Top 『続燕石十種』浮世絵文献資料館
続燕石十種 さ行☆ さだのぶ はせがわ 長谷川 貞信 ◯『京摂戯作者考』①339(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝長谷川貞信 大坂の人、安堂寺町浪華橋筋に住す、俗称奈良や徳兵衛〟☆ さだひろ うたがわ 歌川 貞広 ◯『京摂戯作者考』①339(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝歌川貞広 大坂の人、難波新地に住す、俗称、京丸や清次郎〟☆ さだます うたがわ 歌川 貞升 ◯『京摂戯作者考』①339(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝歌川貞升 大坂の人。農人橋に住す、俗称金屋和三郎、柳亭に相次ての巧手なり〟☆ さだよし うたがわ 歌川 貞芳 ◯『京摂戯作者考』①339(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝歌川貞芳 大坂の人、島の内心斎橋通に住す、俗称、肥後屋貞七郎〟☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信 二代 ◯『金杉日記』③30(山崎美成・天保九年閏四月廿六日) 〝廿六日は、両国柳ばしなる河内屋の楼にて、柳川重信の書画会あり、かねて、原徳斎のねもごろに、か のまどゐに出よかし、といはるゝものから、諺にいふ、貧しきの隙 なきといへるをりからなれど、よりどころなくて、その日のまどゐにいたれば、会集る人々のなかば計 は知る人なれば、日ごろのうさも少しははるゝこゝちにて、そのまどゐより、天野政徳ぬしの、おのれ をいざなひ給ひて、川ぞひの楼にてあそび、はては清水躬行が家に行て、酒にえひしれて、かへるさも おぼろなりし〟〈『続燕石十種』第三巻の「後記」によると、重信と原徳斎とは兄弟。重信は志賀理斎の第三子、徳斎は第四子の由〉 ☆ しげはる りゅうさい 柳斎 重春 ◯『京摂戯作者考』①336(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝柳斎 原崎陽の人。当時、大坂島の内三津寺町に住す、名は重春、浮世絵、俳優肖像をよくす、俗称山口甚次 郎、浪華に、当時浮世絵を画く人多しといへども、皆外に職業ありて、其傍内職に画るなるに、柳斎一 人は、浮世絵を以て糊口するは、全、其技衆人に勝れたるを知るべし、 追加 柳斎はもと崎陽の人也、妻子共浪華に移り来りて、画の大きに行はれしに、雞六丑の年死せり、 其女子米女も亦、其業を継ぐ、画も拙からず、今も舶来人より、おり/\其美人画をこのみて、唐山え もて行て、殊の外賞美すといふ、其等は米女浮世絵の名誉といふべし〟☆ しげまさ きたお 北尾 重政 ◯『反故籠』②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半) (「江戸絵」の項) 〝錦絵の出はじめの比、浅黄といふ物あり、藍紙、兵衛、鼠色、草の汁にて、墨板、を用ゐず。採蓮船、 邯鄲、赤壁の様なる唐図を摺たるみよし四ッ切の絵にて、北尾重政の筆多かりし〟 ◯『紙屑籠』③85(三升屋二三治著・天保十五年成立) (「かまわぬ」の項) 〝(文化年間七代目団十郎「かまわぬ」の模様染め出して流行する)〝いつたい此模様は丹前奴の模様に して、草双紙などに書たるは、菱川、西川の両筆、其の後、北尾の筆あたりまでは書しものとみゆる〟 ◯『国字小説通』①302(木村黙老著・嘉永二年序) 〝読本繍像之精粗 文化の初に至て京伝が忠義水滸伝の口絵、唐山の水滸繍像に傚ひて、北尾重政が筆を奮ひて画きしより、 殊外に評判よかりし故、馬琴作の翻釈水滸画伝のゑを葛飾北斎画がき、京伝作の善知鳥全伝をば歌川豊 国絵がきて、皆々巧妙の手を尽せしより、諸作みなまな新奇を争ひて絵がくことゝは成たり〟〈「忠義水滸伝」は『忠臣水滸伝』(前編・寛政一一年、後編・享和元年)か〉 ◯『国字小説通』①302(木村黙老著・嘉永二年序) (「草双紙画之精粗」の項) 