Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
日本画論大観
         底本 … 『日本画論大観』上・中巻 坂崎坦著・アルス・昭和二年(1927)刊    ☆ いっけい うきた 浮田 一蕙    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝浮田一蕙 平安の人。土佐氏に学び、邦俗の人物を善くす。賦色古逸〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶    ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年(1802)刊・『日本画論大観』上183)   〝中上品    和画 常信       英一蝶 品格高からずと雖も又妙処有り       光起 着色法の精絶なること喜ぶべし、只生韻無きを恨みと為す       松花堂〟    〈中村竹洞の一蝶評価は狩野常信・土佐光起・松花堂昭乗に匹敵すると。因みに和画の「上上品」は該当者なし。「上     中品」は探幽、「上下品」は宗達と光琳となっている。一蝶はこれに次ぐ「中上品」なのである。因みに唐画の「中     上品」は、望月玉蟾・章甫(丹羽嘉言)・玉畹梵芳〉     〝能画無俗気者    兆典子 玉蟾 雪舟 蕪村  探幽 寒葉斎 宗達    光琳  若冲 常信 太郎庵 光起 友松  一蝶    〈世俗を画いて俗気なし。俳画の妙所はここにある。中村竹洞の一蝶評である〉
    古今画人品評       ◯『近世叢語』(角田九華著・文化十三年(1816)成稿・『日本画論大観』中1372)   〝英一蝶 為人豪放、市有奇石古龕、諸侯争且買之、一蝶即便馳往、傾槖取之、又覩新茄子、亦高価買之、    於是乃毎日古龕點火而噉茄子、傲然所人曰、此乃天下第一歓楽矣(原漢文)    (人と為り豪放。市に奇石古龕有り、諸侯争ひて且つ之を買ふ、一蝶即便(スナハチ)馳せ往き、槖(フクロ)を    傾け之を取る。又、新茄子を鬻ぐを覩る、亦、高価にて之を買ふ。是に於て乃ち毎日古龕に火を点じ茄    子を噉らふ、傲然として人に謂ひて曰く、此乃ち天下代一の歓楽なりと)〟       〝英一蝶 本氏多賀、摂津人、遷居江都、初学画狩野安信、称狩野信香、後又復本氏、更名長湖、号翡翠    翁、別号暁雲北窓翁、画風為一家、名高一時、性豪放而事母致孝、元禄中有故謫於八丈島、恒贈画母許、    使衣食無之、居数年得反江都、其遭赦時、会視一蝶止草花上、由是更姓英名一蝶、其画益行、與俳歌人    其角親善、享保九年、七十一歿、子信勝号一蜂、又善画(巻六豪爽)(原漢文)    (英一蝶、本氏多賀、摂津人、居を江都に遷し、初め画を狩野安信に学ビ、狩野信香と称す、後、又、    本氏に復し、名を長湖と更へ、翡翠翁と号す。別に暁雲北窓翁と号す。画風一家を為し、名一時に高し。    性豪放、而して母に事(ツカ)へ孝を致す。元禄中故有りて八丈島に謫さる。恒に画を母許に贈り、衣食を    して乏しく無からしむ。居ること数年、江都に反るを得る、其の赦に遭ひし時、曾ち一蝶の草花上に止    まるを視る、是に由り姓英名一蝶と更ふ。其の画益々行はれ、俳歌人其角と親善なり。享保九年、七十    一歿、子信勝一蜂と号し、亦、画を善くす)〟    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝英一蝶 始多賀朝湖、京師の人なり、父は伯菴、江戸に寓居す〔加藤氏書入に、父は石川主殿頭家中の    医士にて多賀白雲といふ、観嵩月話、古備三十四〕、始め画を狩野永真に学ぶ、後一家をなす、其名一    時に高し。故ありて配流せらる、其罪をしらず、まち/\の浮説あれども取るに足らず、其配流中写す    所といひ、伊勢山田久保一志正治太夫の家に三十六歌仙の像あり、始め十八枚には多賀朝湖の名あり、    是は配流中写して大神宮に奉納して帰島の事を祈れり、残十八枚は赦に逢ひて後東都に在て写す所、英    一蝶の款字あり、されば一蝶は帰島後の名なる事明かなり〟      ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝一蝶〔一峯、一舟、一川、嵩谷附〕    英一蝶、初の氏は多賀、名は信香、故へ有て、八丈島に流謫せらる。時に蝴蝶の草花に集まるを見て、    忽ち赦書有ることを聞きて、大に喜び、乃ち其の姓名を更(アラタ)む。摂津の人。徙(ウツリ)て江都に居し、    狩野安信に学び、稍々(ヤヤ)其の格を更む。人物花鳥を善くす。又、狂画に長して、奇情異思、愈々出て    愈々妙なり。毎(ツネ)に以て人の頥(オトガイ)を解く。其の島に在るや、島中の石及び木皮を択び、以て設    色と為す。後、赦に遭ひて帰る。其の技倍々(マスマス)進み大に世に行はる。    一蝶の子を一峯と為す。一峯の義子を一舟と為す、一舟の子を一川と為す。皆家学を能くす。近来嵩谷    なる者有り、其の法を学び、江戸に住す。浅草観音堂に頼政鵺を射るの図有り。設色高古、布置頗(スコ    ブ)る工なり、世に能手と称す     梅泉曰く「一蝶遠謫の日、朋友門生と別る、一蝶涙を垂れて曰く「今より海島中に謫居す、死生測る     べからず。又、数々音信を通ずること能はざるなり。