用いられた例であります。しかし①の文を認めたときの西鶴はおそらく上掲「菱川  が書しこきみのよき姿枕」を念頭におきながら「菱川が浮世絵」と記したに違いありません。したがって西鶴  のいう「菱川が浮世絵」の「浮世絵」という呼称には、春画のイメージが重なっているものと考えられます。   しかしもともと師宣絵本の序に使われた「浮世絵」という呼称は、年中行事(『月次のあそび』)や武者絵  (『大和武者絵』)などの絵柄に対するものでありました。必ずしも「好色」というイメージだけではなかっ  たのです。にもかかわらず、西鶴の例にもあきらかなように、菱川絵は好色的なイメージで彩られていきまし  た。   貞享四年(1687)、師宣の挿絵を添えた西鶴の『好色一代男』が出版されました。いわゆる江戸版の『好色  一代男』です。これの影響も大きかったのでしょう、これ以降浮世草子の世界では、「菱川が浮世絵」と云え  ば「好色」を連想するようになっていったものと思います。   ついでに云うと、当時春画の出来映えで注目された絵師は師宣ひとりに限りません。
  ⑥「当世ぬれ絵かきの名人、お江戸のひしかわ、京の吉田半兵衛」     (『諸国此比好色覚帳』作者不詳・貞享年間(1684-87)刊)
  江戸の菱川・京の吉田、春画名人としての評判は、彼らの生前から鳴り響いていたのです。また死してなお  「ぬれ絵かきの名人」のイメージが付きまとっていた様子は、上掲③や元禄七年(1796)刊の次のような浮世  草子のくだりからも見て取ることができます。
  ⑦「白郡内の裏に、菱川が筆をうごかせし男女の交はり」     (『好色小柴垣』酔狂庵作・元禄九年(1796)刊)     B 菱川から鳥居・奥村・西川へ      宝永から享保(17世紀前半)にかけて、呼称「浮世絵」に少しずつ変化が現れます。例によって、上掲の   「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列に基づきながらスケッチします。      変化の一つは、絵師の主役交代です。   ①(『風流鏡か池』という浮世草子の中で、宝永五年(1708)の二月に急逝した役者・中村七三郎の姿絵を     誰に画かせるかをめぐって、『源氏物語』の「雨夜の品定め」よろしく「うき世絵の品さだめ」なるも     のを行い、その優劣を論じて絵師を決定するという趣向が用いられました。そこで品評の対象になった     絵師が次の通りでした)    「うき世又兵衛と云し絵師」「近代やまと絵の開山、菱川と云し名人」「今の鳥井(ママ)奥村などが、きさ     き、官女、むすめ、娵(よめ)、遊女の品をかきわけて、大夫、格子(かうし)それより下つかた、そ     のふうぞくをうつし絵は、さりとは絵とはおもわれず、生たる人のごとくなりしを(云々)」     (『風流鏡か池』巻二「夢はすゞりのうみ」独遊軒好文の梅吟作 奥村政信画 宝永六年(1709)刊)     〈「鳥井」は「鳥居」の誤記〉     浮世又兵衛・菱川師宣・鳥居清信・奥村政信     ②「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人うき世     又兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞつて     風流の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべに     まよひ、時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よし     なきうき名の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり」     (「四季絵跋」英一蝶の跋文・享保三年(1718)記)     岩佐某・菱川師宣     ③「浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人といふたは、西川祐     信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり」     (『独寝』柳里恭(柳沢淇園)著・享保九年(1724)成稿)     英一蝶・奥村政信・羽川珍重・懐月堂派・西川祐信     ④「浮世絵 江戸菱川(ヒシガワ)吉兵衛と云人書はじむ。其後古山(フルヤマ)新九郎、此流を学ぶ。現在は懐     月堂、奥村正信等なり。是を京都にては江戸絵と云」     (『本朝世事談綺』菊岡沾凉著・享保十九年(1734)刊・『日本随筆大成』第二期12巻所収)     菱川師宣・古山師政・懐月堂派・奥村政信     ⑤「(遊女・小紫)きりやうのやんごとなき事、尊朝の仮名ぶみ、西川がうき世絵もをよばず」     (『傾城千尋之底』遊色軒・寛延二年(1749)刊)     西川祐信     「菱川が浮世絵」から「鳥居・奥村が浮世絵」そして羽川・懐月堂が加わるとともに「西川が浮世絵」へと  主役が交代していきます。⑤の『傾城千尋之底』は、実は上掲A②の『諸わけ姥桜』の改題本です。文面は全  く同じなのですが、A②の「菱川がうき世絵もをよばず」の菱川が西川に代わりました。これは菱川師宣の死  後、「浮世絵」の主要な担い手が鳥居・奥村・西川たちに移っていったことを示しています。またこの頃にな  ると、菱川から鳥居・奥村・西川といった「浮世絵」の系譜というか、菱川を源泉とする流れのようなものが、  形をとって現れ始めます。やがてその視野の中に越前産の岩佐某(浮世又兵衛)や英一蝶もまた加わるように  なります。要するに「時勢粧」を画く菱川の流れが、もともと狩野派に学んだ英一蝶のような絵師にまで影響  を与え始め、柳沢淇園のような文人画畑の人の注目を惹くなどして、次第に大きな流れになっていったという  わけです。     ところで④に「江戸絵」という呼称が出てきましたので、これについて少し補足します。
  ⑥「紅絵 浅草御門同朋町和泉屋権四郎と云者、版行のうき世絵役者絵を、紅彩色にして、享保のはじめご     ろよりこれを売。幼童の翫びとして、京師、大坂諸国にわたる。これ又江戸一ッの産と成て江戸絵と云」     (『本朝世事談綺』日本随筆大成 2期12」享保十九年(1734)刊)     ⑦「江戸絵一流元祖芳月堂奥村文角政信正筆〔瓢箪印〕正名印 通油町奥村屋源六板元」     (「花傘三幅対」奥村政信画 紅摺絵 延享~寛延頃(1740頃)刊 ARC古典籍ポータルデータベース画像)     ⑧「書林雁金肆しきりに乞ふて櫻木にして花盛んなる江戸絵をひろめんとなり」     (『絵本舞台扇』序・勝川春章、一筆斎文調画・明和七年(1770)刊)     ⑨「一枚画は江戸絵とて賞翫すといへり。今當所にて商ふ画は皆江戸より廻るといへり。尤當地にても江戸     にて似せて板行を摺れども画ハよからず」     (『難波噺』池田正樹大坂滞在記・『随筆百花苑』巻14・明和八年(1771)記事)     享保の初年頃、京・大坂で生まれたらしい「江戸絵」という呼称には、江戸生まれの彩色絵(筆彩及び版画)  であって、組物や絵本ではない一枚絵、とりわけ役者の錦絵というイメージがあったようです。   文芸上の中心が京・大坂から江戸の方に移る現象を「文運東漸」と呼びますが、浮世絵の世界では菱川師宣  の登場に引き続いて、紅絵(享保初年・筆彩)や紅摺絵(延享元年・主に三色摺)や錦絵(明和二年・多色摺)  などといった彩色面でのさまざまな革新があって、江戸は早くも京・大坂の文化圏から離れて、独自の進化を  遂げ始めたといってよさそうです。   なお参考までに云うと、奥村政信に「浮世絵は江戸元祖菱川りう美人三十二相図、是によりて江戸絵と名づ  く」の言があり、政信は「江戸絵」の始まりを菱川師宣にまで遡らせます。政信にとって「浮世絵」と「江戸  絵」とをほぼ同義語にした師宣は、まさにこの流れの元祖たるにふさわしい存在であったに違いありません。(注1)
  (注1)『絵本風雅七小町琴碁書画』奥村政信画・享保八年(1723)刊)
     C 呼称「浮世絵」の定着
  もうひとつの変化は、版元や絵師たち自らが「浮世絵」という呼称を使い始めたことです。上掲B①~⑤に  見られる「浮世絵」という呼称はすべて、いわゆる浮世絵師以外の人々が菱川や鳥居・奥村・西川の絵につけ  た呼称でした。菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼んだのは師宣自身ではありません。彼は自らの署名を一貫して  「大和絵師」あるいは「日本絵師」と記しています。そうすると、師宣自らは自身の絵を「大和絵」と呼んで  いたのではないかと思うのです。またこれは後に詳述しますが、彼は「浮世絵師」と呼ばれることを望んでい  ませんでした。したがって師宣が自身の絵を自ら「浮世絵」と呼んでいたとは考えられません。
    ところが享保年間(1716-35)になると、版元や奥村派に変化が現れます。彼らは自らの絵を「浮世絵」と  明確に認め始めます。
  ①「浮世絵根元絵双帋問屋〔商標〕湯島天神女坂下小松屋」     (「嵐わかの 市川団十郎 大谷広次」鳥居清信筆・漆絵・享保八年(1723)刊)      ②「うき世ゑ地本ゑそうし問屋〔商標〕天神男坂丁岩いや」     (「市川団十郎 大谷広次」鳥居清倍筆・漆絵・享保八年刊)      ③「浮世絵版元絵双帋問屋〔商標〕牛島天神女坂(欠字)」     (「三条勘三郎 萩野伊三郎」奥村利信筆・漆絵・享保八~十二年頃刊)      ④「うき世ゑ地本ゑそうしといや〔商標〕新大坂町三川屋板元」     (「坂東彦三郎 瀬川菊之丞」鳥居清信筆・漆絵・享保八~十二年頃刊)     ※以上①~④ 武藤純子著『初期浮世絵と歌舞伎』笠間書院・2005年刊より     以上が版元自らが商品を「浮世絵」と呼んでいる例でした。   以下は絵師が自らの絵を「浮世絵」と呼んだ例です。
  ⑤「日本画工 浮世絵一流根元 奥村親妙政信筆 通塩町ゑさうしといや あかきひやうたん印 奥村屋」     (化粧坂の少将役の「山本花里」漆絵・享保十一年(1726)刊)
  ⑥「大和画工 奥村利信筆」「うき世絵版元絵そうし問屋」     (「三ぷくつい 右 江戸もとゆひ」漆絵・享保中期刊)       こうして「浮世絵」という呼称は、B③『独寝』の柳沢淇園のような文人やB④『本朝世事談綺』の菊岡沾  凉のような俳人、いわば第三者が使うだけでなく、当事者ともいうべき画工や板元も自ら使うようになってい  きました。絵柄も役者絵が主役になります。      D 浮世絵派の確立
  寛政年間(1789-1800)に、大田南畝の『浮世絵考証』と笹屋邦教の『古今大和絵浮世絵始系』、そして享  和二年(1802)には山東京伝の『浮世絵類考追考』が成立します。これらを一本化したものがいわゆる『浮世  絵類考』と呼ばれているものです。これらは浮世絵という画派の確立に向けて実に画期的な役割を果たすこと  になりました。
    浮世絵類考(『浮世絵考証』『古今大和絵浮世絵始系』『浮世絵類考追考』)     『浮世絵考証』は「浮世絵」に含むべき事項として、次の八項目を立てました。
  浮世絵・大和絵・漆絵・一枚絵(紅絵共江戸絵共云)・草双紙(赤本/青本/黄表紙)   吾妻錦絵・役者似顔・摺物絵
  そして取り上げた「浮世絵師」を列記すると以下の通り。
  岩佐又兵衛・菱川師宣・鳥居庄兵衛(清信/清満/清倍/清経/清長)橘守国・近藤清春・奥村政信・   西川祐信・石川豊信・鈴木春信・富川吟雪・小松屋・勝川春章(春好/春英)・恋川春町・   北尾重政(政演/政美)・一筆斎文調・湖竜斎・歌川豊春・喜多川歌麿・栄之(栄理/栄昌)・   国政・写楽・窪俊満・宗理・豊国・春朗・歌舞伎堂・春潮・豊広
  まず上掲の項目、冒頭の「浮世絵・大和絵・漆絵・一枚絵……」の項目。実のところこのつながりが分かり  づらかった。性質の違うものが並んでいるからだろうと思います。「浮世絵・大和絵」は漠然としていますが、  どうやら絵柄の違いを指しているようです。それに対して、漆絵以下のところは極めて明確で、版画か版本か  筆彩か色摺かといった形態上の違いによって分けられています。(しかもそれがほぼ出現年代順に並んでいる)   なぜこのような並べ方になっているのか最初はわかりませんでした。しかし八項目と絵師名とを対照してい  たらその糸口がつかめました。「浮世絵」が「岩佐又兵衛」と、また「大和絵」が「菱川師宣」とが対になっ  ています。要するに「浮世絵」が岩佐又兵衛の絵を、「大和絵」が菱川師宣の絵を指しているのです。そうす  ると、南畝の『浮世絵考証』の「浮世絵」とは、浮世絵(岩佐又兵衛絵)・大和絵(菱川師宣絵)・漆絵・一  枚絵・草双紙・吾妻錦絵・役者似顔絵・摺物絵ということになります。   さて南畝の岩佐又兵衛の項を見てみます。南畝は藤井貞幹の『好古日録』(寛政九年(1787)刊)の「岩佐又  兵衛」記事をそっくりそのまま引きます。そしてその上で「是世にいわゆる浮世絵のはじめなるべし」とのコ  メントをつけ加えてました。これは藤井貞幹の本文「能当時ノ風俗ヲ写スヲ以、世人呼テ浮世又兵衛ト云」に  呼応したものです。前回「浮世」の字義のところで確認しましたように、「浮世」には今様・当世様(現代風)  の意味があります。南畝とすれば「当時の風俗」を写す名人と称され、しかも「浮世又兵衛」の渾名さえあっ  た岩佐又兵衛はまさに「浮世絵」の元祖たるにふさわしと考えたのでしょう。つまり南畝は岩佐又兵衛の画業  を「浮世絵」という呼称で一括りするとともに浮世絵の元祖に据えたわけです。   ところで、南畝は岩佐又兵衛の絵を実見したという痕跡がありません。したがって「浮世絵のはじめなるべ  し」という按記は絵を実見した上での判断ではなく、この『好古日録』や後に触れる英一蝶の「四季絵跋」な  どの文献によって判断したものと考えられます。南畝がこの『浮世絵考証』を著した頃、つまり寛政頃、岩佐  又兵衛の絵を実見した人はほとんどいなかったと思います。にもかかわらず「浮世絵」の元祖としての地位は  次第に定着しつつあったものと考えられます。   次の「大和絵」の項目、南畝は菱川師宣の項で「大和絵師又は日本絵師とも称ス」とコメントしています。  そしてそのうえで貞享四年(1687)の地誌『江戸鹿子』そして元禄二年(1689)の地誌『江戸図鑑』を引き、  生前の師宣が巷間では「浮世絵師」と呼ばれていたことを具体的に指摘します。つまり「大和絵師」でありな  がら「浮世絵」を画いたので「浮世絵師」とも呼ばれていたというのです。   天明八年(1788)、南畝は「菱川吉兵衛」画の「元禄の比の板にて月次の遊といへる絵本」に基づいて、芝  居の「顔見世」の読みに関するメモを残しています。(注1)この「月次の遊」は、元禄四年版の絵本『月次  のあそび』に他なりません。そこには次のような序文と奥書がありました。これは南畝も実見したはずです。
  「爰に江城のほとりに菱川氏の誰といひし絵師、二葉のむかしより此道に心寄、頃日うきよ絵といひしを自    然と工夫して、今一流の絵師となりて、冬の山に花をさかせ鬼神にもおとろしき頭をかたぶけさせぬ」   「元禄四年未五月吉日 日本絵師菱河吉兵衛師宣 大伝馬町三町目鱗形屋開板」
  奥書で「日本絵師」と署名する師宣の絵を、序者が「うきよ絵」と呼んでいたことを、南畝は知っていたに  ちがいありません。(もっともいささか心もとないのは、南畝がもし実見していたら、彼の文献に対する姿勢  からすると、このメモには「元禄の比」ではなく「元禄四年」と明記したような気もするのですが)また『江  戸鹿子』や『江戸図鑑』の「浮世絵師」記事をそのまま引いているわけですから、師宣の絵を「浮世絵」と呼  ぶことにためらいはなかったものと思われます。
  こうして南畝は岩佐又兵衛の「浮世絵」と菱川師宣の「大和絵」を「浮世絵」の中に包み込みました。  さらに南畝は、彼らが同じ流れにあることを、英一蝶の「四季絵跋」を引いて示します。  (二のB②と同文ですが再度引きます)
    「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人うき世又    兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞつて風流    の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべにまよひ、    時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よしなきうき名    の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり」
    「四季絵跋」(全文)英一蝶 享保三年(1718)     一蝶はここで岩佐又兵衛と菱川師宣を一つの流れとして位置づけています。「歌舞白拍子の時勢粧(いまよ  うすがた)」すなわち最先端の粧いをした遊女を写す名人であり「うき世又兵衛」という渾名をさえ有する岩  佐又兵衛と、江戸の「風流の目を喜ばしむ」る菱川師宣とを、一蝶は同じ流れに属するものとして両者を繋い  だわけです。しかも「予が学ぶ処(狩野派)」とは違う独立した一つの「道」として認めたのでした。さらに  一蝶は、自らを振り返って次のように告白しました。一時的な熱狂というか、若気の至りであったかもしれな  いが、この画派には他派の若い門弟たちの心を惹きつける魅力があると。
  この岩佐と菱川を一連の流れとして捉える見方は一蝶に限りませんでした。一蝶と同時代、他ならぬ浮世絵  師がちょうど同様の見解を持っていました。奥村政信です。
  ①「江戸絵と申事は江戸菱川師宣、浮世又平を常風(とうふう)に書かへ浮世とも江戸とも申習。本絵は古     人仙人墨絵を本と遊す、浮世は浮世の風を書、日本の人の姿を書故に日本絵と申、日本とは大和の事故     に大和絵と申也」    (『絵本風雅七小町琴碁書画』奥村政信画・享保中頃刊)     この本文の骨子は次の二点です。   一つは、菱川師宣の絵は、浮世又平の「浮世絵」を受け継いで「浮世(当世)」を画いたので「浮世絵」と  呼ばれていたこと。また江戸に在住し江戸の当世風俗を画いたので「江戸絵」とも呼ばれていたこと。   もう一つは、狩野派のような「本絵」が古人や仙人のような故事・不変の世界を墨で画くに対して、「浮世  絵」は刻々変化する当世を写しとるものであり、本絵とは画題がそもそも異なるとした点です。   ここには岩佐・菱川の流れを土佐・狩野とは極めて対照的な流れとして捉える視点があります。あえて松尾  芭蕉の言葉を借りて云えば、「不易」と「流行」の違いです。本絵が「不易」の世界を画くのに対して「浮世  絵は「流行」の世界を描くのだと。こうして奥村政信は自ら画く「浮世絵」には本絵とは違う独自な価値があ  ると主張したのでした。
    さてこうして形成された岩佐・菱川の系譜の延長上に、柳沢淇園は、B③に見るように、英一蝶・奥村政信  ・羽川珍重・懐月堂そして「聖手」西川祐信を合流させました。   そして名古屋の俳人横井也有もまた、その俳文集『鶉衣』の中で「うき世絵は又平に始り、菱川に定り、今、  西川に尽たるといふべし」と、柳沢淇園同様、又平・菱川・西川が一連の流れであることを認めていました。(注2)
  大田南畝の『浮世絵考証』はこの柳沢淇園や横井也有らの先人に呼応して書かれたものといえます。(注3)  南畝は英一蝶の「四季絵跋」を引用して淇園や也有の岩佐・菱川の流れに揺るぎない根拠を与えました。そし  て鈴木春信以下春章・重政・清長・歌麿・写楽等の名を連ねることによって、岩佐を源流とする浮世絵の流れ  が当世にまで及んでいることを明確に示しました。加えて、藤井貞幹の『好古日録』を引いて、「浮世絵」の  出自を、荒木摂津守という戦国武将を父にもつ岩佐又兵衛の画業に求めました。そしてそのことが結果として、  浮世絵師たちの出自にも由緒正しいお墨付き与えることになりました。   現在の地位や境遇が先祖の事跡のたまものだと考えるのが江戸の一般だとすると、このお墨付きを多くの浮  世絵師たちが歓迎したにちがいありません。ともあれ「浮世絵」はれっきとした出自を得て一つの独立した画  派として認められ始めたのです。
  ところで南畝の功績はそれに留まりません。彼は岩佐又兵衛を『考古日録』に語らせ、菱川師宣を当時の地  誌『江戸鹿子』を『江戸図鑑』を引用してその存在を語らせます。つまり考証によってものを明らかにすると  いう方法を採りました。今や「浮世絵」や「浮世絵師」はこうして考証の対象になりました。まさに南畝はそ  の魁なのでした。   しかもこの姿勢は早速受け継がれました。『浮世絵類考追考』をご覧ください。山東京伝は菱川師宣の事跡  を俳書『みなし栗』から採集しました。また師宣が故郷・安房国保田の林海山別願院に寄進した大鐘の銘文を  史料として採用しています。
     浮世絵類考(『浮世絵考証』『古今大和絵浮世絵始系』『浮世絵類考追考』)     さて笹屋邦教の『古今大和絵浮世絵始系』もまた浮世絵派の系譜を初めて作ったという点で大変画期的なも  のでした。絵師の師弟関係をたどって各絵師を位置づけようとしたこの試みは、南畝の『浮世絵考証』浮世絵  の空間的考証だとしたら、笹屋のものは浮世絵師の時間的考証とも言えます。
  このように『浮世絵類考』は、これ以降、浮世絵と浮世絵師を研究するうえで欠くことの出来ない基本文献  となっていきました。文化・文政年間には、宿屋飯盛や式亭三馬らが加筆してこれに続きます。そして天保年  間には、無名翁(渓斎英泉)が『無名翁随筆(続浮世絵類考)』(天保四年(1833)序)を著して、俗称・号・  生没年・住所・師弟関係・業績・略伝からなる浮世絵師の記述スタイルを確立しました。このスタイルは、そ  の後、江戸に町名主であり、厳密な考証でも知られる斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年(1844)序)  に受け継がれ、また竜田舎秋錦『新増補浮世絵類考』(慶応四年(1868)序)を経て、現代に至っています。
  さてこの章の最後に、岩佐又兵衛と英一蝶および橘守国と西川祐信の取り扱いについて、一言述べて締め括  りとします。   岩佐又兵衛と英一蝶については南畝と笹屋と京伝のあいだに微妙な違いがあります。
 岩佐又兵衛   ・南畝はこれまでの経緯でも分かるように浮世絵師の筆頭にあげています。  ・笹屋は岩佐又兵衛を取り上げていません。理由は系図が作れなかったからではなく、浮世絵師と見なしてい   なかったフシがあります。というのも、石川豊信や一筆斎文調や鈴木春信は系図なしでの独立させているか   らです。  ・山東京伝は南畝と同様に『好古日録』を引きながらなぜか岩佐又兵衛で立項せず、渾名の浮世又兵衛で立項   しました。
 英一蝶  ・南畝は英一蝶の「四季絵跋」を引用しましたが、浮世絵師とはしていません。  ・笹屋は取り上げていません。  ・山東京伝は「一蝶は浮世絵師にあらざれども時世の人物をかき、元師信(ママ)が画風より出たるを以てしばら   く浮世絵師に列す」と括弧付きの浮世絵師としています。
    西川祐信について、南畝は「中興浮世絵の祖」と称えています。南畝は『独寝』を読んでいるのでその影響  もあったのかもしれませんが、南畝自身早くから西川祐信の絵本などを収集していましたし、鈴木春信の絵に  祐信の影響などを見取っていたとも思われますので、自らの実感として「中興浮世絵の祖」と称えたのだと思  います。また橘守国については「町絵なれども世のつねの浮世絵にあらず」とこれまた称えるともに当時大き  な影響を与えた「絵本通宝志」等の絵本名をあげて高く評価しました。   南畝が、江戸の浮世絵師を中心とした絵師の中に、彼ら京・大坂の絵師を組み入れたのは、彼らの絵師とし  ての伎倆を高く評価しただけでなく、江戸の絵師に与えた影響の大きさをも考慮したのだと考えられます。    (注1)『俗耳鼓吹』『大田南畝全集』第十八巻(天明8年6月以前記)      「元禄の比の板にて月次の遊といへる絵本あり。菱川吉兵衛也。中に芝居の顔見世の事をしるして、       つらみせといへり」   (注2)『鶉衣』後編「四芸賦」横井也有著・天明八年刊。この「四芸賦」は宝暦から明和の頃の遺稿)  (注3)南畝は、天明から寛政にかけて伊勢四日市の西村庄右衛門(馬曹)という人から借りて写した。文      政五年(1822)の山崎美成宛書簡に『独寝』返却を求めるくだりとともに「州勢四日市の駅、西村      氏といへるに秘蔵せられしを、再借して一閲しはべりぬ」とある(書簡番号252)西村馬曹は寛政      十二年(1800)に亡くなっているので、書写はそれ以前。(南畝の享和元年の『改元紀行』⑧110)  三 呼称「浮世絵師」の曲折
    ※この項は下掲の出典に基づいて進めます     呼称「浮世絵師」の時系列    A 菱川師宣の抵抗
