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宮武外骨・浮世絵記事西川祐信画譜(にしかわすけのぶ がふ)浮世絵事典
 ◯『西川祐信画譜』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十四年(1911)九月刊)   (『浮世絵鑑』第三巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)   ※全角(~)は原文のもの 半角(~)は本HPの注記   ◇西川祐信(37/53)   〝西川祐信の墓 京都に於ける浮世絵師中、古今第一の名家と称せらる西川祐信及び其男祐尹の墓は、    久しく其所在を知る者もなかつたが、先年京都大学の教授某氏が、旧記によつて発見したのであると    云ふ、其所在は京都三條通り大宮西浄土宗妙泉寺である、同寺庭内西南隅総卵塔の中央にあつて、総    高さ四尺、台石の巾二尺余に過ぎない、名家の墓としては意外に小なるものとの感が起つた。墓石の    前後左右に    (前)祐斎信士 (後)雪峰浄意信士 (左)芳春院蹄室道二居士 (右)西川氏先祖代々霊       妙春信女    宗栄信士      梅丘阿順禅尼       徳嵩院清翁浄喜居士       了心居士    智春童女      樹昌院性室栄法大姉    月窓院円岳栄周大姉       妙意信女    智雪童女                   一葉迎秋信士               秋玉童女               徳本院積善浄雲居士        右の如く法号の彫入のみで、俗称も没年も不明であるから、何れが祐信であり祐尹であるか判らない。    住職関祐嶽権僧正に面会して過去帳の閲覧を求めたが、天明八年正月晦日、京都市内大火災のとき同    寺も延焼し、其の際過去帳も焼失したので、同八年後の者でなければ不明であるとの言である、尚今    は無縁となつて子孫の所在、有無も知れないといふ憐れな始末であつた、そこで何か手掛はないかと    過去帳を通覧したが、西川とあるのは      儀照院精誉良伝居士 寛政八年五月二日 西川右京    此一つである、祐信は自得斎、文華堂と号して、右京と称したが、宝暦元年九月十一日に八十一歳を    以て没したのであるから、寛政の右京は其子孫であらう    強て憶測を下せば、祐信は俗称祐助ともいつたのであるから、祐斎信士といふのが祐信の法号であら    うか〟   (門派)   ◇西川祐尹(39/53コマ)   〝世態画家西川祐尹墓 号徳祐斎、祐信の男、宝暦十二年八月二十五日 五十七 京三條大宮 妙泉寺    (続平安名家墓所一覧)    『本朝画家人名録』には「号文生堂」とあり、祐尹筆の絵本には「花洛文華堂嫡男西川祐尹」とか    「文華堂祐信嫡男西川祐尹」と自著せり、父の勢力ありしこと察せらる    祐尹は父と同く文章もかけしや、自筆の絵本に自序を書き、又父祐信の遺稿『絵本三津輪草』(淫書    の美徒和草(みつわぐさ)に非ず)に家翁自得叟云々の序文あり    『名人忌辰録』は何に拠りて、祐尹の没年を宝暦十二序と記せしなるか知らずといへども、宝暦とせ    しは誤なるべし、祐尹筆の『絵本玉椿』の自序には「明和九年辰正月吉日西川祐尹」と書し、『絵本    花見鳥』の奥書には「画図、文華堂嫡男 西川祐尹筆(印)明和十年巳正月吉日」と署せり、年歴の    通算上、明和は八年限りなれども、安永と改元せしは明和九年十一月十六日なれば、其の十六日前の    刻本を、一ヶ月許りの後の明和十年(即ち安永二年)の新春に売出せしものなるべし(後の入木改刻    にあらざることは、文字及び版式にて明かなり)随つて祐尹が安永元年まで生存せしことは確かなる    べし。