Top      『錦絵』10-21号(雑誌)大正七年(1918)     その他(明治以降の浮世絵記事)  出典:『錦絵』(相場七二編 国書刊行会錦絵部 大正六年(1917)四月創刊~大正九年(1920)五月)    (国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 大正七年(1918)  ◯「筆はじめ」鴬亭主人著(『錦絵』第十号所収 大正七年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)    〈鴬亭主人は明治の戯作者・鴬亭金升。幕末-明治の戯作者・梅亭金鵞の門人〉    「周延翁と清親翁」   〝 周延と言ふ人は榎本子大鳥男(注1)の手に附いて函館五稜郭で戦った人だ、其後獄中の人となつた時    出たら画工にならうと考へ、爪の先で画を描て日を送つたと言ふ、漸く明るい身になつたので直ちに国    周の門に入つた、中年から始めたのであつたが、熱心に稽古した為に技も進み 新聞の挿絵と錦絵を多    く描き、晩年は絹絵のみを描いて居たが、御殿山下に楽隠居をして浮世に遠ざかり、気楽に長寿(なが    いき)をして、明治の末に芽出たく筆の命毛を断つた。(中略)     翁と前後して一時錦絵の一機軸の洋画風の景色や百面相を出して好評を博した清親は大正の代まで居    た人だが 周延翁とは反対の晩年であつた、清親翁も武士から浮世画工(うきよゑかき)になつた人だ、    此二翁は人格に於て実に尊敬すべき先生で逸話も随分有る(以下略)〟    (注1)「榎本子大鳥男」は榎本武揚子爵・大鳥圭介男爵    「暁斎翁の門人と誤られた梅亭」(注1)   〝 暁斎先生が梅亭へ微酔(ほろよひ)でやつて来て、『暁翁画談』(注2)いふ本を出すから話を聴いて文    を作つて下さいと頼んだ、梅亭翁は承知して夫から根岸の笹の雪(注3)の横町なる先生の家へ五六日通    つて談話を聴き挿画に合せて書た、すると出版になつたのを見ると「門人瓜生政和」(注4)と出ている    ので 温和なる翁も黙つて居られず暁斎先生を詰ると、先生額を撫でて、夫は本屋が勝手に門人と書い    たのだ勘弁して下さいと言つたので 梅亭も苦笑して帰つた事がある、当時翁は僕に向つて、後に残る    事だから門人と書れたのは困つたなァと言はれた〟    (注1)梅亭金鵞は幕末~明治の戯作者。本名瓜生政和    (注2)『暁斎画談』河鍋暁斎画 瓜生政和編 植竹新出版 明治二十年(1887)刊    (注3)笹乃雪は下谷根岸の豆腐料理の老舗    (注4)外編 巻之一・二に「東京 門人梅亭鵞叟編集」とあり      「酒乱の暁斎と国周の大活劇」   〝 一日(あるひ)の事 根岸に住む文人を集めて会を立てやうと企てた人がある、僕も幹事のお仲間入を    した処が 河鍋暁斎先生一人脱(ぬか)す事の出来ぬ為めに 其会が毀(こは)れてしまつた、先生が入る    と例の酒乱の為めに滅茶(めちや)になるから御免だと言て逃げる人が多く有るので成り立たなかつたの    である。暁斎の酒と言つては有名なもの、画談に出て居る不忍弁天の画会で 多数の人を池へ落とし乱    暴をして伝馬町の牢へ入れられた事もあつた位(ぐらい)(注1)、僕の知た丈(だけ)でも柳橋の某楼で障    子を蹴破つた事があつた、先生は裸になつて障子に衝突り 骨を毀したので自分も坊主天窻(あたま)に    傷をつけて帰つた。     国周暁斎の酒豪が二名 浅草の国周の家で大活劇を演じ事もあつたさうな、国周が新調の羽織を見せ    ると 暁斎は何だ此んな羽織と 言つゝ墨を溜めた鉢の中に突込んだので 忽ち活劇の幕は切て落され    た、両画伯は丸裸となつて表へ飛出し 浅草田圃で長町裏の団七九郎兵衛と義平次以上の泥試合を演じ    たが 誰も止める人が無いので 結局労(ママ)れて引分けとなつたとは滑稽な話だ〟    (注1)明治三年十月六日、不忍弁財天の画会において、暁斎は泥酔の上狼藉を働き、捕縛されて伝馬町の獄舎に収監        された顛末は『暁斎画談』外編巻之下に出ている。本HP「浮世絵師総覧」「河鍋暁斎」明治三年の項参照。    「通人の芳幾翁」   〝 芳幾翁には新聞社長になつた当時面会したが 逢ふ人を捉へては影絵を撮つて新聞の付録に載せる時    であつたので 僕も影を取られて、白昼奥座敷の戸を締めて大蠟燭を点け 小さな障子が立てゝある、    其前へ坐つて横顔をうつすと其障子へ薄葉を当てて影を模写された、後で又縮写して板下にしたらしい。    翁は江戸ッ子の通人で、魯文、有人(採菊山人)、永機、竺仙、新七(黙阿弥)の方々と 山城河岸の今紀    文と言はれた津藤を大将にして通な遊戯に面白く幕末の代を過ごされた人であつた〟     ◯「蕉園女史逝く」(『錦絵』第十号所収 大正七年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション) ※(よみがな)は本HPのもの   〝 池田輝方画伯夫人 蕉園女史池田百合子は昨春(大正六年)来胃腸を損じ、鎌倉に転地静養の結果 七    月初旬には稍々軽快に向ひ、爾来帰京して田端の自邸に療養中、肋膜炎を併発し、遂に昨年(大正六年)    十二月一日午前十一時薬石甲斐なく永眠した、行年三十(ママ)。女史は榊原浩逸氏の長女 明治廿一年神    田錦町に生る、富士見小学校卒業後 女学院に学んだが、十六歳にして丹青の道に志して、故水野年方    の門に入り 後河合玉堂に師事した、殊に浮世絵派の美人画を以て誉高く 文部省美術展覧会には第一    回より出品して 常に当選せざるはなく、三等賞五回、特選一回、褒状一回の栄を荷ひ、其他東京勧業    博覧会を始め諸種の画会に出品して授賞された事は枚挙に遑のない程である。曾て年方の門に学ぶ際、    夫君輝方と熱火の如き恋に陥り、放浪、憂悶し、筆を擲(なげう)つて憂世を啣(ママ ねにも?)つた時もあ    つた。