Top           『日本随筆大成 第二期』         浮世絵文献資料館
   日本随筆大成 第二期          た行                  ☆ たいがどう 大雅堂    ◯『難波江』巻21-533(岡本保孝著・成立年未詳)   (『近世畸人伝』(寛政二年刊)の引用)   〝池大雅〔附、妻玉瀾〕安永丙申歿。年五十四。有名於書画。玉瀾母祇園茶店女百合也。下文有百合伝。 無名〔割註 アリナト唱フトアリ。コレラアリナトヨムコト心得カネタリ〕〟  ◯『北窓窻瑣談』⑮295(橘春暉著・寛政八年記・文政十二年刊)   〝大雅堂の画蘭亭帰去来西園雅集皆小楷賛辞あり。此三幅を今年七十五金に求玉ひし諸侯ありとぞ。近世 の画にてかゝる高料は聞も及ばず。大雅堂の書画の秀し故にや。又当今都鄙ともに書画流行ゆゑにや。 彼画幅、もとより紙表具なりしとぞ〟    〈「今年」を文中前後の関係から寛政八年と推定した〉    ◯『筠庭雑考』⑧108(喜多村筠庭著・天保十四年序)   (「天禄」の項)   〝予(編者注、筠庭)が家に大雅堂所持の澄泥研の図あり。是又舶来の物にて其形甚奇雅なり。図のごと し(模写あり)〟      ☆ たいと 戴斗 二代(北泉参照)     ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「宮川氏系譜」の項 ⑪187 「宮川長春系譜」   〝(戴斗(北斎)門人)二代目戴斗〟(名前のみ)
  ◇「戴斗」の項 ⑪218   〝始北泉と号、俗称伴右衛門、麹町平川天神前に住す。小笠原家の浪人なり。後師の名を譲り受て二代戴 斗となり、画風師の筆法を能く学び得たり。真偽やゝもすれば見まがふ計也。世に犬北斎といふ。浪花 の刻本多くあり。     武者鏡     戴斗画譜     小紋雛形〟
  ◇(京寺町通松原下ル町菊屋喜兵衛板)「絵手本并読本附録」の項 ⑪237   〝花鳥画伝   二冊  葛飾戴斗   万職図考 五冊  葛飾戴斗    絵本英勇図会 一冊  葛飾戴斗〟    〈「国書基本DB」は『花鳥画伝』を嘉永元・二年刊、『万職図考』を天保六・嘉永三年刊、『英雄図会』を南里亭其     楽輯・玄竜斎戴斗画、文政七年刊とする〉    ☆ ただしち えびしや 絵菱屋 忠七     ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (京寺町通松原下ル町菊屋喜兵衛板)「絵手本并読本附録」の項 ⑪237   〝雛形滝の糸 三冊  絵菱忠七   同 母子艸 三冊  絵菱忠七    同 滝の流 同   同      伊達紋花詰 三冊  同〟    〈「国書基本DB」は『雛形滝の糸』を絵菱屋忠七画、延享二年刊、『同母子艸』宝暦四年刊、『同滝の流』宝暦五年     刊、以上はいずれも染職図案。『伊達紋雛形花結』は宝暦十二年刊であるが、分類は紋章とあり、画工の記載はない〉    ☆ たんげつさい 探月斎    ◯『新増補浮世絵類考』⑪236(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝探月斎〟(名前のみ)    ☆ ちゅうわ にしむら 西村 中和    ◯『新増補浮世絵類考』⑪234(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝法橋中和    西村氏、京都の人也。刻本多く画けり。字士達、梅渓と号す     紀州名所図会   木曾海道名所図会   絵本年代記   義義経勲功図会        楠正行戦功図会 野高散人作〟    ☆ ちょうしゅん はせがわ 長谷川 長春    ◯『新増補浮世絵類考』⑪200(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝長谷川長春    天和、貞享の頃、京師の浮世絵師なり。好色旅日記に、今の長谷川吉田が筆にもなるまいと書たるは此 人か。同時に大坂長谷川典之丞と云あり。是は雪舟の末孫といふ〟    ☆ ちょうしゅん みやがわ 宮川 長春    ◯『新増補浮世絵類考』⑪212(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「宮川氏系譜」の項 ⑪187 「宮川長春系譜」     ◇「宮川長春」の項 ⑪212   〝宮川長春    宝永、正徳頃の人、尾州宮川村の産にして、土佐家の門人といふ。