  前回述べたように、「浮世絵師」という呼称は、延宝末から天和の初めの頃(1680年頃)の菱川師宣の絵本  『大和武者絵』の序文に登場したのが初出でした。しかし不思議なことにその後、師宣を「浮世絵師」と呼び  ならわした形跡はありません。   参考までに、呼称のある序や奥書を抽出して、併せて師宣の署名肩書きを参照してみます。(注1)     延宝八年(1680)刊   ①『大和侍農絵づくし』     暗計序「菱川氏の絵師(中略)やまと絵師の聞え四方につげて」     奥 書「大和絵師菱川吉兵衛尉」   ②『大和絵つくし』     暗計序「菱川氏書れたるやまと絵といへるは」     奥 書「大和絵師菱川吉兵衛尉」
  延宝八年刊・天和三年(1683)刊   ③『大和武者絵』(初版も再版も書名は同じ)     暗計序「菱川氏(中略)この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり」     奥 書「大和絵師菱川吉兵衛尉」     (序文も奥書も天和三年のもの。延宝八年刊と推定される初版本にも備わっていたかどうかで見解が分かれています)     延宝八年刊・元禄四年(1691)刊   ④『年中行事之図』(初版)・『月次のあそび』(再版)     某氏序「菱川の誰といひし絵師(中略)うき世絵といひしを自然と工夫して」    『年中行事之図』奥書「大和絵師菱川師宣」    『月次のあそび』奥書「日本絵師菱河吉兵衛師宣」     (この序文は『月次のあそび』のもので、現存する初版本には確認されていない。ただあったものと推定はできるとあります)     延宝九(天和元)年(1691)刊   ⑤『大和万絵つくし』     某氏序「此しな/\あつめたるやまと絵は菱川氏」     奥 書(署名なし)     天和二年(1692)刊   ⑥『浮世続絵尽』)     某氏序「大和うき世絵とて世のよしなし事その品にまかせて筆をはしらしむ」     奥 書「右之一冊大和絵は四氏の形像を菱川氏筆こまやかに書れしを(中略)大和絵師菱川氏」     天和三年(1693)刊   ⑦『恋のみなかみ』     奥 書「此一冊大和絵菱川氏あるとあらゆる所の品々を見聞老若のわかちを筆にまかせて」        (署名なし)     貞享二年刊(1685)刊   ⑧『古今武士道絵づくし』     某氏序「近来やまと絵師菱川日々に筆跡を書あらため」     奥 書「大和絵師菱川氏師宣」うろこや板   ⑨『和国諸職絵つくし』     奥 書「此諸職絵つくしは菱河氏師宣といへるやまと絵師之取集書たりしを(中略)絵師菱河師宣」   ⑩『源氏大和絵鏡』     奥 書「此一冊は大和絵師菱川といふ一流の真跡也(中略)大和画師菱河氏師宣筆」うろこかた屋板     師宣の絵を「浮世絵」と称し、師宣を「浮世絵師」と初めて呼んだ暗計(あんけ)なる人物でさえ、その呼  称を使ったのはこの一回限りのようですし、「大和絵」「大和絵師」の呼称もまた使っていますから、「浮世  絵師」の呼称にこだわった様子はありません。他の序者あるいは版元の奥書は一貫して「大和絵」「大和絵師」  でありますし、「浮世絵」あるいは「浮世絵師」の呼称の用例はないようです。また師宣自身も「大和絵師」  の署名に徹しています。呼称「浮世絵師」の時系列の延宝~貞享年間をご覧ください。「浮世絵師」という呼  称、この時代きわめて稀であることが分かります。
  貞享四年(1687)それが突然現れます。『江戸鹿子』という地誌です。   ◯「浮世絵師 堺町横町 菱川吉兵衛/同吉左衛門」     (『江戸鹿子』藤田理兵衛著・貞享四年(1687)刊)     『江戸鹿子』というのは当時の江戸の名所・名物・寺社・諸職人等の名を列記した名鑑です。その第六「諸  師諸芸」の部に吉兵衛師宣・吉左衛門師房父子が「浮世絵師」の呼称で出ています。
  その翌年の元禄元年(1688)には、前出のように、大坂の井原西鶴が「菱川が筆にて浮世絵の草紙を見るに、  肉(シシ)置(オキ)ゆたかに、腰付に丸みありて(云々)」(二A①)と、初めて菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼ん  でいます。師宣の絵を「浮世絵」と呼ぶ風潮が江戸のみならず、京・大坂にまで浸透しつつ あったことを示  しています。後出しますが、京・大坂で師宣を「浮世絵師」と呼ぶ下地は整いつつあったわけです。
  続く元禄二年(1689)再び現れます。これも『江戸図鑑綱目』と地誌でした。   ◯「廿五 浮世絵師        橘町 菱川吉兵衛師宣/同所 同吉左衛門師房     廿六 板木下絵師         長谷川町 古山太郎兵衛師重/浅草 石川伊左衛門俊之        通油町 杦村治兵衛正高/橘町 菱川作之丞師永」       (『江戸図鑑綱目』乾 石川流宣俊之編作・元禄二年(1689)刊)     この地誌の編者は「板木下絵師」にも名を連ねる石川流宣(とものぶ)でした。流宣が「浮世絵師」と「板  木下絵師」とを分けた理由は、肉筆も売り物にするかそれとも版下絵を専らにするかの違いような気もします  が、定かではありません。しかしこれには問題がありました。佐藤悟氏によると、このくだりが第二版以降で  は「廿六 板木下絵師」の一行が削り取られ、長谷川町・古山太郎兵衛師重から橘町・菱川作之丞師永までが  「浮世絵師」の項に含まれるよう改められているとのこと。この理由について同氏は「この当時『板木下絵師』  は『浮世絵師』よりランクが低いという考え方があり、石川流宣に対して杉村治兵衛から抗議があったため」  としています。(注2)   ともあれ貞享末から元禄初年にかけて、菱川師宣を「浮世絵師」と呼ぶ傾向が現れ始めたわけです。     それが元禄三年(1690)になって異変が生じます。この年『江戸惣鹿子名所大全』という地誌が出版されま  した。これは前出『江戸鹿子』の増補版にあたります。そこでは次のような改変が行われました。旧版で「廿  五 浮世絵師」とあったところです。   ◯「大和絵師 村枩町二丁目 菱川吉兵衛/同吉左衛門/同作之丞」     (『江戸惣鹿子名所大全』藤田利兵衛著・菱川師宣画 元禄三年(1690)刊)
    江戸鹿子・江戸惣鹿子名所大全     『江戸鹿子』と『江戸惣鹿子名所大全』の著者は共に藤田理兵衛で同人です。その彼が、貞享四年の時点で  「浮世絵師」としたものを、今回は「大和絵師」と書き改めたのです。これについて佐藤悟氏は「この改変に  は師宣の意志が働いていたものと思われる」とし、その理由として「師宣の意識の中には自分の画風は大和絵  の正統に帰属するという強いもの」があったからだとしています。   同感です。呼称「浮世絵師」の時系列をご覧ください。師宣の署名は元禄七年(1964)の死を迎えるまで、  一貫して「大和絵師」あるいは「日本絵師」でありました。それだけ「大和絵師」としての自覚・自負心が強  かったのだと思います。絵を画いてそれを売る以外に生業の手だてのない町絵師としては、当世の市中風俗を  写す絵であるところの「浮世絵」も、春画を含む好色物の「浮世絵」も、注文があれば拒むことなく画く、し  かしそれはあくまでも「大和絵師」として画くというのでしょう。「大和絵師」という署名には、そのような  強い気概がこもっていたとみるべきなのかもしれません。   この『江戸惣鹿子名所大全』、実は菱川師宣がこの挿絵を担当していました。おそらくこの縁もあって、師  宣は著者の藤田理兵衛に「浮世絵師」を「大和絵師」に改めるよう申し入れたものと思われます。奥書はと見  ると「元禄三年三月上旬 大和絵師 菱川吉兵衛」となっており、署名はやはり「大和絵師」です。   ところで作之丞とあるのは師宣の次男・菱川師永。前年元禄二年(1689)の地誌『江戸図鑑網目』で、最初  「板木下絵師」として名を連ねていた絵師です。貞享四年(1687)の『江戸鹿子』には名が見えませんので、  絵師として活動するのはおそらく元禄元年(1688)の頃からと推定できます。
    ところがこの「浮世絵師」をめぐる動き、これで幕引きとはなりませんでした。元禄五年(1692)のことで  すから、師宣はまだ現役です。今回もやはり地誌で、『万買物調方記』という買い物案内記です。その「當世  (たうせい)絵師」の部はこうなっていました。   ◯「京ニテ  當世絵書 丸太町西洞院 古 又兵衛/四条通御たびの後 半兵衛     江戸ニテ 浮世絵師 橘町 菱川吉兵衛/同吉左衛門/同太郎兵衛」     (『万買物調方記』(別書名『買物調方三合集覧』)編者不明・元禄五年(1692)刊)         万買物重宝記・国花万葉記(買物調方三合集覧)     せっかく「浮世絵師」を「大和絵師」に訂正したのに、その二年後再び「浮世絵師」というレッテルを貼ら  れてしまいました。しかも「京都 江戸 大坂 諸国名物」とありますから、今回は三都にまで拡大した案内  記です。出版は大坂の大野木市兵衛の出版でしたが、奥書をみると「江戸の日本橋南壹丁目/同出見世」とも  あります。したがって江戸でも容易に見ることができたものと思います。おそらく晩年の師宣もこれを目にし  たに違いありません。ただこれに対して、師宣をはじめ師房・師重たちがどう反応したのか、残念ながらそれ  は分かりません。しかし『江戸惣鹿子名所大全』における改変のことを思えば、彼らが歓迎しなかったことは  確かでしょう。   ところでこの買い物案内によれば、江戸の「浮世絵師」に相当するものを、京都では「當世絵書(とうせい  えかき)」と呼んでいたことが分かります。(このことからも「浮世」の意味が「当世」であることが明確で  す)しかしその「當世絵書」という呼称がその後流通した形跡はありません。おそらく江戸の「浮世絵師」の  呼称がやがて京都でも使われるようになっていったのでしょう。   その京都の「當世絵書」のくだり「四条通御たびの後 半兵衛」とは吉田半兵衛でしょうが、では「古 又  兵衛」とあるのはいったい誰なのでしょうか。「古」は故人の意味ですから、この「又兵衛」とは、英一蝶が  「四季絵跋」でいうところの「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづから  うつし得て、世人うき世又兵衛とあだ名す」の「又兵衛」、つまり浮世又兵衛という渾名のついた「又兵衛」  を指すのではないかと思われます。
    さて呼称の揺れはまだまだ収まりません。今度も地誌ですが、カバー領域がさらに拡大して全国レベルにな  りました。元禄十年(1697)刊『国花万葉記』の「江府名匠諸職商人」の部にはこうあります。   ◯「大和絵師 菱川吉兵衛/菱川吉左衛門/作之丞 村松丁二丁メ」     (『国花万葉記』巻七「武蔵国」「江府名匠諸職商人」の部・菊本賀保著・大坂 油屋与兵衛外五名板)     菱川師宣は「浮世絵師」とされたまま、元禄七年に亡くなってしまいましたが、遅まきながら、とりあえず  望んでいた「大和絵師」としての呼称が復活しました。以降、暫く「浮世絵師」という呼称はほとんど見かけ  なくなります。師宣に限らず「浮世絵師」と呼ばれた例を採集しているのですが、管見では、宝永から宝暦に  かけて、今のところ次の二例です。   ◯宝永七年(1710)「江戸の町に菱川師宣といふ浮世絵工(ウキヨエカキ)有」(『当世誰が身の上』凉花堂斧麿作)   ◯宝暦七年(1757)「洛陽西川祐信といへる浮世絵師」(『近世江都著聞集』馬場文耕著)     ただこれは第三者が師宣や祐信に対して使った呼称であって、絵師たちが自ら名乗ったものではありません。  では彼らがどう自称したかというと、呼称「浮世絵師」の時系列を見てみましょう、菱川派は「大和絵師」や  「日本絵師」、鳥居派は「和画工」、奥村派は「和画工」や「大和絵師」あるいは「大和画工」、西川祐信も  「大和絵師」、懐月堂派は「日本戯画」、宮川派は「日本画」といった具合です。要するにほぼ全ての絵師が  自分は大和絵師だと主張しているのです。   現在、菱川師宣以下・鳥居清信・奥村政信・西川祐信等を一括して「浮世絵師」と呼んでいるわけですが、  以上のような曲折を考慮すると、私たちは単に彼らの意向を無視しているだけでなく、むしろ嫌がる呼称をわ  ざわざ貼り付けているようにも思うのです。とりわけ「浮世絵師」の元祖される菱川師宣に関してはそうです。
  この章の最後に、この頃の署名の肩書きにそれ以前と違う新たな傾向が生まれますので、それを指摘して次  に進みたいと思います。   宝永年間あたりから「大和絵師」や「日本絵師」の肩書きに「洛陽」「摂陽」「東武」といった京・大坂・  江戸の地名が添えられるようになります。これがはたしてどういう気運から始まったものかよく分かりません  が盛んになります。江戸の場合ですと、京・大坂の文化圏から脱して、江戸根生いのものが開花し始める頃で  すから、そこから自負心が芽生えたことと関係があるのだと思いますが、京・大坂の場合はどうなのでしょう  か。    (注1)抽出したのは次の二書。     『師宣祐信絵本書誌』松平進著・日本書誌学大系57・昭和63年刊     「菱川師宣展」カタログ・千葉市美術館・平成12年刊  (注2)「菱川師宣の再検討」『江戸の出版文化』たばこと塩の博物館・研究紀要第4号・平成3年刊    余談「擅画」について   呼称「浮世絵師」の時系列に具体例を少し挙げておきましたが、署名の肩書きの中に、「擅画」と「檀画」  「縦画」という変り種がありますので、これについて少し補足します。これは大坂の北尾辰宣と江戸の北尾  重政と勝川春章が使いました。辰宣が「擅画」、重政が「擅画」と「檀画」、そして勝川春章が「縦画」です。     (※ 以下は国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』の「擅画」の項に筆者が書いた記事とほぼ同じです)   大正五~六年(1916-7)頃、この見慣れない肩書きに関して、研究誌『浮世絵』を中心にさまざまな考証・  検討が飛び交いました。当初は字義不明としながらも、「檀画」とは「檀郎画(だんろうが)の略」(「檀郎」  とは「遊冶郎(ゆうやろう=酒色にふける男)」の意味)ではないか、あるいは中国で彩色画のことを檀画と称  したのではないかなどといった仮説も出されました。   しかし結局のところ「擅画」の表記が正しく、「檀画」とあるのは北尾重政自身の校正を経ない筆耕の誤り  であろうという結論に落ち着きました。そして「擅画」の字義については文字通り「擅(ほしいまま)に画く」  という意味であるとされました。またこの表記には、自らは伝統的画法に拠らない自己流の絵師だという謙遜  の気持ちと、伝統や粉本に束縛されない独立独歩の誇りとがこめられており、いわば浮世絵師・北尾辰宣と北  尾重政の伝統絵画に対する敬意と対抗意識がそこに現れているのではないかという解釈も、漆山天童・星野朝  陽両氏によってなされました。(漆山天童「檀画に非ず擅画なり」『日本及日本人』691号 1916年。星野朝陽「擅画に就  きて」『浮世絵』20号-24号 1917年)   なお北尾重政には「東都擅画 北尾紅翠齋図」(「隅田川渡舟図」東京国立博物館所蔵)のように肉筆作品  の用例もあり、必ずしも版本のみの使用とは限らないことも報告されています。   「擅画」の使用は大坂の北尾辰宣が先で、それを江戸の北尾重政が倣ったことは明らかです。辰宣の初出は  寛延元年(1748)の『絵本小倉塵』と思われ、重政の初出は明和五年(1768)の『絵本藻塩草』とされます。  重政が辰宣に私淑したことは確かですが、奇しくも同じ北尾を名乗る東西の両者がなぜこのような肩書きを使  用したのか、よく分かりません。   また「擅画」とよく似た用例に「縦画」があります。これは勝川春章が使用したもので、「江都縦画生 旭  朗井勝春章図」などの例があります。天明七年(1787)の『絵本義経一代実記』などにその用例が見られます  が、これも「縦(ほしいまま)画く」という意味で「擅画」と同義。春章が重政の「擅画」を意識したものであ  ることは明白ですが、これもまたどういう意図があって春章が使用したものか明確ではありません。    B 呼称「浮世絵師」の復活
  明和七年(1770)京の八文字屋自笑は『役者裏彩色』という役者評判記を書きました。この中で自笑は江戸  の役者を江戸の浮世絵師に見立てて品評するという趣向を採りました。以下はその中で取り上げた絵師です。  彼らを自笑は「浮世絵師」と呼んでいます。   ◯「見立浮世絵師寄ル 左のごとし 春信、菱川、西川、一筆斎、鳥居、勝川、北尾、奥村」(注1)
  「浮世絵師」として鈴木春信・菱川師宣・西川祐信・一筆斎文調・この鳥居は清満か・勝川春章・北尾重政・  奥村政信の名をあげています。
  また安永五年(1776)には、絵による吉原細見ともいうべき版本『青楼美人合姿鏡』が出版され、その奥書  にはこうありました。   ◯「浮世絵師 北尾花藍重政〔北尾〕〔重政之印〕/勝川酉爾春章〔勝川〕〔春章〕」(注2)
  明和七年の例は八文字屋自笑の用例ですから第三者による呼称の例です。しかし安永五年の例は、画工名に  冠した「浮世絵師」であり、画工が自ら名乗った形をとっています。しかも両者の印章まで添えられているわ  けですから、この名乗りが版元・山崎金兵衛と蔦屋重三郎の独断ではなく、重政・春章の了解のもとに行われ  たことは確実です。ただ両者がその後「浮世絵師」の肩書きを常用した様子もありませんから、一時的な使用  だったように思います。画工名のほかに俳号や印章をものものしく添えたのは、吉原に敬意を払ったものとも  考えられるのですが、あるいは遊女を画くに今一番ふさわしいのは重政・春章をおいて他にないという意味を  こめて「浮世絵師」と添えたのかもしれません。   しかしいずれにせよ、「浮世絵師」を撤回させた元禄の頃の菱川師宣とは違う自覚が、この時代の絵師たち  に芽生え始めたことは確かなようです。
  天明三年(1783)故平賀源内や大田南畝と親しい平秩東作という人が、狂歌師を遊女に見立てた『狂歌師細  見』という吉原細見もどぎを戯作しました。その中で歌麿は次のように登場します。   ◯「げい者 浮世ゑし うたまる」
  「歌麿」を当時は「うたまる」と呼んでいた例の一つでありますが、これは歌麿を吉原の男芸者に見立てた  のです。歌麿は吉原の遊女を盛んに画いていましたから、東作は歌麿を「浮世絵師」と呼んだに違いありませ  ん。「浮世絵」を能くするものを「浮世絵師」と呼ぶことは、もはやためらいのない時代になっていたのだと  思います。
  寛政十年(1798)刊の黄表紙『画本賛獣録禽』(恋川吉町画)に、吉町の師匠である恋川春町が次のような  序文を寄せています。   ◯「門人よし町、戯作の双帋を携へきたり、予に雌黄を得んことを乞ふ。もとより絵具箱をもたぬ浮世絵師の     合羽箱もちなれバ(云々)」(注3)
  「戯作の双帋」とは黄表紙。「予」は春町自身。「雌黄」は文の添削。ここで春町は自らを「絵具箱をもた  ぬ浮世絵師の合羽箱もち」に擬えています。絵具箱を持参するのは狩野派のような本絵師で、合羽箱持ちは大  名行列のときに合羽箱を持ち歩く従者。春町は自らを本絵師ならぬ浮世絵師の端くれだというのです。春町に  は自分自身を「浮世絵師」と呼ぶことにそれほど抵抗感がなかったように思います。ただ奥村政信にあったよ  うな本絵師への対抗心めいた気概は感じられません。(二D①)おそらく春町には、戯作や作画が従で本分は  武士という自覚があったにちがいありません。それが絵の世界にも及んで、浮世絵が従で本絵が主という意識  になったのだと思います。   なお蛇足ながら付け加えると、この黄表紙の出版は寛政十年ですが、恋川春町は寛政元年(1789)に亡くな  っていますから、この序文はそれ以前のものです。十年以上も前の作品がなぜ今頃になって出版されたのか、  真相は不明ですが、はやり春町の序文であることと作者が春町門人であることが、出版をためらわせてきたの  だと思われます。春町が寛政改革のために自殺に追い込まれたという噂はまだ漂っていたでしょうから。
    次に『浮世絵類考』の著者である大田南畝・笹屋邦教・山東京伝たちが「浮世絵師」をどう取り扱っていた  か見てみます。時代は寛政~享和(1789-1803)に相当します。   南畝自身は直接「浮世絵師」という呼称を使っていません。しかし既出のように、菱川師宣の項では「浮世  絵師」と記された地誌『江戸鹿子』と『江戸図鑑網目』とを引用しています。したがって師宣を「浮世絵師」  と見ていたことは確かでしょう。   山東京伝もまた『浮世絵類考追考』の英一蝶の項で「一蝶は浮世絵師にあらざれども時世の人物をかき、元  師信(ママ)が画風より出たるを以てしばらく浮世絵師に列す」と書いています。(師信は師宣の誤記)ですから  菱川師宣はもちろんのこと、それに続く鳥居清信・宮川長春たちを「浮世絵師」と見なしていたことは間違い  ないでしょう。また山東京伝は北尾重政の門人で北尾政演という絵師でもありました。その師匠重政が既出の  ように『青楼美人合姿鏡』では「浮世絵師」を名乗っていたわけですから、京伝にも「浮世絵師」の自覚はあ  ったはずです。(補注)   ただ笹屋邦教だけは、菱川から歌麿にいたる絵を「大和浮世絵」の称で一括りにしながら、絵師の方は「江  戸大和絵師」と呼んでいます。また享和二年(1802)の黄表紙『稗史億説年代記』を見ると、式亭三馬は「昔  絵」の奥村・鈴木・富川・湖龍・石川・鳥居清経から、「当世」の清長・北尾・勝川・歌川・歌麿・北斎まで  を一括して「倭絵巧(やまとえし)」と呼んでいます。したがってこの時代すべてのひとが「浮世絵師」の呼  称に切り替えたわけでもなさそうです。
    ところがこれが文化年間以降になると一変します。自称か第三者による呼称か明確でないものも多いのです  が「浮世絵師」を冠する署名が増えてきます。例によって呼称「浮世絵師」の時系列も併せてご覧ください。
 文化四年 絵本 『契情筥伝授』  署名「浮世画工浪華江南松好斎半兵衛画」    五年 合巻 『吃又平名画助刃』奥書「絵草紙作人 式亭三馬書/浮世絵師 歌川氏国貞筆」    七年 日記 『式亭雑記』三馬記「(歌川国貞)今一家の浮世絵師大だてものとなれり」       随筆 『燕石雑志』馬琴著「(羽川珍重)浮世絵師には稀なる人物なり」       合巻 『鷺娘由来』巻末の鶴屋喜右衛門新版目録          「浮世絵師名目 歌川豊国 歌川国貞 勝川春亭 歌川国満 菊川英山」    八年 滑稽本『客者評判記』署名「葛飾 浮世絵師 本所五ッ目住 歌川国貞画」       滑稽本『四十八癖』 署名「江戸 浮世絵師 歌川国直戯写」   一〇年 滑稽本『一盃綺言』 奥付「江戸 戯作者 式亭三馬作/浮世絵師 歌川豊国画」〈2018/08/24追加〉    十三年 合巻 『正本製』  署名「浮世絵師 歌川国貞 絵本作者 柳亭種彦」  文化年間 絵本 『絵本駅路鈴』北斎画 某人序「浮世絵師何かしにかはりて それがし翁が(云々)」  文政元年 書簡 「山水などハ、江戸の浮世絵師の手際にゆく事にあらず。又、婦人その外市人の形           はうき世絵ニよらねバ損也。両様をかねたるものは、北斎のミなれども(云々)」〈馬琴書簡〉    三年 合巻 『音曲情糸道』署名「画工 浮世絵師 歌川広重」    五年 咄本 『はなしのいけす』見返署名「浮世画師 国丸」    六年 艶本 『地色早指南』英泉自序          「浮世絵師吉田半兵衛・菱川吉兵衛なんど、好色本を板行して(書名略)かぞへ挙る           にいとまあらず」    十年 番付 「江戸大芝居歌舞妓狂言尽」署名「浮世絵師 応需 国安筆」   十一年 碑文 「豊国筆塚碑」「(初代歌川豊国を)実に近世浮世絵師の冠たり」       合巻 『伊呂波引寺入節用』「赤本作者 柳てい種彦/浮世絵師 うた川国貞」
    一見して歌川派の多さが目立ちます。中でも国貞はデビュー直後の文化五年(1808)から「浮世絵師」の呼  称がついていました。また文化十年(1813)には、歌川派の総帥でもある歌川豊国初代が、式亭三馬作の『一  盃綺言』という滑稽本の奥付で「江戸 戯作者 式亭三馬作/浮世絵師 歌川豊国画」と「江戸」と「浮世絵  師」を冠しています。〈2018/08/24追加〉   文化文政期に入ってなぜこのような傾向が出てきたのか、よく分かりません。菱川師宣にあったような「大  和絵師」として「浮世絵」を画くという気概が失われたのでしょうか。しかしそんなことはありません。天保  四年(1833)に成立した『続浮世絵類考』の「大和絵師浮世絵の考」で、この著者である英泉は「浮世絵(ママ)  を大和画師と云は勿論のことなり」と言い切っています。鳥居・奥村・春信・歌麿と受け継がれてきた「大和  絵師」としての気概・自負は失われてはいないのです。   ただ化政期以降の絵師たちがそれ以前の絵師たちと違うのは、第三者から呼ばれてきた「浮世絵師」という  呼称を拒否するのではなくて、むしろそれを引き受けようとした点にあるのだと思います。「浮世(当世)」を  専ら画く絵師として、自ら進んで「浮世絵師」の呼称を担っていこうと気持を切り替えていったのではないで  しょうか。
  ◯文政十年(1827)芝居番付「江戸大芝居歌舞妓狂言尽」署名「浮世絵師 応需 国安筆」   ◯天保三年(1832)洒落本 『傾城情史』 跋文署名「浮世絵師 菱川清春記〔「青陽」印〕」   ◯天保九年(1838)武者絵本『武勇魁図会』奥付署名「浮世画工 渓斎英泉画圗」(注4)
