Top 『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)浮世絵文献資料館
増補浮世絵類考 た行
☆ たいがく 戴岳 (「葛飾為一」の項)「葛飾北斎系譜」 〝北斎としての門人 戴岳北泉【別記ス、ヨミ本、画本多シ】〟☆ たいと かつしか 葛飾 戴斗 (「葛飾為一」の項) 〝(北斎)再名を門人に譲りて、雷信錦袋舎戴斗と改めたり、前ノ北斎戴斗と書す(中略)是をも、文化 の末年門人に譲り(北泉にゆづる)前北斎為一と改名す〟☆ たいと かつしか 葛飾 戴斗 二代 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち・(*)は編者注) ◇「葛飾為一」の項 〝(*北斎)再名を門人に譲りて、雷信錦袋舎戴斗と改めたり、前ノ北斎戴斗と書す(*中略)是をも、 文化の末年門人に譲り(北泉にゆづる)前北斎為一と改名す〟
「葛飾北斎系譜」 〝二代目 門人 戴斗〟 ◇「戴斗」の項 〝戴斗 文化文政の人 俗称 伴右衛門 遠藤氏 小笠原家浪人なり 始 北泉 居住 麹町平川天神前、後不知 北斎の門人也。名を譲受て二代目戴斗となり、画風師の筆法を能く学び得たり。真偽ややもすれば不知。 浪花の刻本を多くあり(世に犬北斎といふ、画の似たる故なり) 武者鏡 (板元浪華) 絵本 (二代目)戴斗画譜 同 小紋雛形 同 其外読本類七八種あり〟☆ たけしげ うたがわ 歌川 武重 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国武社中 武重 武光 武虎〟〈国武門人〉 ☆ たけとら うたがわ 歌川 武虎 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国武社中 武重 武光 武虎〟〈国武門人〉 ☆ たけみつ うたがわ 歌川 竹光 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる 「豊国筆塚碑」 〝国武社中 武重 武光 武虎〟〈国武門人〉 ☆ たねかげ うたがわ 歌川 種景 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国種社中 種繁 種政 種清 種京(ママ) 種信〟〈「種京」は「種景」の誤記か。国種門人〉 ☆ たねきよ うたがわ 歌川 種清 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国種社中 種繁 種政 種清 種京(ママ) 種信〟〈国種門人〉 ☆ たねしげ うたがわ 歌川 種繁 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国種社中 種繁 種政 種清 種京(ママ) 種信〈国種門人〉 ☆ たねのぶ うたがわ 歌川 種信 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国種社中 種繁 種政 種清 種京(ママ) 種信〟〈国種門人〉 ☆ たねまさ うたがわ 歌川 種政 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国種社中 種繁 種政 種清 種京(ママ) 種信〟〈国種門人〉 ☆ たんげ つきおか 月岡 丹下 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝月岡 丹下〔天明の頃歿〕〈六年十二月卒七十七歳 大坂〉 浪花人也 名は昌信 号 雪鼎 (又)信天翁 高田敬甫門人。大坂の春画上手也。又印本の絵本多し。 