二つの「浮世絵」-「うきよゑ」と「UKIY0-E」-(1)
加藤 好夫
現在、私たちは何気なく「浮世絵」という言葉を使っていますが、実は現代人が思い起こす浮世絵のイメ
ージは、それを生んだ江戸時代の人々の浮世絵のイメージとは必ずしも同じものではありません。むしろか
なり違うものです。
今、仮に江戸時代の人々の浮世絵像を「うきよゑ」と表記しますと、我々の浮世絵像はその「うきよゑ」
に明治以降の浮世絵像である西洋由来の「UKIY0-E」がオーバーラップしているといってもよいでしょう。
つまり私たちはこれら出自の違う「うきよゑ」と「UKIY0-E」を、無意識のうちにいずれも「浮世絵」と称
して使っているわけです。
Ⅰ「うきよゑ」
具体的に言うと、下掲のような版元・絵師・彫師・摺師・絵草紙屋からなる浮世絵製作販売システムが生
き生きと機能していて、市中の日常生活の中にしっかり根を下ろし、必要欠くべからざる必需品のように流
通していた時代の浮世絵像を言います。私の最終目標はこの「うきよゑ」と復元することにあるのですが、
これは後述することにしまして、先にこれにオーバーラップしている「UKIY0-E」を取り上げます。
浮世絵の製作システム 浮世絵の製作プロセス
Ⅱ「UKIY0-E」
明治の文明開化以降、日本に流入してきた西洋人の浮世絵像を言います。この影響を受けて、日本人の
「うきよゑ」像や浮世絵師の社会的位置づけ等が、根本的に見直されることになりました。これは日本が近
代化してゆく過程で自然と身につけたもので、今では我々の自明のものとなっていますが、江戸の人々にと
ってはまったく思いもよらない浮世絵像なのです。いわば明治以降に形成された西洋由来の先入観といって
よいでしょう。
さて、江戸時代の「うきよゑ」を復元するためには、その上に覆っていてしかも無意識下にある「UKIY0
-E」を、いったん取り出してそれを棚上げにする必要があります。それではその先入観とはどのようなもの
なのか、そしてそれはどのように形成されたのか、浮世絵の海外流出状況を見ながら、簡単に振り返ってみ
たいと思います。
一 浮世絵の海外流出
浮世絵師・渓斎英泉が無名翁の名で興味深い記事を残しています。
「(長崎の清朝の商船)歌麿が名を知て、多く錦絵を求たり。唐までも聞へし浮世絵の名人なり」(注1)
歌麿(文化三年(1806)没)の人気ぶりを伝える記事です。この時代、江戸土産として長崎にもたらされ
た錦絵が、清人の目を惹きつけた可能性は大いにあります。しかしこれが持続して清人の自覚的な収集活動
に発展していった形跡はどうやらなさそうです。あるいは単に多色摺が物珍しかったという一時的な興味だ
ったのような気がします。
これについては興味深い話が伝わっています。昭和の初年、浮世絵版画商の遠藤金太郎という方がこんな
ことを言っています。「錦絵を買わない外人は支那人と露西亜人位なものです」(注2)現在はどうか分か
りませんが、清人にとって錦絵はそれほど魅力的ではなかったようです。やはり浮世絵を自覚的に収集し始
めたのは長崎のオランダ商館に滞在した西洋人ということになるようです。
(注1)『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)喜多川歌麿の項。エドモン・ド・ゴンクールもその著『歌麿』において、「歌
麿の画才は中国にも知れ渡っており、長崎にやってくる中国の商船が彼の色刷り版画を大量に買い付けていったと言われ
ている」と記しています。おそらくゴンクールは懇意であった日本人画商・林忠正からこれを聞いたのでしょう。林忠正
はこのエピソードを伝える『浮世絵類考』の写本をゴンクールに見せています