其後の没年月は未だ詳かならず、妙泉寺の過去帳も天明大火の際に焼失せりといふ〟   ◇西川祐代(40/53コマ)   〝宝暦末年頃の絵本に「皇都画工花月亭祐代」と署したるもの数冊あり、此祐代といへる名、浮世絵師    系伝書中には見当たらずといへども、西川祐信の門派たることは、其筆画及び其名其印章等によつて    知り得べきなり、其絵本の出版元はいづれも祐信の絵本数十種を出版したる京都寺町通松原下ル町の    菊屋喜兵衛なり。    祐代の氏名没年等は未だ詳かならず、或人は此祐代を女ならんと云ひしが、其筆蹟を見るに男らしく、    又『絵本千代鏡』の自序に「四方の民きみにぞなびくあしはらの水穂の国は常盤かきはに敷島の道も    いやさかへゆく御代の例をうけてつたなき言葉にても児女の手すさびに教訓ともなるべきものもやと    書肆机のかたはらに座して乞ふ予も其意にもとづきて云々」とあるなどを見るも女にてはあらざるべ    し〟   ◇西川祐春(40/53コマ)   〝安政四年京阪の『都のにぎはひ』に西川祐春写と署して四條河原新橋の図を描けり、又俗謡の横小本    数冊あり、其一に「嘉永壬子仲春、西川祐春写」とありて、印章に「紀氏」と記せり、『浮世絵師系    伝』に「西川祐春、京師の人なり、上手にて文久頃の人なり、按ずるに此人祐信の裔なるべし、其絵    本南北太平記」とあり、祐信の筆意は毫も存せず、円山派の画を学びしが如き人なれども、自ら西川    祐春と名乗るは其縁なきにあらざるべし、慶応二年発行の『京みやげ』二冊は松川半山と共画なり、    明治の始め頃まで存命せし人ならんか〟   ◇梨木祐為(41/53コマ)    (書画人名伝の類には西川祐信の門派とせず)   〝京都下鴨の神官なり、祐之の孫(祐之は享保九年正月廿九日没)正四位下に叙し上総介に任ず、幼時    より歌を好みて冷泉大納言為村の門に入り教を受け、精力無比、少より老に至るまで其詠ずる所の歌    既に十万首に近し、嘗て朝より暮に至るまで千首を作りて住吉宮に奉納し、斯の如くすること二回、    又図画を善くして、最も風致あり、遂に一家の風をなす、世に自画賛のものあり、大に賞す、享和元    年六月十七日卒す、年六十三、諡して源光院と曰ふ、著書ありといへども家に蔵して世に流布せず、    故にこゝに之を挙げず(続近世叢語、野史、三十六家集略記)    然れども、此梨木祐為が西川自得叟祐信の門人なりしといふ事は、祐為の自記にあり、寛政九年春発    行の『職人尽発句合』といへる大本二冊は、前篇に百二十八種の職人を描きて発句合となせしものに    て、其絵は悉く梨木祐為の筆画なるが、其自跋に曰く     我わらは 心に西川自得叟の画風をしたひ 手間のひま/\ 彼翁の筆を写す事 もはらとせしか     ば 父母命じて この門に入しは九つの年秋になん 絵本を一巻ばかりならひて 翁にわかれぬ     ことかたによりて学ばむも本意なかれば 筆をうちおきしに 五升庵の瓦全の職人尽の発句をえら     びて これに今様の絵をそへよと こふにまかせて(中略)人わらはれなる画に奥書をそへ侍りぬ       寛政八のとしの秋                鴨のあかたぬし(祐為之印)    祐為は享和元年に六十三歳にて没せしとすれば、元文四年の生れにして、其九歳の時といへば延享四    年なるべし、面して西川祐信は其四年後の宝暦元年に没せしなれば「翁にわかれぬ」とは、祐信の遠    逝去をいへるなるべし「ことかたによりて学ばむも本意なければ」とは他派の画家を師とすることを    快とせざりしを云ふならん、されvば、祐為は土佐派にあらず、又其他の画流にもあらざること知る    べし、尚次頁に掲出せる箔打の画を見ば、自得叟の亜流たること明かなるを得べし     但し祐為の祐は、祐信の祐にあらずして、祖父祐之の祐なるべし〟   ◇小松屋百亀(42/53コマ)   