Top            浮世絵文献資料館           浮世絵の世界                文化としての浮世絵(6)- 浮世絵師の職域 -     加藤好夫   三「浮世絵」が画いたもの(3)   C 浮世絵師の職域    菱川師宣が開拓した浮世絵の流れは、その後、鳥居清信・西川祐信・奥村政信・鈴木春信・勝川春章・   鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川豊国・葛飾北斎・渓斎英泉・歌川国貞・歌川広重・歌川国芳等   によって受け継がれ、「色恋の道」「年中行事」といった世俗の様相を画くことから次第に画域を広げ、   幕末の頃には実にさまざまな分野のものが浮世絵師の作画領域となっていた。   斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年(1844)序)に次のような記事がある   〝浮世絵品目     浮世絵 惣名也     大和絵      漆(ウルシ)絵 金泥又は墨にてぬりし画に、上ににかはをかくるをいふ     一枚絵 紅絵 江戸画 吾妻錦画といふ     草双紙 赤本 青本 初萌黄色表紙なる故青本といふ。今は黄表紙なれども青本といふ。         唐紙(カラカミ)表紙もありし也     同合巻 草さうしはむかしより一冊五丁づゝの定なり。是を三冊つゝ二冊に綴ぢ、或は二冊つゝ三冊         に綴じたるを合巻といふ、半紙にすりて厚表紙の付しを上本と云     役者似顔絵 武者絵(焦尾琴 浮世絵にいくさは見たり春は花 序令)     美人画 角力絵 名所山水(油画に等しき山水画を中古迄浮絵と号しけるが、今此称なし)     張交 子供遊 化物 判じ物 狂画     摺物絵 狂歌或は音曲弘会等のすり物也、或大小     切組灯籠画(其外 切組絵) 替り画 たとふ入絵 廻りとうろう画 墨摺 かげゑ     読本(六冊物)中本 百人一首 庭訓の類     掛もの-神仏-美人画 豆絵     双六 歌かるた 十六むさし 目つけ絵     芝居番附 画本 見せ物番附      団扇 鞘画(近頃すたれたり)     画手本 藍摺画(近年の流行なり) 紅摺画 疱瘡小児玩     鳥羽絵(月岑按るに)鳥羽僧正の筆意に倣ふの号也、されど近世鳥羽絵と号するものは、手足を長く         画きて僧正の風にあらず、按に法眼周卜と名画苑に載る所の皇起山人全段の筆意に始る歟、         近年鳥羽絵すたれたり    肉筆類     菖蒲幟 絵馬額 神事行燈 羽子板 紙鳶 商人看板 芝居見せ物看板 扇地紙 影絵 焼絵 曲画     猪口ノ画 油画 からくり絵 うつしゑ〟(注1)    このリストは、幕末から明治にかけて、浮世絵師が生業としていたものをことごとく網羅しているよう   に思われる。冒頭に「大和絵」とある。これは浮世絵が大和絵の系譜にあることを、月岑もまた大田南畝   や無名翁こと渓斎英泉にならって再確認しているのだろう。次ぎに版画と肉筆とを大別し、以下、形態と   用途・画題・画材・画法等でリストアップしている。種々雑多、観賞に供するものから実用の消耗品にい   たるまで、大人用に子供用、男向け女向け、およそ江戸の人々が目にする印刷物のほとんどを、浮世絵界   が担っていたといってよいのだろう。これを踏まえて本稿は以下のように整理してみた。      ◎形態     △版画:一枚絵→紅絵・江戸画・吾妻錦画         版 本→草双紙(赤本、青本)・合巻・読本・中本(滑稽本、人情本)             絵本(芝居、画手本、豆絵)往来物(百人一首・庭訓の類)         摺 物→狂歌会・音曲弘会・大小(絵暦)・番付(芝居・見世物)      用途:掛け物(神仏像、美人画)・灯籠絵(切組み、廻り)・団扇絵・鞘絵         疱瘡除け・遊具(子供手遊、双六、歌かるた、十六むさし、目つけ絵)     △肉筆      用途:幟・額・行燈・看板(商売・芝居見せ物)・遊具(羽子板・紙鳶)         扇地紙用の絵・猪口用の絵・からくり絵・うつし絵・曲画    ◎画題:役者似顔絵・武者絵・美人画・角力絵・名所山水(浮絵)・化け物・判じ物    ◎画材:漆絵・紅絵・紅摺絵・藍摺絵    ◎画法:浮絵・鳥羽絵・狂画・鞘絵・蔭絵・張交   以上のうち、形態と画題についてまとめたものを参考までに示しておきたい。    