Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
大田南畝の観た書画・長崎滞在編-日本書画大田南畝関係
             底本:『大田南畝全集』全二十巻・別巻 編集委員代表 濱田義一郎                 岩波書店 一九八五年~九〇年刊・別巻二〇〇〇年刊                ※ 例 ①10 は『大田南畝全集』第一巻の10ページを示す                 【~】は原文の二行割り書き (~)は原文の添え書き      四 日本書画      文化元年十一月、嫡子大田定吉宛書簡に「古筆の売物日々数十枚持参候内、書画等面白きものは求め置可申候(中略)    林屋陳鳳占書と有之候。東坡承天夜遊と記申候。陳鳳占の春夜宴桃李園序一幅琉球人とも可申、楊晋が牧童図(中略)    其外月樵蟹の図、高玄岱書なども有之求め得申候。即非、木庵、道栄抔と満目申候。客居の一楽事に候」と記してい    る。(注1)内外の古書画が満目(見渡す限り)市中に溢れていると南畝には思えた。まさに眼福の地長崎であった。    長崎は日本唐様の発祥地。高玄岱と林道栄を「二妙」と称し、南畝は天明八年八月頃の書留に「中古書家に、一玄岱、    二雪山、三道栄の目あり」と記してこの三筆を「書家三絶」と称している。(注2)     一 書家三絶    ☆ 高玄岱【こう げんたい】 慶安二年(1649)~ 享保七年(1722)      高玄岱は長崎人で、書は黄檗僧独立性易の門人。長崎に限らず、書家三絶の中では高(深見)玄岱を一番見ているよ    うだ。早くは安永二年(1773)閏三月二十二日「白雉帖」を騰写している。(注3)    また寛政十一年(1799)頃、浅草鳥越伊勢屋源右衛門所蔵の額を見「額、鳴霍堂【乙未復月/婺山人】高玄岱也」の    書き留めを残している。(注4)     ①「不二麓子規(七言絶句)」掛幅?〔文化1年11月15日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧481)    「雲根独抱玉芙蓉 雲葉凝深夜色封 啼破一声孤月表 子規不識富山冬       不二麓子規   天漪草      草書最妙 高価不値 田口清民携来所示、時仲冬之望」     見事な草書で、南畝は欲しかったようだが、高価で値段があわず手が出なかった。これを持参した田口清民は長崎     の乙名(町役人=名主)田口保兵衛     ②「書簡・七言絶句四首」掛幅?〔文化1年11月〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧482)    「高玄岱書牘写      鼉磯島の事委曲御示被下候。成ほど御考之通也。其後此方にも考候へ共、其元御考委細にて致珍      重候。忝奉存候。道(ママ)生八牋に有之よし。一作駝基のよし、道生八牋に見候だん、扨々見のが      し候。御指教にて得益候」     鼉磯島も駝基島も硯の名産地。明の髙濂編『遵生八牋』に記事があるようだ      「高玄岱書      万事銷沈向一杯 竹門唖軋為風開 秋宵睡足芭蕉雨 又是江湖入夢来       右小川文庵収得      陸困泥蟠未適従 空時耕稼隠高蹤 若非先主垂三顧 誰識茅廬一臥竜       右吉田長達収得      薄世臨流洒耳塵 便帰雲洞倭(委)天真 一瓢風入猶嫌鬧 何況人間万種人      鶴愛孤松雲愛山 官情微録免相淵(ママ) 栽来五柳吟帰去 灑洒巾辺伴菊間」     小川文庵、吉田長達は共に官医。幕府から派遣されて、当時来日中の唐医胡兆新に医業上の質問をおこなった。南     畝は赴任の途中から大病になって、長崎到着後も約一ヶ月余り病臥・静養をせねばならなかったが、この間治療に     当たった医者が小川文庵。それもあってか、南畝とこの人とは交際は親密であった。     ③「書」〔文化1年12月4日〕長崎にて入手(「書簡番号90」大田定吉宛・⑲124)    「高玄岱書一枚唐紙に書候。二葉求め申見事に候」     書蹟内容については記載がない。     ④「神農像賛」掛幅〔文化2年3月14日〕長崎にて入手(『瓊浦雑綴』⑧551)    「神農像 慶山筆、賛は高玄岱なり。      薬本是毒 々豈無能 遇毒神化 々以伊登 備嘗辛苦 望徳永興 弥縫天地 拯拮倒崩       一橙(ママ)万世 金柩玉縄 君臣際会 佐使唯徴 温涼寒熱 是降是升 其理察察 一其◎広弘         庚子晩秋高玄岱敬題           (一其に「一字ナルベシ」の添え書き。◎は「冫」+「早」)      (中略)     右之四幅、邨上如登携来、一時収得、値価亦廉、可謂貧児暴富矣、時文化乙丑春三月幾望也、越望     日喜書」     慶山は唐絵目利の絵師小原慶山。庚子は享保五年(1720)。四幅の他の三幅は、落款なしの「聖像」、落款なしの     「陶淵明無絃琴を撫する図」、清人沈志祖の書「七言絶句二首」。邨上如登は長崎会所の役人村上清太郎。(南畝、     長崎から江戸に帰還後も書簡を交わしていたが、文化四年二月二十三日没。(注5)       思いの外廉価だったので入手できたようだ。「貧児暴富」とは『菜根譚』のいう「暴富の貧児」と同じか。にわか     成金の自慢を戒める言葉である。翌十五日「喜書」とあるから、よほど嬉しかったのだろう。ただ「一時収得」の     意味がよく分からない。     ⑤「婺山詩帖」〔文化2年5月10日〕長崎にて書写(『瓊浦遺珮』⑲661)    「婺山詩帖   高玄泰     右婺山詩帖、高玄岱先生自筆本也、借抄于田辺作八郎家、乙丑夏五初十日 南畝於長崎岩原書」     田辺作八郎は田辺亀遊とも号す。南畝はこの田辺家が所蔵する黄檗僧独立の自筆本『有譙別諸自剡分宗』や田辺家     の先祖田辺桑渓に寄せた沈燮菴等の清人たちの詩を書写している。(注6)       なお文化二年二月二十四日、長崎山清水寺に参詣したとき、本堂の後の東面の扁額に「清水寺 元禄八年歳次乙亥九    月穀旦 深見作左衛門宗門敬立」とあるのを書き留めている。この深見作左衛門は玄岱とどんな間柄なのかよく分か    らないが、参考までに取り上げた。(注7)    ☆ 北島雪山【きたじま せつざん】 寛永十三年(1636)~ 元禄十年(1697)       長崎以前では、天明八年、浅草鳥越の伊勢屋源右衛門が所蔵する古書画を一見したとき「此方の書画ども多き中に、    別て雪山人の書をたくはへたり、六枚屛風たけのもの数十紙さり。予に一枚おくれり、飛觴といへる文字なり」の書    き留めを残している。