  これらの署名から「浮世絵師」として「需めに応じて筆す」「記す」「画き圗(はか)る」といった肉声のよ  うなものが聞こえてきます。これらは第三者が国安や清春や英泉を浮世絵師と呼んでいるわけではありません。  ごく自然に自ら「浮世絵師」だと名乗っている様子が伺えます。〈英泉の署名は2020/04/24追加〉   さてこの自称「浮世絵師」、これらに留まらず、実は春画にも例があります。次は歌川国貞初代の例です
  ◯天保六年(1835)艶本『艶紫娯拾余帖(ゑんしごじふよじよう)』一冊目「月」の見返し    「做信実朝臣筆意 婦器用又平画〔浮世絵師/當時弟(ママ)一人〕(篆字印)」(注5)
  題名から分かるようにこれは『源氏物語』のパロディなのですが、直接的には当時ベストセラーであった柳  亭種彦作・歌川国貞画の合巻『偐紫田舎源氏』を下敷きにした春本です。婦器用又平すなわち国貞が信実朝臣  の筆意でこれを画いたとありますが、この信実とは、この序文によると「おそくづ(偃息図)の絵」即ち春画を  画いたとされる画人を指すようです。これが鎌倉時代に実在した藤原信実と同人か否かは分かりませんが、江  戸の人々が抱く信実像には、王朝時代を代表する好色絵の名手といったイメージがあるようなのです。国貞は  この署名に、その信実に続こうという強い意志と、王朝時代を髣髴とさせるような艶本を画いてみせるという  自信とを託したにちがいありません。そしてなおかつ厳かな篆字体の「浮世絵師/當時弟(ママ)一人」という印  を添えました。これで浮世絵師の第一人者であることを自ら誇らしげに認めたわけです。春画に篆刻とは、一  種の遊び心なのでしょうが、国貞はこの署名と印字でもって、我こそ好色絵の伝統を受け継ぐ浮世絵の第一人  者であることを、誰憚ることなく表明したともいえます。それにしても「浮世絵」と「春画」との分かちがた  い結びつきを、ここにも見ることができます。〈国貞記事は2020/04/05の追記〉   もっともその彼らにしても、以降全ての作品に「浮世絵師」を冠したわけではありません。また当時の全て  の絵師たちがそうしたわけでもありません。しかし菱川師宣のように「浮世絵師」という肩書きをネガティブ  に考える雰囲気は、この化政期以降の絵師たちにはあまりなかったように思うのです。   こうして「浮世絵師」という呼称は第三者のみならず絵師自身も普通に使う時代になりました。呼称「浮世  絵師」はここに至ってようやく市民権を得たというべきでしょう。
    さてこの章の最後に、浮世絵師が、町奉行など幕府当局にとって、もはや無視しえない存在となっていたこ  と示す二つの例をあげて締め括りとします。
  弘化三年(1846)町奉行の隠密が次のような報告書を作成していました。
  ◯「浮世絵之儀、絵之具色取偏数多き品、又ハ三芝居役者似顔等厳敷御察斗有之、一ト先不目立絵も相見候     得共、浮世絵師(歌川)国芳と申者、種々出板之内、其頃猫之絵を書候而も矢張役者似顔ニ認、其外之     出板役者誰々と申名前ハ無之候得共、何れも役者似顔ニ仕立差出し、同職之内ニも、国貞事当時(歌川、     三世)豊国と申者儀ハ、一体極尊大ニ相構、麁末成絵ハ書ざる抔と申趣ニも相聞侯得共、右等之儀ハ差     置、先御改革之頃ハ勿論、去秋頃迄ハ相慎候哉、格別目立候絵も相見不申、然処当時ニ至り候而ハ、悉     く色取偏数多く掛り候絵而己相見、前書国芳儀ハ厳敷御察斗をも恐怖不致体ニ相聞」(注6)
  管見では「浮世絵師」の呼称が町奉行所内の文書に登場するのはこれが初めてです。   さてこの頃に至っても、天保十三年(1842)に出された役者似顔絵と華美な錦絵の禁止令は依然として続い  ていましたが、この文書はこれに違反するものがいるかどうかを内密に調べた報告書です。町奉行が疑惑の目  で見ていたのが、国芳と国貞の二人でした。役者似顔の猫を画いた「浮世絵師」国芳と、色取り・摺り数の多  い絵を再び画き始めた国貞です。彼らは当時の浮世絵界の大立者でありました、おそらくその動向は官憲の監  視対象になっていたのでしょう。   その隠密の耳目に入ってきた二人の様子が面白い。国芳は厳しい御察斗(処罰)など恐れる様子はないとし、  また国貞は自分は粗末な絵は画かないなどと嘯いて尊大に構えているというのでありました。隠密の目にはな  かなか一筋縄ではいきそうもない連中のように見えたのでしょう。なおこの件で二人が告発された形跡はあり  ませんので、尻尾は出さなかったのでしょう。
    慶応二年(1866)徳川政権は瓦解寸前でしたが、フランス政府の要請もあって、幕府は翌年パリで行われる  万国博覧会に日本の特産品を出品することになりました。その中に絵画関係では「草花之写真」と「浮世絵」  が含まれていました。ちなみに「浮世絵」の絵柄は年中行事の光景や江戸市中の風景そして士農工商ほか様々  な階層の人物像です。これらを画帖に仕立てるといいますから、おそらく日本の風俗習慣を浮世絵でもって紹  介しょうとねらいなのでしょう。   当局(絵画担当は外国奉行)は当初これを御細工所の御用絵師たちに画かせるつもりでした。ところが御細  工所の方からは「(浮世絵は)市中浮世絵師共に無之候ては出来不致」という断り書きが届きました。つまり  「草花之写真」の方は担当するが、「浮世絵」は「浮世絵師」でなくては出来ないから、そちらに回してほし  いというのです。推測しますと、世俗の絵は世俗の者の手で、ということなのでしょう。そこで当局は急遽、  町奉行を通して市中の浮世絵師に依頼することになりました。そして選抜されたのが次の面々です。芳艶・芳  幾・国周・芳虎・芳年・立祥・芳員・貞秀・国貞(二世)国輝。(井上和雄の『浮世絵師伝』によれば芳宗も  加えて十一人)慌ただしい依頼でしたが、作画を渡世とする彼らに拒む理由はありません。百枚の肉筆浮世絵  を約二ヶ月ほどで仕上げて納品しました。(本来は百五十点の予定だったようですが、制作期間が短かったよ  うで応じきれなかったようです。詳しくは下掲「パリ万国博覧会」参照。本HP浮世絵事典「は」所収)(注7)   大げさに云うと、幕府は、万国博覧会というワールドクラスの公式行事のために、予定外とはいえ疑いの目  で見ていた浮世絵師を頼りにせざるを得なくなったわけです。浮世絵および浮世絵師は、当局側のたびたびの  規制・抑圧にも関わらず、逞しくも独自の発展を遂げて、今や幕府の企画の一翼を担うまでになりました。こ  のことで幕府側の浮世絵師に対する眼差しが劇的に変わったとはとても思えませんが、もはや無視出来ない存  在になったとは言えるでしょう。市中の人々にとってはとうの昔に日常生活には欠くことのできない存在にな  っていましたが、幕府当局は瓦解直前に至って、その存在を公式に認めざるを得なくなったというわけです。                                          (2016/11/27)  (注1)『歌舞伎評判記集成』第二期十巻)   (注2)国立国会図書館デジタルコレクション画像より  (注3)序文は棚橋正博著『黄表紙總覧』の中編解説より(日本書誌学大系48・昭和六十一年刊)  (補注)山東京伝の洒落本『百人一首和歌始衣抄』(天明七年序)に「春信 鈴樹氏 浮世絵師」「重政 北尾 字ハ左助 浮      世画工」「清経 鳥居氏 浮世画工」の記述がある。浮世絵を画くものを「浮世絵師」あるいは「浮世画工」と呼ぶ      こと、このことに北尾政演こと山東京伝は、ほとんど抵抗感がなかったものと思われます  (注4)国文学研究資料館「古典藉総合データベース」は弘化年間?の出版とするが、       W・アンダーソンの『日本美術全書 沿革門』第3章(原本は明治20年刊)の記事は天保9年刊とする  (注5)国文学研究資料館「艶本資料データベース」画像より  (注6)『大日本近世史料』「市中取締類集一」「市中取締之部一」第二二件「市中風聞書」弘化三年)  (注7)「徳川民部大輔欧行一件付録 巻十三」所収      「四 浮世絵画帖の件上申書」および「七 浮世絵師の件町奉行より勘定奉行への照会書」      『徳川昭武滞欧記録』第二(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)      パリ万国博覧会関係資料 パリ万国博覧会    (3)明治期 浮世絵の終焉 1     明治期の浮世絵の終焉に入る前に、これまでの浮世絵界を簡単に振り返って見ます。   浮世絵は、延宝の末年から天和初年にかけて(1681年前後)、菱川師宣の画く当世絵を「浮世絵」と名付  けたことから誕生しました。その後、役者絵の鳥居清信、美人画の西川祐信、浮絵(風景画)の奥村政信等  が世に出て、浮世絵の主要なジャンルはほぼ出揃いました。   しかし何といっても特筆すべきは、明和二年(1765)の錦絵の出現です。見当の発明と複雑な色調を可能  にする多色摺印刷、この木版史上最大の技術革新によって、表現の可能性は一挙に広がりました。そこにタ  イミングよく登場したのが、鈴木春信です。彼はこれを吾妻錦絵と称して、可憐な美人画を売り出しました。  これで美人画はついに肉筆同様の色彩を手に入れることになりました。そして天明の鳥居清長、寛政の喜多  川歌麿と続き、美人画は黄金時代を迎えます。十八世紀後半のことでした。      奇しくもほぼ同時期、役者似顔絵が現れます。立役者は勝川春章と一筆斎文調です。これを機に、役者絵  は似顔絵一色となり、旧来の鳥居派の役者絵は芝居の絵看板や番付類に限られるようになりました。特筆す  べきは東洲斎写楽です。活躍は寛政五、六年(1793-4)のほんの一瞬でしたが、この異才のインパクトは強  烈でした。彼は後の狂言作者によって「外流」と呼ばれています。どうやら浮世絵界や歌舞伎界の外側に居  た人物のようです。そのせいで江戸人の好みとはズレがあったのでしょう、結局、歌川豊国・国貞を筆頭と  する歌川派の似顔絵が支持を得ました。ともあれ、役者似顔というブロマイドの出現は、浮世絵界と歌舞伎  界との関係をますます強固なものとするとともに、浮世絵界にとっては巨大な収入源となりました。(注1)     戯作文芸界との関係もまた緊密です。安永四年(1775)、恋川春町作画の黄表紙『金々先生栄花夢』が出  版されました。草双紙が子供の慰みものから大人の読み物に一変したとされる作品です。同様に画工も交代  しました。これまで草双紙の挿絵は鳥居派が多くを担っていましたが、これ以降は、勝川、歌川などの新興  勢力が独占するようになりました。(注2)   そして文化四年(1807)頃、草双紙は黄表紙から合巻の時代に移ります。するとやがて表紙が色摺になり、  挿絵に役者似顔の人物が登場するなど、豪華でより親しみやすい方向へと進化していきました。特筆すべき  は、作者に柳亭種彦、画工に国貞を得たことです。文政十二年(1829)から連載が始まった『偐紫田舎源氏』  は、天保十四年(1843)、折からの改革で、種彦が断筆を迫られるまで、大ベストセラーであり続けました。   この合巻というジャンル、江戸の嗜好によほど合ったと見え、実に明治の十年末(1886)まで、引き続き  出版されます。合巻は実に浮世絵版本界の王道なのでした。。   一方、読本の分野はというと、寛政十一年(1799)、北尾重政が山東京伝の『本朝水滸伝』に初めて口絵  を画いて読本の定型を確立します。そして葛飾北斎の登場です。渓斎英泉曰く「繍像読本の插絵を多くかき  て世に行れ、絵入読本此人より大いにひらけり」。口絵はもちろん挿絵の面でも、北斎は計り知れない功績  を読本にもたらしたというのです。(注3)   口絵は、読者が一番最初に目を通すところですから、その役割は極めて重大です。鏑木清方の言を借りれ  ば、口絵は登場人物の紹介を兼ねた「映画の予告編のような」ものだとのこと。したがって読み手の読書意  欲や購買意欲は口絵の出来栄え如何に懸かっているともいえます。さてその口絵、再び脚光を浴びる時代が  やってきます。明治の二十年代になると、彩り鮮やかな木版口絵が、当時新興であった雑誌や単行本に蘇り  ました。ともあれ浮世絵界は戯作文芸の世界とも共に欠くことの出来ない関係を築いて来たのでした。   次に風景画です。双璧は言うまでもなく葛飾北斎と歌川広重です。彼らのおもな題材は、神話・伝説・歌  枕・物語等で着飾った伝統的な名所ではありません。江戸市中や街道筋に見かける土地/\の生業や名物な  ど、あくまで当世の風物を画くのでした。しかもそれを高見の見物ではなく、画く対象と同じ地平に立って  画きます。   歴史や文芸上の蓄積が希薄な江戸で、三十六や百もの名所を連ねようとすれば、それは新たな景勝美を発  見するほかありません。   北斎は「富嶽三十六景」で、富士を借景とするおらが土地の生活や風景を画きました。とりもなおさず、  それはその土地に一番ふさわしいおらが富嶽の発見でもあったわけです。むろん赤富士と呼ばれる「凱風快  晴」のように、どこの土地のものでもない富士、これぞ正しく富士としか言いようのない超然とした富士も  また、北斎は一方において画くのでありますが。   「江戸百景」の広重は、雪月花など、四季折々に見せる江戸の色鮮やかな景勝美を、市中から郊外へと移  動しながら、次々と発見していきました。いわば無名の地に潜む景勝美に活路を見いだしていったわけです。  これは要するに、江戸人によるおらが江戸の賛美に他なりません。   さて、誕生以来しばらく、町奉行など幕政担当者の眼中には、浮世絵などなかったようですが、寛政の改  革を過ぎたあたりから、取り締まりの対象として監視されるようになり、天保の改革では、美人画や役者似  顔絵が禁じられるなど、受難の時代もありました。それが幕末には、バリ万国博覧会出品用の作画を、幕府  から依頼されるなど、もはや無視できない存在となりました。しかしその一方で、嘉永元年(1848)には渓  斎英泉が亡くなり、同二年に北斎、安政五年(1858)に広重、文久元年(1861)に歌川国芳、そして元治元  年(1864)には三代歌川豊国(国貞)が亡くなって、浮世絵師の顔ぶれは急に寂しくなります。   弘化一、二年(1844-5)頃の番付「当世名人芸長者競」には、北斎・香蝶楼(三代豊国)・一勇斎(国芳)  ・広重・英泉の名が上がっていました。それが嘉永三年(1850)の「【高名時花】三幅対」という番付にな  ると、英泉・北斎の名が消え、一陽斎豊国(国貞)・一立斎広重・一勇斎国芳の三名が「出藍」の三幅対と  なります。そして慶応三、四年頃(1855-7)の番付では、孟斎芳虎・一恵斎芳幾・一鴬斎国周・一梅斎芳春・  一雄斎国輝・一魁斎芳年・喜斎立祥(二代広重)・玉蘭斎貞秀と、総入れ替えです。当時一番若い三十前の  芳年が出ているのはさすがと思いますが、以前の番付に競べると歴然、ずいぶん小ぶりな顔ぶれになってし  まいました。(注5)  (注1)『紙屑籠』三升屋二三治著・天保十五年成立『続燕石十種』三巻 本HP「東洲斎写楽」の項参照  (注2)『稗史提要』比志島文軒著。本HP「浮世絵師総覧」「恋川春町」安政四年の項参照  (注3)『無名翁随筆』「葛飾為一」記事。繍像は口絵。本HP「葛飾北斎」参照  (注4)『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」本HP「浮世絵事典」「口絵」の項参照  (注5)本HP「浮世絵事典」「う」「浮世絵番付」の項参照。また下掲「浮世絵年表 幕末-明治(1)」参照    一 浮世絵の終焉   A 何をもって終焉とするのか   まず最初に、何をもって浮世絵の終焉とするのか、これを明らかにしておきます。その前にあらためて浮  世絵の製作システムと製作プロセスを示して置きます。     浮世絵の製作システム  浮世絵の製作プロセス   要するに、この製作システムが機能不全に陥り、製作のプロセスに支障が生じるような状態をもって、浮  世絵の終焉と見なします。具体的にいいますと、板元・作者(戯作者)・絵師・彫師・摺師の分業体制の崩  壊です。いつごろからどのようにしてこの分業体制にゆがみが生じ、何が原因で崩壊していったか、これは  後に述べますが、ここでは簡単にポイントを二つだけあげておきます。   一つは、急速に進む西洋化によって、木版一辺倒だった印刷業界に銅版・石版・活版の技術が流入してき  たことです。さすがに錦絵の一枚絵や版本の挿絵や口絵は木版の優位が明治三十年代までしばらく続きます。  しかし明治十年頃に木版と活版の印刷コストが逆転してからは、新聞・雑誌・単行本の文字は活版が木版を  圧倒してしまいます。この流れが程なく挿絵や口絵の印刷に波及したのは言うまでもありません。また一枚  絵の方は役者絵も美人画も写真によってトドメを刺されます。   もう一つは、絵師に求められる資質が変化したことです。浮世絵は当世絵ですから、維新後、急速に変貌  する世相や人心を、それを表現するにふさわしい画法を会得して表現して行かねばなりません。これは菱川  師宣以来、名だたる浮世絵師がみな等しく通ってきた道です。   確かに、明治の浮世絵師の中にも、光の効果に注目したり、写生に徹したり、有職故実を追究するなどし  て、従来にはない画法を開拓し、当世を表現した絵師はいました。しかしながら、当然のことですが、全て  の絵師が出来るはずもないのです。一方で、役者似顔や凧絵・押絵といった伝統的な分野に頼るほかなかっ  た絵師もたくさんいました。   明治も中半を過ぎた頃、若い浮世絵師たちはある分岐点に立たされました。注文に応じて型通りのものを  画くか、あるいは自らの創意と工夫で画きたいものを画くか、この二つです。要するに職人に甘んずるか、  画家として歩むかの択一です。しかしどう考えても、機械によるカラー印刷が普及し、役者・遊女・芸者の  写真が大量に流通する時代の到来は確実で。職人の道に未来はありません。   明治の三十年代、この製作システム内で育った最後の浮世絵師たちが世に出ます。しかし画家としての仕  事は、もはやこのシステム圏内にはありません。新聞・雑誌・単行本といった圏外生まれの新興のメディア  に仕事の場を求めるか、あるいは博覧会や展覧会というこれまた圏外に設けられた公開の場に作品を出品す  る他なくなってしまったのです。   B 幕末から明治初年にかけての浮世絵界     とはいえ、幕府が瓦解してすぐに崩壊が始まったわけではありません。幕末から明治にかけての地本問屋  の推移を見てみましょう。(注1)     地本双紙問屋      本組  仮組      嘉永四年(1851)   29軒        五年(1852)   29軒  114軒        六年(1853)   32軒  117軒      安政元年(1854)   33軒        二年(1855)   25軒        三年(1856)   37軒        四年(1857)   38軒        六年(1859)   39軒      文久元年(1861)   40軒      慶応二年(1868)        162軒      慶応三年(1867)   41軒      明治二年(1869)五月「出版条例」公布(開版申請は昌平、開成の両学校に行う)                ※問屋行事による改(あらため)は継続      明治五年(1872)一月「出版条例」改正(開版申請は書の大意を添えて文部省に行う)             四月 株仲間の解散にともない東京書林組合を結成      明治八年(1875)九月「新出版条例」公布(開版申請は内務省に行う。出版届出年月日および画作者・                版権者の住所氏名の記載を義務化)                ※行事による改は廃止、検閲は内務省が行う      明治十四年(1881) 「地本錦絵営業者組合名簿」103軒   地本問屋は折からの改革によって、天保十二年(1841)十二月、解散させられてました。嘉永四年とは、そ  れが再興なった年にあたります。以降、本組・仮組が徐々に増えて、維新直前には約200軒にも達してい  ます。これは、この浮世絵の製作システムに商売の可能性を見取って新規参入する人々が絶えなかったこと  を物語っていると思います。   しかし明治に入ると、維新後の混乱もあってか、廃業が相次ぎます。明治初年から七年ころにかけて、東  京で開版した書物問屋145軒のうち、地本問屋はわずか28軒に過ぎません。この間販売だけで出版しな  かった地本問屋もいるはずですので、必ずしも正確な数ではないのですが、それにしてもずいぶん減少しま  した。   それでもこの業界の命運は尽きませんでした。当時普及しつつあった小新聞をネタに、錦絵版の新聞を出  してみたり、西南の役に取材した戦争絵の特需が沈静化すると、今度は新聞ネタの合巻化が当たったりして、  次第に勢いがつき、十四年の時点では103軒と大きく盛り返しています。      寛政以降の地本問屋の推移については下掲の地本問屋を参照ください。     地本問屋〈本HP「浮世絵事典」「し」の「地本問屋」〉     さて、この地本問屋の推移の中で、大きな変化が二つあります。一つは「出版条例」の公布です。明治二  年(1869)と同五年の改正を経て、出版を望むものは誰でも文部省に開版申請を行えばよいということにな  りました。これによって、許認可の窓口が江戸の町奉行から明治政府の文部省へと移ったわけですが、それ  以上に重要な変化は、地本問屋以外の者でも開版出来るようになったという点です。事実、明治五年(1872)  刊『学問のすゝめ』の出版人は、従来の須原屋のような書物問屋ではなく、著者である福澤諭吉本人です。(注2)   もう一つは上記条例と表裏の関係にありますが、同五年の株仲間の解散です。これで地本問屋という強力  なカルテルに風穴があくことになりました。つまり仲間内の閉じた業界から自由に新規参入できる開かれた  業界へと変化したのです。これはのちに見るように、版元の主役が、江戸以来の地本問屋系から新興の出版  業者に交代するきっかけとなりました。   ところで改(あらため)つまり検閲制度がどうなったのか見てみましょう。五年の改正では文部省が検印を  押すことになっているのですが、錦絵や合巻といった地本問屋があつかう商品にまできちんと浸透していっ  たかどうか定かではありません。明治六~八年刊行の合巻や見世物の摺物には「酉四」(明治六年四月)「戌  閏八改」(明治七年閏八月)「亥八」(明治八年八月)といった改印がありますから、少なくとも江戸の地本問  屋だった仲間内では行事による改が行われていたようです。(注3)   しかしこれも明治八年九月の「新出版条例」で様変わりします。開版の申請先が文部省から内務省に代わ  り、出版届出年月日・画工名・作者名・版権者の住所氏名の記載が義務づけられました。また改印は廃止に  なり、検閲は国内の治安対策も併せて管轄する内務省が当たることになりました。   ところで、江戸の出版に関わっていた役人・役所が維新以降どうなったかというと、明治元年、江戸幕府  の瓦解とともに町奉行と町年寄は役を免ぜられ、名主も明治二年三月の制度廃止で、書物・地本問屋の出版  には関与しなくなりました。  (注1)『戊辰以来/新刻書目便覧』朝倉治彦・佐久間信子解題。本HP「浮世絵事典」「し」の地本問屋」参照  (注2)明治元年から七年(1868-74)にかけて、東京で書物を出版した問屋の記録「東京府管下書物問屋姓名記」には       「三田三丁目 福澤 福澤屋諭吉」と出ています。本HP「浮世絵事典」「し」の地本問屋」参照  (注3)本HP「版本年表」「合巻年表(Ⅵ)」の明治六~八年参照。また「浮世絵事典」の「見世物」の項、明治六年参照)   C 合巻を中心とする出版点数の推移   江戸幕府から新政府という大きな変動があったにもかかわらず、しばらく浮世絵業界はそのエネルギーを  失うことはありませんでした。以下、明治十年代までの活況を簡単に追ってみます。   次に示すのは、安政元年(1854)から明治二十二年(1889)にかけて、江戸・東京で出版された合巻・読  本およびそれを含めた出版点数をグラフにしたものです。   (なおこのグラフは江戸・東京の地本・書物問屋との相関を見るためですので、京・大坂の出版物は除いてあります。    またこの点数は例えば同じ年に一編~三編まで出版されたものでも一点として数えていますので、総冊数とは別です。    版元・絵師等の掌握が難しい艶本も除外しました)     浮世絵界 幕末-明治    合巻等版本出版推移 幕末-明治     〈「浮世絵界 幕末-明治」は合巻・読本等分野ごとの作者・絵師・版元名を載せています。版本のデータは本HP        「版本年表」の安政~明治年間に基づいています。「合巻等版本出版推移 幕末-明治」は合巻・読本・その他版        本の出版点数をグラフ化したものです)   合巻は安政四年(1857)の71点から次第に減少し始め、明治五、六年(1872・3)頃には戯作ネタが尽き  てしまったのか、ほとんど出版されなくなってしまいます。しかしそれも明治十年(1877)頃、新聞ネタを  合巻のネタとして使い始めた頃から息を吹き返し、明治十七年には62点を出すまでに盛り返します。もっ  ともそれが最後のあだ花で、二十年代に入ると全く出版されなくなります。   この合巻に絵本や滑稽本を加えた総数でもやはり同様の傾向が見えます。安政元年の104点から次第に  減り始めて、明治二~四年には、 政情不安定、民心不安が反映したものか、戯作分野の出版点数は20点  代に止まります。