Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
大田南畝の観た書画・長崎滞在編-来舶人書画大田南畝関係
             底本:『大田南畝全集』全二十巻・別巻 編集委員代表 濱田義一郎                 岩波書店 一九八五年~九〇年刊・別巻二〇〇〇年刊                ※ 以下〔南畝〕と略記。例 ①10 は第一巻の10ページを示す                 【~】は原文の二行割り書き                  書簡の宛名「大田定吉」は南畝の嫡子「島崎金次郎」は実弟      三 来舶人書画    ☆ 伊孚九【いふきゅう】(一説に 1698~1747?)享保五年(1720)来日     〈この人は元々が商人。しかし余技の画に名が高かった。中山高陽の『画譚鶏肋』(安永六・1775年刊)に「山水は    伊孚九の画は格高く蕭散の趣有り、たまたま詩を題せるも雅致有、伊は落第の士にてもありしにや」とあり、士大    夫に準じた扱いをしている(注1)〉     ①「不明」掛幅?〔文化2年2月19日〕長崎にて南畝入手(『瓊浦雑綴』⑧523)    「牙人のもて来し書画を得たり。書は道者元〔欄外。時過無言花月開 道者元〕画は伊孚九なり。     (中略)     書画一覧云、伊孚九、名海、也堂ト号ス。又辛野、匯川等ノ号アリ。清ノ呉郡ノ人。水墨ノ山水、     又行草ノ書ヲ能ス。又書画人名録、伊海、字孚九、号莘野、又号匯川、又号也堂、呉郡人、書画、     とあり」    〈牙人は仲買人。「書画人名録」は彭城百川の『元明清書画人名録』(安永六・1777年刊)(注2)「書画一覧」は     未確認。南畝が入手したのがどのような絵柄なのか不明〉     ②「千字文」巻子本〔文化2年5月19日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧580)       「千字文【一巻】乾隆丁卯秋七月望前三日書於長崎客館曠心楼 山唐伊海孚九氏〔任聖斎〕〔字九〕      伊孚九楷書、甚(ママ)乙丑仲夏十九日清晨観」    〈この千字文については、よほど執着があったとみえ、後年「買いもらしたる奇書」として、大雅堂の山水二幅な     どと共にこの千字文もあげ、「値を購ずる事ならずして、買失ひしもの胸憶の中に往来して、忘るゝ事あたはず」     と記している(注3)〉    ☆ 沈南蘋【しんなんぴん】(1682~1760)享保十六年(1731)来日      〈この人も伊孚九同様、南畝の時代には名高かかった。『画譚鶏肋』は「近時沈南蘋の花鳥画大におこなはる、か     れか画甚工み也、然れども俗にして格ひくし」とし、桑山玉洲の『絵事鄙言』(寛政十一・1799年刊)は「南蘋     ハ舶来第一ノ画品ナレドモ北宗ナリ。又民間ニ蔵スル所、多ク贋作或ハ代筆ニテ真蹟至テ得難シ」と評している。     (注4)南畝の時代、山水の伊孚九、花鳥の沈南蘋という評価は既に定着していた。ただ、両画論とも士大夫の     画く南宗画を評価の第一に置いているから、南蘋には「俗にして格ひくし」とか「第一ノ画品ナレドモ北宗ナリ」     とか、条件が付いてしまう。     南畝が沈南蘋の名を明確に意識したのは天明四~五年(1784~5)の頃。南畝は宋紫石の画譜の中に南蘋の「桜     棠花」図を見て、中国では日本の桜を「桜棠花」と表記すると書き留めていた(注5)〉     ◯「二鹿図」掛幅〔文化1年12月17日〕長崎奉行所立山役所所蔵(『瓊浦雑綴』⑧488)    「十二月十七日、立山の鎮台【肥田/豊州】大改あけも南蘋の二鹿を見る。大幅なり。沈銓写の落款     に一行程文字ありしがば(忩)(一字欠「劇」の添え書き)にて見わかず」    〈当時の長崎奉行は肥田豊後守。奉行の大改(貿易品の検分)に立ち会ったあと、立山役所で鹿の図を見たという     のだろう。南畝はなぜか引用していないが、いつも参照していた彭城百川の『元明清書画人名録』には「沈銓      シンセン 字衡斎、号南蘋、呉興人、花卉翎毛」とある。     ところで「ば(一字欠)」のところに「忩劇」添え書きがある。忩劇は非常にあわただしいという意味だが、な     ぜその言葉を添えたのかよく分からない。     長崎後では、文化八年(1811)六月、江戸護国寺の境内にある護持院什宝の中に「柳八哥鳥」竪幅を見ている。     (注6)〉    ☆ 張秋穀【ちょうしゅうこく】(生没年未詳)天明六年(1786)来日     ◯「書画」〔文化1年12月6日〕唐人屋敷新地にて一見(『瓊浦雑綴』⑧785)    「新壚地起貨【丸荷役】の日、絹地の画をみる事左のごとし     嘯谷孫桐 董舟散人沈存 張秋穀【書も又よし。鋤雲館に写すとあり】十二月六日」    〈丸荷役は輸入品の陸揚げ。鋤雲館は張秋穀の別号。長崎での宿舎をいうか。張秋穀は天明年間に来日(その頃は     秋谷)、南畝の滞在した文化元年には既に帰国していた。帰国後も盛んに日本に画を送っていたとされるから、     南畝はちょうどその舶来に当たったのだろう。蛇足ながら伊孚九・江稼圃・費晴湖、そして張秋穀の四人を称し     て「来舶の四大家」と呼ぶらしいが、南畝は費晴湖の作品は見ていないようだ。(注7)なお、嘯谷孫桐 董舟     散人沈存については未詳〉    ☆ 孟涵九【もうかんきゅう】(生没年未詳)天明~文化年間(1781~1817)来日      〈南畝は寛政年間にこの清人の書画を既に見ていた。しかし文化元年~二年(1804~05)の長崎滞在中に、南畝が     孟涵九と交際したという記事はない〉     ①「書画」〔寛政年間(1789~1800)?