Top     木下杢太郎の小林清親および浮世絵記事    その他(明治以降の浮世絵記事)
 ◯「小林清親東京名所図会」木下杢太郎著(『芸術』第二号 大正二年五月刊)   (『木下杢太郎全集』第八巻 p144)   〝(前略)予が座右に一巻の東京名所図会あり、明治十三年の交彼の画きて印行せしめたる所に係る。就    て見るに或は池の端の雪景あり、或は小梅曳舟通の雪暁あり、或は赤坂紀伊国坂の遠望あり、或は万世    橋の朝日出あり、天重陰にして、未だ全く霽れず、遠景模糊として微(かす)み、諦視之を久しうすれば    橋梁あり、堤上の樹列あり、目前の屋背、招牌、緑油漆の長灯孰れも北面に雪を頂き、きれんぐわん、    五臓円等の字のみ独り鮮やかに薬舗の軒に見らるる所を、遅々として行歩に悩む車夫、蛇目傘を肩にか    けたる人々の行くは之れ両国雪中の図にあらずや。由来東京市街の美観は雪宵雪旦に於て最もよく現は    る。是を以て古来の浮世絵に雪中の市街を画くもの甚だ多し。広重が木曾街道名所図会は日本橋雪の曙    を以て始まり、忠臣蔵十二段は両国の雪旦を以て終る。蓋し東京雪景の美は雅俗共に等しく解する所な    り。清親が図中雪景亦頗る多し。駿河町の雪は此に縮写したれば就て見るに足る。思ふに雪の日万象新    に洗はれたるが如く新鮮なるとき、商店の軒先に紺の色にほふ屋号の暖簾を見るの快は、東京下町の情    緒を熱愛する人の等しく感ずるところならむ。     巻中尚ほ大丸の店頭あり、神田川の有景ありお茶の水の雪あり、神田明神境内の晩照あり、上野博覧    会の遠望あり、亀井戸の藤あり、堀切の花菖蒲あり、大森朝の海あり、孰れも花月風光の情を舒したり。    唯清親の此図会中殊に予の好む所は別に之あるなり。即ち特殊のやや狭き趣味情到の絵となす。名づけ    て都会趣味の絵と云はむか。之を解するに多少の都会的伝説の予備知識乃至予備感情を要するなり。固    より上述せる諸景も亦皆之に属す。唯両国大火の景、二(ママ)つ又永代橋遠景、浅草橋夕景、百本杭の暁、    隅田川枕橋、本所御蔵橋、両国花火、今戸有明楼の夜宴、今戸夏月の如きは江戸時代より伝承せる一種    の舒情詩的情緒を通じて見るにあらざれば能く個中の真趣を掴むを得ざるなり。     (中略)     清親に別に小形の名所図会あり、尚予の記せざるものも或は甚だ多からむ。彼の時代は之を驚嘆の時    代と称して可ならむか、文明開化日に進み、観るもの日に日に新なり。東京見物の子供が田舎に帰りて    語る所尽きざるが如く、此画工も多少従来より異れる絵画的観相を得、而して日に新なるの美観に会す。    唯画く所多く日の足らざるろ憂ひしならむ、決して今日の画工が職業上の食つめ者の如く、画かんと欲    しても画くものなきに困ずると同日の比にあらざりしなり。旧来伝承の美観も亦新しく見えたる時代な    りければなり。     当時の市街情調を画くもの、他に国輝あり、三代広重あり、芳年あり、芳虎あり、国政あり、孰れも    清親に及ばず。唯外象を模写するを知りて毫も詩人の心情を蔵せざりしを以てなり。     思ふに清親の画を喜ぶ所以は平民の詩境を喜ぶなり。自由寛闊なりし一平民が追慕驚嘆の時代に対せ    し心境を喜ぶなり。清親が画は明に時期を劃せる一太平時代、明治十幾年前後の社会情緒を現はす。