Top            浮世絵文献資料館           浮世絵の世界         文化としての浮世絵(3)-「浮世絵」が画いたもの(1)-   加藤好夫   三「浮世絵」が画いたもの   A「浮世」    「浮世絵」という呼称が登場したのは、菱川師宣の絵本、天和二年(1684)刊『浮世続絵尽』と、元禄四年   (1691)刊『月次のあそび』の序からであった。これらは画く対象がそれぞれ違っていた。前者は遊女・役者   ・若後家などといった好色物に出てくるような人物、後者は万歳・寺参り・花見・灌仏会・子規・印地切・   施餓鬼・十五夜・重陽・恵比須講・顔見世・師走光景などの市中の年中行事や風物詩である。にもかかわら   ず、序者・摂津国住の闇計(あんけ)は、それらを「大和うき世絵」・「うき世絵」と一括りにした。要する   に、師宣の画く図様の中に、序者が見たものは、画題の違いをこえて一貫する「浮世」だったということに   なる。   それではその「浮世」とは何か。   山東京伝の考証随筆『骨董集』(文化十一年(1814)刊)によると、江戸の幼女は、針縫いの習い始めに、三  角の綿入り袋を作って玩具としていたとのことである。これを「浮世袋」と呼んでいたが、この頃には、こ  れが何に由来するものやら、もはや分からなくなっていたらしい。そこに関心の目を向けたのが、北尾政演  こと山東京伝で、古書にあたって調べてみると、どうやら遊女屋の暖簾の割れ目(京伝は「縫留(ぬいどめ)」  と記す)のところに縫い付けた三角状のものをそう呼んでいるらしいことが分かった。つまり、遊女屋に起  原をもつものが、どういうわけか幼女の手遊び具に変じていたのである。   さてその考証過程で、京伝はあることに気がついた。「浮世笠」「浮世髻(もとゆひ)」「浮世巾着(きん  ちやく)」など/\、語頭に「浮世」を冠する言葉が案外多いのである。これらはいずれも慶安から宝永年  間(1648-1710)にかけて流行った古語であった。なかには「浮世小路」や「浮世絵」のように、京伝の時代  にも使われていた言葉もあるが、その多くは既に死語化していて、それらがどのようなものなのか不明瞭に  なっていた。ともあれその考証の過程で、山東京伝は「浮世」については次のような結論にたどりついた。   「昔はすべて当世様(たふせいやう)をさして浮世(うきよ)といひしなるべし」(注1)   「浮世」とは、当時の言葉でいえば「当世様」、現代の言葉でいえば「現代風」「現代的」という意味の  言葉だというのである。例えてみると、「浮世笠」は現代風の笠、「浮世髻」は現代的なヘアースタイル、  「浮世巾着」は現代的なデザインの巾着といった具合なのだろう。いずれも、今現在の変化に敏感な精神か  ら生まれ出た言葉であり、新しいもの・珍しいものを愛でる感性がなければ生まれない言葉なのである。し  たがって、後世を頼むような心、あるいは現世を悲観的に見るような心とは無縁の言葉とみてよいのだろう。   なお京伝は「岩佐氏を当世又兵衛といひしも当世様の人物を画きたるゆゑならん」と推測する。岩佐又兵  衛が当世又兵衛と呼ばれるのは、岩佐又兵衛が「当世」すなわち「浮世」を画いたからだというのである。  岩佐又兵衛を浮世絵の祖とする見方が江戸では一般的だったから、当世又兵衛と岩佐又兵衛を同人視するの  は自然であった。もっとも京伝は後述のように二人を同人視していないのだが。   さてこの京伝に続いて、更に踏み込んだ考察を加えたのが柳亭種彦であった、文政九年(1826)以降になっ  たとされる『柳亭記』にはこう記されている。   「浮世といふに二ツあり。一ツは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一ツは浮世   は今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり」(注2)   「浮世」という言葉には二義あり、一つは後世を頼むしかないほど辛い世の中という意味の「憂世」、も  う一つは「今様」すなわち「現代風」を意味する「浮世」。種彦はそれを踏まえて「浮世絵は今様絵なり」  としたのである。(注2)京伝の「当世様」に対する種彦の「今様」、その意味するところは両者とも「現  代風」で同じである。したがって、京伝に「浮世絵」そのものへの直接的な言及はないのだが、種彦のいう  「浮世絵は今様絵なり」という見立てには同意するものと思われる。   