〕江戸にて一見(『半日閑話』巻2・⑪69)    「清人孟涵九、崎陽にて仮名を書く      うへみればおよばぬ事の(ぞ)おほかりきかさきてくらせおのが心に       右、板倉京兆尹誡于歌、古撲可誦是和歌也。故以和字書之     と書て、下に笠きたる男を書り。〔欄外。板倉周防守和歌也。京兆トヲリ名ニテ、板倉左京、右京     ト云人ノ如シ〕       戊午新秋巧巧写於崎陽旅館懐竹山房【藤田孟涵九筆】」    〈これは長崎で見たものではなく寛政年間、江戸で見たもの。この教訓歌は板倉家の家訓で、京都所司代・板倉周     防守重宗の詠という。これを、寛政戊午十年(1798)孟涵九が書した。南畝がこれをどこで見たものか分からな     い。なお、落款の「藤田」は「蓀田」か〉     ②「猿猴図」〔文化2年6月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧602)     「猿猴の蜂の巣をとるかたかきたるに      王孫碧眼覩遊蜂 無限生機一臂通 男児欲逐青雲志 得印封侯禄万寺       辛酉仲春題於崎陽旅館松石山房   藤田孟涵九」    〈辛酉は享和元年(1801)、同年二月の自画自賛である。所蔵者に関する記載はない〉      〈長崎後では、文化三年三月二十三日付、中村李囿宛に「孟涵九書二葉、唐餅一箇御投恵忝、珍玩いたし候」とあ     るから、これ以前に中村李囿が孟涵九の書を二枚送ってきたようだ。(注8)(なお中村は長崎官舎の用達。南     畝これ以降も連絡を取り合っており、文政元年(文化十五年・1818)までの書簡が残されている)       文化三年の正月、南畝は、前年の正月、長崎の唐館で見た「福録寿」と同じ字形のものを板刻して周囲に配った。     唐館では正月を迎えると、紅紙に「福録寿」の三字をまるく書いた札を部屋ごとに貼るのが習わし。南畝はその     字形がいたく気に入ったようで、帰省後、早速趣向取りしたのである。が、南畝の凝り性というか好奇心はそこ     で終わらなかった。さらに進んで、配布する包み紙の表題をどうするかにまで及んだ。そこで、試しに長崎の清     人に問いあわせてみることにした。すると、四人の清人が要請に応えて三様の表題を送ってきた。     「三星倶在 銭雲亭銘」「福禄寿 孟涵九藩用祉」「唐館賀春禧単 劉培元」     南畝の結論はこうだった。     「今清客四人の銘する所を見るに、銭雲亭は工なり、孟藩は拙し、吾は劉培元に従はん」(注9)     劉培元の表題が気に入ったようだ。実際に「唐館賀春禧単」と題した包み紙が作られたかどうかは分からない。     これが文化三年の八月の記事。したがって孟涵九は、文化三年も長崎に滞在していたことは確かである。なお銭     雲亭、藩用祉は唐船の財副(筆記勘定役)、劉培元は「詩をよく作り候由」(注10)とある人〉    ☆ 江稼圃【こうかほ】歿不祥) 文化元年~二年(1804~1805)来日中     〈江稼圃は文化元年十一月二十二日、唐船の財副(筆記勘定役)として長崎に来航した。(注11)十二月十六日付で    は「当年入津唐人(中略)此中に九番船江泰交と申もの、書画宜候由に付絹地遣し置候」絹地を用意してまで    期待していた。(注12)その十日後、南畝はこの画人のことをこう記している。    「落第之書生にて書画を善く致し候。闇(ママ)絹地頼置申候。大力にて文武共にすぐれ候へ共賄賂なくしては及第出     来不申由。画の文鎮に大きなる斧の頭をいたし候は武を忘れざる志の由。夫故商売の事にはうとく御座候。和漢     共に可嘆々々」(注12)    いささか同情の念を抱いたようだ。(注13)そして、翌二年二月二日、唐館の劇場で福州人の芝居が行われたとき、    南畝と江泰交(稼圃)は同席していたが、そのときの印象を南畝は「大きなる漢也。髭もうるはしくみゆる」    している。(注14)また、人となりだけでなく絵にも関心があったらしく、二月二十五日付、嫡子定吉宛の書簡に    は「洪(ママ)泰交も画を書かせ山水画帖に入れ申候。時々展翫いたし候」るから、山水画を入手して折に触れて    眺めていたようだ。(注15)〉       ①「蘭図・山水図」〔文化2年2月15日〕作画依頼(「書簡番号104」大田定吉宛・ ⑲149)    「江泰交 号稼圃 落第書生之由。書画妙也。絹地に蘭を頼申候。山水も頼置候」    〈南畝、作画の依頼である。②と⑤がその出来上がりか。「落第書生」とは自ら言ったものか、周囲の評か分から     ないが、ついでにいうと、南畝が「落第書生」と記した来舶清人は、この江稼圃と後述する胡兆新の二人。科挙     を念頭においての言葉に違いないが、上記のように伊孚九を「落第の士」とした中山高陽といい、南畝といい、     このころの日本の風流人士の目には、書画に見るべきものを持った来舶清人はことごとく「落第書生」と見えた     のかも知れない〉        ②「山水図(胡兆新・南畝賛)」〔文化2年3月13日〕長崎にて一見    (『瓊浦雑綴』⑧540、『南畝集15』漢詩番号2651・④375)    「胡振兆新 江大来稼圃の画く山水に題す      千尋太華峰如掌 万里長江花化虹 宇内山川奇絶処 被君教巻向胸中     予(南畝)亦、清人の山水の画に題す      十日江山五日功 揮毫謾借片時雄 可憐辮髪通商客 猶有前明学士風」    〈江稼圃の「山水図」に、折から来日中の胡兆新と南畝が賛を寄せた。しかし実際に画中に揮毫したかどうかは分     からない。