(注8)また寛政十一年頃の記事に、やはり伊勢屋源右衛門の所蔵として「八分屛風 雪山人」    の書き留めと「雪【夜書千巻】山人書」の落款を写している。この落款が「八分屛風」のものかどうかは分からない。    なお八分とは漢字の隷書体の一つ。(注9)     ①「書(和歌)」〔文化1年11月23日〕長崎にて入手(「書簡番号87」大田定吉宛・⑲118)    「奇書奇画に日々驚目申候。東坡酔翁亭墨本、雪山人柿本人丸の歌等入手申候」     柿本人麻呂の歌とあるから仮名文字か。     ②「書」〔文化2年9月9日〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧622)    「九月九日、十一日、諏訪神事を一覧せしに、かさ鉾の上にかける町名のうち、よりあひ町は雪山人、     ふくろ町は林道栄の書のよし。此外町によりて、諸名家の書ありと云」    「長崎くんち」で使われる傘鉾の町名、寄合町が雪山、袋町が道栄の書という     ③「聯」〔文化2年10月22日〕安芸厳島神社(『小春紀行』⑨43)    「蔵書の室とみえて、名山蔵の横額は徴明の書にして、東壁図書府、西園翰墨林といへる二の聯は雪     山の書なり」     南畝は長崎では掛幅や屛風といった本格的なものは見かけなかったようだ。長崎後でも雪山に関する記事は見かけ     ない     ☆ 林道栄【はやし どうえい】寛永十七年(1640)~ 宝永五年(1708)      南畝は書家三絶のひとりとして林道栄の名は知っていたが、長崎以前にその書を観たことはないようだ。長崎入りし    て、嫡子定吉宛に「即非、木庵、道栄抔と満目申候。客居の一楽此事に候」と記している。(注1)念願が叶ったの    であろう     ①「額字」扁額〔文化2年3月12日〕長崎清水寺(『瓊浦雑綴』⑧539)    「長崎山清水寺興成院(中略)     護摩堂(題字)福寿海 道栄書」     ②「七言絶句」扇面〔文化2年4月23日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧568)    「一幅丹青掛碧霄 従教摩詰興飄々 金颻時落大円鏡 直明洞庭万里遥 道栄書      右扇面書藤瀬氏所蔵」      この藤瀬氏、南畝の書き留めには藤瀬又兵衛とある。当時、本古川町の乙名(町役人)に藤瀬長兵衛という人がい     るが、その一族と思われる。同日、この人は「送外甥藤瀬新蔵返郷」という題の七言絶句(署名「◎(扌+為)謙     野継善草」)も持参している。署名の人は不明。また文化三年の正月、江戸の南畝に年始状を送っている。(注10)     ③「道栄禅語」〔文化2年6月〕長崎にて一見〈『瓊浦又綴』⑧608〉    「道栄禅語の末に      時寛文歳乙巳姑洗晦前       崎陽不知有漢子道栄手書于一黙一審中」     寛文乙巳は同五年、三月晦日前になったという「道栄禅語」は未詳     ④「書」〔文化2年9月9日〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧622)    「九月九日、十一日、諏訪神事を一覧せしに、かさ鉾の上にかける町名のうち、よりあひ町は雪山人、     ふくろ町は林道栄の書のよし。此外町によりて、諸名家の書ありと云」     「長崎くんち」で使われる傘鉾の町名、寄合町が雪山、袋町が道栄の書という      文化元年十一月、崇福寺に寄ったとき「崇福禅寺 寛永廿一年甲辰(申)九月吉旦 長崎訳士林仁兵衛敬立」の額字を    書き留めている。この唐通事の林仁兵衛は帰化名で中国名は林守◎(デン)。道栄と関係があるかどうか分からないが、    参考までに取り上げた。     二 書画・絵師に関する年代順記事・詩歌     ☆ 鳥文斎栄之【えいし ちょうぶんさい】     ◯「遊女図」〔文化1年9月賦〕(『南畝集14』漢詩番号2545・④341)    「戯れに栄之の娼妓図に題す      脱却華袿羅帯垂 画屏風外歩遅々 双眸斂鬢掻頭正 応是紅閨進寝時」    ☆ 十時梅厓【ととき ばいがい】     ◯「山水図」〔文化1年9月賦〕(『南畝集14』漢詩番号2546・④342)    「梅厓 十時賜 遺画の山水に題す      浪華行役日 之子対門居 酔月眠池上 談玄坐歳除 癖伝山水跡 影似幻泡余      今日看遺画 音容恍不虚」    ☆ 竜雲【りゅううん】     ◯ 消息記事〔文化1年10月5日記〕(『百舌の草茎』⑧471)    「大村に竜雲といへる画家あり。口筆に妙なり。ひとゝせ其画、上覧にも入しゆへ、今は太守よりと     め筆なりと云」    ☆ 葛飾北斎【かつしか ほくさい】     ◯「東海道五十三次」摺物〔文化1年10月12日付〕(「書簡番号76」大田定吉宛・⑲104)    「近藤重蔵へ北斎画五十三次摺物壱帖(中略)貸し置候。是は折々御催促御取返し置き可然候」     南畝と近藤重蔵は親密な間柄であった。貸し出した北斎の摺り物を回収するよう、長崎から江戸の嫡子定吉宛へ     催促したのである。直接、長崎で見た絵ではないが、参考までに取り上げた    ☆ 窪俊満【くぼ しゅんまん】     ◯「二見浦図」〔文化1年10月賦〕(『南畝集14』漢詩番号2567・④348)    「尚左堂の二覧浦の図      二覧遥連浦 双巌対若門 欲知神所在 勢海浴朝暾」     南畝は長崎赴任中の文化元年八月二十日、室津にて尚左堂(窪俊満)と奇南堂(蘭奢亭薫)と酒を酌み交わし、翌     日「尚左堂はこれよりわかれて讃岐の国像頭山にまうでんとて、手をわかつ」と記している。(注11)     また、長崎着の翌日の九月十一日、江戸の馬蘭亭主人(山道高彦)宛書簡には「俊満も四日市より参り居候間、牡     丹と菊を画がゝせ候。俊満は金毘羅参詣」とある。(注12)南畝は八月の上旬、東海道の四日市で、伊勢方面から     きた尚左堂と合流したのであろう。二見浦の図はそのおりに尚左堂から入手したものか    ☆ 月樵【げっしょう】     ◯「蟹図」〔文化1年11月17日記〕長崎にて入手(「書簡番号84」鯉村(大田定吉)宛・⑲115)    「古筆の売物日々数十枚持参候内、書画等面白きものは求め置可申候。(中略)     月樵蟹の図、高玄岱書なども有之求得申候」     この月樵なる人は「人物花鳥ヲ能シ、又雑画ニ巧ナリ」という尾張の張月樵(1772~1832)のような気もするが     確証はない(注13)    ☆ 安東省庵【あんどう せいあん】     ①「七言律詩」〔文化1年11月17日〕長崎にて入手(『瓊浦雑綴』・⑧481)    「芳源(原カ)緑野恣行時 春入遥山碧四囲 与逐乱紅穿柳巷 困(同カ)臨流水坐苔磯     莫辞杯酒十分勧    祇恐風花一片飛 況是清明好天気 不妨游衍暮忘帰       安東守約省菴書、無落款、於長崎収得 十一月十七日      〔欄外。