塩蔵(シホヅケ)の鰺は島産なり。島人遠く江都に     鬻(ヒサ)ぐ。苟も苞(ツト)中に竹葉を挿さむ者有らば、則ち是れ我が保命の證なり。是に於て朋友門生     皆泣(ナミ)だ下る、後、或は塩鰺の苞中に竹葉を挿したるを見て、則ち其の恙無(ツツガナ)きを喜ぶ。後、     以て常となす。一蝶てに在りて、母を慕ふの情に堪へず、窓を北に開きて、名づけて望郷窓と曰ふ。     又、其の画を江都に貽(オク)り、朋友に託して以て母の衣食に給す。故に島中画、北窓翁を以て落款と     為す」と〟(原漢文)        ◯『近世名家書画談』二編(雲烟子著・天保十五年(1844)刊・『日本画論大観』上385)   「漢土浮世絵師の事」   〝和漢人物を画く者、画格の高き処にいたりてはまたかぞふるにいとまあらず、仇英は此邦の一蝶、舜挙    は此邦の応挙か、おのづから姓名の文宇の似たるも奇なりといふべし。     英一蝶女達磨の図      半身美人の図に題す   解大紳    千般軆態百般嬌      全身を画かず半腰を画く、    恠むべし画工の識見無きを 人情を動かす処曾て描かず      西施半身の像に題す   李笠翁    半紙天香満幅の温     心を捧げ餘態尚を捫するに堪へたり    丹青是れ完筆無きにあらず 寫して纖腰に到れば己に断魂    世に美人を達磨に画しは、右の詩などにより画工の工夫にて悟道の意をもて細腰に達磨を画しかと思ひ    しに、此頃山崎美成が随筆を見しに、女達磨といふは英一蝶が画初めしとぞ。昔時、新吉原中近江屋の    抱、半太夫と云遊女ありしが、後に大伝馬町の商家へ緑付たり、その家に人々集りて何くれとものがた    りの序に、達磨の九年面壁の話をしいだしけるに、かの半太夫、きゝて九年面壁の坐禅は何ほどのこと    あるべき、遊女の身の上こそ紋日もの日の心づかひに昼夜見せをはること面壁にかはることなし、達磨    は九年、われ/\は苦界十年なれば、逮磨よりも悟道したりとて笑ひけるとぞ。此話を一蝶がきゝて、    やがて半身の達磨を傾城の顔に画きたるが世上にはやりて、扇、団扇、煙草入などに女達磨といひける    とかや。市川白猿その絵の賛に      そもさんか是こなさんは誰ぞ        九年母も粋よりいでしあま味かな    といふ句を題しけるとぞ。又素外が手引草に、祇空      九年何苦界十年はなごろも    と是また面白き句なり。何さま英一蝶は何事にも頴敏の才ある人にして、世人の気をとる事も早くこゝ    に心付しにや〟    ◯『雲烟所見略伝』(清宮秀堅著・安政六年(1859)序・『日本画論大観』中)   〝英一蝶、姓藤原、多賀氏、名信香、又安雄、字君受、小字猪三郎、長じて治右衛門、又助之進と称す。    翠蓑翁、牛丸、旧草堂、一蜂閑人〔後一蜂号を以て門人に授く〕、一閑散人、隣樵庵、隣濤庵、北窓翁    等の号有り。〔印譜、薛君受、薛国球印等文有り、薛国蓋し摂国の義、球其元名〕、貞享中薙髪して、    朝湖と称す。摂津の人、父多賀伯庵、某侯の侍医なり、母某氏、一蝶年十五、居を江都に徙し、呉服街    新道に住す。画を牧心斎に学び、名を安雄に改む。後其風を変じ一家を為す。書は佐玄龍を師とし、亦    能品と称す。誹歌を芭蕉に受け、暁雲、又和央蝸舎と号す、其角嵐雪等と友善、最も画に長じ、巧に人    物道釈を作す、更に狂画に長じ、奇態異状、愈出愈妙。元緑十一年十二月、故有りて三宅島に謫せらる。    母を横谷宗珉に托し、発に臨み涙を拭き、朋友門生に謂て曰く「今より海島中に謫居し、死生期すべか    らず、又音信を通ずる能はず、聞く彼の島の産物に塩鯵有り、島人遠く之を江都に鬻ぐと。若(モシ)鯵の    苞中に竹葉を挿む者有らば、則ち我生存の験なり」と。朋友門生皆泣て別る、爾後或は鯵苞中に竹葉を    挿す者を見るときは、則ち人皆其の恙無きを喜ぶと云ふ。人と為り至孝、島に在ること十二年、母を慕    ふの情に堪へず。島中の石及び木皮以て設色すべき者を採りて画を作す。之を江都の朋友に致し、売り    て以て母氏の衣食に給す。其の画北窓翁を以て款と為す、三宅島は江戸南方に在るを以て、母氏に背か    ざるを表すと云ふ。宝永六年己丑九月、赦に遇ひ都に帰る。相伝ふ島に在る日、瑚蝶の草花に集まるを    見る、偶々赦書の至るに会ふ。乃ち其の姓名を変じ、英一蝶と曰ふ。或いは曰ふ、是蓋し前厄を以て荘    周の夢蝶に比すのみ、深川海辺新田宜雲寺に寓す。〔今一蝶寺と称す。是なり〕後永堀に移る。正徳四    年三月晦日、母妙寿歿、哀毀礼を過ぐ、一蝶都に帰りて後、伎倆益々進み、大に世に行はる。享保九年    甲辰正月十三日歿、年七十三、〔二本榎承教寺塔中顕乗院に葬す。法名英受院一蝶日意〕一蝶少時奇を    好み、作る所朝妻舟画、是其の奇禍を得る所以と云ふ。子某、三宅島に在りて生む所早死。門人信勝を    以て養子と為し、一蜂と号し、長八郎と称す。一蜂の義子信種、一舟を号す。皆能く家格を守る。近来    高谷なる者有り、亦其の法を学び、頗る能手と称すと云ふ〔一説、一蝶男二世一蝶、名信勝長八郎を称    す、男一蜩百松又源一を称す、弧雲又一舟と号す。養子と為り一蝶の家名を嗣ぐ。信種一舟又東窓翁と    号し弥三郎と称す。