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宮武外骨・浮世絵記事筆禍史(ひっかし)浮世絵事典
   原本:浅香書店・明治四十四年(1911)刊  底本:影印版・崙書房・昭和49年(1974)刊  ☆ 貞享二年(1685)  ◯「諸職絵尽」p24   〝浮世絵師菱川師宣筆にして全編四巻なり、其第二巻中に武家の専用たる甲冑製作の図を掲出せしは不都    合なりとて、一時其売買を禁ぜられたるが、後数年にして其禁を解かれたりといふ。何等記録の現存す    るものなく、此説の真偽不詳なり。   〔頭注〕甲冑師の図    元禄三年京村上平楽寺の開板にかゝる『人倫訓網図彙』にも甲冑師の図あり、又宝永末年頃の版本『職    工絵鏡』には『諸職絵尽』と同筆の図を出せり〟
    『和国諸職絵つくし』菱川師宣画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     〈上記「古典籍総合データベース」本の巻末には「貞享二年丑二月吉日 絵師 菱河師宣」とある。「日本古典籍総合目    録」は『和国諸職絵尽』とする。寛文十三年(1673)五月、軍書類の出版を禁じているから、甲冑類の出版はそれに抵    触するというのだろう(『徳川禁令考』「諸商勧業及濫資征権法度」)しかし実証するものがないから「此説の真偽不    詳」と保留するほかない。ただ、頭注に同じ甲冑図を載せた版本の存在を記しているところをみると、注者は否定的な    のかもしれない。いづれにせよ、絵師の菱川師宣が処罰されたという形跡はない〉  ☆ 元禄四年(1691)    ◯「百人男」p28   〝『御仕置裁許帳』に曰く       〔江戸〕南大工町二丁目新道 徳右衛門店    山口宗倫     此者戸田山城守殿より御断に付、穿鑿の儀有之、当月十一日揚り屋入置候処、牢内にて相煩候に付、     養生の内、去廿日預置候へ共、同廿一召寄揚り屋に入、右之者人の噂を色々書立、百人男と記し、     其上行跡不宜、重々不届成故、同十月死罪            呉服町一丁目            松枝小兵衛            右同町長右衛門店          柳屋又八郎            同町茂右衛門店           笹本次良右衛門            本所三文字屋々敷又市店       桑原和翁     右四人之者共、山口宗倫儀に付、穿鑿之内揚り座敷     右四人之者共、山口宗倫と常々出合、人の噂を書記候節も指加り候様に相関候、不届成るに付、未十     月廿二日、日本橋より五里四方追放       元禄四年未十月    此『百人男』の一件に就ては、異説紛々として、殆ど其真偽を判定すべからざる程なり    右の中にある「和翁」といへるは、菱川和翁(或は和央)といひし多賀朝湖、後に英一蝶と改名したる    者なりと云ひ、然して又『百人男』を一に『百人女臈』と書きて、山口宗倫などには関係なく、英一蝶、    仏師民部、村田半兵衛等三人のわざなりとし、又更に英一蝶が伊豆の三宅島(或は大島、或は八丈島)    に配流されたるは、『百人女臈』の事にあらずして、綱吉将軍の寵婦お伝の方に擬せし朝妻舟の図を画    きしがためなりと云ひ、又或はさにあらず一蝶が当時、(犬公方時代)禁制の殺生をなせしがためなり    など、其異説紛々として、いづれをも信じ難く、『近世逸人画史』の著者などは「一蝶は元禄中故あり    て配流せらる、其罪を知らず、区々の説あれども取るに足らず」と云へり    予は『墨水消夏録』『近世江都著聞集』『川岡雑筆』『江戸真砂六十帖』『浮世絵類考』等の雑説を排    して、『一蝶流謫考』に引用せる小宮山昌世の『龍渓小説』の一部分を採りて、左の如く断案を附せん    とす    『百人男』の一件は、『御仕置裁許帳』に拠れる前掲の記録を事実として、其『百人男』の内容は、当    