Top 浮世絵文献資料館 柳亭種彦関係
『柳亭種彦日記』
「文化五年(1808) ~ 文化七年(1810)・文化十三年(1816)」
底本:『柳亭種彦日記』朝倉治彦校訂・秋山書店・昭和54年刊 (表記は底本に従ったが、「蘭斎主人江画ハリ二丁遣ス」の「江」については「ぇ」とした) ☆ 文化五年(1808) ◯ 六月廿三日 p111 〝尾上松助 小はだ小兵(平カ)衛次の狂言大入、此小平次は芝居・にかゝる着物語りても怪異ありとの俗 説なり、されば後代になす者あるまじとくんじゆなすにや、さる頃より松助きぶんあしく、栄三郎代りを つとむ、あさふたまくはやはり松助也 此狂言のおこりは、松助おこりをわつらふ、それを江戸中を評判 して、小平次が松助にとりつきしといふ、松助此うわさをきゝて大ニ喜ひ、則小平次狂言に取かゝり、両 国ゑかういんにて法事をなし、小はた小平次墓をたてる、皿屋敷と天笠徳兵衛と小平次と書こミたる狂言 にて一切わからず、されど大入笑ふべし〟〈市村座興行。尾上松助、小幡小平次役の狂言〉
初代豊国画「彩入御伽草」 (絵師「豊国」・外題「彩入御伽草」と入力すると画像がでます) (早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索) ◯ 六月廿八日 p114 〝蘭斎 主人ぇ画ハリ二丁遣ス〟〈蘭斎は北斎門人北嵩。この当時、種彦作の読本『浅間嶽面影草紙』(文化六年刊)の画工を担当していた。文政元年 (1818)の『【諸家人名】江戸方角分』には、神田住、合い印は画家〝島 【明神前/伊勢屋佐兵衛内】〟とある〉 ◯ 八月八日 p115 〝北斎 老人北雲 会ふれにきたる〟〈北斎門人、葛飾北雲。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、版本は文化十三年から文政九年にかけて、 絵本が一点、読本六点である。署名はすべて東南西北雲。種彦作品の挿画担当はない。北斎は弟子のために画会の宣伝 もしたのであろうか〉 ◯ 八月十一日 p115 〝北龍 画会一日つぶれ是はやぼな事ながら、なくなりそふゆへ是へ記ス〟〈北斎門人北龍。画会が流れたというのであろうか〉 ◯ 八月十七日 p117 〝北斎 老人の許を訪ひ、あけ巻かんばん袋へうしをたのむ〟〈「あけ巻」とは読本『総角物語』後編(柳亭種彦作・葛飾北斎画・文化六年刊)「かんばん袋へうし」は看板袋表紙で あろうが如何なるものか未詳〉 ☆ 文化六年(1809) ◯ 六月一日 p120 〝夜てふ/\がり訪ふ、桃川浚吉にあふ〟〈てふ/\は俳諧の蝶々庵百花であろうか。桃川は優遊斎桃川。文化四年序・種彦作・読本『奴の小万』、文化五年刊・ 種彦作・読本『総角物語』の画工を担当していた。桃川画の版本は国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によれ ば、上記二点を含め合計三点確認されているが、全て種彦作の読本である。浚吉は未詳〉 ◯ 六月二日 p120 〝桃川来る、来栖御隠居来ル 飯塚長三郎様是はちかづきでない故、さまをつけ申候、りうけい橋 幸助様小川町 此頃桃川子ちかづきにつれてまいられ候よしゆへ、先姓名をしるしおき候〟〈来栖御隠居、飯塚ともに未詳〉 ◯ 六月四日 p123 〝今暁八ッ頃、三筋町西町に火事あり、火事見まひに三筋町へゆく、それより北斎 方へゆき、日めもすあそ ぶ〟〈種彦は下谷御徒町住。