按るに、丹下彩色の大巻物を見たりしが尤上手也。年長たる女の鉄漿のところ、まだらにはげたる彩色 など、すべて密なる事多し。 東国名勝志 五巻 〈宝暦十二年正月板〉〟☆ たんげつさい 探月斎 〔生没年未詳〕 〝探月斎〟〈名前のみ〉 ☆ ちゅうわ にしむら 西村 中和 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝法橋中和 西村氏 居 京都 紀州名所図会 木曾街道名所図会 絵本年代記 〈義経勲功図会 十 山田〔繁〕敏雄散生作 楠正行戦功図会 十一 野亭作〉〟☆ ちょうき えいしょうさい 栄松斎 長喜 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝〈月岑補〉栄松斎長喜 〈始子興と云〉 鳥山石燕の門人にや 詳ならず。北斎の画風に似せたり 〈熟睡亭某編 どくようしんご若葉の栄 五冊のさしゑあり〟〈熟睡亭主人編『独揺新語』は読本で文化四年(1807)の序あり〉 ☆ ちょうさい つきてい 兆斎 月亭 〝兆斎月亭〟〈名前のみ〉 ☆ ちょうしゅん はせがわ 長谷川 長春 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝長谷川長春 天和貞享の頃の人歟 姓(空白) 俗称(空白) 京師ノ人 号(空白) 京師の浮世絵師なり。 好色旅日記に、今の長谷川吉田が筆にもなるまいと書たるは此人か。同時に大坂長谷川典之丞と云あり、 是は雪舟の末孫といふ(以上、類考追考)〟☆ ちょうしゅん みやがわ 宮川 長春 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝宮川長春(藤原里川)〈宝永〉正徳頃の人 〈菱川の画風〔也〕に同じ 同時代なれば、自らしかありしなるべし。 俗称(空白) 号(空白) 尾州宮川村の産にして土佐家の門人と云、板刻の画を見ず。江戸に住して一家をなす。 宮川長春が一子両国に住す。宝暦明和の頃日光御修復有之、狩野家の内画之御用相勤候ものゝ請屓を、 長春が伜勤しが、賃銀は日光表にて遣べき旨約し、渡ざりければ、催促に及びしより事起り、争論にな り、長春が伜短慮にて狩野家のもの四人迄殺害せしかば、公の御沙汰となり、利非の御調の上、長春が 子は死罪、長春は流罪、狩野家にて御用勤し家は断絶なりしとなり。宮川が末雪渓の物語なり。〈月岑按に、寛保二年、長春六十一才、自画自像あり。卒年不詳〉
「宮川長春系譜」 〈月岑補〉 相州市場観音の額に、婦人の遊戯する処を画るも、長春が筆にして、宝永三年四月日とある よし、蜀山先生の調布日記にあり〟〈斎藤月岑は『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)の記事中、宮川雪渓の物語を、狩野家を慮ってか、 狩野某の横暴と長春に対する侮辱の記述を削除している。また、日光御用の下請けを勤めた者を長春からその倅に変 えている〉 ☆ ちよじょ 千代女 (「喜多川歌麿」の項、歌麿門人)「喜多川歌麿系譜」 〝千代女 いまそうし有〟☆ ちんちょう はねかわ 羽川 珍重 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝羽川珍重 享保中 江戸人 俗称 太田弁五郎 名 沖信 羽川藤永とあるは別人なるか。谷中感応寺天井の竜と天人は羽川藤永とあり 享保の頃の浮世絵師也。芝居絵本、吉原細見記の指絵、赤本の絵多くかきぬ(以上、類考追考) 〈月岑按、説教上るり本等の差画多くかきぬ。又一枚絵もあり。遊女の絵一枚を近頃得たり〉 三馬曰、珍重門人に羽川和元あり。 馬琴が燕石雑志の文を略して云、羽川珍重は武蔵国埼玉郡川口村の人也。