Top              『大田南畝全集』            浮世絵文献資料館
   大田南畝全集               た行                  ☆ たいがどう 大雅堂 池霞樵 〔享保八年(1723)~安永五年(1776)〕    ◯「南畝集 十二」④197(享和二年一月上旬賦)(漢詩番号2085)  〝題池霞樵漠々水田飛白鷺図   水気汪々千頃田 山光曖々遠村煙 一行属玉飛無迹 満目秧針緑刺天〟    〈南畝大坂赴任中に一見。大雅堂生前(安永五年没)の記事は見当たらない。これが初出記事だが、寛政二年刊の「近     世畸人伝」などを通じてこれ以前に名前は知っていたに違いない。また大坂赴任中、南畝は木村蒹葭堂と頻繁に交遊     しているから、蒹葭堂の画業の師匠・大雅堂について聞かなかったはずはない。ところで蒹葭堂は享和二年一月二十     五日の逝去。突然だったようだ。というのも一月八日、蒹葭堂は南畝の宿舎を訪問して劇談数刻に及んだばかり。こ     の詩は詩の配列から言うと、ちょうどその日あたりに相当する。またこの詩のひとつ前の詩(漢詩番号2084)には十梅     厓の山水画に対する題詩もある。するとひょっとしたら二本とも蒹葭堂が持参したのかもしれない〉     ◯『一話一言 補遺参考編三』⑯436 (文化七年頃記?)  (「南畝が過去買いもらした奇書」の項)  〝大雅堂山水二幅 大坂〟    〈南畝自身その胸中を〝その値を購ずる事ならずして、買い失ひしもの胸臆の中に往来して、時々忘るヽ事あたはず〟     と述懐する。この山水画の値段に関する記述はない。大坂の書肆で見たのは享和一、二年の大坂銅座赴任中か〉    ◯『七々集』②253(文化十二年八月下旬記)   〝得大雅堂書   魚麗于罶鱨鯊 君子有酒旨且多 署名三嶽霞樵印 大雅堂奈無名何  日本橋南四日市 買得青銭二十波 請看世上文無者 千人万客日往過〟    〈これは日本橋四日市の書肆で「書」を購入した時の賦。大雅堂の名がなく三嶽の署名。目の利いた南畝は四文銭で二     十、僅か八十文で購入した。〝魚麗~〟の句は『詩経』「小雅」の句で、大雅堂の書面文字か。なお「巴人集 拾遺」     ②492にも同じ記事あり〉    ◯『半日閑話 次五』⑱204(文政二年十月記)   (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録。一蝶の項参照)  〝恵比寿、大雅堂大掛物〟    〈これも絵ではなく「恵比寿」の書か〉    ◯『仮名世説』⑩567(文政八年一月刊)  〝雅量補 名の実にかなへるは大雅堂なるべし。駔儈(スハイ)の風、軽薄の習、つゆばかりもなし。此翁の    事実、奇称すべきを詳にせば棟牛にも至るべし。〈挿話あり。若かりし時落馬の仕方を習いし事・野宿    せし時群れなす小蛇にとりつかれし事・借金は方正に返し、人への請求は寛容なる事)わかゝりし時、    二条樋口に居す。画扇并に石印を彫刻する事を業とす。債をもとむるの簿帳を篆書す。一とせ旅行して    蝋月に及べども家にかへらず。老母一族など集り、世にいふ書出しなる物を調べんとするに、正文とい    ひ、ことに篆書なればさらによめず。亀屋太助といふものを頼みて、やう/\にそのなかばをとゝのへ    しとぞ。他日一族ども此事をいましめたれば、是より後篆書をやめて楷書す。譬ば中等扇三柄、某先生    携帰、估直既済とか、或は未済とか書す。これすでに老母及び一族の理会せざる所ぞ。いはんや篆書せ    しをや。大雅が書画は逸品に入るべし。畢竟一点の俗悪の気なし〟    〈南畝の大雅堂書画の評価は高い〉    ◯「杏園稗史目録」⑲452・466(年月日なし)  「詩歌部」〝春臠拆甲 大雅堂戯述 一〟  「漢字狂文狂詩」〝春臠拆甲 大雅堂戯作〟    〈この〝大雅堂〟が池大雅である確証はない。また南畝が同一視している確証もないが、とりあえず挙げておく。「国     書基本DB」には〝一冊・艶本〟著者〝活々庵撤溌〟とある。