三筋町は目と鼻の先。武家屋敷街だから知り合いの見舞いにいったのであろう。「それより北斎 方へゆき」とあり、北斎の住居は蔵前浅草近辺か〉 ◯ 六月廿六日 p127 〝ゆふへ(傍書「昨夜」)花井才三郎の錦絵初てみる、尤一人だち牡丹の燈籠を見る処なり〟〈この芝居は森田座の興行『阿国御前化粧鏡』。花井才三郎は狩野元信の役で出演している。評判だったらしく、蜀山人 (大田南畝)も「花井才三郎によみて遣しける」〝狂言の花井をこいのみつ鱗手にとりみればかのかのゝ介〟(『をみ なへし』「大田南畝全集」二巻p43)と詠んでいる〉 ◯ 十二月十日 p131 〝昨夜亭に集る人、金星 桃川 玉豕北嵩 四人、けふは曇て寒し〟〈金星は未詳。桃川は種彦作の読本『総角物語』(文化五年刊)の画工・優遊斎桃川。玉豕は読本『霜夜星』(種彦作・ かつしか北斎画・文化三年成、文化五年刊)に序を寄せた柏菴玉豕。文政元年(1818)の『【諸家人名】江戸方角分』に、 下谷住〝柏庵(一号)玉豕(御徒町)宮村永琢〟とある。但し合い印はなし。蘭斎北嵩は『【諸家人名】江戸方角分』 によると合い印は画家で神田明神前に居住。この年出板された種彦作の読本『浅間嶽面影草紙』の画工を担当した〉 ◯ 十二月十一日 p131 〝梭江君子ぇ手紙遣す、北斎 主より宝船板来る〟〈梭江は柳川藩留守居・西原新左衛門(号松羅館)。北斎から来年正月の初夢に用いる七福神宝船の版画が届いたのであ ろう〉 ◯ 十二月廿一日 p131 〝縄人許一寸訪ひ、夫より明神の市へゆき、北嵩 子に八ッすぎより夜五ッすぎまで咄し、谷峨子にあふ、又 帰路玉豕許とひ、笠原とゝもにかへり、かさわら燈袋(テウチン)かり来る〟〈縄人は水酔亭縄人。文政元年(1818)の『【諸家人名】江戸方角分』に、書家、下谷住〝縄人(号)酔水亭。三枚橋(在 越後)。関戸甚左エ門〟とある人か。この「明神」は神田明神か。谷峨は洒落本作家・梅暮里谷峨。『【諸家人名】江 戸方角分』には戯作者として本所と目白の二カ所に出ている。本所の方には〝(号)梅暮里。埋掘、黒田(豊前公)藩。友 〔反〕町与左衛門〟。目白には〝(全(ママ)梅堀住暫白馬台住、同号 山人 号梅暮里。台、黒田豊(前公)〔州〕藩、本 所梅堀。反町与左エ門〟。黒田侯久留里藩士。谷峨は本所梅堀から目白白馬台に移ったが、この当時はどちらであろう か。笠原は未詳〉 ◯ 十二月廿二日 p132 〝蝶々許一寸訪ひ、桃川子訪にゆき、雪ふり出せしまゝ傘かり来る(中略)北斎 歳暮にきたるよしあわず〟〈蝶々は蝶々庵百花か〉 ◯ 十二月廿三日 p132 〝きのふ買おきたる三国伝記十二冊合本六冊、鱗形屋板菱川 画夢の占絵尽壱冊、湯島切通し西宮清蔵方ぇ取 に遣す、代八匁五分〟〈「三国伝記」は玄棟著の説話か。この年、式亭三馬作・勝川春亭画の合巻『玉藻前三国伝記』が出版されたが、冊数が 合わない。菱川画「夢の占絵尽」は未詳〉 ◯ 十二月廿四日 p132 〝北斎 子の許を許ひ、北嵩 子とともに西村へよる、夜る縄人許訪ひ、晴山子にあふ〟〈晴山は未詳〉 ◯ 十二月廿五日 p132 〝執着の作なす、八百屋お七前世物語り鹿子の下染といふ読本を、此頃おもひあたり、昨夜北斎 子に咄す、 すぢ別記にあり。昨夜中道子来る。