『夏の暇』『桃の酔』等は女史の最も特徴を発揮したもので、京都の上村松園女史と共に当代浮    世絵閨秀画家の双璧と称せられた、今女史の訃を聞くは、洵に悲しむべきである〟  ◯「初代と二代と三代との豊国に関連する種々の疑問に就いて(一-十)」坪内逍遥著    (『錦絵』第十~二十所収 大正七年二月~十一月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション)    初代と二代と三代との豊国に関連する種々の疑問に就いて 坪内逍遥著  ◯「懐月堂の流罪」兼子伴雨著(『錦絵』第十一号所収 大正七年二月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 一旗を翻した渠(かれ)及渠の名と風俗画      (省略)     懐月堂とは何者であらうか、渠は通称を源七と呼び、岡沢姓、安度と号した。ほかに安支、安慶なぞ    の号を用ひた、或は別人だと云ふ説もあるが、多賀朝湖が流刑赦免の後、英一蝶と改名した如く、渠も    又公辺を憚つて改称したのではあるまいか、風俗画を描き生活費にあて、浅草諏訪町に住居した事は、    渠が生存した時代には、現今好事の連中が、先を争ふて愛翫する如く、渠の風俗画を熱望したかと云ふ    と、僅かに一小部分の遊堕の士民に、歓待されたに過ぎまいと思ふ、何故なれば、渠は人情の弱点を画    題に捉へて、其の多くは美人画に筆を執つた卑劣さ、否、他の画は望み手がなかつたのではあるまいか、    卑劣な根性は画道ばかりでなく、渠が半生の経歴は事実を証明する。      渠は米屋となり柄屋(おかや)の参謀となつた     渠は富豪柄屋(おかや)善六に、同町住居の故をもつて知遇を得て、後には蔵所の米宿を購ふて貰ひ、    出羽屋と名乗り、繁く柄屋方へ出入した、疑問は茲に存在される。渠は如何に浅間しと雖も、画道を以    て優に生活されたとしたら、何を好んで、美術家には煩雑の感のある米商なぞを兼業する必要があらう    か、想ふに渠は画道一方では、生活に困難な処から、信用あるに任せ、富豪の柄屋に縋り、米宿の株を    購ひ得たと判断される、而(そ)して渠は意外の俗物であつて、貨殖に心傾けて居た事も、以下の事蹟に    よつて益々了解される。     諸家の御用達を勤める善六は、一躍向上して、徳川家御本丸の御用を引受けたい希望で、深く計画し    た際、如何にすべきか其の手段を懐月堂の源七に謀つた、但し善六は正統の手続きを踏んで出願しやう    と云ふのを、渠は遮り側面から受入る方が早く、必ずや成功しやうと説いた程で、渠は実に柄屋の為め    には無二の参謀官であつた。      渠の知略と其の曝露     其の取入る手段として渠は、当時小普請方金井六左衛門のもとへ、樽代として金百両を贈り、その執    り成しを頼んだ、柄屋は又た奥医師奥山交竹院へ、密かに賄賂を贈つて、大奥の女中達を説(と)かして、    内外から責立てる搬(はこ)びにした、此の贈賄を受けた交竹院は、月光院主附奥女中で、表年寄の江島    とは、縁類の関係から之を説き、江島を取入る手段として、正徳三年四月、木挽町山村座の見物に誘引    した、二十五日 渠は参謀役として、柄屋と俱に問屋へ随行して万事を斡旋した。     越えて翌四年正月又も江島が山村座を見物の際、徒(かち)目付松永弥一左衛門、御小人目附岩崎忠七    が見廻りに来て、捨て置かれぬ義だと、江島が見物の桟敷の入口へ来て、何人にても面談を仕たいと申    込んだ時に、応対の役を勤めたも懐古堂の源七で、此の役人共から、桟敷の中の人は何者だと尋問され    た時、渠は「柄屋の家内者です」と云ひ抜けやうとして、弥一左衛門に睨まれ、拠処なく白状して居る    ばかりか、江島が囚れの身となると、奉行所へ呼び出されて、一応吟味の際、江島に春宵秘戯の図を描    いて贈つた事を告白して居る。     江島は信州高遠へ謫せられると同時に、柄屋と懐月堂の居宅は闕所となり、二人は正徳四年三月伊豆    の大島へ流刑に処せられた、坊間江島騒動と云へば、人々の熟知する処であるが、其の騒動の根本たる    首謀者は、源七の懐月堂であつた事は、世間で多く語らないも不思議である〟  ◯「雛祭と錦絵」久保田米斎著(『錦絵』第十二号所収 大正七年三月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(元禄以後)木板彫刻の勃興と共に、所謂丹絵、紅絵、漆絵等の出てくるやうになり、人形を求めるこ    との出来ないものは、版絵の雛を買って飾つたものである。其の例証としては広瀬菊雄氏の所蔵にかゝ    る、油町奥村版の漆画細絵の雛の図を挙げてみたい。これは田村貞信の筆に成つたもので、二枚続きで    あるが、この図を見ると、次郎左衛門雛、一名芋雛といつたものを写生したことが能く分暁(わか)るの    である。其の後錦摺りなる錦絵が流行するやうになつてからは 種々なる意匠を凝らして雛の絵が、年    々に出板せられ、追々贅沢になつてきたので、時あつて、幕府から禁令の出たことが、徳川禁令考中に    散見する。因つて以ていかに流行の盛んであつたかゞ窺知せられるのである。     さて雛祭と錦絵と最も密接なる関係を有するものは、東北地方の仙台、山形、秋田、青森、弘前等で    ある。仙台のことは未だ能く知らぬが、秋田、弘前、青森地方にては、錦絵のことを絵紙(ゑがみ)と呼    び、三月三日の雛の節句に際しては、江戸土産の錦絵の、役者絵、源氏絵、其の他の風俗絵を壁上に貼    り、その前に土人形を並べて飾つたもので、近年までそれが行われてゐたのであつた。それで東北地方    にありては、雛祭に錦絵は必要の品であつたのである。されば近年錦絵専門の商賈が、同地方を歴遊し    て、時々珍物の錦絵を掘り出し、巨利を占めてゐるのも、此風習のあつた事を知つてゐたからである。    (下略)〟  ◯「刷師と江戸ッ児気質」画博堂 松井栄吉著(『錦絵』第十四号所収 大正七年五月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 今日でこそ地方の人もあれば種々の方面の人がなつて居るが、明治初年頃の刷師といへば殆ど江戸ッ    児のチヤキ/\で、江戸の一名物であつた位である。