Top浮世絵文献資料館浮世絵の世界
            二つの「浮世絵」-「うきよゑ」と「UKIY0-E」-(2)                                           加藤 好夫     二 西洋の「UKIY0-E」観        ここでは、エドモン・ド・ゴンクールとエルネレスト・エフ・フェノロサ、二人の西洋人について、彼等  には浮世絵がどのように見えていたのか、それを簡単に振り返ってみます。   A エドモン・ド・ゴンクール(1822-1896)     この人はフランスのジャポニスム(日本美術愛好趣味)の中心にいた人物としてとても有名です。彼は18  91年(明治24)『歌麿』を出版しました。(以下、引用は『歌麿』から)      まず、線描・色調・構図について、彼は次のような分析をします。これが前述クルトのいう「美的見地」  からの評価ということになります。    「女の額やこめかみなど髪の生え際は何千という細線で表されており、こうしたおびただしい細部描写の貴   重な見事さは特筆に値する」  「白い月光のように事物に映える銀の地色を背景に、女たちが控えめな色調で描かれている。彼女たちは薄   紅色の肌に、トルコブルー、スグリのようなバラ色、緑がかった金色など優しい色合いの着物をまとって   おり、こうした色調は、かつてどんな国の色刷り版画にも見られたためしはない」  「明るく照らし出された女性たちと蚊帳の緑の薄暗がりにいる女たち、つまり紙枠の背後で演じられる美し   い影絵芝居のような女性像を比べるという、常套的構図に画家の筆の冴えが感じられる」      こうしてゴンクールは歌麿の「繊細の極致に達した」線描を高く評価し、微妙に映える色調を称え、仄明  かりの世界と仄暗い世界を蚊帳の内外(うちと)に配した構図の冴えに感心します。そのうえでなおかつ、  彼が特筆するのは次の三点です。      1 色調の魔術師     彼は吉原のある遊女の絵について、次のようなため息を漏らしています。    「これほど甘やかで消え入るような調和をみせる版画を、私は他のいかなる国でも見たことはない。その色   合いは、筆を洗った筆洗の器に残る色で彩色されてでもいるようなのだ。つまりこれは色絵具の色合いで   はもはやなくて、色を思い出させる雲のようなものなのである」      さらに、彼は「錦絵よりも上等な小版画(摺物)」が実現している「甘く解け合う調和のとれた色彩」が  織りなす「魔法のような色調」を見て「かくも巧妙に格調たかく配する技を」「いかなる民族の版画」にも  見たことがないと絶賛するのでした。色調の魔術師・歌麿はゴンクールに視覚上の快楽をもたらしたわけで  す。     2 理想の女性美      ゴンクールは遊女や芸者を超えて女性一般を見ています。彼は無論江戸の遊女について林忠正を通して一  通りの知識を得ています。したがってその作品が遊女を画いたものであることは十分しりつつ、なおかつ次  のように言うのです。    「歌麿は女性を理想化する画家である」  「ある日本人男性の特筆すべき言によれば、遊女から彼は「天女を作り出した」のである」      ゴンクールが、吉原の扇屋・花扇の姿絵を見て、そこに見いだしているのは、花扇という具体的な遊女の  美しさではありません。歌麿が理想化した女性美なのです。歌麿が遊女絵において「天女を作り出した」と  言ったのは、恐らく林忠正の言だと思いますが、ゴンクールもそれに賛同して、歌麿は個々の遊女の美しさ  を画き出したのではなく、普遍的な女性美を造形したというのでしょう。つまり歌麿は日本の伝統的な描法  に拠りながら、歴史に名を残す古今の世界の画家と同様、理想の女性美を実現したのだと。   3 型通りの描法と写実的描法との同居     もう一つ描法上でゴンクールが驚嘆するのは、『えほんむしえらみ(絵本虫選)』などに見られる克明な  写実です。