路中に東汀子金里子にあふ、つけおちたれば今日へ記す〟〈「執着」とは読本『浅間嶽面影草紙』(種彦作・北嵩画・文化六年刊)の後編『逢州執着譚』(同作・同画・文化九年 刊)。北斎に話したという「八百屋お七前世物語り鹿子の下染」は未詳。中道とは『浅間嶽面影草紙』の筆耕千形中道。 文化七年正月五日記事「山上弥五エ門殿中道」とある人か。東汀は『総角物語』後編(文化六年刊)の題字を担当して いる。金星は未詳〉 〈本HP「浮世絵事典」「なかみち ちかた 千形仲道」に「仲道事、御勘定・馬場忠蔵事【下谷二長町に住】」とあり。 2011/3/9追記〉 ☆ 文化七年(1810) ◯ 正月五日 p135 〝北嵩 子へ下絵遣ス、暮頃まで北嵩 子に咄し、皈路山忠へより、歌舞名物同異鈔三冊、谷峨子之作伊吾物語 りかりかへる。山上弥五右エ門殿中道来ル、ひし川 の絵本一さつ北嵩 子へかす、近江八景同人へかへす、 風流無尽之帳来ル〟〈北嵩の許に遣った下絵とは『鱸庖丁青砥切味』(文化八年刊)のものか。山忠より借りた『歌舞名物同異抄』は竹田広 貞の著作で正徳三年(1715)刊。滑稽本『伊吾物語』は谷峨作・酔醒楼北嵩画で文化六年の刊行。「ひし川絵本」は未詳。 「近江八景」は合巻『勧善近江八景』(関亭伝笑作・蘭斎北嵩画・文化七年刊)〉 ◯ 正月十日 p136 〝北斎 年初ニきたる。種彦道ニてあふ、来年の大小もらふ、北嵩 子晴山子夜五ッ半時迄物語ル〟 ◯ 正月十二日 p137 〝一昨日北斎 主来、辛未年大小もらふ、なくしそふなる故かきつけおく 大 二四六七九十十二 小 正二(閨)五八十一 凡三百八十四日也〟 ◯ 正月十五日 p138 〝高さこ町へ釣鐘線香求ニゆく、芝居両座看板を見ル、皈路北嵩 子を訪ひ谷峨子ニあふ、夜ニいり暗山子の 許へよる〟〈芝居両座とは堺町中村座、葺屋町市村座。暗山は未詳〉 ◯ 正月十六日 p139 〝本日梭江君方ニゑんまきあり、八ッ頃よりゆく、京山子及北馬 子等と種々遊戯をなす、あまり馬鹿/\し くてしるさず〟〈「ゑんまき」は閻魔参り。西原梭江方で山東京山や蹄斎北馬らとうち興じた馬鹿/\しい遊戯とは何であったのか〉 ◯ 正月十九日 p139 〝善兵衛桃川玉豕子来ル〟 ◯ 正月廿一日 p139 〝談州楼咄し初メ、北嵩 子と同道、三馬子京伝子京山子豊国月まろ 、夢楽談笑子等にあふ、玉豕子来〟〈談洲楼焉馬の咄会。賑やかな顔ぶれである。蘭斎北嵩、式亭三馬、山東京伝・京山兄弟、初代歌川豊国、月まろは喜多 川月麿か、落語家は初代夢楽、初代立川談笑、漢学者柏菴玉豕〉 ◯ 正月廿八日 p140 〝今日ハ月まろ の会なれど雨ゆへゆかず、浅草東岳寺無尽、かれこれ一日休 夜ル亭へ来ル人、こりう子、北嵩 子、玉豕子、晴山子〟〈喜多川月麿の画会か。こりうは『勢多橋龍女本地』北斎画(文化八年刊)の校合を担当した酔月壺龍か〉 ◯ 正月廿九日 p140 〝種彦蔵宿へ行、気ふんよろしからず一日休、北嵩 子より手紙きたる〟 ◯ 二月朔日 p140 〝廻状来ル、石井氏ぇ順達、昼前北嵩 子の家へ行、北斎 子へゆきおらんだの十露盤けいこなす、夜こりう子 とひ留守、玉豕子とふるす、晴山子これもるす、ついに縄人許ニ而晴山子ニあふ〟〈石井氏は未詳。「おらんだの十露盤けいこ」とは如何なるものか〉 ◯ 二月二日 p141 〝青砥口絵かき、北嵩 子へわたす 大平とかいへる人の発会へゆき、貝をさぐりてかな詩をつくる。 