このころの江戸の戯作界のありさまを坪内逍遥は次のように記しています。  「まだしも草双紙だけは、最も人気のあった柳下亭種員は、嘉永五年に死んでしまったものの、後に一時二   世種彦を名宣った笠亭仙果や二世春水や万亭応賀らによって余勢を維持し得ていたが、曲亭によって始め   て知識階級の嗜読に堪えるようになって来た読み本系の小説は、松亭金水をさえ文久二年に失って、殆ど   全く後継者を絶つに至った。人情本は有人、梅彦、谷峨らによって、滑稽本は二世春水、谷峨、魯文によ   って辛うじてその残喘を保つに過ぎなかった」(注2)     なるほど、読本は明治になるとパタッと姿を消します。  それが、明治六、七年にかけて、服部(万亭)応賀の戯文と惺々暁斎の戯画による「開化滑稽風刺」本が大  いに持て囃されて、少し息を吹き返し。30点代から40点代に増加します。これで勢いが出るかと思われ  たのですが、八、九年になるとまた20点代に逆もどり。もはやこれまでかと思われたところに、明治十年  西南戦争が勃発、これが思わぬ戦争特需となって、一枚絵のみならず、版本も大量に出回りました。そして  明治十七年には合巻62点、総数で104点、安政元年に匹敵する出版数にまで盛り返します。(参考まで  に言うと、嘉永期間の合巻は平均して、ほぼ40点から50点代で推移)   しかしこの明治十年代の合巻の全盛の裏で、はやくも凋落の兆しが現れていました。三田村鳶魚はこう振  り返っています。  「清新闊達な芳年の筆致は、百年来の浮世画の面目を豹変させた。彫摺りも実に立派である。鮮斎永濯のも   あったが上品だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜ないためだか引立ちが悪く、楊州周延のは多   々益(マスマ)す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもただ芝居臭くばかりあって   生気が乏しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった」(注1)   月岡芳年は別格として、他の浮世絵師たちの挿絵はマンネリ化が進行、相当飽きられていたとみえます。  明治二十年代に入ると合巻は全く出版されなくなります。しかしその予兆のようなものは十年代の合巻出盛  りの時に既に現れていたのです。                         (2017/06/30)  (注1)「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著『早稲田文学』大正十四年三月号(岩波文庫『明治文学回想集』上83)  (注2)「新旧過渡期の回想」坪内逍遥著『早稲田文学』大正十四年二月号(岩波文庫『明治文学回想集』上12)     (3)明治期 浮世絵の終焉 2   前回見ましたように、幕末から明治にかけて、版元を中心とする分業体制、つまり作者・画工・筆耕・彫  師・摺師からなる浮世絵の製作システム、これは依然として健在でした。     浮世絵の製作システム  浮世絵の製作プロセス     明治十一年(1878)出版の合巻『近世桜田講談』(上下二冊 山崎年信画 小林鉄次郎編・板)に次のよう  な挿絵があります。       近世桜田講談   人物に付いた札を見ると、出版人・編輯人・筆工・画工・彫工・摺工とあります。この場面、桜田門外の  変を扱った本文と関係があるとは思えません。にもかかわらず、出版人兼編集人の小林鉄次郎(板元延寿堂  ・丸屋)はこの挿絵を入れました。その意図は不明です。ただこれによってこの分業体制が明治十年頃まで  機能していたらしいことは分かります。もっとも後述するように、翌年の明治十二年頃からこの分業体制、  早くも揺らいでいきますので、小林鉄次郎の意図はともあれ、後世からすれば、これが浮世絵製作システム  の形見らしくも見えます。    D 文明開化と浮世絵     幕末から明治にかけては、西洋の文物が一挙に押し寄せ、衣食住すべてにわたって大きく変わりつつあっ  た時代です。浮世絵界もその変動の時代に素早く対応しました。そもそも浮世絵はその誕生の時から、市中  に流行するもの、あるいは評判高いものを常に追いかけ続けて来ました。  「今の世のけしきゑがき、すみ田川の遊舫をうかめ、梅やしきのはるのけしきなど画くは、浮世絵のいやし   き流のゑがくところにして(中略)このうき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし」(注1)   これは老中松平定信の言です。当世の当世らしい様相を後世に伝えるという観点からすると、浮世絵に及  ぶものはないというのです。ただ浮世絵を「いやしき流」とするのは、いかにも士農工商の頂点にある八代  将軍の血筋を引く人の言らしくはあるのですが、この下賤視、定信のみならず一般のものでもありました。   ともあれ変転する世相を表現することこそ浮世絵の生命なのですから、文明開化の激動の時代に素早く反  応したのは当然のことでした。     嘉永六年(1853)のペリー来航は、江戸の人々の関心を大いに集めましたが、異国への好奇心が本格化す  るのは、やはり安政六年(1859)の横浜開港以降のことです。機を見るに敏な江戸の板元たちは、早速歌川  貞秀や歌川芳虎・二代目広重等を起用して、異国情緒の漂う横浜の風景や人物を画かせ、錦絵・版本として  売り出しました。いわゆる「横浜絵」です。これ以降、官庁・銀行・ホテルなどの洋風建築、鉄橋・鉄道に  蒸気機関車、馬車・人力車、噴水、そして洋装・西洋楽器に舞踏会、さらには西洋曲馬団やサーカスの興行  等々、開化にともなって流入するこれらの西洋文物を、その都度題材として取り上げていきました。いわゆ  る「文明開化絵」と呼ばれるジャンルです。   三味線の音を専ら左脳(言語脳)で聞く日本人が、バイオリンの音を右脳(感覚脳)経由で聞いた時、ど  んなに戸惑ったことか、想像もつきません。同様に、家や道具も含めて身の回りの多くが木と竹と紙と藁草  で出来ている当時の日本人には、煉瓦の建造物や鉄製の機械は目を疑うような驚異の世界であったに違いな  いのです。「文明開化絵」は当時の日本人に視覚上の快楽をもたらしたのでしょう。  E 浮世絵と新聞   a 新聞錦絵   明治五年(1872)二月、東京初の活版日刊紙『東京日々新聞』が、条野伝平や落合幾次郎(芳幾)等によ  って創刊され、同年七月、やはり活版の『郵便報知新聞』が創刊されました。新聞時代の幕開けです。   これに着目したのが具足屋福田嘉兵衛、明治七年十月、『東京日々新聞』の錦絵版を木板で出版します。  これは『東京日々新聞』の記事をもとにして、転々堂主人(高畠藍泉)や山々亭有人(条野伝平)らの戯作  者たちが譚(物語)に仕立て、それにŽ‘Ž‘一惠斎芳幾の絵を組み合わせて大判の錦絵にしたものです。   この企画、版元の具足屋が提案したものか、それとも『東京日々新聞』を立ち上げた条野・芳幾らか持ち  かけたものが、よく分かりませんが、新聞記事をもとに従来の浮世絵製作システムを動員して新しい錦絵を  創出したという点では大変画期的な企画でした。   この新しいメディアは、ニュースを絵入りの奇譚に仕立てて人々の興味を惹いただけでなく、漢字に振り  仮名を付けて、漢字に疎い層まで読者に取り込もうとしました。この目論見は大成功し、これに倣うものが  続きます。同年十一月には『各種新聞図解』(文案記者高畠藍泉・画工小林永濯・政永堂版)が創刊されま  す。そして翌八年二月には、錦昇堂熊谷庄七が、戯作者に松林伯円、画工に大蘇芳年を起用して、錦絵版  『郵便報知新聞』を創刊。また同年には大阪の版元阿波文(後に石沢)が笹木芳瀧の文・画で『大阪錦画新  聞』を創刊します。   以降、東京版の例を挙げると、八年三月『大日本国絵入新聞』(記者不明・画工梅堂国政、真斎芳州・上  州屋)、同十年四月『仮名読新聞』(記者久保田彦作・月岡芳年他・松村甚兵衛他版)、十一年三月『朝野  新聞』(記者不明・山崎年信画・林吉蔵)、十二年五月『東京各社選抜新聞』(記者不明・画工梅堂国政、  三島蕉窓・栄久堂山本平吉版)などなど、東京・大阪・京都をあわせて約四十種ほどの新聞錦絵が、次々に  生まれたといいます。(注2)(注3)なお、注目すべきは版元で、具足屋福田嘉兵衛・政栄堂政田屋屋平  吉・上州屋重蔵・松村甚兵衛・紅英堂林吉蔵・栄久堂山本平吉、すべては地本問屋です。   ところがその勢いは長く続きません。錦絵版『東京日々新聞』の創刊からわずか一年後の明治八年、より  報道を重視した絵入り振り仮名付きの新聞、いわゆる小(こ)新聞が登場すると、急激にその勢いを失いま  す。明治九年には錦絵版『東京日々新聞』錦絵版『郵便報知新聞』ともに廃刊になりました。   ところで、これらの錦絵新聞は新聞なのでしょうか、それとも錦絵なのでしょうか。大阪を別として東京  の新聞に限って云いますと、本稿は錦絵だと考えています。理由は、出版元が上述のように錦絵を専らとす  る地本問屋であり、江戸以来の浮世絵製作システム、戯作者・画工・彫師・摺師の分業体制に拠って、しか  も錦絵と同サイズの大判で出版しているからです。また錦絵版『東京日々新聞』の開版予告版を見ると「東  京日々新聞大錦」「東京人形町通り/地本絵双紙問屋 具足屋嘉兵衛」とあります。具足屋には、新聞のよ  うな大判錦絵を地本問屋として出版したという自覚があったものと思われます。   もう一つの理由は、この新聞錦絵が、ニュースを奇譚に加工して刺激的な絵と組み合わせることに専ら意  を用いて、事実を速報するという新聞本来の役割を果たすことには無頓着だったように思えるからです。   「新聞錦絵の興味深い性格は、もとになった新聞記事と錦絵との間に時差があり」中には二年も前の事件  を取り上げているケースもあると云い、またその時差が「概ね一-二か月以内」という指摘もあります。(注4)   この時差が、製版に手間が掛かるという浮世絵の製作システムから必然的に生ずるものなのか、最初から  そこに意を用いていないために生ずるのか、よく分かりませんが、速報性を重視していないことは明らかで  す。   錦絵版『東京日々新聞』を例にとると、エンジェルが掲げるタイトルに「東京日々新聞 四百四十五号」  とありますが、本紙四百四十五号自体の発行日は分かりません。また錦絵版にも発行日の明確な記載はあり  ません。欄外の改印によって年月を知ることは出来ますが、当時の一般の読者がそこまで注視したとも思え  ません。要するに新聞錦絵は事実報道では基本である「いつ」を軽視しているわけです。本稿が新聞錦絵を  新聞ではなく錦絵の形をとった絵入りの読み物とする理由です。   ついでに紹介しますと、鏑木清方はこう云っています。  「(明治九年前後)『東京日々』と『郵便報知』の新聞記事に出たものの中から、所謂ニュース・バリュー   のあるものを錦絵にして画中に解説を加えたものが出たことがある。「日々」は芳幾、「報知」は芳年で   あった」(注5)  清方はあきらかに錦絵と捉えていたわけです。  参考までに、土屋礼子著『大衆紙の源流』(世界思想社・2002年刊)に拠って錦絵新聞(新聞錦絵)の画工  一覧を掲載しておきます。 (2017/10/14付記)     新聞錦絵画工一覧   b 絵入り新聞(小新聞)   明治七年(1874)十一月、「小(こ)新聞」の『読売新聞』が創刊されました。これは天下国家を論ずる  『東京日々新聞』や『郵便報知新聞』のような「大(おお)新聞」とは異なり、より身近な巷間の出来事を専  ら取り上げて報道します。やはり漢字に振り仮名付きですから、読者層としては、『錦絵新聞』と同様、漢  籍等にあまり馴染みのない一般庶民をも想定していました。   案の定評判は上々でした。明治八年(1875)『読売新聞』の発行部数は八千余で『東京日々新聞』の七千  余を既に抜いていましたが、その差は千部ほど、これが翌九年になると、『東京日日新聞』の九千七百余に  対して『読売新聞』は一万五千余で、早くも約1.5倍もの差がついてしまいます。この勢いは衰えず、明治  十一年以降は2倍以上に差が開きました(注6)  『読売新聞』の発行元は横浜から来た日就社という活版印刷所。紙面は当然のことながら活版刷でした。た  だし挿絵はありません。必要なしとしたのか、当時の活版技術で挿絵を入れるのが困難だったのか、よく分  かりませんが、この発行の勢いと挿絵無しに目を付けたのが落合芳幾でした。   芳幾はこの年の十月から錦絵版『東京日々新聞』の画工を担当していたので、忙しかったはずですが、こ  の一ヶ月後に創刊された『読売新聞』をみて、期するところがあったのでしょう、すぐさま行動を起こして、  翌明治八年四月には、編集担当の戯作者・高畠藍泉(後に三世柳亭種彦を襲名)と図って『平仮名絵入新聞』  (後『東京平仮名絵入新聞』『東京絵入新聞』と改題)の創刊に漕ぎつけます。   おそらく、芳幾・藍泉らは『読売新聞』の好評を見て、市中の多くの人々の関心が事実速報にあることを  見取ったのでしょう。錦絵版にはない速報性を重視しました。加えて『読売新聞』とはその差別化を図るた  めか、挿絵を入れることにしました。   この『平仮名絵入新聞』は当初隔日刊でしたが、九月には日刊化して『東京平仮名絵入新聞』と改めます。  すると、紙面製作がとても慌ただしくなりました。本文の活版、挿絵の木板、これを組み込んで手廻しロー  ル印刷機で印刷するのですが、これが大変でした。   「警察受持の探訪者が帰社して差出す原稿の内から、絵を入れるべきものを択んで画工が直ちに版下を描    き、これをその夜の活版大組みの終りまでに急いで彫刻させる(中略:組終わったのち手回しのロール    印刷機で印刷するのだが)夜の十一時前後から刷り始めねば翌朝配達に間に合わぬ。それにしても五、    六時間の内に彫上げる必要上からその版木を二つにも三つにも割り、剞劂師が手別けをして彫刻し、あ    とでこれを継合すという究策を施す事もあった(云々)」(注7)   挿絵の木板を彫るのに手間取ったようで、毎日が綱渡りとも言える製作現場ですが、速報を重視して翌日  配達の約束は何とか果していたようです。      そうすると、二年以上の前の奇譚を取り上げる新聞錦絵の方は、速報性の点において小新聞に全く敵いま  せん。おそらく当時の人々が渇望していたのは「事実は小説より奇なり」の「事実」の方でなのです。今何  が起こっているかを情報として知ること自体が、非常に刺激的であったに違いありません。しかも現代風に  いえば双方向というか、読者の投書を積極的に受け入れるとともに、それを紙面にも載せましたから、新聞  はこれまで日本人が体験したことのない、実に魅力的な新聞空間を人々にもたらしたことになります。   同年十一月、戯作者の仮名垣魯文が河鍋暁斎を誘って『仮名読新聞』を発刊します。藍泉や芳幾の動きを  どうしても拱手傍観していられなかったのでしょう。   これ以降、『いろは新聞』(明治12)・『東京絵入自由新聞』(明治15)・『絵入朝野新聞』(明治16)・   『自由燈』(明治17)・『やまと新聞』(明治17)などの小新聞が明治十年代に創刊されました。   絵入りで日刊ですから各新聞社には専属の画工が必要でした。   明治十九年の『今日新聞』三八〇号付録(明治19年1月2日)に「ふりかな新聞画工之部」として  〝東京 大蘇芳年  同  落合芳幾  同  小林清親  同  尾形月耕   同  稲野年恒  同  新井芳宗  同  生田芳春  同  歌川豊宣   京都 歌川国峰  大阪 歌川国松  同左 後藤芳峰  高知 藤原信一〟     とあります。東西の小新聞の専属画工のリストです。すべて浮世絵師系の画工で。この頃はまだ浮世絵師  系の画工がまだまだ幅をきかしていたのです。      ところで、芳幾という人は実に勢力的というか、とにかく機を見るに敏な人で、明治五年、大新聞『東京  日々新聞』を立ち上げ、明治七年十月それをベースにしてその錦絵版を作り、そして明治八年四月には、小  新聞の『平仮名絵入新聞』を創刊しました。付け加えていうと、芳幾は雑誌にも関わりがあり、明治十一年  創刊の『芳譚雑誌』では挿絵を担当しています。   こうして芳幾は、新聞社付画工という新たな職域を開拓しました。いわば浮世絵の製作システムの外側に  も職域を設けたというわけです。しかし作者・画工・筆工・彫工・摺工・製本工のすべてが紙面製作に関わ  ったわけではありません。筆工と摺工は無関係でした。筆工は活字に取って代わられ、摺工は機械印刷にど  んどん仕事を奪われていきました。この流れは明治十年代の中頃から加速します。   F 合巻と芝居と新聞     前回グラフで示したように、合巻の出版は明治に入ると振るわなくなり、六年はわずか二点に止まりどん  底を迎えます。それが明治十年代になると再び盛り返します。     浮世絵界 幕末-明治    合巻等版本出版推移 幕末-明治     〈「浮世絵界 幕末-明治」は合巻・読本等分野ごとの作者・絵師・版元名を載せています。版本のデータは本HP        「版本年表」の安政~明治年間に基づいています。「合巻等版本出版推移 幕末-明治」は合巻・読本・その他版        本の出版点数をグラフ化したものです)   板元が活路を見いだそうとしたのは芝居と新聞・雑誌でした。   ここにいう芝居とは歌舞伎狂言の筋書きを合巻化したもので、いわゆる「正本写」と呼ばれるものです。   明治十一年、新富座は開業に際して河竹黙阿弥の「松の栄千代田の神徳」を上演しました。この時、二つ  の正本写が出ます。仮名垣熊太郎(魯文)録・蜂須賀国明画の大倉孫兵衛版『松の栄千代田の神徳』と篠田  仙果録・周延画の山村金三郎版の『松の栄千代田の神徳』です。また同じ年、黙阿弥の「日月星享和政談」  が新富座で上演された時は、松邨漁父編・国政画の大倉孫兵衛版『日月星享和政談』と篠田仙果綴・周延画・  福田熊太郎版『日月星享和政談』が出版されました。加えて、この年は更にもう一点、やはり大倉孫兵衛版  で松邨漁父録・周延画の『【劇場正本】仮名手本忠臣蔵』があり、合計五点の正本写が出版されました。   以降、十二年は9点、十三年は4点、十四年は12点 十五年は3点 十六年は7点、十七年は3点、十  八年2点と推移します。そして十九年以降の出版は絶えてしまいます。(注8)   この当時、錦絵の役者絵の方は、豊原国周や楊洲周延の活躍で依然として活況を呈していましたが、版本  の正本写は長続きしませんでした。最も衰退するのはこの正本写に限らず、次に述べる合巻もそうなのです  が。   明治十年(1887)、仮名垣魯文が主宰する『仮名読新聞』に、久保田彦作の小説『鳥追お松の伝』が連載  されました。するとこの明治を代表する毒婦ものは、仮名垣魯文によれば「千町万町の衆目に触れ喝采の声  価をえたる」と連載中から大評判になります。(注9)   これを商機と捉えたのが版元大倉孫兵衛です。早速これを合巻に仕立てます。こうしてなったのが、明治  十一年一月刊『鳥追阿松海上新話』(久保田彦作作・仮名垣魯文閲・楊洲周延画)。しかし奇妙なことに、  新聞では結末に至らず、合巻化して結末を迎えます。おそらく大倉孫兵衛の強い働きかけに魯文が応じたも  のと思われます。結末を知りたい新聞読者に合巻を購入させようという作戦でしょう。   似たようなことが、五月に出版された『夜嵐於衣花廼仇夢』(岡本勘造綴・吉川俊雄閲・永島孟斎画・辻  岡文助版)でも起こりました。校閲者吉川俊雄の序文によると、もともとは自らが「毒婦阿衣(おきぬ)の伝」  というタイトルで『さきがけ新聞』に連載していたものでした。それが「(阿衣)の奸悪を数ふれバ数條の  珍説奇談多瑞に渉り新聞紙面に悉(つく)す能ハず(云々)」つまり紙上では語り尽くせないので、「金松堂  の主人が乞ふに応じ半途にして紙上の掲載を止め岡本子をして之を双紙に綴らせ(云々)」と、辻岡文助の  強い要請もあって新聞連載を中絶して合巻化したといいます。(注10)   大倉孫兵衛や辻岡文助は、多くの新聞読者を合巻の購入者と見込んで、この挙に及んだものと思われます。  合巻を活性化するにはなりふりかまって居られなかったのでしょう。ともあれ、こうして新聞ネタを合巻化  するという流れが出来上がりました。   明治十二年、今度は仮名垣魯文が稀代の毒婦・高橋お伝の記事を『仮名読新聞』に掲載しました。これは  同年一月、お伝が斬首の刑に処せられたという話題性もあって、記事もまた大評判になりました。すると辻  岡文助が出てきて、これまた新聞連載を中絶させ、『高橋阿伝夜叉刃譚』(仮名垣魯文作・守川周重画)と  いうタイトルの合巻に仕立ててしまいました。キワモノですから、出版も時間が勝負、初編から八編まで二  十四冊、二月から三月にかけて僅か二ヶ月足らずで一挙に仕上げました。   同様の動きは雑誌にも及び、明治十二年刊の『巷説児手柏』(転々堂主人著・惠斎芳幾画・大蘇芳年補助・  武田伝右衛門版)は、芳幾が画工を担当していた『芳譚雑誌』(愛善社刊)に掲載されていたものです。い  よいよ新聞に続いて雑誌の合巻化も始まりました。   ともあれこうして、浮世絵界は新聞・雑誌に望みをかけて復活の兆しを見いだそうとします。もう一度あ  のグラフを見てみましょう。明治九年10点、同十年20点、同十一年20点、同十二年42点、同十三年  38点、同十四年46点、同十五年25点、同十六年64点、同十七年62点とピークを迎えます。しかし  そのあとが続きません。同十八年30点、同十九年9点、同二十年2点、同二十一年2点と激減し、二十二  年に途絶えてしまいます。     合巻等版本出版推移 幕末-明治     〈合巻・読本・その他版本の出版点数をグラフ化したものです)   この間、実は合巻の形態に大きな変化が生じます。三田村焉魚はこう振りかえっています      「明治になって江戸式合巻の出盛りは十二年から十四年までで、十五年には活版東京式合巻がでて、その    翌年より凄まじい勢で木板の江戸式合巻を駆逐して往つた」(注11)   三田村焉魚のいう「江戸式」とは、従来通り表紙・口絵・序・本文・挿絵・奥付・袋全て木板のもの云い  ます。「東京式」は本文と挿絵が活版印刷のものを云います。明治十六年からその殆どが活版に切り替わっ  たようです。したがって、明治十年代は同じく合巻といっても、本文と挿絵の印刷が木板一辺倒から活版に  替わったために、本文挿絵のところは視覚的にも大きくかわりました。従来の木板のものは絵のまわりに平  仮名がびっしり組み込まれていましたが(明治十年代は従来の木板の合巻でも漢字振り仮名つきになる)、  活版のそれは本文と挿絵と画然と仕切られるか、カットのように填め込まれるようになりました。   それにしても、なぜこんなに急速に活版が優勢になったかというと、この頃、活版の印刷コストが木版の  筆工・彫工・摺工のそれを下回ったからです。   「予ガ始メテ此業ヲ開キシハ明治九年(一八七六)ニシテ、当時活版ノ組料及ビ印刷ハ木版ノ彫刻及ビ摺    賃ヨリ高カリシ故ニ、予ハ謂ヘラク斯ノ如キ価格ハ決シテ永続スベキモノニアラズ、必ズヤ早晩下落ス    ベシト」(注12)   これは大日本印刷の前身・秀英舎を明治九年に設立した佐久間貞一の言です。明治九年ころは活版の方が  木板よりコストが高かったようですが、明治十年代に入ると逆転し始めたわけです。表紙・口絵・序は依然  として木版の方が優位でしたが、本文と挿絵は機械刷りが優位になりました。   上掲明治十二年刊『高橋阿伝夜叉刃譚』は、不思議なことに初編の本文だけが活版刷り、二編以降は従来  通り浮世絵製作システムによる木板という変則的なものでした。どんな事情があってこうなったものか分か  りませんが、おずおずとした進出ぶりです。ところが同じ十二刊の『巷説児手柏』の方は仕立て方が凄まじ  く、表紙・口絵・序は従来通り木板ですが、本文と挿絵は雑誌で使用した活版をそのまま使ったとされます。(注13)   活版の導入は筆工と彫工と摺工に影響をもたらしましたが、特に筆工には壊滅的打撃になり、摺工の仕事  も減少を余儀なくされました。もっとも、画工・彫工が安泰かというと、必ずしもそうも言えません。明治  二十年代に入ると、合巻そのものが出版されなくなります。ですから時間の問題に過ぎませんでした。   ともあれ版元はコスト削減のため、新聞や雑誌社との関係を強化して、浮世絵製作システムに拠らない方  向で合巻作りをはじめたわけです。要するに版元自体が浮世絵製作システムに出たり入ったりしているので  す。版元にとって浮世絵の製作システムは絶対のものでなくなりつつありました。   江戸から続く地本問屋の中にも、次第に浮世絵の製作システムから離れる版元が出始めます。   泉屋(山中)市兵衛は明治七年(1874)から『小学読本』など教科書の出版を始めます。(注14)また明  治十三年には、銅版や石版挿絵の入った『與地誌略』四編(西村茂樹編)の発行書林に名を連ねるなど、異  業種との関係も持つようになりました。(注15)藤岡屋(水野)慶次郎もまた、明治に入ると教科書の出版  に進出し、明治十四年には錦絵問屋を廃業したといいます。(注16)   こうして版元は浮世絵製作システム圏外に取引の領域を広げていきました。また活版コストの低下ととも  に、このシステムに拠る整版の出版は商売としては将来性が見通せないものとなっていたといえます。                                         (2017/07/29)  (注1)『退閑雑記』松平定信・寛政五年(1793)記(『続日本随筆大成』第六巻 p35)  (注2)『大衆紙の源流』「東京で発行された錦絵新聞一覧」土屋礼子著(世界思想社・2002年刊)  (注3)「ニュースの誕生〜かわら版と新聞錦絵の情報世界」展図録(ネット上の「ニュースの誕生」より)      (東京大学総合研究博物館・社会情報研究所共同企画)      「錦絵新聞とは何か」土屋礼子著  (注4)「ニュースの誕生〜かわら版と新聞錦絵の情報世界」展図録(ネット上の「ニュースの誕生」より)     「小野秀雄コレクション再考」木下直之著       「たとえば、歌舞伎役者嵐璃鶴と密通したあげくに旦那を毒殺した原田キヌの事件は、明治五年(一八七二)二月二三日        発行の『東京日日新聞』第三号で報じられたが、それが錦絵になって売り出されるのは明治七年の夏だから、少なくと        も二年半の隔たりがある」      『大衆紙の源流』土屋礼子著 p94       「発行時期のずれは、最も近い場合は四-五日、最も隔たる場合は二年以上であるが、概ね一-二か月以内である」  (注5)『こしかたの記』「やまと新聞と芳年」鏑木清方著・あとがき昭和三十六年一月・中公文庫p34  (注6)『大衆紙の源流』付録「明治前期主要新聞紙号当り平均発行部数(1)」土屋礼子著(世界思想社・2002年刊)  (注7)「明治初期の新聞小説」野崎左文著。『早稲田文学』大正十四年三月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上)に拠った  (注8) 出版点数は『【明治前期】戯作本書目』山口武美著(日本書誌学大系10・青裳堂書店・昭和五五年刊)       に拠っています。なお同書は正本写を「演劇」本に分類しています  (注9)『鳥追阿松海上新話』初編序。早稲田大学図書館「 古典籍総合データベース」より  (注10)『夜嵐阿衣花廼仇夢』早稲田大学図書館「 古典籍総合データベース」より  (注11)「明治年代合巻の外観」三田村焉魚著。『早稲田文学』大正十四年三月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上)に拠った  (注12)「印刷雑誌発刊ニ際シ同業諸君ニ一言ス」佐久間貞一(『印刷雑誌』創刊号・明治二十四年二月)       引用は『佐久間貞一全集(全)』(矢作勝美編・大日本図書・1998年刊)より  (注13)「近世出版機構の解体(上)」前田愛著(『前田愛全集』第二巻『近代読者の成立』筑摩書房・1989刊 )   (注14)「初等教育 -広島大学図書館 教科書コレクション画像データベース」  (注15)「神奈川大学学術機関リポジトリ」『輿地誌略』四編下 画像〔013〕  (注16)「明治初年東京書林評判記」古本屋第三号 朝倉屋久兵衛著(『明治前期の本屋覚書き』文圃文献類従26所収)       「明治時代に相成り教科書を出版」      『東京書籍商組合員概歴』東京書籍商組合編 大正元年刊(国立国会図書館デジタルコレクションより)       「二代慶次郎ハ専ら書籍ヲ出版シ、教科書ノ翻刻及ビ取次販売ヲナシ、明治十四年ノ頃、錦絵問屋ヲ廃ス」   (3)明治期 浮世絵の終焉 3     前回、版元を中心とする浮世絵界が、維新以降急速に台頭してきた新メディアの新聞に接近して、その錦絵  化ともいうべき「錦絵新聞」を新たに開拓したことを述べました。また明治十年代、新聞の続きものが持て囃  されるや、すぐさまそれを合巻に仕立てるなどの素早い対応ぶりも見てきました。   合巻についてみると、前回グラフで示したように維新後しばらく出版は停滞していましたが、明治十年代に  なると幕末を凌ぐほどの勢いを取り戻します。   その間に版元の勢力図は大きく変わりました。江戸から続く地本問屋の中では、紅英堂・蔦屋吉蔵のように  幕末から明治初年にかけて旺盛な出版活動をしていたにもかかわらず、明治十年代に入るとほとんど出版しな  くなる版元がある一方、金松堂・辻岡文助のように勢いをそのまま継続する版元もありました。まさに主役の  交代です。そこに具足屋・福田熊次郎、島鮮堂・綱島亀吉のような明治になって急に頭角を現す新興の版元が  続きます。また滑稽堂・秋山武右衛門や春陽堂・和田篤太郎のような企画力のある新規参入組が加わります。   明治五年(1872)の地本問屋(株仲間)の解散が契機でした。新旧の新陳代謝です。ですから維新から明治  十年代にかけては、版元・戯作者・画工・彫師・摺師からなる浮世絵の製作システムに拠って出版活動をしよ  うという勢いは一向に失われていなかったのです。      参考までに、明治十四年時の東京の地本問屋一覧と江戸時代も含む版元一覧を示しておきます。    合巻等版本出版推移 幕末-明治    〈版本のデータは本HP「版本年表」の安政~明治年間に基づいています。合巻・読本・その他版本の出版点数をグラフ化      したものです)    明治十四年地本錦絵営業者組合名簿    〈本HP「浮世絵事典」「し」の項目「地本問屋」所収。出典は『彌吉光長著作集』第四巻「明治時代の出版と人」「明治      初年の出版団体(その二)」〉    版元一覧(江戸~明治期)    〈本HP「浮世絵事典」「は」の項目「版元一覧」〉     前回、浮世絵界は新聞雑誌との関係を深めていったと述べましたが、それがどれほどのものか、前回は残念  ながら間に合いませんでしたので、今回いくつかの資料を載せておきます。   一つ目は錦絵新聞の版元と絵師の一覧。これは土屋礼子著『大衆紙の源流』(注1)に拠るものです。     錦絵新聞画工一覧   二つ目は「小新聞(ふりがな新聞)」と専属画工の一覧、未定稿ですが一応の目安になるものと思います。  これは、野崎左文著「明治初期の新聞小説」(注2)と上掲『大衆の源流』に拠っています。     新聞挿絵画工一覧   三つ目、これは明治十年(1877)の西南戦争に関する錦絵および版本の一覧です。これも新聞報道に基づい  て錦絵化・合巻化したものです。岩切信一郎著『明治版画史』によると、大判錦絵三枚続が三百数十点確認さ  れているとのこと。これも未定稿ですが、参考までに、西南戦争に取材した錦絵新聞と三枚続を中心とする錦  絵と合巻仕立にした版本のリストを載せておきます。     西南戦争 錦絵・版本(画工別)    西南戦争 版本(年月順)   西南戦争に関する出版は一時的なブームで終わりましたが、役者絵や美人画の錦絵は引き続いて盛んに出版  されました。江戸から東京と地名は変わっても、明治二十年代までの絵草紙屋の賑わいは江戸時代のそれとあ  まり変わりませんでした。以下は、明治六年(1873)深川生まれの新聞人、山本笑月の「絵双紙屋の繁昌記   今あってもうれしかろうもの」と題した昭和初期における回想です。(笑月はジャーナリスト長谷川如是閑と水  野年方門の画家大野静方の長兄にあたります)  「惜しいのは絵双紙屋、江戸以来の東みやげ、極彩色の武者画や似顔絵、乃至は双六、千代紙、切組画などを   店頭に掲げ、草双紙、読本類を並べて、表には地本絵双紙類と書いた行灯型の看板を置き、江戸気分を漂わ   した店構えが明治時代には市中到るところに見られたが、絵葉書の流行に追われて、明治の中頃からポッポ   ツ退転。   両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、もっばら役者絵に人   気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。一鴬斎国周を筆頭に、   香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流の達筆は新板ごとにあっと   いわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といった顔触れ。新年用の福笑い、双   六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自慢の一名物」(注3)   登場する版元は、両国吉川町の大黒屋・松木平吉、日本橋人形町の具足屋・福田熊次郎、日本橋室町の滑稽  堂・秋山武右衛門、日本橋横山町の金松堂・辻岡文助。いずれも明治を代表する版元です。明治二十年代まで  は、新板が出ると、吊された錦絵を見ようと店頭はたちまち黒山の人だかり、するとこんな珍事も起こります。  「通壱丁目の角が瀬戸物店、続いて大倉書店、萬孫絵双紙、いつも店先は錦絵の見物で一ぱい。絵双紙に見と   れて懐中を抜かれて青くなる人もあつた」(注4)   余談ながら、これは日本橋通一丁目の万孫・万屋大倉孫兵衛の店先です。   浮世絵界は、前述ように明治十年代後半に合巻出版のピークを迎えますが、錦絵の方は明治二十年代まで引  き続き役者絵や美人画等で意欲的な作品が続きました。上掲万孫のエピソードを記した浅野蝸牛(文三郎)が、  幕末から明治二十年代にかけて作られた錦絵のリストを書き残しています。蝸牛は明治期の出版や書店の状況  に精通した人ですから、これらは当時評判をとった作品と考えてよいと思います。以下、引いておきます。た  だ江戸期の作品の再版分は除いてあります。また全てを取り上げると煩雑になりますので代表的なもののみ、  時代を追って摘記します。ただし作品名や出版年次および版元名は原文のままの引用です。     画工名  画題        出版数  年次         版元   三代広重「大日本地誌略図」  七十枚  明治九年       大倉孫兵衛 〈「日本地誌略図」〉   大蘇芳年「大日本名将かゝみ」 三十枚  明治十二年      熊谷庄七・船津忠治郎   豊原国周「開化三十六会席」  三十六枚 明治十三年      武川清吉   大蘇芳年「東京自慢十二ヶ月」 十二枚  明治十三年      井上茂兵衛   大蘇芳年「月百姿」      百枚   明治十五年ヨリ    秋山武右衛門〈明治18-24年刊〉   小林清親「三十二相追加百面相」二十五枚 明治十六年      森本順三郎   安達吟光「狂画百影」     五十枚  明治十九年      井上吉次郎〈「狂画の面景」〉   豊原国周「歌舞伎十八番」   十八枚  明治二十二年     福田熊次郎   尾形月耕「婦俗画尽」     三十六枚 明治二十四年     佐々木豊吉   小林清親「百戯百笑」     五十枚  明治二十七年より八年 松木平吉   楊州周延「千代田の大奥」 三枚続二十組 明治二十八年     福田熊次郎(注5)   なお蝸牛の全文およびそれに対する本HPの考証については下掲の資料を参照ください。   参考資料 幕末-明治の錦絵(朝野蝸牛編『江戸絵から書物まで』所収)   この蝸牛のリストには載っていませんが、明治の錦絵を見渡したとき、逸してはならないものがあります。  小林清親の「光線画」です。というのも、この「光線画」は見事に浮世絵の精神を体現しているからです。   浮世絵は師宣以来、様々に変化する世相を新しい描法で活写してきました。清親もまた、西洋文物の流入で  刻々変化する眼前の東京を、明と暗、光と影とを巧に駆使して写し出しました。明治九年から明治十四年(18  76-81)にかけてのことです。最初は大黒屋・松木平吉が、のちに具足屋・福田熊次郎が引き継いで出版しまし  た。よほど新鮮だったとみえて、幼少の鏑木清方の記憶にも鮮明に残っていました。清方は明治十一年(1878)  生まれですから、明治十年代の後半以降の記憶を思われます。   「清親の、高輪の海岸を駛しる汽車の絵だの、向両国の火事、箱根、木賀の風景などは店頭に見た覚えがあ    る」(注6)   「高輪半町朧月景」は明治十二年刊、「浜町より写両国大火」と「箱根木賀遠景」は明治十四年刊で、版元  はいずれも具足屋です。ただ惜しいことに、この新しい試みも、当時の人々に対してはあまり興味を惹かなか  ったらしく、上出の山本笑月によれば、「今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて一向さわが  れず」(注3)で、どうやら清親や大黒屋や具足屋の先見性も、当時の人々の感性とはズレがあったようです。  昭和になった今でこそ「滅法珍重」されるようになったのではありますが、清親は大正四年(1915年)に亡く  なっていますから、気の毒なことに、生前この栄誉に浴することはありませんでした。   ともあれ、こうした錦絵で賑わいをみせた絵草紙屋の店先も、明治二十年代も末になると、次のような寂し  いトーンに変わります。以下は明治二十九年(1896))の記事です。   「絵艸紙屋の店頭に立ちて目につくは錦絵の変遷なり、維新以前に錦絵の大部分を占めし芸娼妓の美人画の    著く減少せしこと、芝居の流行の甚しきにも似ず役者絵の割合に尠くなりしこと、美術石版と称する古画    伯(応挙探幽等)の名画の翻刻流行すること、石版肖像画の殖えしこと、幼年者流のもてあそびに供する    小冊子類のいちじるしく殖えしこと、遊芸独稽古用のクダラヌ書類のおびたゞしきこと、『造化機論』や    うの書類今のあまた陳列しあること、錦絵の彩具及び紙質のわるくなりしこと、浄瑠璃本稽古の売足よき    こと」(注7)      「幼年者流のもてあそびに供する小冊子類」とは子供向け絵本、いわゆる「赤本」と呼ばれる類。また『造  化機論』の「造化機」とは生殖器のことで、明治九年(1876)図版入りで出版されて以来、隠れた性のベスト  セラーであったようです。店内での品揃えにも変化が、美人画や役者絵が退潮の兆しを見せる一方で、石版画  の進出が目立ち始めます。ただそれとともに、商品の低俗化、絵の具や紙質の劣化を招いたようであります。  そしてこれが三十年代に入ると、いよいよ旗色が悪くなります。  「二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減って行った。役者絵は何と   いっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見せて来たことと、三十四五年   に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし続けていた店も、絵葉書に席を譲   らなければならなくなった」(注6)   絵はがきの大流行にトドメを刺されたというのが、鏑木清方の回想です。  G 地本問屋・戯作者の消滅   そもそも浮世絵製作システムの中で、戯作者と画工との関係はどのようなものだったのか、少し振り返って  みます。好例が馬琴の遺した資料の中にありますから引用します。  「小生稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ御   座候。北さいも筆自由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さいニ画   がゝせ候さし画之稿本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候」(注8)   天保十一年、馬琴が伊勢の殿村篠斎宛に出した書翰の一節です。ここでいう「稿本」とは戯作者が画工に与  える絵と朱書からなる下絵のことを云います。馬琴はこれでもって画工に指示を出します。  「稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ」というところを見ると、画工は作者の指示に忠実であるべきだと、  馬琴は考えていたようです。その上でお気に入りの画工を三人あげます。北尾重政・初代歌川豊国・歌川国貞、  彼らこそプロ中のプロ、作者の意向を忠実に汲んで、作者が望むような図様に昇華できる名人だというのです。   それに対して、葛飾北斎は、と馬琴は云います。北斎は云うまでもなく彼ら以上に「筆の自由成」画工であ  る、しかし「作者ニ随ハじ」が玉に瑕で、作者の指示を無視して我意を通すというのです。   それもあったのか、文政元年(1818)のころ、越後の鈴木牧之から『北越雪譜』の出版に協力してほしいと  頼まれたとき、馬琴は内心では北斎の起用も考えたものの、「彼人ハちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざ  け、其後ハ何もたのみ不申、殊に画料なども格別の高料故、板元もよろこび申まじく候」として、結局断念し  ました。よほど北斎の難しさに懲りている様子です。(注9)※「其後」とは文化十二年刊の読本『皿皿郷談』を最後としてという意味     遙か後年、明治の鏑木清方が小説家と挿絵画家との関係を「太夫と三味線弾き」に擬えています。(注10)   北斎の場合は、三味線が自在過ぎて、さすがの馬琴も合わせかねるというのでしょう。やはり作者と画工の  間には阿吽の呼吸のようなものが働くか否かが重要のようです。   さて、清方はその太夫と三味線の絶妙な具体例として、尾崎紅葉と梶田半古との間柄を挙げました。ではそ  のような例を江戸に求めるとすれば、誰と誰になるか。やはり合巻『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦と歌川国貞の  コンビを挙げるほかありません。   ※『偐紫田舎源氏』板元・鶴屋喜右衛門 文政十二年(1829)~ 天保十三年(1842)刊   これには幸い種彦の下絵が部分的ですが遺っています。岩波の『新日本古典文学体系』の鈴木重三氏の校注  によると、種彦は、時間や場所、構図に調度品の図様から着物の模様紋様に至るまで、ずいぶんこと細かに指  示を出しているようです。それに対して国貞は実に様々な工夫を凝らして応じています。しかしそれ以上に注  目したいのは、両者にはもっと積極的なやりとりがあったことです。馬琴ように一方的な関係ではありません  でした。種彦は図案の決定に迷うと国貞に判断を求めます。また国貞は国貞で、種彦の意を酌んで、下絵にな  い図様を加えています。つまり種彦もその図様を受け入れたわけです。両者の間に強い信頼関係がないと、こ  うしたやりとりは生じません。おそらくこの種彦の柔軟性と懐の深さが、国貞に工夫を促し、ひいては作品に  生彩を与えているものを思われます。   ともあれ、江戸の戯作者と画工の関係は下絵によって、しっかり結ばれていたわけです。   こうした作者と画工との関係が明治まで及んでいたことは、これも前回示した下掲の挿絵が物語っています。  ちょうど編輯人が画工に指示を出している場面です。     近世桜田講談(小林鉄次郎編・山崎年信画・明治十一年(1878)刊)   ではなぜ明治の画工に下絵が必要だったのか。野崎左文は次のように説明しています。  「馬琴種彦等の草双紙の稿本を見ても、皆作者が自筆で下絵を付けて居るが、これも単に作者の物好きという   ではなく、実際にその必要があったのだ。それは当時の画家は絵をかく事は上手にしても、何分にも時代の   研究という事が足らず、甚(はなはだ)しいのには草双紙の挿画や俳優の舞台上の着附などを唯一の粉本とし   て筆を把る画工もあったので、時代の風俗にとんでもない誤りが起こる事がある。そこで作者はその下絵に   先ず時代(天保年間とか慶応年間とか)、時節(夏の夜とか冬の朝とか)、場所、人物の身分年齢、時によ   ると人物の服装や背景の注文まで委しく朱書して送らねばならむ事があった。この必要上から魯文、藍泉-   藍泉氏は玄人の画家-その他の人々でも大概素人画はかけたのであった」(注2)   画工は絵を上手に画くが、作品の時代や場所の風俗などには無頓着だから、放っておくと過去の草双紙を焼  き直したり、役者の舞台上の着付けをそっくりそのまま使ったりする。とても油断がならないので朱書で注意  する必要があるのだという。   当然、魯文も藍泉も自ら下絵を画きました。藍泉の場合は、そもそも藍泉の号が、彼が松前の藩士高橋波藍  に就いて絵を学んだときの画号ですから、作画はお手の物で、下絵はそれほど負担ではなかったでしょう。こ  れは例外です。しかし戯作者たるもの、絵ごころの有無にかかわらず、何としても下絵は必須です。(注11)。   明治の十年代の合巻作者たち、そのほとんどは魯文や藍泉の弟子でありましたから、師匠同様下絵をかいた  ものと思います。   さて野崎左文によりますと、当時の戯作者たちの多くは、仮名垣魯文か高畠藍泉いずれかの門下生でありま  した。それでこれを仮名垣派と柳派と呼んで色分けしていました。(柳派と称したのは藍泉が三世柳亭種彦を  名乗ったことによります)   仮名垣派に所属するのは、二世花笠文京(渡辺義方)・彩霞園柳香(雑賀豊太郎)・胡蝶園わかな(若菜貞爾)・  蘭省亭花時(三浦義方)・二世一筆庵可候(富田一郎)・岡丈紀(川原英吉)・伊藤橋塘(専三)・久保田彦作・清水  米州(市次郎)といった面々、そして野崎左文もこちら側でした。   藍泉(転々堂主人)率いる柳派には、倉田藍江・柳条亭華彦(三品長三郎)・柳葉亭繁彦(中村邦彦)・柳塢亭寅  彦(右田寅彦)・柳崖亭友彦らが所属していました。(注2)   むろんこれら二派とは別に、幕末から明治の初年にかけて活躍していた戯作者もいます。二世笠亭仙果(篠  田久次郎)・二世為永春水(染崎延房)・万亭応賀(服部幸三郎)・梅亭金峨(瓜生政和)・柳水亭種清・山々亭有人  (条野伝平)といった人々。彼らは魯文や藍泉とほぼ同世代ですから、下絵は当然画くべきものでした。     浮世絵年表 幕末-明治    合巻等版本出版推移 幕末-明治   上掲のグラフ「合巻等版本出版推移 幕末-明治」を見ると歴然ですが、明治十六、七年ころピークを迎え  た合巻の出版も、明治十九年から急激に減り始め、二十年代になるとほとんど姿を消してしまいます。そして  それと軌を一にするように、戯作者も相次いで亡くなります。   明治17年 笠亭仙果二世没(48)   明 18年 高畠藍泉(柳亭種彦三世)没(48)   同 19年 染崎延房(為永春水二世)没(48)   同20年頃 柳水亭種清、寺の住職に就く。種清は同40年没(87)   同 23年 万亭応賀没(72)。仮名垣魯文、文壇退隠。   同 26年 梅亭金峨(瓜生政和)没(72)   同 27年 仮名垣魯文没(65)   同 35年 山々亭有人没(71)   象徴的に云いますと、明治二十年代、江戸を雰囲気を体現するような戯作者はほとんど姿を消してしまいま  す。彼らの死は一つの時代が終わったことを物語っています。例の浮世絵制作システムとの関係で云いますと、  下絵を画くことを自らの義務としてきた戯作者と、その下絵にそって作画する画工との協業関係が崩壊したの  です。   ところで、これまで版本の合巻から作者と画工との関係を見てきましたが、一枚絵・錦絵の場合はどうでし  ょう。そこに下絵に相当するようなものがあったのでしょうか。   版本にも一枚絵にも落款に「応需」とあるのをしばしばみます。これは戯作者や版元の需めに応じてと、理  解できます。してみると、おそらく一枚絵・錦絵の場合も、版元側が下絵に相当するようなものを、画工に与  えていたものと思います。戯作者と違って、実際に画いたり朱書きしたりすることはないにしても、指示とい  うか口頭あるいは文書によるアドバイスはしていたはずです。その指示の出し手が、版元自らであったり、あ  るいは趣向上のアイディアを豊富に持つ好事家であったりはするでしょうが。  「『月百姿』が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の背後   には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、『月百姿』の   百番が成ったのではない」(注12)   これは明治三十九年(1906)『太平洋』という新聞に載った記事です。これによると「月百姿」は、版元の  滑稽堂・秋山武右衛門と桂花園桂花(日本橋室町の算盤商・幸島桂花)が趣向を凝らして図案を作成し、それ  を基に芳年が画いたとのこと。つまり錦絵の場合でも、画工は板元側からの指示に従って作画していたわけで  す。   さて、いうまでもなく桂花園桂花のような好事家は江戸にもいました。   嘉永六年(1853)のことです。七月ごろから国芳の「浮世又平名画奇特」という二枚続きの錦絵が、板元越  村屋平助から売り出されました。図柄は浮世又平が大津絵を画いているという変哲もないものなのですが、市  中ではこれにいろいろな噂が立ちました。例えば、浮世又平が役者市川小団次似でしかも水戸のご隠居(水戸  斉昭)を擬えているとか、藤娘は中村愛蔵でこのほど新しく将軍の奥様になる方だとか、いやあれは大奥の姉  の小路というお方だとか、こうした謎解きのようなものを、画中の人物ことごとくにやっているわけです。   市中を取り締まる町奉行はこれを世を惑わす浮説の流布だと捉えました。そこで隠密を放ちます。市中の様  子、とりわけ国芳の身辺を重点的に探索させました。すると神田佐久間町の明葉屋佐七なる人物が作画に関わ  っていることが分かりました。この佐七、報告書には「狂歌名梅の屋」とあり、また茶番や祭礼の練り物類の  趣向の巧者ともあります。つまりイベントを企画する名人なのでした。