浮世絵の形態による分類  浮世絵の題材による分類    浮世絵といえば誰しもが美人画・役者絵・風景画を思い描き、版本の挿絵や絵本にまで思いをめぐらす。   美人画といえば師宣・春信・清長・歌麿、役者絵といえば清信・春章・写楽・国貞、風景画といえば、北   斎・広重・清親といった具合。また版本では、合巻挿絵の国貞、読本挿絵の北斎、絵本の歌麿・政美・北   斎らがそれらの頂点に立つ。    これらのジャンルはいずれも菱川師宣の時代から明治末にいたるまで、いわばその誕生期から終焉期ま   で、浮世絵界をずっと支え続けてきた大黒柱であるが、上掲のようなリストをみると、浮世絵師の職域を   それらで語り尽くすことはとてもできないことに気付かされる。歌麿・北斎のような天才は、絵画として   観賞するに足る作品を画くことが出来た。しかし彼等はごく稀な存在なのであって、浮世絵師の多くは実   用に供するものや、一時の興をもたらすようなものを画くことをもって生業としていたのである。    さてここでは、このリストにもとづいて、浮世絵界が江戸の市民生活とどれほど深く関わっていたか、   それらの諸相を見ることにしたい。なお、美人画・役者絵・風景画のような浮世絵界のメインストリーム   については項をあらためることにした。    江戸の遊興場、芝居・遊郭・見世物・祭礼、こうした晴の世界は市民の日常に活性をもたらす役割を担   っていた。そこでは看板・番付・幟(のぼり)・灯籠絵などなど多様な装飾が付き物。華やかな彩りを加え   ることによって、視覚的に盛り上げようというのである。    もっとも晴の日ばかりではない、平生でもお参りをすれば、否が応でも、浮世絵師の手になる絵馬・扁   額が目に飛び込んでくる。額堂・本堂、浮世絵師にとって、寺社は恰好の腕の見せ所なのである。出来栄   えが好評なら注文が舞い込む。    また、手紙の書き方・百人一首といった一般教養や礼儀や作法に関する学習書である「往来物」の挿絵   も江戸では浮世絵師が担っていた。    芝居絵看板(本HP)芝居看板 鳥居清長画「潤色八百屋お七」    番付 (本HP)顔見世番付 鳥居派「市村座」    幟  (本HP)幟絵   葛飾北斎画「鍾馗図」    灯籠絵(本HP)記事のみ    行灯絵(本HP)記事のみ    千社札 色札(本HP) 千社札(本HP) 色札 広重(初代)画 玄魚画 芳幾画    絵馬  柳々居辰斎画「加藤清正虎退治」    往来物 葛飾北斎画 『絵本庭訓往来』 百人一首(往来物) 北尾政美画『女文宝智恵鑑』    浮世絵を歓迎していたのは大人に限らない。絵凧・双六・姉様人形などの手遊び(玩具絵)に組み上げ絵   など、男女子供向けの慰みものも浮世絵師の仕事。また子供むけのお呪いで、金太郎や為朝や鍾馗をかた   どった赤絵(疱瘡除け)も浮世絵師の仕事であった。英泉・国芳クラスでさえ引き受けていたとのこと。も   っともこれらは本業というより、内職のような感覚らしく「玩具絵といふのは絵かきの内職で、閑な時に   かいといて絵双紙屋へ買つて貰ふもの」とある。浮世絵師は暇を見つけてはこれらを作り置きしていたよ   うである。なおついでに云うと、当時は浮世絵師のことを「絵かき」と呼び、本絵の方は「絵師」呼んで   区別していたとある。(注3)    おもちゃ絵年表(本HP)手遊び(玩具)(本HP)               組上絵「新板組上灯籠湯屋新見世之図」葛飾北斎画(兵庫県立歴史博物館)    双六年表   (本HP)双六「新板大江戸名物双六」玉蘭貞秀画(国立国会図書館デジタルコレクション)    赤絵(疱瘡除け)(本HP)赤絵「金太郎」一勇斎国芳画(ネット画像)    凧絵     (本HP・記事のみ)    周知の通り、錦絵は好事家の大小(絵暦)交換会から生まれてきた。明和二年(1765)のことである。この   時、好事家の求めに応じて作画したのが鈴木春信。以来、絵暦制作に浮世絵師は欠かせないものとなった。   〝明和二申の歳、大小の会といふ事流行て、略暦に美を尽し、画会の如く勝劣を定むる事なり。