(注2)遠藤金太郎談「錦絵の歴史と値段など」『紙魚の昔がたり明治大正編』反町茂雄編・八木書店・1990年刊
A シーボルト・コレクション
江戸時代、長崎出島のオランダ商館付医師として赴任した中で、後の世に名を残した人物が三人います。
元禄のケンペル・安永のツンベルグ、そして文政のシーボルトです。彼らは三人とも単なる医者を超えてい
ました。とりわけシーボルトは西洋の学問を日本の知識人にもたらしただけにとどまらず、帰国後は西洋に
おける日本研究の第一人者となりました。
彼は文政十一年(1828)の帰国の際、伊能忠敬の作った日本地図を国外に持ちだそうとして発覚、国禁を
犯した廉で直ちに国外追放になってしまいました。この事件、日本人側が支払ったの代償は実に大きいもの
でした。地図を贈った幕府・天文方の高橋景保は獄死。将軍から拝領した三つ葉葵の紋服と眼科の瞳孔散大
薬とを交換した奥医師・土生玄碩は財産没収のうえ身分の剥奪に遭いました。これを逆にいえば、命と引き
替えてまで手に入れたい西洋の学術を、シーボルトは身につけていたということになります。
このシーボルト、離日こそ慌ただしくも劇的でありましたが、実は日本学研究のため、膨大な量の資料を
持ち帰っていました。当然というべきか、その中に浮世絵もありました。浮世絵は専ら当世の生活・人々を
画くわけですから、民族学的視点からも有用な資料と見えたはずです。
文政九年、彼はオランダ商館長に随行して江戸にやってきます。その折、どのような径路をたどって接触
したものかよく分かりませんが、葛飾北斎に日本の「風俗と行事」に関する作画を依頼しました。真偽は別
として、この接触に関して『古画備考』は次のように伝えています。
「(北斎は)長崎より出府の紅毛カピタンの誂えにて、我邦町民の児を産たる図を始めとして、年々成長の
所、稽古ごと致し、又年長けて遊里などへ通ひ候体、家業を勤める図より、老年に及び命終わる体まで、
男子と女子と一巻ずつ二巻に画き畢りぬ、又カピタンに付き参り候紅毛ノ医師も又其の通り二巻誂え、又
画成て旅宿へ持参し(云々)」(注1)
また「シーボルトは日本で知られている画家のうちヨーロッパ画法に最も近い技法」をもつ北斎に注文し」
たとも伝えられています。(注2)
こうしてなった北斎の日本の風俗図十五点、それをみると、武士と従者・遊女と禿(かむろ)、年始回り
や初午・端午の節句などの年中行事、漁村に商家など、なるほど当時の生活を多岐に亘って画いています。
北斎はこれを画くにあたって、おそらくオランダ商館側の強い要望もあったのでしょう、伝統的な日本画の
描法ではなく、遠近法と陰影に富んだ西洋画法で画いています。なお、この15図すべてを北斎自身が画い
たわけではなく、北斎とその娘・応為と弟子たち、北斎工房のようなものがあってそこで注文に応じたよう
です。(注3)
端午の節句 葛飾北斎画 遊女とかぶろ 葛飾応為画
シーボルトは他に多数の版本、例えば喜多川歌麿の『絵本虫選』・北尾政美の『(人物・鳥獣・草花)略
画式』の北斎の『隅田川両岸一覧』『北斎漫画』なども収集していました。(注4)
これらの版本には、博物学のイラストにそのまま利用できそうな鳥獣虫魚・花卉草木の写生図があり、ま
た江戸市中の人々とその生活を活写した素描があります。まさに日本の森羅万象が版本を通じて手軽に一覧
できるわけです。とりわけ『北斎漫画』には目を見張ったに違いありません。シーボルトが民族学的な視点
からこれらに注目したのは当然でした。
ところでシーボルトにはこれらを美術品として見る視点はあったでしょうか。残念ながら分かりません。
ただ、幕末来日した西洋人の中には、徳川幕府瓦解寸前の慌ただしい雰囲気に包まれながらも、浮世絵を美