歌麿は「彼が望みさえすれば、鳥や爬虫類、貝類、そう、ごく小さな貝などをも、非常に正確に、  細密に画く素描家に変貌した」また「彼はどのような博物誌をも注意深く、かつ芸術的に描写する挿絵画家  となった」とも言います。ゴンクールには、美人画における「細い弓なりの眉をした、ほとんどすべて同じ  ような顔つき」のステレオタイプな描法と、西洋の博物誌にも匹敵する細密な写実的描法とが同居する歌麿  の存在が不思議でならなかったようです。   次いでにいえば、ゴンクールはまた春画にも熱弁を揮っているいます。  「日本の民族のエロチックな絵画は、高潮した筆致、猛り狂うような性交の激しさ、熱狂など、まさに研究  に値するものである」「そして、こうした肉欲の動物的営みの熱中の中にあって、人間存在の滋味豊かな精  神集中、心穏やかな自己沈潜のようなものが見られるのはなんたることこどだろう。ここには我々のプリミ  ティブの画家たち〔初期ルネサンスの画家のこと〕に見られるような、深くうなじをたれた宗教儀式じみた  姿勢、殆ど宗教的にすら見えるほどの愛の行為が画かれている」     ゴンクールは歌麿の春画を絵画芸術としての完成度という観点から高く評価している。当時の日本人の中  にも春画を美的な観点から評価する人はいたに違いないでしょうが、さすがに宗教的な意味合いを見て取る  人はいなかったと思います。ましてや鎧櫃に入れて武運長久を願うといった春画の効能を信じていた日本人  にはまったく及びもつかぬ見解でしょう。     B エルネレスト・エフ・フェノロサ(1853-1908)      明治十一年(1878)の初来日以降、再三日本を訪れて、日本の美術研究および教育に大きな足跡を残したア  メリカ人のフェノロサ。当初は浮世絵にあまり興味はなかったようなのですが、清長や北斎を目にするよう  になってから次第に開眼、彼もまた浮世絵の大の賛美者になりました。     「浮世絵にはあらゆる分野の絵画的世界が表現されており」  「描線、濃淡、および色彩の調和」に関する取り決めがなされるとすれば、それは主にこれら日本の版画に   基づかなければならないだろう」(注1)  「例へば奥村政信、春信、清長、又北斎の板物(版画)の意匠及び手訣(画法)に於て、明らかに審美学上世界   の好標本なるを確信せざる者一人も無し」(注2)      要するに浮世絵には絵画の規範とすべきものが既に備わっていると、まさにゴンクールに劣らぬ最大級の  賛辞であります。ただフェノロサは、特定の浮世絵師に密着して浮世絵の本質に迫ろうというゴンクールと  は違い、客観的な立場から浮世絵を見て、世界の中で位置づけたり、あるいは歴史の流れの中で位置づけよ  うとします。     1 世界の浮世絵      フェノロサはギリシャ芸術、ゴシック建築、ルネサンス美術、イスラム様式などを念頭に置きながら、こ  う言っています。     「日本美術は十分には探求されていない世界美術の中でも、ただひとり偉大な主体をなしている」(注1)  「ジョットとマザッチョとべルリーニでさえ稀有なる不朽の列伝に永遠の位置をしめているのだから、師宣   と春信と清長と北斎は世紀を超えて傑出した先導者であり続けるであろう」(注2)       言うまでもなく、鎖国下の日本で、世界美術という観点から浮世絵を見た日本人は皆無でしょう。やはり  こうしたグローバルな視点は、このフェノロサのような西洋人によってもたらされるほかなかったのでしょ  う。      また日本絵画の流れの中に浮世絵を置いたとき、フェノロサの目には浮世絵がこう映っていました。     「手訣(画法)、標準、題目、及趣味につき、古代又は同時代の貴族派より得たる処殆ど無し」  「職人気質の庶民の美術」  「浮世絵ほど自らの手で庶民自身のために忠実な記録して残されたものはないであろう」      「標準」というのが今ひとつピンときませんが、要するに、画法・画題・趣向上の伝統といったものを、  古代から現代までずっと貴族がリードしてきたわけですが、浮世絵はそれらに縛られていないというのでし  ょう。