此時より    七八遍摺の板行を初てしはじむ〟(注2)   〝明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ    しよりその事盛になり、明和二年より鈴木春信吾妻錦絵といふをゑがきはじめて、紅絵の風一変す〟(注4)    この分野では、北斎を筆頭に辰斎等の北斎門下の作例が目立つ。次いで左尚堂俊満・梅の本鴬斎・惺々   狂斎(河鍋暁斎)等々、明治に至るまで引き継がれる。図案の考案者名や画工名のない絵暦が多いが、かな   りの浮世絵師が関わっていたと思われる。    絵暦(大小)年表(本HP) 絵暦(大小)(本HP) 夕立 鈴木春信画(ネット画像)    絵暦貼込帳(国立国会図書館デジタルコレクション)    寛政の改革が一段落して文化文政期ともなると、一般市民の間にも、狂歌、音曲などの趣味の世界が拡   がり、名弘めなど祝いごとが盛んに催されるようになっていった。お披露目には摺物が付き物、とはいえ   趣味人同士の配りもの、センスが問われるからおざなりというわけにはいかない。それでおのずと詩文も   絵も凝ったものになる。しかし文はまだしも絵は素人には手におえない。ここに浮世絵師の出番の余地が   生まれる。好事家の趣味に形を与えること、これが摺物における浮世絵師の仕事なのである。   〝北斎だねと摺物を撥(ばち)で寄せ〟(注5)    三味線の稽古中に配り物が目に入る、見れば北斎、こりゃ豪勢な摺物だねと思わず撥で寄せ……    摺物の交換会へ出向いてみると、とても賑やかで晴がましい。その盛況ぶりはというと、以下の通り。    摺物(本HP)狂歌摺物 葛飾北斎画    摺物交易図 柳々居辰斎画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」所蔵『四方戯歌名尽』より)        江戸の人々は新奇なものにことさら敏感である。見世物のメッカは浅草の奥山と両国の広小路。ここに   「世にも稀なる」がうたい文句の小屋がかかれば、早速取材して宣伝に一役買う。籠・貝・銭・菊などの   細工物に、ラクダや虎の動物もの、綱や乱杭を渡る軽業(かるわざ)があれば独楽廻しもある、そして手品   ・カラクリ・活(いき)人形と、実に盛りだくさんの興行が人々を集めていた。   〝(文政二年・1819)此の秋、浪花より下りし一田正七郎といふ者、籠にて人物鳥獣草花の類を作りしを、    浅草奥山にて見せ物とす。遠近の見物夥(おびただ)し。狂歌 観音の加護にて流行(はや)るかご細工皆    人ごとにほめざるはなし〟(注6)   〝文政七甲申(1824)秋(両国広小路において駱駝(らくだ)の見世物)去年紅毛(オランダ)国より長崎表ぇ    持渡候也、おだやかにして、喰物、大根・蕪菜・さつまいも等のよし、三十二文宛にて見物夥敷(おび    ただしく)群集すなり〟(注7)    見世物絵年表(本HP)    駱駝之図 歌川国安画 山東京山撰 於両国西広小路(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     籠細工  歌川国貞画 関羽座像  一田庄七郎制作(見世物文化研究所・見世物ギャラリー)    天保の改革は美人画や役者絵の出版を禁じた。これらは浮世絵界にとっては生業上の大黒柱。このまま   では飯の食い上げである。しかし何とかして食わねばならない。浮世絵師に禄は無縁、食い扶持の種は自   ら開拓するほかない。こうして窮したあげく、ひねり出したのが、これは何だろうと思わせぶりな「判じ   物」。そのさきがけが一勇斎国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」であった。作品上には国芳の落款しかな   いが、実は梅の屋鶴子(かくし)という狂歌師との合作。画に仕込まれたさまざまなアイディアは梅の屋が   案じたもの。国芳とって梅の屋は作画上の知恵袋なのであった。(注8)    判じ物(本HP)読む浮世絵「判じ物」(本HP)    源頼光公館土蜘作妖怪図 一勇斎国芳画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    幕末から明治へ、権力が交代し鎖国から開港へと国体は変わったが、浮世絵界の旺盛な開拓精神が失わ   れたわけではなかった。