Top              『随筆百花園』             浮世絵文献資料館
   随筆百花園                さ行                    ☆ さけい 莎鶏    ◯『仮寝の夢』⑦57(諏訪頼武記・文政四年序)   〝今の錦画ハ明和の初、大小の摺物殊外流行、次第に板行種々色をまじへ、大惣になり、牛込御籏本大久    保甚四郎俳名巨川、牛込揚場阿部八之進砂鶏、此両人専ら頭取に而、組合を分け大小取替会所々に有之、    後は湯島茶屋などをかり大会有之候。一両年に而相止。右之板行を書林共求メ、夫より錦繪を摺、大廻    に相成候事〟    ☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信     ◯『無可有郷』⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「浮世絵評」の項)   〝予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ    ざるべからざるものあり。北斎似をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ    ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下    してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をずる所は各古今一人なり。其餘名人多しとい    へども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くな    らず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者    (ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝばあしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の器械また    如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜    しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相混じて用ゆ。愈其至らざるを見る〟    〈鈴木桃野によれば、柳川重信も歌川国直も、北斎の方向と国貞の方向と追ったがために北斎・国貞に及ばないという     のである〉    ◯『無可有郷』⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   〝同じき(天保壬辰)十一月廿七日比か、画師柳川重信没す。葛飾北齋翁の婿なり。葛門にしてまた歌川に    入る。大の時に行る。年未だ四十よし(ママ)。惜むべし。此人常々自から沐浴して死なんといひしが、果    して死期をしりて、医にむかひ、此度の病気全快すべからずといひて、沐浴して二階へ上りしが、奄然    として逝すと、銀鶏畑君語る〟    〈畑銀鶏は狂歌師奇々羅金鶏の子。金鶏は寛政二年の狂歌絵本『吾妻遊』(歌麿画)、また寛政十二年刊の狂歌狂文集     『燭夜文庫』(中村芳中画)で知られる〉    ☆ しゅうざん よしむら 吉村 周山     ◯『難波噺』⑭118(池田正樹著・安永二年二月)   (大坂に関する記事)   〝当地にて和画唐画師の名有分、左にしるす。和画 周山。【当冬病死】保国。月岡。【江戸堀二丁目】    唐画 鶴亭。【西高津】五岳。林秋蔵。蛇玉。【嶋の内】周峯〟    〈「(橘)保国」は寛政四年二月二十三日の没。すると「【当冬病死】とあるのは周山に対する割書と考えられる。この     記事は二月のものだから、その時点では生存、したがって割書の【当冬病死】は安永二年としても十月以降の書き入     れであろうか。明和~安永にかけての大坂画壇「和画」の大立て者とは吉村周山・橘保国・月岡雪鼎、これは衆目の    一致するところであったのだろう。なお「唐画」の「周峯」は森周峯で周山の門人」である〉    ☆ しゅうほう もり 森 周峯     ◯『難波噺』⑭118(池田正樹著・安永二年二月)   (大坂に関する記事)   〝当地にて和画唐画師の名有分、左にしるす。     和画 周山。【当冬病死】保国。