Top 『大田南畝全集』浮世絵文献資料館
『大田南畝全集』 ら行☆ らんう 蘭雨 ◎〔生没年未詳〕 ◯『四方の留粕』①203(安永八年一月四日明記)〈南畝の狂文「春の遊びの記」より。吉田蘭香宅の〝写絵の書き初め〟会に参加。吉田蘭香の項参照〉 ☆ らんこう よしだ 吉田 蘭香(東牛斎) ◎ 〔享保九(1724)~寛政十一年(1799) ◯『一話一言 巻三』⑫131(安永七年秋頃記) 〝典具帖といへる紙あり。膚はよしの紙又みす紙に似てかたく、大サ美濃紙ほどあり。画家にて古画を臨 写するに用ゆ。価一帖二銭目也といへりと画人吉田蘭香云〈以下略〉〟 ◯「識語集」⑲694(安永七年秋明記) 〈『後三年軍記』(大本三巻一冊、南畝自筆写本)の下巻末識語) 〝右後三年軍絵巻物、飛騨守惟久所図写而某侯所蔵也。安永戊戌秋過、画人吉田蘭香斎中而一見焉。展玩 不已謄写。其文以蔵篋笥。按林春斎日本書籍考、載後三年合戦草子三巻、即此物也。南畝主人〟〈後序末にある天明一年五月の識語は省略。飛騨守巨勢惟久の原画を写した某侯所蔵のものを更に蘭香が模写したようだ〉 ◯『四方の留粕』①203(安永八年一月四日)〈赤良の狂文「春の遊びの記」より。安永八年一月四日、牛込若宮の吉田蘭香宅にて〝写絵の書ぞめ〟会あり。参加者は 絵師が隣松(鰹画)・蟷車(役者似顔絵)・蘭雨(画不明)、蘭香は美人画。狂歌師が赤良の他、小松百亀・唐衣橘州 ・雁奴(大根太木)・朱楽菅江の参加。この狂文は天明狂歌運動が勃興する前夜の雰囲気を伝えているのだろう。『巴 人集』②四五一に同文あり〉 ◯『南畝集 五』③301(安永九年十一月二十六日明記) 〝至日同吉蘭香諸子宴官医安子潤一壷亭 席上清談木屑飛 一壷春酒覚寒微 何唯綵線添長日 繋得同心不遣帰〟〈安子潤は幕府医師・大膳亮好庵、一壷亭、牛峡と号した。安永七年~天明二年にかけて、詩会での交遊あり。これは冬 至の日、牛込の安子潤の宅における詩会での賦〉 ◯『江戸花海老』①89(天明二年十月明記)〈四方山人(南畝)序によると、南畝と東牛斎(蘭香)、住吉町の五代目市川団十郎を訪問し、倅徳蔵の海老蔵襲名を祝 う。①91の挿絵は蘭香の画か。宗角の項参照〉
(『画本綺麗扇』蘭香画。南畝の題言) 〝便面之画尚於真率、而真率者新奇可賞、或乏綺麗、吾郷吉田蘭香、以画鳴于東都、門人輯其所画数十扇、 刻而伝之、名曰綺麗扇、其画情新幽奇、亦自綺麗、使人流観忘倦也、蓋蘭香所法狩氏、立筆命意、自成 一家、如此譜也、蘭香之余、待清風而発耳 天明癸卯孟春 南畝大田覃題 東江 鱗 書〟〈『画本綺麗扇』は天明三年正月、須原屋茂兵衛他三都三肆相板の刊行。この題言によると、蘭香は狩野派に画法を学ん で、一家をなした町絵師であるらしい。なおこの題言の「書」を担当した「東江 鱗」は南畝の友人で、東江流の書で 一家をなした沢田東江のこと。東江はまた吉原の指南書とも言うべき『古今吉原大全』(春信画・明和七年刊)の作者 としても知られている〉 ◯『めでた百首夷歌』①71(天明三年一月刊)〈四方赤良の狂歌百首。〝蘭香画〟の挿絵一葉あり。今福屋勇助板〉 ◯『巴人集』②418(天明三年九月二〇日詠明記) 〝長月廿日、吉田蘭香のもとにてはじめて市村家橘にあひて よい風が葺屋町から来客は今宵の月をめで太夫元〟〈市村花橘は九代目市村羽左衛門。なお翌二十一日、羽左衛門は赤良宅を来訪して狂名を請う。南畝、橘大夫元家と命名 するという(『巴人集』②四一九)〉 ◯『徳和歌後万歳集 巻十一』①33(天明三年九月二〇日詠) 〝東牛斎にて布留糸道のさみせんにあはせて誌仲といへる翁、源平つはもの揃蓮生道行の段をかたりける に、橘大夫の舞れば 蓮生の道ゆきかヽりとりあへずうたふもまふもつはもの揃〟〈布留糸道は三絃の名人観流斎原富(幕臣原武太夫)の狂名、橘大夫は市村羽左衛門の狂名で。ともに赤良の命名。誌仲 は当時八十四才、「判取帖」に〝八百屋隠居〟とあり。〝蓮生の~〟の狂歌は『巴人集』②四一九に同詠あり。