Top              『随筆百花園』             浮世絵文献資料館
   随筆百花園                た行                  ☆ たいがどう 大雅堂    ◯『椎の実筆』⑪390(蜂屋椎園著・天保十二年序)   〝池大雅 名無名、字貸成、秋平と称す。五歳にして書を善す。一日黄檗千呆禅師ニ謁し、席上大楷を作   り、禅師深く奇とす。後古法帖をとりえ晋唐に泝る。画は紀国に往て祇南海に画法をとひ、又大和の柳   里恭に綵色の法を学ぶ。又土佐光芳に国画の法を学ぶ。時に望玉蟾と共に相いへらく、従来画家いまだ   漢法を学びず、ともに是をはじめんと。玉蟾は唐伯虎を学び、此翁は梅道人を学ぶ。各竟に一家をなせ   り。後又倪雲林に倣へり。 (頭注)大雅堂、漢法の山水を画はじめたる頃、扇面に図して自携へ、近江、美濃、尾張へ售らんとす。   人多怪て買者なし。於是空しく京へ帰らんとて、瀬田の橋を渡時、其扇を出し、盡く湖水に投じて曰、   是をもて龍王を祭るといへりと。凡其画の妙なるも人の知らざるに至りては、和璧も燕石にひとしとも   いはん。栗山先生の話也とて、人の語りしは、大雅堂死して後、門人等老師の敗簏中より、数百幅の遺   墨を捜出しければ、京摂并近国よりこれを乞求者、各報るに、多金を以し、既に七八百金に及しかば、   かくては我老師の不朽を謀べしとて、栗山先生へ其意を述て碑文を乞ひければ、先生思惟して、それは   いとやすき事、それに付、老画師を一大不朽にするの手段ありと云。さらばいかにと問ければ、先生云、   其多石を以大石一座を求め、仏にもあらぬ人のやうなる物にきざみ、其腹にたいがどうと刻し、もとよ   り、行状、生卒年月も記に不及、これを大津粟田口の道より望む山の小高き所へ安じておかば、後々往   来人、もはや大が堂仏迄来れり哉と云ん、されば、其多金を此一挙にて盡さば、老師無何有の郷にて一   笑して頷すべしと云。弟子とかくに碑文を乞ひければ、扨も/\も是非なき事也。されば碑文は其意に   任すべし、碑を立るは数金に過ず、其残りし多金は京師貧民に分贈らば、碑文中にも記し、老画師死後   一盛事也、といはれしかど、これも弟子の意に不協。
 ◯『椎の実筆』⑪402(蜂屋椎園著・天保十二年序)   〝宗達、光琳が草花、松花堂布袋、英一蝶が人物、平安の四竹、大雅堂、謝春生山水、応挙幽霊、森祖    猿、祇園南海梅、柳里恭竹〟
 ◯『平安猶及録』⑭412(一串居士著・明治初期)   〝大雅堂展観    双林寺中、有大雅堂。池無名所棲遅也。無名死、夙夜居之、蕩尽無名之旧。僧月峯住之、義亮、清亮    次之。三月、九月二十三日、為新書画展観。展観元属岡、呉二社友之首謀。於大雅堂展之後、不復省    之。義亮清亮能続其遺事、以至近年、要展掛者、先期託書画幅杖銭、以寄、期過還寄。吉田狻、復挙    旧儀。展観正阿弥楼。一時之盛、軌大雅堂。今復廃。文章之道、与時消息盈虧。可慨也夫(カナ)〟    ☆ たんげ つきおか 月岡 丹下(月岡雪鼎参照)    ◯『かくやいかにの記』⑥413(長谷川元寛著・明治二年正月跋)  〝宝暦明和頃の人、浮世絵師【大坂ノ人】月岡丹下、此人名〔「名前」ヲ訂〕を曲亭常夏さうしの末の立   役に遣ひし〔「様」消〕なり。暗記可調。(頭注「今思に相違なし」)種員が妙々車七編にも丹下が名   前見えたり〟    〈「未刊随筆百種」巻四『かくやいかにの記』に同文あり。曲亭馬琴作・勝川春亭画の読本『常夏草紙』は文化七年     刊。また柳下亭種員作・梅蝶楼国貞(二世国貞)の合巻『童謡妙々車』七編は安政五年刊である〉    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国    ◯『無可有郷』(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   △(文化四年頃)⑦397  〝其歳(鈴木桃野、九歳頃)より稗史の合巻といふもの初れり【文化四年なり。お六櫛合巻の初なり。    其明年は双蝶々、吃又平等数種出る。爰におゐて、楚満人豊廣の輩漸々おとろへて、三馬、京山、    国貞、春亭、興子、京伝、馬琴、豊国は元の如し】〟    〈合巻「お六櫛」は文化四年、山東京伝作・豊国画『於六櫛木曾仇討』。「双蝶々」は文化五年、京伝作・豊国画     『敵討雙蝶々』か。「吃又平」は文化五年、式亭三馬作・国貞画『吃又平名画助刃』〉   △(文化七~八年頃)⑦397   〝予(鈴木桃野、十二三歳の頃)も画を学びたく思ひしが、父母の読書を勉めざるを怒りて許さず。ひ    とり竊に豊国等が風を見習ひ、日々筆を取て人形をなす〟    ☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広    ◯『無可有郷』⑦397(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)  (文化四年頃)  〝其歳(鈴木桃野、九歳頃)より稗史の合巻といふもの初れり【文化四年なり。お六櫛合巻の初なり。    其明年は双蝶々、吃又平等数種出る。爰におゐて、楚満人豊廣の輩漸々おとろへて、三馬、京山、    国貞、春亭、興子、京伝、馬琴、豊国は元の如し】〟    〈寛政七年の『敵討義女英』(豊国画)以来、「敵討ち」の草双紙で一時代を築いた南杣笑楚満人にかげりが見え、     また楚満人と組むことも多かった豊広にも一時の勢いがなくなったというのだろう。『浮世絵師歌川列伝』に「寛     政七年板楚満人作、敵討義女英(三冊)を画きて大に行わる。これ豊広が名の、世に出でたる始めにして、これより     敵討の草紙年々行われて、作は楚満人、画は豊広にあらざれば、世人の意に適わざるに至れり」とある。『敵討義     女英』の絵師は豊広ではないが、楚満人作・豊広画の敵討ち物という評判は定着していたのであろう。歌川豊国の     項参照〉