弁髪をした通商の客でありながら「猶ほ前(ゼン)明(ミン)学士の風有り」ともあるから、南畝は江稼圃     のどこかに明の士大夫然としたものを感じたようである〉       ③「梅と蟹図」〔文化2年3月〕長崎にて一見(『南畝莠言』⑩394、『一話一言』巻28・⑭54)    「清の江泰交【名大来】が画し梅と蟹の画に、花甲重ねて逢ふ乙丑の春 元人の筆に長崎山に法(ノツ     ト)ると書しは(南畝『西遊記』から「花甲重逢」の意味を勘考して)今のいはゆる本卦がへり也。     (以下略)」    〈本卦還りは還暦。江稼圃は当時六十一歳ということになる〉     ④「菊図(南畝賛)」〔文化2年3月?〕長崎にて一見(『杏園集』⑥228)    「清人江泰来稼圃の墨菊     幽崖霊菊 稼圃彩毫 冷香佳色 豈没蓬蒿」    〈これも実際に画中に揮毫したものか不明〉     ⑤「蘭図(張秋琴の詩賛)」〔文化2年5月5日〕南畝入手       △『瓊浦雑綴』⑧577     「乙丑五月五日、張秋琴題詩扇、訳司彭城仁左衛門携来、扇面に江稼圃の画蘭有り」     〈江稼圃の蘭図(扇面)に配された張秋琴の詩は、下出『南畝集15』にあるように、南畝と嫡子の俶(定吉)      が唱和した詩を和したもので、五言律詩五首〉    「勝日試春衣 東風旅思清 韶光三月暮 脩禊一時并 鶯囀崎山樹 花明瓊浦城      平生無事迫 辛苦為詩情     天涯逢上巳 底是怨凄清 人訝傷春痩 花愁倩酒并 流鶯啼別樹 疎雨逗荒城     誰念幽棲者 空斎寂莫情     三月正三日 風柔景物清 酒徒随処得 吟侶最難并 時序催青◎ 鶯花憶錦城     天涯羈旅客 憾慨若為情     楽遊疎雨過 麗日午風清 春酔花魂痩 人間蝶夢并 羽觴随曲水 裠屐集傾城     欲継蘭亭詠 沈吟空◎情       右、三月三日旅館述懐と題す四首、太(ママ)田先生賢喬梓の原韵を和し奉り、并せて斧政を祈る     何処消煩鬱 狂歌酒後清 夢随荘蝶化 愁逐楚雲并 倦鳥猶依樹 飛花況満城     天涯春欲暮 撫景倍傷情       上巳日、感懐五、韻を重ねて奉呈す      南畝先生教政            葬花庵主張秋琴草」      △『南畝集15』漢詩番号2669・④381    「乙丑午日、訳司劉生携ふる処の扇の頭に、清客萍寄主人張秋琴の「三月三日、旅館に懐ひを述ぶ」     と題し、余と児俶と唱和せる原韻を和せる五首を観る。畳和して以て萍寄主人に寄す      (南畝の五首、省略)」      △『杏園集』⑥232    「清人江大来稼の画蘭      紛々賈胡 集我崎陽 維書及画 孰縦其狂 有一稼圃 勝百葦航 蘭室雖摧 其国余香」    〈張秋琴と江稼圃(泰交)との関係は、唐船の船頭(船主)とその財副(筆記勘定役)。三月三日、張秋琴は、南     畝父子が唱和した韻を用いて四首を賦し、さらに五月五日、それに一首を加えた。そしてその五首を江稼圃の蘭     画の扇面に配して南畝に贈ったのである。それにしても詩の斧政(添削)を請うといい、南畝父子を「賢喬梓」     と尊称するなど、張秋琴の南畝に対する姿勢は、南畝が幕府の役人ということもあろうが、実に丁重である。な     お「賢喬梓」の喬梓の意味について、南畝は早速『尚書大伝』を引いて、橋梓が父子の喩えであることを記して     いる。(注16)扇面を携来した彭城仁左衛門は唐通事(劉徳基、字君美)。南畝が長崎滞在中もっとも交遊のあ     った通事のひとりである〉      ⑥「杜甫 五言律詩」衝立〔文化2年6月6日〕悟真寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧601)    「悟真寺の坐敷に衝立あり。清客江稼圃、杜詩の五律を書き、      落日平台上 青風啜茗時 石欄斜点筆 桐葉坐題詩 翡翠鳴衣桁 蜻蛉立釣◎       自今幽興極 来往那朋凧       嘉慶十年二月望前     中華稼圃書於悟真禅院と書けり。酔後の筆と見ゆ」    〈嘉慶十年(文化二年・1805)二月望前(十四日)の書。杜甫の詩は「重ねて何氏に過る 五首」の三首目。「青     風」は「春風」「釣◎」は「釣糸」「幽興極」は「幽興熟」「那朋凧」は「亦無期」がが正しい。こう誤字が多     ければ、なるほど「酔後の筆」らしく思われる。ついでにいうと、江泰交の弟、江芸閣とも南畝は交流があった。     直接会ったことはないが、文化十三年、江戸長崎間で詩の応酬をしている(注17)〉     ⑦「山水図」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章      嶺桂開花秋露冷 冷露秋花開桂嶺 琴譜共長吟 味(ママ)長共譜琴      誦声同送銭 銭道(ママ)同声誦 題詠任湖西 西湖任題(落字ナルベシ)       〔欄外。江稼圃不文、於此詞可見矣〕       又菩薩蛮廻文以(似)       聖福寺主方丈文以(似)        此下ニ山水ノ図アリ      雪嶺源流法師伝 飽(一字欠)縕乗隶(秉)直堅 崎山坐処花頻雨 宿契梅橋一笑緑(縁カ)     俚句共呈竜門大和尚蓮座祈棒喝   張秋琴拝草」    〈文化元年十月、竜門和尚が聖福寺の住職に就任したときの祝賀詩。張秋琴の詩に江稼圃の山水図。これを南畝は     翌二年九月二十三日書写した。欄外注は江稼圃を「不文」と指弾する。僧侶の祝賀にもかかわらず、艶めかしい     恋の歌をテーマとする詞「菩薩蛮」を配した江稼圃の不見識をいうのであろうか。南畝の書簡に「洪(ママ)泰交近     作をも乞候処久々作り不申候由」(注15)とあるから、江稼圃が長崎で詩を作ることはなかったようだ。この日     南畝が詩を書き取ったのは他に、胡兆新・程赤城・張秋琴・程雪香・劉景筠・銭守和・沈椿・夏雨村・許錫綸・     王雪巣という面々。医者に船頭(船主)に財副(筆記勘定役)すべて当時長崎に滞在していた清人のものである〉    ☆ 程赤城【ていせきじょう】(1735~180?