其の江戸ッ子児も博徒か臭い飯を食つたものか、    白徒連者(ばくれもの)のなれの果てか、真面目の者は全く暁天の星で、入墨をしない者は無いと言つて    可(よ)い位であつた。      彼等の口癖の広言と言つたら    「手めえ達は職人だらう、意気地なし奴(め)、宵越しの金を持つのは江戸ッ児の恥だ、恥と云ふ事を知     つて居るか、知らなければ言つて聞かさう、職人と云ふ奴(やつ)は腕せえあれば一厘の金(ぜに)がな     くたつて驚く事はねえ、烏が「カア」と一声啼けば金になるのが職人だ、腕が金だ、夫れも先方(む     かう)から「頼む」と来ればしてやるんだ、金を貸さなければ仕事なんかするもんぢやねえ、腕を磨      け腕を、腕から小判が生れるんだ、手めえ達は乃公(おいら)の半分の腕があるかい、半分の腕があれ     ば立派な職人様だが、半分は愚か三分の一もあるめえ」      と云つた調子で、仕事にかゝる時でも手下を捉えて    「オイ、これから仕事だ、細具場(さいくば)を掃除しろ、手めえ達は不精で仕方がねえ、水鉢の水をと     りかへろ、恁(こ)んな穢ねえ水で仕事が出来るかい……」      今頃の職人に聞かしたら驚くやうな嶮幕(けんまく)である。      又初めて店に来た時は    「親方、新田幾許貸す」      と頭から切つて出る、新田とは「金を貸す」と云ふ事の符牒で、当時一分の事を「はいぶ」と云ひ、     二分を「ふりぶ」三分を「かちうぶ」と呼んだものである、前借が定(きま)ると、    「鳥渡(ちよつと)手軽に祈祷して来ます」     と言つてツヽ/\と出て行く、又バレンと「けんと」鑿(のみ)を投げ出して金を借りて出かける、而し     て酔つ払つて帰つて    「今日は安上りに綱(なは)を手繰(てぐ)つて来ました」     御祈祷と云へば酒を飲むことで、綱を手繰るとは蕎麦を食ふと云ふことである、恁うして酔つ払つて    帰つて来て仕事にとりかゝる、仕事にかゝるのは好いが、一番後から始めて一番早く仕舞つて了ふので    あるから呆(あき)れる、仕事を仕舞うと早速手拭を肩にかけてお湯へ行くと云つた調子で、気儘の有り    丈けをしたものである。     昔は「朝八夕でん」と云つて朝八文持つて行くと 夕方の湯は無銭(たゞ)で入浴出来たもので、刷師    も朝風呂に入つて夕方は夕方で入つたものである。然し風呂と云つてもホンの烏の行水で、一浴でドン    ブリ浴びると夫れで好いのであるから、今先きお湯に行つたと思ふと直ぐ帰つて来る。     やつて居る仕事を見ると全く手の歩む様で、焦燥(じれ)つたくなるが、夫れでドシ/\仕上るのであ    るから驚く、要するに当時の一人前の刷師の仕事は、無駄手と云ふものが更になかつたものである。     明治初年の事を今から考へると、何事も隔世の観があるが、刷師も今から見ると全く一変したやうに    思はれる〟  ◯「耳鳥斎の背景(上)」(三田村)焉魚著(『錦絵』第十四号所収 大正七年五月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 耳鳥斎の風刺は頗る情味の温かなものである、快を貪つて強いて笑を取る為に廃疾不具を材料とした    残忍な無分別なものとは違ふ、彼は必ず治癒し得べき病症にのみ投薬したらしい、看者が省悟すれば直    に改悛の効の顕はれる程度に於て、風刺の全能を予期したのかとも思はれる。風刺画は定つて戯筆の体    で描かれる、耳鳥斎のは洒落画(ちやりゑ)と呼ばれた、その乾浄な瀟洒な画面の底に、旦那芸たる心持    が十分に看取される。     現代画即ち浮世画は今日では芸術家の手になつたと云はれて居るが、当時は画家でも画師でもない、    画工と云はれた、画料でも潤筆料でもない、手間賃を請取つた、それで画の職人だと思はれ、本人も亦    た年季を入れた手間仕事だと信じて居たのである。極めて尠い除外例はあつたかも知れぬが、大体さう    した画工に対して、一種の学問識見のある中産以上の商人であつた耳鳥斎の揮灑が異彩を放つのは勿論    の話であらう。     画品を説く時ばかりでなく、人間一疋、孰れも時代々々の産物に相違もないので見れば、其の時代を    考へ、其の人の四囲を考へて、始めて其の生涯を窺へるのである。当人の性格だけが知れたのみでは、    未だ/\推論には不足であらう。耳鳥斎の如き、其の一切が殆ど知れて居ない人物に就いては、実は言    句(いふく)が出ない勘定なのだけれども、彼の背景を悉したならば、洒落画の価値が明確になるのに、    それが出来ないのを残念に思ふ、拙者の切なる希望は此処(こゝ)にある。然るに当時の大阪をさへ概説    せず、当時の町人階級の模様も探討せずに、漫然たる記述を試みるのは無慚な業であるが、但だ斯くし    て切なる拙者の希望の端緒だけでも得たいという微衷に過ぎぬ。      『通者茶話太郎』寛政七年版 巻五に    「茶話太郎か振舞船は、此上もなき古屋形に大坂名代の福者たち、すししたやうにへしあふて、酒は痢に入る、からだ     は暑し、斯(かく)て晩(おそく)迄ゐる事なら、是も前世の因果であろうと、五人がつらがる其のうちに、船はちくち     く登りけるが山咲のあなたより綱船一艘漕ぎよする、是は誰ぞとよく/\みれば、中の芸者山本善吉、筒井星平、南     の幇間(たいこ)八重ざくら、今一人は木附子屋の御気に入、洒落画(ちやりゑ)かきの二挺斎(にてうさい)、船ばたに     天窓(あたま)つき出し、旦那がた今日は有がたし、しかし爰等で飲かけては、廃飾船(がらくたぶね)が邪魔いたし、     どんちやんともてませぬ、桜の宮へ船繋ぎ、わつさり、一ツ載ませう……」          とあるのを見れば、耳鳥斎(二挺斎)は純然たる幇間らしい。此の茶話太郎といふのは、大坂船場の両    替米搗屋の主人で、河内屋太郎右衛門といふ畸行家である。その河太郎が一世一代の舟遊山だと云つて、    友人五個(にん)を廃船に誘因した記事の中に前掲の文があつたのである。それに『茶話太郎』五冊の挿    画は耳鳥斎の筆で見れば、其の記事が嘘でもあるまい、文人墨客が先生顔した一種の幇間(ほうかん)で    あつたのは違ひもない。