按、此詩程明道詩也、見千家詩、後見安藤(東)氏書、与此書不異、       然則此書為安東氏之書必矣 乙丑孟夏念八清晨〕」     この詩は北宋の程顥(明道)の作(『千家詩』に「郊行即事」の題詞)。この書蹟には落款がないが、安東省庵の     書籍に見えるので、省庵筆としたようだ。欄外の按記は翌文化二年四月二十八日付       ②「書」〔文化2年6月10日〕長崎にて書写(『瓊浦遺珮』⑲662)    「安東省庵手書一巻      安東省庵手書一巻借抄于中島真兵衛家 乙丑季夏十日」     中島真兵衛は長崎の薬種目利頭取。中島真兵衛著の『献上薬草表訳記』『舶来諸産解説』が「南畝文庫蔵書目」に     見える。(注14)長崎滞在中に書写して蔵書としたか。    ☆ 藤原定家【ふじわらのさだいえ】     ◯「書簡」〔文化1年12月12日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』・⑧486)    「縉紳家書簡     道心倦其勒(勤)候て、又真名墻(訓)極難得功候之間、若教人事不叶、空返遣、其本等候し天喜二年     以前は見候しを、不書記、其欠巻に候故也。(以下略)     又只今(一字欠)と相尋事候之間、同以(一次欠)之便(二字欠)進……(ママ)無下に不思(一字欠)     事に候へども、武者とかや申候目出たき人の装束に世呂伊とかや申候なる物の俄見たく候(以下略)      右は定家卿の書とて人のもて来て見せしまゝ、其かたばかりを写置候也。いかにも見事にみゆ。      されども定家卿にてはおはせじと思はる    甲子季冬十二日晨」    ☆ 白竜【はくりゅう】     ◯「瓊山題詠巻」帖装本〔文化2年1月15日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧504)    「瑶(ママ)山題詠巻序     瓊山ノ主随応老師、嘗テ木庵禅師華客ニ曁ビテ作ル所ノ瓊山ノ詩、其ノ意ヲ後世ニ伝ヘント欲シ、     余ニ就キテ之ヲ謀ル、且ツ余ニ属シテ、是ノ名家ノ它邦遊人ノ吟詠ヲ求メシム、往々之ヲ得テ、都     テ二巻ト成ル。乃チ巻ヲ展ジテ閲覧ス、錦篇繍句、徽々トシテ目ニ溢レ、将ニ瓊山ノ光ヲ益サント     スルモノカ。土誌ニ云フ、瓊杵山一ツニ崇嶽ト曰ヒ、昔推古帝ノ時ニ在リ、百済琳准王子此山ニ来     タリ、香ヲ焚キ北辰ヲ拝ス。北辰斯ニ降リ、特ニ兆瑞有リ、所謂奠香巌、星降渓、其ノ跡尚存ス、     万治中、木庵禅師石ヲ勒シ無凡山ト為ス、蓋シ山形ノ秀朗塵風ノ気無キヲ以テナリ、其ノ他故事詳     悉ニ遑アラズ、粗々一二ヲ挙ゲテ以テ此巻ヲ読ムニ於ケル便トスルノミ、老師余ニ請ヒテ序セシム、     因リテ陋拙を顧ミズ、敢ヘテ数言ヲ綴ル       寛政庚申ノ春 瓊浦白竜道人寿撰〔欄外。白竜道人西勝寺也、浄土真宗ヲ奉ズ〕」(原漢文)       瓊山は無凡山の旧名。以前は瓊杵山とも崇嶽とも呼ばれていたが、木庵禅師が山容の美しさに感銘を受けて無凡山     と命名したとされる。木庵はその無凡山の詩をいくつか残していたが、それを随応老師が所持していた。随応は、     木庵にとどまらず他郷の風流人士にも詩を作ってもらい、それらを一つにしてはどうかと、白竜道人に働きかけた。     そしてなったのがこの「瓊山題詠」ということらしい。寛政庚申は同十二年(1800)。南畝がこれを書写したのが     文化二年(1805)正月十五日、丁度五年前のことである。乾坤二帖、清人の詩と日本人の詩に分けて収録している。     詩の署名以下の通り      乾の巻       紫雲 木庵瑫   苕渓 費晴湖   武林 劉雲台   銭塘 (一次欠)秋実       慶堂 劉錦雲   呉趨 程赤城      呂宏昭      坤の巻       瓊浦暘(賜)谷高彜(彝)君乗(秉)    楢林建公極       武田孟文明美   真野騏元驎    光寿院主寂興           肥後藤木譛伯華  大村滕利衷    瓊浦村岡重文君章         松岡恕庵     白竜道人竜寿   五島僧玄常            尾州古葊宗抽   常州道人順常   瓊浦東林大融    ☆ 荻生徂徠【おぎゅう そらい】        ①「七言絶句」掛幅〔文化2年2月3日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧518)    「沢井【猶之進】氏の見せし徂徠の書一幅     郊園久輟五侯阿(珂) 忽挹(拉)儒宗復此過 泉石猶余(経)済大 永欲進発(詠歌応発)性霊多     吾従孔孟論山水   人道皐虁在薜蘿   総是徳星今再聚  願留照映被巌何      六義園奉陪国子老先生作、伏乞賢(原字笑トアリ)政   徂徠卿拝」     沢井氏は長崎乙名(町役人)か。南畝、六月には氏所蔵の相阿弥の山水画を見ている     ②「碑文」石碑〔文化2年3月15日〕長崎大音寺(『瓊浦雑綴』⑧547)    「崎陽大音寺開山伝誉上人の碑あり。碑額に開山功徳之碑と題す。享保庚子東都物茂卿の文な     り」     享保庚子は同五年    ☆ 麗誉【れいよ】     ◯「額字」〔文化2年3月15日〕長崎大音寺(『瓊浦雑綴』⑧547)    「大音寺の門に正覚山の額あり。大僧正麗誉の書なり」    ☆ 愚谷【ぐこく】     ◯「額字」〔文化2年3月15日〕長崎皓台寺(『瓊浦雑綴』⑧548)    「(皓台寺)大仏殿の額は      華蔵海  愚谷書トアリ。サダカニ見ヘワカズ」    ☆ 遊々山人【ゆうゆう さんじん】     ◯「画賛」〔文化2年3月14日〕長崎にて入手(『瓊浦雑綴』⑧550)    「一幅 陶淵明無絃琴を撫する図、落款なし 賛あり      元生不解音律、蓄無弦琴一張、毎酔後輙玩弄以寄意 曰但識琴中趣 何労弦上声        遊々山人      邨上如登携来、一時収得」     邨上如登は長崎会所の役人。遊々山人は未詳     ☆ 周麟【しゅうりん】     ◯「書」〔文化2年3月〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧559)    「周麟八分蘭亭序【一巻】七十四叟周麟とあり。右一帖一巻、唐訳司柳屋新兵衛携来」     王羲之の「蘭亭序」を周麟という人が八分(隷書体)で認めたもの。周麟は未詳。