明和五年の刊行という〉    ☆ たろべい ひしかわ 菱川太郎兵衛〔生没年未詳〕    ◯「浮世絵考証」⑱439(寛政十二年五月以前記)  〝元禄五年板 買物調方三合集覧 横切本一冊  江戸浮世絵町  橘町 菱川吉兵衛   同吉左衛門   同太郎兵衛〟    〈吉兵衛は師宣、吉左衛門は師房、太郎兵衛の号は師重か〉    ☆ ちょうしゅん みやがわ 宮川長春 〔天和二年(1682)~宝暦二年(1752)〕    ◯「調布日記」⑨240(文化六年三月十日)  (多摩川巡視中、市場村専念寺(無住)の古い絵馬の中に)  〝日本絵宮川長春のかけるおせん物ぐるひに、三線ひく女と小女の絵ことにうるはしければうつし置きぬ。    絵馬のはしつかたに、宝永三歳四月日江戸宇田川町佐藤佐兵衛、(中略、以下四名の名あり)又三の女    を画がける絵馬に、于時宝永四丁亥歳四月下旬施主江戸芝井町斎藤三郎兵衛とあり〟    〈宝永四年(1707)の「三の女」(女三の宮?)も長春の絵馬のようである。なお同寺の宝永三年奉納絵馬には、このほか     蝉吟斎守英の画く「樊噲門破」もあるという〉    ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯90・100(文化八年四月二日)  (「雲茶会」初集、老樗菴主人の出品)  〝宮川長春自画自像 一軸〟  〝寛保二正月元旦  宮川長春六十一歳自像自画 老樗菴蔵〟    〈寛保二年(1742)、六十一才の自画像。出品者の老樗菴は未詳〉    ☆ とうしゃ 蟷車 〔生没年未詳〕    ◯『四方の留粕』①203 ◎(安永八年一月四日明記)  (「春の遊びの記」)(小松軒の項参照)  〝蟷車が役者の似づらには、壷屋が壷も底ぬけなるべし〟     〈壷屋は役者似顔画の勝川春章。酒宴での即席画であるから、蟷車が戯れに役者似顔画を真似たようだ〉    ☆ としのぶ おくむら 奥村利信〔生没年未詳〕     ◯『浮世絵考証』⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝奥村文角政信、同利信   江戸通垣(ママ)町本屋なり。瓢箪の印をせり。漆絵に多し〟    〈名前の後に続く〝江戸通垣町〟以下の文は政信と利信二人に対する説明なのか、それとも政信のみの説明なのか未詳〉    ☆ ともあき ひしかわ 菱川 友章〔生没年未詳〕    ◯『丙子掌記』⑨611(文化十三年十月中旬記)  〝日本絵菱川友章図(華谿漁長の印)  よしや吉野の花より香より見せはかく袖むらさきの      あけをうばへる世の中のあゆみすがたのしほらしや   文殊氏女しけ  右立軸 大西氏携来 〟    〈画中の「文殊氏女しけ」およびこの軸物を携来した大西氏ともに未詳〉    ☆ とものぶ いしかわ 石川流宣 〔生没年未詳〕    ◯「杏園稗史目録」⑲477 (年月日なし)  〝武道続穂の梅 三巻 石川流宣〟    〈『国書総目録』は元禄年間(1688~1703)の刊行とする〉    ◯「南畝文庫蔵書目」⑲406 (年月日なし)  (「青楼」部) 〝吉原大黒舞 五巻 【横本 武陽豊島郡真土山之住流宣宝永六年己丑春】〟    ◯『武江披砂』⑰512 (寛政二年頃成?)  (巻四、城南の「竜土」記事〉  〝江戸図鑑 石川流宣俊之云、流道〈中略〉元禄二年己巳板也〟    〈これも菱川師宣画同様、江戸地誌の資料として重宝がられている。『武江披砂』は南畝の江戸地誌〉    ◯『瑣々千巻』⑩340 (文化八年四月記)  〝かたきうちの本 無題号 紙破て不見  〈中略〉   作者 画之大和絵師 石川流宣   武江城下書林 相模屋太郎〟    〈次項「古野瀧津かたき討」参照〉    ◯「識語集」⑳69 (文化八年四月以降記)    〈「古野瀧津かたき討」(石川流宣作、相模屋太兵衛板。青山堂本)の南畝識語〉     〝石川流宣は真土山のふもてにすみて、江戸図鑑、吉原大黒舞等の作あり。此書題号やぶれて見えず。し    ばらく古野瀧津かたき討と題す。元禄・宝永・正徳の頃、三浦の遊女に立起といふ名見えず。猶たづぬ    べし〟    〈『国書総目録』は書名が違い「吉野瀧津かたき討」刊年なしとする〉    ☆ とよくに うたがわ 歌川豊国 〔明和六年(1769)~文政八年(1825)    ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前)  〝豊国  錦絵をかかず、墨と紫斗にて彩色のにしき絵をかきはじむ。歌舞伎役者の似顔をもよくかけり〟    〈文意未詳。