英一蝶が本庄因幡守や井伊伯耆守の幇間であつたのは誰でも知つて居る、画の    職人であつて見れば、取巻きに連れて往れる、所謂末社であつて、扇子で頭顱を叩かずとも、幇間待遇    を受けて、御辞退申さずに居られもすれば、する気にもならない、哀れ耳鳥斎も此の流儀の人なのであ    つた歟。     耳鳥斎は京町掘三丁目の酒造家松屋平三郎といひ、松ゥ平ィと呼ばれた、後に骨董舗を開いたといふ、    想ふに零落して骨董屋になつたのであらう。寛政六年版の『虚実柳巷方言』にも、名人耳鳥斎とある、    又同九年九月九日に嵐雛助・尾上新七の仲直り芝居の時、耳鳥斎が引幕へ雛助の朝比奈が新七と首引に    勝つた処を描いて好評を博した、そうして享和三年版の『歳時滅法戒』の序には「今也則亡矣」とある    から、彼の画名は晩年に高くなつたのであらう。     彼が役者絵を扇子へ描いて売つたのも、骨董舗で(ママ)なつては出来ない、戯作も寛政になつてからで、    其の以前には刊行年月不詳の鳥羽画手本を除いて、『絵本水也空』(安永九年刊)のみである。彼は故旧    を華主(とくゐ)として、空腹の禁厭(まじない)に骨董屋と出掛け、勝手気儘に画を描き、笑つて幇間と    伍して居たらしく思はれる。彼を贔屓した木附子屋の誰たるかは知れぬが、河太郎一派の畸人であつた    に相違ない。耳鳥斎は河太郎一派の風格がある、描画の上にもそれが見れる、耳鳥斎も恐らくは河太の    連中であつたらう、宝暦以降寛政へ掛けて、大坂の中産階級には人物があつた、富永仲基、江田世恭、    片岡芸亭、森修来、尾崎散木、井村信成、高荘次郎、佐々木泉明、金谷三石、加藤景範、玉雲斎貞右、    如雲舎紫笛等は皆な町人の雋である。学問は概して老荘であつたから、当時の智識が程朱に専らであつ〈雋(シュン)は優れもの〉    たのに対して、已に業に尋常でなかつた。『近世痴人伝』(寛政七年刊)は畸人等の逸話を書いたもので    あるが、其の中に     「金まふけのままならぬより、世を無常に観じ出して、一生のらでしまふときこえたれど、何ぞ庸(たゞ)の親父には異     なるところが有たきもの也」     と云ふのは、町人らしい口気で吐いた気焔であるが、たゞ親仁(おやぢ)でないと云ふ処に、稜々たる    気骨がある。反撥気分を露出すれば謀反、粉末にして撒布すれば喧嘩、今頃に任侠でもあるまいといふ    のが、当時の畸行家であらう。     たゞの親仁でない連中の上にも、時勢がら土地がら辞退の出来ないものがあつた、それは俄(にわか)    と浄瑠璃である、耳鳥斎も浄瑠璃の優勝者で、寛政五年に出版した『音曲鼻毛抜』に依つて其の造詣を    察せられる。町人から太夫になつて盛名のある豊竹麓太夫、河太一派の竹本錦太夫の例もある。さりな    がら耳鳥斎はチヤリ浄瑠璃の名人でもあつた、彼としては浄瑠璃を習つて、竹豊二坐の床(とこ)の上へ    納まるよりも、洒落(ちやり)浄瑠璃を得意として、閑雲野鶴飛んだ滑稽を誇つたのであらう。流行を月〈閑雲野鶴は悠々自適の境遇〉    並に追駈ける平凡な紳商と、たゞの親仁になりたくない富賈とは固(もと)より違ふ、又たノラクラ者の    面白がつたのとも同じでない。大坂より少許遅れて江戸でも茶番(ちやばん)が流行して、御家人旗本も    町人職人も興に乗じて、一年に四季のあるのを忘れたらしくも見えたが、弥次郎北八も八笑人、和合人    も、『近世痴人伝』や『川童一代噺』『通者茶話太郎』の中へ出て来る人物を可笑しいことは可笑しく    ても、同様でなく異様なのは、当人等の貧富から来た差ではない。たゞの親仁にありたくないの一句が    直に江戸と大坂の滑稽漢の間に鴻溝を存するのである。耳鳥斎の親しかつた河太を中心とする連中の情    態は知れないが、河太の逸話を集録した『河童一代噺』及び『通者茶話太郎』に依つて、河太の畸行の    様子は知れる、その畸行の意味と、耳鳥斎の洒落画に蘊蓄するものを比較して見たい。     我等は先づ『鳥羽画手本』と『歳時滅法界』とを読者に推薦する、そして河太の畸行に就いて云ふ所    を聴取されたならば洒落画の意義洒落画の価値が兎に角に考慮すべきものである事を首肯されるであら    う〟    ※『川童一代噺』画工未詳 後穿窟主人著 寛政六年(1794)刊     『通者茶話太郎』①の口絵「耳鳥図」鉄格子作 寛政七年序・八年刊 ①の書誌は流光斎画     『近世痴人伝』①の統一書名は『当世痴人伝』顚鼇道人著 寛政七年(1795)刊     『鳥羽画手本』耳鳥斎画 刊年未詳〈以上①「国書データベース」の画像及び書誌に拠る〉  ◯「耳鳥斎の背景(下)」(三田村)焉魚著(『錦絵』第十五号所収 大正七年六月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 偖(さて)河太は滑稽な人物と見られて居る、滑稽と眺めた世間の目玉が、御尤千万であらうか、その    総べてを畸行といふ、奇矯な警抜な挙動には相違ないけれども、果して笑つて傍観すべきものであつた    らうか。近い例が一九の『東海道中膝栗毛』である、菊川で駕籠の底が抜けた処で、喜多八は雲助が機    転で、犢鼻褌を繋いで、駕籠を縛つたのに乗た、是は『通話茶話太郎』の今宮戻りに駕籠の底が抜けた    話を翻案したのだが、河太は自宅迄の約束だから、俺は駕籠の中で歩行ひてやる、汝等(わいら)は俺の    足の捗(はこ)びに合せて舁げと云つた。弥次喜多が京の宿屋で丸哲に梅が枝の身振をさせるのは、『川    童一代噺』の茶臼山の花見に、河太が古傘買の源太を雇つて、「平仮名盛衰記」の身振をさせた話を鵜    呑みにしたのであるが、彼処(あすこ)も此処(こゝ)も幕うち廻し、酒に狂ひ三味線に浮かれる中に、一    際騒ぎて強く、四辺(あたり)の遊興もなげに、ざんざめかして、中居、法師、芸子、女郎大勢に景気を    見せた、其の周囲に人垣を造つた有様、河太は古傘買を幕の内の人も、人垣を造つた人物も、一時此方    (こつち)へ集めたのは、世に驕る成金への御愛嬌である。『膝栗毛』も其の侭取つた住吉行の奇談、煮    売店の障子を買つて、人足に持たせた日覆も、贅を尽す人達の胆玉を奪つたのである。