歿)文化元年~二年(1804~1805)来日中       〈文化元年十月二十三日、南畝は程赤城の古稀を祝して二首の七言絶句を贈った。その中に「矍鑠中原一丈夫」と     いう句があるから、七十にしてなお壮健だったのだろう。(注18)それで、その長寿にあやかりたいとして、孫     鎌太郎のために「鎌」の字を書いて欲しいと頼んでいる。また、赤城の方からは「杏花園」(南畝の号)の額字     が贈られてきて、南畝は長崎の書斎に早速懸けておいたとある。(注19)     程赤城は唐船の船主ながら、日本語も達者で、いささか書にも長じていたため、揮毫を請うものも多かった。長     崎の帰路、山陽道矢掛の宿舎に彼の額を見ているから、程赤城の書は広範囲に流出していたのかもしれない。     (注20)だが、その学識についての評価はいささか手厳しい。天明八年(1788)、長崎で彼と会った司馬江漢は     「少し書を能くす。然共、無学人にて、皆商人の手代なり」と断じている。(注21)南畝に至っては「文盲故、     私文章下書を書やり候て書せ申候。夫も句を切らぬとよみ候事出来不申候。大笑々々」と酷評している(注22)〉     ①「書」扇面〔文化1年10月1日〕南畝入手(「書簡番号66」小川文庵宛・⑲97)    「御庇蔭を以胡氏書并程氏拙作不二山詩認候事、伝家之珍不可過之候。千万謝々(以下略)」    〈胡氏は胡兆新で、当時長崎に滞在中。この手紙の宛先人・小川文庵をはじめ江戸から派遣された官医三人の質問     に応対していた。程氏が程赤城。かねて小川文庵を通じて依頼しておいた胡兆新の書と、程赤城の書(南畝の不     二山の詩を認めたもの)を、この日入手した、書簡はそのお礼である。その不二山詩とは「唐人共にも日本南畝     先生不二詩など、扇面に認メくれ申候」とあるから、扇面に認めたものだが、詩句の方は不明。(注22)小川文     庵は長崎赴任が南畝と一緒、途中から病気になった南畝の治療にあたった医者。江戸に帰還後、文化二年には表     御番医師に就任している(注23)〉     ②「額字」扁額〔文化2年3月12日〕長崎清水寺(『瓊浦雑綴』⑧538)    「(長崎山清水寺興成院)奥の院 本堂のうしろ石欄廿余段、但坂の上に棟間四方梁間二間西向建      曠観 呉趨程赤城」     ③「書(『天禄職余』より)」扇面〔文化2年3月18日〕南畝入手(『瓊浦雑綴』⑧552)    「宗淵春遊山谷 見奇花異草 則繋於帯上 帰而図其形状 名眼芳図百花帯 人多效之     三月十八日の朝、包頭庫【俵物役所】にて、俵物の掛渡しを監せし時、程赤城に扇面の書をこはし     むるに、右の語を書贈れり。其夜灯下にて説鈴を見しに、銭塘高士奇澹人の天禄識余を載す。その     中に此語あり。奇とすべし」    〈高士奇は清の学者で澹人は字。『説鈴』をみて語句の出典を突き止めた南畝の好奇心は旺盛である。それにして     も、程赤城はなぜ『天禄識余』のこの行を引いたのであろうか〉     ④「七言絶句二首」〔文化2年9月23日〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章      竜樹伝衆道有承 門開甘露称宜(落字アリ) 当途亦会尊禅意 位置原推最上乗      慧カ楽簡(曾カ)経重海東 長松細草蔭雪中 晤時恍入三摩地 象数当前色不空       右七言絶句二首恭賀竜門大和尚隆(陛)坐之喜      日本文化元年環翠楼   法弟呉趨程赤城〔赤城一字胡瑒〕」     〈文化元年十月、竜門和尚が聖福寺の住職に就いたとき寄せた詩。これを南畝は翌二年九月二十三日書写した。上     記江稼圃の⑦参照〉     ⑤「額字」額〔文化2年10月25日〕山陽道・矢掛宿(『小春紀行』⑨53)    「矢掛の宿のあるじ山名啓右衛門、書画をこのみて風雅のおのこなり。(中略)     蘋薌 額は呉趨の程赤城書なり」      〈長崎後では、文化六年三月、多摩川巡視のおり、宇奈根村で屛風上に七絶を見て書き留めている。「雨余花滴満     紅橋 柳絮沾泥夜不消 暁桐忽無還忽有 春山如近復如遥 呉趨程赤城」とあった。これに南畝は「此比のけし     きに似て面白き詩」とコメントしているが、この詩句は程赤城のものではなく、宋の葛長庚の七絶であった(注24)     また、文化十四年(1817)三月、江戸吉原の名主のもとで「冷雨幽亭不可聴 桃灯閑看牡丹亭 人間亦有痴於我      豈疑傷心是小青 程赤城」の書を見るが、これまた詩句は借り物で、実は明代の才女、馮小青の七絶であった。     (注25)〉     ☆ 胡兆新【こちょうしん】(生没年未詳)享和三年~文化二年(1803~1805)来日中      〈「頃年(チカゴロ)、胡兆新、名は振なる者有り。業を何鉄山に受け、賈舶に附載して、崎館に寓す。毎月六次、崇福・    聖福の二寺の間に出遊して、薬を乞ふ者有らば、創意して方を授け、往々効有りと云ふ」と、月六回の民間診療に    あたる一方、「東都の医官、小川文庵、吉田長達、千賀道栄の三君、官に告暇(コクカ)を請ひ、将に其の道を問うて、    以て吾が技を試みんとす」と、幕府から派遣された三医師の質問に応対していた。(注26)なお、彼らは同年十二    月には帰路に就く。わずか三ヶ月ほどの長崎滞在であった〉      ①「七言絶句」扇面〔文化1年9月17日〕村上清太郎所蔵(『百舌の草茎』⑧432)    「我学空門並学仙 朝看紅日暮蒼煙 蓬莱一別方平老 不及王喬正少年     【癸亥冬日為】如登先生正   胡兆新     右の詩扇、会(ママ)役人【吟味役】村上氏【清太郎】よりかり得て写す。書も亦婉美にして尋常の賈     舶のものゝ書に異なり。詩意を味ふに不満の気甚し。