江戸に住して一家をなす。長春一子 両国に住す。宝暦、明和の頃、日光御修復有之。狩野家の内画の御用相勤候ものゝ受負を、長春が倅勤 しが、賃銀は日光表にて遣すべきぬ旨約し渡さゞりければ、催促に及しより事起り争論になり、長春が 倅短慮にて狩野家のもの四人迄殺害せしかば、公の御沙汰となり御調の上、長春が倅は死罪、長春は流 罪、狩野家にて御用勤し家は断絶なりしとなり。宮川が末雪渓のものがたり〟    ☆ ちょうけい 苕渓    △『古今諸家人物志』p46(奥村意語編・明和七年刊)   (「楠本雪渓」の項)  〝(雪渓)男 名白圭 字君錫 号苕渓〟    ☆ ちんちょう はねかわ 羽川 珍重    ◯『燕石雑志』⑲503(飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著・文化七年刊)   (「西鶴〔附〕羽川珍重」の項)   〝羽川珍重は武蔵国埼玉郡川口村の人也。三同と号す。本の姓は真中氏、俗称を太田弁五郎といへり。太 田は川口の旧名、珍重は其の画名なり。父の諱は直知、予が祖父の為には叔父なりき。弱冠より江戸に 来りて画をまなび〔割註 元祖鳥居清信を師とし、後に羽川に改めたる歟。当初の画名をしらず〕、下 総国葛飾郡川津間の郷士藤浪氏の家に往来す〔割註 藤浪氏が妻は珍重の姪なり〕。生涯娶らず仕ざれ ども、なほ武を捨ず。只画をもて旦暮に給し、享保に至りて、ます/\行はる。万海節用集、その余珍 重の繍像(サシエのルビ)したる冊子今罕に伝ふ。心ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水といへども肩衣を 脱ことなければ、浮世絵師には稀なる人物なりとて、人嘆賞せざるはなし。いづれの年にかありけん。 書肆某甲(ナニガシのルビ)珍重にいへりけるは、今より衣食住を吾儕(ワナミのルビ)にまかして、居を近隣にう つし、蔵板の絵本を画きて給はれかしとて、叮嚀(ネンゴロのルビ)に誘へども、珍重絶てうけ引かず。貧は 士の常なり。人に恵を受くるものは人をおそる。われは五斗米の為に腰を折(カガのルビ)むることを願ず。 況て足下に口を餬(モラハ)んとて拳をやは售ると答て、そのこゝろ画にあらざる日は、利の為に筆をとる ことなし。また志(ココロザシ)画にある日は、歌舞伎の画看板といへども辞する事なかりしとぞ。晩年に及 て自画の絵馬を、故郷川口なる稲荷五社へ奉納し、又みづから肖像を画き、小引一巻を自記して、嫡姪 恒直が二郎にとらしたるに、画像と小引は災に係りて消亡し、絵馬のみ今にありといふ。珍重既に老衰 して、みづから三同宜観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日川津間の郷藤浪氏の家に病死す。辞世      たましひのちり際も今一葉かな    享年七十余歳、江戸下谷池の端東円禅寺に葬りぬ。    (以下「羽川珍重家譜」あり。略)    (模写に)この図享保五年の印本丸鑑の巻端に見えたり。今因にこゝに摸写す〟    〈享保五年の「丸鑑」とは『吉原丸鑑』か〉    ◯『兎園小説別集』④74(著作堂(曲亭馬琴)記・文政八年記)   (「元吉原の記」の項)   〝菱川師宣、鳥居清信、及予が旧族羽川珍重等が画きしは、みな今の吉原になりての画図なれば、元吉原 の考にはえうなし。ふるき絵巻の残欠などにも、元吉原の図の伝らざりしは、元和、寛永の頃まで、江 戸はなほしかるべき浮世絵師のなかりし故也〟    ◯『新増補浮世絵類考』⑪232(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝羽川珍重〔割註 別本三馬云、門人に羽川和元あり。附録珍重は曲亭の伯父の由〕    本姓真中氏、武蔵国埼玉郡川口村の人也。俗称太田弁五郎と云。〔割註 太田は川口の旧名也〕名は沖 信、三同と号す。弱冠より江戸に出て、画を鳥居に学ぶ。心ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水にも 肩衣を脱ぐ事なし。享保の頃世に行れて芝居絵本吉原細見記の挿画、赤本説経浄瑠璃本等のさし画多く かきぬ。