月岡。【江戸堀二丁目】     唐画 鶴亭。【西高津】五岳。林秋蔵。蛇玉。【嶋の内】周峯〟    〈安永初年、大坂画壇の「唐画」の大立て者のひとりとして周峯の名が見える。「和画」のほうには周峯が学んだ吉村     周山と月岡雪鼎の名がある。「鶴亭」は黄檗僧の画人、「五岳」は福原五岳。「林秋蔵」は未詳。「蛇玉」は葛蛇玉     である〉    ☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章        ◯『椎の実筆』⑪247(蜂屋椎園著・天保八年十月十一日)   (「日向東蔵」の項)   〝〔愛宕山〕の山門の内左右に、竪四尺ばかり、横二尺余の絵馬二枚をかけたり。是はむかし日向東蔵と    云人、此石坂を馬にのりて上下せし時奉納したるものにて、一枚は、素袍、侍烏帽子にて栗毛馬にのり、    石坂を上る図、一枚は同じさまにて下る図也。惜哉、往々磨滅して、ぬしの名も日向東蔵源とばかりよ    めて、その下の名のりはしれず。年号月日もしるしたらんなれども見えず。はつかに、勝川春章図とか    きし画名と印のほのみえたり。今より年をへば、全くきへ失んと思へば、書付つ〟   〈「寛永三馬術」の曲垣平九郎は有名だが、日向東蔵は未詳〉    ☆ しゅんてい かつかわ 勝川 春亭     ◯『無可有郷』⑦396(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (文化四~五年記事)  〝其歳(鈴木桃野、九歳頃)より稗史の合巻といふもの初れり【文化四年なり。お六櫛合巻の初なり。其   明年は双蝶々、吃又平等数種出る。爰におゐて、楚満人豊廣の輩漸々おとろへて、三馬、京山、国貞、   春亭、興子、京伝、馬琴、豊国は元の如し】〟    〈「興子」は未詳。子興(長喜)の間違いかとも思うのだが、そうすると作画期が合わない。子興画の草双紙は寛政~     享和年間がほとんど、とても国貞・春亭・豊国のように元の如しというわけにはいかない。歌川豊国、国貞の項参照〉    ☆ せっけい くすもと 楠本 雪渓     ◯『椎の実筆』⑪391(蜂屋椎園著・天保十二年序)   〝楠本雪渓 名は君赫、江戸の人。初め画を熊斐に学ぶ。後に清人宋紫宕に画法を聞き、大に得るところ    ありて、遂に宋氏を冒し、名紫石と更め、江戸に帰り、一時其画大に行はる〟    ☆ せってい つきおか 月岡 雪鼎     ◯『難波噺』⑭118(池田正樹著・安永二年二月)   (大坂に関する記事)   〝当地にて和画唐画師の名有分、左にしるす。     和画 周山。【当冬病死】保国。月岡。【江戸堀二丁目】     唐画 鶴亭。【西高津】五岳。林秋蔵。蛇玉。【嶋の内】周峯〟    〈「【当冬病死】」の割書は安永二年没の周山のものであるから、「【江戸堀二丁目】は月岡に対する割書と考えられ     る。安永初年、大坂画壇の「和画」の大立て者は吉村周山・橘保国・月岡雪鼎、この三人だというのだ〉    ☆ そせん もり 森狙仙     ◯『壬子作遊日記』④19(頼春水記・寛政四年三月二十九日記)   〝黄葉村舎    君啓、応挙、楠亭、白桃、狙仙ノ画ヲミル〟    〈頼春水(山陽の父)が、福山藩神辺の菅茶山の塾・黄葉村舎にて一見したもの。京都の市川君啓、円山応挙、西村楠亭・     森狙仙。白桃は未詳〉  ◯『無可有郷』⑦381(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「浮世絵評」の項)   〝浮世画の名人は、よく其時の風俗を写すをよしとす。然れども画の名ありてより此かた、筆意といふこ    とを言ふ故に、蘭画のごときものは品を下して画に齢せず。是におゐて祖僲、応挙の輩写生より筆意を    加へて両全の謀をなす〟    〈この「祖僲」を森狙仙とみた〉     ◯『椎の實筆(抄)』⑪402(蜂屋椎園編・嘉永年間写)   (安西於菟編「近世名家書画談」の稿本より写す。)   〝宗達、光琳が草花、松花堂布袋、英一蝶が人物、平安の四竹、大雅堂、謝春生山水、應擧幽霊、森祖仙    祇園南海梅、柳里恭竹〟    〈「平安の四竹」とは宮崎筠圃・御園中渠・浅井図南・山科李蹊。「謝春生」は与謝蕪村。安西雲煙(於菟)著『近世名家     書画』は天保元年~嘉永五年の成立。蜂屋椎園は骨董店にて入手した写本を〝安西繍虎と云人の輯せし、近世名家書画     談といふものゝ稿本也と記している〉