漢員 寒 和(ヤマト)員 イキシチノ横行 花をたつぬる七言 咲きしと告し山守かふミ笠ならてかさす扇 ゆたけきミのに替たる此うす羽おり花の ふゝきをミされは寒し かな員文字ニなをせは寒ノ員トナル ヲキヤカレコボシへ意見の歌 横にねるもいきでござるぞ不斜(ママ)翁花のあきたる雪の呉竹 いずれも当座、夜壺竜子ノ家ニゆき北嵩 ニあひ、絵わりわたす、百廿人女郎仏こせん門左エ門作、物ノ本 二冊かりる〟〈「青砥」は合巻『鱸庖丁青砥切味』(種彦作・北嵩画・文化八年刊行)。大平は未詳。近松門左衛門の「百廿人女郎仏 こせん」は未詳〉 ◯ 二月五日 p141 〝青砥一ノ巻五丁目北嵩 方へ遣ス、石原ぇ行 種彦一駒人桃川北嵩 壺竜右四君子許へいたる。夜四ッ過かへる。桃川子より句草子かへる、順次文次来ル〟〈石原は筆耕石原知道か。駒人は『狂歌人名辞書』の福部駒人と同人か未詳。順次、文次は未詳〉 ◯ 二月八日 p142 〝四ノ巻あがり、政吉来ル、針文来ル、北嵩 子ト伊勢加へゆき谷峨子ニあふ、夜ル眼病ニてさく休、玉豕子 来ル、石原より手紙到来、信順子来ル〟〈政吉、針文、信順未詳〉 ◯ 二月十二日 p143 〝北斎 子八代粂(クメ)蔵殿より使来ル。石原へ刀をかへす、少し風たつ 今日もしやくけにて筆をかます 夜石原酔水亭へ行、駒人来ル〟 ◯ 二月十五日 p143 〝蔵宿へ行、玉豕子無尽より、養眼子吉兵衛子北嵩 子玉豕など共に花苞にあそぶ、茶亭長崎屋妓楼角玉屋対 妓松浦といふ〟〈養眼、吉兵衛は未詳。花苞は吉原の意味か〉 ◯ 二月十七日 p143 〝半右エ門様御出、種彦半右エ門様より北嵩 子壺龍子をとふ。曾我とらか磨酒呑童子枕言葉といふ近松か偽 太夫本かり来ル〟〈近松門左衛門作の義太夫本『曽我虎が磨』(宝永七年(1710))・『酒呑童子枕言葉』(宝永四年(1707)〉 ◯ 二月十八日 p143 〝北嵩 子壺龍子をとふ、晴山もともに行(右傍記「石原へ行」)〟 ◯ 二月廿四日 p144 〝昨夜北嵩 許へゆく、今日青砥さくなす〟 ◯ 二月廿五日 p144 〝夜北嵩 子来ル〟 ◯ 二月廿六日 p144 〝南江子政吉飯島氏来ル、種彦北斎 主知道ぬし訪ふ、知道ぬし留守にてあわず〟〈南江子、政吉飯島氏は未詳。知道は筆耕石原知道〉 ◯ 二月廿八日 p145 〝碁盤太平記天智天皇二冊よむ、近松門さく、本政来ル、北寿 会使遣ス 夜青砥のさく〟〈近松作義太夫本『天智天皇』(元禄二年(1689)初演)・『碁盤太平記』(宝永三年初演)。北寿は昇亭北寿か。書画会で あろう。直接出席せず、使いを遣ったようだ〉 ◯ 二月廿九日 p145 〝本政きたる、夜壺龍子北嵩 子青砥之口絵出来をもちくる 四ッ頃より蔵宿へ行、知道子の許へゆき、梅屋敷亀井主人漫行なす〟〈臥竜梅で知られる梅の名所であった梅屋敷は亀戸にあった。亀井主人は未詳〉 ◯ 三月三日 p145 〝北嵩 子談州楼吉兵衛子晴山子、ともに上野へ行〟 ◯ 三月十一日 p146 〝谷峨子北嵩 子晴山子と墨水の花を見、道に梭江子ニあふ、今年ハ花おそくやうやう満開なり〟 ◯ 三月十九日 p147 〝聖堂歌城ぬしにあふ 帰路北嵩 子へよる、山崎にて谷峨子にあふ 青砥出来上ル 青本のあがりたるに くさざうしわれもめでたきしまひかな〟〈歌城は幕臣で国学者の小林歌城。