三同〈サントウ〉と号、本性 真中〈マナカ〉氏、俗称大田弁五郎と云。大田は川口の旧名、珍重は画名也。弱冠より江戸に来つて画 を学び(元祖鳥居清信の弟子也、後に羽川と改たる歟)享保の頃行る。心ざま老実にして言行を慎み、 遊山翫水にも肩衣を脱事なし。其心画にあらざる日は利の為に筆をとる事なし。又志画にある日は歌舞 伎の画看板といへども辞する事なしと。老衰して三同宜観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日、葛飾郡 川津間の里、藤浪氏の家に病死す。 辞世 たましひのちり際も今一葉哉 享年七十余歳、池の端東円禅寺〈に〉葬りぬ〟☆ つきまる たにもと 谷本 月麿 〝谷本月麿〟〈名前のみ〉 ☆ てるひさ うたがわ 歌川 輝久 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国丸社中 重丸 年丸 輝久〟〈国丸門人〉 ☆ てんのじょう はせがわ 長谷川 典之丞 (「長谷川長春」の項) 〝(長春)同時に大坂長谷川典之丞と云あり、是は雪舟の末孫と云(以上、類考追考)〟☆ とうえい 等栄 (「三代堤等琳」の項、三代目等琳門人)「堤等琳系譜」 〝等栄 茅場町住〟☆ とうえい はねかわ 羽川 藤永 (「羽川珍重」の項) 〝谷中感応寺天井の竜と天人は羽川藤永とあり〟☆ とうけい 等(空白) (「三代堤等琳」の項、二代目等琳門人。名前のみ)「堤等琳系譜」 ☆ とうけい にわ 丹羽 桃渓 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝丹〔波〕〈ニハ 羽〉桃渓 〈名 元国〉 河内名所図会を画り。尤高手なり。読本蜻蛉の巻 文化五辰〟☆ とうしゅう つつみ 堤 等舟 (「三代堤等琳」の項、二代目等琳門人)「堤等琳系譜」 〝等舟 霞山 日本橋中通り万町 俗称(空白)画風を改一派の妙手なり〟☆ とうせん つつみ 堤 等川 (「三代堤等琳」の項、二代目等琳門人。名前のみ)「堤等琳系譜」 ☆ とうの おおはら 大原 東野 〝大原東野 民声 唐土名所図会 西遊記等尤よし。五畿内物産図会の編あり(寄合書きの絵也)〟☆ とうめい つつみ 堤 等明 (「三代堤等琳」の項、三代目等琳門人。名前のみ)「堤等琳系譜」 ☆ とうよう つつみ 堤 等楊 (「三代堤等琳」の項、三代目等琳門人)「堤等琳系譜」 〝等楊 麹町〟☆ とうりん つつみ 堤 等琳 初代 (「三代堤等琳」の項)「堤等琳系譜」 〝堤等琳 元祖、俗称孫二 堤流の元祖 居(空白) 聾等琳と云〟☆ とうりん つつみ 堤 等琳 二代 (「三代堤等琳」の項)「堤等琳系譜」 〝二代目堤等琳 俗称吟ニ 本姓月岡〈バンウ〉〟〈〈バンウ〉の〈 〉は書入れであることを示す〉 ☆ とうりん つつみ 堤 等琳 三代 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) (「三代堤等琳」の項、二代目堤等琳門人) 〝堤等琳(三代目也) 寛政より天保の間の人也 始秋月、後〈雪館又〉雪山と改む。江戸の産也 始深川に住す 〈後常盤町 又米沢町河岸〉 号 深川斎と云、叙法橋〈惣髪なり 月岑按、雪舟の風にあらず、賤しき画風也〉 二代目等琳の門人也(雪舟十三世の孫と称す)一派の画風を立て、天明の頃より行れ、幟画祭礼の絵灯 籠、又摺物、団扇、交張画の刻板あり。欄外 〈天保始の頃八十余歳にて終る〉 浅草寺に韓信の額あり。秋月と云し頃、三代目等琳に改名せし時の筆也。門人数多ありて、絵馬額、幟、 提灯等の職人、総て此門に入て画ぶもの多し。