此    時代の趨勢と其時の人と並に清親の性情、閲歴等は後日之を研究して詳述する期あらむことを信ず〟  ◯「年頭所感」木下杢太郎著(『太陽』第二十一巻第二号「文芸評論」欄に掲載 大正四年二月月刊)   (『木下杢太郎全集』第八巻 p293)   〝(前略)旧臘中予は神田南明倶楽部で浮世絵の展覧会を見、其内に歌川豊春「浮絵」の未だ知らなか    つたものを数々見た、中には和蘭(おらんだ)の版画そのままの臨摹移写と云ふやうなものもあつて、不    思議な異人館が狭い溝渠(カナアル)の両側にぎこちなく聳(そびや)ぎ立つて居るやうなのがあつたが、其他    にはまた題を江戸諸景に取り、魚河岸や芝境内や品川の海等が、この新式遠近法で画かれて居た。また    玉川舟調と云ふ人のもあつた。孰れも古朴な、万事不足勝な木板画中に、兎に角新しい自然観照法を知    り得たといふ歓喜の浸透して居るのを発見することが出来た。今は詳細に考証する隙もないが、この種    の新遠近法が芝居へ入つて行つた当時の様子を研究して見たい。恐らく非常な喝采を惹起したに相違な    いと思ふ。西洋でウツチエロの徒が始めて合理的は遠近法を発見して之を絵画に現はしたのは、既に十    五世紀の昔である。世界の大勢から見れば豊春、舟調の輩が浮絵を画き出したなどと云ふことは、物の    数にも入られないのであるが、我日本国だけで考へて見るば、元来何にも無い所へ、突然とこんな新し    ものが入つて来たのであるから、余程不思議であつた筈である。若し我々の祖先がもつと自分達の精神    を愛する人々で、精神生活と云ふものへも少し価値を附ける事と知つて居たならば--即ち精神に対す    る勇敢なる考察、精神の自由の価値の認識等をなす能力があつて、それを基(もとゐ)とする物心の両文    明がもつと盛であつたならば、こんな大なる発見、大なる歓喜は、是は新しい趣向だ位の讃辞で祭り込    まれてしまひはしなかつたらう。処が折角の新観照も悪るい時代、瘠せた土地へ連れて来られたものだ    から、碌々大きな果実も結ばず、やつと今の好事家から掘り出されて、是は珍だなどと云はれるのが落    であつた。その後の小林清親翁、黒田清輝氏の新芸術なども、社会からの共鳴は甚だ少く、殆ど島嶼的    に時代から遠離して居た。即ちこんな新観照法が別段時代の人心を動かさなかったのである。静物学的    に言ふと或る刺戟があつてもそれに対する反応体(アンチケルペル)が時代の血液中に存して居なかったのであ    る。(以下略)〟  ◯「新似顔絵雑誌初号序」木下杢太郎著(『ARS』第一巻第三号 大正四年六月刊)   (『木下杢太郎全集』第八巻 p364)   〝 近頃またよく町の絵双紙屋に役者の似顔絵の懸つて居るのを見かけます。いつぞやは京橋の画博堂で    劇画展覧会と云ふのを催しました。是等はやはり写真の絵葉書などに対する一種の反動だと思ひます。    然し私は是等の板画に対しては多少の疑を持つて居ます。昔の鳥居派、中ごろ写楽、初代豊国、下つて    は五渡亭、国周に至るまで、其板画の似顔は兎に角その時代の趣味と一致して居ました。が今や我々は    その時分の絵かきの眼とはもつと違つた眼で芝居を見てゐます。我々はもつと皮肉になつてをります。     我々は決して今の旧劇に全然同感することは出来なく、それを一種異様の、骨董趣味のものとして観    て居り、俳優、背景、音曲等の造る世界を完全な幻覚世界とは感ぜずして、もつと生(なま)な人生味と    して味ひます。昔写楽は自身がもと能役者であつて、其後も歌舞伎役者に対して多少軽蔑の念を抱いた    為めに彼(か)のやうな皮肉な作品が出来たと云ふことです。