Top              『大田南畝全集』            浮世絵文献資料館
   大田南畝全集               さ行                  ☆ しげなが にしむら 西村 重長 〔?~宝暦六年(1756)〕   ◯『仮名世説 下』⑩569(文政八年刊)    〈新吉原・大文字屋市兵衛(かぼちゃ市兵衛)を画く「一枚絵」を模写して掲載。ただし南畝の模写ではなく、南畝公     認の贋筆・文宝亭の模写。それには「西村重長筆」「駿河屋板」とあり。『武江年表』によると、かぼちゃ市兵衛の     評判は宝暦三年頃よりあがるという。原画は当然紅摺絵である〉   ☆ しげのぶ にしむら 西村 重信 〔生没年未詳〕   ◯『瑣々千巻』⑩332(文化八年四月八日記)  〝忠臣身替公平 六段 絵師 西村重信図〟    〈「六段」とは古浄瑠璃の事。この書籍のことは「書簡 167」(文化八年四月八日付「青山堂」宛)にもあり、〝丹表紙     之中点検いたし、表題或は序書候分〟として『忠臣身替公平』の書名をあげる。丹表紙は赤本のこと。この本は土佐     節の浄瑠璃本らしいのだが未詳〉   ☆ しげまさ きたお 北尾 重政 ◎〔元文四年(1739)~文政三年(1820)〕    ◯『四方の留粕』①193(明和十年一月記)  (安永二年刊『江戸二色』(鱗形屋板)に南畝の序)  〝北尾氏の筆に写し、弄籟子の狂歌を添て、一ツの草紙とはなりぬ。〈中略〉 明和十年睦月のころ、四方 のあか人、飲懸山の麓に記〟    〈「弄籟子」とは笛を愛ずる者という意味だが、誰のことか未詳〉    ◯『菊寿草』⑦227・240(安永十年一月刊)  〝絵師之部 北尾重政〟  (重政画『大違宝船』(芝全交作)の評判)   〝絵は西東みんなみに北尾の親玉花藍の絵、物いはずに巻頭にすゑました〟    〈『菊寿草』は南畝による天明一年出版の黄表紙評判記。この年の絵師之部には他に鳥居清長、北尾政演、同政美、同     三二郎、勝川春常の名をあげる。政美と三二郎とは同人にしても、北尾派は他派を圧する勢いだから、確かに挿画界     の「親玉」であろうし、実績から言っても〝物いはずに巻頭にすゑる〟ほかあるまい。花藍は重政の俳号〉    □「杏園余芳」(月報4 巻三「南畝耕読」)  「耕書堂夜会出席者名録」(天明二年十二月十七日明記)    〈天明二年十二月十七日、吉原大門口の耕書堂・蔦屋重三郎宅にてふぐ汁の会あり。参会者は南畝・重政・政演・政美     ・安田梅順・藤田金六・朱楽菅江・唐来参和・恋川春町・田阿。後に蔦屋の出版を支えることになる狂歌師・黄表紙     作家と北尾派の挿絵師達である。安田梅順は未詳。藤田金六は彫師かと、全集の月報は推定。田阿は河口田阿(河益     之)という町絵師で、南畝とはごく親しい間柄。この後、一座は吉原・大文字楼に宴席を移すが、なぜか重政と金六     は参加していない。ともあれこの会は蔦屋の本格的文壇進出工作の一環なのであろう〉   □「杏園余芳」(月報4 巻三「南畝耕読」) (天明二年十二月十六日付「北尾重政 花藍 紅翠斎」の書簡〉  〝御紙上拝誦仕候。然梅之色さし則認差上申候。尤紅之事如仰にて可然候。為筆料被懸貴意慎落手仕候。    万々拝眉可申上候。以上蝋月十六日〟    〈宛名がないが、南畝宛なのであろうか。また年時もないが、全集・月報所収(「南畝耕読」)の筆者・中野三敏氏は     前項蔦屋主催の夜会の前日とする。書簡の内容は判然としない〉      □「香炉峰」(月報10 巻九「南畝耕読」) (天明六年以降)  〝北尾重政 左助 席画 華藍画(花押)  香炉峰の雪はとヽへば玉簾あかりたる世も見る斗なり 橘洲〟    〈狂歌は「枕草子」二百五十三段を踏まえたもの。重政の画は清少納言が簾を揚げる場面である。「橘州」は明和六年     頃、狂歌会を創始した酔竹連の総帥・唐衣橘州。ところで「橘州」の読みだが、これは〝きつじゅう〟とすべきだろ     う。南畝も「南畝莠言」⑩385で「小島橘州」に〝こじまきつじう”のルビをふり、また橘州の十三回忌には〝むかし     みし人はもぬけのからころもきつ十三のとしやたちけん〟と詠んでいる〉    ◯『絵本八十宇治川』⑱540(天明六年刊)  (「四方山人」の序。蔦屋板)  〝こヽに北尾の何がし、あらぶるゑびす姿をもて敷島の大和ゑにうつしたる〟  〝将その画の工なる、巨勢のかなをかもつめをくはえ、其こと葉のおかしき方朔、艾子も頤を解べし〟    〈重政の武者絵は平安時代の巨勢金岡を超えると、南畝は重政の画業を称える〉    ◯『浮世絵考証』⑱441(寛政十二年五月以前記)  〝本姓北畠(朱筆)  北尾重政 紅翠斎、花藍、俗名左助、根岸に住す   (弟子、政演、政美の記事あり、略)  重政は近来錦絵の名手なり。男女風俗、武者絵、また刻板の文字をよくかけり〟    ◯『一話一言 巻二十四』⑬432(文化四年四月二十五日明記) (「楫取魚彦・窪俊満」の項)   “(窪俊満)はじめ魚彦の門に入て、蘭竹梅菊の四君を学ぶ、後うき世絵を北尾重政花藍に学ぶ〟    〈もっとも、重政と俊満との師弟関係は、政演(山東京伝)や政美(鍬形ケイ斎)のような正式門人なのだろうか。