老衰して自ら三同宣観居士と号す。宝暦四年七月廿二日葛飾郡川つるの里藤浪氏の家に病死す。 享年七十余歳、池の端東円禅寺に葬りぬ。      辞世 たましひのちり際も今一葉哉〟    ☆ つきまる たにもと 谷本 月丸    ◯『新増補浮世絵類考』⑪236(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝谷本月麿〟(名前のみ)    ☆ とうえい 等栄    ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳三代門人)等栄 茅場町ニ住ス〟    ☆ とうしゅう 等舟   ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)     (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳二代門人)等舟    霞山ト号ス。万町ニ住ス。画風ヲ改メ一流ノ妙手也〟    ☆ とうせん 等川   ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳二代門人)等川〟(名前のみ)    ☆ とうせん 等船 (秋月参照)     ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳三代門人)秋月 始等船、今雪村〟    ☆ とうの おおはら 大原 東野    ◯『新増補浮世絵類考』⑪234(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝大原東野    民声といふ。五畿内産物図会の編あり。〔割註 寄合書の江なり〕     東土名所図会   絵本西遊記 初編十冊〟     ☆ とうめい 等明    ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳三代門人)等明 住所不詳〟    ☆ とうよう 等揚    ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝麹町ニ住ス〟    ☆ とうりん つつみ 堤 等琳 初代   ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝堤等琳    【俗称孫二、聾等琳ト云。堤等琳ハ堤流ノ元祖也】〟    ☆ とうりん つつみ 堤 等琳 二代   ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳初代門人)二代目 等琳    俗称吟二、本姓月岡〟    ☆ とうりん つつみ 堤 等琳 三代   ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「堤氏系譜」の項 ⑪186 「堤等琳系譜」   〝三代目 等琳〟
  ◇「堤等琳 三代目」の項 ⑪206     〝始秋月、後雪山と改む。号深川斎法橋に叙す。江戸の産、始め深川に住す。後常盤町又米沢町河岸とも    云。寛政より天保年間の人、二代目等琳の門人なり。〔割註 雪舟十三世の孫と称す〕一派の画風を立    て、天明の頃より行れ幟画祭礼の行燈、又摺物団扇交張の画刻板あり。門人夥敷有て、絵馬額提灯等の    職人、総て此門に入て学ぶ者多し。諸堂社の彩色多く此人の請負にて出来所あり。文政中浅草寺境内に    て、茶番細工といへる物を工夫して出せし事有〟    ☆ としのぶ おくむら 奥村 利信    ◯『新増補浮世絵類考』⑪203(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝奥村利信(一枚画あり)〟    ☆ とものぶ いしかわ 石川 流宣    ◯『新増補浮世絵類考』⑪195(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝石川流宣 伊左衛門俊之    其伝詳ならず。菱川同時の人なり。大和耕作絵抄、江戸図鑑綱目、并に江戸図等あり。按るに、菱川師 宣に比て号を設しならん〟    〈「国書基本DB」『大和耕作絵抄』は刊年載せず。『江戸図鑑綱目』は元禄二年刊〉    ☆ ともふさ ひしかわ 菱川 友房    ◯『新増補浮世絵類考』⑪179(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菱川氏系譜」の項)「菱川師宣系譜」   〝(師宣門人)菱川友房    【画風ハ似テ筆劣レリ】〟    ☆ とよきよ うたがわ 歌川 豊清    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189 「歌川豊春系譜」   〝(歌川豊広門人)豊清〟(名前のみ)