『巴人 集』の配列からこの狂歌は前項と同日の九月二十日の詠と思われる〉 ◯『巴人集』②420(天明三年十月頃詠) 〝大草屋しき袖すりの松見のもとにて、吉田蘭香・布留糸道・橘太夫元家など酒のみけるに、あるじの庭 ちかき一本の松の大きなる袖すり松といへるよしをききて、かの太夫はいかいのほく、肌寒さ袖すり松 にわすれけり、といふをきヽて 橘のかほりをそへて袖すりの松も太夫の昔わすれじ〟〈「大草屋敷袖すりの松見」とあるは小松百亀であろうか。蘭香という人は歌舞伎役者や音曲の方面に知人が多いらしい〉 □「判取帳」(天明三年成) 〝東牛斎蘭香 (亀の絵)〟〈南畝注〝吉田氏住牛込若宮〟〉 ◯「会計私記」⑰52(寛政十一年六月九日明記)〈南畝、年始の挨拶に蘭香宅を訪問〉 ◯『半日閑話 巻十七』⑪519(寛政十一年六月九日) 〝哭画人吉田蘭香 壮年辞仕隠林扉 盤礴余風慕解衣 法妙寺中図仏滅 大悲楼上画補威 都人野客名皆熟 酒席歌筵興已違 憶昨経営随意匠 一時千紙彩雲飛 【六月九日没、十一日葬四谷禅長寺、歳七十六、初名衛守、剃髪曰蘭香、曰東午〈ママ〉斎、晩称五木、 学画於狩野玉栄、復為栄川典信門人、所著有綺麗扇六巻】〟〈狩野玉栄に学び、栄川典信の門人でもあったようだ。法妙寺に「仏滅」の図(涅槃図のことか)を画き、浅草観音堂の 楼上画の補修もおこなったようである〉 ◯『調布日記』⑨198 (文化六年二月二十二日明記)〈南畝、玉川巡視中、石田村(現在日野市石田)の土方隼太方に蘭香の「山水」を見る〉 ◯『一話一言 巻三十」⑭155 (文化六年五月二十一日明記)〈牛込船河原より出土した古瓦の持主土屋清三郎 は故吉田蘭香の弟子なりし事。『半日閑話 巻一』⑪29に同文〉 ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯104 (文化八年五月二日) (「雲茶会」二集、雲茶店主の出品) 〝吉田蘭香謾筆鷹之絵〟☆ りふう とうせんどう 東川堂里風 〔生没年未詳〕 ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯100 (文化八年四月二日) (「雲茶会」初集、青山堂の出品) 〝美人図 大和絵師東川堂里風図也〟☆ りんしょう 隣松 ◎ 〔生没年未詳〕 ◯『四方の留粕』①203 (安永八年一月四日明記)〈南畝の狂文「春の遊びの記」より。吉田蘭香宅の〝写絵の書き初め〟会に参加。吉田蘭香の項参照〉 〝隣松が画がける松魚〈かつを〉は左慈が鱸よりあたらしく〟〈「左慈が鱸」は故事。魏の曹操が美味で名高い呉の松江の鱸を所望した時、妖術使いの左慈が水をはった銅盤から忽ち 鱸を釣って献上したという故事。文意は隣松の画く鰹は「左慈の鱸」より新鮮で生き生きしているという意味か〉 ◯『巴人集』②396 (天明三年三月下旬詠) 〝隣松子の席画を見侍りて 毛氈の花の赤らをたべ過ぎてとなりの松の前もはづかし〟 ◯『玉川余波』②148 (文化六年三月二日記) 〝下布田村の掛物に隣松がかける鰹あり 絵にかける隣の松の魚をみてたヾいたづらに舌をうごかす〟〈南畝、玉川巡視中、現在の調布市にて一見。隣松の鰹は江戸を越えて流通していたのだ〉 ◯『あやめ草』②70 (文化七年三月頃詠) 〝桜のもとに三猿あり。一ッの白猿口をとぢて両の手にて二ッの猿の耳と目をふたぎたるは、見ざるきか ざるいはざるの心なるべし。隣松の筆なり。 面白い事をも見ざるきかざるは桜を花といはざるの智慧 〟〈この隣松の三猿の画をどこで一見したものか、記述はない〉 ◯『半日閑話 巻二十』⑪596 (日付未詳)〈「空也僧鉢敲考」(「鉢叩き」の考証。考証者未詳)の項に、南畝の注記か〉 〝隣松といへる画人の画がける群蝶画英といへる草画の本二巻あり。其上巻にのする所空也僧の図あり〟 (挿絵(⑪597)あり。その中に) 〝融通念仏縁起所蔵 群蝶画英所載茶筅賣空也僧 文政辛巳八月廿一日借抄于南畝翁〟〈『群蝶画英』はそもそも英一蝶の画譜。それを隣松が模写したもの二巻があって、この「空也僧鉢敲考」の挿画は、さ らに誰かが南畝から借りて写したものらしい。なお南畝の蔵書目録に『群蝶画英』はない。『国書総目録』は安永七年 の刊行とする〉