Top 『錦絵』1-9号(雑誌)大正六年(1917) その他(明治以降の浮世絵記事)
出典:『錦絵』(相場七二編 国書刊行会錦絵部 大正六年(1917)四月創刊~大正九年(1920)五月)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
☆ 大正六年(1917)
◯「錦絵と俳優名」石井研堂著(『錦絵』第一号 大正六年四月刊)
〝(天保期・水野忠邦の治世より、役者絵・遊女絵・女芸者絵の出版が禁止されたこと)
これ錦絵界には大打撃であつたらうと思はれる。俳優似顔を主的としたもので、其似顔の持主を明記
すること出来ないとあつては宛も名所の景色画に其地名を現はさゞると一般、何となく不具の画たるを
免れない。
併し絶対に俳優の名を記してならないと有つては、錦絵の死の宣告である 是に於て錦絵の製作者は
自衛上左の二種の手段を執つて法網外に俳優名を記してあつた。
第一 此の法は俳優の紋所を、其の簪、其着衣、其地紋等に用ひて、其誰たるを暗示するものにして、
世人の熟知する所である。
第二 予の特に述べんとするは此法で 俳優名を印刷したる小箋を錦絵と同時に売り、需要者をして
錦絵面に糊付さするのである 今日卑猥の古書を翻刻する者が 官の咎めを蒙りさうな部分を総て◯◯
◯として欠字しおき、別に其欠字の本文と頁数を印刷したる小箋を製し、本書に添付して出版の目的を
達して居る様に聞て居るが これ六七十年前の錦絵出版者の故智に倣へるものであらう。
〈その具体例として、石井研堂は次の二種を示す〉
(イ)嘉永五年、住政井筒屋等の版、豊国筆「東海道五十三次」大首俳優似顔絵百三十八枚続のもの、
各葉皆此小箋が糊付されてある(以下略)
(ロ)同じく豊国筆 山久版(嘉永間の発行と思はれる)お三茂兵衛の狂言画に、坂東しうか、市川団
十郎の二枚糊付されてある
「古人尾上菊五郎」東海道五十三次の内 白須賀猫塚に張紙されてある俳優名箋
「市川団十郎」 お三茂兵衛の狂言画に張紙されてある俳優名箋
法律には楯つくこと出来ず、不利を忍んで記名を避けて居つた発行者は、海内騒擾幕府の綱紀漸く弛
むに乗じ いつとは無しに法を無(なみ)するやうになつて来た 豊国筆万延元年申年四月錦昇堂版の、
三筋の綱五郎の河原崎権十郎の大首絵は 優名を題とせるのみならず一枚絵である 此頃より追々法令
を無視したるものらしく其翌々年文久二年版の近世水滸伝等などより後は 公々然と摺出し、以て今日
に至れつて居る。
之を要するに 徳川幕府の為政者が風教上の取り締まりとして発布した俳優似顔錦絵に記名を禁ずる
法令は約二十年間実行されたやうだが 真実は二種の方法の下に 法を破られてあつたのだ〟
◯「土佐の絵金」香雨楼主人著(『錦絵』第二号 大正六年五月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(土佐の絵金)其の素性を正せば、駿河台狩野家の正式の門人で、山内侯の御絵師となり、彼の武市半
平太も嘗て六法を此人に問うたといふ程の歴つきとした画人でありながら、いろんなわけで一度失脚し
て、民間に陥つてからは、世間で太く俗物扱ひにされたものと見えて、土佐の人物伝の類書には、其の
名さへも記されて居ない。
(中略)
絵金といふのは、其の通称を金蔵といつたから、絵師の金蔵を修して絵金と呼ばれたのである、広瀬
柳栄といふのが本名、駿河台狩野の門人だから洞の字を貰つて、洞意と号し、晩年には友竹斎雀翁と称
