Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ 永井荷風 浮世絵随筆浮世絵事典
 ◯「浮世絵の山水画と江戸名所」永井荷風著『三田文学』第1期 第四巻第七号 大正二年七月   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「浮絵」   〝浮世絵版画の中に昔から「浮絵」と称え来つた密画がある。一枚摺横絵のいづれも版元画工の名と共に    新版浮絵何々と題し、諸国の名所市街駅路神社仏閣の景、又は大江山酒呑童子、忠臣蔵、曽我十番切等    の細密なる人物を描き、此れを覗機関(のぞきからくり)に入れて童幼の娯楽となした。寛政文化の頃最    も流行したと云はれてある。北斎は勝春朗と号した時代【天明末年】に於て、既に屡この「浮絵」を描    いてゐた。今日吾々の眼より見れば、昔は単に児童の玩具となしたこの「浮絵」の中にさへ、わが版画    の特有とすべき軟き色調の諧和を看る。浮絵は重に黄(きば)みたる緑と、褐色に近きまで黄みたる赤と、    黄みたる藍色なぞ、凡そ黄色を帯びたる根調の一致を有し、西洋銅版画を模倣したる極めて稚き技巧に    よつて、却て風趣を感ぜしぬるものである。     歌川豊春、北尾重政、昇亭北寿等の「浮絵」には既に後年の風景画を予測する進歩の跡が歴然として    現はれる。浮絵に缺乏する処のものは、画家の風景に対する貧しき事のみであつた。即ち外形の細密な    る写生を主とする以外、其の布局設色共に何等の新意匠を凝す処がない事のみであつた。葛飾北斎は広    重よりも少しく先んじて此の時期に出で、写生に円熟したる「浮絵」の技巧に、狂歌俳諧に養はれたる    文学趣味を加味し、初めてこゝに内容ある独特の山水画を作つた〟  ◯『日和下駄』永井荷風著 春陽堂 昭和七年(1932)刊(春陽堂文庫82)     (『三田文学』大正三年~四年(1914-5)掲載)(国立国会図書館デジタルコレクション)  ◇「第三 樹」   〝 目に青葉山時鳥初鰹、江戸なる過去の都会の最も美しい時節に於ける情趣は簡単なるこの十七字に云    尽されてゐる。北斎及び広重の江戸名所絵に描かれた所、之を文字(もんじ)に代へたならば、即ちこの    一句に尽きてしまふであらう〟(11/115コマ)   〝 銀杏は黄葉の頃神社仏閣の粉壁朱欄と相対して眺むる時、最も日本らしい山水を作(な)す。こゝに於    て浅草観音堂の銀杏は蓋し東都の公孫樹中其の冠たるものと云はねばならぬ。明和のむかし、この樹下    に楊枝店柳屋あり、その美女お藤の姿は今に鈴木春信一筆斎文調等の錦絵に残されてある〟(12/115コマ)  ◇「第四 地図」   〝 私は柳北の随筆、芳幾の錦絵、清親の名所絵、此に江戸絵図を照し合せて屡々明治初年の渾沌たる新    時代の感覚に触るゝ事を楽しみとする〟(15/115コマ)  ◇「第五 寺」   〝(浅草寺の二王門をば仲店の敷石道から望み見るが如き光景)之れをば西洋で見た巴里の凱旋門其の他    の眺望に比較すると、気候と光線の関係か、唯何とはなしに日本の遠景は平たく見えるやうな心持がす    る。この点に於て歌川豊春等(ら)の描いた浮絵の遠景木版画にはどうかすると真によく此の日本的感情    を示したものがある〟(19/115コマ)  ◇「第六 水附 渡船」   〝(掘割の物揚場)痩せた鶏が落ちこぼれた餌をも𩛰(あさ)りつくして、馬の尻から馬糞の落ちるのを待    つてゐる。私はこれ等の光景に接すると、必ず北斎或はミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興を    誘ひ出され、自ら絵事(くわいじ)の心得なき事を悲しむのである〟(23/115コマ)  ◇「第七 露地」   〝(立派な表通の街路に対する)日陰の薄暗い露地は恰も渡船の物哀(ものあはれ)にして情味深きに似て    いる。式亭三馬が戯作『浮世床』の挿絵に歌川国直が露地口のさまを描いた図がある。歌川豊国はその    時代(享和二年)のあらゆる階級の女の風俗を描いた『絵本時世粧(いまやうかゞみ)』の中に露地の有    様を写してゐる。露地は其等の浮世絵に見る如く今も昔と変りなく細民の棲息する処、日の当つた表通    からは見る事の出来ない種々なる生活が潜みかくれてゐる。侘住居(わびずまひ)の果敢(はか)なさもあ    る。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境もある。すいた同    士の新所帯もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば露地は細く短しと雖(いへど)も趣味と変化に    富むこと恰も長編の小説の如しと云はれるであらう〟(27/115コマ)  ◇「第八 閑地(あきち)」   〝 明治十年頃小林清親翁が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、その侭(まま)木版摺にして東京名    所の図の中に外桜田遠景と題して、遠く樹木の間に此の兵営(注1)の正面を望んだ処が描かれてゐる。    