この場合、南畝の〟錦絵〟は彩色摺の美人画を指しているようだが〉    ◯『半日閑話 巻八』⑪245 (文化一年五月十六日明記)    〈『絵本太閤記』絶版、豊国連座手鎖の記事。歌麿の項参照〉    ◯『あやめ草』②63(文化七年一月詠)   〝出女の化粧をするかたかきたる豊国の画に  頬べにの赤坂ちかき黒髪の油じみたる御油の出女〟    〈「出女」と言えば、当時は誰しも東海道・御油の客引き女郎を連想したようだ〉    ◯『六々集』②225(文化十二年二月詠)  〝岩井杜若がうつし絵姫のわざおぎをよめる   豊国がうつし絵姫のうつし画も及ばぬ筆の毛延寿哉    〈市村座正月狂言「増補富士見西行」より岩井半四郎の写絵姫役〉    ◯『七々集』②252(文化十二年八月詠)  〝ことしの春中村芝翫のわざをぎに其九重彩色桜といふ九変化のかたかきたる豊国が絵に、四季のうたよ    めと芝翫のもとより乞けるに、よみてつかはしける  春 文使 老女の花見 酒屋調市  けそう文つかひは来り酒かふて頭の雪の花やながめん  夏 雨乞小町 雷さみせんをひく  雨乞の空にさみせんなる神のとヾろとヾろとてんつてんてん   秋 やりもち奴 月の辻君  辻君の背中あはせのやつこらさやりもち月の前うしろめん 冬 江口の君 石橋  冬牡丹さくやさくらの花の名の普賢象かも石橋の獅子〟    〈中村座春三月興行大切所作事、中村歌右衛門の「其九絵(ママ)彩色桜」(烏亭焉馬著『江戸芝居年代記』)における九変     化。南畝は歌舞伎好きだが、上方役者の歌右衛門を贔屓する事はなかった。その歌右衛門から狂歌の依頼、心中はい     かに。しかし九役を巧みに詠み込んだのはさすがである〉    ☆ とよのぶ いしかわ 石川豊信〔正徳元年(1711)~天明五年(1785)〕     ◯「序跋等拾遺」⑱580(天明五年五月二十五日以降記)  (『史氏備考』所収)   〝石川豊信秀葩墓碣銘 大田覃  嗚呼余齔時。聞石川秀葩之名久矣。凡都下児女所玩図画人物花卉。至於繊姿弱質、意穠容冶、袨服靚粧、    綺麗粲目者、皆曰秀葩。秀葩度越流品。名伝一時。後数歳。初見其子子相。又見其父秀葩翁。乃知秀葩    為都下逆旅主人。翁没。子相状行請余銘焉。余既哭弔辞。按状。曰。翁諱豊信。号秀葩。石川氏。武蔵    州豊島郡。江戸人也。父宗貞。称五郎兵衛。母和田氏。正徳元年辛卯。生翁于江戸。幼喪父。為高原又    七道佐所養。有加藤七兵衛浄慶者。見翁質行謂可妻也。以其女妻之以嗣其家。時年二十五。生二男二女。    皆夭。延享三年丙寅。翁喪其妻。浄慶又以次女妻之。生二男一女。男長則子相。名雅。次男長女先死。    天明五年乙巳。夏五月二十五日。病終于家。年七十五。葬于浅草河上。黒船街。正覚寺。翁事親孝。居    家倹素。行修潔。足不渉倡門酒肆。而挙腕能描人物。曲尽其姿態。抑可謂奇矣。凡行旅之出於東都者。    率舎於伯楽街。及伝馬小街。而翁居伝馬小街。迎労必謹。飲飫必豊。是以担簦躡蹻者。皆悦而願舎於其    家矣。故家産亦苟完。自不至於匱乏。間則読書。或作詩。亦不経意云。子相性直而趨義。言不苟合。好    学節用。以幹家事。翁其有子哉。銘曰。    後素之質。発諸毫楮。可以寓心。豈為重糈。退隠于市。隠得其所。天地万物。孰不逆旅〟    〈豊信は小伝馬町旅人宿主人・糠屋七兵衛。逝去は天明五年五月二十五日、七十五才であった。南畝が石川豊信の墓碣     銘を作ったのは、豊信の嫡子石川雅望(子相、狂名・宿屋飯盛)との縁によるもの。豊信は孝を重んじ質素でしかも遊     廓酒楼にも足を踏み入れない実直な人柄であった〉    □『万代狂歌集 巻六』(天明五年五月二十五日以降詠)  (『万代狂歌集』は六樹園(飯盛)の編集で文化九年九月の刊。その中に南畝の豊信追悼狂歌を所収。出    典は粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』に拠った)  〝飯盛が父の死しけるときいしかわしうはをとぶらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみて    つかはしける               四方赤良  いしふみをたつる飛脚はゆきとヽけ しらぬ根の国底の国まて  かしつきし父のみひとりさきたてヽ はヽとそはから気をやいたむる  しての山こへて七日になりぬれと  うちは涙の川つかえかな  はてしなき涙てのりをこへぬらん  老たるとしに不足なければ  とよのふとかきし紅絵のすり物も  ふてのあととへかたみとぞなる  来世には蓮のうてなをきつき置きて ふしんもいらすすぐに極楽 〟    〈なるほど「いしかわしうはをとふらふ(石川秀葩を弔ふ)」になっている。