ところで、こうした見立てが江戸に限ったものかといえば、必ずしもそうではなく、上方でもはやくから  共有されていたようだ。元禄五年(1692)、江戸で出版された『万買物調方記』という地誌の中に「当世絵師」  という一項目があって、そこには次のような記述があった。   「京ニテ当世絵書  丸太町西洞院   古 又兵衛/ 四条通後たひの後 半兵衛」   「江戸ニテ浮世絵師 橘町 菱川吉兵衛/同 吉左衞門/同 太郎兵衛」(注3)   江戸の「浮世絵師」に京の「当世絵書(かき)」、ともに「当世絵師」とひと括りにされているところから  推しても、両者が同じもの、つまり現代を画いていると見なされていたことが分かる。「浮世絵」の第一義  が現代を画くことにあるという認識は、東西においてはやくから共有されていたとみてよいのだろう。   さて、この記述でもう一つ興味を引くのは「古 又兵衛」というところ。これについては、『浮世絵類考  追考』の山東京伝も『増補浮世絵類考』の斎藤月岑も、ともに「岩佐又兵衛が名を似せたる物なるべし」と、  両者を区別していた。これは当時、当世又兵衛とか、当世絵又兵衛、浮世又兵衛などと呼ばれる絵師名が諸  書に載っていたから、岩佐又兵衛とは別人だと注意を喚起したのである。   なお「半兵衛」は京伝・月岑ともに吉田半兵衛と断じている。江戸の浮世絵師については、なぜ雅号でな  く本名で載せているのか分からないが、いうまでもなく菱川師宣・師房・師重である。(注4)   ところで「浮世」を冠する言葉のなかで、京伝・種彦両者とも取りあげているものに「浮世狂ひ」という  言葉がある。京伝によれば、慶安年間(1648-51)から使われていたようだとあるから、天和元禄期(1680-90  年代)生まれの「浮世絵」よりずいぶん古い言葉である。   両者はこの言葉の意味を、次のようにいう、京伝は「昔は遊女(あそび)にたはぶるゝを浮世ぐるひとい  ひしなり」とし、種彦は「遊女・芸子にもかぎらず、すべて女に戯れあそびあるく事をいふ」と。   つまり「浮世」という言葉には古くから遊女のイメージが漂っていたのである。遊女・役者・若後家など  を画いた師宣の絵本に、『浮世続絵尽』とあえて「浮世」を冠したのも、また序者が師宣の図様に「浮世」  を見たのも、やはり「遊女」から「浮世」へと連想が自然に働くからなのであろう。   なお、頴原退蔵博士の「『うきよ』名義考」という論考によると、「浮世」を冠する言葉は、約八十余例  あり、その多くが俳諧や「浮世草子」の作品中に見られるとのこと。時代的には天和から享保(十七世紀後  半から十八世紀前半)にかけての約五十年間、発生のほとんどがこの時期に集中しているという。また「浮  世」の意味合いについては、「当世」「流行」といった本来の意味のほかに「色気」とか「享楽的」「好色  的」とかいう意味合いも認められるとし、あるいはもっと露骨に「遊女」や「野郎」をさす言葉として使わ  れている場合もあるという。(注5)   とすると「浮世」という言葉は、当時の人々にとっては、ずいぶん含みの多い多義的な言葉だったのであ  る。おそらく「浮世絵」という言葉にもそうしたイメージが漂っていたものと思われる。   (注1)『骨董集』上巻「浮世袋」中巻「浮世袋再考」山東京伝著・文化十一年(1814)刊   (注2)『柳亭記』「浮世」柳亭種彦著 文政九年(1826)以降の記(年次は下記『日本随筆大成』の解題に拠る)       『日本随筆大成』第一期2 吉川弘文館   (注3)『万買物調方記』(別名『買物調方三合集覧』)編者不明 元禄五年(1692)刊        引用は「国立国会図書館デジタルコレクション」画像に拠る   (注4)『浮世絵類考追考』享和二年(1802)記に拠る       『増補浮世絵類考』天保十五年(1844)序に拠る   (注5)『江戸文藝論考』所収 頴原退蔵 三省堂 昭和十二年刊  (休憩)   「浮世絵」と同時に生まれてきた「浮世絵師」という呼称の行く末がどうなったか見ておこう。   天和三年刊『大和武者絵』の序者、この序者は上掲二作と同じ闇計なる人であるが、画工菱川師宣のこと  を「浮世絵師」とも呼んでいた。序に「菱川氏(中略)この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり」  とある。   