河太の奇談珍話    を蒐集した『川童一代噺』、『通者茶話太郎』は、其の人の美を伝へたものでないと評されても居る。    去年林若樹氏が西遊の際、河太が放蕩息子を貰ひ受けて、十分に入用を与へ、遊んで来いと廓へ遣り、    遊び疲れて戻つて来ると、ソンナ事でなるものか、評判されるほどの放蕩者だ、サァ往け/\と、半日    も宅へは置かない、流石の蕩児も降参して、何卒一晩宅へ寝かして下さいと頼む、其の潮合いを見計つ    て、段々宅に落ち着くやうにしたが、遂に蕩児の浮気を癒(なほ)して、実家へ戻したといふ話を聞いて    来られた。其の話は『明良洪範』にある、酒井讃岐守忠勝が石屋六兵衛の息子の放埒に悩んで居るのを    不憫に思はれ、親爺の六兵衛に教へられたことゝ同じで、忽ち奇効を奏した其の嬉しさは、今日でも忠    勝の墓前に残る石の手洗鉢、河太の為めには何一つ称徳記恩の品もない。然し『川童一代噺』『通者茶    話太郎』を注意して読めば、孰れも警世風俗の行(おこない)でないのはない、それも必ず直せば直る範    囲で遣つて居る、牡丹畑に吃(どもり)のお客、ばゞぼゞ牡丹的の軽薄な嘲笑を無稽に行つては居らぬ。    二書は鳩翁堵菴、特に其の末流の書いた心学の本のやうに、婆ァ染みた絮言(くりごと)ではない、極り    切つたことを型の如くに話すのでもない、また今日の修養書のやうに四角四面に、理屈を積み上げたも    のでもない、一挙一動が機に触れ節に中つて、他の猛省警発を促す、活きて働く話である。読んで居て    手軽い処が欠伸(あくび)、念の入つたのが頭痛、さうでなければ教訓書でないのだらうか、「面白うて    やがて悲しき鵜舟哉」笑つて読んでも、親爺じや俺より年が上と来るのが上乗な教訓である、面白い中    に胸へ手を当てさせる力が貴重なものであらう。     耳鳥斎は『軽筆鳥羽車』の自序に「抑覚猷は鳥羽の僧正と世にせうし、古きながら当世の人意にかな    ひ、日本(やまと)絵の根元として、風流の図を写しおかれたり、今世上の世話言葉によせ、鳥羽軍と題    して、人中にめぐらし、童児のなぐさみとなすのみ」と書いた。耳鳥斎は鳥羽僧正の筆致に得たもので    はない、善く意を得たるのである、耳鳥斎が祖述する所は線の剛柔などではない、彼の辻風に米俵を吹    き上げたる処を描きて、糟粕ばかり這入つて居るから軽いといふ意を現して、供米を不正を矯(た)め、    奸吏を脅かした話などは、耳鳥斎の大に喜んだ処であらう。若し読者が『川童一代噺』、『通者茶話太    郎』に注意したならば、転じて耳鳥斎の画集を見る時に、頗る点頭する処が多いであらう、今此処で耳    鳥斎の画を一々に云はうよりも、方々の諒解に譲るのが、過去の教訓書、現代の修養書をお安く積つた    拙者として、其の窠臼に堕ちるに忍びない。さう云へば耳鳥斎の価値は専ら画意にあつて、筆にはない、〈窠臼=ありきたり〉    固より意は本、筆は末であるが、天保五年八月十六日 柳橋河内屋の席上千幅がきのチラシの中に     拙画多く板刻するゆゑに頗る名をしらるゝに似たり、かねて吾役者の似顔は其真にせまるをもて、速に写す事かたし     とす、近頃発明せる宗ありて、彼耳鳥斎にはあらねど、一筆にて役者衆中を写す事を得たり。されば三都の立者役者     は更なり、中以下の者とても又しかり、今度席上の好にまかせて、いさゝ興をそへんと思ふのみ    歌川国貞     斯(か)うなつて来ると 比較研究に花が咲かう、それには専門の方々があるから拙を蔵す訳ではない、    敢て我等の当るべ方所ではない。     一九が河太の畸行を膝栗毛に混入して、大方の笑ひを取る道具にしたやうに、耳鳥斎の画も調子外れ    の愛嬌ものと見られた、それと云ふのも享保以来、大坂には俄(にわか)が勃興して安永度には隆盛を極    めた、俄師といふものさへ輩出する勢(いきおい)、世間は可笑(おか)しい者見れば俄だと思ふ、耳鳥斎    が『古今俄選』の挿画を描いたのも、宛(さなが)ら俄の中の人が画いたやうにも思はれたらう。俄らし    くもある河太の畸行、俄のやうな耳鳥斎の洒落画(ちやりゑ)、俄に托した処もないでもなからう、世間    に過(あやま)られて意趣を閑却されたのも拠ない辺もある、だが茶番その侭の八笑人や和合人と一処に    するのは乱暴である〟     ※『古今俄選』画工未詳 作者未詳 播磨屋九兵衛板 安永四年(1775)刊 ①  ◯「春章の細絵が五厘づゝ」(石井)研堂記(『錦絵』第十五号所収 大正七年六月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝先年亡くなられた幸堂得知(鈴木利平)翁の話しに、「明治維新後、旧物打破、西洋崇拝熱の盛んな頃、    神田明神下の露店に、春章や春英春巧(ママ)などの細絵ばかりを、四五寸高さ出して居る道具屋が有つた、    性来芝居好きの僕は、一枚五厘づゝで、この中から撰りぬき、毎夜のやうに往つて買つたが、少し過ぎ    ると、一枚八厘づゝに値上げし、次で一銭五厘まで上げたので、僕はそれきり買ふのをよしたことがあ    る、後年錦絵に直が出て来た明治二十四五年ころでもあつたが、身内の者の本屋が一枚三十銭づゝにな    るから、売つてくれ/\といふので、全部売り払つて仕舞つたが、其の露店の様は、今でも目にちらつ    いて見えて居る」と語られたことがあつた〟  ◯「錦絵の『改め印』考證と発行年代の推定法(一)」石井研堂著(『錦絵』第十五号所収 大正七年六月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝  錦絵の検閲法     当時の検閲法は、如何のもので有つたか、之を知るに由無いが、天保十三年の條下に引いた法文と、    予の曾て故老に聞いた所を綜合して約言すれば、錦絵の発行者は、先づ其の版下(画稿)を呈出して名    主(もとは行事)の検閲に供す、名主(又は行事)が、出版発行差支(さしつかへ)なしと認めた時には、    之に所定の認印を捺して還付す、発行者は、其の許可の認印を并せて鐫刻(しんこく)し、之を紙上に明    にしたものが即ち「改め印」であつた、芝居絵などは、其の発行迅速を貴ぶので、二タ通りの画稿を作    り、一通を呈出して「改め印」を受ける間に、他の一通を雕りに廻しておくようなことも有つたさうだ。     