柳屋新兵衛は唐通事    ☆ 宝鏡寺【ほうきょうじ】     ◯「額字」〔文化2年3月24日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧560)    「(長崎大浦)妙行寺といふ寺に入てみる。妙行寺の額は宝鏡寺の御筆なり」     宝鏡寺の御筆とは理豊女王の書か    ☆ 岡本半助【おかもと はんすけ】     ◯「三社託宣」〔文化2年5月12日〕長崎にて入手(『瓊浦雑綴』⑧578)    「岡本半助の書しと云三社託宣を得たり。其書甚うるはしくみゆ。按書画一覧に岡本半助【初名正武】     後宜就に改む。喜菴又無用道者と号す。彦根侯軍師松花堂と友たり。書法、嵯峨天皇の御体を学ぶと     云へたり。故に世に天皇流と称す。連歌及茶道を好む。風流の一時に聞云々」     ☆ 親鸞上人【しんらん】     ◯「十字名号」掛幅〔文化2年5月18日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧580)    「春氏【孫二郎】所蔵掛幅(物カ) 親鸞上人の書なりといふ 紙地一軸は、(帰)命尽十方無㝵(碍)光     如来の十字名号也」    「なりといふ」と言い方に、南畝の躊躇があるようだ。長崎会所役人、春孫次郎の所蔵。この日、春孫次郎が持参し     た掛幅は他に、相阿弥墨画の山水画、玩具を頭に担う四童子を画いた明画、狩野派の富士見西行    ☆ 相阿弥【そうあみ】     ①「山水画」掛幅〔文化2年5月18日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧580)    「春氏【孫二郎】所蔵掛幅(物カ) 相阿弥墨画の山水横幅 紙地」     春孫次郎は長崎会所の役人。この日持参した掛幅は他に、親鸞上人の十字名号、玩具を頭に担う四童子を画いた明     画、狩野派の富士見西行     ②「山水画」掛幅〔文化2年6月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧607)    「相阿弥画の山水横幅、真相筆とあり。賛に、      茅屋参差椚(櫩)不斉 沙村竹樹路常迷 漁翁日暮未収網 山遠針(斜)陽西又西  大昌竜沢叟     沢井氏所蔵なり」     この沢井氏は長崎乙名(町役人)の沢井猶之進と思われる。二月、氏所蔵の荻生徂徠の書(七言絶句)を見ている。     賛の大昌竜沢とは京都建仁寺大昌院の僧の天隠竜沢か         長崎後では、文化五年五月二十七日、小石川の両御番青木久右衛門宅にて「鯰之墨絵」を見る。(注15)また、同六    年三月二十一日、多摩川巡視中瀬田村名主長崎四郎右衛門宅にて「蓮鳥」の墨絵を見た。(注16)    ☆ 尾形光琳【おがた こうりん】       ◯「雪梅図」〔文化2年5月賦〕長崎にて一見(『南畝集15』漢詩番号2678・④384)    「法橋光琳が雪梅の画      氷肌玉骨吐春妍 雪裏寒梅臥野田 和墨吮毫衆画史 不如盤礴解衣賢」    ☆ 竜沢【りゅうたく】     ◯「山水図画賛」掛幅〔文化2年6月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧607)    「相阿弥画の山水横幅、真相筆とあり。賛に、      茅屋参差椚(櫩)不斉 沙村竹樹路常迷 漁翁日暮未収網 山遠針(斜)陽西又西  大昌竜沢叟     沢井氏所蔵なり」     賛の大昌竜沢を京都建仁寺大昌院の僧の天隠竜沢と見た    ☆ 馬渡高雲【ばわたり こううん】     ◯「芦葉達摩」〔文化2年5月〕長崎にて入手(『瓊浦雑綴』⑧585)    「馬渡(バワタリ)高雲の画る葦葉達摩(磨)を得たり。     揚子江頭 踏葦絶流 不逢断臂 取笑閑遊 寂泰の賛あり。石崎融思にみせしに、是は高雲の達摩     (磨)にて、人のもてはやすものなりといへり。京師の人なる歟。書画一覧等に見えず」     石崎融思は画人で唐絵目利職。中山高陽著『画譚鶏肋』(安永六年刊・1775)も専門画家として「高雲の達摩」を     あげている。(注17)これは収得とあるが、「南畝文庫蔵書目」に記載はない    ☆ 伊藤東涯【いとう とうがい】     ◯「書」〔文化2年6月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧600)    「義 亜聖公曰、人皆有所不為、達之於其所為、義也。又曰、羞悪之心、義之端也、此義字之正訓也、     学者得佩服焉       享保十八年秋日       東涯生書      右者道楽(牙)人携来」     亜聖公は孟子。道牙人は仲買人。南畝は購入していないようだ    ☆ 石崎融思【いしざき ゆうし】     ①「山水図」〔文化2年閏8月賦〕長崎にて一見(『南畝集15』漢詩番号2730・④400)    「石崎融思が山水を画けるに題す      風帆帰去入冥々 廻合江天列水屏 樹背寒鴉千万点 波心落日一孤亭」     石崎融思は唐絵目利。南畝は入手した馬渡高雲の「達磨図」を鑑定してもらったり、清の惲寿平のことや、入荷し     た仇英画が偽物であることなどを聞いている。(注18)(注19)      長崎後も年始状を交わすなどの交流は続いている     ②「梅図」扇面〔文化15年4月賦〕南畝入手(『南畝集20』漢詩番号4364・④451)    「崎陽の石崎融思の画梅を贈るに酬ゆ      三元風色絶紛華 日観峰西隠士家 未折一枝労駅使 揮毫扇地梅画」     扇面に梅の絵が長崎から贈られてきたのである    ☆ 宗紫岩【そう しがん】        ◯「竹図」掛幅〔文化2年9月8日〕南畝入手(『南畝集15』漢詩番号2746 ④405)    「重陽前一夕、大鵬の画竹、宋紫岩の画蘭の二幅を得たり。喜びて賦す     鵬公独生竹 宋子数茎蘭 願添明日菊 無使此盟寒」     明日は菊の節句だから、蘭・竹・菊の三君子が揃う。