新しいものに対する好奇心、そしてそれを生業の糧とするエネルギー、浮世絵の   誕生以来続けてきたこの姿勢に変わりはなかった。    安政六年(1859)、横浜が開港する。すると早速浮世絵師が派遣された。なにしろ江戸の人々が異国人に   接するのは、幕末では五年に一度のオランダ人の参府が唯一の機会。居留する異国人のもの珍しい様子を   写して好奇心に応えようというのである。以来西洋文物が相次いで流入する。いわゆる開化絵というジャ   ンルがこうして生まれた。    横浜絵「神名川横浜新開港図」歌川貞秀画(東京国立博物館)    開化絵「東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図」歌川広重三代画(国立国会図書デジタルコレクション)    明治五年(1872)、東京で初めての日刊紙『東京日日新聞』が創刊された。やはりこれにもすぐさま飛び   ついた。同七年、絵双紙問屋の具足屋(福田熊次郎)が、その錦絵版というべきものを「東京日日新聞大錦」   の名称で出版した。するとこの新聞錦絵は東京に留まらずたちまち大阪にまで波及した。ただし勢いはそ   こまで、明治十年代に入ると急に失速する。ニュース報道なのか読み物なのか、どっちつかずが原因のよ   うであった。(注9)    そして同十年の西南戦争勃発。遠い鹿児嶋・熊本での戦争であったが、江戸時代では決して出版できな   い天下分け目の政変劇。これを千載一遇とみたか、刻々と伝わる戦況を、記者・画工ともども総動員して   競って報じた。結果、おびただしい量の錦絵・版本が市中に出回った。これで戦争絵というジャンルが確   立する。以降、明治二十七~八年(1894-95)の日清戦争、そして同三十七~八年(1904-05)の日露戦争と、   浮世絵界は戦争報道を続けた。もっとも日露戦争の頃になると、主役が写真報道に移り、併せて西洋印刷   術の普及もあって、木版はじり貧に陥った。    錦絵新聞(本HP) 錦絵新聞拾遺(本HP) 錦絵新聞画工一覧(本HP)    東京日々新聞 四卅一号 点化老人識 一蕙斎芳幾画 具足屋 明治七年刊    (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    西南戦争錦絵・版本(画工別 本HP) 西南戦争版本(年月順 本HP)    西南戦争「鹿児嶌紀聞之内 副将村田討死之図」月岡芳年画(国立国会図書館デジタルコレクション)    日清戦争版本(本HP) 日露戦争版本(本HP)    浮世絵界はこうして、時流に沿って、市中の望むと思われるものを先取りして視覚化してきた。明治の   十年前後を境に木版と活版の印刷コストが逆転したが、それでも口絵や挿絵ではまだまだ木版の方が優勢   だったから、挿絵と本文一体型の合巻などは明治十年代まで盛んに出版された続けた。また錦絵の方も、   月岡芳年・豊原国周・小林清親などの人材が台頭してきて、美人画・役者絵・武者絵・風景画に健筆を揮   った。    しかし状況は次第に傾いていく。危機の兆しはまず版本の方から始まる。    明治十八年(1885)年、戯作者の高畠藍泉が死亡。次いで明治二十三年(1890)、藍泉とともに戯作界の勢   力を二分した仮名垣魯文が文壇を引退する。これは江戸以来の戯作者の消滅を意味する。この影響をモロ   に受けたのが、これまで戯作者の下絵(注文)にもとづいて作画を請け負っていた歌川派の面々。下絵の出   し手がいなくなったのだから、当然なことに板下絵を画く必要性もない。    実は錦絵の方でも同様のことが起こっていた。明治三十二年(1900)、桂花園桂花という俳人が亡くなっ   た。この人ついて、森銑三はこう記している。   〝「月百姿」が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の    背後には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、「月    百姿」の百番が成ったのではない〟(注10)    要するに桂花は、版本を例にとると、戯作者と同様、下絵の出し手なのである。また森銑三によれば、   滑稽堂の主人(板元の秋山武右衛門)もまた同様にアドバイスを送っていたらしい。