諸堂社の彩色多く此人の請屓にて出来し所あり(堀の内 妙法寺、どぶ店祖師堂、玉姫稲荷其他多し)(文政中、浅草寺境内にて茶番細工といへる見せ物を工夫 して出せしなり) 按るに、東都に雪舟の画裔と称るもの多し。川島雪亭(田安侯の画師也、雪舟の画孫なり、市谷に住 し、寛政の頃より天保の今に至て存す)亦、桜井秋山(天明寛政の頃の人なり。本郷に住す雪舟の画 孫と称す。画則七冊を刻して画論を出す)長州侯の藩中に雪谷の画裔あり。当代の画を学ばずといへ り。諸他諸国に雪舟流の画人あり、自立して其画裔と称す。近年江戸、長谷川雪旦殊に妙手なり。 因に云、長谷川等伯(始久六、叙法眼、能州七尾の人 始狩野氏の門人、後自立して、自ら雪舟五 代と書す、慶長中歿)久蔵、等伯、信春、子等伯、宗也、子等的、門人〈小野〉等林、等悦、宗宅、 等作(等伯の門人なれども画風各異也。雪舟は僧にして姓氏なし。雲谷は寺の号也。是を称号とし て門人に与へたり。長谷川も画法筆意似たる故、雲谷と共に雪舟の画裔と混同して後世に誤るもの 也) 欄外〈桜山興〔サクラ山興〕は桜井秋山の父也。山興雪館と号す〉〟
「堤等琳系譜」 〝堤等琳 三代目 法橋 雪山 深川斎 別記あり〟〈「別記あり」とは別に一項を設けて記述という意味。上記がそれにあたる〉 ☆ としのぶ おくむら 奥村 利信 〝奥村利信 一枚絵あり〟☆ としまる うたがわ 歌川 年丸 (「初代歌川豊国」の項) 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝国丸社中 重丸 年丸 輝久〟〈国丸門人〉 ☆ とものぶ いしかわ 石川 流宣 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝石川流宣(伊左衛門俊之)浅草住 其伝詳ならず大和耕作絵抄本といへる画本あり。菱川同時の人なり。 月岑按るに菱川師宣に比して号を設しならん。 (此時代探幽斎守信に比して深函〈シンカン〉斎正信と号せし浮世画師もありしなり)流宣が編の江戸 図鑑綱目并江戸図有、尤委し)〟〈『温知叢書本』は石川流宣の記事なし〉 ☆ ともふさ ひしかわ 菱川 友房 (「菱川氏系図」師宣門人)「菱川派系図」 〝菱川友房 画風ハ似テ筆ヲトレリ〟☆ とよきよ うたがわ 歌川 豊清 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) (「歌川豊広」の項、豊広門人)「歌川豊広系譜」 〝実子 豊清 俗称 金蔵、号(空白)斎 豊清尤上手なり にしき画草双紙読本一二部あり 早世して可惜にあらずや 〈糸桜春蝶奇縁 馬琴作〉〟☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 初代 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) ◇「菊川英山」の項 〝(文化三四年の頃、堀江町の団扇問屋、故有て悉く豊国の新板画を不出、一年英山の役者画の団扇ばか り出せし事有)〟 ◇「歌川豊春」の項、(豊春門人)「歌川豊春系譜」 〝豊国 中橋槙町河岸に住す 門人多し 別に記す〟 ◇「歌川豊国」の項 〝歌川豊国 寛政より文政迄の人 俗称 熊吉 居 始芝三島町 又芳町 堀江町 上槇町川岸 油座住す 号 一陽斎 江戸芝三島の産也 人形師の男 豊春の門人なり。後、一蝶の風を慕ひ、又玉山、九徳斎が画法をも慕ひ、一家をなす。豊広と一時行る。 (豊国始ての画の板元は神明前和泉や市兵衛也。役者切画也)当世の風俗を写す事に妙を得たり。美人 絵并役者似顔、此人より行る。中興の祖といふべし。草双紙、合巻、読本、錦画、数百部世にもてはや せり。門人夥しくあり。文政八酉年正月七日五十七歳にして終る。実彩麗毫信士と号す。三田聖坂功運 寺に葬す。 此人の伝多しといへども、姑く爰に略〔す〕〈し〉別記に出す。文化文政の間、似顔画大に行れたり。 こゝにおいて門人多し。(類考云、墨と紫ばかりにて彩色のにしき絵をかきはじむと云々) 或人云、豊国は、其骨法豊広に不及事遠し。画法劣ると云へども、人目を喜しむる事妙を得たり。戯場 流行の時に逢しものなり。後年迄、春画は不画しが、歿故二三年前より数部を画り。多く松寿楼永年の 作なり。永年は二代の焉馬なり