盟友を誓ったのであるが「南畝文庫蔵書目」をみても、この     蘭・竹は見当たらない      三 絵師不詳の書画に関する年代順記事・詩歌     △『南畝集14』漢詩番号2534・文化1年9月賦・④338    「筑波山図に題す      富士之山是祖宗 独鍾神秀玉芙蓉 請看羅列児孫裏 猶有筑波双剣峰」     △『南畝集14』漢詩番号2555・文化1年10月賦・④344    「小野小町花に対するの図      小町芳名天下聞 飛花為雨々為雲 佳人独立桜花外 花与佳人色未分」     △『南畝集14』漢詩番号2550・文化1年10月賦・④343    「凌霄花の図に題す      凌霄纏古木 翠蔓自相延 未見開花尽 紛々長夏天」     凌霄花は「のうぜんかずら」     △『南畝集14』漢詩番号2572・文化1年10月賦・④349    「僧辨慶の図に題す      源家公子婦人装 夜々窺人試剣鋩 仮寐凝然三塔髡 五条橋上月如霜」     △『南畝集14』漢詩番号2591・文化1年10月賦・④355    「画に題す      生来往在武江傍 日々仙舟楊柳塘 瓊浦客中観此画 依稀風景似吾郷」     △『南畝集14』漢詩番号2592・文化1年10月賦・④355    「漁父図に題す      乍出緑楊間 偏随碧水湾 酒銭無与有 唯在得魚還」     △『南畝集14』漢詩番号2593・文化1年11月賦・④355    「慈童菊を見るの図に題す      記得太平記 謬悠玄恵文 蓮経滴露写 菊葉兼花芬 彭祖顔長駐 周王寵不群      僻書何所載 浅見未曾聞」     △『南畝集15』漢詩番号2628・文化2年1月賦・④369    「淵明酔眠の図に題す      晋代遺民甲子年 心中万事託無絃 丈夫生遇平常世 莫学先生酔後眠」     △『瓊浦雑綴』文化2年2月24日記・⑧531    「女媧補天図 一巻     ことに女媧補天図めづらしきもの也」     女媧は天を補修して洪水を防いだという中国古代の女神。舶来したものであろうが、画工名も長崎での所蔵者も記     載がない     △『南畝集15』漢詩番号2655・文化2年3月賦・④376    「布袋螺盃を銜むの図      九孔螺中千里光 光中一一現弥勒 々々前身復後身 頻傾米汁万余斛」     △『瓊浦雑綴』文化2年3月14日・⑧549       「聖像【四弟子侍立階下為麟】絹地にて画人の落款なし 一幅 (中略)     邨上如登携来、一時収得、値価亦廉(後略)」     孔子と四大弟子を画いた掛幅。持参した邨上如登は長崎会所の役人。「一時収得」の意味がよく分からない     △『南畝集15』漢詩番号2681・文化2年5月賦・④385    「維摩居士図      文殊問疾一相逢 不二門高不可従 三万四千獅子座 看来方丈室中客」     △『南畝集15』漢詩番号2682・文化2年5月19日賦・④385    「夏日、崇福禅寺に過りて山水画を観る      海門崖寺絶囂塵 松下清風入座新 画山水与仮山水 仮不如真仮亦真」     △『南畝集15』漢詩番号2684・文化2年5月賦・④385    「麻姑の図に題す      欲控白鶴期千寿 先対青樽傾一斗 天上人間多不平 朝姑鳥爪能掻否」     鳥のように長い爪をもつ仙女麻姑、長寿の象徴とされる。西王母の誕生祝いに美酒を贈る「麻姑献寿」の場面がよ     く画かれるという      △『瓊浦又綴』文化2年閏8月19日入手・⑧642       「曲靖府属夷人図一帖 図アリ、乙巳閏八月十九日、自会所購得、蔵于家      按、文献通考曰、自曲州靖州西南、昆州・曲軛・晋寧・喩献・安寧、隔竜和城、謂之東爨烏蛮土。      多駿馬犀象明珠云々【淵鑑類函二百三十二苗ノ次ニアリ】」             △『南畝集15』漢詩番号2722・文化2年閏8月賦・④397    「童子の戯れに地に画きて布袋の面を為すの図に題す      聚沙為仏塔 画地作弥勒 々々下生時 何須費紙墨」     △『南畝集15』漢詩番号2739・文化2年閏8月賦・④403    「范蠡西施を携へて湖に泛ぶの図に題す      自変鴟夷作隠淪 不随烏喙列功臣 扁舟更有桑中喜 容与五湖煙水浜」     呉が滅亡した後、范蠡と西施は共に五湖に船出して行方しれずになったとされる     △『南畝集15』漢詩番号2748・文化2年9月賦・④405    「東方朔の図      歳星曾下漢皇時 玩世金門侍玉墀 王母蟠桃三熟日 不知天上有偸児」     東方朔は西王母の植えた桃の実を盗んで食べ八千年の寿命を得たとされる     △『南畝集15』漢詩番号2750・文化2年9月賦・④406    「美人兎を抱くの図      佳人抱白兎 々々清如玉 疑是月中娥 閑歌羽衣曲」     △『南畝集15』漢詩番号2755・文化2年9月賦・④407    「画に題ず【蟹螯緑蘿下、猫児有り】      驚起睡猫児 莫令花下迷 公子無腸物 不与蝴蝶斉」     △『南畝集15』漢詩番号2774・文化2年10月15日賦・④423    「小倉駅主人、余に在中将東遊の図に題せんことを請ふ。卒かに賦す      武陵仙客宿豊城 偶見此図生旅情 墨水東遊在中将 千秋誰不憶帰程」     在原業平の東下りの絵(隅田川で都鳥を詠んだ場面か)をみて、これから帰る江戸に思いを馳せた       △『南畝集15』漢詩番号2825・文化2年11月10日賦・④427    「文君器を滌ぐ之図、某生の為にす      雑傭司馬子 滌器卓文君 千古琴台上 遠山日暮雲」     司馬相如と卓文君、所謂『蒙求』の「文君當壚」の故事を題材とした絵     四 その他     ☆ 浦上玉堂【うらかみぎょくどう】(1745~1820)      最後に玉堂を取り上げる。現代では近世を代表する文人画の名手として評価されているが、長崎におけ    る南畝の意識では高尚な琴士としての印象の方が強く、画人としての印象は無かったようだ。    文化二年五月二十七日、聖福寺に古書画を尋ねたおり、南畝は偶然にも玉堂と出会った。         「白髭生ひ、髪は長く、唐輪に結ぶ。白衣を着たり」(注20)        何やら山水画に出てくる隠士といった趣で、玉堂は南畝の前に登場する。「雲水」と「玉堂清韵」とい    う銘の入った、明の顧元昭作と伝えられる七絃の古琴を携え、いにしえを再現したという「南薫操」と    「催馬楽の伊勢海」を弾いた。         「心閑に手敏といひけんいにしへの人の語も思ひあはせらる。詩酒をこのみて風雅なる翁なり」        「心閑手敏(心がのびやかで手はきびきび動く)」これはもともと琴の名手の弾き方をいうらしいが、    南畝の目には、恰好といい弾き方といい、まさしく中国の士大夫が玉堂を通して蘇ったように見えたの    だろう。般若湯(酒)を傾け、じっと古琴に聴き入る。その余韻に「玉堂集」をひもとけば「詩も又幽    玄也」であった。南畝は次の詩を賦して玉堂に贈った。(注20)       「(聖福禅寺に過る)席上、玉堂翁の琴を弾ずるを聞く       高山と流水と 此の地の清音足る 況んや復た招提の境 玉堂綺琴を弾ず」(注21)          山中の流れから澄んだ音が聞こえる、いうまでもない、ここは俗世と無縁の寺の中、玉堂翁がその美し    い古琴を弾じる、すると清音はいっそう冴えわたるのであった。    