我々は西洋のドオミエエ、ドガ、スタンラ    ンの徒がかの国の歌舞の世界をどういふ風に見たかをも知つてゐます。そして昔とはまた違つた味を見    出して居ます。即ち近く見ると紫色に光るお白粉の下に年齢の作る深い皺があつたりする所へ、人工的    灯火が映つて一種複雑の色彩を与ふる彼の歌右衛門、羽左衛門等の顔を、更に近世的に且複雑になつた    審美心で味ひます。従つて亦板画もさう云ふ皮肉な心持を望みたいのです。唯古風に画くのなら、既に    昔の板画で沢山だと思ひます。     明治の中頃には国周、国芳、芳幾の徒が写真風の似顔絵を出して居ます。今から見れば随分変なもの    ですが、兎に角一新機軸を出さうとした努力だつたでせう。     日本の板画は面白いものであつたし、また更に面白く利用し得るものでせう。而して日本旧劇の人物、    表情装飾等も亦一種特別の美観であります。今や新しい頭の人の手によつてこの二つが更に新しく結合    せられるといふことになつたのであれば、我々はどんな皮肉な、どんな軽妙なものが出来るだらうとい    ふ好奇心に堪へないのであります。(大正四年五月十五日夜)〟  ◯「故小林清親翁の事」木下杢太郎著(『中央美術』第二巻第二号 大正五年二月刊)   (『木下杢太郎全集』第九巻 p72)   〝 誰でも黙阿弥の芝居を見る人々は、(殊に明治以降の材料に於ては)其背景として、清親が風景画の    尤も適当なるを感ぜざるはないだろう。(中略)     予の翁を訪ねたのは千九百十三年である。その後荏苒として二年の歳月が過ぎた。予は病中に翁を訪    ねた。危篤の報の伝はつたほどに大したこともなかつたとひそかに後日再会の機を念じてゐたのが、昨    年十一月二十八日に至り、翁は溘焉長逝せられたのである。予の期待は外れて悲傷と落胆との情に堪へ    なかつた。(中略)     予が所持する翁の板画は、多くは明治十一年乃至十四年ごろのものである。試みに画題の数種を列挙    するに(池之端弁天・駿河町雪・小梅曳舟通雪景・元柳橋両国遠景・浅草橋之景など)是等の凡て当時    の情趣的風景は、一つとしてこの詩人的画家の筆端に上らざるはない。而も最も喜ばれるは雪景と火事    とである。     蓋し明治十四年第二回勧業博覧会の開かれるより少し先き、翁の家は火災に会つて烏有に帰したので    ある。而も其板画を博覧会に出品せむとして、翁を促す出版書林の求めは急であつて、翁は勢ひ火事の    写生画を沢山彫刻師に渡さねばならなかつた。(当時翁が両国米沢町に住し、偶々神田の大火に会ひ、    其壮観を写さむとしてそこに至る間に、火は飛んで両国に移り、自家も終に類焼し、そして翁は之を知    らなかつたと云ふことは有名な話である)     一時に印行する板画は一種二百枚ぐらゐである。之を「一パイ」と称した。板元は両国の大平、人形    町の福田が主であつた。     二十歳の頃翁は伊勢に旅した。それは剣道狂なる父の子として剣道修行の旅であつた。その時偶然に    も始めて写真を見たのである。其真を写すの確なる、物象遠近の正しき、陰影の立方を定むる、見る所    一々奇でないのはなかつたのである。生来絵を好みし翁はこの時奇貨措くべしと考へたのである。次で    横浜に到り、遂に狩野風画師にして且つ始めて我国に写真術を伝へたる下岡蓮杖に就て正式に写真術を    修得した。英人ワグマンに就て洋風油彩画を覚えたのは其後である。嚮に所謂『写真画師』として紹介    せられたる五姓田芳柳はまた其相弟子であつたのである。