  ◇「歌川豊清」の項 ⑪223   〝俗称金蔵、豊広の実子也。錦絵草双紙読本一二部あり。上手にてありしが早世せり。惜しむべし。父并 に豊国に学んで能す〟    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 初代    ◯『【銀鶏一睡】南柯廼夢』⑳374(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   〝なんじ(編者注、平亭主人)呉橋が熟にありしころ、毛儀と号して、享和二年の春三月二十五日、百川 にて書画会を催ほしゝとき、歌川豊国と松露庵雨什として、式亭三馬をたのみて、さる人の世話をして おきし、筆島といふ芸者をつれて来たりしとて、自寛と呉橋がおほきに立腹して、爾が父に小言をいひ しを、圭斎と敬義として中へはひり、漸の事にて芸者をば、別席へおひやりし事、爾もすこしはおぼえ あるべし〟    〈呉橋は未詳。百川は当時書画会等でよく使われた江戸日本橋の料亭。雨什は俳人。筆島は文化頃もてはやされた義太     夫芸者。自寛は歌人・三島自寛。圭斎は谷文晁門人の大西圭斎か。敬義は書家・中井董堂〉    ◯『新増補浮世絵類考』⑪223(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の系譜 ⑪189 「歌川豊春系譜」   ◇「歌川豊国」の項 ⑪223   〝歌川豊国    号一陽斎、俗称熊吉、豊春門人なり。後一蝶の風を慕ひ、又玉山九徳斎が画風をも慕ひ一家となす。 〔割註 豊国始ての画、板元は神明前和泉屋市兵衛とて泉市と云役者切絵也〕豊広と一時に行る。当世 の風俗を写す事妙を得たり。美人役者画似顔此人より行る。中興の祖といふべし。始三島町に住し、後 芳町堀江町上槇町河岸油座等に移住す。黒と紫計りにて錦絵を書初む。  一陽斎筆画手本彩色摺     画手本年玉筆      役者合鏡      同 此手柏 焉馬作  時世姿 女絵     似顔早稽古       三階興  三馬作      同筆読本     桜姫全伝    京伝作  双蝶記      同     稲妻表紙  同     本朝粋菩提   同    うとふ安方忠義伝 同     稚枝鳩   馬琴作     四天王剿盗異録 同    三国一夜物語   同     阿古義物語 三馬作     敵討松山話   焉馬作  四季物語     振鷺亭作  梅花氷裂  京伝作    豊国粋菩提の口絵に遊女を画き、一枚の紙を上れば骸骨と成る図を画り。此図杉田氏の解体新書を見て    画しは尤なれど、誤て小児の骨を写す。笑ふべし。     豊国筆塚碑名柳島妙見境内にあり。門弟より建之。     一陽斎歌川豊国、本姓は倉橋、父を五郎兵衛と云。宝暦の頃芝神明宮の辺に住し、木偶彫刻の技業を     以自ら一家をなせり。曾て俳優の名人市川栢筵の肖像を作るに妙を得たり。明和の初こゝに豊国を生     り。幼名を熊吉と称す。性画を嗜。故に歌川豊春に就て浮世絵を学しむ。依て歌川氏を氏とす。頗る     出藍の才あり。長ずるに及で俳優者流の肖像を画に妙を得て、生気活動神在が如く、或又美人時世の     嬌態梓本彩筆諸国流行し、華人蕃客も珍とし求む。茲を以て一陽斎の号、日の昇るが如く、豊国の名     一時に独歩し、画風自ら一品を成し、朱門の貴公家も師として学ぶ。門人画業の徒に施し、良才乏し     からず。実に近世浮世絵師の冠たり。惜哉。一陽斎享年五十七歳にして歿せり。時に文政八酉年正月     七日三田聖坂弘運禅寺に葬る。法名実彩霊毫と云。遺愛門人等一陽斎の義子、今の豊国と量て亡師の     遺筆数百枝だを埋て碑を営み、亡翁の友人等も為に力を助け、櫻川慈悲成子をして余が蕪辞を需む。     