この山崎は板元の山崎屋平八か〉 ◯ 三月廿二日 p147 〝京山子壺龍子北嵩 子来ル、晴山子来ル〟 ◯ 三月廿四日 p148 〝二ノ巻はぢめ、壺龍子来リ、俵藤太のきだゆふ本西与にてほるべしといひつるよしかたらるゝ、北嵩 子晴山子もミゆる〟 ◯ 三月廿六日 p148 〝種彦昼頃より北斎 子知道子の許(モト)をとふ、(中略) 書画および三味線花の会、なにゝもあれ会となのつきたるハ、ミな法度となるよしきく、又北斎之弟子北 周 名をあらためて雷周 とかよぶ者、祖母孝行にて銀三枚一せう一人ふち、御ほうびにくだしおかれし由き く、いまにはじめぬことながらありがたき御代なり、雷周住居ハしんばざいもく丁とをり松屋橋とかいふ かたハら也〟〈北斎門人、北周、雷周と改名。住居、新場材木町通り。祖母孝行で褒美。四月朔日記事参照〉 ◯ 三月廿九日 p148 〝聖堂出席、浅草へ北嵩 子北岱 子と行〟〈湯島の聖堂出席後、北嵩、北岱等と浅草行き〉 ◯ 四月朔日 p149 〝此頃北斎 門人北周 改名して雷周 といふ者、祖母ぎんに孝行ゆへ、白銀三枚ぎんへ一人ぶちくださる、住居 子きたり、隅田川花やしきへゆく、秋草さかり也 夜松亭子よりはんかんふ二冊かりきたる〟〈正本は文化十一年から始まった国貞画の合巻『正本製』。隅田川花やしきは佐原菊塢が創設した向島百花園。新井白石 の『藩翰譜』を借りた松亭は漢学者鳥海松亭か〉 ☆ 文化十三年(1816) ◯ 八月十五日 p155 〝きのふ山平ミたて六歌仙のがくをもちきたる、おれハ揚弓場の女は小町ニ見たてたる也、京伝馬琴三馬一 九おのれニいま一人はさだまらず 雪の肌すきやちゝミに色見へて詠歌も六ッの花にこそいれ 小町にもはちぬ女か半面で 九十九中ハぬけめないこと なおよミなをすへし〟〈山平は板元山本屋平吉か。この六歌仙の趣向、もうひとつよく分からないのだが、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・十 返舎一九・柳亭種彦ともう一人、この戯作者六人を古今集時代の六歌仙にそれぞれ見立て、種彦の場合で云うと、種彦 は小野小町に見立てられ、そしてなおかつ種彦が揚弓場(矢場)の女を小町に見立てて「雪の肌~」の狂歌を詠む、と いうのであろうか。山平が持参した六歌仙の額とはどのようなものか。記事には絵師名がないが絵入りではないのか。 また、馬琴がこの種のものに狂歌を詠んだのであろうか。そしてもう一人は誰か。後年になるが、参考のために『戯作 六家撰』を見ると、安政三年(1856)の序で、岩本活東子は次のように擬えている。京伝・在原業平、馬琴・文屋康秀、 三馬・僧正遍照、一九・大伴黒主、種彦・小野小町、もう一人は烏亭焉馬で喜撰法師に見立てている〉 ◯ 八月廿日 p157 〝広丸きたる 「此ひろまるが蟹の絵をかけるあふぎに ◯山川の水かげんして時々にめしをたくのが蟹 といふ哥を即興ニよミかれハ 古わたりがそのかたわらに ◯めしたきのかみニやたらんぬひ仕事 はさミはなさぬしんめうの蟹 とつけたり いとをかし〟〈広丸は歌川広丸と見た。蟹の絵の扇に種彦と東夷庵古渡が即興で狂歌を配したのである〉 ◯ 八月卅日 p160 〝萩寺へ行ク、萩ハなかばすきちりはてたり国貞 子へ行、留守也〟〈萩寺は亀戸の龍眼寺。萩の名所であった。同じく亀戸に住む国貞に寄ったが留守であった〉 ◯ 八月廿六日 p166 〝夜柳川 子来ル、将棊段画皆出来〟〈『【山崎余次兵衛将棊段】忠ト孝義理詰物』(種彦作・柳川重信画・文化十四年刊)〉