術品として観る人々が現れ始めます。文久三年(1863)日本とスイスとの修好通商条約を結びに来日したス
イス人エメェ・アンベールはこう記しています。
「北斎の素描はひねくれているが、愉快で、米倉でもっとも恐るべき敵、鼠どもにもっとも貴重な穀物を台
なしにされているありさまを描いている。この傑作な場面に欠けているものは何もない。(中略)もっと
も細かい点までも、整然とした構図で、細心の心遣いで描かれている。こうしたおかしく、軽妙で、かつ
無邪気に、また、ある場合には英雄喜劇的に、日本人は非常な気楽さと独創性を発揮するのである」(注5)
これは『北斎漫画』第十巻「家久連里」図(文政十二年・1819刊)についての感想と思われます。線描と
構図に高い評価を与え、「おかしく、軽妙で、かつ無邪気」といった感興を、文化の違いを超えて異国の人
にも喚起する北斎の力量を高く評価しているのです。こうしてみると、浮世絵を美術的な観点から高く評価
する機運が既に始まっており、明治以降の西洋におけるジャポニスムの種はこれらの人々が蒔いていったと
も考えられるのです。
余談
浮世絵の海外流出が本格化する以前に、奇妙な形で浮世絵が海を渡った例があります。興味深いことに、
この記事を後世に伝えたのが、誰あろう勝海舟ですから紹介したいと思います。
万延元年(1860年)例の軍船・咸臨丸が日米修好通商条約の批准書を交換するためアメリカに渡りました。
話はサンフランシスコでの出来事です。突然、停泊中の勝艦長の許に、当地の裁判所から召喚状が届きまし
た。行ってみると、裁判官が言うには、日本の水兵がアメリカの婦人たちにこんなものを見せて侮辱した、
実にけしからんので、艦長の権限で水兵を処罰せよとのこと。勝艦長はびっくりして、その証拠品なるもの
を見てみると、これが何と春本。勝は憮然として、その証拠品を持ち帰えろうとしたところ、くだんの裁判
官、今まで着ていた法服を脱いで、これは個人として頼みだが、さきほどの絵は大変珍しいのでお金を出し
てでも購入したいと言う。また付け加えて言うには、先ほど訴えた婦人もぜひ譲ってほしいとのこと。いっ
たん艦に戻った勝海舟は、水兵を調べ上げ、謹慎を命じた上、艦長の名義でくだんの裁判官に、願いは聞き
届ける、ついてはその品物を渡すから当艦まで出頭するようにとの書面を送ってやった。すると今度は裁判
官の方がこそこそやってきて、このような公の書面では当方が困る、どうか内密に譲ってほしいと「泣き」
を入れてきた。それじゃあと、すべてを飲み込んだ勝艦長、水兵から取り上げた春本をアメリカ人にくれて
やった。(注6)
勝海舟は、西洋の公人は公私をキチンと区別するから立派だとして、この挿話を書き記したまでで、春画
の美術的な価値については何の言及もなく実にそっけないのですが、まあ、こんなかたちの流出もあったと
いうことです。もっとも西洋人がみな同様かというと、必ずしもそうではないわけで、先のスイス書記官ア
ンベールの場合は、次のように実に辛辣です。
「日本で驚嘆するほど多数出版される書物の中には、影響力の動かしがたいほど甚大なものがある。それは
艶笑文学であって、商品として公然と売買され、飛ぶように売れている(「笑い絵」「春画」などを指すも
のと思われる)。そこには、あらゆる年齢の淫蕩な姿が、人間の想像を絶する、このうえなく苦心惨憺して、
もっとも空想的に描き出されている。芸術性も、趣味も、造形的な美の観念も全然欠けており、美の三女神
も笑いの神も、喜びの神も、愛の神も、日本の女神には伴っていない。というより、むしろ性(セツクス)そ
のものであるだけであって、女性ではなく、その主人公は卑しい人体模型なのである」(注7)