この呼称、天和年間に生まれてこの方、現在に至るまで使われているわけだから、実に特筆すべき命名で  はあったが、当の師宣がそう呼ばれることを歓迎していたかというと、必ずしもそうではなかった。   貞享四年(1687)刊の地誌・名鑑『江戸鹿子』には「浮世絵師 菱川吉兵衛」とある。この著者・藤田利兵  衛は、上掲の序者・闇計同様、師宣を「浮世絵師」と呼んでいる。(注1)ところが、その増補板とされる  元禄三年(1690)刊の『江戸惣鹿子名所大全』では「大和絵師 菱川吉兵衛」と書き換えられていた。(注1)  なぜ書き換えが行われたのか。どうやらその師宣が、著者・藤田利兵衛や板元に対して、書き換えるよう働  きかけを行ったように思えるのだ。というのも、この挿絵を担当していたのが当の師宣であったからだ。師  宣は、落款に「大和絵師」と署名することはあっても、「浮世絵師」と署名することはなかった。師宣は自  分は「大和絵師」だという意識を常に持ち続けていたのである。したがってこの書き換えでとりあえず「大  和絵師」としての面目を保つことはできたに違いない。   しかしこれを機に師宣に「大和絵師」が定着したかというと、そうはならなかった。師宣の意向に反する  ような動きが、存命中に再び起こったのである。上掲のように、元禄五年(1692)刊の地誌『万買物調方記』  では、またまた「浮世絵師」に戻されている。やはり世間は師宣らの自称「大和絵師」を受け入れないので  あった。(注2)   とはいえ「大和絵師」としてのプライドを保持しようとする師宣の姿勢は、その後の画工たちにも受け継  がれていった。例えば、奥村政信や西川祐信や鈴木春信たちは落款に「大和絵師」を冠し、鳥居清信は「和  画工」を宮川長春は「日本絵」を冠するといった具合である。しかし皮肉なことに、江戸の人々も現代人も、  彼等のそうしたこだわりや意向には、すこぶる無頓着であった。それどころか「浮世絵師」と呼ぶことが、  彼等の意に反していることすら、まったく意識していなかったのではないか。(注3)  もっとも、幕末になると、「浮世絵師」を自ら名乗ったり、「浮世絵師」と呼ばれることを容認するような  画工も次第に出始める。時代の趨勢に抗しきれなくなったのか、あるいは自ら担おうという意識変革が起こ  ったのか分からないが、「浮世絵師」という呼称はいつの間にか当然視されるようになっていったのである。     (注1) 江戸鹿子・江戸惣鹿子名所大全   (注2) 万買物調方記   (注3) 呼称「浮世絵師」の時系列   B「時世粧」   菱川師宣の図様が版本などを通して市中に浸透し、この画風にならう画工が増えるにつれて、「浮世絵」  という呼称も次第に一般化していった。しかしこれとは別に、漢語による呼称もそれなりに流通していたの  で、それを取りあげ「浮世」の意味を考えるうえでの補足としたい。出典は享保三年(1718)になったとされ  る英一蝶の「四季絵跋」である。  「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人うき世又   兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞつて風流   の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべにまよひ、   時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よしなきうき名   の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり」(注1)     一蝶は、岩佐又兵衛(俗称うき世又兵衛とする)と菱川師宣とを同じ流れにあったものと認め、その特長  を「時勢粧」を写すことにあったと見ている。画題としては「歌舞白拍子」の文言や「あだしあだ浪」とい  う小唄「朝妻船」の歌詞もあることから「浮世」という言葉を想起させる遊女である。   では「時勢(世)粧」とは何か。ヒントはその訓読みにある。ただ一蝶のこの跋には読み仮名がないので他  に当たって参考にしたい。(以下、半角カッコ(よみがな)は原文のルビ)   もともとこの「時世粧」という漢語は『白氏文集』所収の「新楽府」に見える語であった。