「判じ物」のところで   述べたように、国芳は鶴の屋鶴子の構想にしたがって板下絵を画いていた。芳年もまた桂花や滑稽堂の求   め(注文)に応じて作画していたのである。    おそらくこうした製作プロセスは「月百姿」に限らないのだろう。たしかに国貞(三代豊国)のような売   れっ子なら厖大な量の板下絵を画く、その一つ一つに、構図・姿態・衣装等々案じていたら、とても間に   合わない。画工に図案作成者は欠かせないのである。    というと画工の役割を軽視するように思うかもしれないが、そうではない。彼等の求めに生動を吹き込   むのは、まさに国貞や芳年なのだから。どんなに案が立派でも、それに魂が入らなければ文字通り絵に描   いた餅なのである。    その桂花園桂花が明治三十二年(1899)に亡くなり、翌三十三年(1900)には秋山武右衛門も跡を追う。象   徴的にいえば、戯作者が去り、図案を提供する知恵者が去り、新しい試みに意欲的な板元もいなくなった   ということになる。    明治三十年代になると、浮世絵界を取り巻く環境はさらに激変する。写真製版の進歩とともに、美人画   も役者絵も風景画も、木版の錦絵からコロタイプのブロマイドや名所写真へと、主役の交代が進んだ。    こうした状況のなか、浮世絵師たちはどのような身の処し方をしたのであろうか。   〝押絵の顔ハ一切画工国政の担当にて 夏秋の頃にありてハ 其(その)書き代(しろ)平均一個一厘五毛位    なるも 冬の初めより年の暮に至りてハ 上物即ち顔の長(た)け一寸より一寸五分までのもの一個に付    き三匁乃至(ないし)五匁なり。然るに今年ハ其の景気殊に悪(あし)く 目下の所にて一個漸く二匁なり    と云ふ〟(注11)    この国政は四代目の梅堂国政。明治十年代から二十年の初めまで「梅堂国政と来ては例に依って例の如   く」とウンザリ感を漂わせながらも、おびただしい量の合巻に筆を執った国政である。合巻の出版がぴた   りと止まったあとでは、こうしたコストの安い量産型の作画に生業の中心を移さざるを得なかった。とい   うか、これまでは手があいた時に副業のようにしてやっていたものに頼るほかなかったというのが実情な   のだろう。(注12)    押絵(本HP)    浮世絵師にとっては辛い時代になってしまったが、それでも幸いというべきか、押絵にかぎらず、江戸   以来続いてきた仕事領域がまだまだ残っていた。   〝歌川派の十元祖    此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを    数(かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と    いふにハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ     凧絵   元祖 歌川国次  猪口絵   元祖 歌川国得     刺子半纏 同  同 国麿  はめ絵   同  同 国清     びら絵  同  同 国幸  輸出扇面絵 同  同 国久・国孝     新聞挿絵 同  同 芳幾  かはり絵  同  同 芳ふじ     さがし絵 同  同 国益  道具絵   同  同 国利〟(注13)    これは明治二十五年(1892)の読売新聞の記事である。このなかで上掲の斎藤月岑の「浮世絵品目」にな   かったものは、刺子半纏・はめ絵・びら絵・輸出扇面絵・新聞挿絵・さがし絵・道具絵。どのようなもの   なのか、よく分からないものもあるが、大雑把にいえば、観賞用らしきは輸出扇面絵か宣伝広告用のびら   絵くらいなもので、新聞挿絵はなかば読み物、あとは凧絵・はめ絵・さがし絵などの遊具で、その他の猪   口絵・刺子半纏などは実用品である。これらは必需品でないにしても、人々の生活に一興をもたらす慰み   ものに相当する、消えつつあるとはいえ、江戸の雰囲気が漂っているところでは、まだまだこれらを求め   る人はいたのである。    ところで、合巻が消滅して以降、本文と挿絵からなる出版はどうなったのであろうか。出版の主導権は   新聞や雑誌などの新興メディアに移ったものの、表紙や口絵や挿絵の重要性に変わりはなかった。なんと   いっても視覚上の効果は絶大である。