〝安永、天明の頃に至り、鳥居清長、北尾重政等より、追々絵様細かに成り、書入も段々密になりたれ共、 其頃までは、人物の眼目、つき目とて(図あり)如斯ゑがきしに、文化の比、歌川豊国が俳優の似顔に 画がき初しより、(図あり)如斯目に画がく事に成たり〟☆ しゃらく とうしゅうさい 東洲斎 写楽 ◯『紙屑籠』③72(三升屋二三治著・天保十五年成立) (「役者似顔絵師」の項) 〝外流 東洲斎写楽【きら摺の大錦役者絵、似顔一流の絵師】〟☆ しゅんえい かつかわ 勝川 春英 ◯『式亭雑記』①85(文化八年四月廿一日) 〝(勝川春亭、春徳共に)勝川春英の門人也、【春英は大さか町に住す】〟☆ しゅんぎょうさい はやみ 速水 春暁斎 ◯『京摂戯作者考』①333(木村黙老著・成立年未詳) 〝春暁斎 京師の人、速水氏〟☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章 ◯『反故籠』②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半) (「江戸絵」の項) 〝(筆者注、春信の錦絵登場)引続て、一筆斎文調、勝川春章、似顔の役者絵を錦摺にして出す、是をき めといふ〟 ◯『画証録』①49(喜多村信節著・天保十年序) (「坊主小兵衛の肖像写真」記事) “寸錦雑綴に、俳優似がほは、勝川春章より始れり、といへるは非なり、はやく延宝の頃より、かゝる一 枚絵もありけり”☆ しゅんすいろうじゅじん 春翠楼主人 ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝春翠楼主人 京師の人、松川氏、名は米広と云、画作ともになす〟☆ しゅんちょうさい たけはら 竹原 春朝斎 ◯『異聞雑稿』②279(滝沢馬琴・天保六年頃記事) (「吉野屋為八」の項、安永九年刊『都名所図絵』の出版をめぐる記事) 〝(版元吉野屋為八、京都に関する旧版の図説を高価にて購入し、編者秋里籬島と画工春朝斎に潤沢な稿 料を与えし事)かくて三とせあまりを歴て、都名所図絵の書画、その工をはり、随て劂人も稍彫り果る に及びて、五六年の光陰を過しけり、初に為八がこの事を思ひ起して、彼古板を多く購求めしより、こ ゝに至て諸雑費金弐千両也と云、(以下、元手以上の売り上げをなせし事、息子の代に吉野屋が凋落せ し事等の記事あり、略) 【春朝斎は竹原氏也、都名所図絵の外に、この画工のゑがきしは、大和名所図絵、和泉名所図絵、拾 遺都名所図絵あり、此余は画工一人ならず、丹羽桃渓、法橋中和の筆、又諸画工の合筆多くあり、 編者はすべて籬島也】〟 ◯『京摂戯作者考』①333(木村黙老著・成立年未詳) (「戯作者」の項) 〝春朝斎 京師の人、竹原氏〟☆ しゅんてい かつかわ 勝川 春亭 ◯『式亭雑記』①84(文化八年四月一九日) 〝兼て内談ありけるが、一昨日より企て、勝川春亭子と和睦、但し、山本長兵衛殿中人也、和睦の会亭は、 通油町新道若菜屋といふ料理家、(中略)此子細は、先年、近江屋権九郎殿開板絵草紙合巻に、力競稚 敵討全部八冊ものにて、趣向は牛子魔駄六、関戸矢治郎といふものゝ強力物語、只顧嬰童の観を重とす る作意なりしが、おもはずも其年の大あたりにて、部数他の草紙に比しては当年の冠たり、尤、春亭画 図拙くして、予が心にかなはざる所は、板『戯作者小伝』をも一直して、悉く模写を添削したる故、大 あたりになりぬ、その翌とし、お竹大日【近権板七冊もの】をさかべ姫【森や板八冊もの】此二番、五 月前に著述、全部畢て春亭方へたのみ置たるを、兎の角のとてすて置、京伝作おお夏清十郎といふ十冊 もの、泉市板元、僅壱冊づゝ草稿のわたるを出精して認め、予が著述の間満尾したる方をばあとにまは したる上、お竹は二年におくれ、をさかべは泉市よりとに売出したり、此已前、春亭に詞をつがひ置た る事あり、予が作ははやく出来あれば、いち比なりとも、京伝作の前日開市にはるやうすべし、是則順 道也、もしおくれたらば、以後春亭絶交なり、といひ置しが、はたして予が方おくれて開板となりし故、 ふたゝび春亭が方へ行かず、【春亭はたて引なく、恩をもしらぬ男故也】乃之、山本長兵衛は仲人にて、 今晩和睦、何事も不言、尤、当年まで三ヶ年余絶交の間、さうし問屋両三人も和睦のあつかひありしが、 予用ゐず、三年を経て、今和睦するは無拠義理なり、山本長兵衛は、富川房信改吟雪の孫也〟〈『力競稚敵討』は文化五年刊。