「淫蕩」で「卑しい」とするアンベールの感想。前述のアメリカ人とはあまりに対照的な反応です。アメリ
カ人の見たものが上質の作品で、スイス人が見たものは幕末の粗製乱造品といった違いが反映しているのか
も知れませんが、少なくともアメリカ人の方が、美術としての評価と道徳としての判断を区別しているよう
には思います。
(注1)浅岡興禎著「浮世絵師伝」『古画備考』・嘉永4年(1851)起筆
(注2)小林忠著・学習院大学「ウェブライブラリー」「浮世絵の構造」より
(注3)河野元昭著「シーボルト・コレクションの美術史的意義」『シーボルト父子のみた日本』ドイツ-日本研究所編・1996年刊
(注4)『シーボルトと日本』展カタログ・1988年刊
(注5)エメェ・アンベール著「田舎」『続・絵で見る幕末日本』文久3・4年(1863・4)滞在記・講談社学術文庫本
(注6)勝海舟談「時事数十言」「海外発展」『氷川清話』万延元年(1860)記事 講談社学術文庫本
(注7)(注5)と同著「浅草の祭り」
B 万国博覧会への出品
さて、浮世絵が本格的に海外に大量に流出し始めるきっかけとなったのは、ヨーロッパの万国博覧会への
出品からです。おりしも、浮世絵を育んだ江戸幕府が瓦解して、薩長を中心とする新政府に権力が移行しつ
つある時期のことでした。
文久二年(1862)万国博覧会がロンドンで開催されました。この時は、日本側の正式な出展はなかったの
ですが、イギリスの初代公使であるラザフォード・オールコックが持ち帰った工芸品が展示されていました。
なぜ工芸品かというと、彼の目には日本の工芸品が次のように写っていたからです。
「すべての職人的技術においては、日本人は問題しにひじょうな優秀さに達している。磁器・青銅製品・絹
織り物・漆器・冶金一般や意匠と仕上げの点で精巧な技術をみせてせいる製品にかけては、ヨーロッパの
最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野においてわれわれが模倣したり肩を並べることができ
ないような品物を製造することが出来る」(注1)
こうした高い評価はオールコックのみならず、前出したアンベールも同様で、彼は江戸で目にした工芸品
を「よき趣味」と呼び、「形、意匠、装飾の点でもっともきびしく、かつ洗練された趣味の批判に堪え得な
いものなどはほとんど皆無であると」評していました。(注2)
これら展示品の中に浮世絵もありました。「木版でさまざまの色を使って印刷する技術」とありますから、
これは錦絵です。そして「それらは絵と美しい色に対する大衆の嗜好に、想像しうるかぎりのもっとも安価
な値段で応じるものである」と補足しています。また「絵画の本は無数にあり。さまざまの巨匠の画風を例
証する絵をたくさん掲載している」とも述べています。この「絵画の本」とは北斎の『北斎漫画』などをさ
しているようです。(オールコックは版本の題名も絵師の名前も具体的には何一つ書き記していませんが)
先にアンベールの『北斎漫画』評を紹介しましたが、オールコックも同様に、「絵画としても、そしてま
た民衆の生活や風俗を示すものとして比類ないもの」で「芸術の見本として、また日本人の文明と日常生活
を説明する絵として、わたしはそのいくつかを紹介せざるをえない」として『北斎漫画』等からのカットを
たくさん引用しています。(注1)
こうして浮世絵も他の日本の工芸品同様大変注目を浴びたようなのですが、折から居合わせた福沢諭吉や
福地源一郎(桜知)らを含む遣欧使節団の中には、これを苦々しく思う人もいました。
「弓箭・甲冑・漆器・陶器の類、甚しきは提灯・土履・膳椀・木枕・傘など全く骨董品の如く雑具を集めし
なれば見るにたえず」(注3)