玉堂はこの時六十一才、寛政六年(1794)岡山の鴨方藩を脱藩して、春琴・秋琴の二子を携えて流浪す    ること十年余年に及んでいた。南畝は玉堂の詩を思い起こした。         「万銭買一琴 千銭買古書 朝弾幽窓下 暮読寒灯余 有衣聊換酒 有竿足求魚」(注22)        琴棋書画、まさに自在な境地である。一方の南畝は五十七才、幕府の役人として長崎勤務。         「滔々たる欲海、扨々あきはて申候。手前勝手之名文、名弁、蘇秦張儀が月代をそりて革羽織きたる      が如し」(注23)        とても俗世を離れるどころではなかった。この日、南畝は次のような詩も作って贈っている。         「梅天の晴色清涼に入る 昏飲頻りに傾く般若湯       即(も)し官を休(や)めて林下に住まんと欲するも 児孫羅列して家郷に在り」(注24)        官吏を辞めて退隠したくとも、家族を思うとそれも出来ないというのである。         「鶯谷の逸民となりて夕の日に子孫を愛し、絃歌の声に心をやり一酔いたし度、此外に何も願も望も      へちまも入不申候」(注25)        家族のいる小日向の鶯谷に戻って、せいぜいが市中の隠士、酒と三味線から離れられない南畝には、二    子と共に諸国を流浪する玉堂のような身の処し方は、とても無理であった。    南畝の書き留めに玉堂の絵に関するものは見当たらない。六月上旬、再び玉堂と会っているが、そこで    も話題になったのは「熊野浦の歌」という歌謡のこと。    孫引きになるが、濱田義一郎氏によると、鈴木進氏の「浦上玉堂年譜」に、寛政十年(1798)玉堂五十    四歳の時、南畝を訪ねて「江山覓句図」を贈ったとある由。(注26)とすると、文化二年の長崎の南畝    に、画人としての玉堂記事が全くないのは不思議な気がする。    ☆ 大田南畝     ①「額字」〔文化2年3月記〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧537)    「立山の鎮守の稲荷の祠は、山上と山下に二つあり。山下の社を下野のいなりといふ。社の額をみるに、     正一位下野稲荷大明神 東都南畝大田覃書とあり。いつのとしにか書たりけん、今はわすれにけり」     南畝は四方赤良として蜀山人として、三尺の子供も知るという有名人。長崎も同様で「此地のものいづれも予が詩     歌を渇望いたし候」というほどの人気ぶり。それに加えて偽筆も出回っていた。「唯今迄所持いたし居候ものも偽     物多く候」。それで「此度鑑定致候」と真贋鑑定にも応じていたようだ。(注27)     偽物といえば、文化九年の書簡で自ら「亀贋は奇麗にて真跡はきたなく御坐候」と認める「亀贋」、つまり亀屋文     宝の手になる偽筆がよく知られるが、長崎にもあったのであろうか。文宝は寛政期からの門人だから、その可能性     もないではないが、はたしてどうであろうか。その書簡には「正月之画讃相認メ二階へさし置、急成書上物御ざ候     間一寸出勤いたし、昼比帰宅候処楼上下とも諸客充満いたし亀贋も出来不申、如山紙のこり居候を漸七つ比迄に片     付け」とあり、注文の揮毫を急いで大量に仕上げねばならないとき、人目のある場合はやむなく蜀山人自ら揮毫す     るが、そうでない場合は「亀贋」が揮毫するという段取りになっていたようである。とすると、長崎で、もし文宝     亭のものがあったとしも、それを偽物ということはないのではないか。やはり縁もゆかりもない他人の贋物なので     あろう。それにしても、山のような注文をこなす合間にちょっと出勤とはのんき話だが、一方ではその山のような     注文を「亀贋」もこなしていたわけだから、真贋上は複雑な問題があろう。(注28)     ②「鷹図」〔文化2年閏8月画〕(『南畝集15』漢詩番号2737・④402)    「鷹を画く      雪寒鷹眼疾 枯柳北風高 疑是辞韝去 平原灑羽毛」     ③「竹図」〔文化2年閏8月画〕(『南畝集15』漢詩番号2738・④403)    「竹を画く      千竿万个払長空 朝起朝風暮暮風 朝暮此君看不厭 応縁直節与虚中」    〈南畝が実際に画いたのだろうが、その後これらの消息は分からない〉     五 補遺        ◇「中国書画」補遺(「大田南畝の観た書画・長崎滞在編-中国書画」に収録済み)    ☆ 雲門禅師【うんもん】     ◯「五言絶句」〔文化2年5月27日〕長崎聖福寺にて一見(『瓊浦雑綴』⑧586)    「雲門禅師詩 竪幅 落款なし 草書甚奇也      説到窓欲(ママ)処        無詩可贈君      復(一時欠)臨別(落字アルベシ) 一片落黄雲」     雲門文偃(864~949)は唐末から五代にかけての禅僧か    ☆ 鄭成功【ていせいこう】     ◯「七言絶句」〔文化1年11月23日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧482)    「鄭成功詩      一年点検魯論足     更向此中応有真 活潑道機魚躍水 淵源又(文カ)字鳥啼春      尾頭洞徹学而留(恐習訛) 体用通貫勿急仁 二万聖言無隠爾 読来未解旧時身        〔鄭森之章〕〔成功〕      中村作五郎携示十一月廿三日、其主真贋未訂」     鄭成功はこれが初めてではなく、寛政十一年(1799)六月、湯島聖堂の虫干で「鄭森之」「成功」の印章のある書     (柳宗元の「独釣寒江雪」)を見ていた。(注29)     ☆ 王竹斎【おうちくさい】     ◯「七言絶句」扇面〔文化1年10月5日〕長崎にて一見(『百舌の草茎』⑧474)    「雪浄渓山歳暮天 茆斎夜読自相便 旧交尽結朱門伴 更有誰乗剡曲船      書応長達吉田先生清鑑     当湖王竹斎の書る扇面にみゆ」     吉田長達は小川文庵や千賀道栄らと共に、長崎滞在中の胡兆新に医業上の質問するため、江戸から派遣された官医。     南畝とは長崎まで同道した。当湖は浙江省平湖の別称という。王竹斎の出身地であろう。吉田長達に求めに応じて     書した。清鑑とは自分の書画等を見てもらう時に使う敬語で、王竹斎は吉田が官医であることを意識して使ったの     であろう。    ☆ 香樵子【かしょうし】     ◯「海棠花図」〔文化1年10月賦〕(『南畝集14』漢詩番号2556・④344)    「計古斎【小川文庵】香樵子の画を蔵して展観す。是れ羊躑躅に似たり。之を清客古兆新に示せば、     則ち云ふ、海棠花なりと。計古斎、予をして其の画に題せしむ。