余もまた亡翁旧識たる故に固辞する事あたはず。其事を記て其乞に答ふ。         文政十一年戊子仲秋        狂歌堂四方真顔撰 窪世祥鐫                          山東菴樵者京山書并篆額    豊国歿後出板なしたる追善の絵に辞世の句とて、        焼筆のまゝかおぼろの影法師    と記せるは、他人の句にして、辞世にあらざる事明らか也。     追善肖像画国貞筆并に讃、この月七日師たる人と長きわかれとはなりぬ。然るに喪にこもりしあさ、     なみだとともに        すゝらばや粥の七種の仏の座〟     ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 二代 (歌川豊重参照)    ◯『新増補浮世絵類考』⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「歌川氏系譜」の項) 「歌川豊春系譜」   〝(初代歌川豊国門人)豊国    号後素亭、本郷春木町ニ住ス。後歌川豊重ト改〟     ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 三代 (歌川国貞参照)    ◯『新増補浮世絵類考』⑪228(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝歌川豊国    初名国貞、〔割註 門人に譲り、聟にして二代とす〕俗称角田庄蔵、武州葛飾郡西葛飾領の産也。一雄    斎、月波楼〔割註 文化の頃より号す〕、北梅戸富望山人、桃樹園、富眺庵、一陽斎、晩年香蝶楼、琴    雷舎、本所五ッ目渡し場辺に住り。渡船の株式其家にある故、仍て五渡亭の号あり〔割註 蜀山人此号    を送りしといふ〕。後亀井戸天満宮前に住し、又柳島へ移る。若年の頃より浮世絵を好み、師なくして    役者絵を画り。豊国門人となりて、始て臨本を与へ、浄書を見て、豊国も其鍛錬を驚きしと云り。幾程    もなく文化の始め草双紙板下を画り。文化五年出板時鳥相宿咄武松作是初筆なり。時に廿三歳、口絵薄    墨入是より年々発市す。錦絵は中村歌右衛門大坂より下りし頃〔割註 隅田川梅若の狂言中幕猿廻し堀    川の段を勤、二番目狂言富岡恋山開出村玉屋、是歌右衛門御目見狂言也〕、数品を画て発行す。〔割註     一説国貞始ての板元西村屋与八也といふ〕団扇、画〔割註 歌右衛門猿廻し与二郎画団扇を始て画し    也〕草双紙大に行れて多く画出し、又役者似顔絵は師豊国にまさりて、俳優の故実を正し、当世美人絵    は殊に工夫をこらし、花街娼妓の風俗を、深川、品川、四ツ谷、新宿、千住、根津、弁天、松井町、新    地、常盤町、於旅、谷中、三田三角、其余の賤妓に至る迄、風俗を分ち画出せしかば、一時其名を轟し、    三都片雛迄賞しあへり。天保四年より、英一桂〔割註 英一桂は柳しま住、九十六歳にいして卒す。辞    世に百迄はなんでもないと思ひしに九十六ではあまり早死〕門に入て英一蹛と号す〔割註 一説に嵩谷    の裔嵩綾の門人也とも云〕。又香蝶楼と号す〔割註 一蝶ば蝶に一蝶の実名信香の香をとりて香蝶楼と    号せり〕。天保十五年師の名を継て一陽斎豊国と号す。〔割註 二世豊国と名書を記す〕。按るに二世    にはあらず三世なり。改名の頃何人の狂歌にや        歌川をうたがわしくもなのり得て二世の豊国偽(二世)の豊国    画風は豊国の骨法を学び、又一蝶嵩谷が筆意をも慕ひしかど、似るべうもあらず。読本を画るものは尤    少く、出来宜しからず。弘化二巳年薙髪して肖造と号す。翌年柳島へ移住なし、聟国貞に亀井戸の居を    譲れり。元治元年子十二月十五日歿す。七十九歳、亀戸村光明寺に葬す。法名豊国院貞匠画僊信士、肖    像の錦絵に辞世の歌とてあり。        