明和五年正月七日歿〕     縑浦漁者曰く「画小技のみ、孝則ち大本、一蝶島に在りて猶数百里外の母を養ふ、岡田子羽、亦人其     の孝順を称す、縦今(タトヘ)二子画を善くせずとも当に不朽なるべきなり、辺華山、椿椿山亦能く親に     事へ、謂ふべし、書中の美事、千載に表見する者、徒然に非ざるなりと。又曰く「君受画価貴重、是     以贋造名に托する者、幾天下に偏り真本今一として得ず、人遂に之を以て之を厭ひ、豈真に君受を知     る者かな」と〟      ☆ いっぽう はなぶさ 英 一峯    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝一蝶〔一峯、一舟、一川、嵩谷附〕    一蝶の子を一峯と為す。一峯の義子を一舟と為す、一舟の子を一川と為す。皆家学を能くす。近来嵩谷    なる者有り、其の法を学び、江戸に住す。浅草観音堂に頼政鵺を射るの図有り。設色高古、布置頗(スコ    ブ)る工なり、世に能手と称す〟    ☆ うきよえし 浮世絵師    ◯『近世名家書画談』二編(雲烟子著・天保十五年(1844)刊・『日本画論大観』上385)   〝漢土浮世絵師の事    五雑俎第七曰、姑蘇有張文元者、最工美人、俗中之神仙也と。是此邦の菱川師宜、宮川長春、西川祐信    などの類なる歟、よく人世平生の情態をうつして絶技といふべし、今世又京師に乗龍、江戸に国貞あり、    師宣・長春とは異れどもよく風俗の情態を画て世の人情を動かすに至らしむ、是又その妙域に入れる者    にして得がたき伎能なり〟    〈『五雑俎』曰く「明、姑蘇の張文元なる者、美人画を善くして俗中の神仙なり」と。この張文元がさしずめ唐土にお     ける浮世絵師だと、雲烟子はいう。本邦では、師宣・長春・祐信、そして天保の現代では京都の乗龍・江戸の国貞な     どが、よく風俗の情態を写して世の人情を動かすに至らしむる技倆の持ち主だというのである〉      ☆ えどえ 江戸絵    ◯『玉勝間』十四の巻「つら/\椿」(本居宣長著・文化七年(1810)刊・『日本画論大観』上巻所収)   〝かほよき女のかたちをかくとても、例のたゞおのが筆のいきほひをのみむねとしてかくほどに、そのか    ほ見にくやかなり、あまりなまめかしくかほよくかけぱ、絵のさまいやしくなるといふめれど、そはお    のが絵のつたなきなり、かほよくてゑのさまいやしからぬやうにこそ書べけれ、己が絵がらのいやしく    なるをいとひて、かほよき人を見にくゝかくべきいはれなし、美女のかほは、いかにも/\かほよくか    くべきなり、みにくやかなるはいと/\心づきなし、但し今の世に、江戸絵といふゑなどは、しひてあ    ながちにかほよくせんとするほどに、ゑのさまのいやしき事はさらにもいはず、中々にかほ見にくゝ見    えて、いとつたなきことおほし〟    〈江戸絵は宣長の審美眼を満足させなかったようだ。美人画は顔よく賤しくならざるよう画くべきだが、江戸絵は無理     に顔よく画こうとするので品がなく、かえって醜く見えて拙いというのだ。この文は寛政年間になったものだが、宣     長は春信、春章、清長、歌麿を見て言っているのであろうか〉     ☆ おうきょ まるやま 円山 応挙    ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年(1802)刊・『日本画論大観』上184)   〝下上品    和画 蕭伯 是れ己の才に任せ邪道に陥る者なり、其の品格、野を絶す(原漢文)       応挙 人物畜獣 筆跡甜美にして骨無し       住吉慶舟〟    〈これは人物動物画ほ評価。蕭伯は曽我蕭白。唐画の「下上品」は、山口雪渓・黄檗僧鶴亭・寒葉斎・伊藤若冲〉       〝下下品    和画 守景       応挙 山水〟    〈こちらは山水画の評価。守景は久隅守景。唐画の「下下品」は、福原五岳・望月玉蟾(山水)・勝野范古・大西酔月〉             〝甜 応挙 宋紫石 松花堂〟    〈「甜」は甘い・心地よいの意味〉
    古今画人品評    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝応挙 応瑞、応受、応震、南峯、来章附    円山応挙 初名は仙嶺、後、改て応挙と為す。字は仲選、僊斎と号す。丹波人。蚤(ハヤ)く京に入る。石    田友汀に学び、迥(ハルカニ)然として藍を出づ。多く古名蹟を摸す。然れども敢へて規傚〈マネ〉に泥まず。    自ら生面〈新機軸〉を開く。凡そ花鳥草獣蟲魚、皆な其の生を写す。曲(ツブサ)に其の状を尽くす。筆姿    娬媚、設色の精緻、匠心の微妙、畢(コトゴ)とく顕(アラハ)れて、遺すこと無し。兼ねて山水人物を工じ、    遂に一代の作者と為る。名海内に馳す。諸士争て之を慕ふ。是に由て平安の画格一変す。相ひ伝ふ。応    挙晩年、街を過(ヨギリ)て、鶏を見る毎(ゴト)に杖を駐めて、之を熟視すること久し。固より鶏の画に長    ず。祇園祠の歩障のごときは、観者歎美せざること莫し。而して尚を此の如し。宜(ムベ)なるかな、其    の精絶を得ること。歿する年六十三。其の子応瑞、字は儀鳳。家法を守る。応瑞の弟応受、字は君賚。    出て木下氏を継ぐ。早世す。人之を惜しむ。応瑞の子応震、字は仲恭。写景に長ず。応瑞の弟子、図司    南峯・中島来章、各画を能(ヨク)す     北汀先生曰く「応挙専ら動植に就いて其の形を写す。故に能く真に逼る。山水を写すが如きに至ては     形似の為に縛くせ(ククラレ)らるなり。