使節団全員が同様の感想を抱いたとも思えませんが、西洋人が称えるものを「見るにたえず」と一顧だに
しない当時の日本人インテリがいたことは確かです。文明開化を急ぐ指導者たちには、自らの国の日常の工
芸品を顧みる余裕もなかったのでしょうが、この懸隔が結局日本の工芸品の大量流出を招くことになってゆ
くわけです。ともあれ、アンベールといいオールコックといい、浮世絵を日本の風俗習慣を知る格好の資料
として見るにとどまらす、美術品として評価する視点が生まれてきたということは大いに注目すべきです。
「日本の芸術的特性についてのつぎの意見は、芸術家の意見としては興味深いものであろう」として、オー
ルコックは、色刷りの版画(錦絵)に寄せた芸術家レイトンの意見もわざわざ引いています。(注1)
「きわめて精巧な仕上げをほどこされた色の調和、(中略)甘美なるもの、柔らかくきれいなものの効果が、
怪奇なるものによって高められており、しかもすべてが調和している」(注1)
さて、永井荷風によれば、これらの展示物がロンドンからパリへ転送されるや、早速ゴンクール・ドガ・
ゾラ・ホイスラーたちの目にとまり、そこから西洋におけるジャポニスムが本格化していったとのことです。(注4)
翌、慶応二年(1866)そうした高まりに手応えを感じたのかどうか分かりませんが、江戸町奉行は、来る
慶応三年のパリ万博出品のために、町触(御触書)を出して工芸品の供出を呼びかけています。
足袋・下駄・彫根付・団扇・男女化粧道具・鏡・駕籠類・人形・楽器・楊弓・塗物各種・独楽等々、実用・
愛玩用を含む実に様々な工芸品がリストにあがっています。浮世絵に関していうと、錦絵・絵本・屏風・懸
物、つまり版画でも版本でも肉筆の屏風・掛幅でも良いと。さらに興味深いことには、次のような町触(ま
ちぶれ)も添えてありました。
「今般仏国博覧会ぇ御差出しニ相成候品之内、近世浮世絵豊国、其外之絵ニて極彩色女絵、又ハ景色にても
絹地へ認候巻物画帖之類、又ハまくらと唱候類ニても、右絵御入用ニ付(云々)」(注5)
歌川豊国(三代目・初代国貞)は言うまでもない、またそのほかの絵師でも、極彩色の女絵(美人画)や
景色(風景画)なら巻物でも画帖でも結構、さらに枕絵の類も構わないと。
この町触を写した藤岡屋由蔵はよほど奇異に思ったらしく、「若き男女、是を見る時は、淫心発動脳乱し
て、悪心気ざす故に、此本余り錺(かざ)り置き、増長する時には、御取上げに相成り、御焼き捨てに相成り
候其の品が此度御用にて御買上げに相成り、仏蘭西国え送り給ふ事、余りに珍敷き事なれは(云々)」とい
う感想を漏らしています。(注5)
町奉行はこれまで、艶本が露骨に流通して、若い男女の「淫心発動脳乱」が目に余ると判断した場合には、
その都度、町触を出し、従わないものについては没収・焼き捨て処分にしてきました。しかしそのようなも
のを買い上げて異国に送るとは「余りに珍しき事」と、藤岡屋は町奉行の判断を訝しく感じたのでしょう。
なお、アンベールの見聞では日本では艶本が「商品として公然と売買され」ているように見えていた。しか
も「飛ぶように売れている」とあります。江戸ではまったく規制されてないと彼には見えていたわけです。(注6)
さて幕府のパリ万博に関する文書によりますと、このとき送られた浮世絵は、日本の風俗・名所を画いた
肉筆画百点、『江戸名所図絵』のような名所図絵や『北斎漫画』のような絵手本類の版本が二十八部、そし
て錦絵五千五百枚(画題等は不記載)となっています。そのほかに将軍の名代として派遣された徳川昭武が
個人用に持参した錦絵二百枚が確認されています(これは西欧滞在中の徳川昭部の「御用品」として追加さ
れたもの、おそらく贈答用と思われます)(注7)
