Top 『燕石十種』浮世絵文献資料館
燕石十種 ら行☆ らいしゅう やすだ 安田 雷洲 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項)「葛飾為一系譜」 〝辰政ト云シ頃ノ門人 雷洲【青山ニ住ス、ヨミ本アリ、銅板ノ紅毛画ヲヨクス】〟☆ らいと ほくさい ときまさ 北斎 辰政 雷斗 (葛飾北斎参照) ◯『無名翁随筆』③311(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項) 〝于時寛政戊午の末年、爰に至り、一派の画風を立て、北斎辰政雷斗と改む【一説、北辰妙見ヲ信ズ、故 ニ北斎ト改シト云、(中略、葛飾北斎の項参照)雷斗の画名は重信ニユズル】〟〈「寛政戊午」は十年〉 ☆ らいと 雷斗 二代 (柳川重信参照) ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一系譜」の項)「葛飾為一系譜」 〝雷斗【柳川重信ト云、別記】〟☆ りゅうし ちくさいあん 竹斎庵 竜子 ◯『無名翁随筆』③310(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「歌川国直」の項) 〝門人に竹斎庵竜子と云しものあり、粕壁宿の産也、草双紙、役者絵など出せしことあり、文化年中也〟☆りゅうほ ひなや 雛屋 立圃 ◯『無名翁随筆』③289(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝雛屋立圃【立圃ノ伝、諸書ニ載テ人ノ知ル所ナレド、爰ニ出ス】 野々口氏、称雛屋、俗称紅屋庄右衛門、【京都人】、初名親重【明暦ノ頃ノ人、寛文中歿、七十一】 立圃は書画を能し、俳諧に名あり、風流の一奇人と云べし、画は土佐氏の門に入たり【元和、寛永、 正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文歿ス】醒世翁曰、専ら浮世絵を書たり、医師中川喜雲の作草双紙 のさしゑ、多くは立圃なり、許六が歴代滑稽伝に、雛屋立圃は画をよくす、京童と云名所記自画なり云 々、上り竹斎の画も立圃也、【類考追考】〟〈「醒世翁」は『浮世絵類考追考』の山東京伝〉 ☆ りんしょう すずき 鈴木 隣松 ◯『賤のをだ巻』①248(森山孝盛著・享和二年序) 〝其頃(筆者注、安永頃)同役心易きやから云合て、絵をかゝせて、夫を会のたねにして寄合話す事なり、 翁(森山孝盛)にも参会すべきよし云により、一日行たる事ありしに、画は其頃流行したる鈴木源五左 衛門とて、小十人の隠居にて、画名を隣松とて、殊の外世上にてもてはやせし人なりけり、其日、塩入 大三郎が二枚折の屏風を持来りてかゝせたるに、塩入元来不学なれば、虎渓の三笑と云う事は知て居た れど、わざと三笑とは云はず、僧と唐人と石橋の辺に手を拍て笑ひて立たる所を画てと望む、隣松心得 て、三笑を書たり、墨をかはかすと立置たるに、亭主の親類来りて、不苦ば絵を拝見仕度抔といふ、何 かはくるしかるべき、一席に入べしと、彼人座に着ながら彼屏風を見て、是は酢吸の三教とやらんにて も候か、といふ、去同役、されば候、是は釈迦と恵遠をさし、是は老子、孔子、と淵明、陸修静をさし て教ゆ、中川勘三郎と翁は、手に汗を握る心地して居たり、(以下略)〟〈中川勘三郎は後の御勘定奉行・中川飛騨守忠英とも考えらるが、判然としない。塩入大三郎は未詳〉 ◯ 同上 ①257 〝画家も余り世に有たるもの見ざりしが、近来に至りて、狩野栄川が法印になりて、殊の外世に鳴たり、 【是もわざ/\田沼家の隣に屋敷を拝領したる位なれば、こゝろあるものには底澄はせず、尤画もよか りけり】其弟子に隣松とて、前に記す画を書て歩行人ありて、大小家ともにもてはやしたり、画もよく 書たり〟〈大田南畝も隣松との交渉あり。拙著「大田南畝が書き留めた浮世絵師達」(『浮世絵芸術』126)および当ホームペー ジ「大田南畝全集」参照〉