した、文化九年高知の新市町で生れ、明治九年に六十五で没した、絵金幼い時から絵が好きで、戯(い
たづら)がきも中々器用であるから、文政十一年十七歳の時に、江戸へ出て駿河台狩野へ弟子入をした、
是は土佐藩の絵師は近藤洞簫を始め代々駿河台へ入門する例であつたからである、此頃の駿河台狩野は
六代目の洞益春信、七代目の洞白陳信の父子居つた時代で 伝説には河鍋暁斎と相弟子であつたとのこ
とであるが、暁斎は天保十二年に十一歳で洞白陳信へ入門したのであるから、年代から考へれば暁斎と
相弟子といふのは恐くは誤伝で、絵金は洞益春信の門人であつたのであらう、かくて狩野氏に学ぶ事三
年にして郷国へ帰つた。
それから藩の御絵師となり扶持を受けて居たが、性来の器用なのが禍の基をなして、人の依頼に応じ
て贋物を作つた、前記の如く土佐は昔から駿河台狩野と関係があるから、同家の始祖洞雲益信や、又同
家の中興とも称すべき、彼の浅草観音堂の天井の天人を画いて有名になつた洞春美信ものが流行る、そ
こでそんな処のものを可なり盛んに製造したものらしい、その事が藩の方では八釜しくなつて、その贋
物の依頼者も科(とが)を受け、絵金も数日の禁足を命ぜられ、遂々(とう/\)御絵師が免の字になつて
しまつた、それが幸か不幸か、窮屈な覊絆(きはん)を脱したから、狩野の糟粕に甘んじて居る必要もな
くなり、世間向きの浮世絵風のものをかいて、気楽に彼自身の芸術を発揮したのである。
さうなつてからは、扶持に離れたわけもあらうが、達腕に任せて終始筆を放す時もない位に盛んにか
いたものと見える、指頭(ゆびさき)に筆胼胝(ふでだこ)が出来て折々小刀で削り取つたといふ程である、
又忙(せは)しい時には四本の色筆を右手に持つて彩色をやる、そんな曲芸の巧妙なることは、看者(み
るもの)嘆賞せないものはなかつたといふ、晩年六十歳の時に中風症にかゝつて右手の自由を失つたか
ら左手でかくことにした、性来器用なから左でも中々うまいが、隈取り丈(だ)けは右手のやうに参らな
いとて 其の儘にしたものもあるとのことである、始め中風を病んだ頃には恰も神額の依頼を受けて揮
毫中であつたが、依頼者たる氏子中が通夜神前に祈願をこめて、其の御利益で其額は成功したと申し伝
へられてゐる。
絵金が民間の絵師となつてから、専らかいたものは、凧絵、行燈画、押絵の類である、行燈画の如き
は一日に百五六十枚位は平気で仕上げる、押絵は其時代の役者の似顔でやる、又或時は義太夫本を見て、
読むに従て画きつゝ、丸本の絵が漸次に出来上る、彼の鍬形蕙斎が字引を見て片方端からかいたといふ
略画にも劣らぬ機智があつたらしい。
彼の作品は斯くの如き種類のものであるから、其の大半は保存せられて居ないとのことである、それ
でも土佐では可なり見ることが出来やうが、他方(よそ)には殆ど伝播して居ない、幸に吾輩が一見した
一二の極めて愉快なる遺作がある、そは前述の絵金の孫なる人の秘蔵に係る一巻である、孫なる人とは
今当地の装潢界に命名ある美吉竹馬君其人である、その一巻は竹馬君七八歳の頃に祖父さんがかいてや
つた桃太郎鬼ヶ島退治の図である、快筆縦横中々面白い、強ゐて此が比儔を求めば、惺々暁斎を措いて
他にはあるまい 絵金は前記の如く暁斎よりは二十歳ばかりの先輩であるが、画才に於ても筆才に於て
も寔(まこと)に暁斎をして名を関東に擅(ほしい)まゝにせしめなかつたのであらう、有為の材を抱きな
がらあたら田舎に埋もれ果ててしまつた人物は少なからずあるが、絵金は確かに其の一人である〟