しかも自らの手で自らを画くのですから、浮世絵とはいわば近世庶民の自画像のようなものだという  のです。    それでフェノロサは八つに分けた江戸時代の絵画の一角に浮世絵を据えて独立させました。土佐・狩野・  琳派・四条派・南画・仏画・南蘋派、そして浮世絵です。浮世絵は表現媒体を大量生産の可能な版画にした  ことにより「美術を廉価にし、全国民をして之を得(エ)易(ヤス)からしめ」ることに成功しました。つまり美  術の享受層の拡大に貢献したというわけです。それもあって彼は、公家・武家の求めに応じて画く土佐・狩  野等の本絵と庶民の自画像ともいえる浮世絵とを明確に区別して、独自の位置づけをしたものと思われます。     2 学問の対象としての浮世絵      明治三十一年(1898)、コレクターの小林文七が浮世絵の展覧会を主催しました。前年にも小林は展覧会を  開きましたが、この時は肉筆のみ。今回は肉筆・版画・版本合わせて201点にも及ぶ大規模なものでした。  画期的だったのはその展示方法で、第一番目の岩佐又兵衛から第二百一番目の広重まで、その一つ一つにつ  いて、彩色・筆力・意匠・構図といった観点から、フェノロサが品評を加え、なおかつ「時代に従ひて陳列  し、且つ之に製作の年代を附し」ました。   これは1896年(明治29)、ニューヨークで開催された展覧会に倣ったものですが、「証憑(証拠)によりて  板物肉筆に精細なる年代を附するは、日本にては本会を以て嚆矢とすべし」で、いわゆる実証主義に立脚し  て浮世絵を時系列順に陳列するという本邦初の試みでした。つまり浮世絵を実証的学問の対象として見たわ  けです。(注2)     「浮世絵師が以上の諸点(市中の風俗、衣服、結髪法、模様、室内の状態、市街の景況等)に関し、力(ツト)   めて年々の流行を逐ひしは、当時の人民が風俗に関する審美学上の特徴につき、鋭利なる興味を有せしを   證す。婦人結髪の法は時として明(アキラカ)に一年以内に変化せりと思はるゝあり。此の如き細微なる社会学   的事実をば、技芸上の審美学的諸性質と潜心比較したる後、吾人は精細なる年代を附するを得るに至りし   なり」(注2)     要するに、浮世絵師が専ら画く「風俗、衣服、結髪法、模様」等の流行の諸相、それをフェノロサは「事  実の無双の倉庫」と呼んでいますが、こうした事実を実証的に追っていけば、当時の人々の美意識がどのよ  うなものであったか知ることが出来るし、また制作の年代も「精細」に推定可能になるというのであります。   日本でも江戸時代、近世風俗の起原や変遷の考証に浮世絵を史料として使うことは行われてきました。例  えば、山東京伝の『骨董集』(文化十年成立・1813)や、柳亭種彦の『還魂紙料』(文政九年刊・1826)な  どが知られています。しかしこうした考証類の興味は専ら風俗の変遷の方にあったわけで、絵そのものに注  目しているわけではありません。     また浮世絵の展覧会を開くなどということは、江戸期はもちろん維新直後の日本人にはまったく考えられ  なかったに違いありません。当時の人々にとって、浮世絵は日常生活の中にすっかりとけ込んでいましたか  ら、わざわざ取り上げて品評するという発想がそもそも出てくるはずもないのです。   それでも明治十年頃になると、西洋での高い評価に影響されて、国内でも浮世絵を見直す人々がぼつぼつ  現れ始め、吉原の遊郭内や猿若町の劇場内で展覧会が行われたという記事も見かけるようにはなります。(注3)   しかしそうした気運が、浮世絵を国民全体の財産と位置づけて、学問的に研究しようという方向に高まっ  ていったかどうかとなると、疑問はあります。はやり一部の好事家の閉じられた世界での催しに留まってい  たのではないでしょうか。   