戯れに賦す      看来羊躑躅 人道海棠花 々睡羊難進 満園春霧遮」     〈清人の古兆新に画中の花の名を質問したということは、香樵子も清人なのであろう〉    ☆ 正詣【しょうけい】     ◯「七言絶句」〔文化1年11月23日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧482)    「明僧掄香墨蹟      林影参差話夕陽 松根風細茯苓香 依稀記得曾経過 疑是虚嶋旧草堂  釈正詣書     中村作五郎携示十一月廿三日、其主真贋未訂」     明の僧侶掄香という人の墨蹟を正詣という僧侶が書写したのであろうか。掄香、正詣ともに未詳。中村作五郎は長     崎奉行所の用達。号は李囿。長崎後も、舶来唐本の購入を依頼するなど、交流は続き、文化十五年(1818)までの     書簡が残されている    ☆ 呉銓【ごせん】     ◯「額字」扁額〔文化2年3月〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧539)    「長崎山清水寺      護摩壇の外、欄間の上に掛る額【地紺青文字金彫上】      有求心(必)応   癸亥秋弟子呉銓立」    ☆ 徐朝潢【じょちょうこう】     ◯「聯」〔文化2年3月〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧539)    「長崎山清水寺 祖師堂浄名庵      同内陳(陣)の柱       日月帰(暉)天盲不見       雷霆振地聾者不聞      清漳徐朝潢書」     ◇「黄檗の書画」補遺(「大田南畝の観た書画・長崎滞在編-黄檗の書画」に収録済み)    ☆ 大城禅師【だいじょう】     ◯「題画」掛幅〔文化2年10月11日〕嬉野宿にて一見(『南畝集15』漢詩番号2760・④410)    「嬉野駅に宿す。壁上、黄檗大城禅師の題画二句を掛く。足して一絶を為す      翠黛秋容帰点綴 茅廬冷静足金風 【原句】金風吹尽玄冬至 霜白寒煙駅舎中」     大城禅師の二句は「金風吹尽玄冬至 霜白寒煙駅舎中」     ◇「来舶人書画」補遺(「大田南畝の観た書画・長崎滞在編-来舶人書画」に収録済み)    ☆ 張秋琴【ちょうしゅうきん】     ◯「五言律詩」扇面〔文化2年5月5日〕長崎にて入手(『瓊浦雑綴』⑧577)    「船主張秋琴詩      勝日試春衣 東風旅思清 韶光三月暮 脩禊一時并   鶯囀崎山樹 花明瓊浦城       平生無事迫 辛苦為詩情      天涯逢上巳 底是怨凄清 人訝傷春痩 花愁倩酒并   流鶯啼別樹 疎雨逗荒城      誰念幽棲者 空斎寂寞情      三月正三日 風柔景物清 酒徒随処得 吟侶最雅(難)并 時序催青◎ 鶯花憶錦城      天涯覊旅客 憾慨若為情      楽遊疎雨過 麗日午風清 春酔花魂痩 人間蝶夢并   羽觴随曲水 裠屐集傾城      欲継蘭亭詠 沈吟空(一字欠)情       右三月三日、旅館述懐と題して四首、太(ママ)田先生賢喬梓の原韵を和し奉り并びに斧政を祈る            萍寄張秋琴草      何処消煩鬱 狂歌酒後清 夢随荘蝶化 愁逐楚雲并 倦鳥猶依樹 飛花況満城      天涯春欲暮 撫景倍傷情       上巳日、感懐五、韻を畳ね奉呈す      南畝先生教政   葬花菴主張秋草     右乙丑五月五日、張秋琴詩扇、訳司彭城仁左衛門携来、扇面に江稼圃の画く蘭有り」     南畝と俶の父子が唱和したとき韻を、三月三日、唐船船主の張秋琴がさらに用いて四首作詩、それに一首加えて、     五月五日、秋琴は江稼圃の蘭画の扇面にその五首を配して南畝に贈ったのである。それにしても詩の斧政(添削)     を請うといい、南畝に対する張秋琴の姿勢は実に丁重である。なお「賢喬梓」の喬梓の意味について、南畝は早     速『尚書大伝』を引いて、橋梓が父子の喩えであることを記している。     ◯「五言律詩」〔文化2年5月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧597)    「応奥州仙台侯臣大槻民治嘱 恭賦一律 敬賀国母藤太夫六十大寿      国母逢初慶    青鸞正挙觴       巌深松柏翠 海潤水天長      宝務靄極(落字アリ) 霊獲(蘐カ)北堂(落字アリ) 雲璈当綺席 巍々頌(カ)無疆       嘉慶十年五月     張秋琴手(草カ)」     仙台藩主の生母の還暦祝いに、家臣の大槻民治という人が詩の作成を依頼したようだ。他に隠元烈、阿蘭陀人はぶ     すと、南畝も藤原覃の名前でうたを詠んでいる     ◯「五言律詩」〔文化2年6月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧600)    「線(緑)樹陰濃密 桑麻雨後新 不逢垂釣客 偶訪灌園人 犬吠茅籬静 鴉翻竹逕頻     呼童間放犢 留客待烹鱗 庭菓之(乏)堪摘 村厨牧(ママ)笑貧 欲諧(偕カ)栖隠意 卜築近西隣      右、次訳者劉君夏日過飲田家原韵   萍寄主人張秋琴草     地僻柴桑古 村墟夏(カ)景新 微風沈乳燕 細雨帯耕人 麦秀欣時熟 酒香楽事煩(頻)     蔬荒鉏野笋 羮愛網渓鱗   志潔原非傲 安間却趁貧 蕭然塵境外 松竹自為鄰       再次訳者劉君夏日過飲家       萍寄主人張秋琴草」     劉君とは唐通事彭城仁左衛門か      ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      雪嶺源流法師伝 飽(一字欠)蘊乗隶(秉)直堅 崎山坐処花頻雨 宿契梅橋一笑緑(縁カ)       俚句共呈竜門大和尚蓮座祈棒喝    張秋琴拝草」     文化元年十一月、長崎入津。子九番船頭(船主)張秋琴、同財副(筆記勘定役)江泰交、同蔣岳初(注30)     ☆ 劉景筠【りゅうけいいん】     ◯「詩」〔文化2年閏8月〕長崎にて一見(『瓊浦又綴』⑧626)    「鎮台【肥田豊州】の託にて清人に詩を作らしむる時     水盈々兮古渡頭 水滔々兮水流 玻璃灼爍兮金鏡浮 明星燦爛兮銀河秋      命蕩軽舟兮白蘋(落字アルベシ) 逍遙自適兮何所求      乙丑秋日応(カ)万点水蛍流之意、擬撰詩体一首    武林列(劉カ)昌筠」     このとき長崎奉行・肥田豊後守頼常が詩を求めたのは、他に銭位吉。劉昌筠は丑四番船の船頭(船主)の劉景筠誤     記か。