全く真趣没し(ナシ)。山水の妙、烟靄有無明暗、摸すべく摸すべか     らざるの間に在ることを知らず。又、竊(ヒソカ)に以謂(オモヘラク)、水墨の人物山水、皆な狩野氏の余臭を     為ることを免れず。余応挙が為めに深く之を惜しむ」と     梅泉曰く「古人言へる事有り、神韻を形似の外に求む。往昔の諸家、此の言に拘り、形似を遺し、徒     (イタヅラ)に伝来の模本に倣ふ。故に虎を画けば犬の如し。鶴雁鳫鳬鴨の属に至て、其の誤り尤も甚し。     応挙深く摸搓の非を歎き、専ら動植に就て其の形を写す。近世形似の精しきこと、往昔の諸家に過る     は、乃ち応挙の力なり」と〟(原漢文)    ☆ かざん わたなべ 渡辺 崋山    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝渡邊華(ママ)山 名は定静、字は子安、江戸人。画譜に精し〟    ☆ かんげつ しとみ 蔀 関月    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝蔀関月、名は徳台、字は子温。浪華の人。雪鼎を師とし、後、雪舟に法(ノット)る。山水人物、濃湿遒勁。    彫本の伊勢参宮名所図会及び山海名産図会有り。極めて精細なり。夫の浪華天満天神祠殿の紙馬(エマ)    篠塚伊賀守図等のごときは筆法蒼老沈確、誠に絶作と為す     柴田義董曰く「関月、山水人物、頗る大家の風度を見る」と     梅泉曰く「古礀より関月に至るまで各々一格を立つ、胆力有りと謂つべし」と。     卓堂先生曰く「画家気習、師弟伝染、其の毒必ず膏肓に入る。而して古礀敬甫、狩野氏の藩籬を脱し     て、雪鼎関月代々其の格を変ず。師弟束縛を受けざること、是の如き皆観るべし」と〟(原漢文)    ☆ かんようさい 寒葉斎    ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年(1802)刊・『日本画論大観』上183)   〝中下品    唐画 寒葉斎 花鳥       大雅堂 人物蘭竹       八仙堂 人物花鳥〟    〈花鳥画に対する評価である。大雅堂は池大雅、八仙堂は彭城百川。因みに和画の「中下品」は、宮本武蔵・高田太郎     庵・月岡雪鼎〉     〝下上品    唐画 雪渓       鶴亭       寒葉斎 山水       若冲〟    〈こちらは山水画に対する評価。雪渓は山口雪渓か。黄檗宗の画僧鶴亭や伊藤若冲と同格。和画の「下上品」は、曾我     蕭白・円山応挙・住吉慶舟〉          〝能画無俗気者    兆典子 玉蟾 雪舟 蕪村  探幽 寒葉斎 宗達    光琳  若冲 常信 太郎庵 光起 友松  一蝶〟
    古今画人品評    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝建部凌岱 字は孟喬、寒葉斎と号し、又長江と号す〔喜多村氏書入に、京にては三條堀川東へ入ル町、    江戸にては浅草寺雷門傍。加藤氏書入に、奉納建備神社請華篇には、京衣棚押小路下ル所東側、表札建    凌岱と出置候とあり〕東都の人、京師及び江戸に寓す。画を熊斐に学びて後一家を為す、最出藍の誉あ    り。著色花卉翎毛を善くし、又墨竹を善くす。旁俳諧を好み、専ら伊勢風を唱ふ。晩年加茂翁に従ひて    大に国学を発揮す。又片歌といふものを工夫して唱ふ、或縉紳家より片歌道守の名を賜ふ、然れども和    する者まれにして疏行せず〟    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝建凌岱、字は孟喬、寒葉斎と号す。画を善す。又、国学に精し。画譜有り、世に行はる〟    ◯『無声詩話』(金井烏洲著・嘉永六年(1853)成稿・『日本画論大観』上530)   〝寒葉斎 画筆無匠気、画有匠気者、盖入門之初、誤一歩踏甜斜門径故也〟(原漢文)    〈画筆に技巧を尽くさず、画に技巧を凝らすのは、思うに入門のとき、第一歩を誤って甜(あまい)にして斜(よから     ぬ)の道に踏み込んだからだという〉    ☆ けいほ たかだ 高田 敬輔    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝高田敬輔 江州日野杉の上の人なり、製茶をもて活業とす。幼にして絵事を好めり、因て水口侯に仕ふ、    侯狩野永真をして是が師たらしむ、後壮歳におよび故里に帰省して愈此業をつとむ、善画の聞えあり、    富峰及び鮎魚鯉魚等の画は人の珍玩する所なり、後浄福寺の古礀和尚に就き、大に画法を学べり、竹陰    斎・眉間毫翁の数号あり。男を三径といふ、父に継ぎて家声をおとさず〟    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝高田敬甫、竹隠と号す、近江の人。初め狩野氏に学び、後、古礀を師とす。人物を善す。規傚〈マネ〉を    事とせず、独り性霊を抒ぶ。揮灑横逸、壮年京摂に遊び、最も名を知らる。呉俊明と一時の領袖となる。    宝暦中に歿す、歳八十     柴田義董曰く「敬甫俊明、略々轍を同くす。世に称して異幟を建つると為す。然れども余を以て之を     観れば、未だ全く時習を脱せず、猶ほ狩野氏の余波を汲むがごとし。