詩題「上陽白  髪人」に「天宝末年時世粧」の語句があり、「時世粧」に「粧成」の語がある。この白居易の語句を日本で  はどう訓じたのか。慶安三年(1650)刊『新楽府』で、訓点をほどこした奥田松菴なる人物は、前者を「天宝  の末の年の時世粧(いまやふすがた)なれば」、後者を「粧ひ成て」と訓読している。「粧ひ」とは「よそほ  ひ」で「時世粧」は「時世(ジセイ)の粧(ヨソオ)ひ」と読むのであろう。そうすると「時世粧(いまやふすがた)」  と「時世(ジセイ)の粧(ヨソオ)ひ」とは同じ意味の言葉ということになる。白居易の詩における「時世粧」は具  体的には、世の女性の間に流行している化粧スタイルを意味するらしい。(注2)   以下、「時世(勢)粧」の用例の読みとその意味するものを古書の中から集めてみた。読みはすべて「イマ  ヨウスガタ」である。(※ 詳しくは「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列 を参照のこと)   寛文12年(1672)頃『時勢粧』  松江維舟編  俳書   現代の年中行事や四季の景物(注3)   貞享4年 (1672) 『男色大鑑』 井原西鶴著  浮世草子 現代風の役者の舞   元禄1年 (1688) 『新可笑記』 同上     同上   現代の流行歌謡(注4)   享和2年 (1802) 『絵本時世粧』歌川豊国作画 合巻   現代の女の容姿(注5)    式亭三馬の序に「時世粧(イマヤウスガタ)てふみは、たと(貴)きよりいやしきまで、あるとある女(ヲ    ナ)のかたち、よしあしのさまを、空みつやまと画にうつし(云々)」現代の貴賤さまざまな女の容姿    を大和絵の画法で写したとある。   文化7年 (1810) 『燕石雑志』滝沢解(曲亭馬琴)著 随筆 現代の風俗(注6)    寛文から貞享にかけての武士の笠や歩行スタイルに関する考証記事。「菱川が画はみなこのころの時勢    粧(いまやうすがた)なり」とある。       上掲のように、山東京伝は「浮世」は「当世様」、柳亭種彦は「浮世絵」は「今様絵」であった。そうす  ると、現代の様相を意味するという点では「時世粧」も「浮世」も同じであり、浮世絵とは現代の様相を画  いたものということになる。現代の年中行事や四季の様相、評判の役者や遊女そして貴賤を問わない世俗男  女の流行風俗、これらを画いたものが「浮世絵」というわけである。馬琴のいう師宣の絵はみな師宣が生き  た時代の「時勢粧」に他ならない。だからこそ「浮世絵」は風俗考証の典拠になりうるというのだ。そして  それらの「浮世」を「やまと絵」の画法、伝統的な日本画法によって写し取ったものが「浮世絵」だと三馬  はいうのである。  ※〔国文研 古典籍DB〕は、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録データベース」の略   (注1)「四季絵跋」英一蝶 享保三年(1718) 出典:「日本の美術1」№260 小林忠著『英一蝶』所収   (注2)『新楽府』白居易作 奥田松菴訓点 出典:早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」画像   (注3)『時勢粧』出典:早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」画像。外題は「時勢粧」「時世粧」「今様姿」       「いまやう姿」となっている。〔国文研 古典籍DB〕       〔国文研 古典籍DB〕は「時勢粧」を「いまやうすがた」と読んでいる   (注4)『男色大鑑』巻5・1「泪のためは紙見せ」       「村山座の花ざかり、藤村初太夫すぐれて◎恮(うつくし)く、時勢粧(いまやうすがた)を舞事をえたり」        とあり、これは現代風の舞を意味する。※◎は「忄+可」       『新可笑記』巻1・1「利非の命勝負」        奈良春日の美童二人が「時勢粧(いまやうすがた)をよくうたふに」とある、現在流行の歌謡を意味する        出典は共に、〔国文研 古典籍DB〕画像   (注5)『絵本時世粧』式亭三馬の序に「時世粧(イマヤウスガタ)てふみは、たと(貴)きよりいやしきまで、あるとある        女(ヲナ)のかたち、よしあしのさまを、空みつやまと画にうつし(云々)」とあり、本書は現代の貴賤さまざ        まな女の容姿を大和絵の画法で写したとする        出典:〔国文研 古典籍DB〕画像   (注6)『燕石雑志』巻三「浅草の事実」出典:〔国文研 古典籍DB〕画像  C 現代を写し出す鏡としての浮世絵   現代を画くという浮世絵の特性に注目した人物に寛政改革を主導した松平定信がいる。  