両者の関係は次のように記されていま  した。     「図取之趣向等国芳一存ニは無之、左之佐七え相談いたし候由」   「同人(佐七)は国芳え別懇ニいたし候間、同人(国芳)義、板元より注文受候絵類、図取を佐七え相談い    たし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候」(注13)   国芳は板元から注文を受けると、この佐七と相談して趣向や図様を決めるとあります。どうやら浮説の発生  源はこの佐七だと、隠密は睨んだようです。ただこれだけでは証拠として不十分らしく、作品は発売禁止にな  ったものの、国芳は佐七にはお咎めなしでした。なお板元の越村屋平助は過料(罰金)に処せられています。   参考までに「浮世又平名画奇特」関係の資料を、以下に引いておきますので参照ください。     浮世又平名画奇特 (浮世絵文献資料館所収)   この佐七、梅の屋鶴寿の狂歌名で知られた人で、名古屋藩出入りの秣(まぐさ)屋ともいわれています。商売  柄武家屋敷に出入りする機会も多かったものと思われます。国芳は天保十四年(1844)、判じ物の嚆矢とされ  る「源頼光公館土蜘作妖怪図」を出版しました。この時、水野忠邦を始めとする幕閣や改革の犠牲者を暗に擬  えているのではないかと、国芳は疑惑の目で見られました。案外梅の屋はこれにも関与していたのかもしれま  せん。   ともあれ錦絵でも、版元の強い指導力はもちろんのこと、鶴寿や桂花のような情報通や故事古典に通じた好  事家が画工の身辺にいて、下絵に相当するような図案を提供していたことは、確かでしょう。   さて明治の二十年代に入ると、明治を代表する版元の死もまた相次ぎます。清親の「光線画」を出版し、ま  た相撲絵の版元としても知られる大黒屋・松木平吉が、明治二十四年(1891)に亡くなり、その大黒屋に代わ  って「光線画」を引き続き出版し、また周延の「千代田の大奥」の版元としても知られる具足屋・福田熊次郎  が、明治三十一年(1898)に亡くなります。そして国芳の「藤原保昌月下弄笛図」や「月百姿」を出版した滑  稽堂・秋山武右衛門もまた明治三十三年(1900)に亡くなります。   浮世絵は版元を中心に戯作者・画工・彫師・摺師からなる分業システムから生み出されます。ところが、明  治の二十年代から三十年代にかけて、江戸そのものを身に纏ったような戯作者や版元たちが相次いで退場して  いきます。   なるほど画工と彫り摺りの職人はまだまだ存在しています。また歌川派最後の弟子たち、鏑木清方・池田輝  方・榊原蕉園・大野静方たちが水野年方のもとで修行を積んでいる時代でした。西洋の印刷技術が普及して、  彫り摺りの領域を浸食しつつあったとはいえ、雑誌や単行本の多色刷りの口絵などは、まだまだ木版の独壇場  でした。   しかし時代は確実に変わりつつありました。画工に下絵を与える戯作者が消滅しはじめる一方、他方では新  しい書き手の小説家が台頭してきました。明治十八年(1885)坪内逍遥の『当世書生気質』が世に出ます。こ  れ以降登場する小説家の多くは、そもそも絵入りを念頭において作品の構想を練ることなどなかっはずです。  したがって下絵などはまるで視野にはなかったでしょう。(ただし逍遥は下絵を画いています。『当世書生気  質』の挿絵については次回にふれます)   下絵がないと画けない画工は、戯作者の消滅によって仕事を失います。また新時代の小説の挿絵については、  作家本人が構想しない以上、画工本人が本文と関わって図様を自ら考案しなければなりませんので、下絵に寄  りかかってきた画工はもとより無縁です。   版元もまた時代に応じて変わりつつありました。活版印刷の導入はいうまでもなく、銅版・石版が登場して、  木版は印刷手段の一つに過ぎなくなりました。また新規参入の新興版元の中には錦絵を出版に中心に置かない  ところもぼつぼつ登場し始めます。明治の二十年代以降、木版口絵の黄金時代を築いた春陽堂・和田篤太郎の  ように、木板にこだわって浮世絵の製作システムの活用を考えた版元ですら、雑誌・単行本のような版本が主  体であり、錦絵の出版に執着することはなかったようです。   下絵を画かない小説家の登場、そして銅版・石版・写真製版の西洋印刷技術を駆使する出版社の登場、この  新しい時代の到来に、江戸以来の版元・戯作者・画工・彫師・摺師からなる木版の浮世絵界は、明治三十年代  以降、ほとんど対処できなくなってしまいます。                  (2017/10/31)  (注1)『大衆紙の源流』土屋礼子著・世界思想社・2002年刊  (注2)「明治初期の新聞小説」野崎左文著。『早稲田文学』大正十四年三月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上)に拠った  (注3)『明治世相百話』山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊  (注4)『明治初年より二十年間 図書と雑誌』所収「明治十年前後の書店配置図 日本橋から芝まで」浅野文三郎著        洗心堂書塾・昭和十二年(1937)刊  (注5)『江戸絵から書物まで』所収「(ち)大錦、画作者、発行者」朝野蝸牛編・朝野文三郎出版・昭和九年(1934)  (注6)『こしかたの記』所収「鈴木学校」鏑木清方著・昭和三十六(1961)年刊  (注7)『早稲田文学』第2号所収「彙報」明治廿九年(1896)年一月廿一日刊  (注8)『馬琴書翰集成』第五巻 天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(書翰番号-56)  (注9)『馬琴書翰集成』第一巻 文政元年(1818)五月十七日 鈴木牧之宛(書翰番号-15)  (注10)『こしかたの記』所収「横寺町の先生」鏑木清方著・昭和三十六(1961)年刊  (注11)『新聞記者竒行傳』初編 隅田了古編・鮮齋永濯画・墨々書屋・明治十五年(1882)刊       全文は本HP「浮世絵事典」た行「高畠藍泉」にあります  (注12)『明治東京逸聞史2』森銑三編「太平洋三九・一・一五」記事。『東洋文庫』142  (注13)『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」第二六七件   (3)明治期 浮世絵の終焉 4    H 江戸と明治、感性のずれ   明治十八年(1885)六月から翌十九年の一月にかけて、坪内逍遥は「春のやおぼろ」の戯名で「一読三  歎」という角書をもつ『当世書生気質』を出版しました。本文活版、表紙・口絵・挿絵は木版、そして製  本は袋綴じといういかにも明治的な和洋折衷の体裁です。しかも第一号から第十七号まで、分冊の雑誌と  して一挙に出版されました。近代小説の先がけとされる記念すべき作品ですが、実は浮世絵師も大いに関  わりがありました。挿絵の画工としてです。ただその起用には曲折がありました。画工名は次の通り。   1-3号 口絵(1号) 署名「梅蝶楼国峰画」挿絵 署名「梅蝶国峰画」「国峯画」(6-7月刊)   4号   挿絵 署名「葛飾筆」  (7月刊)   5・8号 挿絵 署名「長」    (8・9月刊)   6-7号 挿絵 署名「多気桂舟画」(8-9月刊)   9号   口絵 署名「梅蝶楼国峰画」挿絵 署名「多気桂舟画」(10月刊)   10-17号 挿絵 署名「多気桂舟画」(10月-翌年1月)      歌川国峰・葛飾正久・長原孝太郎(号止水)・武内桂舟。八月の6号からは桂舟に落ち着いたようですが、  最初の六、七月に国峰・葛飾正久・長原止水と三人代わっています。   この間の事情について、坪内逍遥は後年次のように回顧しています。  「書生気質の下絵が残つて居つたとは全く驚いた。いよ/\旧悪露顕に及んだ次第で。実は書生気質を書き   始めてから、四人ほどやつて来た人がある。私は「来る者拒まず」流だが、此方から尋ねて行くなんとい   ふ事はしない方で、みんな向うからやつて来た人である。長原君も向うから見えた。あの頃長原君は神田   孝平さんの書生どころをして居られたが、書生気質の五号までの挿絵を見て「あれではいかん。もつと新   しいものでなくてはいかん。私に書かせて下さい。」といふ話で、それは何よりと思つて喜んで此方から   頼んだ。私は大へん面白い絵だと思つて居つた。ところが、長原君にお気の毒であつたが、新し過ぎて、   どうも世間受けがしなかつた。あの頃は矢張り浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかつた様な有様   で、残念であつたけれど二枚だけで中止して貰つた次第ある〟(注1)   画工をどのようにして募ったものかよく分かりませんが、逍遥の許にやってきたのは国峰・正久・止水・  桂舟の四人。「みんな向こうからやつて来た」と云うのですから、四人とも強い意志をもってみずから志願  したのでしょう。   さて興味深いのは逍遥もまた下絵(挿絵の指示書)を画いていたということです。それも国峰や正久とい  ったそもそも下絵を必要とする浮世絵系の画工だけに止まりません、洋画の長原止水にも画いているのです。  ですから下絵の用意は作者の義務というような自覚が、逍遥にはあったものと思われます。   参考までに、止水への下絵が残っていますから、それを引いておきます。     塾舎の西瓜割り(下絵)早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」     第八号挿絵 国文学研究資料館「近代書誌・近代画像データベース」   この回顧の中で目を惹くのは、次の二点です。   一点目は、浮世絵流の挿絵にもの足りなさを感じる雰囲気が、若い作家や画家の卵の中に生まれ始めてい  たということです。   「あれではいかん。もつと新しいものでなくてはいかん。私に書かせて下さい」と割って入った止水は言  うまでもありません。それに応じて早速起用した逍遥もまた、国峰・正久の浮世絵流の画風に飽き足らない  思いを抱いていたわけです。しかも逍遥には止水の挿絵が「大へん面白い」と感じられました。逍遥と止水  には感性において相通ずるものがあったといえます。   彼らはみな若かった。坪内逍遥は安政六年(1859)生まれの二十八歳。長原止水、元治元年(1864)生ま  れの二十三歳。そして歌川国峰が文久元年(1861年)生まれで二十六歳。武内桂舟も文久元年生まれで二十  六歳。(葛飾正久は不明)みな二十歳代です。   ところが世代は同じでも、逍遥・止水と国峰・正久とでは、感性の面においてずいぶん大きな隔たりがあ  りました。明治十年代、逍遥は東大、止水はその予備門で学んでいます。彼らは若くして西洋の文物に触れ  ていたわけです。一方の浮世絵師はというと、浮世絵の製作システム圏内で育ちました。三代豊国(初代国  貞)直系の孫である国峰は言うまでもありません。北斎の孫を自称したとされる正久もまた、親方絶対の徒  弟制度の下で修行したはずです。多感な時期、過ごした環境が両者は大きく違いますから、そこで育まれた  感性に隔たりがあるのは当然のことです。   西洋文学を修めた逍遥、そして西洋医学を志し後に写生重視の洋画家に転ずる止水、彼らの目には、国峰  や正久の絵が当世を活写しているとはとても映らなかったのでしょう。ここに明治と江戸との感性のズレが  あります。西洋をかいま見た明治人となお江戸を引きずる明治人とのズレです。   とはいえ今更「あれではいかん」と云う国峰・正久に戻るわけにもいきません。そんなところに現れたの  が武内桂舟でした。逍遥は気に入ったのでしょう、その後の挿絵はすべて桂舟が担当しています。なぜ桂舟  に落ち着いたのか、これには桂舟の画風が大きく関わっているようです。桂舟は狩野派の許で修行を積み、  一時国芳にも就いたとされます。したがって「あれではいかん」と感じさせるような旧弊がまとわりついて  いても不思議ではありません。ところが鏑木清方の言を借りると、彼の場合は「伝統の画法を師伝で学んだ  経歴」があるにもかかわらず、その影響が「あまり認められない」画風であって、その「型に嵌り易い訓練  のない」ことが、結果として「この人の新鮮味を助けた」ということになります。つまり修行時に画派から  受けた影響の少なさが逆に幸いしたというわけです。(注2)     浮世絵の製作システム   二点目は、それにも拘わらず止水の「新しいもの」が「新し過ぎて、どうも世間受けがしなかつた」とい  う点です。その原因を逍遥は「あの頃は矢張り浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかつた」としてい  ます。世間では江戸の雰囲気を漂わせる浮世絵師の絵が依然として支持されていたというのでしょう。   こちらのズレは江戸と明治のズレという点では同じですが、前述した止水や国峰の間にあるような絵師同  士に横たわるズレではありません。絵師と世間一般との間に存在する感性のズレです。このズレが大きいと  絵師の真価が認められるには時間がかかります。   実はそうした例が錦絵の世界にもありました。小林清親のいわゆる光線画です。   井上和雄著『浮世絵師伝』によると、清親は、明治の初年、横浜で写真術を習い、次にチャールズ・ワー  グマンの下で油絵を学び、その後、河鍋暁斎や柴田是真に就いて日本画を学んだとされます。和洋折衷です  が、清親の場合は西洋表現の下地があっての折衷ですから、当時の絵師としてはずいぶん変わった経歴の持  ち主だといえます。その清親が明治九年(1876)年から、西洋風の東京名所絵や「猫と提灯」といった光線  画を発表し始めます。最初の版元は大黒屋・松木平吉、そして途中から具足屋・福田熊次郎に交代して、明  治十四年(1881)まで出版されました。当初は売れ行きがとてもよかったと伝えられています。大いに人の  目を惹いたようです。  「欧化主義の最初の企ての如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る   売れたものである」(注3)     淡島寒月は新しもの好きでしたからなおのこと、西洋「水彩画」のような光線画に魅了されたものと思わ  れます。確かに光と影を効果的に使って、江戸から明治へと移りゆく光景を捉えた表現はこれまでにないも  のでした。その上、題材としての西洋風建造物や西洋式の風俗もまた、視覚上の快感をもたらしたに違いあ  りません。ところがこれが長続きしなかった。明治十四年には打ち切りになってしまいます。   前出の山本笑月は昭和に入って次のように回想しています。    「今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて一向さわがれず」  「翁没後、大正七、八年の好況時代にその作品がますます歓迎されて、向島堤上雪景大判二枚続きが二千円、   猫が提灯の中の鼠をねらっている横一枚画が今日八百円と聞いては、翁生前の不偶がいよいよもって涙で   ある」(注4)      坪内逍遥は明治十八、九年の時点で「浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかつた」と証言していま  す。まして清親の光線画が世に出たのは明治九年のこと。この「欧化主義の最初の企て」と目すべき光線画  が、一時的な物珍しさに止まったのは仕方がなかったことなのかもしれません。   清親は大正四年(1915)六十九歳で亡くなりますが、清親の光線画が高く評価されるようになるのは、そ  の死後だと、笑月は云います。その間、清親・松木平吉・福田熊次郎らの先見性も暫く日の目を見なかった  わけです。世間が清親や両版元のような感性に追いつくにはずいぶん時間を要したのでした。   ところで清親の画歴を見ると、興味深いのは、彼もまた武内桂舟同様、浮世絵の製作システム圏外から浮  世絵界に入ってきたという点です。明治十年代から二十年代にかけて、挿絵の世界に外部から参入してきた  絵師は他にもたくさんいます。小林永濯・安達吟光・尾形月耕・渡辺省亭・松本風湖らがそうです。浮世絵  界、とりわけ挿絵や口絵の世界は、彼らの参入によって一層活性化しました。もっとも鏑木清方によると、  最も影響力を持ったのは菊池容斎(天明八年~明治十一年(1788-1878))だそうで、中でもその著書『前  賢故実』は「新風を生む示唆を与えた」とされます。(注5)   浮世絵師の中にも容斎の影響は流れ込んでいます。例えば、清方の師匠・水野年方は芳年の門人ですが、  一方で省亭にも就いて学んでいます。省亭は容斎門人。ですから年方は省亭を通して容斎に学ぼうとしたの  です。浮世絵の世界、江戸の武者絵は明治になると歴史画へと脱皮しますが、そこには菊池容斎が大きな役  割を果たしていたのです。   ともあれ、浮世絵の製作システム圏外から参入してきた絵師たちによって、明治の浮世絵界が大いに刺激  を受けたことは明らかです。これを逆に云うと、江戸から続く浮世絵の製作システム圏内には、自らを活性  化するエネルギーがあまり残っていなかったいうことになります。  I 二極化する浮世絵師   明治二十九年(1896)の正岡子規の随筆にこのようなくだりがあります。  「小説雑誌の挿絵として西洋画を取るに至りしは喜ぶべき事なり、其の喜ぶべき所似(ゆえん)多かれど、第   一、目先の変りて珍しきこと、第二、世人が稍々西洋画の長所を見とめ得たること、第三、学問見識無く   高雅なる趣味を解せざる浮世絵師の徒(と)が圧せられて、比較的に学問見識あり高雅なる趣味を解したる   洋画家が伸びんとすること、第四、従来の画師が殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の事は之を画く能は   ざりしに反し如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること、第五、日本画が好敵手を得た   る等を其主なるものとす」(注6)   正岡子規はこのころになって小説雑誌の挿絵に西洋画が受け入れられ始めたことを喜んでいます。また写  生を重視した子規らしく「如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること」を歓迎しています。  とはいえ明治の二十年代後半になってやっとこうした風潮が出できたわけで、逆にいえば、それほど挿絵の  世界では浮世絵師の勢力が圧倒的だったということなのでしょう。   それにしても子規の目に映じた浮世絵師像は強烈です。「学問見識無く高雅なる趣味を解せざる徒(と)」  であり、「殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の事は之を画く能はざりし」とあります。なるほど従来ほと  んどの浮世絵師は、作者の指図に従って、先人の考案になる「模型」を取っ替え引っ返え再利用・再加工す  るばかり、いわば粉本の使い回しで完全にマンネリに陥っていたのです。明治十年代、合巻が盛んに出版さ  れたので、表面的には勢いがあるかに見えましたが、その実、裏では頽廃が進んでいました。  「鮮斎永濯のもあったが上品だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜ないためだか引立ちが悪く、楊   州周延のは多々益(マスマ)す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもただ芝居臭く   ばかりあって生気が乏しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった」(注7)   これは明治十年代の合巻に関する三田村鳶魚を感想です。合巻が、正岡子規の「模型に束縛せられ模型外  の事は之を画く能はざりし」という状況に陥っていたことは確かです。これでは大衆から飽きられるのも当  然でした。   この八方ふさがり、挿絵ばかりではありません、実は錦絵の方も似たような状況に陥っていました。彫刻  家の高村光雲に次のような証言があります。これも明治二十九年の記事です。  「今の錦画を好む人は、多くは古画を賞して新画に身を入れず、注文主たる板元最も昔と相違せり、近くは   三代豊国の存せる頃までは、其の注文主たる板元は、自身に下図を着け、精々細かに注文して、其の余を   画工に委すの風なりしが、今は注文者に寸毫の考案なく、画工に向て何か売れそうな品をと、注文するの   が常なり、随うて画工も筆に任せてなぐり書きし、理にも法にも叶はぬ画を作りて、識者の笑ひを受くる   に至る(中略)、要するに、小梅堂の古実に乏しきは、注文人の放任に過ぎずとするも、国周翁の滅茶/\   なるは、翁自ら責なくばあらず。此の勢もて推すときは、今後十年を出ずして、東錦といふ江戸絵なるも   のは、単に玩具屋の附属品となり、終に美術としての価値なきに至るべし」(注8)   (「(中略)」はこの記事中のものです)   この光雲の言も辛辣です。最近の版元は売れそうな絵を画いてくれというばかりで、きちんとした「下図」  (下絵・指示)を画工に出さなくなった。そのために画工は故実を踏まえない「理にも法にも叶はぬ画」を  平気で殴り画きすると云うのです。   この記事でまず興味を惹くのは、光雲もまた下絵を考案するのは版元側だと見ている点です。私たちは版  元や作者たちが用意する下絵の存在をあまり意識していません。浮世絵を浮世絵師の個人的な営為として捉  えがちです。つまり浮世絵師を画家という視点で捉えているのです。しかし逍遥や光雲の見方はどうやら我  々とは違うようです。浮世絵を、下絵を考案する版元とそれに基づいて作画する画工との共同作品として見  ているのです。   ともあれ、明治二十年代になると、画工に下絵を用意しない無責任な版元がいる一方で、国周のようにメ  チャメチャな絵を平気で画く画工も出てきました。版元や画工にこんな無責任が横行する現状では、十年以  内には玩具屋の附属品になり果てると、光雲は警鐘を鳴らしたのです。事実、的中するのですが。   むろんすべての版元がそうだったわけではありません。前回触れましたが、明治十八年(1885)から同二  十四年(1891)にかけて「月百姿」(芳年画)を刊行した滑稽堂・秋山武右衛門のように、博覧強記の好事  家・桂花園桂花の智恵をかりて、緻密な下絵を準備する版元もまだいました。しかし時代は刻々と変化して  いました。版元の新旧世代交代が進むにつれ、また西洋の印刷術が浸透するにつれて、製作コストの制約か  ら、緻密な下絵を用意する版元が少なくなっていったのです。   明治十年代の後半から二十年にかけて、こうした状況が続きました。自然、長原止水や正岡子規同様「あ  れではいかん」と云う人々が増えてきます。もちろん浮世絵師の中にもいました。   ここで浮世絵師は大きく二手に分かれます。   版本挿絵の例で見てみましょう。前にも提示しましたように、明治十年代までは、合巻が盛んに出版され  多くの浮世絵師が起用されていましたが、明治二十年代に入ると、合巻そのものが時代にそぐわなくなった  ものか、急激に人気を失って出版がパタリと止まります。     合巻等版本出版推移 幕末-明治     すると彼らの多くは挿絵から退場を余儀なくされました。梅堂国政・歌川種房・楊洲周延・豊原国周・新  井芳宗・歌川国峰といった面々です。一方、月岡芳年やその門弟、そして尾形月耕らは、坪内逍遥・二葉亭  四迷・山田美妙らの新しい小説家が登場した以降も、引き続き活躍しています。   両グループとも、少年の頃から師匠に弟子入りして、浮世絵の製作システム圏内で修行を積んだという点  で同じです。しかしそれが二極化していきます。正岡子規の云う「模型」すなわち粉本で事を済ますほかな  い人々と、新時代を表現するに相応しい画き方を追究した人々とに分かれるのです。そして前者のほとんど  は、新時代の小説の挿絵に適応できず姿を消してしまいます。   その代わりというか、ここに新たに小林永濯・尾形月耕・武内桂舟・松本楓湖・小林永洗・渡辺省亭・小  林清親・水野年方・歌川国松といった人々が新規に参入してきます。   この中で浮世絵の製作システム圏内で修行を積んだ絵師は年方と国松のみ、それ以外はみなその圏外で修  行をした人々です。永濯や桂舟は狩野派、楓湖や省亭は菊池容斎門、清親は西洋画と日本画を学び、月耕は  独学とされています。つまり挿絵はもう浮世絵師の独壇場ではなくなっていたのです。  〈以下2019/07/10加筆〉   明治二十二年(1889)二月刊の文芸誌『都の花』2-8号の巻末に次のような記事が出ています。    「此等小説の為め挿画を引受尽力せられし絵かきの隊長連は左の通り。亦た以て此等絵ばかりを諸君が御覧   になるも我国絵画美術の一端を知らることあるべし    惺々暁斎  鮮斎永濯 渡辺省亭 松本楓湖 河辺御楯 鈴木華邨 月岡芳年    五姓田芳柳 松岡緑芽 尾形月耕 武内桂舟 後藤魚洲 小林清親〟   これは『都の花』(金港堂・明治二十一年創刊)を彩る挿絵画家の紹介です。「此等小説」とは山田美妙  や幸田露伴など新進作家の小説をさします。これらの画家は『都の花』に限りません。明治二十年四月創刊  の文芸誌『新著百種』(吉岡書籍店)にしても、芳年・緑芽・省亭・年方・桂舟・楓湖・永濯等、やはり同  様の顔ぶれです。