当時都下の平民が新に皇城の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の    情に打れたか。それ等の感情は新しい画工の云はば稚気を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と相    俟つて遺憾なく紙面に躍如としてゐる。一時代の感情を表現し得たる点に於て小林翁の風景版画は甚だ    価値ある美術と云はねばならぬ。既に去歳(きよさい)木下杢太郎氏は『芸術』第二号に於て小林翁の風    景版画に関する新研究の一端を洩らされたが、氏は進んで翁の経歴をたづね其の芸術について更に詳細    なる研究を試みられるとの事である。〈注1「此の兵営」とは桜田見付〉     小林翁の東京風景画は古河黙阿弥の世話狂言筆屋幸兵衛明石島蔵なぞと並んで、明治初年の東京を窺    ひ知るべき無上の資料である。維新の当時より下つて憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代    は、今日の吾人よりして之を回顧すれば東京の市街と其風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方    面に渉つて甚だ興味あるものである。されば滑稽なるわが日和下駄の散歩は江戸の遺蹟と合せて屡々こ    の明治初年の東京を尋ねる事に勉めてゐる。然し小林翁の版物に描かれた新しい当時の東京も、僅か二    三十年とは経たぬ中、更に/\新しい第二の東京なるものの発達するに従つて、漸次跡方もなく消滅し    て行きつゝある。明治六年筋違見附を取壊して其の石材を以て造つた彼の眼鏡橋はそれと同じやうな形    の浅草橋と共に、今日は皆鉄橋に架け替へられてしまつた。大川端なる元柳橋は水際に立つ柳と諸共全    く跡方もなく取り払はれ、百本杭はつまらない石垣に改められた。今日東京市中に於て小林翁の東京名    所絵と参照して僅に其の当時の光景を保つものを求めたならば、虎ノ門に残つてゐる旧工学寮の煉瓦造、    九段坂上の灯明台、日本銀行前なる常盤橋其の他数箇所に過ぎまい、官衙の建築物の如きも明治当初の    まゝなるものは、桜田外の参謀本部、神田橋内の印刷局、江戸橋際の駅逓局なぞ指折り数へるほどであ    あらう〟(30/115コマ)     芝赤羽の海軍造兵廠の跡は現在何万坪といふ閑地となつてゐる。これは誰の知つてゐる通り有馬侯の    屋舗跡で、現在蛎殻町にある水天宮は元この邸内にあつたのである。一立斎広重の東都名勝の中赤羽の    図を見ると、柳の生茂つた淋しい赤羽川の堤に沿ふて大名屋敷の長屋が遠く立続いてゐる。其の屋根の    上から水天宮へ寄進の幟が幾筋となく閃いてゐる様が描かれてゐる。此の図中に見る海鼠壁の長屋と朱    塗の御守殿とは去年の春頃までは半ば崩れかゝつたまゝながら猶当時の面影を留めてゐたが、本年にな    つて取払はれると共に、今は跡方もなくなつてしまつた〟(31/115コマ)  ◇「第十一 夕陽 附 富士眺望」(大正三年四月)   〝 文政年間葛飾北斎富嶽三十六景の錦絵を描くや、其の中江戸市中より富士を望み得る処の景色凡そ十    個所を撰んだ。曰く佃島、深川万年橋、本所竪川、同じく本所五ッ目羅漢寺、千住、目黒、青山龍巌寺、    青山隠田水車、神田駿河台、日本橋橋上、駿河台越後屋店頭、浅草本願寺、品川御殿山、及び小石川の    雪中である。私はまだ此等の錦絵をば一々実景に照合した事はない。それ故例へば深川万年橋或は本所    竪川辺より江戸時代に於ても果して富士を望み得たか否かを知る事が出来ない。然し北斎及び其の門人    昇亭北寿また一立斎広重等の古版画は今日猶東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取つて絶好の    案内たるや云ふを俟たない。北寿が阿蘭陀風の遠近法を用ひて描いたお茶ノ水の錦絵はわれ等今日目あ    たり見る景色と変りはない。神田聖堂の門前を過ぎてお茶ノ水に臨む往来の最も高き処に佇んで西の方    を望めば、左には対岸の土手を越して九段の高台、右には造兵の樹木と並んで牛込市ヶ谷辺の木立を見    る。其の間を流れる神田川は水道橋より牛込揚場辺の河岸まで、遠い其の眺望のはづれに、吾等は常に    富嶽と其の麓の連山を見る光景、全く名所絵と異る所がない。而(しか)して富嶽の眺望の最も美は矢張    浮世絵の色彩に似て、初夏晩秋の夕陽(せきやう)に照らされて雲と煙は五色に輝き山は紫に空は紅に染    め尽される折である〟(44/115コマ)  三田文学/永井荷風/72~90  「浮世絵の山水画と江戸名所」第四巻第七号 大正二年七月  「欧人の観たる葛飾北斎」「北斎年譜」永井荷風 第四巻第十号 大正二年十月  「鈴木春新の絵」第五巻一号 大正三年一月  「歐米の浮世繪硏究」5-2  「衰頽期の浮世繪」5-6  「浮世繪と江戶演劇」5-7