◯「京阪の錦絵」久保田世音著(『錦絵』第五号 大正六年八月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
「刷り込み彩色法」による表紙を有する上方絵本〈「刷り込み彩色法」は合羽摺のこと〉
『絵本美奈能川』 西川祐信画
『絵本都草紙』 西川祐信画
『絵本十寸鏡』 西川祐信画
『絵本筆津花』 西川祐信画
『絵本勇者鑑』 西川祐信画
『絵本池の心』(清水の池後編)画工 西川祐信画
『判字物智恵袋絵尽』西川氏筆
『浮連大尽七福遊』 西川氏筆
『道化麁相づくし』 西川氏筆
『判字物慰草絵』 西川氏筆
『余所絵かゞ見』 西川氏筆
『瓢軽綟理草』 西川祐尹筆
『絵本氷面鏡』 西川祐尹筆
『綟謎龍田山絵尽』 西川祐肖画
『稚子曽我双紙鏡』 石川清信筆
『怪談薄化粧』 岡山繁信筆
『鵺出生花軍ゑづくし』岡山繁信筆
『達磨比翼争』 岡山氏 京都草紙所 みのや平兵衛板
『絵本淀之流』 長谷川光信筆
『富貴鼠嫁入屋絵尽』 長谷川光信筆
『ねずみのよみ入絵尽』長谷川筆
『画本国見山』 画工寺井重房
『妖物恋敵神輿原』 寺井氏筆
『風流御傘軍絵尽』 中沢氏作
『琉球仁東入絵尽』 中沢氏作
『源平箙短冊絵づくし』中沢氏図
『四時花合戦』 中沢氏作 大坂天神橋筋のふ人橋 正本屋平兵衛板
その他、祐信風のものや無署名のもので「刷り込み彩色法」の表紙付絵本を出版した版元
大坂ふしみ両がへ町天神橋筋 糸屋市兵衛板
大阪みだう筋米屋町 正本や茂吉板
大阪船町 天満屋 玉水源二郎
大阪かごや町筋三丁目 京屋清右衛門
祇園新地すへよし町 福居平右衛門板(京都)
八文字屋八左衛門板(京都)
〝以上列挙したものは何れも黄、緑、赤、或いは朱土、藍などを刷込んでゐるが、所々につり糸のあとが
見えるものがあるので型紙を用ひた事が判明するのである。前記の光信の「ねずみのよめ入」と、中沢
氏の「琉球仁東入」の二つには珍らしく雲母(きら)が用ひられてゐる 当時琉球人の来聘したのは享保
二年十一月と、寛延元年十二月であるが、此草紙の出来たのは後者の後と考えれられる。此に由り手法
は別問題として色刷りのものが早く京阪地方にあつたことは争はれない事実である。但しそれが一枚絵
で無いのは聊か物足りない感がする、聞く処によると大阪の永田有翠氏は祐信の一枚絵を珍蔵せられゐ
るそうである。宝永八年の作であるそうな、機会があつたら一見を請ひたいと思つてゐる〟
◯「側面から観た浮世絵三名人」樋口二葉著(『錦絵』第五号 大正六年八月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)((かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPのルビ)
〝(一世広重)
一立斎と号し安藤徳兵衛(幼名徳太郎、後重兵衛と云ひ徳兵衛は最後の俗称、火消同心二十俵二人扶
持)と云ふ。父は田中重兵衛と云ひ弓術家であつたが、火消同心の株を求め安藤氏を冒し、馬場内に於
て、寛政八年に生れしが徳太郎後の広重であるのだ。晩年大鋸(おが)町に住した頃には本姓の田中を称
した共云ふが、彼の菩提寺たる浅草清島町東岳寺の墳墓の台石に田中氏と刻みあるも、其本姓を出し其
素志を貫かさ(ママ)ん為に後継者の手向である。
三世が建碑(注1)の報条に 年(とし)甫(はじめ)て十六にして師に先立つ(ママ)云々とせしも、豊広へ
入門したは文化九年で、豊広の没年は文政十二年であるから、其間二十四(ママ)年も師事し年も三十五と