「今の世のけしきゑがき、すみ田川の遊舫をうかめ、梅やしきのはるのけしきなど画くは、浮世絵のいやし   き流のゑがくところにして(中略)うき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし、真の山水をものち   の證とはなすべし」(注1)   浮世絵を「いやしき流」としながら、「いまの風体」を後世に伝えるという点において、その役割を果た  せるのは浮世絵しかないと、松平定信はいうのである。   文化年間の初め、彼の発案で、当時の江戸市中の諸職を画いた『近世職人絵詞』が制作された。絵師の人  選にあたって、その確信が反映されたのであろうか、鍬形蕙斎が抜擢された。蕙斎は、当時こそ津山藩お抱  えの絵師であったが、その前身は北尾政美を名乗る浮世絵師であった。『武江年表』によれば、政美は畳屋  の生まれとあるから、職人の形振りや心情のありようを幼いころから見聞きしていたはずである。(注2)   蕙斎起用が定信自身の判断によるものか、誰かの推薦なのかは分からない。しかしかつて浮世絵の画工で  あった蕙斎が適任だったことは間違いない。考えてみれば、定信の身辺には画域の広いことで知られる谷文  晁がいたのである。命じてもおかしくはないのだが、それを敢えてせず、浮世絵の画法を身につけた蕙斎に  依頼した。この人選は、現代を画くには浮世絵が最適とする定信の浮世絵観に沿って行われたに違いない。   ついでにいえば、この絵巻の詞書を担当したのが、山東京伝と杏花園(大田南畝)と手柄岡持(朋誠堂喜三  二)。京伝は家主の生まれで町人、南畝は幕臣の下級武士、喜三二は秋田藩臣で江戸の留守居役を務める武  士、身分も地位もそれぞれ異なるが、三人とも狂歌と戯作という町方の文芸圏内において交遊していた。そ  こでは世俗の身分等が棚上げにされ、さまざまな人々が一民間人として交際する。そういう意味からすると、  この絵巻は町方自身の手によって制作されたと言って見よいのであろう。   この四者を指名したのが定信かどうかは分からないが、かつての老中首座・松平定信、この制作を依頼す  るにあたって、町方のことは町方の手でという幕府の方針を、ここでも貫いていたともいえる。   文政九年(1826)、長崎のオランダ商館医であったシーボルトが、商館長の参府に随行して江戸を訪れた。  滞在すること約一か月余、この間、日本に関する様々な資料を精力的に収集したが、江戸の市中風俗図も含  まれていた。現在オランダのライデン国立民族博物館が所蔵する江戸の風俗・行事図等がそれである。   そもそも植物学や民俗学の研究資料として図絵は必須である。そのためシーボルトは「出嶋出入絵師」で  あり、専属カメラマンともいうべき河原慶賀を重用し、様々なものの写生に当たらせていた。(注3)   しかし江戸の風俗図となると、慶賀は長崎人であるし、この滞在期間では年中行事などの写生はとても無  理である。したがって江戸の絵師にあらかじめ依頼するほか仕方がなかった。そこで抜擢されたのが葛飾北  斎であった。   この人選が誰かの推薦なのか、シーボルト自身の意志によるものか判然としないところもあるが、シーボ  ルトにとっては満足のいく起用だったに違いない。   彼の『江戸参府紀行』をみると、二月のくだりに「日本の画家北斎は彼の画集の中で、農夫がフキの大き  な葉の下で、雨宿りをしている有様を画いている」という記述がある。これは『北斎漫画』七編(文化十四  年(1817)刊)所収の「出羽秋田の蕗」図である。(注4)おそらく、シーボルトは着任早々から、北斎の絵  に注目していたに違いない。ライデン国立民族博物館が所蔵するシーボルト・コレクションの中では、北斎  の版本が一際目をひくという。彼は北斎の鋭い観察力や画家として力量を高く評価していたのである。(注5)   風俗・行事図のなかの一点に、節季仕舞をしている商家を画いた作品があり、そこには「文政七 正月吉  日」とある当座帳が画かれているという指摘がある。(注6)このことから判断すると、北斎への作画依頼  は、文政七年の頃になされたものと推定できる。