フェノロサは「(江戸時代の)浮世絵を野鄙なり平民の美術なりとして蔑視したるは、やゝ英国清教徒の  シェクスピーア時代の劇場の粗野なるを嫌忌せしに似たり」とし、また「明治の保守主義も亦(マタ)浮世絵を  以て些細無価値なるもの」とする傾向が依然としてあることを指摘しています。   フェノロサが展覧会の開催をもって、これらの傾向に警鐘を鳴らす好機と捉えたことは言うまでもないで  しょう。   そしてフェノロサは日本人の浮世絵に対する蔑視ともいうべき偏見を正そうとします。     「日本美術が西洋でもっとも知られて評価が高いのは、おそらく浮世絵部門のおかげであろう」(注1)  「日本人がその美術教育上の無双の価値を認めざる唯一の人民なるは奇とすべし」(注2)     浮世絵は線描・色彩・構図の面において「如何にせば最も簡単広闊巧妙なる結果を得べきかの智識」を自  ら湛えているばかりでなく「全世界中美術の根本的原則の最(も)豊富なる出所」であると、彼は高く評価し  ています。にも関わらす、肝心の日本人がその「無双の価値」に無頓着であることを、奇妙に思うのでした。  そして「単純、一致、調子、濃淡、又調和即ち往々今日の日本美術に欠くる所は夙(ツト)に茲(ココ)に明示せ  られぬ」として、当時の明治美術に欠落している「単純、一致、調子、濃淡、又調和」が、ほかならぬ浮世  絵の中に存するのではないかと苦言を呈するのでした。     (注1)エルネレストF・フェノロサ著 『浮世絵史概説』1901年(明治34)刊      引用は高嶋良二訳・新生出版(2008年刊)より  (注2)エルネスト・エフ・フェノロサ著「浮世絵展覧会目録緒論」重野安繹「浮世絵評伝序」      『浮世絵展覧会目録』蓬枢閣(小林文七)・明治31年(1898)刊  (注3)「明治以降浮世絵界年譜稿(其一)」吉田瑛二著『浮世絵草紙』所収・1945年刊      C 西洋の「UKIY0-E」観     1「浮世絵」を日本の浮世絵から世界の浮世絵へと飛躍させたこと。      日本の「うきよゑ」が世界の「UKIY0-E」に変貌を遂げたわけです。浮世絵はローカルからグローバルなも  のへと昇華し、世界の共有財産と位置づけられました。      2 浮世絵を普遍的な価値を表現する芸術として捉え、浮世絵師を芸術家と見なしたこと。     ゴンクールは歌麿からワトーを想起し、フェノロサは師宣・春信・清長・北斎らをジョットとマザッチョと  べルリーニのような不朽の列伝に加えるべきだと主張し、クルトは写楽をドーミエの諷刺画に対するのと同様  の視点で捉えています。東洋・西洋といった地域性や民族性を超えて、浮世絵師は普遍的な価値の表現する芸  術家だとするのです。      3 浮世絵を学術的な研究対象と位置づけたこと。     前述したクルトの言「芸術的評価を歴史的事実の確固たる骨格の中に入れなければ、確かなことは得られな  い」という時の「歴史的事実」の重視、それは具体的には、フェノロサの云う「事実の無双の倉庫」であると  ころの「風俗、衣服、結髪法、模様」の諸相を重視することにほかなりません。これが結局彼らの実証主義を  支えているものなのです。     これらの観点が、明治以降、西洋の近代化の一環として、日本にも流入してきて、今や自明のものとなって  います。問題なのは、これが先入観となって、江戸時代の「うきよゑ」、先ほど示したあの製作システムが生  き生きと機能していた時代の「うきよゑ」、それが見えにくくなってしまったことです。したがって江戸時代  の浮世絵を復元さるためには、これらの観点をいったん棚上げにする必要があります。       浮世絵の海外流出 余談 二つの「浮世絵」-「うきよゑ」と「UKIY0-E」-(1)     余波 二つの「浮世絵」-「うきよゑ」と「UKIY0-E」-(3)  
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