なるのに、十六で師に別れるなどゝ赤嘘を平気で吐いてゐる。又『本朝画人伝』や『増補類考』などに
拠ると 岡島林斎の門に入つたとあつて、狩野派の筆意を研(キワ)め一流を創始したやうに成つてゐる
が、林斎と広重とは友人であつた、殊に晩年の友であつたらしい。東錦歌川列伝(注2)にも其事を舒し
「広重は林斎と大抵同年配にして、其頃広重は剃髪して居りしが、人品賤しからざりし、林斎は友人な
り」とある。で林斎に就て学びしと云ふが真相のやうに思ふ。
技術上に於ける方面の事は暫く措いて、其懐中に飛込んで見ると、広重は謹直の人であつたが、内政
は随分苦しかつた。其家の株は火消同心で二十俵二人扶持を貰つてゐたが、夫れでは一家を支へて行く
事が出来ぬ、其頃よりして駒込片町に住し、諸侯方の御金御用達を業とせし岸本久七の後援に依て纔に
立てゐたのである。四季の衣服月々の費用等も岸本よりの援助があるので、他の町絵師の如く幇間者流
を学ばずとも、門戸を張つて済して居られたのである。東錦列で中にも「広重は他の画工と異なり約束
に背きし事なし、仮令(たとへ)ば東海道五十三次を嘱托し、期日を定むれば必ず描き了りて与へたり、
而して其画料は頗る低廉なりし、豊国、国芳などは描かざる先に画料を出さしめ、而して猶描かざる事
ありて時期を失する事屡々(しば/\)なり云々」とあるも、一に後援者の確(しつか)りしたのがある為
め、悠々と済して居られたのだらうが、同心の株を後継に譲つて。自から大鋸町へ出てからは猶更のこ
とだらう 其性質の恬淡な処から困る者に貸興して催促した事もない、夫れ等が一の原因とも成つて居
やうけれど夏来れば夏の衣類が家にあつた事なら 冬になれば冬の衣類を質屋より取戻すに困り、寒空
に袷一枚で閉じ籠る事もあり、偶々書画会などの交際場裡に出席せねば成らぬに望み、大旦那に打ち明
けて漸く義理を果すは、決して珍しく無かつたのである。昔時の書画会の席では浮世絵師は軽蔑された。
浮世絵師と云ふと社会から職人扱ひをされたものだが、広重は品行が賤しくない。一見識があつて常に
黒羽二重の着附で、ニューと済し先生を以て称され文人墨客と同等の交際を結んでゐたは、席画に長じ
て妙所があつて平生の素行が宜しかつたからであらう。
広重は煙草も喫み酒も嗜み、好んで旅行もしたが、旅の耻(ハジ)は掻き捨てなどゝ捨て撥(ステバチ)
の不品行はしなかつた。女に掛けては冷淡であつた、真摯(まじめ)な謹慎家で先生と他から呼れる敬語
に耻なかつた。そんな人だから家庭にては気むづかしい、機嫌の取り憎い捻くれ家で、三度の喰物にも
喧しい程であつたさうな。然れど重箱の隅を楊枝で穿(ほじ)くるやうにこせ付く事はなく総てが放任で
あつたから、一人娘のお八重が放縦に流れ、家庭の破綻を曝露するやうな事にも成つたのであるが、左
様かと云つて家の者に対して、苦虫を咬み潰すやうな顔しても、他人に対して焼の廻つた恵比寿のやう
に円満であるかと云へば座談も拙であつた、世話愛敬も甚だ乏しかつた、只だ真摯一方で機智もなく、
権謀もなく、圭角のあるやうに見えて圭角の取れた交際場裡の人であつた。要するに作物の上に於ける
彼れには定評があるが、平生から観た彼は乾し固まつた高野豆腐の如く、何の味もそつけもない固い一
方の男で、只だ真摯と云へばそれで足りる簡単なものである。
(注1)明治15(1882)年4月1日付「読売新聞」〝今度画師の立斎広重が先師初代広重に由縁のある人々と謀り 同翁の
碑を向島へ建てたにつき 同人が会主にて来る十六日 同所請地秋葉神社前にて追善の書画会を催します〟