況や復た田野に齷齪、自ら以て     足れりと為すなり。若し此の輩の人をして身を大都会に居ることを得さしめば、山楽友松等と駕を方     (ナラ)べて衡を争はん、惜ひかな」と〟(原漢文)    ☆ こういん ながやな 長山 孔寅    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝長山孔寅 字は子亮、出羽秋田の人。浪華に住す。月渓を師として、差々(ヤヤ)変ず〟    ☆ さんこう さくらい 桜井 山興(雪舘参照)    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝桜井山興 雪志と号す、又雪館、一に三江に作る、東都の人。其画法雪舟および周文を慕ふ、山水最よ    し、人物これに次ぐ。其門に出るもの僧鸞山、月僊、桃源・及び唐等栄なり。男を雪鮮、名は絢、字は    孟素といふ、よく家法を守る。〔虚心曰く、天明年間浅草額堂の樊噲の額を画く〕〟  ☆ しせき そう 宋 紫石    ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年(1802)刊・『日本画論大観』上183)   〝下中品     唐画 范古  蘭竹        宋紫石 花鳥        玉瀾女〟    〈勝野范古、大雅堂の妻・池玉瀾。和画の「下中品」は、狩野周信・狩野探信・瓊甫〉
    古今画人品評    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝宋紫石 初め、氏は楠、字は君赤(ママ)、雪渓と号す。江戸の人。其の父に学ぶ初め繍江に学び、後、清人宗紫岩を師    とし、其の姓を冒す。花卉翎毛に長ず。又、墨竹を善す。世の為に推さる。安永中の人。其の子紫山、    亦、家法を伝ふ〟(原漢文)    ☆ しゅうざん さくらい 桜井 秋山    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝女秋山 名雪保、字は桂月。桜井雪関(ママ)の女なり。江戸の人。其の父に学ぶ。山水濃湿磊落、人物を    兼ねて、雄健超邁、高障巨壁、筆力愈々旺なり。鬚髯者も亦(マタ)及ばざる所、秀逸の気に乏しと雖も、    実に近世女画の作手と為す     梅泉曰く「聞く、秋山容貌、太(ハナハ)だ醜し。丹青の技に矜る。嘗て一時の雅客と宴を開き、酒酣     (タケナワ)にして、自負して曰く「海内実に我に配すべき者無し」と。坐客哄然として曰く「海内亦君     がごとき醜き者無し、配を以て患と為ること莫れ」と。秋山◎腆殊に甚し」と〟〈原漢文〉    〈「秋山◎腆殊に甚し」は判読できず。◎は「月+靣」。或いは「秋山は大いに恥じた」の意味か〉     ◯『日本画論大観』上81(坂崎坦著・昭和二年(1927)刊)   (『日本画論大観』所収の『画則』に関する坂崎坦の「解題」)   〝「画則」(五巻六冊)は、雪館が平生門人の為めに示したる画の法則、及び門人の問に答へたる和漢書    画の得失を、其二女秋山(名は雲保、字は桂月、画は父に詩は清河安修に学ぶ)が竊に収録し置たるも    のにして(後略)〟   (『画則』の署名)   〝雪舟十三画裔 秋山桜井氏桂月録    安永改元壬辰冬〟    〈安永元年は1772年〉       ☆しゅんが 春画    ◯『近世名家書画談』二編(雲烟子著・天保十五年(1844)刊・『日本画論大観』上384)   〝春画火災を除(ヨク)るといふ事    漢書、景十三王伝に云ふ、屋に画く、男女の裸交接為す(ハダカニシテマグハル)を、酒を置き諸父姉妹を請じ、    飲て仰て画を視せしむ【廣川王子海陽】とあり、春画こゝに権與(ハジマル)するかと覚ゆ、青藤山人が路    史に、ある士人蔵書甚多し、其櫃(ヒツ)毎(ゴト)に必春画一冊づゝいれ置けり、或人その故を問ふに、是    火災をよくる厭勝(マジナヒ)なりと云へりとぞ。此邦にて鎧櫃(ヨロヒビツ)に必春画をいるゝと云こと、いつ    の頃より始りしか、未(イマダ)考へず、又月岡雪鼎が伝に、明和中京師火災あり、ある典舗(シチヤ)の倉庫    (クラ)に彼雪鼎が春画あるが為に火を除けしこと見ゆ、路史の説によれるにや〟(原漢文)    〈『漢書』の「景十三王伝」に、男女が裸で交接するさまを屋内に画き、伯父や姉妹を召して酒を飲みながら、その画     を仰ぎ見させたという記事がある。どうやら春画はここから始まるというのである。我が国において鎧櫃に春画を必     ず入れるのは火除けの呪いのためで、これは中国に由来するというのが当時の理解であったようだ。その典拠として、     「青藤山人が路史」なるものをあげるのだが、これは青藤山人著の『路史』という意味ではなく、『青藤山人路史』     自体が書名のようである。明、徐渭の撰になるという。なお月岡雪鼎のエピソード、出典は未詳〉       ☆ じょうりょう 乗龍    ◯『近世名家書画談』二編(雲烟子著・天保十五年(1844)刊・『日本画論大観』上385)   〝漢土浮世絵師の事    五雑俎第七曰、姑蘇有張文元者、最工美人、俗中之神仙也と。是此邦の菱川師宜、宮川長春、西川祐信    などの類なる歟、よく人世平生の情態をうつして絶技といふべし、今世又京師に乗龍、江戸に国貞あり、    師宣・長春とは異れどもよく風俗の情態を画て世の人情を動かすに至らしむ、是又その妙域に入れる者    にして得がたき伎能なり〟    〈『五雑俎』曰く「明、姑蘇の張文元なる者、美人画を善くして俗中の神仙なり」と。