窪俊     満の項参照〉   ☆ しせき そう 宋 紫石 楠本雪渓 〔享保十一年(1726)~天明六年(1786)〕    ◯『一話一言 巻七』⑫281(天明四年記) 〝桜棠花〈挿画あり〉 右南蘋沈銓画 見宋紫石画譜〟    〈沈南蘋を模写した宋紫石の画譜を引いて、日本の桜が漢語表記では「桜棠」となる事、南畝の考証である〉    ◯『壬戌紀行』⑧二六七(享和一年三月二十二日明記)  (大坂銅座出張の帰路、京都北野天満宮にて、紫石の画碑を一見) 〝表門を出、影向の松をみる。宋紫石が竹を画けるを石にきざみてたてるあり〟    〈建立の由来等について記述なし〉   ◯『一話一言 巻三十四』⑭287(文化七年四月十六日明記)  (平賀源内の博物書『物類品隲』(宝暦十三年刊)より、南畝、絵具「コヲルド」の記事を写して注記す    る)  〝按、此画具の事は鳩渓の知己楠本雲(ママ)渓に聞けるなるべし〟    〈『物類品隲』の挿絵は楠本雪渓(紫石)が担当した。南畝もまた源内とは文芸の先輩・知己であったから、明和の頃、     宋紫石とも面識のあった可能性はある。しかし記述は見当たらない〉    ☆ じへい すぎむら 杉村 治兵衛 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱439(寛政十二年五月以前記)  〝元禄二巳年板の江戸図鑑に、   浮世絵師  通油町 杉村治兵衛正高〟    〈元禄二年(1689)当時、杉村治兵衛は日本橋通油町住で「浮世絵師」と呼ばれていた〉   ☆ じゃくちゅう 若冲 〔享保十一年(1726)~寛政十二年(1800)〕    ◯「南畝集 十三」④216(享和二年五月賦)  〝若沖(ママ)居士画鶏   誰画鑽籬菜 更添眉豆花 有人呼喌々 飛去入隣家〟    〈「画鶏」に惹かれてこれを伊藤若冲画と見なしたのだが、自信はない。若冲は寛政十二年九月八日没。南畝の大坂銅     座着任は翌年の享和元年三月十一日。南畝は生前の若冲を知らなかったようだ。この詩は大坂から戻った頃詠まれた。     誰の許で見たものか言及はない〉   ☆ しゃらく 写楽 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱446(寛政十二年五月以前記)  (「歌川国政」の項に続けて)  〝写楽  これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く    世に行われず、一両年にして止ム〟    〈この南畝の批評をどう解釈したものか。役者の似顔絵とは《役者》と《その役者が扮する役柄》とを二重写しに描い     たものを言うのであろうが、写楽の場合はその《役者が扮した役柄》以上に《役者》の方に比重がかかりすぎバラン     スを欠いたと、南畝は言うのであろうか。つまり舞台上の何者かに扮した役者を写したものではなくて、役者そのも     の肖像画になってしまったと。したがって〝あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせし〟とは、役者の肖像に     重点がかかり、舞台上で役柄に変身している役者の放つ《はな》のようなものを画いていない、と解釈できるのかも     しれない。いわば写楽は《助六を演ずる市川団十郎》を画いたのであって、《市川団十郎扮する助六》を画いたもの     ではないと、南畝は言うのだろう。そしてそのような写楽画の姿勢は、南畝のみならず〝世に行われず〟とあるので     江戸人のと言ってよいのかもしれないが、彼らの歌舞伎の見方とはおよそ違っていたのだろう。南畝・江戸人は舞台     上に間違いなく《市川団十郎の扮する助六》を見るのであろうから〉   ☆ しゅうしゃ 秀車 〔生没年未詳〕    ◯『世説新語茶』⑦108(安永五~六年刊)  (南畝の洒落本。署名は「山手馬鹿人」。挿絵に〝秀車画〟とあり。秀車は未詳。富田屋板)   ☆ しゅんえい かつかわ 勝川 春英 〔宝暦十二年(1762)~文政二年(1819)〕    ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝勝川春章 又勝宮川氏とも 弟子 春好                    春英 〟   ☆ しゅんこう かつかわ 勝川 春好 〔寛保三年(1743)~文化九年(1812)〕    ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝勝川春章 又勝宮川氏とも 弟子 春好   春英 〟    〈春章は〝壷や〟と称し〝弟子春好を小壷といひき〟とあり〉   ☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章 ◎〔享保十一年(1726)~寛政四年(1792)〕   ◯『半日閑話 巻十二』⑪343(明和七年七月記)  〝役者絵は春章が五人男の絵を始とす〟    ◯『甲駅新話』⑦6(安永四年秋刊)    〈南畝の洒落本で〝風鈴山人〟の署名。挿画は〝春章画〟とあり。富田屋板〉   ◯『粋町甲閨』⑦35(安永八年刊)    〈南畝の洒落本で〝山手の馬鹿人〟の署名。挿画は〝春章画〟とあり。富田屋板〉   ◯『南郭先生文集』⑦80(安永八~九頃刊)    〈南畝の洒落本で〝南楼坊路銭〟の署名。挿画は〝春章画〟とあり。版元は不明〉    ◯『道中粋語録』⑦129(安永八~九年刊)    〈南畝の洒落本で〝姥捨山人〟の署名。