シーボルトの長崎着任は文政六年(1823)の八月であるから、  考えてみればずいぶんスピーディーな人選であったように思う。   北斎はなにより現代の様相を画く浮世絵師であった。このコレクションが民族学的にも絵画的にも価値あ  るものとなったのは、ひとえに北斎が群を抜いた浮世絵師であったからにほかならないのである。   最後に、現代の画くという浮世絵の特長を頼みとして、浮世絵師に作画を依頼した例をもう一つみてみよ  う。依頼主は徳川幕府であった。   慶応三年(1867)、パリで万国博覧会が開催された。幕府はフランス政府の出展要請に応じて、日本の特産  物、衣食住にわたる生活必需品および根付・化粧具・人形などの嗜好品を大量に出品した。肉筆絵としては、  狩野勝川院(雅信)率いる御用絵師と江戸市中の有名な町絵師が、「草花」の図をそれぞれ一帖ずつ、そして  浮世絵師が「浮世絵」の画帖一帖ということで、合計三帖制作することになった。そのうち「浮世絵」の画  帖は、当初一帖五十枚で三帖(合計百五十枚)の予定であったが、制作が間に合わず、結局のところ二帖百枚  に留まった。とはいえ、たいそう大がかりな制作ではあった。   さて「浮世絵」の題材はというと、官女・奥方・町屋女房・遊女・芸者・田舎娘・小原女・鳥追などあら  ゆる階層の女絵と祭礼・花見・花火など年中行事に風物詩、さらに加えて江戸市中および近郊のいわゆる風  景画であった。(注7)   これらの作画を町奉行より命じられたのは、芳艶・芳幾・国周・芳虎・芳年・立祥(広重二代)・芳員・貞  秀・国貞・国輝、合計の十名の浮世絵師。(注8)(井上和雄編『浮世絵師伝』によれば、ほかに芳宗が入って十一名)   幕府としては当時の浮世絵師の総力を結集してパリ万博に備えたといえよう。ではどのような経緯で浮世  絵師が起用されたのか。   この方面の調達責任者である勘定奉行から、町奉行や御細工頭(表装等の担当)に宛てた書き付けに次のよ  うな文面がある。  「浮世絵帖 右は(中略)御細工所にて御出来相成候様、此程申上置候処、右は市中浮世絵師共に無之候て   は出来不致趣に付、町奉行にて引請(云々)」(注9)   浮世絵は市中の浮世絵師でなければ画けない。それで、勘定奉行は、町方を管轄する町奉行に、浮世絵師  の手当を命じたのであるが、この言はいったいどこから発せられたのであろうか。御用絵師や町絵師たちが  世俗世界の作画は我が任にあらずとして、プライドを盾に忌避したのであろうか、それとも松平定信のよう  な浮世絵観を有する幕閣がこの当時もいたのであろうか。真相はよく分からないが、いずれにせよ、フラン  ス政府の要請に応えるためには、幕府は浮世絵師を起用する他なかったのである。   さて、本稿は浮世絵を次のように定義づけていた。   「浮世絵とは江戸の日常生活を彩る表現メディアである」   この定義の中にある「彩る」には、画く・飾る・趣きを添えるなどの意味がある。   これを「画く」という観点で解説すると、浮世絵は、創始者の菱川師宣から幕末の浮世絵師にいたるまで、  まさに江戸の日常生活の、そのつどの現代の様相を画き続けてきたともいえるのである。 (2021/03/31記)     (注1)『退閑雑記』松平定信・寛政五年(1793)記〔『続日本随筆大成』第六巻 p35〕   (注2)『武江年表』文政七年(1824)の鍬形蕙斎死亡記事中、喜多村筠庭の補記に「蕙斎はもと竈河岸畳屋の子也」とある   (注3)『シーボルトと町絵師』p24 兼重護著 長崎新新書008   (注4)この図は『北斎漫画』七編(文化十四年・1817刊)所収の「出羽秋田の蕗」とされる。東洋文庫本87 p50   (注5)『シーボルトと日本』展(1998年)カタログ。狩野博幸解説「オランダにのこる日本美術」による   (注6)『シーボルト父子のみた日本』展(1996年)カタログ。河野元昭解説「シーボルト・コレクションの美術史的意義」   (注7)『徳川昭武滞欧記録』第二 大塚武松編 日本史籍協会 昭和七年刊        「八 浮世絵引合覚書」(国立国会図書館デジタルコレクション)画像 230/286コマ   (注8) 同上「七 浮世絵師の件、町奉行より勘定奉行への照会書」画像 231/286コマ   (注9) 同上「四 浮世絵画帖の件上申書」画像 229/286コマ
Top浮世絵師総覧浮世絵の世界