この張文元がさしずめ唐土にお     ける浮世絵師だと、雲烟子はいう。本邦では、師宣・長春・祐信、そして天保の現代では京都の乗龍・江戸の国貞な     どが、よく風俗の情態を写して世の人情を動かすに至らしむる技倆の持ち主だというのである〉      ☆ すうこく 高 嵩高    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝嵩谷 高久氏、名は一雄、屠龍翁と号す、画を嵩之に学び後一家をなす。〔喜多村氏書入に、文化元年    甲子八月二十三日、嵩谷歿、七十五歳、葬浅草西福寺)〟    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝一蝶〔一峯、一舟、一川、嵩谷附〕    一蝶の子を一峯と為す。一峯の義子を一舟と為す、一舟の子を一川と為す。皆家学を能くす。近来嵩谷    なる者有り、其の法を学び、江戸に住す。浅草観音堂に頼政鵺を射るの図有り。設色高古、布置頗(スコ    ブ)る工なり、世に能手と称す〟    ☆ すうし さわき 佐脇 嵩之    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝嵩之 佐脇氏、名は道賢、字は子嶽、杲々観と号す、画を英一蝶に学ぶ〟    ☆ すうせつ 嵩雪    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝嵩雪 名は貫多、中嶽堂と号し、倉次と称す、画を父に学びよく家風を守る、女を英之といふ、画をよ    くす〟        ☆ すけのぶ にしかわ 西川 祐信    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝西川祐信、自得斎と号す。平安の人。善く邦俗の美人を写す、賦色娬媚、最も秘戯図(ハラヒヱ)を工む、    狎昵の状精妙ならざる莫し。     梅泉曰く「秘戯の図何人の手に始まることを知らず、古へより之れ有り、多く臥軸となり相伝ふ。武     夫、之を鎧匱(クグソヒツ)中に蔵して、以て久屯城守の鬱気を散ずと。故に往昔の諸家、皆之を写す。頃     ころ祐信が画く所を観るに、筆情繊勁、設色精巧、眉睫瑟瑟然として、動かんと欲す。古人云ふ「秘     戯の図巧ならずんば則ち已む、巧なるときは則ち媱を誨ゆ」と。信(マコト)に然り〟(原漢文)    ☆ せきみょうさい 赤猫斎    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝赤猫斎 平安の人、名は全暇、画法光琳を宗とす、又自己の狂画絶妙なり〟    ☆ せっかん さくらい 桜井 雪館    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝桜井雪舘 江戸の人。自ら雪舟派と称す。濃墨豪放、腕力健勁、未だ圭角の病ひ〈刺々しさ〉有ることを    免れず。識者之を短ず〈誹る〉。然れども、鸞山・月僊、門下に出づ、是れ其の栄(ホマレ)なり〟    ◯『日本画論大観』上81(坂崎坦著・昭和二年(1927)刊)   (『日本画論大観』所収の『画則』に関する坂崎坦の「解題」)   〝桜井雪館は常陸の人なり、字は常翁、号は山興、家世々絵事を業とす。長州雲谷寺の僧に等禅なるもの    あり、雪舟九世の孫にして画を能くし、適々徳川光圀に召されて水戸に至る。雪館の祖寛、父擔等、就    て等禅に学ぶ、雪館自ら雪丹十二世と称するはこゝに出づ。後江戸に出でゝ、雪舟の図跡及び古名画を    渉猟し、臨摸せざる処なし。近世逸人画史の評に曰く「山水最もよし人物これに次ぐ」と。寛政二年二    月二十一日没す、年七十六(深川区史には七十九歳)。「画則」(五巻六冊)は、雪館が平生門人の為    めに示したる画の法則、及び門人の問に答へたる和漢書画の得失を、其二女秋山(名は雲保、字は桂月、    画は父に詩は清河安修に学ぶ)が竊に収録し置たるものにして(後略)〟    〈桜井雪館編・井上金峨序『画則』は安永五年(1776)刊。原稿は雪館の次女・桜井秋山が安永元年(1772)に収録〉    ☆ せっしん ふくおう 福王 雪岑    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝福王雪岑 白鳳軒と号し茂右衛門と称し、始画を英一蝶に学び、後土佐を慕ふ、最よく狂言図を作るを    以て人に知らる〟      ☆ せってい つきおか 月岡 雪鼎    ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年(1802)刊・『日本画論大観』上183)   〝中下品    和画 宮本武蔵 気象を以て勝る者なり       太郎庵       雪鼎 人物〟    〈高田太郎庵。因みに、唐画の「中下品」は、寒葉斎・大雅堂・八仙堂(彭城百川)〉