「歌川豊春系譜」 此余多しといへども、板下画不書ものは略之 一陽斎筆画本彩色摺 〈画手本〉年玉筆 〈役者〉合鏡 〈同〉此手柏(享和三癸未焉馬編) 似顔〔独〕〈早〉稽古〈文化〉 〈役者三階興(三馬編) 時世姿(二巻未自作の文あり) 同筆読本挿画 桜姫〔物語〕〈全伝〉 五冊 京伝作 稲妻表紙(一名本朝醒菩提)十五冊 京伝作 双蝶記 十冊 京伝作 阿古義物語 五冊 三馬作、豊国、国貞合筆 稚〈ワカ〉枝鳩 五冊 馬琴作 うとふ安方忠義伝 六冊 京伝作 四天王剿盗異録 十冊 馬琴作 敵討松山話 六冊 焉馬作 三国一夜物語 五冊 馬琴作 春夏秋冬 十冊 振鷺亭作 梅花氷烈 四冊 京伝作 〈月岑補〉 豊国筆塚碑名 柳島妙見宮境内にあり、門弟より建之 四方真顔 〔山東京山〕銘文〔書〕〈選〉す〔并〕〈京山〉自書也 一陽斎歌川豊国、本姓は倉橋、父を五郎兵衛と云り。宝暦の頃、芝神明宮の辺に住し、木偶彫刻の技 業を以自ら一家をなせり。曾て俳優の名人、市川栢筵の肖像を作るに妙を得たりき。明和の〔末〕初 ころに豊国を生り、幼名を熊吉と称す。性、画を嗜が故に、歌川豊春に就て浮世絵を学しむ。依て歌 川を氏とす。頗出藍の才あり。長に及で俳優者流の肖像を画に妙を得て、生気活動神在が如し。或ま た美人時世の嬌態、梓本細筆、諸国流行し、華人蕃客も珍とし求む。茲を以、一陽斎の号、日の昇る が如し。豊国の名一時に独歩し、画風自ら一家を成し、朱門の貴公子も師とし学ぶ。門人画業の徒に 於て良才乏しからず。実に近世浮世絵師の冠たり。惜哉、一陽斎、享年五十七歳にして歿せり。時に 文政八年酉正月七日也。三田聖坂弘運禅寺に葬る。法名を実彩霊毫と云、遺愛の門人等、一陽斎の義 子今の豊国と量て、亡師の遺筆数百枝を埋て碑を営み、亡翁の友人等も為に力を助け、桜川慈悲成子 をして余が蕪辞を需む。余もまた亡翁の旧識たり、故に固辞する事あたはず。其事を記て其乞に答ふ。 文政十一年戊子仲秋 狂歌堂四方真顔撰 窪世祥鐫 山東庵樵者京山書并篆額(碑陰に 「歌川総社中碑」 として門人の名あり) 〈但し『増補浮世絵類考』は碑陰のみ。表の碑文はなし〉 追善の絵に辞世の句とて 焼筆のまゝかおぼろの影法師 と記るせるは他人の句にして、辞世の句にあらざる事あきらかなり。 月岑云、豊国醒(粋)菩提の口画に遊女を画き、一枚の絵を上れば骸骨となる所を画り。此図杉田氏の解 体新書を見て画しは尤なれど、誤て小児の骨を写り。笑ふべし〟☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 二代 ◇「初代歌川豊国」の項 「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる「豊国筆塚碑」 〝二代目豊国社中 国富 国朝 国久女 国春 国弘 国重 国盛 国靄 国道 国一 国与〟 〝二代目一瑛斎歌川豊国〟 ◇「初代歌川豊国」の項(初代豊国門人)(「歌川豊国系譜」) 〝二代目 一竜斎豊国 又後素亭 俗称(空白)幼名(空白)国 本郷春木町に住す、歌川豊重と改む〟☆ とよくま うたがわ 歌川 豊熊 (「歌川豊広」の項、豊広門人)「歌川豊広系譜」 〝(他家へ嫁した豊広の女子の)実子 豊熊 俗称熊吉 豊広の実孫なり〟☆ とよのぶ 豊信 ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) (「歌川豊春」の項) 〝〈月岑云〉柳島春慶寺普賢并の堂内に、日蓮上人竜の口御難の図あり。