挿画は〝春章画〟とあり。版元は不明〉    ◯『通詩選笑知』①418(天明三年一月刊)  〝春章 つぼやの人也。但あは雪とは同名異物なり。一説、いづれの子とは、どこのおひめ様という事。    然らばいろ事ではねへじやァねへじやァねへか〟    〈『通詩選笑知』は『唐詩選』のパロディ狂詩とその戯注からなる南畝の狂詩本。この戯注は杜甫の詩「絶句」のパロ     ディ「悦喜」について付けられたもの。狂詩の中に〝春草看又画(しゅんしょうみすみすまたぐはす)何子是目好(い     づれのこがこれめずき)の句があり、これの戯注である。壺屋は春章の異称。また泡雪豆腐を売る壺屋という店もあ     ったか、狂詩は春章の美人画を見て、どの娘が好みなどと品評してる様子か。「一説」部分は、お姫様じゃ色事どこ     ろじゃないということか〉    ◯『通詩選』①440(天明四年一月刊)  (「勝春章図屏風賦得市川太刀」)    〈『通詩選』も前項同様『唐詩選』のパロデイ狂詩集。この狂詩は、春章画、五代目市川団十郎の「暫」に、李頎の七     言古詩「崔五丈図屏風各賦一物得烏孫佩刀」を踏まえて賦したもの。その句の中で〝壷屋の似顔奇状を写し 天地乾     坤儼として相向かふ 筆を運(めぐ)らし画と為して時に一枚すれば、人の心をして桟敷の上に在らしむ〟と春章画の     似顔絵の出来栄えを賞賛している。南畝は春章画に〝人の心をして桟敷の上に在らしむ〟と言う。これを写楽の項目     で試みた言い回しで表現すれば、春章画は《市川団十郎の扮する助六》つまり《その役者が扮する役柄》を描いたと     いうことが出来ようか。南畝の役者似顔絵のイメージはおそらく春章画によっ形成されたと考えてよい。とすると確     かに、南畝の目には写楽の画が役者の肖像そのものに見えたに違いないのだ〉    ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝勝川春章 又勝宮川氏とも 弟子【春好/春英】    これも明和の頃、歌舞伎役者の似顔をゑがきて大に行わる。五人男の画を始とす。その頃人形町林屋七    右衛門といへる者の方に寓居して、画名もなかりしかば、林屋の請取判に壷のうちに林といへる文字あ    りしをおしでとせり。人呼て壷やといひ、弟子春好きを小壷といひき。武者もよく画し也〟    〈南畝は「浮世絵考証」において、錦絵登場以降の絵師として二十余名の浮世絵師とりあげているが、その中で歌舞伎     役者の似顔絵師として、春章、文調、国政、写楽、豊国、歌舞伎堂の名をあげる。役者似顔画絵が浮世絵の中でいか     に大きな比重をもっているか、これでも理解できよう。やはり遊女絵と役者絵という悪所を題材とする絵は浮世絵の     重要な柱なのである。春章はその役者似顔絵の元祖である。錦絵においてその分野を似顔絵で確立した功績は大変大     きいといわねばならない〉    ◯「杏園稗史目録」⑲485(文化十三年明記)  (文化十三(丙子)年収得した書目中に)  〝舞台扇 三冊 明和七年庚寅 春章 文調画〟    〈浮世絵史を画する本作品の取得が、出版後四十六年も経つ文化十三年とは意外である〉   ◯「南畝文庫蔵書目」⑲414(年月日なし)   〝勝川春章絵本 一巻〟    〈絵本の題名未詳〉
  〈南畝と春章は安永の頃、洒落本の作者と挿絵師という関係で交渉があった。この組み合わせはおそらく版元の富田屋新    兵衛(狂名・文屋安雄)によるものであろう。南畝の春章画の版本は絵本を除くと洒落本と咄本に僅かあるばかり、すべ    て安永期のものである。天明期に入ると蔦屋との関係が出来たせいか春章の挿絵は見当たらない。なお烏亭焉馬の「江    戸芝居年代記」寛政一年の項に、役者・中村仲蔵の白拍子免許受領時の摺物があり、筆者焉馬の談として、仲蔵が先祖    の年忌について〝鼎足の友勝川春章と不佞(焉馬)に是を問ふ〟とあり。焉馬と春章と仲蔵はごく親しい関係にあったよ    うだ〉
  ☆ しゅんじょう かつかわ 勝川 春常 〔?~天明七年(1787)〕    ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊)  〝絵師之部 勝川春常〟    ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)   〝画工之部 勝川春常〟    ☆ しゅんちょう 春潮 〔生没年未詳〕       ◯『頭てん天口有』⑦350(天明四年刊)    〈南畝の黄表紙で〝四方〟の署名。挿画は〝四方作 春潮画〟とあり。西村与八板〉     ◯『返々目出鯛春参』⑦382(天明四年刊)    〈南畝の黄表紙で〝四方山人〟の署名。挿画〝四方山人作 春潮画〟とあり。西村与八板〉    ◯『拳角力』⑦404(天明四年刊)    〈南畝の黄表紙で〝四方山人〟の署名。挿画〝四方山人作 春潮画〟とあり。西村与八板〉    ◯『浮世絵考証』⑱447(寛政十二年五月以前記)  〝春潮  鳥居清長の筆意をよく贋たり。にしき絵、また草双紙多し〟    〈南畝の黄表紙は確認出来るもの六種、全て天明三から六年の作品で、版元が二つあり蔦屋と西村与八。絵師は蔦屋板     の時は歌麿か北尾政美、西村板の時にはこの春潮である〉   ☆ しゅんどう 春童 〔生没年未詳〕    ◯『通詩選諺解』①491(天明五年成)    〈『通詩選諺解』も『唐詩選』のパロディ狂詩。