    古今画人品評    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝月岡雪鼎 京師の人、信天翁と号し、丹下と称す、時世粧および春画に巧なり、源応挙、高田敬輔も此    門より出づ〔虚心曰く、浮世絵類考には敬輔の門人とす、考ふべし〕明和某年京師池魚の災あり、洛中    洛外尽く烏有となる、偶一典舗の倉庫依然たり、人皆是を訝る、火消て後其戸を開き見るに、其牕中に    一小筺あり、即月岡氏の春画なり、如何して置きけるか店の主人も知らず。是より月岡氏の春画は火伏    のやうに人々云なしければ、京師の人みな渇望す、因て其価を十倍せり、笑ふべし〟    〈「虚心曰く」は飯島虚心の書付〉    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝月岡雪鼎、名は昌信、近江の人。徙(ウツリ)て大坂に居る。敬甫に学び而して変ず。善く邦俗美人を写す。    又。雑画に工なり〟(原漢文)     ☆ そうえん さくま 佐久間 草偃    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝佐久間草偃 名は顕、字は叔徳。土佐氏に学ぶ〟    ☆ とつげん たなか 田中 訥言    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝田中訥言 名は敏。嘗て偶々藤原信実の画軸を見て之を摸し、其の格を得たり〟    ☆ なひこ かとり 楫取 魚彦    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝楫取魚彦 通称は茂兵衛、下総の人。徙(ウツリ)て江戸に居る。画を工(タクミニ)す。又、国学に長ず〟    (原漢文)     ☆ はくえい ふくち 福智 白瑛    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝福智白瑛 平安の人。八田古秀を師とし、山水を能くし、設色し、又、頗(スコブ)る巧みなり〟      ☆ はりつ おがわ 小川 破笠    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝破笠 小川氏、名は観、宇は尚行、卯観子と号し、又夢中庵と号す、東都の人、俳譜をよくし、又絵事    をよくす、其法土佐より出づ、芭蕉翁の肖像をうつす、著色花烏最精緻なり、又漆器を作る、世に破笠    細工と称ふ、其製最古雅愛すべし〟    ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝文晁 文一、文二、馬孟煕付    谷文晁 字は文晁、写山楼と号す。又、画学斎と号す。初め加藤某を師とし、後、宋元の諸家に出入し    て、山水規傚〈ものまね〉を事とせず、自ら胸臆に率(シタガ)ひ、揮灑縦横、雲烟浮動の態、自然筆端に    現ず。膏潤秀逸、自ら機軸を出(イダ)す。他の元格を尺祝〈礼拝〉する者と異なり、誠に豪なるかな。兼    て青緑山水に長ず。結搆緊密、設巴古雅、殆ど明人と席を争ふ。人物花禽、又、一種の風致有り。晩年    に及びて、技益々超邁たり。義子文一、山水花鳥を善(ヨク)す。惜(オシイ)かな早世す。実子文二、山水に    長ず。沖澹潤沢、又、人物花鳥に工(タクミ)なり。嶄然として頭角を見る。馬孟煕なる者有り、多く元明    の摸本を儲(タクハ)ふ。蓋(ケダ)し谷氏に於いては先輩と為す。     梅泉曰く「或人云ふ、写山楼父子姉妹、皆深く意を絵事に留む。蓋し、其の父、鹿谷学を好み、詩を     工し、風流雅事を以て、生涯を終ふ。其れ子を教へ〈訓読できず〉、亦、其の好む所に随ふか。写山楼     に至て、遂に絵事を以て家を興す。兄弟姉妹名を芸林に擅(ホシイママニ)す。盛事と謂ふべし〟(原漢文)    ☆ ぶせい きた 喜多 武清    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝喜多武清 字子慎、可菴と号す。文晁に学び、画名有り〟    ☆ ぶんれい かとう 加藤 文麗    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝加藤文麗 名は泰都、伊豫守に任ず。江戸の人。狩野氏を学び、後、稍々(ヤヤ)軆を変ず〟(原漢文)    ☆ ほういつ さかい 酒井 抱一    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝抱一上人 名煇信、雨華菴と号す。光琳ニに法(ノッ)とり、画趣凡ならず。時工恐服す〟    ☆ またへい いわさ 岩佐 又平    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝岩佐又平、名は勝重、摂津伊丹の城主、荒木摂津の守村重の遺孽にして、越前の岩佐氏に育なわる、因    て其の姓を冒す。寛永中に平安に遊び、土佐光則を師とす、後、画を以て越前侯に仕ふ。世に称して浮    世又平と為すは即ち是なり     卓堂先生の曰く「余按ずるに、勝重を以て光則に学ぶと為るときは、則ち勝重、寛永正保年間の人に     して、今を距(サ)ること僅に百数十年、然れども其の遺蹟、幾(ホトン)ど希(マレ)なり、又、抜群傑出の     名無し。巨勢の金岡、今を距たること殆ど千年、坂本来迎寺、現に其の遺蹟を存す。中古、藤原信実、     宅間澄賀も亦、往々之を見る、其の技当代に振ひ、後世に名ある者大抵此の如し。