またこちらの執筆陣も、尾崎紅葉・石橋思案など新たに頭角を現しつつある作家でした。   これまで浮世絵界は読本・合巻といった新ジャンルが誕生するたびにその挿絵をことごとく担ってきまし  た。京伝・馬琴・種彦等の挿絵を担ったのは、初代豊国・北斎・英泉・国貞等、浮世絵製作システム圏内で  生まれ育った浮世絵師たちでした。しかし明治の今、洋画に転じた芳柳を除けば、ここには芳年とその弟子  ・年方がいるのみです。おそらく、明治の新しい文芸の挿絵を担える人材は、もはや浮世絵界にはほとんど  いない、とこれまた新興の出版元、金港堂・原亮三郎の目には見えたのであろうと思います。  〈以上2019/07/10加筆〉   さて、明治二十年代の文芸の世界を見渡しますと、逍遥・美妙ら新時代の小説家は、仮名垣魯文や高畠藍  泉らの戯作者とは無縁のところから登場してきました。魯文や籃泉は十辺舎一九や柳亭種彦らの戯作者と繋  がっていますが、逍遥や美妙は戯作者とは断絶しています。つまり逍遥や美妙は浮世絵の製作システム圏外  から登場してきたのです。してみると、明治の文芸界は挿絵の画き手も小説の書き手も、浮世絵の製作シス  テム圏外の人々が担い始めたといってよいのでしょう。   参考までに版本の出版状況の示す資料を引いておきます        浮世絵年表 幕末-明治     版本年表 明治元年~     挿絵年表(明治逐刊・単行本)(未定稿)   a 挿絵から退場した浮世絵師   さて、退場を余儀なくされた浮世絵師たちはその後どうなったのか。   明治二十三年(1890)の読売新聞に次のよう記事が出ています。  「押絵の顔ハ一切画工国政の担当にて、夏秋の頃にありてハ、其(その)書き代(しろ)平均一個一厘五毛位な   るも、冬の初めより年の暮に至りてハ、上物即ち顔の長(た)け一寸より一寸五分までのもの一個に付き三   匁乃至(ないし)五匁なり。然るに今年ハ其の景気殊に悪(あし)く、目下の所にて一個漸く二匁なりと云ふ」(注9)   羽子板用か、押し絵の顔一個1厘5毛(1円=100銭・1銭=10厘・1厘=10毛)という手間賃。3匁は(1円=  100銭=60匁)で換算すると1/20円で5銭に相当、5匁は約8銭、2匁は約3銭に相当します。朝日新聞社刊の  『値段史年表』によると、明治二十年頃、そば一銭とあります。つまり六、七個仕上げてそば一枚という計  算になります。ついでに錦絵の値段はというと、明治十二年頃出版された芳年の三枚続が6銭ですから、一  枚2銭ということになります。  (下出、大倉孫兵衛板「徳川治蹟年間紀事・二代台徳院殿秀忠公」の画像に「定価二銭」とありますので参照してください)   この手間賃がこの時代の報酬として高いのか低いのか分かりませんが、量産品の仕事であることには違い  ありません。この国政は梅堂国政でしょう。十年代たくさんの合巻に挿絵を画いていた国政も、二十年代に  なると、工芸品の数をこなす仕事に就いていたわけです。幸いというべきか、この当時この手の仕事は他に  まだまだありました。   これは明治二十五年の読売新聞(原文は漢字に振り仮名付、( )はその一部分です)  〝歌川派の十元祖   此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを数   (かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者といふ   にハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ     凧 絵  元祖 歌川国次  猪口絵   元祖 歌川国得     刺子半纏 同  同 国麿  はめ絵   同  同 国清     びら絵  同  同 国幸  輸出扇面絵 同  同 国久・国孝     新聞挿絵 同  同 芳幾  かはり絵  同  同 芳ふじ     さがし絵 同  同 国益  道具絵   同  同 国利   以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵が   ける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今尚其   遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(いた)く夫   (か)の両人を尊び居れる由」(注10)   元祖十人の内八人は故人ですが、元祖というからには、この仕事ジャンルが明治二十五年の時点でも存続  していたのでしょう。子供向けの手遊びから実用の工芸品の類まで、まさに高村光雲の云う「玩具屋の附属  品」とでもいうべきジャンルのものです。時代にふさわしい表現画法を身につけることができなかった画工  たちは、江戸から続く浮世絵の制作システム圏内に止まって、こうした量産品に生活の糧を求めほかなかっ  たのです。しかしこの分野もいずれは機械印刷に取って代わられます。   木版画はもともと大量生産をすることによって低コストを実現してきました。とはいえ機械印刷の低コス  トには敵いません。しかも機械印刷の方には技術革新によるコスト低減の余地はありますが、木版にはあり  ません。明治期、木版の技術は高度に洗練されましたが、それを駆使しようとすると、手間がかかりますか  ら、製品値段にはね返ります。木版を大量生産用の印刷メデイアとして位置づけるかぎり、機械印刷に淘汰  されるのは必然なのです。   b 画工から画家へ   そもそも浮世絵は、当世を活写するに足る画き方を追究しつつ、評判高い人物や最新の景物を表現してき  ました。このような伝統が流れているわけですから、それに続こうとする浮世絵師が現れても不思議ではあ  りません。ただそのためには、逍遥・止水と国峰・正久との間に横たわっていた感覚のズレを浮世絵師側が  取り除かねばなりません。このズレを克服するために当時の浮世絵師は次の二点を重視したようです。   1 写生の重視  「大蘇芳年先生丸屋町に住する頃訪問せしに、座敷に小児の遊ぶ様な事をして、弟子に棒を持せ尻をまくら   せ敷居に棒を突き掛け、又々うんと力を入れろと、もう一度うんと張つてと云ふを傍で見て居た。後で考   へて見たら、徳川十五代記三枚続の(万孫出版)の内船にとまを掛け、将軍が乗る処の船頭が棹を差しつ   ツ張る腰の工合を写生したものであつた。此行動は浮世絵の大家だと思つた」(注11)   この芳年の三枚続は、大倉孫兵衛版「徳川治蹟年間紀事 二代台徳院殿秀忠公」です。芳年はこれを画く  にあたって、弟子たちにさまざまなポーズをとらせて、手や足腰の布置、筋肉の動き具合などを観察してい  たのです。要するに、粉本に盲従しないで自分の目を信じたわけです。芳年の写生重視はずいぶん徹底して  いたようで、鏑木清方は「芳年は毎日画く新聞の挿絵にも、一々写生に拠った」と証言していているほどで  す。そしてこの写生重視は門人の水野年方、さらにその門人の清方に受け継がれていきます。(注12)   写生の重視自体は言うまでもなく明治の芳年に限りません。歌麿の『画本虫ゑらみ』や北斎の『北斎漫画』  を見れば一目瞭然です。後世の名を残す絵師はみな写生の達人でもあります。つまり芳年はこれらの先覚に  倣い、写生という基本に立ち返ることによって、この閉塞状況を打開しようとしたのでしょう。それは必然  的に、浮世絵の製作システム圏内に漂う旧弊、正岡子規の言葉を借りれば「模型」による「束縛」を清算す  ることの他なりません。   さてこのエピソードは芳年の丸屋町時代のものとあります。その居住は明治十一年(1878)頃とされてい  ますので、この出版はそれ以降のものと思われます。ちなみにこの錦絵の刊記には芳年の住所が「南金六町」  とあります。
   徳川治蹟年間紀事 二代台徳院殿秀忠公 三枚続(中)大蘇芳年画(国立国会図書館デジタルコレクション)   次は小林清親のエピソードです  「この大家が晩年の不遇は実に気の毒であった。向島に住んで、僅かに新聞社の注文で時事漫画を描くくら   いのもの、それでも写生は熱心で、吾妻橋へ往復の一銭蒸気の中から大川の流れを写した本の写生帳が二   冊あって、実に奇抜な波紋をいろいろ描いてあった」(注13)   前述したように清親はそもそも西洋画を学んでいましたから、写生の重要性は修業時代から培われていた  はずです。芳年は写生重視を人物像に向けましたが、清親は光線画でそれを自然や市中に向けました。とは  いえ、人物に向けなかったわけではありません。明治十三年あたりからいわゆる「ポンチ絵」を画き始めま  す。こちらはいってみれば当世の人物や世相の写生ですから、やはり清親画の基礎土台には写生があったも  のと思われます。   写生を重視する姿勢はこの二人に限りません。これはどうやら時代の趨勢でもあったようで、芳年とは兄  弟弟子の後藤芳景もまた次のように語っていました。  「浮世絵の真意義は、写生を画になほすにあり、然れども今日の急務は、まづ写生に専心するにあり、徒に   畸状妄想をゑがきて、実際を離るゝは人を誤るもの、写生に熟達するに至らば、おのづから美術の秘義の   写生にあらざるを悟らん」(注14)     芳景は浮世絵の本義が写生にあるとは考えていません。しかし目下の急務は写生に専念することだと云い  ます。そうしてこそ写生を超えた浮世絵本来の意義にたどり着けると云うのです。   さらにこの芳景の言を引いた記者は次のように補足します。  「所謂浮世絵の写生的傾向は、今四五年前かたより、一般に隆興し来たれるは、事実也、而して容斎派及び   西洋画は、明に此の傾向を誘致するの一縁たりしなり」(注14)   明治二十年代、浮世絵界では写生が一大スローガンになっていたようです。菊池容斎派の画業や西洋画に  触れたことで、この傾向にますます拍車がかかりました。   写生の重視は正岡子規の云う「模型」の「束縛」からの解放に他なりません。それはまた徒弟制度下の修  行で身についた旧弊を洗い流すことに通じます。西洋文物と江戸の名残が混在する明治の当世を表現するに  はどうしたらよいのか、明治の浮世絵師たちはその手がかりを写生に求めたのです。   2 下絵をみずから考案する画家へ   鏑木清方は師匠水野年方の家の様子を次のように回想しています。  「歴史画に熱心な先生は、従って武具、甲冑に興味が深く、家名は忘れたが、京橋弥左衛門町か、佐柄木町   かの東側に在った武具屋から腹巻きだの、籠手脛当やら買い込まれるのが、参考品とはいえ、唯一の道楽   でもあったのだろう。(中略)いろいろ蔵書が収めてあったが、後のように調法な復刻本のない時分なの   で、「集古十種」や「貞丈雑記」「軍器考」などが、かなり場を取って積み重ねられていた」(注15)   『集古十種』『貞丈雑記』『本朝軍器考』いずれも有職故実を考証した書物です。年方はなぜこれらを身  辺に集めたのか。道楽には違いないのでしょうが、言うまでもなく下絵を考案するためです。   時代は下絵をみずから考案するよう絵師に求め始めたのです。前述してきたように、これまでこうした書  物は、版元や戯作者が画工への指示を与えるべく用意していました。    「宗伯ヲ以、尾張町英泉方へ、端午かけ物料あやめ兜の図画稿壱枚、うら打唐紙、并ニ絵の具代等、もたせ   遣ス。八時比出宅、薄暮帰宅。但、武具訓蒙図会一ノ巻、英泉へかし遣ス」(注16)   これは文政十年(1827)の曲亭馬琴の日記の中のくだりです。馬琴は嫡男の宗伯を使わして、渓斎英泉  に端午の節句に用いる掛軸の作画を依頼しました。その際、馬琴は「あやめ兜」の図柄を『武具訓蒙図彙』  (湯浅得之編・貞享元(1684)年刊)に拠って指示したのです。   明治二十七年(1894)仮名垣魯文が亡くなって、江戸以来の戯作者は消滅しました。また明治三十三(19  00)年には『月百姿』を企画した版元の滑稽堂・秋山武右衛門が亡くなります。これを象徴的に云えば、浮  世絵界は、高村光雲の云う「注文主たる板元」に「寸毫の考案」もない時代に入ったというわけです。言い  換えると、時代はもはや他人の下絵を頼りにするような画工を求めてはいないということになります。絵師  はみずから下絵を考案せねばなりません。さらに挿絵についていえば、絵師は小説の内容とは無関係ではい  られません。むしろ積極的に関わらねばならないのです、つまり作品に主体的な読みを入れる必要が出てき  たわけです。    「第八章『咄嗟の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き』から『緑樹陰愁ひ、潺湲(せんくわん)声咽(む   せ)びて、浅瀬に繋れる宮が軀(むくろ)よ』まで、文字にして二百字あまり、試験前の学生のように、築   地川の川縁を往きつ戻りつ繰りかえしては諳んじた。何かで見たオフェリヤの水に泛ぶ潔い屍を波文のう   ちに描きながら」(注17)      これは明治三十五年(1902)鏑木清方が『金色夜叉』のお宮水死の場面を画くよう勧められた時のことを  回想したものです。清方は尾崎紅葉の文を何度も諳んじて内容を自らのものにします。そしてそのうえで、  作品の流れにそったイメージを思い起こします。   この小説と挿絵との関係を『早稲田文学』の「彙報」記者は次のように記しています。  「小説の挿画は作者の筆にて悉し難き所を補ひ、作中の人物及び事柄を有形に現はし、読者の目を悦ばしむ   ると共に、一層感動を深からしむるが本旨なるべし」(注18)   前回触れたように、鏑木清方は作者と挿絵画家との関係を「太夫と三味線弾き」に喩えていました。まさ  にこの「補ひ・現はし・喜ばしめ・感動を深からしむる」という協業関係なのです。これを作者と挿絵絵師  が阿吽の呼吸で行わねばならないのです。(注19)   それには、自らの内発的なモチーフによってテキストを読み、作者の意向を勘案しながら自ら下絵を画く  必要がありました。こうなると挿絵師はもはや画工ではなく画家です。   それにしても、明治の二、三十年代は、浮世絵師には分岐点でありました。写生や有職故実・時代考証を  重んじて、みずから下絵を考案する浮世絵師がいる一方で、先覚の粉本に拠って量産を請け負う浮世絵師も  いました。こうして浮世絵界は、浮世絵の製作システム圏外に出て主体的に作画する画家と、圏内に止まっ  て注文に応じて作画する画工職人とに分かれたわけです。            (2017/12/30)  (注1)『明治文学名著全集』第1巻 付録六「作者余談」東京堂 大正15年(1926)刊  (注2)『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」)鏑木清方著 昭和36(1961)年「あとがき」        以下、引用は中公文庫本   (注3)『梵雲庵雑話』「私の幼かりし頃」淡島寒月著 大正6年(1917)記 引用は岩波文庫本  (注4)『明治世相百話』山本笑月著 昭和11年(1936)刊 以下、引用は中公文庫本        上段記事「風俗」の項「絵草紙屋の繁昌記」        下段記事「書画・骨董」の項「明治の錦絵界を展望」  (注5)『こしかたの記』「年方先生に入門」  (注6)『松蘿玉液』正岡子規著 明治29年(1896)随筆 引用は岩波文庫本  (注7)『早稲田文学』「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著 大正14年(1925)3月号        引用は岩波文庫本『明治文学回想集』所収より  (注8)『早稲田文学』第9号「彙報」明治29年5月号  (注9)『読売新聞記』「押絵の景京」明治23年(1890)11月30日記事  (注10)「読売新聞」明治25年(1892)12月19日記事  (注11)『江戸絵から書物まで』「(と)明治年間執筆画家名略」朝野蝸牛編 昭和9年(1934)刊  (注12)『うたかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」  (注13)『明治世相百話』「明治の錦絵界を展望」山本笑月著 中公文庫版 原本は昭和11年()刊  (注14)『早稲田文学』第9号「彙報」明治29(1896)年5月1日刊  (注15)『こしかたの記』「年方先生に入門」鏑木清方著・昭和36年刊  (注16)『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」文政10年(1827)年2月9日 中央公論社 昭和47年(1972)刊  (注17)『こしかたの記』「横寺町の先生」  (注18)『早稲田文学』第18号「彙報」明治29年(1896)10月1日刊  (注19)『こしかたの記』「横寺町の先生」   (3)明治期 浮世絵の終焉 5(完結編)  J 工芸品から美術品へ   明治二十三年(1890)十二月、『美術世界』という木板彩色摺の美術雑誌が春陽堂から出版されました。  発行人・春陽堂主人和田篤太郎の「美術世界発行の主意」によると、この雑誌の目的は前年十月に創刊さ  れた「絵画雑誌の王にして美術海上の灯明台」たる『国華』と同様、「美術の大光明を発揮して」「後進  に意匠修練の模範」を示し、ひいては「絵画の大進歩」を促進すことにあると云います。ただその方法は  『国華』とは異なり、収録作品は流派・新古を限らず「現存諸名家の新図」をも加え、また「我誌は石版  銅販等を用ゐず」としました。これは、古美術中心で口絵は木板でも挿絵にはコロタイプを駆使する『国  華』との違いを意識したものでしょう。   参考までに「美術世界発行の主意」全文と第一巻から第二十五巻(明治27年1月刊)までの目次を以下示   しておきます。(注1)     美術世界(美術世界発行の主意・全巻の目次・また絵師名を収録作品の多い順に並べてあります)   絵師の顔ぶれは、古画では十二世紀の鳥羽僧正(覚猷)から、二十世紀・昭和年代の絵師、浮世絵関係  でいえば小林永興まで、約百有余名、実に沢山の絵師が登場してきます。江戸時代の絵師では、円山応挙  や英一蝶・尾形光琳・松村呉春・岩佐又兵衛・英一蝶・与謝蕪村・渡辺崋山等と肩を並べて、次のような  浮世絵師の作品が収録されています。(※数字は全25巻中収録された巻の数)   故人   11 葛飾北斎    6 河鍋暁斎  喜多川歌麿〈明治22年4月没〉    5 宮川長春  奥村政信    3 菱川師宣    2 鳥文斎栄之 歌川豊国 立斎広重 大石真虎    1 鳥居清信  西川祐信 鳥居清満 勝川春章 菊川英山 渓斎英泉 歌川国芳      堤等琳   高嵩谷         現存    3 月岡芳年 水野年方〈芳年は明治25年6月没   また浮世絵の製作システム内の修行を経ない絵師で、明治期、浮世絵を画いた絵師は次の通り。      菊池容斎門下   18 渡辺省亭(25巻に個人特集)   15 三島蕉窓    5 松本楓湖    2 鈴木華邨 武内桂舟      小林永濯門(狩野派)   10 小林永濯〈明治23年5月没〉    3 富岡永洗    1 小林永興     浮世絵の製作システム   これらの絵師と収録作品の選定に当たったのは、編集者の渡辺省亭と出版元の春陽堂主人・和田篤太郎で  しょうが、序文を寄せた岡倉天心の意向も、どの程度か分かりませんが、反映しているものと思われます。  北斎・暁斎・歌麿・長春・政信・師宣はさすが入るべくして入っています。永濯が北斎に次いで多いのは、  狩野派で修行したことが、生粋の浮世絵師にはない品の良さを、彼の浮世絵にもたらして、それが明治の人  々の好みに合っていたからなのでしょう。なおこの『美術世界』で一番収録数の多い絵師は実は菊池容斎で  した。これはおそらく、この雑誌の編集者が容斎門下の渡辺省亭ですから、自らの師の画業を讃えるととも  に、明治の浮世絵画壇における影響力の大きさを表そうとしたのであろうと思われます。   さてここではポイントを三点あげます。   一つ目は、いわゆる浮世絵を美術として捉え、日本絵画の一分野として認めようという機運が定着し始め  たことです。むろんこの『美術世界』の出版以前からこうした機運は高まっていました。  「第四区ハ菱川宮川歌川長谷川派等ナリ。所謂浮世絵ニシテ善ク時態風俗ヲ写シ当時ノ情景ヲ想像セシムル   ニ足ル。品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニアラズト雖モ亦本邦一種ノ画技トシテ往々美術上ニ裨補   スル所ナキニアラズ」(注2)   これは明治十五年(1882)農商務省が主催した「内国絵画共進会」の審査報告の中の一節です。展示場の陳  列区画は、第一区が土佐派、第二区が狩野派、第三区が南宗・北宗及びその合派、そして第四区が「所謂浮  世絵」、第五区円山・四條派、第六区は諸家の長所を集めて一風をなすものとなっています。   浮世絵関係絵師は次の通りです。(詳細は下掲「内国絵画共進会」を参照ください)   第二区:狩野派 河鍋暁斎   第四区:歌川派 芳春・周延・周春・芳藤・豊重(国松)・年晴・周房・広重(Ⅲ)・広近・周重(以上東京)           芳瀧(銅印受賞)・芳国・芳景・芳秋・広信(以上京都)・芳光(大阪)           芳輝(群馬)・国信(千葉)・松香(秋田)       鳥居派 鳥居清満(東京)   第五区:円山派 渡辺省亭・柴田是真・鈴木華邨 久保田米仙(北宗派)   第六区:芳年・月耕     内国絵画共進会(明治15年開催)(注3)     第四区の浮世絵を「品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニアラズ」としながらも、本邦美術を補う日本  画の一分野として認めようというのです。(注1)   また明治二十三年(1890)第三回内国勧業博覧会が開催されます。そのときの出展者と受賞者は次の通り。     博覧会(明治)(明治23年「第三回内国勧業博覧会」の出展者・受賞者名簿)〈本HP「浮世絵事典・は」の「博覧会」所収〉   そしてその当時文部省の審議官であった岡倉天心は、この報告書の中で浮世絵の意義を次のようにのべて  います。  「浮世絵ハ従来ノ如ク子女児童ノ状態ヲ艶麗ニ写シ出スノミナラズ、古来ノ絵巻物ノ如ク現在ノ風俗及ビ事   跡ノ記録タラザルベカラズ」(注4)   人物のあでやかな美しさを表現するのみにとどまらず、現在の風俗や出来事を後世に伝える役割を浮世絵  に期待するのでした。   内国絵画共進会は農商務省の主催、内国勧業博覧会は政府主催。ですからかたちの上では、日本政府が国  をあげて、浮世絵を美術品として認め、なおかつ日本絵画の一分野として位置づけようというわけです。   これは次のような江戸町奉行の姿勢とは非常に対照的です。天保十三年(1842)六月の町触れにはこうあり  ます。  「錦絵と唱、歌舞伎役者遊女女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入   置候分共決て売買致間鋪」(注5)   幕府が市中の風俗を乱すおそれがあるとして禁じた錦絵を、新政府は「古来ノ絵巻物ノ如ク現在ノ風俗」  を記録したものとして受け入れようというのです。もっぱら道徳的な見地から浮世絵を見た町奉行と、美術  的あるいは史料としての観点から浮世絵を見ようとする新政府との違いということでしょうか。この浮世絵  観の変化には、西洋経由で高まる浮世絵の評価や、明治十七年以降、岡倉天心を助手として、全国の古美術  の調査に当たったアーネスト・フェノロサの浮世絵観なども反映しているものと思われます。浮世絵をその  方たち町人のものとして一線を画す江戸幕府に対して、新政府は日本の美術という観点から浮世絵を評価し  ようとしています。この観点の差は歴然です。こうして浮世絵に対する眼差しは明らかに変わりました。   こうした動きは次第に民間にも及び始めます。  「浮世絵は絵画中の一派となり。土佐狩野南北派の外に立ち、或は市画などゝ唱へ之を鄙(いやし)めるの風   あれども、しかれども此の絵は時世の風俗を写すに於て、欠くべからざるの一法なり」(注6)   浮世絵を町絵として卑賤視する雰囲気はあるものの、やはり土佐狩野等の諸派とは別に一派として認めよ  うというのです。とはいえ、自らはあまりかかわりを持ちたくないという江戸町奉行と同様の風潮が、民間  にも根強くありました。前出のように、浮世絵を日本画の一分野として位置づけようとする農商務省の博覧  会掛りですら「品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニアラズ」と云わざるをえませんでした。まして民間  人の言はもっと辛辣でした。  「第三回博覧会に於いても美術部に編入の栄を得たるに抅らず、出品者は僅かに五六名に止り、而かも美術   館に陳列せられたるものは二名に過ぎず、他はみな工芸部に陳列せられたる如きも、畢竟品位の卑下なる   が為なり」(注7)   これは第三回の内国博覧会における評価。浮世絵を美術として認めるにしても「品位の卑下」に言及せざ  るを得ないという抵抗感めいたものが潜んでることは間違いありません。余談になりますが、この種の抵抗  感には案外根深いものがあって、大正元年(1912)、内田魯庵などはこう憤慨しているほどです。  「我々の眼からは十銭か十五銭の価しかない錦絵が欧羅巴(ヨーロッパ)では何十円、何百円もしてゐる(中略)   しかし此の如き浅薄野卑な江戸趣味の錦絵が、日本文明を代表してゐると思つて有頂天になつてゐる日本   国民は腑甲斐ない話だ」(注8)   ともあれこうした相反する眼差しもあるなかで『美術世界』が生まれました。