王昌齢の七言絶句「青楼曲」を踏まえたパロディ「蒸籠曲」の〝諺解〟     に、大江山伝説に取材した黄表紙として春童作品を引く〉  〝菱〈ママ〉川春童が大通山人〟    〈天明四年刊の『大江山大通山人』は『改訂日本小説年表』には蘭徳斎とあり。菱川は勝川の誤記か〉   ☆ しゅんまん くぼ 窪 俊満 ◎ 〔宝暦七年(1757)~文政三年(1820)    ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊)  〝作者之部 南陀伽紫蘭〟    ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)  〝作者之部 南陀伽しらん〟    〈『岡目八目』は南畝による天明二年出版の黄表紙評判記。南陀伽紫蘭は俊満の戯作名。この年の紫蘭作『五郎兵衛商     売』(松村板)は〝上上吉〟の評判を得ている。天明初年の頃、俊満は文芸の人でもあったのだ〉    ◯『巴人集』②399(天明三年四月詠)  〝一トふしのちつえにおくる   一ふしにちよをこめたる竹の子の比はしゆんかんお名は俊満〟    〈一節千杖は俊満の狂名〉    □「判取帳」(天明三年頃成)  〝生酔神祇   かくかヽん呑んではくらす生酔のつみてふつみも中臣の友〟   (酒杯の画) 一ふしの千杖〟    〈赤良の注で〝窪田安兵衛住通塩町〟とあり〉   ◯『浮世絵考証』⑱446(寛政十二年五月以前記)  〝窪俊満 〈以下二行分朱筆〉  始北尾重政ニ学ビ  後春章ニ学ブ  亀井町に住す。狂歌すり物の絵のみをかく。左筆也。尚左堂と云〟    〈〝重政に学ぶ〟とあるのは入門して師弟関係を結んだという意味であろうか。『浮世絵考証』は〝西川氏の筆意を学     びて〟というように私淑の意味でも使う。もし重政門人であるとすれば、重政の項に政美・政演とともに名があって     よいと思うのだが、いかがであろうか。春章との関係は、後出のように、俊満自ら門人であることを否定している〉    ◯『細推物理』⑧341(享和三年一月七日明記)  〝馬蘭亭にて年々の会あり。浪花より来れる泉屋直蔵をともなひ行に、狂歌堂真顔、吾友軒米人、尚左堂    俊満その外の好士来り集れり”    〈馬蘭亭(山道高彦)の狂歌会〉    ◯『細推物理』⑧359(享和三年三月十五日明記) 〝窪俊満がやどりをとふに、萩の屋の翁(大屋裏住)にあへり、二人ともなひて、もと柳橋のもとより舟    でして、亀沢町にゆく、半道にして、一盃をすゝめんとて、米沢町竹明(酒楼)にむかへて、酒をすゝ    む。二人の客はこゝよりかへれり。烏亭焉馬はとくより別荘にて、北斎をも呼びて席画あり〟   〈亀沢町には南畝の友人にして蔵書家、竹垣柳塘の別荘があった。交遊関係が違うのか、俊満と大屋裏住    (狂歌師)は行かず、焉馬と北斎は南畝と柳塘別荘に合流した〉     ◯『細推物理』⑧378(享和三年七月一日明記)   〝髙橋万里とゝもに小伝馬町なる尚左堂をとふ。あるじ【窪俊満】盃とり出、みさかな調じてすゝむ。雨    もまたやゝをやみぬ。酔心地にともなひ出て、柳橋のわたり、例のよし田屋おますがもとをとふ。竹明    がもとに酒くまんといひをきて〟いそぎ竹明をとふに、門さしていれず。小女出て、けふは魚なければ、    まらうどをひかずといふ。お益が来りたづねん事を思ひて、暫く門にたゝずむ。稍ありて、ともに広小    路に出て、菊屋が高楼にて酒くむ。俊満がしれる並木五瓶に、道にてあひしをも、よびいれてかたる。    五大力の根本をからん事を約す。この日は柳長も本店のもとに来るときゝて、呼びよせて酒くむ。酩酊    の後、舟にのりて北里にゆく。静玉楼に酔ふてかへれり。髙橋万里がいざなふによれり〟    〈高橋万里は高橋茂貫と同人か。吉田屋お益は南畝お気に入りの柳橋芸者。菊屋は両国広小路の酒楼。俊満が吉原の静     玉楼まで同道したか不明〉    ◯『細推物理』⑧380(享和三年七月七日明記)   〝(七夕、南畝、馬蘭亭、甘露門の舟遊山)柳橋にとゞめて、馬蘭亭舟より上り、例の吉田屋お益をとふ。    俊満もともに来れり。(参加を約していた)柳長はさはる事あれば、俊満に命じて、おますが方にその    事をいはしめしといふ。俊満が東隣の酒家何がしもまた来りて、又おいとゝいへるうたひめをめす。舟    子をも壱人くはへて、両国橋より南ざまにこぎゆく。八幡掘にいり、富が岡なる尾花楼の主人をとふに、    外に出てあはず。まづ座敷に入て、此春めしたるお竹といへる女をよびて、三絃を引かしむ。宵のほど    に、舟にのりてかへれり〟    〈甘露門は市ヶ谷浄栄寺僧侶。柳長は柳屋長次郎(酒泉亭)。ともに南畝とは親しい風流人。尾花楼は門仲町の料理茶屋、     主人は「置酒洞」と号す。『あやめ草』文化七年記事参照②59〉    ◯『細推物理』⑧381(享和三年七月九日明記)  〝尚左堂俊満と十日に舟行せん事を約せしが(南畝に支障が出来)そのことはりをいひながらまかりける    に、あるじ例の酒すゝむるに、酔てまた立出づ。浅草のわたり賑わしからんと、柳橋の若竹屋といへる    舟やどにいりて、屋根舟を命ぜしむ。又吉田屋おますをも携へて舟にのり、大川橋より岸に上りて、浅    草庵をとふ。