豊春が〈六十七の〉筆なり。此 図に豊信補画とあり、この豊信もしくは石川秀葩が事にして、豊春は豊信の門人にや〟☆ とよのぶ いしかわ 石川 豊信 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝石川豊信 寛延宝暦の頃の人 俗称 糠屋七兵衛(旅人宿)小伝馬町住す(地主なり) 西村重長門人也 号 秀葩 狂歌師六樹園飯盛の父也。宝暦の始、紅絵に多し。此人一生倡門酒楼に遊ばず。しかるによく男女の風 俗を写せり。一枚絵に多く、絵本もあり〈天明五年巳五月廿五日卒 浅草榧寺に葬す〉 〈月岑補〉狂歌万〔歳〕〈載〉集に 飯盛が父の死けるときいしかはしうはをとぶらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみて つかはしける。 四方赤良 いしぶみをたつる飛脚はゆきとゞけ しらぬ根のくに底のくにまで かしつきし父のみひとりさきたてヽ はゝとそばから気をやいたむる しての山こへて七日になりぬれば うちはなみだの川づかへかな はてしなき涕やのりをこへぬらん をひたるとしに不足なければ とよのぶとかきし紅絵の摺物も ふでのあととへかたみとぞなる らいせには蓮のうてなをきつき置て ふしんもいらずすぐに極らく 〈月岑按、同時代石川豊雅といへる浮世絵師あり。一枚すりを見たり。豊信が男歟 亦曰、柳島春慶寺普賢堂の額に、歌川豊春七十一の画に、豊信補画とあり。この豊信にして豊春は門 人なりや尚尋ぬべし〉〟☆ とよのぶ かわえだ 川枝 豊信 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝川枝豊信 享保中ノ人 俗称(空白)京師の人なり 号(空白) 朗〈詠狂歌〉舞台の画者なり。享保十六年板〟☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝歌川豊春 (安永より天明、寛政、享和、文化の間、享年七十余歳にて没す) 俗称 庄三郎(但馬屋と云) 居 始芝三島町 又日本橋近に住す 落髪して赤坂田町に住す 号 一竜斎 江戸の産なり欄外 〔〈月岑云 豊春は石川豊信ノ門人歟 其説前ニモイヘリ〉〕 豊春は始め(空白)門人なり(附録に西村重長が門人と有るは非也と云々)後、流行の風俗を画き一家 をなせり。操芝居の看板画をかけり。彩色尤委し。寛政の頃、日光山御修復の節、彼地に職人頭を勤め しとぞ。類考に云、豊春、近来浮絵を錦画に多くかき出せり(浮絵といふは、蘭画の俗にあぶらゑとい ふものに比して画る遠景の山水を錦画に横に画し也)宝暦の頃の浮絵に勝れりと云々。草双紙の類は多 くかゝず。弟子に高名の者多し。 按るに、土佐結城の操座の看板を画く。此人の筆にて度々評判せられし珍敷図取をかきしと云り。其 後春英も是に次て劣らず書しものなるべし。今は春徳が筆なり。春亭も一両度書し事ありし。 〈月岑云〉柳島春慶寺普賢并の堂内に、日蓮上人竜の口御難の図あり。豊春が〈六十七の〉筆なり。此 図に豊信補画とあり、この豊信もしくは石川秀葩が事にして、豊春は豊信の門人にや〟