想ふに落第の書生、医に逃れたるなるべし」    〈癸亥は享和三年。如登は村上清太郎。この扇面は村上氏の所蔵。昨年の冬、胡兆新に揮毫して貰ったものと見え     る。南畝の長崎到着は九月十日、しかも病気療養中であったから、まだ胡兆新とは面会していない。詩から人と     なりを「落第の書生医に逃れたるなるべし」と推測している。それでも書は「婉美」だとして推賞している〉     ②「墓碑」〔文化1年12月1日〕大坂、仏照寺(『瓊浦雑綴』⑧484)    「(長崎奉行・成瀨因幡守の先祖弌斎君)の墓大阪の仏照寺にあり。今年【甲子】林祭酒【信衡】に     文をこひ、清国の医胡新兆新にかゝしめて、仏照寺にたてらるゝといふ」    〈この時の林大学頭は林述斎。南畝は胡兆新の書を実見したわけではないが、参考までに取り上げた〉     ③「詩」〔文化1年12月16日〕(「書簡番号92」大田定吉宛・⑲128)    「医胡兆新書も宜候間是亦絹地遣し置候。何にても亦々御好の詩歟文字等候ば書せ遣し可申候。李白     題詩、水西寺の詩も頼み置候」    〈「李白題詩、水西寺の詩」とは杜牧の「念昔遊 三首 其三」の起句「李白題詩水西寺」をいうのだろうか。こ     の揮毫が実現したかどうか確認はできてない〉     ④「五言律詩二首」〔文化2年2月15日〕    (『瓊浦雑綴』⑧522、「書簡番号105」島崎金次郎宛・⑲149)    「唐医胡兆新当春帰国、光紬三枚計り遣し詩を書せ申候。書はことの外見事也。紛々商賈の輩にあら     す。左に記す。       甲子初秋於崎陽旅館、雨後聞蝉有感之作      一雨生涼思 羈人感歳華 蝉声初到樹 客夢不離家 海北人情異 江南一路賒       故園鬼女在 夜夜卜燈火   蘇門胡兆新      人説洋中好 我亦試軽游 掛帆初意穏 風急繁心憂 漸漸離山遠 滔々逐浪流      不堪回憶想 郷思満腔愁          在乍揚帆離山試筆為南畝先生雅正 蘇門胡兆新」    〈南畝の胡兆新の書に対する評価は高い〉        ⑤「七言絶句」〔文化2年3月13日〕長崎にて一見    (『瓊浦雑綴』⑧540、『南畝集15』漢詩番号2651・④375)    「胡振兆新 江大来稼圃の画く山水に題す      千尋太華峰如掌 万里長江花化虹 宇内山川奇絶処 被君教巻向胸中     予(南畝)亦、清人の山水の画に題す      十日江山五日功 揮毫謾借片時雄 可憐辮髪通商客 猶有前明学士風」    〈江稼圃の「山水図」に、折から来日中の胡兆新と南畝が賛を寄せた。しかし、実際に画中に揮毫したかどうかは     分からない〉     ⑥「七言絶句」〔文化2年3月21日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧555)    「胡兆新、常禎画山水図に題する詩      遠渚高山欲挑天 微風細雨一邨烟 何時結個漁樵侶 好向滄江自在賦」    〈胡兆新は享和三年の来日。長崎滞在中に常禎なる人の山水図に詩を寄せたようであるが、常禎は未詳〉     ⑦「画賛」〔文化2年4月1日〕長崎にて一見(『南畝莠言』⑩394)    「長崎にて竹の画の賛を清の胡兆新【名振】が書しをみしに、       乙丑春抄四月朔日      凌霜尽節無人見 終日虚心待鳳来         蘇門 胡兆新書     乙丑は文化二年なり。此とし四月朔日まで立夏の節にはあらざるゆゑに春抄と書しなるべし。面白     き書やうなり」    〈『南畝莠言』は文化十四年(1817)刊。「杪春」は春の末三月の異称。文化二年の立夏は四月十日。「面白き書     やう」とは「杪」とあるべきところが「抄」とあったからか〉     ⑧「五言古詩」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章      聖福古叢林 巍々聳百尋 我自到崎陽 一載頻登臨       未訪赤松子 先探白雲岑 寺中老比丘 超凡入慧心       道高千倡捷 水満一投針 説法天花散 行吟仏語源(深)      久宜尊上坐 瞻礼遐迷欽 小詩不足賀 鄙俚汚梵音     時在甲子小春書奉龍門大和尚隆(陛カ)坐之喜即請法鑒  蘇門胡兆新拝稿」    〈龍門和尚が聖福寺の住職に就いたのは文化元年十月。江稼圃の⑦参照〉     〈直接書画とは関係ないが、南畝と胡兆新とのエピソードを二つ。    一つは「漂客奇賞図」なるものに関するもの。    文化元年十月二十三日、南畝は唐館に胡兆新を尋ねたが、不在であった。その時の心境を、次のような題詞を添え    て七言絶句を作った。      「冬日、唐館に過るに胡兆新国手を見ず。悵然として賦して小川文庵に示す。胡国手の漂客奇賞図に     題せる韻を次ぐ      忘機心与侶鷗同 宦海悠々任化工 客館思人々不見 恍疑簾月隔玲瓏 【胡号侶鷗】」(注27)      侶鷗は胡兆新の号。南畝は国手(名医)と呼び敬意を表している。南畝の詩は、その胡兆新の「漂客奇賞図」の詩    韻を使って作ったというのだが、その「漂客奇賞図」とはいかなるものであろうか。谷文晁に同名の絵があるが、    関係があるのだろうか。よく分からないが参考までに取り上げた。ところでこの挿話には続きがあって、翌日、南    畝は小川文庵宛に次のような書簡を送っている        「昨夕胡氏へ遣候詩之結句改作仕候間、是と御引かへ被下度奉頼申候。     元微之妾商玲瓏の事を用候へども、胡氏は船主と違ひ愛妓有之まじく失礼故改作いたし候」(注19)        結句「恍疑簾月隔玲瓏」は、唐の元微之(元稹)や白居易が愛でたという名妓・商玲瓏を踏まえて作ったのだが、    唐船の船主ならまだしも、国手たる胡兆新には失礼であるから、改作するというのである。