【浅草市人が別荘伝法院の裏にあり】市人よろこび、肴もとめて酒をすゝむ。(安楽院逝    去のため浅草寺境内の借地は五十日間鳴り物停止)故にうたひめの携へし箱も、いたづらになりぬ〟    〈狂歌師浅草庵市人は伊勢屋久右衛門。南畝は十二月の浅草市には年毎に市人のもとへ立ち寄っている〉    ◯『細推物理』⑧382(享和三年七月十五日明記)   〝(中元、南畝)馬蘭亭、名和氏ととも、市兵衛河岸より丸屋の舟にのり、柳橋にいたり、馬蘭亭岸に上    りて、俊満と約せし舟宿の若竹屋をとふ。若竹屋より屋根舟を出し、こなたの舟とならべて、両国のは    しのもとにかゝる。若竹の舟には三木正栄【お花師なり。長うたよく/うたふ。お花小僧と称す】錺屋    【亀井町に住す/錺久と称す】岡安喜三郎、名見崎予惣次、その外医者何がし等乗れり。月出るまで、    橋のもとにかゝりて、歌うたひ絃ひかせ、暮過るより、大のしやが高どのに酒くみ、月をめづ。(この    日歌う番組あり、略)〟    〈名和氏もこの当時南畝と風流をともにした人。三木・錺屋・岡安・名見崎は所謂男芸者のようである〉   ◯『革令紀行』⑧421(文化一年八月二〇・二十一日明記)  〝(南畝の長崎赴任中、播磨国室津港にて)今宵は尚左堂・奇南堂など酒くみかわし、夜ふけてふせり〟 〝(翌日)尚左堂はこれよりわかれて讃岐の国象頭山にまうでんとて、手をわかつ。ふるさとへの文ども、    浪花の便にことづてやる〟    〈俊満は金毘羅宮参詣の途中であった。奇南堂(蘭麝亭薫)の方はこの後直ぐ重病に陥った南畝を看病しながら長崎ま     で同行した。なお粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』によると、これ以前の八月五日、桑名において、俊満は石川雅望     (宿屋飯盛)と出会っていた。飯盛は京・大坂入りを目前にして発病し、やむをえず江戸に戻る途中であった。南畝は     俊満から飯盛の消息も聞いたに違いない〉   ◯「書簡 50」⑲83 (文化一年九月十一日付)  (南畝、九月十日長崎着、翌日の江戸馬蘭亭宛書簡)  〝俊満も四日市より参り居り候間、牡丹と菊を画がヽせ遣候。俊満は金毘羅参詣、押付帰可申候〟    〈長崎入りした俊満画の消息について、南畝の記事は見当たらない。またいつ戻ったのか、俊満の江戸帰省についても     記事はないようだ〉   ◯『南畝集 十四』④348 (文化一年十月中旬賦)(漢詩番号2567)  〝尚左堂二覧浦図   二覧遥連浦 双巌対若門 欲知神所在 勢海浴朝暾〟    〈俊満画の伊勢二見ケ浦の図に長崎において賦詩。室津で南畝は俊満自身から入手したものか。この絵も前項同様消息     は不明である〉    ◯『をみなへし』②25 (文化四年四月上旬詠明記)  〝(卯月のはじめ)尚左堂にて初鰹をくふ    ほとヽぎす聞(く)みヽのみか初鰹ひだり箸にてくふべかりける〟    〈俊満は左利きであった〉    ◯『をみなへし』②28(文化四年九月詠)  〝尚左堂のもとにまどゐして   霊宝は左へといふことのはも此やどよりやいひはじめけん〟    〈これも左利きを詠んだもの〉    ◯『一話一言 巻二十四』⑬432 (文化四年四月二十五日明記)  〝吾友窪俊満 易兵衛 はじめ魚彦の門に入て、蘭竹梅菊の四君子を学ぶ。後うき世絵を北尾重政花藍に 学ぶ。魚彦より春満といへる画名をあたへしが、勝川春章といへるうき世絵の門人と人のいふをいとひ て、春の字を俊の字に改めしといへり〟    〈「浮世絵考証」の〝春章に学ぶ〟と矛盾する記述だが、享和期以降頻繁な交遊を経た上での南畝記事だから、俊満自     ら語ったこちらの方が信憑性はある。それにしてもなぜ俊満は春章の門人と見なされるのを嫌ったのであろうか〉    ◯『紅梅集』②319(文化14年12月詠) 〝関宿の君の春のすりものヽ奥にことば書そへよとこふに、又鈍々亭和樽の社中白木屋何がしのすりもの に歌をこふ。二つともに尚左堂俊満のたくみなり  橘のはなの先より遠責の面しろ木やの鈍々の音 ふたつともにいなみて狂名をばかヽず〟    〈「関宿の君」は久世大和守。「白木や何がし」は日本橋白木屋の奉公人重兵衛か。摺り物に評判の高い俊満画に蜀山     人の狂歌を配したものだが、狂名を入れるのは拒否したとあり。気乗りしない理由は不明である〉    ◯『半日閑話 次五』⑱183(文政二年三月二〇日付)  (大坂在住重岡真兵衛の南畝宛書簡) 〝当表大江橋辺に蜀山せんべい売弘、せんべいに尊君様御狂歌抔相認メ御座候由、求に遣し候処、昨日は 売切候由にて手に入不申候。去冬俊満登坂にて、同人の趣向と察居申候〟    〈大坂にて評判の「蜀山せんべい」なるものを案じ出したのは、文政一年の冬、大坂入りしていた俊満というのである。     前項もそうだが、俊満は蜀山人の名前をずいぶんあちこちで利用しているような気配だ〉
  〈南畝が浮世絵師のなかで一番親しかったのは山東京伝だが、俊満はそれに次ぐ。交渉は狂歌・摺物といった出版の関係    を超えた私的な領域にまで及んでいる。どうしてこんなにウマがあったのか分からないが大変親密だ。しかし文政三年    九月二十日の俊満逝去について、南畝に書き留めはない〉