ずいぶん手の込んだ追悼である〉    ◯『浮世絵考証』⑱443(寛政十二年五月以前記)  〝石川豊信秀葩 西村重長ガ門人也  宝暦のはじめ紅絵に多し。小伝馬町旅人宿ゐ(ママ)かや七兵衛といひしもの也。一生倡門酒楼にあそばず。    しかるによく男女の風俗をうつせり。一枚絵多し。画本もあり〟    〈通称は糠屋七兵衛〉    ☆ とよはる うたがわ 歌川豊春 〔享保二十年(1735)~文化十一年(1814)〕    ◯『半日閑話 巻十二』⑪343(年月不明)   (明和七年六月十五日の鈴木春信死亡記事中に、後年、次のような注記あり)  〝浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す〟    〈豊春の死は文化十一年とされる。この養子春信とは誰の事か未詳。鈴木春信の項参照〉    ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前記)  〝近来うき世絵をにしき絵にかき出せり。宝暦の頃のうき世絵にまされり。日本橋に住ス〟    〈南畝のこの「うき世絵」の意味が前項同様はっきりしない。版画としての「錦絵」を内包する上位概念であることは     確かだが〉    ☆ とよひろ 豊広〔?~文政十二年(1829)    ◯『浮世絵考証』⑱447(寛政十二年五月以前記)  〝豊広  張まぜ、小サキ一枚絵、墨絵などかけり〟    ☆ とりいは 鳥居派    ◯『寝惚先生文集』①353(明和四年九月刊)  〝詠東錦絵    忽自吾妻錦絵移 一枚紅摺不沽時 鳥居何敢勝春信 男女写成当世姿〟    〈紅摺絵の鳥居から錦絵の春信時代へ浮世絵の主役は移っていった様子〉    ◯『半日閑話 巻十三』⑪396(安永五年一月明記)  〝今年より鱗形屋草双紙の絵并に表紙の標書ともに風を変ず。表紙の上は例年青紙に題号をかき、赤き紙    に絵を書きしが今年は紅絵摺にす。〈注あり、省略〉絵も鳥居風の絵を変じて、当世錦絵風の絵となす〟    〈安永四年刊『金々先生栄花夢』(恋川春町画作・鱗形屋板)の出現より、青本の作風・画風とも一変して黄表紙の時代     に入る。今年は草双紙の古風を守っていた表紙の体裁も変わった。次項もそうだが、鳥居派といえば誰しも紅摺絵・     黒本・青本を連想するのだろう〉    ◯『菊寿草』⑦232(安永十年一月刊)   (地本問屋鱗形屋の変遷を書いた狂文「北条の三鱗を一寸と葛西の太郎月」の中に)  〝青本々々ともてはやされ、かまくらの一の鳥居のほとりに住居し、清信きよ倍清満などヽ力をあはせ、    年々の新板世上に流布す〟    〈これは安永四年以前、鳥居派全盛の黒本・青本時代のこと。「かまくら」とは黄表紙の通例で江戸を指す〉    ◯『浮世絵考証』⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居庄兵衛 【元禄十年の板、好色大福帳五冊/絵師の名なり】    鳥居清信  【庄兵衛は元祖清信俗称也。鳥居/庄兵衛清信と書たる絵本おほし】    弟子同清満 同 同清倍      同 同清経 同 同清長    鳥居清信は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川のごとき昔風の風俗なりしが、中比より絵風を書かへ    しなり。此のち絵風さま/\に変化せしかども江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事也。清満、清信<ママ>    清経とも一枚絵、草双紙をかけり。清長は俗称新助。近頃錦絵彩色の名手なり〟    ◯『放歌集』②172(文化八年十二月賦)  〝題古一枚絵    北廓大門肩上開 奥村筆力鳥居才 風流紅彩色姿絵 五町遊君各一枚〟    〈紅摺絵時代の奥村派と鳥居派の隆盛を賦す。この一枚絵は吉原の遊女。鳥居派項参照〉