(注2)「東錦歌川列伝」とは飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』。引用個所は下巻の「歌川広重伝」に所収
◯「側面から観た浮世絵三名人」樋口二葉著(『錦絵』第七号 大正六年十月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)((かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPのルビ)
〝(一勇斎国芳)
歌川系に於て筆力秀勁意匠巧妙なのは、国芳を推さねば成らない、何人も之れに異存はあるまいと思
ふ。其国芳は寛政九年十一月銀座一丁目に生れた、父は柳屋吉右衞門と云ひ、後井草氏を継いだのであ
る。通称孫三郞、幼名を芳三郞と云つて、京紺屋の徒弟に成つたが、父が上絵を描いたので幼時から傍
らに在つて筆を持ち、武者絵を描き其十三歳のとき、鍾馗の剱を提ぐる図をかき、一世豊国の見出す所
となつて其門に入り、忽ち先輩を凌駕して国の一字を許され国芳と名乗り、一勇斎又は朝桜楼と号して
国貞と覇を競ふたは、誰れも能く知る処で玄冶店の師匠で通つた大家である。最も玄冶店は大成後の住
居、其前は本白銀町二丁目、向島、米沢町、長谷川町等に住し、最後に新和泉町玄冶店にどつしりこと
構へ、縮緬の褞袍(ドテラ)に三尺帯を締め、私(わつち)お前の巻舌で江戸子気象を発揮させ、狭きなが
らも坪庭に木石など配置して、瀟洒な家に先生風でなく大親方を気取り、大胡坐(アグラ)をかいて六十
五歳まで机に向つて居たのである。
国芳はチヤキ/\の江戸子肌であつた、肌合であつた、最一ッ砕ひて云ば職人風であつた、宵越の銭
は持ぬといふサツパリした風で、画料などを取ると直ぐパツパと使つて、跡で米塩の料にも困るやうな
事が往々あつた。であるから礼儀礼譲と云ふやうな事は無論好まない、随つて其品行の如きも豊国(か
めいど)とは正反対で言語動作ともに卑しい、常に鳶の者等と交際をして、頗ぶる火事好であつたので、
ヂヤン/\と半鐘の音を聞くと、どんな真夜中でも飛起き、道の遠い近いの別なく馳せ行き、消防の助
けをして危きを顧みない、成る事ならば纏を振て威勢よく、一度は黒煙渦(うづま)き掛る屋上に立つて
見たいと云つてゐたそうだ、以て其性行の一斑は窺はれるぢや無いか。
左様(さう)した風ではあつたが、狂歌師の梅の屋鶴寿と心易くなつて深く交はり、又儒者東条琴台と
も意気投合して親交した。琴台は俗称文左衛門、名は信耕、字は子蔵、呑海翁と号し下谷三味線堀に住
居(すま)つた人、梅の屋は室田又兵衛と云ひ、秣翁(まぐさをう)とも号し、佐久間町に住み秣商であつ
たが、この人と心易くなつたは国芳が向島に居る頃で 当時未だ国貞と肩を並べるの地位に至らず、板
画の下絵を頼みに来る者もなく、偶々思ひ付た三枚続の絵などを描き地本問屋へ売込みに行けど、思ふ
やうに出版を快諾し呉れず、或時馬喰町の問屋へ三枚続一番を携へて行きしも 種々の文句を聞かされ
再び之れを懐中にし怏々(すごすご)として両国橋へ掛り、欄干に何心なく観下(みおろ)せば 一隻の遊
山船より 芳さん/\と呼ぶは知り合いの芸妓である、客は何者と熟視(よくみ)ると兄弟子の国貞であ
つたから、憤慨して懐中の絵を掴み出しズタ/\に引裂いたと云ふも此頃で、国芳が最も窮境にあつた
時分だ。さうして熱心に修行し疲れると、田園を彷徨(うろ/\)して数十匹の蛙を捕へ来て庭前に放ち、
其滑稽な姿を眺めガア/\と鳴く声をきゝて楽んで居る処へ 一日梅の屋が来て其描く絵の筆力非凡な