表紙や口絵を目当てに購入する人さえいる。    ただ、明治の新しい文芸の書き手は戯作者のように下絵を画かない。また既に述べたように、木版を熟   知した知恵者もいなければ、出版人もいない。ではどうするのか。    結局のところ、絵師自身にそれをやってもらうしかなかった。自ら本文を読んで絵のイメージを構想で   きる絵師の起用である。錦絵でもこの事情は同じ、新しい時代の出版人は、自ら構想を練り図様を案出で   きる画き手を求めるほかなかった。    これが「絵かき」と「画家」との境目、「画工」と「画伯」の分水嶺となった。小説の挿絵でいえば、   本文をあたってイメージを想起し、それを形にできるもののみが「画家・画伯」と呼ばれる身の上になれ   る。そうでなければ量産品の「絵かき・画工」に甘んずるほかなかった。       以上、斎藤月岑の「浮世絵品目」からその延長上にある明治二十年代までの浮世絵師の職域を眺めてき   た。ところが実は大物が抜け落ちている。菱川師宣以来、明治の浮世絵師まで、ほぼ一貫して画き続けて   来たもの、春画である。ここでは、艶本年表・近世以来の春画記事・春画を画く時の戯号・川柳・雑俳上   の春画とを示しておきたい。    艶本年表(本HP)春画(本HP)戯号(本HP)川柳・雑俳上の春画(本HP)   以下、これまで言及してこなかった浮世絵師の仕事をいくつか紹介して終わりにしたい。   ◯席画   〝名和氏にて、北斎をむかへて席画あり。山道高彦なども来れり。島氏の女、ならびに赤坂の歌妓お久米    来れり〟(注14)   〝南隣の中川氏の約におもむく。鍬形紹真来りて、略画をゑがく。中川修理太夫殿の臣何がし、郡山の臣    何がしなど相客なり〟(注15)       これは大田南畝の日記。武家屋敷に招かれての揮毫である。席画はおそらくその場で画題が示されるこ   とも多いのだろうから、誰にでも出来るものではない。自在な筆遣いを有する北斎や北尾政美こと鍬形紹   真クラスにして可能なのだろう。それにしても、芸者つきの賑やかな酒宴の席である。時には興に乗じて   狂歌の賛をその場で認めることもあったに違いない。    一方、杯盤狼藉といった豪放な席画の挿話も伝わる。明治三年の書画会でのこと、泥酔した河鍋暁斎が   貴人を侮辱するような絵を画いたとしてその場で逮捕されるという事件があった。惺々暁斎、文字通り大   酒のみの猩々と化してしまったわけである。(注16)    席画(本HP)   ◯曲画(作画パフォーマンス)   〝(本願寺名古屋別院境内 文化十四年(1817)十月五日 大達磨の曲画)    北斎及び手伝いの門人等、玉襷(たまだすき)かけて其の技をなす、米俵五箇の藁(わら)もて作れる大筆    及び中筆小筆、其の外棕櫚(しゅろ)皮・蕎麦がら等もて造りたる筆にて達磨を画く、見物の貴賤群集し    て山の如し 頭のかた半分描きてのち かねて左右六間隔てゝ建て置つる二本の杉柱に、機転(からく    り)し(滑車を仕掛け)、紙の上の方の両端に苧(麻)縄を付け 轆轤(ろくろ)もて引揚げ 大長暖簾(おお    ながのれん)を懸けたる如くす 扨(さて)残りたる料紙を地に延べ敷き、下の方を画き終りぬ、代赭石・    丹・朱等綵(いろど)りたれば、残れるくま(隈)なし 翌六日 猶(ほ)懸け置きて、諸人に一覧なさしむ、    実に奇代の壮観也〟(注17)    これは絵の出来栄えもさることながら、作画行為そのものを見せようという催しである。やはり北斎の   二度の大達磨、文化元年(1801)護国寺の作画と、上掲名古屋の作画が有名で、下掲のような史料も今に伝   わる。    また、畳三十畳(一説五十畳)に水滸伝の豪傑・九紋龍史進の憤怒像を画いたという、嘉永六年(1853)の   国芳およびその一門の集団曲画もまた出色であったようだ。仕上げは「衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着   色を施せり」と、実に豪快なパフォーマンスで締めくくった。「闊達磊落を思ふべし」とは斎藤月岑の感   想である。(注18)    曲画(本HP)    北斎席画の大達磨 小田切春江画(『尾張名所図会附録』巻之一)    北斎画大達磨 猿猴庵画(『北斎大画即書細図』)   ◯代行カメラマン    天保六年(1835)閏七月のこと、両国に猩々に似た童子の見世物が出て評判になる。