ただどう改作したのか    は定かでない。          二つ目は、医業に関する挿話。    南畝は文化元年七月二十五日、長崎へ向けて江戸を発ったが、その直前の七月十九日、嫡子定吉の嫁・お冬に女児    が生まれた。ところが母乳が出ない。長崎に着いた南畝は、これを心配して、二人の医者に相談した。ひとりは、    官医の小川文庵。南畝は赴任の途中から大病に陥ったが、たまたまこの人が同道していて、難儀する南畝の治療に    あたってくれた。南畝にとっては命の恩人とでもいうべき人である。もうひとりが唐医の胡兆新。    文庵の処方は「よく鯉をたべ候がよく候由、一切塩からも(ママ)れのたべ候事あしく候。とかくうまくなき淡泊のも    のたべ候が宜候由」医の小川文庵のは食事療法であった。    一方、胡兆新は「七星猪蹄」う薬を処方した。なんと言っても胡兆新は、三人の官医者のいわば    指南役である。南畝はこれを躊躇なく受け入れた。早速その薬を入手して江戸に送った。(注28)このとき、この    経緯を見ていた役所の中の誰かが、自身の病気も胡兆新にみて貰ってはどうかと、南畝に勧めた。しかし、南畝は    「源平盛衰記小松内府の例を引き」これを拒絶した。曰く「婦人は格別、官吏之身として異国之薬可服事には有之    まじく相断申候」その昔、平重盛が重病に陥ったとき、当時来日中の宋の名医の治療を断ったという例を引い    て、官吏の身の上で異国の治療を受けるわけにはいかないというのである。(注29)なお胡兆新の処方であるが、    文化二年三月の南畝の書簡には「乳母も居馴み候由御同慶に候。小児共嘸々成人いたし候事と遥想致候」るか    ら、効き目はなかったようである(注30)        南畝が長崎以降、胡兆新の余波とでもいうべきものに出合ったのが、文化六年の正月二日。多摩川を巡視中、府中    の小野宮というところで、「清胡兆新製精神湯といへる招牌ある家あり【欄外。此薬野火留にてうる也。此家は取    次所也】」というメモを残している。(注31)民間レベルでは彼の影響が関東にまで及んでいたのである〉    ☆ 銭位吉【せんいきつ】(生没年未詳)文化元年~二年(1804~1805)来日中      〈銭位吉、称銭徳、字ホウ(◎「𢦏+方」)堂、号オウ(◎「凵+了」)山。(注32)文化元年、唐船の財副(筆記勘定役)の     ひとりとして来舶。南畝の長崎滞在中(文化元~二年)、来舶中の清人でもっとも親しく交遊したのは、医者胡     兆新と船頭(船主)張秋琴とこの銭位吉。南畝、文政三年(1820)刊の詩集『杏園詩集』の序と跋には、文化二     年八月、帰航直前であった張秋琴と銭位吉に依頼してなったものを使っている〉     ①「画賛(五言絶句二首)」〔文化二年七月〕長崎にて一見(『南畝集15』漢詩番号2706~7・④392)    「清人銭徳位吉が谷文晁の二画に題する韻を和す      安座罷牛背 飄風何律々 村笛雑樵歌 如従金石出       右牧童      半日芦中客 長江雨後天 得魚還買酒 帰去楽天然       右漁夫」    〈これは南畝の詩。文晁の牧童図と漁夫図に寄せた銭位吉の詩は分からないが、「韻を和す」とあるから、韻字は     牧童が「律・出」、漁夫が「天・然」である。銭位吉が実際に画中に揮毫したかどうか定かではないが、参考ま     でにとりあげた〉     ②「詩」〔文化二年閏八月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧626)    「鎮台【肥田豊州】の託にて清人に詩を作らしむる時      (中略)      賦得蒹葭白鷺楼     極目秋江浦    迷離白鷺遐 溯洄依水沚 栖宿傍蒹葭 浅俗波紋縐 低皈(◎「目+厄」カ)夕照斜     数群鷗題(影カ)乱 幾点萩花遮 爽籟纔看発 清光正可嘉 伊人如宛在 企望渉洋(津)涯         鉄(銭)(「凵+了」)山拝筆」    〈このとき長崎奉行・肥田豊後守頼常が詩を所望したのは、他に船頭(船主)劉景筠。銭位吉はその財副(筆記勘     定役)。白鷺楼は未詳〉     ③「七言絶句」扇面〔文化二年閏八月八日〕南畝入手(『瓊浦又綴』⑧627)    「閏八月八日、新地にて、巳七番船の貨物出庫(ニワタシ)の日、清人銭(「凵+了」)山【徳、字位吉】にあ     ふ。訳司頴川仁十郎をもて扇頭の詩を示し、和をこふ       瓊浦秋望   杏花園       天門山断海門開 岸上人烟擁鎮台 処々白雲飛不止 秋風一片布帆来       勉搆窘思、歩和芳韵、寓思郷之意、敬乞斧正   (「凵+了」)山佚民銭位吉      霽色晴霞四面開 白雲片々向蘇台 早知華髪門前望 夜々征帆入夢来       畳和(「凵+了」)山   杏花園      九曲湾頭海色開 白雲飛繞望郷台 吾人又是江東客 共向秋風帰去来」    〈閏八月二十五日、銭位吉が蘇州に向けて帰帆。南畝も陶淵明よろしく「帰去来」と、今にも旅立たんばかりであ     ったが、これがなかなかスムーズにいかなかった。        「又々交代一月斗も延候やうなる噂有之候。(中略)     交代名前しれ候よりかへり風たち候て、何もかも手につき不申、日夜東望、あつたら月日を早くた     ち候やうに覚申候。もはや一年詰之旅にはこり/\いたし申候。是より鶯谷の逸民となりて夕の日     に子孫を愛し、絃歌の声に心をやり一酔いたし度、此外に何も願もへちまも入不申候」(注33)         〈この書簡は、銭位吉が発つ一月前、八月二十四日付のものである。帰心矢の如し。江戸の家族のもとへ、そして     酒と芸者がまつ巷へと、思いはすでに飛んでいる。しかしそこをじらすかのように一ヶ月の勤務延長。