一向に弥陀へまかせし気の安さ只何事も南無阿弥陀仏        命毛の切れてことしの別れかな     絵本役者夏の富士 役者素貌画本彩色摺  侠客伝      馬琴作       阿古義物語    三馬豊国合画     絵本戯場顕微鏡  彩色摺             小桜姫風月奇観  京山         玉石童子訓    馬琴     三都俳優水滸伝  半紙本二冊 徳升作  同中本 五編合九巻初編一冊 鶴屋南北作     芝居細見     二徳升作       天保三四五七年合本芝居細見 焉馬作     里見八犬伝 常磐津浄瑠璃差画 焉馬作  〟    ☆ とよくま うたがわ 歌川 豊熊    ◯『新増補浮世絵類考』⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「歌川氏系譜」の項) 「歌川豊春系譜」   〝(歌川豊広門人)実子 豊熊    俗称熊吉、豊広ノ実孫也〟     ☆ とよしげ うたがわ 歌川 豊重 (歌川豊国二代参照)    ◯『新増補浮世絵類考』⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「歌川氏系譜」の項) 「歌川豊春系譜」   〝(歌川豊国門人)豊国    号後素亭、本郷春木町ニ住ス。後歌川豊重ト改〟    ☆ とよのぶ いしかわ 石川 豊信    ◯『筠庭雑考』(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「頭巾」の考証 ⑧148   〝石川豊信絵本〟
  ◇「針箱」の考証 ⑧171   〝宝暦中石川豊信 今此針さし小児の手遊に残れり〟
 ◯『新増補浮世絵類考』⑪202(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝石川豊信    号秀葩、俗称糠屋七兵衛、小伝馬町に住し、旅人宿を業とす。狂歌師六樹園飯盛の父なり。西村重長の    門人となりて、宝暦の始紅絵多し。此人一生娼門酒楼に遊ばず。然るに男女の風俗を写せり。一枚絵多    く絵本もあり。天明五巳年五月廿五日歿す。浅草榧寺に葬す。     狂歌万載集に(石川壮盛)  絵本末摘花 二冊     飯盛が父の死けるときいしかはしうはをとぶらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみて     つかはしける。                    四方赤良  いしふみをたつる飛脚はゆきこゞけ しらぬ根のくに底のくにまで  かしつきし父のみひとりさきたてヽ はゝとそばから気をやいたむる  しての山こへて七日になりぬれば  うちはなみだの川づかへかな  はてしなき涙てのりをこへぬらん  をひたるとしに不足なければ  とよのふとかきし紅絵のすり物も  ふでのあとさへかたみとぞなる  らいせには蓮のうてなをきつて置て ふしんもいらすすぐに極らく    月岑按、同時代石川豊雅といへる浮世絵師あり。一枚ずりを見たり。豊信が男歟〟    ☆ とよのぶ かわえだ 川枝 豊信    ◯『新増補浮世絵類考』⑪200(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝享保中人、称号とも未詳。京師に住す。朗詠狂歌舞の画者なり。享保十六年板〟    ☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189 「歌川豊春系譜」     ◇「歌川豊春」の項 ⑪221   〝歌川豊春    号一竜斎、俗称庄三郎〔割註 但馬屋といふ〕、江戸の産也。居始芝三島町、又日本橋辺に住す。後落 髪して赤坂田町に住す。〔割註 附録に西村重長門人と有非也と云也〕流行の風俗を画き一家をなせり。     月岑子按るに、曰柳島春慶寺普賢堂の額に、豊春七十一の画に豊信補画とある。もしくは石川豊信の 門人にや。尚尋ぬべしと有り。    土佐結城座の操看板を画くに、彩色尤も委しく珍敷図取を画きて度々評判せられし〔割註 後は春徳が 筆なり。春亭も一両度画し事あり〕。又春英も是に次て劣らず書しものなり。寛政の頃、日光山御修復 の節、彼地に職人頭を勤しとぞ。又浮絵錦絵に多くかき出せり〔割註 浮絵といふは、蘭画の俗に油絵 といふものに比して画る遠景の山水を錦絵に横に画きしなり〕。宝暦の頃の浮絵に勝れり。草双紙の類 は多くかゝず。弟子に高名の者多し。