  ☆ しんさい 辰斎 ◎ 〔生没年未詳〕    ◯『万紫千紅』①294(文化十二年十月下旬詠)  〝かまくらがし春の屋のもとにて夷講の日、辰斎、夷の鰹つりたる所を画きければ  名にしおふ鎌倉がしの魚なれば鯛より先にゑび寿三郎〟    〈「春の屋」は鎌倉河岸の酒家・豊島屋。辰斎が恵比寿に鯛ならぬ「鰹」を画いたのは、豊島屋が他ならぬ鎌倉河岸に     あったからだ。鎌倉と言えば、江戸の人々は鰹を連想し、兼好法師の「徒然草」(百十九段)を想起する。もっとも江     戸人の鰹は、兼好法師が卑下するような下魚ではない。南畝の書留によれば、文化九年三月二十五日、役者・中村歌     右衛門が買った初鰹は三両であった〉    ◯『七々集』②271(文化十二年十月下旬詠)  〈前出の豊島屋の夷講と詞書、狂歌とも同じ。但し「春の屋」が「豊島屋」になっており、狂歌も一首多い〉    〝酒ぐらは鎌倉がしにたえせじなとよとしま屋の稲の数々〟    ◯『紅梅集』②348(文政一年七月下旬詠)  〝江島岩本院新居の額に辰斎の桜の画あり   蓬莱に桜をゑがく寿も江の島台の花にこそみれ  同じく紅葉のゑに  夕日影させるかた瀬の村紅葉みなくれなゐにうつしゑの島〟    〈南畝が相州江の島に立ち寄ったのは文化元年七月二十六日頃、長崎に赴任中であった。この時詩を賦しているが、辰斎     の奉納額には触れていない。それとも帰路の文化二年十一月十七日頃一見したのであろうか、しかしこれも記述はない。     この時以外南畝が江の島に行った形跡はない。この狂歌の前後に配された狂歌は文政元年七月のものである。奉納され     る前に絵を見て詠んだものか。いずれにせよ辰斎の作画時期は未詳〉   ☆ すうげつ (高)嵩月 ◎ 〔宝暦五年(1755)~天保元年(1830)〕    ◯「書簡 135」⑲198(文化三年八月一七日付)   (この日南畝宅に月見の宴)   〝画人嵩谷門人嵩月、柳橋歌妓おしげ来三弦。詩もなく歌もなし。唯酒斗〟    〈席画も南畝の画賛もなくひたすら飲むばかりの宴だった〉   ☆ すうこく こう 高 嵩谷 〔享保十五年(1730)~文化元年(1803)〕    ◯『半日閑話 次五』⑱205(文政二年十月)  (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録)   〝東ノ方 十畳    小松に鳩 椿年筆。釘隠、ツイ朱、香合の蓋形。引手雲鶴鋳。床、月下碪 嵩谷筆。袋戸、金、探信筆〟    ◯『仮名世説』⑩529(文政八年一月刊)  “英一蝶、晩年に及び手ふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ひたるが、それしもこゝろのままに    あらざりければ、     おのづからいざよふ月のぶんまはし    これは高嵩谷の話なり。嵩谷は町絵師にて近来の上手なり。誹諧を好み発句をよくせり。海鼠の自画賛    は、望む人あればたれにてもすみやかにかきて与へし也。その発句、     天地いまだひらき尽さでなまこかな〟    〈この記事は、一蝶晩年の挿話を南畝に語った嵩谷自身に関するもの。嵩谷は俳諧を好むなど一蝶に範を求めたようだが、     前述のように初代一蝶の許に出入りすることは不可能であったから、一蝶の没後、挿話の類を集めたのではあるまいか。     嵩谷は文化元年の没、したがってこの南畝の聞書きはそれ以前のもの。一蝶の項参照〉    ◯「南畝文庫蔵書目」⑲408(年月日なし)  〝中近江屋半太夫肖像 高嵩谷粉本 文宝亭模〟    〈この遊女の肖像は嵩谷自筆ではなく、亀屋文宝が模写したもの。文宝亭とは南畝が代筆(贋筆)を半ば公然と認めた人で、     亀屋久右衛門、二代目蜀山人と称した〉   ☆ すうじゅ 嵩樹 〔生没年未詳〕    ◯『玉川砂利』⑨297(文化六年二月五日記)  〝森嵩樹が画賛 峯村漁峯翁    【夕立に馬士明俵/をかぶりて行】 いたゞくも菩薩をこめの明俵ぬれ仏にはまさる夕立  【薪おへる山人ほとヽぎすをきく】きのふまで花に薪をおろせしがけふ肩かへて山郭公 【ふじの山に紅葉あり】     蜀紅の錦にまさる紅葉々をふじの高ねにつけてこそみれ  【蜂房が遊客の画に】      あゝまゝのかはたれ時にたちいでゝ帰りはいつもおそのたはれお    【芸者のゑ】          ねがはくは身をもち菓子の一包三線箱の中にかくれん〟    〈南畝、公務の玉川巡視中、峰村にて一見。この「森嵩樹」が『原色浮世絵大百科事典』「浮世絵師人名」にいう「高嵩     樹」と同一人か未詳。狂歌は〝峯村漁翁〟の作だが、南畝の仮名であろう〉    ☆ すうしょう 嵩松 ◎ 〔享保九年(1724)~文化八年(1811)〕    (狂歌師、元木阿弥。ここでは嵩松名の記事と画業に関する記事のみあげる)    ◯『をみなへし』②14(天明一年詠)  〝嵩松子かしらおろして土器町のほとりにすめるよし  おつぶりに毛のないゆへか若やぎてかはらけ町にちかきかくれ家〟    〈飯倉土器町の元木阿弥の隠居を「土碗房」と呼ぶ〉    □「判取帳」(天明三年頃成)  〝もとのもくあみ自画賛 〈老人の絵〉  かくばかりかはるすがたや梅ぼしも花をさかせしすいのみのはて〟    〈南畝の注に〝渡嵩松住西窪神谷町号落栗庵〟とあり。因みにこの年の嵩松の年齢はちょうど還暦を迎えたくらいだ〉    ◯『檀那山人藝舎集』①465(天明四年三月刊)  〝題嵩松朱買臣画    鉈子一丁一把薪 傍開一巻更無人 知君能覆盆中水 墨画々成朱買臣〟    〈いわゆる大器晩成の喩えである〝朱買臣五十富貴〟の故事に取材した嵩松の画に南畝の狂詩〉    ◯『一簾春雨』⑩507(文政頃記か)  〝薮へ来て鳴ならへどもそのなかにいちこゑ二ふく竹の鶯  右、自画自讃 元杢網〟    〈南畝との交渉は、明和七年以来のもので、ずいぶん長い。もちろん狂歌を介してのものだが、文化八年六月二十八日の     木阿弥逝去の際も、南畝は狂歌を詠んで追悼している〉     ☆ すけのぶ にしかわ 西川 祐信 〔寛文十一年(1671)~寛延三年(1750)〕     ◯『一話一言 補遺参考編二』⑯224(安永初年以前記)  〝今の春画に女の孔門を画ざるは、西川祐信よりこのかたなりと山岡澹斎の話なり〟    〈山岡澹斎浚明は安永九年十月十五日没〉  