予の所蔵に、安政ころのものと思はれる出版不許可になつて戻つた一枚の版下画が存して在る、其の    筆者はよし藤、地本問屋は文正堂、画題は、猫を三疋踏殺した裸体の男であるが、其の上部に書き加へ    た俗謡が猥褻なので、発行を許可しなかつたものと見え、其の書面を朱筆で抹消し、且つ「此絵不宜」    (このゑよろしからず)の四字を書き加へてある、想ふに、古来の検閲法、許否の法も、亦これに似たも    のであつたらう。        改め印の無い錦絵     「改め印」は、斯(か)く錦絵の発行に際して加へられた証印なので、其の発行年代を知るには、最も    考拠の料となるものである、只遺憾なことには、「改め印」の当に有るべくして見えない錦絵も多い一    事である、これ等は、何等かの例外が有つたのか、或いは版木の転売補刻など、版元の便宜の為めに、    刪除(さくじょ)されたものであり、且つ「あと摺」は新版の時ほど厳重に励行しなかつたものであらう、    又錦絵の余白を截(た)ち落されたが為めに失はれたものも有らうし、又三枚続きの一枚にだけ「改め印」    を明らかにし、他の二枚には之を略した原画の、其の略した方だけ現存するやうなものも有らう、又二    つ切三つ切等小型の錦絵は其の全紙に只一個の「改め印」有るに過ぎないので、切り離された後に、第    二第三の分は、無印となつたのも有らう、これは、広重の短冊絵などに多く見る例である。これ等の諸    欠点を見るにつけても、錦絵の完好のものと言へば、初版にして且つ摺放したまゝ、少しも手を加へな    いものでなければならず、又その様なものは、どの方面から見ても、愈尊び重んぜられるのは当然であ    る。     同じ出版ものでも、非売品の広告類のもの、同志者間にだけ頒つ摺物、火事地震流行病等随時の出来    事を図したものは、(寛政の法令中に、読売のことは見えて居るが、其の実は)無改印が常であつた。    故に本文には、自らこの錦絵以外の数種を除外してある、又団扇絵は「改め印」の様式を異にするので、    錦絵と混同して説き難く、これは別に略説しやうと思ふ。    ◯「【画も非凡/人も非凡】洞郁河鍋暁斎の逸事」児玉蘭陵著(『錦絵』第十五号所収 大正七年六月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 筆意の豪宕意匠の非凡を以て、幕末より明治初期に亘つて、一世を驚動した洞郁河鍋暁斎の如きは、    浮世画界に於いて、殆ど古今独歩の観を呈して居るものである。     然れど其の筆蹟の錦絵として出版されて居るものが、極めて尠ない、豊国の俳優似顔画と取り合はせ    名物名勝会と云ふのがある。僕の記憶に存して居るのは「四谷怪談」で、お岩の幽霊と戸板返しとの二    ツである。戸板返しより、人魂を見せたり、幽霊の提灯抜けなど、物其の物が、話で聞いてさへ、慄然    (ぞつと)する位なるに例の得意の筆を揮つた事であるから、二タ目とは見られぬ程悽絶感極りなきもの    である。     暁斎、初めの内は、狂斎と称して居たが、明治三年以後の作には、故ありて改めて暁斎の落款を用ふ    ることにした、即ち「名物名勝会」の落款も、維新前の出版とて、狂斎戯画を記してあるのだ。而して    其の世間に売り込んだ狂斎の落款を、暁斎と改めた故由と云ふのは、抑(そもそ)も如何なる所以を以て    然るか。     狂斎の画風、固(もと)より凡ならず、而して其の人格も異なつて居た。狂斎は大酒豪であつた。結局    (つまり)大酒の失敗より、取り返しの附かぬ一代の大椿事を惹き起したのであつた。其の大椿事と云ふ    のは、斯うである。     明治三年十月六日 俳人其角堂雨雀なる者の催主で 不忍弁財天の境内料理店三河屋で、書画会が開    かれた、狂斎も雨雀とは酒友の関係があるので、此の会へ臨席して、揮毫することになつた。何時とは    なしに飲み初めて、グデン/\に酔ッ払ひ酒興に乗じて、縦横無尽に毫を揮ふ折しも、「今日王子へ赴    きたるに、西洋人一人、騎馬にて駈け来たり、茶屋の者出迎へ、御一人ですかと問ひしに、件の西洋人    意気揚々として、馬鹿者を両人召し連れ参つたが、徒歩なれば駈け遅れたと見える と宛(あたか)も面    憎(つらにく)らしく◎(ほやママ)いて居た」〈◎は「口+氏+日」訓は「ほざく」〉と 傍で高々と慷慨談をやつて    居るのを聞いた狂斎先生、得たりかしこし 是よき画題なりと、早速足長島の人間に両人(ふたり)して    靴を穿かせる体を一枚、又手長島の人間が、大仏の鼻毛を抜き居る体を一枚、都合二枚を描いて、其の    慷慨の人を笑はせたが、風刺的なる此の画の人物が、高貴の人に、能く肖(に)て居ると云ふので、官吏    侮辱長上嘲弄の廉を以て、其の筋へ引き立てられ、如何に陳弁するとも聴き入れられず、遂に牢獄へ叩    き込まれることになつた。是れ実に酒の上の失敗と悔悟し、大に謹慎の状を現はしたので、翌四年正月    三十日 官の宥(ゆるし)を得て再び晴天白日の身となつた、是より狂斎を改めて、暁斎と称することに    なつたのである。     然れど、性来の大酒豪たる暁斎は、尚々飲酒を禁めやうともしなかつた、其の後何処かの宴会で煽り    に煽つて根岸の住宅へ帰宅した、前後不覚の所(ママ体?)裁で、尾陋(ママ籠)にも八畳の坐敷に於いて、瀧    の如く放尿して、其の中に泰然自若として、高鼾をかいて居たとの事であつた。然し平素(ひごろ)は年    老いた母に仕ふること至つて孝行で、酒を飲まぬ時の暁斎は、殆ど別人であつたかの如く思はれたので    ある、古より己の揮毫に係るものを、神仏に奉納して、其の妙境に到らんことを祈る画家などが尠(す    くな)くない、暁斎も明治廿年ごろには、日課として毎日観音菩薩の像を一枚宛描き、之を浅草観世音    の伝法院、上野の清水観世音、京都知恩院内の観世音へ月々十枚宛納め、又天神の像を描いて、亀戸天    神を始め麹町平河天神、湯島天神の三社へ月々五枚宛納める事にし(ママて)居た。     