幕府とロ     シア使節レザノフが会談するなど、国家の一大事と重なった時期であったから、その後始末などで手間取ったの     か、結局、長崎を発ったのは十月十日のことであった。前年の九月十日の着任以来、ちょうど一年と一ヶ月の滞     在であった〉         〈以上「来舶人書画」終了 2013/01/28 次回は「日本書画」〉     ◇「来舶人書画」補遺    ☆ 張秋琴【ちょうしゅうきん】     ◯「五言律詩」扇面〔文化2年5月5日〕長崎にて入手(『瓊浦雑綴』⑧577)    「船主張秋琴詩      勝日試春衣 東風旅思清 韶光三月暮 脩禊一時并   鶯囀崎山樹 花明瓊浦城       平生無事迫 辛苦為詩情      天涯逢上巳 底是怨凄清 人訝傷春痩 花愁倩酒并   流鶯啼別樹 疎雨逗荒城      誰念幽棲者 空斎寂寞情      三月正三日 風柔景物清 酒徒随処得 吟侶最雅(難)并 時序催青◎ 鶯花憶錦城      天涯覊旅客 憾慨若為情      楽遊疎雨過 麗日午風清 春酔花魂痩 人間蝶夢并   羽觴随曲水 裠屐集傾城      欲継蘭亭詠 沈吟空(一字欠)情       右三月三日、旅館述懐と題して四首、太(ママ)田先生賢喬梓の原韵を和し奉り并びに斧政を祈る            萍寄張秋琴草      何処消煩鬱 狂歌酒後清 夢随荘蝶化 愁逐楚雲并 倦鳥猶依樹 飛花況満城      天涯春欲暮 撫景倍傷情       上巳日、感懐五、韻を畳ね奉呈す      南畝先生教政   葬花菴主張秋草     右乙丑五月五日、張秋琴詩扇、訳司彭城仁左衛門携来、扇面に江稼圃の画く蘭有り」     南畝と俶の父子が唱和したとき韻を、三月三日、唐船船主の張秋琴がさらに用いて四首作詩、それに一首加えて、     五月五日、秋琴は江稼圃の蘭画の扇面にその五首を配して南畝に贈ったのである。それにしても詩の斧政(添削)     を請うといい、南畝に対する張秋琴の姿勢は実に丁重である。なお「賢喬梓」の喬梓の意味について、南畝は早     速『尚書大伝』を引いて、橋梓が父子の喩えであることを記している。     ◯「五言律詩」〔文化2年5月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧597)    「応奥州仙台侯臣大槻民治嘱 恭賦一律 敬賀国母藤太夫六十大寿      国母逢初慶    青鸞正挙觴       巌深松柏翠 海潤水天長      宝務靄極(落字アリ) 霊獲(蘐カ)北堂(落字アリ) 雲璈当綺席 巍々頌(カ)無疆       嘉慶十年五月     張秋琴手(草カ)」     仙台藩主の生母の還暦祝いに、家臣の大槻民治という人が詩の作成を依頼したようだ。他に隠元烈、阿蘭陀人はぶ     すと、南畝も藤原覃の名前でうたを詠んでいる     ◯「五言律詩」〔文化2年6月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧600)    「線(緑)樹陰濃密 桑麻雨後新 不逢垂釣客 偶訪灌園人 犬吠茅籬静 鴉翻竹逕頻     呼童間放犢 留客待烹鱗 庭菓之(乏)堪摘 村厨牧(ママ)笑貧 欲諧(偕カ)栖隠意 卜築近西隣      右、次訳者劉君夏日過飲田家原韵   萍寄主人張秋琴草     地僻柴桑古 村墟夏(カ)景新 微風沈乳燕 細雨帯耕人 麦秀欣時熟 酒香楽事煩(頻)     蔬荒鉏野笋 羮愛網渓鱗   志潔原非傲 安間却趁貧 蕭然塵境外 松竹自為鄰       再次訳者劉君夏日過飲家       萍寄主人張秋琴草」     劉君とは唐通事彭城仁左衛門か      ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      雪嶺源流法師伝 飽(一字欠)蘊乗隶(秉)直堅 崎山坐処花頻雨 宿契梅橋一笑緑(縁カ)       俚句共呈竜門大和尚蓮座祈棒喝    張秋琴拝草」     文化元年十一月、長崎入津。子九番船頭(船主)張秋琴、同財副(筆記勘定役)江泰交、同蔣岳初(注30)     ☆ 劉景筠     ◯「詩」〔文化2年閏8月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧626)    「鎮台【肥田豊州】の託にて清人に詩を作らしむる時      (中略)     水盈々兮古渡頭 水滔々兮水流 玻璃灼爍兮金鏡浮 明星燦爛兮銀河秋      命蕩軽舟兮白蘋(落字アルベシ) 逍遙自適兮何所求      乙丑秋日応(カ)万点水蛍流之意、擬撰詩体一首    武林列(劉カ)昌筠」     このとき長崎奉行・肥田豊後守頼常が詩を求めたのは、他に銭位吉。劉昌筠は丑四番船の船頭(船主)の劉景筠誤     記か。銭位吉はその財副(筆記勘定役)     ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      殿宇巍峨仏貌鮮 披肩杖錫扙啓経筵 従今説偈無辺妙 遍地都看化白蓮      暁徹金鐘聞遠声 禅心一点證(燈カ)来明 前生本祇園会(落字アリ) 色相荘厳是宿成       俚句二章恭賀竜門大和尚栄登三宝方丈  武林劉景筠」     文化元年十一月、長崎入津。丑四番船頭(船主)劉景筠、同財副(筆記勘定役)陳光烈、同銭位吉    ☆ 銭位吉     ◯「題字」扇面〔文化2年7月22日〕(『瓊浦又綴』⑧621)    「東都日本橋辺にすめる木翁とかいへるもの、鉄筆を焼き、扇面を焼きて画をかく。名づけて焼絵とい     ふ。もろこしにもかゝる戯画ありやと、訳司劉見(君)美【彭城仁左衛門、名基】に問ふ。墨水の墨を     焼絵にしたる扇を得て清人銭徳位吉【号「◎「凵+了」)」山】に示す。