るを見て歎称し、之れより国芳の為に諸肌脱いで力を添へ、江戸向へ出づるを得たも其助力であつたが、
爾来(じらい)数十年間 衣服庖厨は梅の屋の好意で支へて居たと云ふ事である。
名を成して後も常に手許が緩やかでなかつた、画料も相応に取れるし殊に刺青(ほりもの)が流行(ハ
ヤッ)て、其下図は国芳でなければ幅が利かぬ処から、中々の謝礼を受けるので立派に門戸を張る事が
出来る筈を、何うして何時もピー/\風車で居るかと云へば、画名の四方に轟く頃より常に吉原に遊び、
一月の中その半(なかば)は妓楼または茶屋に在る始末だ。それで心得た問屋は吉原へ行きて絵の注文を
すると、妓楼にても茶屋にてもお構ひなく平気で筆を執り、興に任せて描たものであるさうな。又家に
在つても急に遊意兆(きざ)して来ると、門弟の誰れ彼れなしに伴ひて遊廓(くるわ)に往き、門弟等には
昼三(チューサン)の花魁(おいらん)を買せ、自分は二朱の新造(しんぞ)を招き平然たりしと云ふが、平
生も勿論であるが、斯(か)かる時は殊に先生と呼ぶを嫌ひ、弟子を始め問屋の小者に至るまで 芳さん
を以て呼(よば)しめ、若(モ)し先生などゝ云ふ者あれば 大いに怒られたと云ふ事である。又祭礼を好
み、ある年日枝山王の祭礼に門人等と相談して共に手踊に出で、練物の列に加はつて国芳の踊りを上覧
にも供し、得々(とく/\)として其図を三枚続に描き売出した事もある。総てが斯様(こんな)やうであ
る上、宵越し銭は持ぬといふ肌合ひだもの、何うしても福の神を親類に持つことが出来なかつたのであ
る。
然(さ)れば羽織を着たり袴をはくと云ふ事は殆んどない、其様(そんな)場合は避けられるだけ避けて、
篦棒奴(べらぼうめ)窮屈袋なんかはかされて堪るものかと、何時も逃出して吉原に隠れるが例であつた。
国芳の談になると河鍋暁斎翁が能く話して居たには、或日国芳(げんやだな)と豊国(かめゐど)の二人が
ある諸侯の席画に招かれたが、国芳は例に依つてそんな窮屈な所は御免だと断つたけれど、何うしても
断り切れないので、渋々承知して出懸ける、豊国は真面目な人だから当時の画工(ゑかき)の服装、黒羽
二重の紋附、同じ羽織でリウとした服装で、弟子に絵の具函を持たせ 先生で済まして乗り越んだが、
此方は例の縮緬の褞袍へ三尺帯を無造作にくる/\巻き。絵の具と筆を手拭ひに片端に括りつけ、ぶら
り/\と提げて出懸け 慇懃に一室に請じられる、直ぐ真平御免(まぴらごめん)ねえと胡坐(あぐら)を
かいたので、三太夫先生(注1)も之れには殆ど閉口し、其お服装(なり)では(ママと)云へば、私(わつち)
は服装で画は描かねえンだよ、之れで悪けりやァ幸(せいは)いだ ハイ左様ならと、逃げ支度に狼狽し
漸く宥め賺(すか)し、三太夫先生紋服を持出し無理に着せて席画を描かした事があるが、之れ等が国芳
の面目が躍如した所だと云つて居る、随分遣(や)りさうな事で、彼の梅の屋が書画会を柳橋の河内屋で
催した時、畳三十畳敷の大紙へ水滸伝中の九紋龍史進を描いて、一座を驚かした折にも、門人等と大絞
りの揃ひに浴衣を来て、最後の史進の踏まえる巌石を描くに当り、自分に着てゐる浴衣を脱ぎ墨汁に浸
して描くなどの奇抜を遣つた。此会は嘉永六年六月廿八日(注2)だから 国芳が五十七歳の時で、猶こ
の行為を遣つて居るを見ても元気思ふべしである。其様(そんな)磊落であつたが 猫を愛すること一通
りでなく、常に四五匹の猫は机辺を去らず 猶懐中(ふところ)に子猫の二三匹も入れて画をかき、或ひ