而して勝重の名、     寥々として聞くこと無し、或は称して浮世又平なる者は傅会の説のみ」と。     梅泉曰く「世に浮世又平と称する者は、本其の人無し。然れども世、多く土佐氏の古画落款無き者を     錯認して以て又平作と為して之を珍重す。是れ戯場(シバイ)一時の作に出て、元より実事無し。世従ひ     て之を称す、豈に拠に足らんや」と〟(原漢文)    〈「勝重を以て光則に学ぶと為るときは」のあたり、文意の通じないところもあるが、要するに、勝重の名も絵も、今     に伝わらざることをもって、卓堂先生の岩佐又平評価は芳しくない。いわんや浮世又平とするのは牽強付会だと。梅     泉なるものまた然り。浮世又平は芝居からきたもので、実在の人物ではないと。この芝居とは近松門左衛門の「傾城     反香合」をいうのだろう〉     ☆ もりくに たちばな 橘 守国    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝橘守国 後素軒と号す、探山に学ぶ、嘗て彫本を著す。名(ヅケ)て写宝袋と曰ふ。世に行る〟(原漢文)    ☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝菱川師宣 晩年友松と号し、吉兵衛と称す、房州小湊の人、江戸に寓居す。画を以て活計とす、時世粧    及び春画に巧なり。其画風洒落にして其品位高し、同時に宮川長春なる者あり、時世粧を画く、其品お    よばず〟    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝菱川師信(ママ) 通称は長兵衛。善く邦俗美人を写す、艶態柔情、一見して能く人心を動す〟    ☆ ゆうぜん 友禅    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝友禅 平安の人、其姓名詳ならず,其画風洒落にして比肩するものなし。今世染家にて友禅染と称する    ものあり、其画名高かりし事これ等にても如るべし。某氏の珍蔵に鼠の娵入の図あり、最奇絶の細画な    り、先其位地は一紙の上に大松樹を写し、傍倉庫の屋根計りを松樹の間に見せ、其牕中よりの行列なり、    其鼠の趣異にして分明なり、実に奇と称すべし。友禅は宝永年中の人〟     ☆ らんこう なかい 中井 藍江    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝中井藍江 名は真、字は伯養。浪華の人。関月を師とす。山水人物に長じ、其の名籍甚たり(評判高い)〟      ☆ りゅう やまざき 山崎 龍女    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝山崎龍女 江戸下谷の人、画を菱川師宣に学び、其画風一工夫ありて奇趣あり。業平の涅槃像の奇図を    作る、実に女子の英傑なるものなり〟    ☆ りゅうほ ひなや 雛屋 立圃       ◯『画工便覧』(伝新井白石著・延宝元年(1673)成稿・『日本画論大観』中1104)   〝立甫 名親重、住京都、貞徳門弟、翫俳諧于世発於名、常戯人物鳥獣花草図而共賛発句〟    〈松永貞徳門人で俳諧によって世に知られる。常に人物鳥獣草花を戯れに画き発句をもって賛とする〉    ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年(1802)刊・『日本画論大観』上183)   〝中中品    和画 友松       立甫 逸致有り       光成〟    〈「逸致」は「優れた趣(おもむき)」。海北友松・土佐光成と同格。唐画の「中中品」は、心越禅師・与謝蕪村・八     仙堂(彭城百川)・岡野石圃・熊代熊斐・大鵬〉       〝文人画    玉畹子 真相  石圃  立圃 大雅 松花堂 彰甫 萩坊    宮筠圃 八仙堂 柳里恭 大鵬 心越 即非  古礀〟    ◯『続本朝画史』(檜山義慎著・文政二年(1819)刊・『日本画論大観』中)   〝野々口立圃 名親重、号松翁、京師人〔世称雛屋〕、貞室に学び、盛に俳諧連歌を唱へ、画亦逸趣有り。    〔寛文九年九月晦日歿、歳七十五〕、其子生白、号鏡山、亦画を作す〟    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝立甫、屋号は雛屋、平安の人、諧歌に長ず、丹青を好み、嘗て狂画三十六歌仙の図を製す、奇恠賞すべ    し、近来、呉月渓其の意に倣ひて之を画く〟(原漢文)    ☆ りょうたい たけべ 建部 凌岱    ◯『近世叢語』(角田九華著・文化十三年(1816)成稿・『日本画論大観』中1374)   〝建凌岱 狂縦 画を善くす。某侯三百金を賜ひ遊資と為し、学を熊斐に従はしめんとす。凌岱拝謝する    や、直ちに妓館に踵(イタ)り、其の狎昵する所の者を落籍し、廬舎を守らしむ。而して長崎に遊ビ、居る    こと六年にして帰り、画を上(タテマツ)る、状一団塊の如し。侯之を問ふ、則ち曰く「芋塊なり」と。遂に    不敬を以て黜(シリゾ)けらる。門人妓と通じ、命じて其の婦と為す、而して坦懐に之を待つ、了りて慍色    無し。又妓の才有る者を選ビ、落籍し以て妻と為し、賀茂真淵に学バしむ〟(原漢文)
    古今画人品評