北斎を筆頭とする浮世絵師  の作品を美術として認め、雪舟・応挙・一蝶らと比べるに価すると高く評価し、浮世絵を日本画の一分野と  して位置づけようという姿勢もまた明確でした。   二つ目は、木版手摺を美術作品を生み出す技術として捉えたという点です。  「我誌は石版銅販等を用ゐず。是絵画の進歩を計ると共に我邦特有の木版術の進歩をも計らんが為なり」   (注1「美術世界発行の主意」)   明治二十年代になり、表紙や口絵に石版などが進出してきたとはいえ、高度に洗練された彫り摺りの木版  技術はまだまだ健在でした。事実前年出版の『国華』はこの技術の高さに着目して古美術作品の精巧な複製  を行いました。ですから同誌の精密な口絵は当時の彫り摺り技術の結晶なのです。   一方『美術世界』の方はこの高度な技術を『国華』とは別な方面に使いました。「主意」に曰く、  「現存諸名家の揮毫を乞ひて掲載す。是は後進に意匠修練の模範をなす為なれば、毎帖必ず新図を乞ひ、旧   套踏襲の画を容れず」(注1)      つまり現存する名家の新図を掲載するという立場をとりました。むろん古図の複製もしましたが、あくま  でオリジナルにこだわったわけです。   注目すべきは、これらの雑誌を出した版元が、今まで民間向けの出版をほぼ独占してきた地本問屋ではな  く、春陽堂(明治11年創業)や国華社(明治22年創刊)といった新興の版元であったという点です。あきらか  に地本問屋系統の版元の出版意欲は低下し、企画力は衰退してしまいました。というのも、明治二十年代に  なってもなお彫り摺りの名人がいたことは、地本問屋系統の版元には十分に分かっていたはずです。にもか  かわらず、その人々を活用して新しい分野を開拓しようとはしませんでした。もちろん、芳年の『月百姿』  (明治18~24年刊)を出した滑稽堂・秋山武右衛門や、周延の『千代田の大奥』(明治27-29年刊)を出した具  足屋・福田熊次郎のように、なおエネルギーを失わない版元もまだいたわけですから、錦絵を出版する版元  のすべてが意欲喪失というわけではないのでしょうが、よそ目には甚だ無気力に見えていたのです。  「都下錦絵営業者は眼前の利欲に眩惑し、只管(ひたすら)田舎向きの安物を製し、絵様は如何にあるとも彩   色は如何にあるとも頓着せず。金銀箔の如きもマガヒの洋箔或は錫ハクを用ひ、一時を瞞過するの風行は   れ、其弊今日に至りて極りたるなり(中略)今日の錦絵は徒らに新奇を衒ひ軽薄に流れ、一寸見には美麗   の様なれど固(もとも)と彩色も其当を得ず、図様も択ぶ所を失し見るに足るべきもの少なし」(注7)     これは明治二十三年の記事です。不十分な下絵に当を得ない彩色、単価を抑えようとするあまり、安易に  流れてしまう版元も多かったのです。繰り返しになりますが、前回引用した明治二十九年(1896)の高村光雲  の言を再び参照します。  「注文主たる板元最も昔と相違せり、近くは三代豊国の存せる頃までは、其の注文主たる板元は、自身に下   図を着け、精々細かに注文して、其の余を画工に委すの風なりしが、今は注文者に寸毫の考案なく、画工   に向て何か売れそうな品をと、注文するのが常なり、随うて画工も筆に任せてなぐり書きし、理にも法に   も叶はぬ画を作りて、識者の笑ひを受くるに至る」(注9)   いくら彫り摺りの名人がいたとしても、版元がこの姿勢では、その技倆を充分に発揮することはできませ  ん。そこに高度の木板技術があることを知りながら、その活用を図る版元が、地本問屋系統からはほとんど  いなくなってしまったのです。この時代、摺りの名人に、地図を洋紙に印刷させたり、商品のレッテルを摺  らせたりしたという悲惨な話も伝わっています。(注10)   地本問屋系統の版元には、春陽堂主人和田篤太郎のような意欲的な人が現れなかったのでしょうか。それ  とも木板の将来に見切りをつけたのでしょうか。あるいはそうであったのかもしれません。   ただその春陽堂にしても、国華社同様木版専門ではありません。この頃の出版社にとって、木版は銅販・  石版・コロタイプなどと同様、選択すべき印刷術の一つという位置づけなのです。     三つ目は、従来の浮世絵製作システム圏内で修行した絵師が芳年とその門下の年方二人しかいないという  点です。明治二十三年(1890)当時、浮世絵を画く絵師はほかに永濯・永洗・永興、省亭・蕉窓・楓湖・華邨・  桂舟、そして尾形月耕・小林清親らがいます。しかし、永濯は狩野派、省亭らは菊池容斎門、月耕と清親は  独学と、いずれも浮世絵製作システム圏外で修行を積んだ絵師たちです。つまりこの頃、浮世絵を画く絵師  の多くは浮世絵製作システム圏外からの参入者で占められていたのでした。   もっともその芳年にしても立場は微妙で、たしかに国芳の弟子ですから、浮世絵製作システムから生まれ  出たには違いありませんが、しかしそこに止まりませんでした。明治十五年(1882)の内国絵画共進会の出展 状況をみると、上出のように芳年と尾形月耕は第六区に出展しています。   この第六区とは「諸家ヲ綜攬シテ其所長ヲ極メ、別ニ体面ヲ開クモノ」のグループです。(注2)   独学で一家をなしたとされる尾形月耕はまさにこれに該当します。しかし芳年は、歌川派の多くが第四区  に出展しているにもかかわらず、敢えて第六区を選んでいます。おそらく芳年には、明治の新しい世相・風  俗を画くためには、浮世絵製作システム圏内の修行だけではもの足りないから、様々な方面に学んだという  自覚があったのかもしれません。(注2)   ついてに云うと、この時の芳年の作品は「保昌保輔図」と「風神」の二図、その内「保昌保輔図」が、翌  十六年、滑稽堂・秋山武右衛門が錦絵化した「藤原保昌月下弄笛図」(三枚続)の元になった図に相当します。     藤原保昌月下弄笛図(東京国立博物館)    (落款「明治十五壬午季秋絵画共進会出品図 藤原保昌月下弄笛図応需 大蘇芳年写」)   ただし審査官の第六区出品作品に対する評価は手厳しく「寥々トシテ曾テ傑出ノ者アラズ」「多クハ駁雑  ニシテ拠ル所ナク、濫(みだり)リニ一派ノ名ヲ下スモノニ過ギズ」と歯牙にもかけない口調です。(注2)     ともあれこれらは浮世絵製作システムにおける絵師養成能力の低下を物語るのでしょう。美術と呼ぶに価  する浮世絵を画くことが出来る絵師、例えば歌麿や北斎のような絵師を、浮世絵製作システムはほとんど輩  出できなくなってしまったのです。事実、幕末から明治にかけて絶大な勢力をほこった歌川豊国(初代国貞)  系統の絵師たちは『美術世界』には皆無です。具体的にいうと、上掲明治十五年の内国絵画共進会第四区の  周延等の歌川派の絵師たち、彼らの名は全く見えないのです。     さてこの『美術世界』、明治二十四年(1891)・二十五年と月に一巻のペースで順調に推移し二十三巻まで  こぎつけましたが、二十六年になると変調をきたして十月の二十四巻一冊のみ、そして二十七年の正月の二  十五巻一冊を最後にとうとう廃刊となりました。和田篤太郎は、二十四巻の紙上に、次巻を以て終刊とする  旨の文を載せていますが、そこには「発兌の部数(中略)相伴はず。初巻発行の当時より引き続き御購入被  下候諸君三千有余の外には、巻を積み巧を重ぬるの今日に至りてもさしたる増加を見ず」とありますから、  採算上の問題で廃刊を余儀なくされたものと思われます。(注1)  K 終焉   浮世絵の終焉とは、版元・作者・画工・彫師・摺師からなる分業体制、いわゆる浮世絵の製作システムの  崩壊にほかなりません。いうまでもなくこの崩壊は一挙に起こったわけではありません。   最初の兆候は活版印刷の導入から始まりました。これまで合巻等の版本や絵入りの新聞は、文と挿絵が一  体化していましたが、以降は文が活版、挿絵が木板というように分離します。これで筆耕の仕事はほとんど  なくなりました。また印刷も手摺りから機械式へと次第に移行してゆきます。今度は彫師と摺師の仕事は少  なからず失われました。明治の十年代のことです。   読本・人情本の書き手は幕末には絶え、新聞ネタなどを再利用して何とか凌いでいた合巻の方も、十年代  後半になると、読者がうんざりしたのか、全く出版されなくなります。そして、明治十八年(1885)には高畠  藍泉(柳亭種彦三世)、翌十九年には染崎延房(為永春水二世)とあいついで亡くなり、明治二十三年には仮名  垣魯文が文壇から身を引いてしまいます。(魯文は同二十七年没)彼らは生粋の江戸戯作者でした。それが  明治二十年に入るとたちまち消滅したわけです。画工に下絵を与えるのを当然視してきた書き手がいなくな  ったわけですから、これまで彼らの下絵を頼りに作画してきた画工たちは仕事を失います。こうなると押絵  や凧絵などといった量産品に生活の糧を求めざるを得なくなりました。   版画の行く末も同様です。前回引用した高村光雲の言を再び引きますと「三代豊国の存せる頃までは、其  の注文主たる板元は、自身に下図を着け、精々細かに注文して、其の余を画工に委すの風なりしが、今は注  文者に寸毫の考案なく、画工に向て何か売れそうな品をと、注文するのが常なり」といった具合ですから、  自ら下絵を考案する才覚のない画工は、先輩の図様を取っかえ引っかえ使い回しするほかはありません。こ  れでは「東錦といふ江戸絵なるものは、単に玩具屋の附属品となり、終に美術としての価値なきに至るべし」  と敬遠されるのは当然のことです。こうして次第に木版は斜陽化が進みます。    「二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減って行った。役者絵は何   といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見せて来たことと、三十四   五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし続けていた店も、絵葉書に   席を譲らなければならなくなった」(注11)  「絵葉書の流行は、今極点に達している。市中どこへ行っても、絵葉書を売る店がある。絵葉書専門の雑誌   も数種ある。絵葉書を附録に附けている雑誌も多い。よく売れるのは、やはりコロタイプ版の美人などで、   上方屋ではモデルを雇うて撮影し、各種の絵葉書を出して、巨万の富を致した。輸出せられる絵葉書も相   当に多いが、これは美人よりも、風景物の方が喜ばれている」(注12)   絵はがきの流行は明治三十年代。この頃になると、木版手摺りという印刷技術は、大量生産の主役からす  べり落ち、完全に脇役へと押しやられたのです。   a 激変する環境   さて、明治三十年代になると、浮世絵師の置かれた環境は一変してしまいました。従来の延長上にあるよ  うな大量生産の錦絵(役者絵や名所絵)にもう活路はありません。   今彼らの眼の前にあるのは、明治になって台頭してきた新聞や雑誌の挿絵・口絵の専属画工です。下掲の  「明治新聞挿絵画工一覧」や「新聞小説挿絵年表」、あるいは雑誌と単行本の「挿絵年表」や「口絵年表」  を見ても分かるように、新聞の挿絵は明治十年代から、雑誌や単行本の挿絵や口絵は明治の二十年代から急  速に普及し始めます。しかしこれら明治を代表する出版社は、いずれも明治起業の新興勢力で、しかも江戸  根生いではありません。例えば金港堂は明治八年(1875)、春陽堂は同十一年(1878)、博文館は同二十年(18  87)の創業です。また創業者の出身地も、金港堂・原亮三郎と春陽堂・和田篤太郎が岐阜県、博文館の大橋  佐平は新潟県で、江戸とは無縁です。つまり、明治三十年代の華やかな木板口絵の黄金時代は、地本問屋と  も江戸とも無縁の彼ら新興勢力が担っていたわけです。この点においても浮世絵の製作システムは、新しい  時代の到来にもかかわらず、その波に呼応することができなかったのです。あるいは波を捉まえようとする  意欲すら失っていたのかもしれません。     明治新聞挿絵画工一覧(未定稿)  新聞挿絵  新聞小説挿絵年表(明治年間)(未定稿)     挿絵年表(明治 雑誌(未定稿)  挿絵年表(明治 単行本(未定稿)     口絵年表(明治 雑誌(未定稿)  口絵年表(明治 単行本(未定稿)   また主として肉筆ですが、作品の流通の場にも変化が生じます。明治十年(1877)、内国勧業博覧会が政府  の主催で開催されたのを皮切りに、同十五年(1882)には農商務省主催の内国絵画共進会が開催されます。こ  れらは官主導の展覧会でしたが、明治十八年(1885)の鑑画会、明治二十四年(1891)の日本青年絵画協会の結  成あたりから、次第に画家団体の主催する展覧会が催されるようになります。これらに浮世絵たちも呼応し  ました。   官主導の製展覧会においては、おそらく官側からの働きかけもあったのでしょうが、浮世絵師も募集にこ  ぞって応じていました。明治十年と十七年の二回の内国絵画共進会についてみると、楊洲周延・歌川芳春・  同芳藤・同国明・同豊宣・同国松・安藤広重(Ⅲ)・同広近など、歌川派の浮世絵師が多数出展しています。  ところが明治二十年代に入るとこれがめっきり減ってしまいます。その代わり、前出『美術世界』に登場す  るような、明治の浮世絵の新たなに担い手、省亭・月耕・華村・半古・蕉窓たちが盛んに出展し始めます。   つまり浮世絵の担い手があきらかに交代しつつあるのでした。さらに明治三十年代になると、三代豊国系  統の浮世絵師では、明治三十四年の第十回日本絵画協会展に国峯の名を見かけるくらいで、あれほど全盛を  誇った歌川派の浮世絵師も全く姿を見せなくなってしまいます。要するに、浮世絵の製作システムは新たな  浮世絵の画き手を輩出できなくなってしまったのです。   明治二十七、八年(1894-5)の日清戦争のあたりまでは、版画が当たるなどして、浮世絵製作システム内も  まだ活況を呈していましたが、その後数年も経たないうちに、絵草紙屋には絵はがきがあふれ、錦絵はあっ  という間に駆逐されてしまいます。   また挿絵・口絵つきの新聞・雑誌・単行本は、取次店・書店経由で読者のもとに届けられ、浮世絵の製作  システムとは無縁のところで流通しはじめます。(出版をやめて取次や書店にくら替えした地本問屋系の元  版元もあるでしょうが、それらの書店は明治二十年に結成された東京書籍出版営業者組合(後、明治三十五  年、東京書籍商組合と改称)という新しい組織に所属しており、流通はこの組織を通じて行われます)(注13)   またこのころの絵師は、取り分け肉筆などはそうですが、注文を待って画くばかりでなく、自ら自発的に  画いた作品を、各種の展覧会に自ら出展するようになります。つまり美術品であることを願う絵師にとって  は、展覧会がとても大切な発表の場となっていったのです。   こうして浮世絵は浮世絵製作システムから離れ圏外の書店や展覧会で流通するようになりました。     博覧会  展覧会(明治年間)(未定稿)   b 呼称「浮世絵」と「浮世絵師」との訣別   一変したのは環境ばかりではありません。絵師に必要とされる資質もまた変化し、それに応じて絵師の心  境にも変化が生じました。  「小説の挿画たる以上は、本文中の人物事件等を示すのは当然だが、尚それと同時に飽くまでも独立した画   の面目を持して、単に文章の説明と云ふ以外、特別な美的趣味を発揮すべきものだと思ふ。此の見界から、   将来小説の挿画は、従来の浮世画の領域から脱した純粋の画たらん事を希望してやまない   (中略)   是からの進んだ小説の挿画を書く人には、少なくとも文学の妙味を解する頭位はあつてほしい。よく文学   を了解し感得し、而もよく絵画独特の面目を発揮した立派な挿画の出でん事は、文学の上からも絵画の上   からも真に望むべき事である」(注14)   これは梶田半古の明治四十年時点の言です。挿絵であってもその絵自体は文の単なる付属であってはなら  ない、美的観賞に堪えうる一個の独立した作品であらねばならないというのです。で、そのためには「よく  文学を了解し感得」する必要があるとしています。   これも前述しましたが、鏑木清方の懐古談に、『金色夜叉』の挿絵と画いたとき、尾崎紅葉の文を何度も  何度も読み返して下絵を構想したというくだりがあります。(注15)   清方も半古も同様に、いまや挿絵画家は文の内容と積極的に関わることが不可欠だというのです。   山田奈々子著『木版口絵総覧』によると、博文館『文芸倶楽部』の口絵は、明治三十五年から小説内容を  離れ、それ自体単独の作品になるとのことです。(注16)   雑誌・単行本の売れ行きは口絵の出来栄えに左右されると云います。とすれば、口絵はなおさら独立した  一個の作品として画かねばなりません。口絵画家にかかる責任は、作者の下絵に応じて画いていた画工のそ  れとはけた違いに重いのです。   このような明治三十年代、水野年方のもとで修行を積んでいた絵師たちがいよいよ巣立ちはじめます。鏑  木清方、池田輝方、榊原(後池田)蕉園、大野静方、荒井寛方などといった面々です。この人々はいわば歌川  派最後の末裔とでもいうべき絵師たちで、大げさにいえば浮世絵の製作システム最後の弟子ということもで  きます。ところがいざ世に出ようと見渡してみると、これまで述べてきたように、浮世絵の製作システムは  ほぼ崩壊していました。版元は出版社にかわり、下絵を提供してきた戯作者は消滅し、彫り摺りの職人はい  るもののその高度な技術を活用できる人材は見当たりません。そして画工に必要とされるのは、現代世相を  表現するに足る描法を自らのものにすることはもちろんのこと、さらには下絵を考案するための下地、つま  り歴史や文学などの教養もまた必要不可欠となりました。   清方ら若い絵師たちの意識も、これまでの浮世絵師たちとはおのずと違うものになります。  「私は明治二十四年、十四歳の時に、水野年方の社中に入つた。(中略)其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵   師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切であるだけで、何の進歩もして居なかつた。美術協会など   から仲間はづれにされて、出品しやうとするものもなかつた。(中略)私達は浮世絵といはれるのが厭で、   社会画といふ名を付けて自ら慰めて居た」(注17)    「明治十一年~十三年になると、同じ芳年の一枚絵でも美人画の組物が次々に出版され、婀娜なる風俗が写   されている。「東京料理頗(スコブル)別品(ベツピン)」では、高名な会席茶屋の数々を写して、それに各地の   名妓を配したり、「美人七陽華」には宮中の女官を捉え、これに盛りの花を画いて妍を競うなど、世の安   定を示して余りある。私が画人であるからか、明治の生活美術を語るに、まず、これら風俗画と清親一派   の風景画が最初に思い泛(ウ)かぶ」(注18)      清方らは明治の風俗画が「浮世絵」と呼ばれるのを嫌って「社会画」あるいは「生活美術」と呼んでいた  というのです。   菱川師宣の風俗画を「浮世絵」と呼んで以来、約二百年あまりも使われ続けて、この明治二、三十には国  際的にも「Ukiyoe」として定着してきた呼称「浮世絵」を、浮世絵の製作システムから生まれた最後の弟子  たちは拒否するというのです。   「浮世絵師」の呼称はいうまでもありません。前述「浮世絵の誕生と終焉(1)」「同(2)」でも述べ  たように、菱川師宣は自らの絵が「浮世絵」と呼ばれたことについては特に抵抗した様子はありませんが、  「浮世絵師」と呼ばれることには強い拒否反応を示しました。初版で段階で「浮世絵師 菱川師宣」とあっ  たものを、二版では「大和絵師 菱川師宣」に訂正させています。(注19)   その意味でいうと、清方らは浮世絵の開祖菱川師宣の宿願に応えたともいえます。しかしその一方で、江  戸の文化文政期あたりから、歌川派の国安・国貞といった絵師が、署名に「浮世絵師」と冠することで自認  してきたわけですから、清方らは歌川派の大先輩の意向を無視したともいえるのです。(注20)   清方らにしてみれば「其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切で  あるだけで、何の進歩もして居なかつた」というその連中と、同列に見なされることを嫌ったまでのことか  もしれません。何せ梅堂小国政のように、日清戦争の版画で稼いだ千円近くの大金を、惜しげもなく吉原で  使い果すという破天荒な浮世絵師がまだいた時代です。(注21)〈小国政の記事全文は(注21)を参照〉   しかしこの時代、絵師に求められる資質は昔とは全く違います。「唯頭が散切であるだけで、何の進歩も  して居なかつた」では駄目なわけです。小国政は極端な例でしょうが、意識も生活も昔の画工・職人風のま  までは立ちゆきません。それに下絵を構想するに足る教養を身につける必要もありました。ですから清方ら  にしてみれば、時代が求める絵師になろうとすると、それはもう「浮世絵師」ではなく「画家」を呼ぶ方が  ふさわしいと考えていたのかもしれません。   こうして明治三十年ころから「浮世絵」と「浮世絵師」は、江戸に固有のもの、つまり過去のものとなり  ました。ただ「浮世絵」の呼称の方は、西洋からもたらされた普遍性を得て、世界の「Ukiyoe」として今後  も生き続けることになりました。                              「浮世絵の誕生と終焉」擱筆(2018/02/28)  (注1)『美術世界』巻1-25 春陽堂 明治23年~同27年(1890-94)刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注2)『明治十五年内国絵画共進会審査報告』農商務省博覧会掛 国文社 明治16年9月刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注3)『近代日本アート・カタログ・コレクション』「内国絵画共進会」第一巻 ゆまに書房 2001年5月刊   (注4)『第三回内国勧業博覧会審査報告』第二部美術 第一類絵画 報告員審査官 岡倉覚三      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注5)『江戸町触集成』第十四巻「天保十三年(1842)六月四日付触書」(触書番号13643)  (注6)『絵画叢誌』4巻「浮世絵」東洋絵画会 明治20年(1887)6月刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注7)『絵画叢誌』43巻「東錦絵」東洋絵画会 明治23年(1890)10月刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注8)『日本及び日本人』雑誌 大正元年(1912)刊  (注9)『早稲田文学』第9号「彙報」明治29年5月1日刊  (注10)『こしかたの記』「口絵華やかなり頃(一)」鏑木清方著 中公文庫  (注11)『こしかたの記』「鈴木学校」鏑木清方著 中公文庫  (注12)『明治東京逸聞史』(2)「絵葉書(一)」明治38年(1905)記事 森銑三著 東洋文庫142  (注13)『東京書籍商組合史及組合員概歴』東京書籍商組合編 大正1年(1912)刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注14)『早稲田文学』第2次19号「本欄」明治40年(1907)6月1日刊  (注15)『こしかたの記』「横寺町の先生」鏑木清方著 中公文庫      「第八章『咄嗟の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き』から『緑樹陰愁ひ、潺湲(せんくわん)       声咽(むせ)びて、浅瀬に繋れる宮が軀(むくろ)よ』まで、文字にして二百字あまり、試験前の学       生のように、築地川の川縁を往きつ戻りつ繰りかえしては諳んじた。何かで見たオフェリヤの水       に泛ぶ潔い屍を波文のうちに描きながら」  (注16)『木版口絵総覧』山田奈々子著 文生書院 2006年  (注17)『鏑木清方文集』一巻「制作余談」「私の経歴」大正4年(1915)12月記  (注18)『明治の東京』「明治の生活美術寸言」鏑木清方著 昭和37年(1962)9月記  (注19)「浮世絵の誕生と終焉(2)」「浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折」      「三 呼称「浮世絵師」の曲折」「A 菱川師宣の抵抗」参照       〈本HPTop「浮世絵の誕生と終焉」(全文)所収〉  (注20)「浮世絵の誕生と終焉(2)」「浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折」      「三 呼称「浮世絵師」の曲折」 [B 呼称「浮世絵師」の復活参照」       〈同上〉  (注21)『読売新聞』「画家小国政の奇癖」明治29年(1896)4月7-8日付記事       梅堂小国政(本HP「浮世絵師総覧」の「梅堂小国政」の項、明治29年に記事全文あり)
Top浮世絵師総覧浮世絵の世界