「お竹大日」は文化七年刊『於竹大日忠孝鏡』、「をさかべ姫」は文化六年刊『明石 物語』、「お夏清十郎」は文化六年刊『風流伽三味線』。「春亭はたて引なく」は「意気地なし」の意味か〉 ◯ 同上 ①85(同年四月廿一日) 〝勝川春亭、同春徳、両名にて、和睦の喜酒四方の滝水三升樽投与、後刻両子来臨、 春徳子は人形町通りに住居ありしが、当年閏二月、本石町三丁目へ転居、 春亭子は、如已前、馬喰町一丁目に住す、 各、勝川九徳斎春英の門人也、【春英は大さか町に住す】〟〈「当年閏二月」とは文化八年にあたる〉 ☆ しゅんとく かつかわ 勝川 春徳 ◯『式亭雑記』①85(文化八年四月廿一日)(勝川春亭の項参照) (勝川春亭と共に式亭三馬を和睦のため訪問する) 〝勝川春亭、同春徳、両名にて、和睦の喜酒四方の滝水三升樽投与、後刻両子来臨、 春徳子は人形町通りに住居ありしが、当年閏二月、本石町三丁目へ転居。 勝川九徳斎春英門人〟〈春亭と三馬の確執は春亭の項参照〉 ☆ しゅんまん くぼ 窪 俊満 ◯『壺菫』③125(黒川春村著・天保八年脱稿、同十二年追加成稿) 〝寛政のはじめの頃にや、とものむれふたつに分れて、南の方は、真顔、金埒、米人、江戸住など、ひと まとひとなりて、執事は物梁なり、北のかたは、市人、笛成、霜解、干則、一葉などひとむれにて、光 翁に随従して、執事は俊満【窪氏、号尚左堂】、長清なり〟 (俊満以外の二行割書き、略) 〝寛政七年乙卯夏、堀川二百題大会、選者、光、勧進、俊満〟 ◯ 同上 ③125 〝寛政九年丁巳正月、初て、市人一評の月次会たつ、光翁没せられて、俊満は真顔にしたがひ、長清は浅 草の執事となる。たゞし取重は竹節丸なり〟☆ しょうこうさい 松好斎 ◯『京摂戯作者考』①336(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝松好斎 大坂の人、俗称半兵衛、島の内清水町に住す、浮世絵を善くし、俳優の肖像を模するに巧也。亦戯作を もなす、楽屋名所図絵、同拾遺、役者十寸鏡等の作あり、寛政より文化の人也〟
〈「楽屋名所図絵」は『戯場楽屋図会』寛政一二年刊、「拾遺」は『楽屋図絵拾遺』享和三年刊、「十寸 鏡」は『ますかゞみ』文化三年刊〉☆ しょうらくさい 松洛斎 ◯『京摂戯作者考』①336(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝松洛斎 大坂の人、松好斎と時を同じくす、名は以悳、松寿と号す、俳優肖像をよく写したり〟☆ すうこく こう 高 嵩谷 ◯『一蝶流謫考』①345(涼仙老樵(山東京山)編・成立年未詳) (「一蝶家譜之略」) 〝一蜂門人高嵩谷〟〈『一蝶流謫考』所収「英一蝶略伝」「一蝶家譜」を所蔵〉 ☆ すけのぶ にしかわ 西川 祐信 ◯『柳亭遺稿』③179(柳亭種彦著・天保年間未定稿) (「女合羽并浴衣染」の項) 〝女の木綿合羽を著たる画は、西川祐信の絵本の類よりふるき冊子には未見出ず〟 ◯『画証録』①17(喜多村信節著・天保十年序) (「相撲人古図 丸山仁太夫 明石志賀之助 古今行事人の粧」の項) 〝(行事の挿絵)西川祐信画 享保中〟 ◯『京摂戯作者考』①335(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝西川祐信 大坂の人、宝暦・明和の頃、画作ともになす。文華堂、自得斎と号す。春色本をも数種出せり。