「歌川豊春系譜」 後年、豊春と名のりし者あり。文政の始なりし。 押上春慶寺碑 〈補〉 文化十一戌春 行年八十才 二代目歌川豊春 花は根に 元祖 歌川昌儔 名は桜木に 歌川妙歌 普賢像 歌川首 カ のりのうてなも 大野規行 妙法の声 歌川豊秀 歌川豊国 歌川豊広 京師板行のよみ本に歌川豊秀といふものゝ画あり 未考 豊国の門人なる歟。 車僧轍物語 甲賀三郎巌物語 聚義雑放談等あり 尤拙し〟〈「附録」とは笹屋邦教の「古今大和絵浮世絵始系」〉 ☆ とよひさ うたがわ 歌川 豊久 (「歌川豊春」の項、豊春門人)「歌川豊春系譜」 〝豊久【堺町に住す。錦画あり、芝居狂言本をかく。組上燈籠の画に妙を得たり〟☆ とよひで 豊秀 ◇「歌川豊春」の項 〝京師板行のよみ本に歌川豊秀といふものゝ画あり 未考 豊国の門人なる歟。 車僧轍物語 甲賀三郎巌物語 聚義雑放談等あり 尤拙し〟 ◇「京大大坂の部」の項 〝哥川豊秀 初代〔歌麿の〕歌川春(ママ)春の門人也〟〈〔歌麿の〕の〔 〕は見せ消ちであることを示す〉 ☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広 ◇「歌川豊春」の項、(豊春門人)「歌川豊春系譜」 〝豊広 芝片門前に住す 門人あり別にしるす〟 ◇「歌川豊広の項」 〝歌川豊広 寛政の末より文政十一年の頃歿す 俗称 藤次郎 居 芝片門前町 号 一柳斎 江戸の産也 豊春の門人なり、後、一家の画風をなし。草筆の墨絵を板行して張交画とす。草双紙敵討の続物、此人 より始れり(初代南仙笑楚満人作也)世に行る読本数十部を画り。門人多し(常に儀太夫節を好んで、 三味線を引くを楽とす、尤妙手也)
「歌川豊広系譜」 豊広筆絵本枚挙して尽るにあらず。依て読本のみ左に一二を記せり。 俊寛僧都島物語 十冊 馬琴作 旬伝実々記 十冊 馬琴作 松染情史 六冊 同 作 松浦佐用姫石魂録 三冊 同 作 浮牡丹全伝 四冊 京伝作 朝比奈巡島記 馬琴作 括〈ククリ〉頭巾縮緬紙衣 馬琴作 雲妙間雨夜月 六冊 馬琴作 鷲ノ談 五冊 京山作 夢想兵衛胡蝶物語 十冊 馬琴作 糸桜春蝶奇縁 八巻 馬琴作 豊清合筆 復讐御伽物語(空白)冊 絵本西遊記 二編(初編は東野の筆にて尤よし、二編いたくおとれり)〟☆ とよまる うたがわ 歌川 豊丸 (「歌川豊春」の項、豊春門人)「歌川豊春系譜」 〝豊丸 役者絵多し〟☆ とりいは 鳥居派 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 「鳥居清信系譜」 〝鳥居流の絵は江戸大芝居看板番附を画きて一派とせり 今猶画風を不改、古き草双紙に狂言を写し言葉 書きを加へしは鳥居流の絵なり 俗に鳥居の瓢箪足と云て敵役勇士の手足ひやうたんの如くに画くを元祖清信の頃より行れたるものなる べし 芝居看画にはさま/\故実あるよし也。追て別記くはしく出せり 〈月岑補〉豊芥所蔵 河竹某改清川重〈シゲ〉春(前の鳥居清種)記抜文略 元禄の始京〈キヤウ〉より江戸に下りし鳥居庄兵衛清倍〈イ信〉とて元祖也。以前は哥川流の如き似顔 に工にして、別て市川団十郎の面を似せたり。此頃の酒杯〈サカヅキ〉に似顔面の行るゝ事今の絵猪口 の如し。 二代目清倍〈マス〉三代目清満の弟子に清広清春なんど皆名代とはせり。早世にして書残せるもの少か りき。四代目に至て女子なれば也。此女子に聟を取、上絵師にて松屋亀次といへり。亀次一人の児を得 て庄之介とよべり。しかるに新場の煙草店寺本某の家守にて本屋を業とせる白木や市兵衛といへるもの ゝ忰絵を好て三代目清満の門人となれるを、鳥居を継しめて清長と号し四代目と成る。又前の庄之介此 清長に学び五代目となり清(アキ)と号す。絵に工にして名人の聞へあり。 又云、鳥羽僧正のをはせし鳥羽寺〈デラ〉に住る僕の絵を好み、後彼寺を出けるか、鳥羽寺に居れる心 にて鳥居とはなづけける。神社に立る鳥居の心にはあらずとぞ。此説如何あらん信じがたし〟