(中略)     元来日本画から入つた翁は、ワグマン氏に就く二年にして、漸く洋風絵画に倦きた。そして日本画を    ならい始めたのである。が然し(明治十年頃)翁の東京に出て来たころは、東京は洋画が流行であつた。    それで翁の絵も亦多少折衷の風を帯びるやうになつた。     ワグマン氏は屡々其洋画法を以て、日本風俗の滑稽画を描いた。それには往々飄逸の趣のあるものも    あつた。然し人の頭を殊更に大きく画いて、多少滑稽の寓意を強ひたやうな嫌ひもあつた。     翁はこれらの殊更めかしい技巧を避けて、新風の滑稽画を工夫し、並にそれに教化の意を寓して、且    つ最も廉価なる浮世絵板画の形式を以て、之を世に公にせむと欲した。(今翁の板画は一枚一二円の市    価を得来れり)而して其製作は太政官の札の銅版を始めて印行したる呉服町の玄々堂から発售すること    になつた。然し当時敢て彼が絵を彫刻せむとする彫師がなかつたから、翁は自ら其技を習ひ、自ら刻し、    自ら絵の具を解いて之を印刷した。爾後漸く其板画が世間の好尚に投じて、上述せるが如く、明治十四    年の博覧会には三百余種を出品するほどになつた。     当時画く所の花鳥図の類集は(やや広重の花鳥図に似る構図のもの)其評判名所絵に及ばなかつたの    で、其種類も少なく、今は殆ど之を見ることが出来ないのである。     翁の手許には其うち一枚の、牡牝の家鶏を彫つたものがあつた。其洋風の写実と、斬新の色彩とは、    恐らく当時に於いて甚だ珍とするに足りるものがあつたらう。而も当時の公衆は絵画内容の情趣を解す    ることは出来たが、未だ其技巧の妙を味ふほどの見識がなかつたから、伝説的の感情を写したる名所絵    行はれて、是等花鳥図は行はれなかつたであらう。また無論花鳥図としては、邦画は古来極めて優秀な    るものがあるのである。翁の板画の真価は今の其詩的内容に存すると謂ふべきである。     蓋し翁の板画を喜ぶは別に其故がある。即ち、ここに『古東京』の伝説的美観(注)を看るを得るの    である。     五姓田芳柳は其洋風を以て翁に近いのであるが、和風の伝灯者として、当時また多くの浮世絵師があ    つた。而も彼等は毫も詩人的情懐を有しなかつたから、今に残るものは少いのである。其うちにも翁と    対照せしめて論ずべきは彼の大蘇芳年翁である。     純浮世絵師の気質の国芳に就いたから、随つて其絵には、清親などと異り、最も伝統趣味の取材が多    い。纏(マトイ)鑑(カガミ)などの類作のやうなものである。がまた、時代故に多少写生といふこともした。    その結果、報知新聞の附録画のやうな雑報種の絵や、また清親風の類作『東京料理頗別品』なども出来    たのである。然しながらこの芳年も、其構図描写が極めて緻密なるに拘らず、毫も清親の詩味がないの    である。爾余の広重(三代)、国周、国輝、国政の如きは殆ど言ふに足りない。故に予の所謂『古東京』    の情趣(注)を写したものとして、清親翁を第一人者と見做して可いのである。其『東京名所図会』の    如き、以て東京史編纂上の重要なるドキュメントであると思ふ。     翁は他にまた幾多の類作板画を公にしてゐる。明治十七年頃には『武蔵百景』を画いてゐる。隅田川    より待乳山を見る風景、また亀戸天満宮等である。また二十九年には『東京名所真景』を出してゐる。    是れは寧ろ月耕風の板画で、其『待乳山雪の黄昏』といふには、後に小丘、林木、社楼の雪景を画き、    前には小舟のうちなる各種風俗の一群の人々を画いてゐる。