〝明和中の人、俗称三右衛門、元飯田町に住む薬種屋なり、略暦の大小摺物多し、西川祐信の筆意を学    びて春画をかけり、鹿子餅落咄し本大に行はる(浮世絵類考)    小松屋百亀の没年は浮世絵類考などには脱けてゐますが、寛政四年に没しまして、小石川の大雄寺と    云ふに葬つてあります、墓は高さ六尺ばかりで、台石に小松屋と屋号まで彫りつけてあります(趣味)〟   ◇川嶋叙清(43/53コマ)    (叙清と信清とは同人とする)   〝初めて春画好色本禁止令の公布ありし享保七年十一月よりも、以前の出版と見るべき八文字屋本の淫    書『遊色枕時計』の巻末に左の如く記名せり      河原町四條下ル町  大和絵師 川嶋信清図〔叙清〕印文    叙清は西川祐信の門下なりしか否かといふに、『本朝画家人名録』に西川派と記しあるのみにて、他    書には何等の考証なし、正徳享保頃の人としては、祐信と同時代なれば、西川派にあらざるべしと云    ふ人あり、されども、正徳元年には祐信四十一歳にて、既に其名を成せし時なれば、門下に叙清出で    ずとは云ひ難かるべし、加之、叙清の春画は祐信の春画に酷似せる所多きが如し、兎に角茲には西川    流派の一人として加へ置き、尚後考を待つ     因みに云ふ、『浮世絵類考』に「八文字屋本も祐信が初心の頃画きしと見ゆる物多し」とあれども     右に挙げし『遊色枕時計』及び『商人軍配団』は、自笑・其碩の作にして画者は川島叙清なるが、     此の二書の筆画によりて類推するに、八文字屋本の挿画は此川島叙清の筆に成れるものも多きが如     し〟   ◇川枝豊信(44/53コマ)   〝享保年中の人、洛下亭と号す、俗称未詳、京師に住す、西川風の美人を能くし、当時の風俗を写して    多く絵本に行はる(浮世絵師系伝)     享保十五年正月発行の『璣訓蒙鏡草』の奥書に「京大和絵師川枝豊信図」とあり、『本朝画家人名     録』に「大和画工川枝豊信と書したる美人画あり、享保二十年死す」と記し、又『浮世絵師便覧』     には「西川風の美人画あり」と記せり、『日本画人伝』に「役者絵を画く」とあるは、役者評判記     『三国朗詠狂舞台』の挿画をいへるならんか〟   ◇下河辺拾水(44/53コマ)   〝『浮世絵師便覧』には「拾水、京師の人、下河辺氏、板刻絵多し、祐信守国の筆意に似たり、延享、    天保」とあれども、絵本の出版は、明和初年より寛政末年までの間なり、拾水の字は「行炙」か、総    て署名の下に此印章あり、号は紙川軒なるべし、明和三年の『絵本二葉松』に「画家 洛西紙川軒拾    水」とあり、洛西は雙ヶ岡の住と見しは、天明四年の『様草』第一篇に「書画 洛西雙丘 下河辺拾    水子」とあり、又同六年『絵本頼光昔物語』に「洛西雙丘麓云々」とあるに拠りしならん    西川祐信の直門生にはらずとするも、祐信崇拝の模倣者たりしことは、其筆画によつて知らるゝなり    又祐信の『百人女郎品定』の全部を、拾水が我流にて摸写したる稿本の京都に現存するをも見たり〟   ◇寺井重房(46/53コマ)   〝宝暦の人、浪華の人なり、其伝詳ならず、絵本あり『絵本勇名草』三冊、『絵本国見山』三冊(浮世    絵師系伝)    寺井重房は寺井尚房ともいひしにや。『絵本勇名草』の奥書には「浪華画工寺井尚房撰」とあり、同    本の版元赤松閣(千草屋平瀬新右衛門)の蔵版目録には「絵本勇名草、武者絵 寺井重房図 全三冊」    とあり    別人か否かは未詳なれども、同じ時代、同じ大阪に寺井尚撰(号雪蕉斎)といへる絵師ありて、寛延四    年正月発行の『淡粧源氏物語』の挿画をかけり、其筆蹟は寺井重房と同じく西川派と見るべきものな    り、此人は狩野派の画法をも習得せしと見え『画本拾葉』六冊の著ありて、和漢の名画を摸出せり。    