は吉原へ遊ぶにも子猫を懐中にして往くこと珍しくない程だから、最愛の大猫が行方不明に成つたとき
などは、三日も茫然(ぼんやり)として筆を持つ勇気がなかつたさうである、国芳の画で天保十三年に京
山の作『朧月夜猫草紙』と云ふ合巻(注3)が出たも、京山も猫好き国芳も猫狂(きち)と云ふ処から、双
方得意で出来たものであるのだ、猶書立てるとまだ/\此様(こんな)お話はあるやうだが、是れで国芳
が側面の一方は知れるだらうと思ふから、先づ此処等で打切つて置かう、ハイ御退屈さま〟
(注1)「三太夫」とは大名の世話役(家事・会計責任者)
(注2)『武江年表』嘉永六年記事「六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅
の屋秣翁が催しける書画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九
紋龍史進憤怒の像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし」
(注3)「国書データベース」の統一書名は『朧月猫草紙』初-七編 歌川国芳画・山東京山作・山本平吉板 天保十
二年~嘉永二年(1841-49)刊
◯「国周と九代目団十郎」(伊原青々園著「団十郎と似顔絵」・『錦絵』第七号所収 大正六年十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)((かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPのルビ)
〝 或る時、団十郎が菊五郎の処へ行つて、絵かきといふ者は役者に金を出して似顔を描くのが当り前だ
のに、国周は何(ど)うも横柄だ、と言つたさうである。其れを国周が聞いて、西南戦争の狂言に、団十
郎を出目(でめ)に描き、其の少年隊のうちへ団十郎の弟子を一人も加へないで、仇討をした。団十郎は
其れで愈(いよ/\)国周を嫌つたので、国周の方でも三枚つゞき一人立ちの絵に、決して団十郎を描い
てやらないと意地張つたが、嵐吉六や絵草紙の版元に諫められて、再び描くやうになつたそうである。
さういふ国周の描いた団十郎の百枚つゞき(注1)が残つて居ると思ふと尚ほ/\面白い。
故人落合芳幾翁に私が聞いた話であるが、芳幾翁が役者の影法師を一枚づゝの錦絵に描いて、三十幾
番も売出した時、団十郎が其の事を聞いて、面白かろう、と自分で其の錦絵の表題を『間毎(まごと)の
月』とつけた。所が筆耕が「まごと」を「まこと」と読み違へ、『写真廼月(まことのつき)花姿絵(は
なのすがたみ)』といふ表題で売出したが、原(もと)の名の「間毎の月」の方が余(よ)つぽど優美であ
るのに惜しい事をした、と言つて居られた。此の錦絵は今でも見受ける事があるが、団十郎が名前を撰
んで、其れが又間違つて付いたのだ、といふ歴史を知つて見ると、一段趣味が深いのでは無いか〟
眞寫月花之姿繪 朝霞楼芳幾画・写 広岡幸輔/丸屋徳造板 (国書データベース)
(注1)『演芸百番』九代目市川団十郎似顔絵 国周画 明治27年頃~明治36年刊
◯「珍らしき石燕の額」兼子伴雨著(『錦絵』第九号所収 大正六年十二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
河鍋暁斎画「大森彦七鬼退治の図」 下総 成田山新勝寺
柴田是真画「茨木の鬼女図」 王子 王子権現
鳥山石燕画「大森彦七鬼女退治の図」雑司ヶ谷 鬼子母神