銭位吉はその財副(筆記勘定役)      ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      殿宇巍峨仏貌鮮 披肩杖錫扙啓経筵 従今説偈無辺妙 遍地都看化白蓮      暁徹金鐘聞遠声 禅心一点證(燈カ)来明 前生本祇園会(落字アリ) 色相荘厳是宿成       俚句二章恭賀竜門大和尚栄登三宝方丈  武林劉景筠」     文化元年十一月、長崎入津。丑四番船頭(船主)劉景筠、同財副(筆記勘定役)陳光烈、同銭位吉       ☆ 銭位吉【せんいきつ】     ◯「題字」扇面〔文化2年7月22日〕(『瓊浦又綴』⑧621)    「東都日本橋辺にすめる木翁とかいへるもの、鉄筆を焼き、扇面を焼きて画をかく。名づけて焼絵とい     ふ。もろこしにもかゝる戯画ありやと、訳司劉見(君)美【彭城仁左衛門、名基】に問ふ。墨水の墨を     焼絵にしたる扇を得て清人銭徳位吉【号「◎「凵+了」)」山】に示す。銭位位扇面に題して曰、      鉄筆焦花、精巧無比、又名曰燙花、蓋以火煆筆為之也  ◎「凵+了」)山」     文化元年十一月、長崎入津。丑四番船頭(船主)劉景筠、同財副(筆記勘定役)陳光烈、同銭位吉     ☆ 許錫綸【きょせきりん】     ◯「七言律詩」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      慧(カ)◎曾将破塵(落字アリ) 提持宝筏渡迷津 黄花翠竹皆霑化 鷲嶺従今点綴新       恭頌竜門大禅師陞座   許錫綸〔許氏紫〕〔錫綸〕」     文化元年十一月、長崎入津。子十番船頭(船主)許錫綸、同財副(筆記勘定役)夏雨村、同銭守和    ☆ 夏雨村【かうそん】     ◯「七言律詩」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      付鉢従来企馬鳴 身超四大尽空擎 借看西極雲垂処 東海禅灯共啓明              船海行人夏雨村拝稿〔夏霖〕〔雨稼〕」    文化元年十一月、長崎入津。子十番船頭(船主)許錫綸、同財副(筆記勘定役)夏雨村、同銭守和    ☆ 銭守和【せんしゅわ】     ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      種自瞿曇継此生 栴檀香気遠相迎 無須白馬駄経日 天竺金人夢裏驚       恭賀竜門大和尚法座」    文化元年十一月、長崎入津。子十番船頭(船主)許錫綸、同財副(筆記勘定役)夏雨村、同銭守和          ☆ 沈椿〔しんちん〕     ◯「七言律詩」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      故郷思憶望雪翹 為覩慈容渡海潮 鷲嶺金仙形宛在   雪山羅漢本非遥      菩提樹茂梅橋畔 優鉢花香聖福超 趨(カ)侍蒲団聴妙諦 明灯指路歩蓮瑶       乙丑孟春俚言奉増聖福禅寺方丈竜門大和尚清鑑並祈棒喝              武林髪弟沈椿和南拝〔陳晋之印〕〔雪所橋〕」    ☆ 王雪巣【おうせつそう】     ◯「賀詞」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      蓮大師造理学人 如餌小児不令過飽 如相瞽者不使疾趨、其向上一着隠躍      舌端終不説破  固已金針暗度矣         右録心灯集一則以奉竜門大和尚蓮坐  法弟王雪巣和南〔雪巣図章〕〔王◎臥蘭〕」    ☆ 程雪香【ていせつこう】     ◯「七言絶句」〔文化2年9月23日〕龍門和尚所蔵(『瓊浦又綴』⑧663)    「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章(中略)      松客経罷渾無(一字欠) 静対曇花見緑苔 自是紅塵飛正到 悠々惟有白雲来       俚句一截奉和竜門大和尚陞坐   法弟程雪香〔程印凰文〕」         〈以上「大田南畝の観た書画・長崎滞在編」終了 2013/02/15〉    注にあたって、南畝自身の資料はすべて岩波書店の『大田南畝全集」所収によった。また漢詩の訓読は同  全集に従った。    (注1) 「書簡番号84」鯉村(大田定吉)宛 文化1年11月17日付 ⑲115  (注2) 『一話一言』巻11「書家三絶」天明8年8月頃記 ⑫472  (注3) 『群書一轂』巻5 安永2年閏3月22日記 ⑲571  (注4) 『一話一言』巻22「浅草鳥越伊勢屋源右衛門所蔵書画」寛政11年頃記 ⑬358  (注5) 「書簡番号318」村上作左衛門宛(文化4年)2月23日  ⑲336・『南畝集16』⑤62  (注6) 『瓊浦遺珮』文化2年6月10日 ⑲662・『瓊浦又綴』文化2年7月頃記 ⑧610  (注7) 『瓊浦雑綴』文化2年2月24日 ⑧537  (注8) 『一話一言』巻8 天明8年02月29日記 ⑫370)  (注9) 『一話一言』巻22「浅草鳥越伊勢屋源右衛門所蔵書画」寛政11年頃記? ⑬355  (注10)「書簡番号131」中村李囿宛 文化3年3月23日付 ⑲193  (注11)『革令紀行』文化1年8月21~22日 ⑧421  (注12)「書簡番号50」馬蘭亭主人宛 文化1年9月11日付 ⑲82  (注13)『本朝古今新増書画便覧』文化15年刊(『近世人名録集成』第四巻所収)  (注14)「南畝文庫蔵書目」⑲396  (注15)『一話一言』巻22,巻26 文化5年5月27日 ⑭60,138  (注16)『向岡閑話』文化6年3月21日 ⑨497  (注17)『画譚鶏肋』中山高陽著 安永4年(1775)刊(坂崎坦著『日本画の精神』所収)  (注18)『瓊浦雑綴』文化2年5月23日 ⑧585  (注19)『瓊浦又綴』文化2年6月27日 ⑧608  (注20)『瓊浦雑綴』文化2年5月27日 ⑧588  (注21)『南畝集15』漢詩番号2688 文化2年5月27日賦 ④386  (注22)『瓊浦雑綴』文化2年5月27日「玉堂集」所収の詩「書感」より ⑧589  (注23)「書簡番号108」大田定吉宛 文化2年2月25日付 ⑲155  (注24)『南畝集15』漢詩番号2687 文化2年5月27日賦 ④386  (注25)「書簡番号124」馬蘭亭主人宛 文化2年8月24日付 ⑲184  (注26)「偶観抄」濱田義一郎著「浦上玉堂と南畝」の項(濱田義一郎編『天明文学』所収)  (注27)「書簡番号83」大田定吉宛 文化1年11月6日付 ⑲113  (注28)「書簡番号195」竹垣柳塘宛 文化9年5月11日 ⑲255  (注29)『半日閑話』巻17 寛政11年6月 ⑪520  (注30)「書簡番号92」文化1年12月16日付 大田定吉宛 ⑲129