これは余り面白いものではない。     なほ予の記憶には明治九年の『東京江戸橋之真景』といふ五枚続きの、国立銀行、をはり屋、江戸橋    等の背景に、芸者、人力車、丁稚等の群衆を画いたものがあるが、是は彫刻の技が尋常で、三代広重等    のと撰ぶ処がない。其他翁の画いた板画の類作は甚だ多いことと思ふが、予の記憶には存してゐない。     翁は尚ほ明治十年に梅亭、松亭、芳年と共に有名の輸入雑誌『団々珍聞』を発行し偶々其筋の忌諱に    触れたこともある。『団々珍聞』に関することは、予は之を詳しくしない。     予の最も興味を有するものは、前記の『東京名所図会』の他には、翁の家に蔵せられたる幾巻かの写    生帳である。市区改正の遙か以前の、静寂にして物かなしき『古東京』は、茲に潜み隠れてゐるのであ    つた。     写生帳には詳しい日附と、土地の名とが挙げてなく、且つ翁の老齢、漸く其記憶力を銷磨して、予の    問に十分に答ふることが出来なかつたから、之に依つて『古東京』の面影を年代的に検べることは出来    なかつた。     其最も古いものは明治四年の交の写生である。是れも火事の絵が最も多かつた。『明治四年二月十一    日、長谷川町より見る』もの、また『久松町より見る』ものなどがあつた。共に夏の夕焼雲の如き、満    空の火焔を浴びたる濃淡のセピヤ色の土蔵のある図柄であつた。     其他川口に輻輳する船舶、その中に通運丸の混ぜる、火災後の両国通(雪景)に新築の家の疎らに立て    る、また柳原通りの銀杏樹を画いたものなどがあつた。之と今見る処の是等の街区とを比較するに、時    相に対する一種悲哀の情の油然として起るのを禁ずることが出来ないものがある。     殊に人物画には面白いものがある。当時美女の、甚だしく襟を落し、多くの箸を挿し、一種侠勇の顔    をしたるもの、或はもとの鬼丸、高島屋等の役者の略筆写生などがあつた。其うちの一枚は、予は伊上    凡骨氏に依つて之を複製し、拙著『唐艸表帋』の内に容れた。     聞くならく、明治二十年の交には根津の地、まぼろし、才蔵、万吉等の美女があつて、清親はまぼろ    しが衣に髑髏の図を画いたと。当時の世相の豪奢勇侠の一面も、往々亦この写生帳のうちに知らるゝも    のがあつた。     翁の写生帳、及び其十三四年頃の板画は予は之を『東京開明史』上の重要記録として、また一平民詩    人の芸術品として尊重せむと欲するのである。(大正五年一月十三日夜稿)〟      追記     右の小稿ののれると同じ号の雑誌に、小林源太郎氏の「小林清親と東京風景版画」と云ふ記事が出て    ゐる。それより少し抜萃する。   〝 清親は弘化四年、幕府の低い御蔵役人の子として浅草の蔵前に生まれた。八人の同胞の末子であつた。    幼より絵を好んで、椿岳、是真、南嶺、暁斎の四人に師事したが、孰れも長くは続かなかつた。     その後父失つて家督を相続したが、家業を好まず、遂に家を出て放浪した。     明治六七年の頃であらう、東京へ帰つて来た。東京の兄姉も離散し、孤独となり、その地を去つて横    浜に住み、そこで独逸人の一画工を識り、少しく洋画の技巧を学んだ。     明治八年頃三たび東京に帰京し、東京風景の板画に手を染めるに至つた。一日両国の錦絵問屋「大平    (おおひら)」を訪ねて、自分の「光線画」の風景画を出板することを勧めた。そして彼の板画が街頭の    絵双紙屋の店先に懸るやうになつた。其後其出板所は人形町の「具足屋」(福田熊次郎)に移つた。