画は最 上手也、俗称追々可考〟☆ せっさい 雪斎 ◯『浪速人傑談』②43(政田義彦著・安政元年後序) (「月岡雪鼎」の項) 〝(雪鼎)子なくして、門人雪斎を義子とす、是又師に劣らざる名手なりし、雪斎の子に、雪操、 雪洞の両子ありしが、近頃没せり〟☆ せっそう 雪操 ◯『浪速人傑談』②43(政田義彦著・安政元年後序) (「月岡雪鼎」の項) 〝(筆者注、雪鼎)子なくして、門人雪斎を義子とす、是又師に劣らざる名手なりし、雪斎の子に、雪操、 雪洞の両子ありしが、近頃没せり〟☆ せったん はせがわ 長谷川 雪旦 ◯『異聞雑考』②246(滝沢馬琴・天保五年二月二十四日記事) 〝江戸名所図絵は、その功、編者は四分にして、其の妙は画に在り、遠境の婦女子の、大江戸の地を踏む に由なきには、これにます玩物あるべからず、(中略)この画工雪旦は、予も一面識あれども、かゝる 細画はいまだ観ざりき、縦北斎に画かするとも、この右に出ることかたかるべし〟☆ せっちゅう ろさい 鷺斎 雪中 ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項。名前のみ、記述なし)☆ せってい つきおか 月岡 雪鼎 ◯『京摂戯作者考』①335(木村黙老著・成立年未詳) (「戯作者」の項) 〝月岡丹下 大坂の人、名は昌信、字は雪鼎、信天翁と号す。西川祐信と時と同じくす、塩町心斎橋に住す、浮世絵 の名筆也、翁草にも、天授の画才ありて、縦横の新奇を出し、人を悦ばしむる事、探幽等にも勝れたり と賞せり、後に法橋の官を給ふ〟 ◯『浪速人傑談』②42(政田義彦著・万延元年後序) 〝月岡雪鼎、名昌信、信天翁と号し、丹下と称す、近江の人なり、画を高田敬甫に学て、出藍の称あり、 後一家をなす、人物を能して、彩色は殊にすぐれたりと云、中年の後、浪速に移り、専ら春画を描きて 業とす、其画古今の名手なりしゆへ、画名高く、貴族の方より好に応じ是を描に、其価三十金五十金に 及びしは、一盛事と云べし、天明六年丙午十二月に卒せらる、齢七十七とぞ、子なくして、門人雪斎を 義子とす、是又師に劣らざる名手なりし、雪斎の子に、雪操、雪洞の両子ありしが、近頃没せり、桂宗 信【初名雪典】蔀関月、墨江武禅の数輩、皆月岡雪鼎氏に画を学びし人なり〟☆ せつどう 雪洞 ◯『浪速人傑談』②43(政田義彦著・安政元年後序) (「月岡雪鼎」の項) 〝(筆者注、雪鼎)子なくして、門人雪斎を義子とす、是又師に劣らざる名手なりし、雪斎の子に、雪操、 雪洞の両子ありしが、近頃没せり〟☆ そせん もり 森 狙仙 ◯『浪速人傑談』〔続燕石〕②43(政田義彦著・安政二年十月序) 〝森狙仙、霊明菴と号し、花屋八兵衛と称す、浪花の人也、寛延二年、船町に生る、幼年より画を好み、 初狩野家に従ひて学びしが、遂に妙を得て、画名世に高し、近代之写生家之名手にして、殊更、猿猴之 画に於ては古今独歩なる事、世の知る所也、或人より、天満祠へ画馬奉納に付、野猪之図を頼まれしに、 何卒其真形を写さんと、和州より小猪を買求め、庭に飼置て描かれしに、其画群に秀たる、見る人賞誉 せし、写生に意を用ひられしの篤きを見るべし、猶奇なる話一条を挙ぐ、芸州宮島の絵馬堂に、狙仙先 生自筆極妙之猿之画馬有しが、或人其前へ猿を連れ行きたりしが、其猿目を怒らし、飛かゝりし事有し、 狙仙氏の猿画の妙成事を、其頃彼地に於て、専噂せしとかや、此一条はたしかなる事にて、浮たる話に あらず、何事によらず、至極の妙処を得たる人は、かゝる奇特も有事ならん、是を以て見れば、往古巨 勢金岡が描きし馬は、夜中に出て田畑をあらし、唐之代【玄宗の時の名画】呉道元が雲竜は、雨をふら せしなど、専世上に称する所也、此理全くなしとも定めがたし、兎角、耳を尊み目を賤しむと云諺にて、 むかしの事は慕はしく、今を賤しむ、人情の常なれば、若し狙仙氏をして、千年のいにしへにあらしむ れば、かならず巨勢氏の如く賞すべし、惜しむべし、 文政四年辛巳七月廿一日卒せらる、齢七十三なり、西天満西福寺に墓有、狙仙氏、初祖仙と書れしが、 中年之後は狙仙と改められしは、狙字を猿と訓する故、猿画の仙と云意にて改められしにや、知らず、 狙仙先生之子を徹山と称す、是又近代画名高く、狙仙子の兄に周峰と云有、西山周山の門人にて、近代 の名手なりし、 因に記す、文政の初の頃、南江戸堀三丁目に、君山の門人に、月居寉山と云画工ありし、猿画をみづ から描き、祖仙の印刻を贋作して、他処に持行、狙仙先生の自筆なりと偽り、高価に売りし事有、狙 仙氏存生の時すらかくの如し、況や没後をや、是等人を迷はす姦賊にして、他之画名をけがすの甚し き者にて、悪むべきもの也、 古き書画を求むるには、能々真偽を正すべきにこそ〟〈中村真一郎著『木村蒹葭堂のサロン』p525。蒹葭堂との交遊記事あり〉