これらの出品はフランス公使ロッシュらの要請を受けてのものとあります。また徳川昭部の錦絵二百の内
訳(源氏絵七十九枚 江戸名所絵三十枚 東海道絵五十五枚 富士各(ママ)所絵三十六枚)も西洋人の嗜好を
考慮した上でのリストアップでしょう。
こうした体験を通して、浮世絵が案外西洋人の目を喜ばすことを知り、それをうまく利用しようという気
運が生まれつつあったことは確かでしょう。これまで町人風情の単なる慰みものでしかなかった浮世絵が、
西洋では予想もしなかった高い評価を得ることを知りました。今まで浮世絵などまったく歯牙にもかけなか
った幕府も、提供する方が得策と考えたのでしょう。前述したように、日本を主導するインテリたちの蔑視
にも近い眼差しがある一方で、浮世絵の海外流出がいよいよ本格化していきました。
以降、慶応三年(1867)のパリ、明治六年(1873)のウィーンと立て続けに万国博覧会が開催されました。
この間、日本は江戸幕府が崩壊するなど、混乱はあったが出展を取りやめることなく、高まるジャポニスム
に呼応するように浮世絵を含めた工芸品が次々と海外に渡っていきました。
(注1)ラザフォード・オールコック著『大君の都』「第三五章」・岩波文庫本
(注2)『続・絵で見る幕末日本』「美術工芸品」
(注3)淵邊徳蔵著「欧行日記」『遣外使節日記纂輯』第三・日本史跡協会・昭和5年刊
(注4)永井荷風著「西洋人の浮世絵研究」『江戸芸術論』岩波文庫
(注5)藤岡屋由蔵記『藤岡屋日記』第13巻・慶応2年記事・三一書房「近世庶民生活史料」所収
(注6)エメェ・アンベール著「浅草の祭り」『続・絵で見る幕末日本』
(注7)『徳川昭武滞欧記録』第二・三(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)
詳しくは本HP「浮世絵文献資料館」「浮世絵事典」の「パリ万国博覧会」の項参照
C 林忠正
写楽研究のさきがけをなしたユリウス・クルトこう言っています。
「過去の芸術における一人の偉人に迫るには、(中略)もっばら美的見地からのみ評価するだけではもはや
十分ではないということを、今では我々はきわめて正確にわかっている。歴史的研究が不可能な場合は、
当座しのぎの策としてそれで満足せざるを得ないが、多くの芸術的評価を歴史的事実の確固たる骨格の中
に入れなければ、確かなことは得られない」(注1)
この歴史的事実の中には、絵師の読みや住所、生没年や作品の制作年代といった事実だけでなく、その時
代にどのようなものが流行し廃れていったかといった情報も含まれているに違いありません。またそこに画
かれている人がどのような人間で、一体何をしているのか、あるいはそれはどんな意味をもっているのかな
どといった、いわば日本の風俗・習慣など関する内容・事実をしっかり踏まえていなければ、それを画いた
絵師の本質に迫ることはできないというのでしょう。それらは浮世絵を実証的に研究していくためにはどう
しても必要不可欠なことがらでした。西洋における日本趣味がジャポニズムという歴史上特筆すべき運動に
昇華していくためには、単に熱狂的な西洋人がいるだけでは不十分なのです。それらの歴史的事実や日本の
伝統・文化を西洋人にわかりやすく伝える、優れた翻訳家がいなければならなかったのです。
明治十一年(1878)、それにぴったりの人物がパリの万国博覧会にデビューします。のちにジャポニストた
ちの日本理解にとって欠くことのできない人物となった林忠正です。彼は当初万博参加のために設立された
「起立工商会社」の通訳でした。しかし万博終了後も彼は帰国せずそのままパリに留まりました。そして上