〔割註 本朝油絵の祖といふべし〕     押上春慶寺碑     花は根に名は桜木に普賢象のりのうてなも妙法の声      文化十一年戌春 行年八十歳                   二代目 歌川豊春 元 祖 歌川昌得                       歌川妙哥                       歌川 首                       大野規行                       歌川豊秀                       歌川豊国                       歌川豊広    後年豊春と名のりし者あり。文政の始めなりし    京師板行の読本に歌川豊秀といふ者あり。豊国の門人なるか。未詳〟    ☆ とよひさ うたがわ 歌川 豊久    ◯『新増補浮世絵類考』⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)    (「歌川氏系譜」の項) 「歌川豊春系譜」   〝(歌川豊春門人)豊久    堺町ニ住ス。錦絵アリ。芝居狂言本ヲ画ク。組上灯籠画ニ妙ヲ得タリ〟    ☆ とよひで うたがわ 歌川 豊秀    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川豊春」の項 ⑪222   〝京師板行の読本に歌川豊秀といふ者あり。豊国の門人なるか。未詳。     車僧轍物語   甲賀三郎巌物語   聚義雑法談等也。尤も拙なし〟       〈読本三作とも文化五年刊〉       ◇「歌川豊秀」の項 ⑪236   〝初代歌川豊春の門人也〟    ☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189 「歌川豊春系譜」   〝(歌川豊春門人)豊広〟(門人系譜あり)
  ◇「歌川豊広」の項 ⑪223   〝歌川豊広    号一柳斎、称藤次郎、江戸の産なり。芝片門前町に住す。のち一家をなし、草筆の墨絵を板行して張交 絵とす。草双紙敵討の続き物此人より始れり〔割註 初代南仙笑楚満人作也〕。生涯役者絵を画かず。 常の義太夫節を好んで三味線をひくを楽とす。尤も妙手なり。豊広筆絵本枚挙して尽るにあらず。依て 読本のみ記す。     俊寛島物語    馬琴作  句伝実々記   同         松浦佐用姫石魂六  同     夢惣兵衛胡蝶物語 同    括頭巾縮緬紙衣 同         朝比奈巡島記    同     雲妙間雨夜月   同    糸桜春蝶奇縁  同         松染情史秋七種   同     浮牡丹全伝    京伝作  絵本西遊記  二編初編は東野作なり 復讐医御伽物語     鷲の談      京山作  播州舞子浜  一九作着色摺〟    ☆ とよまさ いしかわ 石川 豊雅    ◯『新増補浮世絵類考』⑪202(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「石川豊信」の項)   〝月岑按、同時代石川豊雅といへる浮世絵師あり。一枚ずりを見たり。豊信が男歟〟    ☆ とよまる うたがわ 歌川 豊丸    ◯『新増補浮世絵類考』⑪189(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)    (「歌川氏系譜」の項) 「歌川豊春系譜」   〝(歌川豊春門人)豊丸〟    ☆ とりいは 鳥居派    ◯『筠庭雑考』⑧166(喜多村筠庭著・天保十四年序)   (「人形樽」の考証)   〝此画鳥居風とみゆ。然らば元禄頃の絵なるべし。或人のかけるものに此図を出して、延宝、天和頃の刷 行といへるは非ならん。ひら包などにて包みたる形人形のやうなれば、是を人形樽といふべし〟
 ◯『新増補浮世絵類考』⑪193(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝鳥居清信ハ江戸絵ノ祖ト云フベシ。初ハ菱川ノ如キ古風ナリシガ、中頃ヨリ画風サマ/\ニ変化セシカ 共、江戸歌舞伎ノ絵看板ハ鳥居風ニ画ル也。〔割注 今按(〈無名〉の添え書)ニ、鳥居風ヲナクス也〕 清満、清倍、清経、共一枚絵草双紙ヲ画リ。三代目清満ノ実子ハ、画ヲ不学シテ縫箔ヲ業トシ、和泉町 ニ住ス。仍之清長姑ク看板画相続セリ。其縫箔屋ノ倅アリテ清長門人トナリ清峯ト名乗、是五代目清満 ト改メテ、三芝居看板番付ヲ画ク。是三代目清満ノ為ニハ実孫也〟    〈「〈無名〉」は渓斎英泉の『無名翁随筆』をいう〉