明治    十四年に至るまで盛に出板せられ、今日残存せるもの百種ばかり有る。     清親の描いた東京風景画の大さは精確に一定してゐない。殊に大平板は具足屋のものに比して大体に    大きい。即ち具足屋板が大抵竪六寸五分、横一尺三分から一尺五六分のものであるのに、大平板は竪七    寸から七寸四分、横も一尺四分から一尺一寸二分に及んでゐる。殊に面白いことは其技巧又は自然の見    方に於ても、明に二つの時代を別けることが出来る。大平板は明治九年から十一年に渉つてゐるが、其    数は至つて少なく、私の見た六十三枚のうちで、僅かに九枚を数ふに過ぎない。其うち明治九年の記入    ありて(長方形の図)形を紅に染めたる中に、「方円舎小林清親」と署名あるものが(平常はかき流し    なり)之は構図も至極平凡に、どことなく弛緩したる姿あつて、且色彩の調子も明快を缼いてゐる。十    一年の記入のものが二枚、十年のものは一枚もなく、其他に年代の記入なきものが四枚ある。之等のも    のによりて其画風を見るのに、大平版時代の作品は、深く西洋木版、或は彫刻銅版の影響を享けて、明    るき光面の陰影に移りゆくところは、多く網目の刀によりてぼかされ、人物の衣服の如きは時に輪廓の    線を省略し色もて塗りつぶされてゐるのさへある。物の観方も又頗る緻密である。画面全局の情緒を忘    れまいとすると共に、一事一物に就ての面目味をさへ現さんと努むることゝ、技巧に於ても、一筆一線    をさへ深い思慮と省察とをして描かうとした努力の跡を明にみとめることが出来る。之を其後の具足屋    時代に比するに、全体の表現が洋風で、そこに真摯なる態度と生々しい面白味がある。景象も多く夜景    を採らず、従つて色調も明るいものが多い。     具足屋版は十二年から十四年に渉つてゐる。此頃は彼も十分木版といふものを呑み込んだ。前期に比    して洋風は大に減じて、其のぼかしの影も網目でなくして鋸歯状、或は平列の線によつてんされてゐる。    又各年代により技巧思想共に強い変化はなく、一脈推移の蹟も見出すことは出来ない。取題は非常に広    く、あらゆる方面と時処とに渉り、多感なる彼の性格は溌溂として最も自由に発揮せられてゐる。制限    ありてしかも刺戟強き木版画の色彩は、最もよく彼の思想を象徴するに適した云々〟           小林清親東京風景板画目録     同誌に掲げられた右の目録に、余の有して之に闕けたものを加へると次のやうである。    大平板     明治九年と印刷せられたもの ◯東京新大橋雨中図 ◯銀座通(題名なし) ◯二重橋(題名なし)     明治十一年のもの ◯瀧の川の図 ◯愛宕山の図     年代不明のもの ◯お茶水蛍 ◯柳島日没 ◯池の端の夏雨(題名なし) ◯両国広小路の雪       以上九種    具足屋板     明治十二年のもの ◯堀切花菖蒲 ◯川口善光寺雨晴 ◯道灌山夕陽暮 ◯今戸有明楼之景       ◯湯島元聖堂之景 ◯上野公園内之図 ◯上野東照宮積雪之図 ◯東京両国百本杭暁之図      ◯品川海上眺望図 ◯高輪牛町朧月図 ◯川口鍋釜製造図 ◯小梅曳舟通雪景     明治十三年のもの ◯常磐構内紙幣寮図 ◯両国花火之図 ◯向島桜 ◯虎の門夕景       ◯隅田川小春凪 ◯根津神社秋色 ◯桜田弁慶堀原 ◯千ほんくい両国橋 ◯佃島雨晴      ◯大森朝の海 ◯本町通夜雪 ◯お茶の水の雪 ◯天王寺下衣川 ◯五本松雨月      ◯九段下五月夜 ◯大川端石原橋 ◯三叉永代橋遠景 ◯上野六角茶屋 ◯赤坂紀国坂      ◯両国大火の図     明治十四年のもの ◯第二回勧業博覧会内五角堂 ◯第二回勧業博覧会内美術館噴水 ◯同表口      ◯亀戸前 ◯多目いけ ◯浜町より写両国大火 ◯両国焼跡 ◯久松町にて見る出火      ◯両国大火浅草橋 ◯浅草寺年の市 ◯浅草夜見世 ◯今戸夏月 ◯柳原夜雨      ◯隅田川中洲水雷水 ◯池の端花火 ◯池の端弁天 ◯新橋ステンシヨン ◯浅草寺雪中      ◯新橋勧工場の景 ◯神田神明社暁     年代不明のもの(再板に当り年代の印刷を削りしもの)      ◯掘留繁花之図 ◯御城内の釣橋之図 ◯元柳橋両国遠景 ◯上野六角茶屋(再出)      ◯大伝馬町大丸 ◯駿河町雪 ◯梅若神社 ◯亀戸梅屋敷 ◯芝増上寺 ◯九段馬かけ      ◯川崎月梅 ◯浅草田圃太郎稲荷 ◯万代橋朝日出 ◯大川富士見渡 ◯本所御蔵橋      ◯一石橋夕景 ◯浅草橋夕景 ◯隅田川枕橋前 ◯江戸橋夕景富士 ◯神田川夕景      ◯日本橋夜        以上七十三種(原五十七種)       総計八十二種(原六十五種)   (注)『古東京』の伝説的美観(情趣)とは 「故小林清親翁の事」(p70)から引用する   〝(上略)江戸時代からの伝統の文化感情がなほ残つてゐて、それが建築なり市街風景などの客観物に看    られる。また人々の生活様式に存してゐる。それへ外国主義を雑ぜた文化感情が浸透して来る。上汐の    川に海の水が逆巻くやうに、また黎明の雲に東天の紅が映ずるやうに。     兎角この時代は夢の時代と謂つて可い。曙の薄明時に、まだ点つてゐる伝統の灯光と、ほのぼの白み    かける日の色と、光相争ふ所の光景を想像すると、一種のぼんやりした夢の快感が湧くのである。予覚    の時の楽しさである。     さう云ふ文化が今云つたやうに建築なり、街路なり、また服装なり、言語なりに現はれてゐる。万物    は凡て流転するものであるから、それらのものもぢりぢりと変化してゆく     そしてかう云ふ変転の経過を最も芸術的に現はした才人として、吾人は二人の名を記憶する。それは    河竹黙阿弥と--今余が標題に掲げた風俗風景画家--故小林清親翁とである〟    〈木下杢太郎は『古東京の情趣』を表現したものの代表的作品として「駿河町の雪」をあげる。下掲「小林清親の板     画」12巻・p200 参照。消えつつもなお残る江戸の情緒と、急速に広がる西洋の文物とが織りなす明治初年の東京詩     情。木下杢太郎は、これをよく表現しえた画家として小林清親の名を揚げ、高く評価するのである〉  ◯「小林清親の板画」(「孚水書房」の案内状の為めに綴れるもの。大正十四年四月某日)   (『木下杢太郎全集』第十二巻 p200)   〝 江戸歌舞伎を愛し又黙阿弥の芝居を喜ぶほどのものは誰でも小林清親東京名所図会を珍重するに相    違ないが、なぜか此詩人的画工の作品はつい近頃まで人の顧る所とならなかつた。十数年前僕は其五十    枚を切通坂下の古本屋で小銭を以て購つた。(中略)     僕は実は小林清親またはその頃の東京名所風俗の画家たる五姓田氏、亀井氏、又国輝、芳年、芳幾、    芳虎、芳員、広重、周延などの板画を通して当時の東京の市井生活の情調を考へて見ようと思つたこと    があつたが、其後いろいろの不便からこの企も出来なくなつた。今や東京は文化の東京となり、街の隅    々まで文化文化で持ち切つて居るが、それよりも実は前記の文明開化時代の方が、それは滑稽なことも    グロテスクなこともたんとあつたには相違ないが、其情趣に於て、もつと深く且細(こまや)かなるもの    があつた。