司であった若井兼三郎と共に今度は交易商として活動を始めます。(若井は明治六年(1873)のウィーン博
覧会から美術品専門家として関わる)ところが彼は単なる商人ではありませんでした。当地西洋人の日本の
美術工芸品に対する熱い視線を目の当たりにして、期するところがあったのでしょう、彼は自ら進んでその
翻訳家としての役割を担います。そして明治十七年(1884)日本美術の商店を開くと、店はかれの日本文化
の豊富な知識を求めるジャポニストたちの拠り所となりました。
エドモン・ド・ゴンクールはその著書『歌麿』の中で、十返舎一九著・歌麿画の『青楼絵本年中行事』に
おける林忠正の解説と翻訳に感謝したあと、次のように記しています。
「ここで声を大にして言っておかねばならないのは、現在のあらゆる日本通、日本研究家の面々が、自分の
研究における資料的側面を全面的に林忠正に頼っているという事実である」(注2)
またクルトも同様に「林(忠正)の日本語の文献は全面的に信用できる」と言っています。(注1)
遊女絵や役者絵を論ずるには、青楼(吉原)や芝居に関する知識が必要であることは言うまでもありませ
ん。クルトが言うように「美的見地からのみ評価するだけではもはや十分ではない」のです。どうしても吉
原の年中行事や風俗・習慣などの知識、芝居のあらすじや場面に関する知識が必要なのです。
西洋の浮世絵愛好家たちは、浮世絵を愛玩レベルから研究の対象とするべく、それらの文化的情報・知識
をもたらす日本人の登場を待ち望んでいたのでした。そこに林忠正が登場。そして林は見事それに応え、ゴ
ンクールやクルトたちの全幅の信頼を得ました。ということは、彼らが望むような「歴史的事実」や日本文
化に関する情報・知識を、ほかならぬ林忠正が十分に提供しえたという証左でもあります。
当時の西欧の浮世絵研究を考えるとき、彼の貢献は非常に大きい。もし彼がいなかったら、ゴンクールの
歌麿・北斎研究も、クルトの写楽論も、あるいは成立しなかったかもしれません。実に西洋におけるジャポ
ニスムの隆盛を陰でしっかり支えていたわけです。
永井荷風は林忠正をこう評価しています。
「尋常一様の輸出商人にあらざることを知るべし。千九百二年巴里において林忠正はそが所蔵の浮世絵並に
古美術品を競売に附するに際し浩瀚なる写真版目録を出版せり。この書今に到るもなほ斯道研究者必須の
参考書たり。林氏は維新後日本国内に遺棄せられし江戸の美術を拾ひとりてこれを欧洲人に紹介し以て欧
洲近世美術の上に多大の影響を及ぼさしめたる主動者たりといふべきなり」(注3)
画商・林忠正や若井兼三郎の存在は今でも見ることができます。マルに「林忠」や「わか井をやぢ」の文
字印のある作品が展覧会等に時々出てきます。彼らの鑑定になったことを示すものです。彼らの鑑識眼には
定評がありました。画質がよくてしかも保存の良いものを扱いましたから、彼らの印鑑はまさに本物のお墨
付きと同じなのでした。
彼らが西洋に輸出した浮世絵は夥しい数にのぼります。これらを見て、林忠正を日本から浮世絵を大量に
流出させた首謀者と評する向きもあったと聞きます。しかし関東大震災において当時の有名なコレクション
が一瞬のうちに灰燼に帰してしまったことなどを考えると、もし彼らの橋渡しがなかったら、浮世絵の損失
はさらに測りしれないものになっていたとも思うのです。
(注1)ユリウス・クルト著『写楽』序文・1910年(明治43年)刊
(注2)エドモン・ド・ゴンクール著『歌麿』1891年(明治24年)刊
(注3)永井荷風著「ゴンクールの歌麿及北斎伝」『江戸芸術論』岩波文庫
西洋の「UKIY0-E」観 二つの「浮世絵」-「うきよゑ」と「UKIY0-E」-(2)
余波 二つの「浮世絵」-「うきよゑ」と「UKIY0-E」-(3)