暁斎、初めの名を周三郎と云ふ、天保二年四月七日、下総古河に生る、父を甲斐喜右衛門と云ふ、二    三歳のころより、果物の錦絵、団扇絵などを看て、哺乳を忘れ嬉々として楽しんで居たのであつた。斯    く絵画を好める所から、当時の大家一勇斎国芳へ、七歳と云ふに、入門させたのであつた、其の後故あ    りて門を出で、更に人の勤むるに任せて、幕府の絵所なる駿河台の狩野洞白へ入門することんになつた、    是れ暁斎が十一の時で、後一家をなすに及びて洞郁暁斎と称す所以である。     暁斎の大画は、奔放自在にして、天馬の空に駈ける如き概観であるが、是れ実に其の画論とする所の    「大画は筆勢を第一とすべし」と云へるを、実際に発揮したのである。其の大画として看るべきものは、    信州発戸隠山中院の拝殿天井に描いた雲龍の図である。     是は慶応三年、信州漫遊の序いでを以て、登山参詣した時の揮毫に係るのであつた。尚内陣の格天井    六十八枚を描く約束であつたが、時寒冷に際し、斯くては雪に降り籠められ、翌年の春ごろまで下山す    ると叶はずと聞き、一旦戸隠の山中を逃げ出したが、不幸途中にて捕へられ、格天井は、後日描くこと    を約束して漸く無事に下山することになつた。其の時戸隠山の坊中協議して、暁斎へ差し出した書状と    云ふのは礼状ではなくて全くの頼状であつた。     「当山天井画御奉納の処 時季寒冷御揮毫難く相成 依之来陽御登山相成候様 奉願候 以上、       丑八廿一日 戸隠山別当所」     暁斎は、絵画に於ける、固(もと)より天才に出たものとは云ひ條、幼少より努めて写生に熱中せしめ    られたのである。国芳の塾に在りても、狩野の塾に在りても、皆然らざるはないのである。それ故己一    家を成すに及びても」、門弟にも専心写生を怠らさぬやう諭したのである。然れば其の画論に「古の諺    に 絵は影の如し 影とは草木日の光に写りて 其の形を顕はすを云ふ影は枝葉の高下前後表裏の体ヒ    ゾミを明に見えるなり、此ヒゾミを心で画けば自ら真と雅と籠る物にて是を画の正理とす 和漢の画人    絶妙に至りしも皆此理を以てなり 画術の奥意は爰に止ると知るべし」と云へるが如き頗る肯綮に中る    議論と謂ふべきである。     暁斎が、写生に熱中したころは、珍しい逸話が沢山ある、お茶の水で渓間(たにあひ)の土左衛門 弘    化二年の大火などを始め、裏長屋の夫婦喧嘩にまで、自身写生探検に出掛けたのであつた、中にも斯う    云ふ面白い事があつた、駿河台の狩野洞白の塾へ門弟に住込んで居たころ、隅田川へ網投(あみうち)に    出掛け、三尺余の大鯉を獲り、大盤台に入れて、洞白の塾へ持返り、頭より尾に至るまで三十六鱗は勿    論、種々の形を、熱心に写生した、斯くして之を不忍の池へ放ち遣らんと思ふ折柄 同門の塾生が、开    (そ)を包丁して、汁や洗肉(あらひ)に仕立て、心地よく一盞を傾けんと企て、件の大鯉を大俎板に載せ、    アワヤ包丁を把つて、先づ鱗を落とさんとした。     暁斎、斯くと見るより打驚き「這(これ)は何とし給ふぞ、予は写生を終はりたれば、是より不忍の池    へ放ち遣らんと思ふ所である」と真面目となりて咎め立てた所、件の塾生等冷笑し「さても小僧の癖に    生意気な事を◎き居るな、我等は、之を鯉濃汁(こひこし)と洗肉に料理して、汝に江戸前の手際を知ら    せやうと思ふのだ」と云ひさま、鱗を落とさんとする一刹那、鯉は跳ね上つて、尾を以て、強く其の者    の面部を打ち付け、アツと叫んで、後へ打ち返つたので、他の熟生共も、一驚を喫し、其の侭件の大鯉    を料理することを廃め、暁斎の云ふ通り、不忍の池へ放ち遣つたとの事である。〈◎は「口+氏+日」〉     暁斎の遺著としては、暁斎画談を云ふのがある、和漢名家の筆蹟を模倣したばかりでなく、毛筆画の    妙所を西洋各国に知らしめんとする意志で、記事を和洋二様に記したのは、平素意志のある所を窺ふこ    とが出来るのである。     人物は、体格を解剖画式に則り、之に衣服を着けて、更に格好を附けたなどは、流石写生の熱心家で    あつたことを偲ばせ、和画は、巨勢、宅磨より土佐狩野、近世では、又平、師宣より浮世絵の人家の筆    蹟を模倣し、唐画では宋元明清の大家及び虫介魚鳥の写生までを網羅してあるのは、是ばかりでも尋常    画家の真似らるゝ所ではない、僕は暁斎の肉筆を見て又其の人格に徴して、即ち画も非凡人も非凡と題    名した所以である〟     以上 2025/01/31  ◯「浮世絵師の書画会」久保田米斎著(『錦絵』第十六号所収 大正七年七月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇歌川豊広書画会 文政十二年四月十一日? 両国柳橋 大のし屋   〝  書画会  四月十一日    於両国柳橋大のし楼上に相催申候/晴雨にかゝはらず御枉駕奉希候     当日諸先生席上揮毫      催主 歌川豊広                     補助 歌川社中/桜川慈悲成    (米斎曰)「此貼込帖の他のものの年代と、豊広の没年から推して、大略文政七八年のものかと考えられる」    〈『馬琴日記』(巻二)文政12年3月17日記事「豊広来ル。四月十一日、両国大のしニて書画会興行のよし。右会ぶれちら     し印刻、持参」日付と会場が同じ、米斎が示した書画会は文政12年のものではなかろうか〉   ◇葛飾北雅書画会 文政七年三月二十三日 牛込神楽坂 石新亭   〝  和漢 書画会    来三月二十三日 牛込神楽坂石新亭において相催申候間     晴雨とも被仰合御にぎ/\鋪 御来駕之程 奉希候 以上      申三月         補助 御車亭連  /北斎連                  催主 龍鱗舎松蔭 /花菱斎北雅    (米斎曰)「北雅は北斎門下であらう。姓は山寺氏である。補助の五車亭は戯作者で、後に引用する「南柯の夢」の挿     画の上に「山鳥さんと五車さんの、しやれはまことにおかしくッて、おなかゞよれるやうであり升ねい」とあるによ     り、其の人と為(な)りが想像せられる。