日露戦争頃までを「前期東京」と呼び、その後を「震災前東京」と呼ぶとすると、僕の所謂    「前期東京」はその市街、その生活、並にその遊楽の方面に於て記録を残して置きたいものが沢山あつ    た。深川の羽織の風俗又は小紋の羽織袴の鳥差(とりさし)の闊達ないで立ちはとうの昔に廃つたが、そ    の面影を忍ぶには右の画工たちの板画か、見取り図などに由らなければならなくなつた。     其うちに在つても、小林清親はもつとも優れてゐる。彼は即目の印象を如実に再現したが、その際彼    の詩人的天稟の為めに単にその形象のみならず、当時の情趣をも之を取つて画中に収めたのである。そ    れ故に彼の名所図会を展ずると、市街の一角は当時の生活、当時の情調と共に観者の目の前に復活する    のである。     彼の板画を僕は百枚近く見た。近来珍重せられる静物の類や、また箱根山中風景の如きは、僕は寧ろ    好ない。やはり東京の名所を描いたものが一番好(い)いと思ふ。その中で又最も優れたものは「駿河町    の雪」といふ題のものである。是は「ゑちごや」の紺暖簾を懸けた店から雪の小路を眺めたところで、    恐らく旧(もと)の東京下町の、殊に濃艶な雪旦の光景が、これほど好く再現せられたるは他に有るまい    と思ふ。     概して昔の東京の市街は雪旦雪宵が最も美しく、清親の板画も雪の日を描くものが最も好い。清親は    一体薄明の画家で、雪の絵ならずとも、多くは日の出、日の入り、又月光、夜雨などの趣を愛して居る。     雪では「池の端弁天」「浅草寺雪中」「雪中両国」などなかなか好く、入日では「三ツ又永代橋遠景」    「隅田川枕橋前」などとりどりに面白い。暁のでは「両国百本杭暁の図」や「万代橋朝日出」の広漠た    る景色から当時の街区のなつかしい寂しさを感ずる。日が沈んで夜となると、世界はいよいよ彼の手の    内のものとなる。あゝ昔の東京は遊惰であつた。それ故その追懐も一層哀れ深い。     今戸のある家の一間では、当世風束髪の娘が三味線の絃を締める。月は遠い森に出で、空は異国の小    説を思ひ出させる紺青である。「谷間の姫百合」はかゝる宵に読まれた。高輪海岸の朧月、横浜から来    る蒸気車が血紅の煙を吐く。恋しい郎(をとこ)が病に臥すと風の聞いて、そつと横浜の廓を抜け出て本    所石原町なる岡田某(それがし)を尋ねた可憐の女(東京日々新聞絵附録)はこんな記車に乗つて来たの    かと想像する。「今戸有明楼」では窓の灯あかるく、歌妓の歌ひ、舞姫の踊る姿、手に取るやうに見え    て、轉ろに行人の魂を消すのであつた。     景色と同様、清親の人物は意気と情(なさけ)とを有する人々である。それは板画には見ることが少い    が、彼が三十有余冊のスケツチブツクには今もなほ生けるが如く其姿を現はして居る。美貌の鬼丸、又    簪を後ろにさし、ぐつと襟を落した年増の肖像。     今回孚水書房で小林清親の遺作展覧会を催すと云ふことを聞いたが、滞京の日取が短く、それを見る    を得ないのは残念であつた。僕の有する清親の板画は、田舎に預けて置いた為めに幸ひ火難を免れ、再    び之を取り出して眺むることが出来た。此に云ふことはいつもの通り套語であるが、唯僕も「前期東京」    と清親とを愛する仲間の一人であるといふことを告白すれば満足である。    (「孚水書房」の案内状の為めに綴れるもの。大正十四年四月某日)〟