これに興味を抱いた   平戸藩主・松浦静山は絵師を派遣して童子の肖像を写させた。以下、派遣された絵師の報告。   〝我より先に画工国貞〔世に謂ふ浮世絵かきなり。江都の市中に住す〕来りゐて、かの童の真を写す。こ    れは町奉行なるが、窃(ひそか)に命じて、町年寄の手より肖像を描て呈覧すと。定めし是は輪門水府な    どの覧(み)らるべきに就ての、下地なるべし〟(注19)    行ってみたら「浮世絵かき」の歌川国貞が先に来ていて写していた。静山の推測によると、これは「輪   門水府」すなわち寛永寺門跡・輪王寺宮や水戸藩主・斉昭の求めによるもので、町奉行が密かに浮世絵師   国貞を起用して描かせたものだという。国貞はさながら代行カメラマンなのである。    また、ある富豪が、橋場の料亭川口の宴席において、対岸の水神の森や白鬚社方面の景色を一勇斎国芳   に写生させたという記事もある。   〝一日某大族、国芳を携へ江西の川口楼に宴し、水神白髭等の諸勝を図せしむ〟(注20)    国貞は代行で国芳は随行、浮世絵師は時としてカメラ代わりとして重宝がられたようである。   ◯肖像画    国貞は役者似顔絵の名手として知られていたが、顔の特徴を捉えるのが上手なのであろうか、山東京伝・    式亭三馬・曲亭馬琴・十返舎一九・柳亭種彦・談洲楼焉馬・葛飾北斎・初代歌川豊国と、錚錚たるメンバ    ーの肖像をも画いている。(注21)その他、ここでは弟子が師匠の肖像を画いた例、具体的には死絵や追    善絵の例を紹介する。    肖像画(浮世絵師・戯作者)(本HP)   ◯その他      〝髪結床に掛た長暖簾の武者絵は、国芳門の芳艶が殆ど専門で、如何にも勇壮な響きがあり、何人も芳艶    の暖簾には太刀打が出来なかったさうである〟(注22)    芳艶は野外の制作も得意だったらしく、文久元年(1861)の「東都自慢華競」という番付には「大行灯    北二斎一鵞/大看板 一英斎芳艶」と出ている。(注23)    またこんな例もある。   〝(吉野屋という酒屋)四季をり/\の花をうへ、また哥川芳虎に、屏風・からかミ・かべのはりつけま    で、さくらをかゝせたりければ、たれいふとなく、よしつね千本桜の酒やといひなしける〟(注24)    これは吉野屋という酒屋の注文で歌川芳虎が屏風・襖(唐紙)・壁の絵等、室内の装飾絵を請け負ったと   いう例。暖簾や行灯・看板・室内装飾まで浮世絵師の仕事だとすると、江戸の人々は、日常いたる所で浮   世絵師の手跡をみていたことになる。    最後に変わった仕事を紹介して終わりにしたい。   〝(浮世絵師の仕事の中には)一風違つて「文身(ホリモノ)」の絵をかいたものだ 此ほりものが面白い    や「ゑかき」がぶつゝけに背中に筆をとるのだが 其間は大事にして彫つて貰ふ(云々)〟(注25)       これは歌川芳兼の実子にして東京美術学校彫刻科教授であった竹内久一の国芳に関する回顧談。国芳一   門は彫り物の図案を他人の身体に画くだけでなく自分たちも彫っていたという。全体が「彫物をしない奴   は無地と言つて 其の仲間じやァ軽蔑したものサ」という雰囲気だから、弟子たちはみな勇んで彫り物を   したようである。もっとも師匠の国芳と芳兼は、身体には毒でしまいには中風になる、と云ってしなかっ   たらしいのだが。    ともあれ、こんな雰囲気が幕末にはあったらしく、国芳の弟子たちにかぎらず、駕籠かき・鳶・火消し   などなど勇み肌の連中は競って彫り物をしたとのことである。   〝(国芳門下の芳艶と芳輝)共に一枚摺墨仕立ての刺繍の下絵を画く。当時芳艶の児雷也、国輝の狐忠信    とて世間に喧伝せしが、今は両工共に去りて、忠信、兒雷也の像の空しく老人の背後にかすかに残れる    を見るのみ〟(注26)    「空しく老人の背後にかすかに残れる」とあるから、ここにいう「刺繍」とは彫り物の下絵(図案)をい   うのだろう。芳艶の児雷也と国輝の狐忠信が図案としては人気を二分したようである。しかしそれも明治   の末年ともなると、今や諸肌脱いで彫り物を晒す若者を見掛けることもない。湯屋にいけば見るには見る   が、それも老人の背中に張りを失った児雷也と狐忠信がいるばかり。