 ◯『俗耳鼓吹』⑩17(天明初年~八年七月二日記)    〈前項、山岡談の書留に同じ。ただ「孔門」に「シリノアナ」のルビあり、また「山岡澹斎」が「山岡明阿」となる〉    ◯「浮世絵考証」⑱442(寛政十二年五月以前記)  〝西川祐信 【号自得斎、一号文華堂/京狩野永納門人ト云】  京都〈余白〉に住す。中興浮世絵の祖といふべし。絵本数多ある中にも絵本倭比事すぐれたり〟    〈『絵本倭比事』は寛保二年(1742)の刊行〉    ◯『南畝集 十三』④235(享和二年十一月頃賦)  〝十千亭主人、二帖を寄す。一は則ち北村季吟翁の冠服図考、一は則ち西川祐信の秘戯図なり。戯れに賦    して謝と為す  北叟衣冠象 西川秘戯図 併投南畝子 東壁供遊娯〟    〈この時の秘戯画が何かは不明。十千亭主人は南畝の風雅の友で万屋助二郎という人。「北叟」は季吟の号〉   ◯「書簡 167」⑲230(文化八年四月八日)  (青山堂宛の書簡)  〝参居候丹表紙之中点検いたし、表題或は序書候分、〈書名列記、略〉 西川百人女郎〟    〈丹表紙は赤い表紙の事だが、いわゆる「赤本」ばかりでもないようだ。文面からは『百人女郎』の表題や序を書いたら     しいが、その内容は分からない。書肆・青山堂が書誌鑑定を、南畝に依頼しているらしい。南畝も気に入ったものは購     入したのだろう。『西川百人女郎』は享保八年(1723)刊行の『百人女郎品定』のことか〉    ◯「杏園稗史目録」⑲485(文化十三年明記)  (文化十三年(丙子)に南畝が取得した書籍)  〝絵本答話鑑 三巻 享保十四年 西川祐信画 其碩述〟  〝絵本常盤草 三冊 享保十五年庚戌 西川祐信〟  〝絵本喩草〟    〈『国書総目録・著者別索引』では『絵本喩草』の刊年を享保十六年(1731)とする。なお「絵本」の項に「絵本浅香山一     巻」とあり、西川祐信の絵本と思われるが、南畝に西川の記載はない。『絵本浅香山』は元文四年(1739)刊〉    ◯『奴凧』⑩480(文化十五年四月二十六日以前)   〝(小松百亀)若き時より春画をこのみて、西川祐信のかける画本、春画ともにことごとくおさめおけり〟    〈小松百亀の祐信画への心酔ぶりを示すもの。小松百亀の項参照〉   ◯「紅梅集」②335(文化15年4月下旬) 〝春の色 [欄外。西川祐信全文]  山頭春やぶれてと、もろこし人もつくれば、(中略)むかしの人をおろかにおぼゆるぞかし 夏の旦 [欄外。此分略而不題] 夏はよるとこそと清女の物づき、(中略)そなたもわすれぐさの花をさかしやんすな 秋の題 入日花やかに、秋のこずゑはもみぢせし、(中略)ほんによい男もつたをみなへしもせはなものじや 冬の品 [欄外。此文略] 神な月たがまことよりふうふの中のちわごと、(中略)是ぞ/\/\ふかきたのしみ   右節録西川氏風流長枕四季詞以為跋尾耳 蜀山人〟    〈この春画「風流御長枕」は宝永七年(1710)刊。南畝の蔵書である〉    ◯「南畝文庫蔵書目」⑲414・415・418(日付なし) (「絵本」の項、前出参照)   〝絵本常盤草 三巻 享保十五年月 西川祐信〟  〝絵本答話鑑 三巻 西川画 其碩作〟  〝絵本喩草 三巻 同上〟
(「画部」の項、これは春画の意味)  〝西川春画肉筆 一帖 粉本〟  〝風流御長枕、遊色絹フルイ 野傾文反故 一巻 西川画〟(次項参照)
(「巻軸」の項)  〝百人女郎 二巻 西川祐信板本〟    〈この「百人女郎」とは、上記のように享保八年(1723)刊行の『百人女郎品定』か〉    ◯「杏園稗史目録」⑲452・466(日付なし)  (「画本部」の項)  〝百人女郎 西川 二巻〟
 (「春画并好色本【但し読ミ本にてもさし画に/春画あるは春画の部に入】」の項)  〝風流御長枕 遊色絹ふるひ 野傾文反故【宝永七年寅三月吉日/絵師西川祐信図】右横本三部合巻 【寺    町通松原上ル町/菱屋治兵衛板】 無題号 まくら画詞書入 【男女相生の善悪/東山桜つりとる女】 右横    本画は西川と見ゆ〟  〝西川春意 十八番 箱入折本 西川祐信筆〟    〈「西川春意」は未詳〉
  〈江戸における祐信画の人気には根強いものがあったようだ。しかも絵本ばかりでなく枕絵まで注目されていた。したがっ    て鈴木春信による江戸の錦絵誕生には、その色刷り技術は別としても、小松軒を中心とする上方絵師・西川祐信受容の気    運が下地としてあったのである〉