申三月は文政七年である。   ◇東居(北嵩)書画会 文政七年三月廿四日 両国柳橋 河内屋   (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝  書画会 三月廿四日    於両国柳橋 河内屋半次郎方 相催申候 晴雨共御賁臨奉希候        会主 北嵩改 東居島光義拝    (余興)江戸半太夫浄瑠璃        間  のろま人形        当日席上において御慰に奉入御覧候〟    (米斎曰)「(前略)月日の傍に書入があるので、文政七年に催された事が知られる。北嵩は北斎の門人である。姓氏     を島と称したことは之に拠つて分明になつた。関西版の小判の錦絵に「都百景」と題する、京都の風景を写したもの     がある。それに東居の落款があるから、其の画は北嵩の改名以後になつたもので、文政末もしくは天保頃に出板せら     れたものと思はれる」   ◇長谷川雪堤書画会 文政九年三月廿八日 湯島天神社内 松金屋 定七亭   〝  名発画会    三月廿八日 於湯島天神社内松金屋定七亭 相催申候間 御来臨偏奉希候      諸先生/出席            長谷川雪旦男/長谷川雪堤拝    (米斎曰)「これには馬琴自筆にて、丙戌と註せられてゐるから、文政九年の開会であることが知れた。これに限り馬     琴の子の名宛があつて「宗伯様」と墨書せられてゐる」   ◇蹄斎北馬書画会 文政九年四月十日 浅草並木町 巴屋   〝  四月十日 発会  蹄斎    浅草並木町巴屋山左衛門方にて相催候 諸君御枉駕奉希候、    (米斎曰)「馬琴の註があつて、「文政九丙戌、但毎年興行」の文字が記入せられてゐる。北馬は時々で無く年毎に書     画会を催したものである」   ◇柳川重信(二代)書画会 天保九年閏四月十九日 両国柳橋 河内屋    〝  書画会小集  壬四月十九日     於両国柳橋河内屋楼上 相催候間 不論晴雨 諸君御光来奉希上候            補助 曲亭馬琴  菊地文海/横井天翁 一立斎広重               芍薬亭長根 有坂蹄斎/鈴木有年     当日書画諸名家先生出席揮毫            幹事 柳川桜麿            会主 柳川重信  再拝〟    (米斎曰)「(前略)壬四月は、何時であるか、文政五年壬午か、天保三年の壬辰の何れかであおうが、恐らく後者の     天保三年と推察するが正しからう(後略)」    〈「壬」が閏の代わりに使われている例、壬四月は閏四月で天保九年にあたる。この書画会については山崎美成の『金杉     日記』に記事が出ている〉    「廿六日は、両国柳ばしなる河内屋の楼にて、柳川重信の書画会あり」     (『金杉日記』〔続燕石〕③30 山崎美成・天保九年閏四月廿六日)  ◯「五雲亭貞秀の密画」筑山浪人著(『錦絵』第十九号所収 大正七年十月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 五雲亭貞秀は、姓は橋本、玉蘭斎とも号し、五渡亭国貞の門人である。横浜見聞録など、横浜開港当    時の外国人の風俗を画いた書籍と、多数の錦絵を画いて居るが、今日貴重せらるゝ傑作は誠に少い、只    僅に、景色画の団扇絵と藍摺の張まぜ風景画等が、収蔵家に顧みられる位のものである。     貞秀、性来密画を好み、其の武者絵の如きは、紙面一杯に豆人寸馬を書き満たさなければ承知しない、    故に、貞秀の画を版に起すとなれば、彫刻料のかゝる事多く、其の刻に錦絵が多く出るといふのでも無    いので、錦絵屋では「貞秀さん、どうぞもつと筆を抜いて、あつさりやつて貰ひます」と注文し、貞秀    亦承知して「さうしませう」と受け合つておくが、やがて出来上つたものを見ると、相変らず更紗地の    やうに、紙面処として人物ならざる無しといふ出来、出版店の大鼻つまみであつた、つまり、一種の密    画病であつたのである〟  ◯「錦絵の『改め印』考證と発行年代の推定法(五)」石井研堂著(『錦絵』第二十号所収 大正七年十一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 錦絵改印の七変遷    第一期 極印の時代       (印影)前の単印時代        寛政       文化元子年   〈◯ニ「極」〉       (印影)年月の副印時代       文化二丑年    同 六巳年   〈◯ニ「極」+「年月」〉       (印影)行司の副印時代       文化八未年    同 十一戌年  〈◯ニ「極」+「行司」〉       (印影)後の単印時代        文化十二亥年   天保十三寅年  〈◯ニ「極」〉    第二期(印影)名主の単印時代       天保十四丑年   弘化四未年   〈「名主」〉    第三期(印影)名主両人双印の時代     弘化四未年    嘉永五子年   〈「名主」+「名主」〉    第四期(印影)名主両人と年月と三印の時代 嘉永五子年二月  同 六丑年十一月〈「名主」+「名主」+「年月」〉    第五期(印影)改と年月と双印の時代    嘉永六丑年十二月 安政四巳年十一月〈「改」+「年月」〉     第六期(印影)年月単印の時代       安政四巳十二月  同 五午年十二月〈「年月」〉    第七期(印影)年月改三字の一印時代    安政六年正月   明治八亥年   〈◯ニ「年・月・改」〉  ◯「子供のやうな芳藤」(『錦絵』第廿一号所収 大正七年十二月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 一登斎よし藤は、国芳の門人である。晩年の手遊絵が一特色を有し、今日尚或る一部の好事家に持囃    されて居る、よし藤極めて稚気有る人で、近処のお縁日などには、喜んで子供の見せ物場などに入り、    嬉々として楽しみ、注文物の画稿のことなどを忘るゝ珍らしからずであつた、又この人、彫物の下絵に    も一人前の手腕を有し、よく煙草入の金物などの図案を製作して居つた〟