銭位位扇面に題して曰、      鉄筆焦花、精巧無比、又名曰燙花、蓋以火煆筆為之也  ◎「凵+了」)山」     文化元年十一月、長崎入津。丑四番船頭(船主)劉景筠、同財副(筆記勘定役)陳光烈、同銭位吉    ☆ 許錫綸【きょせきりん】     ◯「七言律詩」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      慧(カ)◎曾将破塵(落字アリ) 提持宝筏渡迷津 黄花翠竹皆霑化 鷲嶺従今点綴新       恭頌竜門大禅師陞座   許錫綸〔許氏紫〕〔錫綸〕」     文化元年十一月、長崎入津。子十番船頭(船主)許錫綸、同財副(筆記勘定役)夏雨村、同銭守和    ☆ 夏雨村【かうそん】     ◯「七言律詩」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      付鉢従来企馬鳴 身超四大尽空擎 借看西極雲垂処 東海禅灯共啓明              船海行人夏雨村拝稿〔夏霖〕〔雨稼〕」    文化元年十一月、長崎入津。子十番船頭(船主)許錫綸、同財副(筆記勘定役)夏雨村、同銭守和    ☆ 銭守和【せんしゅわ】     ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      種自瞿曇継此生 栴檀香気遠相迎 無須白馬駄経日 天竺金人夢裏驚       恭賀竜門大和尚法座」    文化元年十一月、長崎入津。子十番船頭(船主)許錫綸、同財副(筆記勘定役)夏雨村、同銭守和    ☆ 沈椿〔しんちん〕     ◯「七言律詩」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      故郷思憶望雪翹 為覩慈容渡海潮 鷲嶺金仙形宛在   雪山羅漢本非遥      菩提樹茂梅橋畔 優鉢花香聖福超 趨(カ)侍蒲団聴妙諦 明灯指路歩蓮瑶       乙丑孟春俚言奉増聖福禅寺方丈竜門大和尚清鑑並祈棒喝              武林髪弟沈椿和南拝〔陳晋之印〕〔雪所橋〕」    ☆ 王雪巣【おうせつそう】     ◯「賀詞」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)      蓮大師造理学人 如餌小児不令過飽 如相瞽者不使疾趨、其向上一着隠躍      舌端終不説破  固已金針暗度矣         右録心灯集一則以奉竜門大和尚蓮坐  法弟王雪巣和南〔雪巣図章〕〔王◎臥蘭〕」    ☆ 程雪香【ていせつこう】     ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      松客経罷渾無(一字欠) 静対曇花見緑苔 自是紅塵飛正到 悠々惟有白雲来       俚句一截奉和竜門大和尚陞坐   法弟程雪香〔程印凰文〕」         〈以上「来舶人書画」補遺、2013/02/15 追加〉           注にあたって、南畝自身の資料はすべて岩波書店の『大田南畝全集」所収によった。また漢詩の訓読は同  全集に従った。   (注1) 『画譚鶏肋』中山高陽著・安永4年(1775)刊(坂崎坦著『日本画の精神』所収) (注2) 『元明清書画人名録』彭城百川著・安永6年(1777)刊      (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー所収)  (注3) 『一話一言』補遺参考編3「南畝が買いもらしたる奇書」の項。⑯436 (注4) 『絵事鄙言』桑山玉州著・寛政11年(1799)成立。(坂崎坦著『日本画の精神』所収) (注5) 『一話一言』巻7「桜棠花」⑫281 (注6) 『一話一言』巻49「乾隆戊寅三月写林以善筆衡南沈銓」⑮315 (注7) 『日本の美術』至文堂 No.4「文人画」 (注8) 「書簡番号131」大田定吉(南畝嫡子)宛・文化3年3月23日付・⑲193 (注9) 『一話一言』巻23「唐館春単」⑬372 (注10)「書簡番号107」大田定吉宛・文化2年2月25日付・⑲155 (注11)『長崎会計私記』⑰37 (注12)「書簡番号92」大田定吉宛・文化1年12月16日付・⑲128 (注13)「書簡番号96」大田定吉宛・文化1年12月26日付・⑲135 (注14)『瓊浦雑綴』文化2年2月2日記事・⑧515 (注15)「書簡番号107」大田定吉宛・文化2年2月25日付・⑲154 (注16)『瓊浦雑綴』文化2年5月記事・⑧578 (注17)『丙子掌記』⑨583・『南畝集19』漢詩番号4206~7参照。 文化13年(1816)8月、張秋琴と江芸閣、長崎から詩を寄せる (注18)『南畝集14』漢詩番号2576~7・④351 (注19)「書簡番号80~81」小川文庵宛・文化1年10月23日付・⑲109~110 (注20)『小春紀行』文化1年10月25日・⑨53 (注21)『江漢西遊日記』10月19日。平凡社『東洋文庫』所収 (注22)「書簡番号64」〔欄外書込〕馬蘭亭宛・文化1年9月29日付・⑲96 (注23)「書簡番号120」島崎金次郎(南畝実弟)・文化2年7月5日付・⑲177 (注24)『向岡閑話』文化6年3月23日記・⑨497 (注25)『丁丑掌記』文化14年3月12日記・別巻5 (注26)『杏園集』「崎館牋臆跋」⑥236 (注27)『南畝集14』漢詩番号2574・④350 (注28)「書簡番号77」大田定吉宛・文化1年10月16日付・⑲106 (注29)「書簡番号84」大田定吉宛・文化1年11月17日付・⑲112 (注30)「書簡番号113」島崎金次郎宛・文化2年3月30日付・⑲162 (注31)『調布日記』文化6年1月2日記・⑨121 (注32)『杏園詩集』「杏園詩集跋」・⑥71 (注33)「書簡番号124」馬蘭亭宛・文化2年8月24日付・⑲185