さてさて江戸は遠くなったものだと、   ため息の一つもでるのであろう。    彫り物をみせて啖呵を切る。江戸は、入れ墨という日陰のものを日の当たる彫り物として、一つの文化   にまで高めた。浮世絵師はその昇華に一役買ったのである。      2022/04/28・2022/09/24加筆  (注1)『増補浮世絵類考』ケンブリッチ本 斎藤月岑編 天保十五年(弘化元年・1844)序  (注2)『反故籠』万象亭(森島中良)著(『日本随筆大成 第二期』巻八 p252)  (注3)『若樹随筆』巻七(歌川国芳と弟子たち)(明治三十~四十年代にかけての記事)       歌川芳兼の実子で東京美術学校彫刻科教授であった竹内久一の談      (『日本書誌学大系』29 青裳堂書店 昭和五八年刊)  (注4)『金曽木』惰農子(大田南畝)著(『大田南畝全集』巻十 p309)  (注5)『柳多留』52編34番 文化八年(1811)刊  (注6)『増訂武江年表』文化二年(1805) 2p63 斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊  (注7)『藤岡屋日記』第一巻 p343 文政七年(1824)の項 藤岡屋由蔵記  (注8)「新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付」町奉行の隠密が作成した国芳の身辺に関する報告書      〝右佐七(梅の屋鶴子)は、茶番或ひは祭礼踊練物類の趣向功者の由、同人は国芳え別懇ニいたし候間、同人義(国芳)       板元より注文受け候絵類、図取を佐七え相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取の摸様にて推考の浮評を生し候       由〟(『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p129)  (注9) 錦絵新聞画工一覧 参照  (注10)『明治東京逸聞史』2p201 森銑三著 雑誌『太平洋』(明治39年(1906)刊)の「滑稽堂」記事  (注11)『読売新聞』「押絵の景況」明治23年(1890)11月30日付記事  (注12)『早稲田文学』大正十四年(1925)三月号「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著(『明治文学回想集』上p83)  (注13)『読売新聞』明治25年(1892)12月19日記事  (注14)『細推物理』大田南畝 享和三年(1803)閏一月十九日記(『大田南畝全集』巻八 p351)  (注15)『細推物理』同上   享和三年八月十四日記 (同上 巻八 p386)  (注16)『暁斎画談』外篇 巻之下(河鍋暁斎画 植竹新出版 明治二十年(1887)刊       「暁斎氏乱酔狂筆を揮ひて捕縛せらる 門人梅亭鵞叟篇」(国立国会図書館デジタルコレクション」  (注17)『尾張名所図会』附録 巻之一「画像の大達磨」岡田啓 野口道直編 嘉永六年(1853)序  (注18)『増訂武江年表』2p135(斎藤月岑 嘉永六年(1853)記)  (注19)『甲子夜話 三編2』巻十八 p84(松浦静山 天保六年(1835)閏七月記)  (注20)『香亭雅談』下p18(中根淑著・明治十九年(1884)刊)  (注21)『戯作六家撰』岩本活東子著 戯作六家撰(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)  (注22)『浮世絵と板画の研究』「第一部 浮世絵の盛衰 九 浮世絵の描法に就いて」樋口二葉著 昭和六・七年記      (『日本書誌学大系』35 青裳堂書店 昭和五十八年刊)  (注23)『日本庶民文化史集成』第八巻所収「番付」文久元年八月刊  (注24)『三都寄合噺』所収小咄「立場」鶴亭秀賀作 菊屋板(『噺本大系』巻十六 武藤禎夫編・昭和五四刊)  (注25)『若樹随筆』巻七(文身・ほりもの)(明治三十~四十年代にかけての記事)       歌川芳兼の実子で東京美術学校彫刻科教授であった竹内久一の談      (『日本書誌学大系』29 青裳堂書店 昭和五八年刊)  (注26)『読売新聞』「浮世絵師追考(一)」如来記 明治30年(1897)1月25日記事