  ☆ せきえん とりやま 鳥山 石燕 ◎ 〔正徳二年(1712)~天明元年(1781)〕    ◯『南畝集 四』③195(安永七年六月賦)(漢詩番号553) 〝雨中過石燕丈人梧柳庵 碧柳千条梧十尋 池亭更入芰荷深 自逢風雨多幽興 石舞零陵古洞陰〟    〈石燕丈人は鳥山石燕と思われる。住居を梧柳庵と呼んだらしい。折りからの風雨にいっそうゆかしさを増した石燕の庵     を、南畝は訪問したのである〉    ◯『四方のあか』①134(安永七年十月十五日)  (狂文「日ぐらしの日記」は牛込~駒込~日暮里遊山記。十月十五日は遊山当日)  〝あるまばらなる垣のやぶれより(修業者の)白き腕さしいでて布施するさま、近比石燕翁のゑがける    百鬼夜行の図に似たり。錦江おかしがりて  石燕にみせたらすぐにかきねから手ばかり出して内にまちぶせ〟    〈石燕の『百鬼夜行』は安永五年刊。後出のように、安永八年刊行の『続百鬼夜行』は南畝の序。錦江とあるのは春日部     錦江という人で、南畝の風雅の友であった〉    ◯『月露草』⑱3・4・15(安永八年八月十三~十七日明記)  (安永八年八月十三日から十七日にかけて、南畝の呼びかけで、高田馬場五夜連続月見の宴が行われた。    『月露草』は参加した諸家の詩歌連俳・狂詩狂文狂歌を集めたもの。石燕は挿画を門人の燕寿、石柳 女、石仲女等とともに担当した)   〝よもに名のたかたのばゞに見し月のひかりをのこす松のことの葉 源孟雅     (「松」の絵)石燕画〟   〝多計雄良我阿止毛比都礼天真玉如都久余乎於志美万登為須羅慈母 呉竹     (「月に萩と薄」の絵)石燕画〟   〝月弓のやまとから歌ひきつれてみなよる筈とまどゐするかな 黒人     (「弓引く武士」の絵)石燕画〟    〈源孟雅は浜辺黒人。この風流な詩歌集の挿絵を、石燕派が担当することになった経緯は未詳である〉    ◯『南畝集 五』③298(安永七年十月賦)(漢詩番号866)  〝題石燕丈人幽居  庭陰都入画 林景好山水 一望足山水 清音無尽時〟    〈庭もまた画題とするに足る風情のようだ〉    ◯『四方の留粕』①188(安永八年刊)  (南畝の狂文「続百鬼夜行序」)   〝今此続編百鬼夜行も、石燕叟が絵そらごとを見て〟     〈前出の「丈人」も「叟」も尊称〉    ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前)   (「喜多川歌麿」の項)   〝(歌麿)はじめは鳥山石燕門人にして狩野派に学ぶ〟    〈南畝はこの『浮世絵考証』に石燕の項目を設けていない。どうも浮世絵師としては見ていないのだ〉   ☆ せきし 石子 〔生没年未詳〕    ◯『月露草』⑱39(安永八年八月十三~十七日明記) (高田馬場五夜連続月見宴。石燕の項参照)   〝詩のさまも酒も李白によう似たり戻りは足もよろ月の客      (小僧、千鳥足泥酔の武士を担ぐ図)石子筆〟   ☆ せきちゅうじょ 石仲女 〔生没年未詳〕    ◯『月露草』⑱32(安永八年八月十三~十七日明記)  〈高田馬場五夜連続月見宴。石燕の項参照)   〝栄耀に餅のかはをむき絵様になしのかはをむく。これ賛のやうなもの歟     (島台の前で板前が梨の皮をむく図)石仲女画〟   ☆ せきりゅうじょ 石柳女 〔生没年未詳〕    ◯『月露草』⑱13・14(安永八年八月十三~十七日明記) (高田馬場五夜連続月見宴。石燕の項参照)   〝苅らぬ間は月からみがく木賊かな 呉竹     (月下木賊を苅る老翁の図)十二歳 石柳女画〟
  〝やくそくの月見の客の来る事は鏡にかけてしれし御事 浜辺黒人     (鏡中に遊女の後姿の図)十二歳 石柳画〟    ☆ そうかく つちやま 土山 宗角(雙角)◎ 〔生没年未詳〕    ◯『江戸花海老』①96(天明二年十一月一日刊)    〈『江戸の花海老』は、五代目市川団十郎の倅・徳蔵(五才)の海老蔵襲名を祝うとともに、狂名を花道つらねとも称す     る五代目のわざおぎぶりを祝福した南畝の狂歌集。出版は襲名披露のある顔見世興行に合わせたようだ。挿絵二葉のう     ち一つに〝宗角十三才書〟とあり。もう一葉は宗角の父で絵師の吉田蘭香か。絵師の方も役者親子同様に息子を披露し     たのであろう〉    □「判取帳」(天明三年頃成)  〈画中に〝雙角十四歳画〟。赤良の注〝吉田蘭香子土山宗角〟とあり。ただしこの宗角が父のように絵を    画き続けたかどうかは未詳。吉田蘭香の項参照〉    ☆ そうちょう たけべ 建部 巣兆 〔宝暦十年(1760) ~ 文化十一年(1814)〕    ◯『大田南畝全集』第四巻口絵(大田南畝賦・文化元年春揮毫)   (建部巣兆画への賛)   〝小扇斉揚歩不停 廻翔欲撲乱飛蛍 々火一飛秋一老 莫令女髪星星 文化改元春日 南畝大田覃     巣兆建部英親筆〟    〈この詩は同巻p308(漢詩番号2427)に「題児女撲蛍図」という題で収められている〉     ☆ そうり たわらや 俵屋宗理 二代(葛飾北斎参照)    ◯『浮世絵考証』⑱446(寛政十二年五月以前記)   〝【古俵屋宗理名ヲ続、二代目】宗理【寛政十年の頃北斎と改ム】 【三代目宗理】北斎門人    これまた狂歌摺物の画に名高し。浅草に住す。すべてすりものゝ画は錦画に似ざるを貴ぶとぞ〟    ☆ そうり たわらや 俵屋宗理 三代    ◯『浮世絵考証』⑱446(寛政十二年五月以前記)   〝【古俵屋宗理名ヲ続、二代目】宗理【寛政十年の頃北斎と改ム】【三代目宗理】北斎門人〟