延享四年の『難波丸綱目』絵師の武に「安堂寺町五丁目寺井重房」とあり〟   ◇高木貞武(46/35コマ)   〝その伝系等は未詳なれども、享保五年より宝暦二年までの間に於て出版せし絵本数種の筆意によりて、    西川祐信の流派たることを知るのみ、京都人なるや大阪人なるや亦未詳なれども、大阪の著作者及び    大阪書肆の出版書籍に其筆の挿画あるによりて大阪人ならんと推察す、字は「容膝」なるか、此印章    『野山の錦』の巻末にだり、延享四年の『難波丸綱目』大和絵師の部に「高木幸助」とあり、幸助は    貞武の俗称なり、『絵本御伽草』の奥書に「画工高木幸助貞武」とあるにて知る    但し『本朝画家便覧』には「高木幸助 牲川充信門人、享保十七年常盤雛形、宝暦二年 本朝画林三    冊の著あり、明和の初年死すといふ」とあり、狩野派にして傍ら西川祐信の画風に似たる所は毫もな    しといへども、其二年後の『絵本和歌の浦』に至りては恰も別人の筆なるが如く、祐信の妙所を得て    妙なり〟   ◇長谷川光信(47/53コマ)   〝大阪の人、宝暦年中の人なり、其伝を知らず、梅峰軒永春と号す、又松翠軒とも号せり、絵本多し    (浮世絵師系伝)    総ての浮世絵師伝中にも、右の外は何等記する所なし、其筆は拙にして、西川祐信の門人とは見るべか    らずといへども、祐信の画を模倣せし絵本多きにより、西川派として茲に之を加ふ、他派の画師として    は其門系を知ること能はざればなり〟      ◇川嶋重宣(47/53コマ)   〝柳花堂又は一々堂と号す、京都の人、西川祐信に似たり、享保七年『世の中百首絵抄』あり(本朝画家    人名録)    『世中百首絵抄』を見るに「享保七壬寅年正月吉日、絵師洛陽川原町、川嶋重信」と奥書せり、其一葉    を抜写して西川派たることを証明す。『浮世絵師系伝』に「柳花堂重信、寛保頃の人か、其伝詳ならず、    『絵本吉野川』寛保四年板」とあれども、其絵本未だ見ず。此川嶋重信は前記の川嶋叙清に関係ある人    なるか否か未詳なり〟   ◇井上景堪(47/53コマ)   〝元文四年版の『花結錦絵合』は人物花鳥等の押絵製作法を記述したるものなるが、其画風西川派に似た    り、奥附に「作者、御衣裳絵師花洛堀井軒(井上景堪)」と記し、其右側に西川祐信画の『女文林宝袋』    の報條をも揚げあり、彼是に拠りて察すれば、堀井軒は祐信の門人なるべし〟   ◇森尚国(47/53コマ)   〝『本朝画家人名録』に「尚国は森氏、京都の人、宝暦十三年版『花王伊勢物語』あり、長谷川永春(光    信)と共に画く、西川祐信門人か」とあり、未だ其実物を見ざるにより、其当否判定し難し〟   ◇岡山友杏(49/53コマ)   〝『世話詞渡世雀』(上下二冊)といふは、全編俚諺のみを綴りて教訓体の事を述べたものであつて、作    者は花洛窓梅軒可耕とある。此書に挿画あつて巻末に左の如く署名してある    「花洛 画工 岡山友杏 宝暦三年酉正月 京六角通ふや町西入丁 書林 岡権兵衛板」    此外に岡山友杏と署名したものはマダ見ないが、八文字屋本の挿画には、此友杏の筆であろうかと思は    れるものがある。画風に拠つて云ふと西川祐信の門人であるらしい。    『七福神悪魔軍記』といふ絵本に「岡山繁信筆」とあるが別人と見る(此花)    岡山友杏は京都の人なり、宝暦二年版『絵本艶歌仙』といへる豆本六冊あり、其画風西川派に似たり、    祐信門人か(白鷺亭筆記)〟   ◇紀吉信(49/53コマ)   〝藤井氏、京都の人なり、号は香亭か(江戸の藤川吉信とは別人なり)『本朝画家人名録』に、西川祐信    派とあり、其筆画たる寛政十一年発行の『絵本頼朝一生記』見るに、画風幾分祐信に似たる所あり、然    れども、其流派にはあらざるべし〟     ◇大瓢寒和(49/53コマ)   〝『浮世絵派款譜』に寒和筆(印章は瓢形の中に大の字)との款名を写して、其側に「西川祐信門人の由」    と略記しあり、肉筆画の款識ならんが、未だ其画を見ず〟