時要路の役人たりし者及び其他市井の雑人を、小倉百人一首に擬して批評したるものにして、其中に幕    府の忌諱に触れたる廉ありしものと見、右の中にある桑原和央は英一蝶の前名にして、彼は追放処分を    受けたる後赦免となりしか、又は内密にて江戸に帰り、再び多賀朝湖と称して画作の外、遊里に入浸り    て野ダイコを本業の如くにし、終に仏師民部、村田半兵衛等と共に、井伊伯耆守直朝、本庄安芸守資俊、    六角越前守広治(以上三名藩翰譜続編に拠る)等、所謂馬鹿殿様に遊蕩をそのゝかせし罪にて(「そゝ     のかせし」の誤植か)、元禄十一年伊豆の三宅島に配流されたるものと見るなり。       〔頭注〕英一蝶 『龍渓小説』の一節といへる記事は左の如し、    (*以下、『龍渓小説』の「百人男」一件の記事を引く。同記事は、本TP「浮世絵師総覧」「英一蝶」の項目中、     『一蝶流謫考』所収の『竜渓小説』の一部分にあたる。
    『竜渓小説』「一蝶流謫」     〈『竜渓小説』での和翁は「百人男」の件で死罪になっている。とすると、和翁と一蝶は別人ということになるのだが、    このことに関して、宮武外骨の頭注記事は次のように続ける〉    英一蝶が和央或は和翁といひし事は他書に二三の証拠もあるに、一蝶の蝶古(朝湖)と和翁を別人と見    しは、誤聞なること明なり、加之、和翁が死罪となりしにあらざる事は下に載せる古記録にて知るべし    諸説混同して紛々たるも、和翁の一蝶が此一件に関係ありしがためならんか〟     〈上記『御仕置裁許帳』に拠れば「百人男」の著者・山口宗倫は死罪、さらにこれに桑原和翁以下四人が連座して、日本    橋から五里四方追放に処せられたという。ただ、この桑原和翁が英一蝶と同人かどうかは定かではない。一蝶、確かに    和央(和応)と称したことはあるが、桑原を名乗ったかどうかは分からない。因みに『藤岡屋日記 第一巻』(文政五    年(1822)記)は和翁を別人とする説を紹介している。2011/06/05追記〉  ☆ 元禄六年(1693)  ◯「古今四場居百人一首」p31   〝此書は浮世絵版画の祖菱川師宣に私淑せし鳥居清信筆にして、稀代の珍本なり。現今存在するものにし    て世に知らるゝは、東京松廼舎主人こと安田善之助所蔵と、予の所蔵との二部あるのみ、同氏所蔵本の    奥書に曰く     この書は元禄六年夏五月の開板にして、はじめは芝居百人一首と題号しゝが、河原者をやんことなき     小倉の撰に擬してものせるよし、尤憚あるよし、時の書物奉行脇部甚太夫より沙汰ありけば、四場居     色競と改題したり、此書に序跋もまた発開の年号を記さゞるにても、もとありけむを、此ゆゑに削り     たるなるべし、されどなほ体裁をかへざりければにや、更に町奉行能勢出雲守より発売を禁ぜられし、     梓主平兵衛といへるは軽追放に処せられぬ、かくて製本僅に数十部に満ずして、世に稀有の冊子にて     ありき、亡友豊芥子さしも奇冊珍本の秘蔵多かりし人ながら、此書ばかりはその名を聞くのみなりと     かたられき、おのれも年頃いかで見まほしかりしを、明治十年の頃、これも今はなき友なる元木魁望     子が秘蔵さるよし、ゆくりなく聞きでて、漸くにしておのがものとはなりぬるを、こたび文殊庵紫香     君の、強てといはれつるに、いなみがたうて、終に望みたまふにまかせ参らしつ      明治十七年甲申菊月 かくいふもとの持ぬし   関根 只誠    これに拠って、其絶版となりし理由を知るべし、出版者は軽追放の刑に処せられたれども、著画者は其    署名をせざりしがためか、何等の咎めを受る事もなかりしが如し    其記事体裁は左の如く、当時の名優一百人の評判記にして、市村竹之丞、中村伝九郎、市川団十郎、生    島新五郎、上村吉弥、猿若山左衛門、坊主小兵衛、森田勘弥等も其中に加はりあり、是等の記事は山東    京伝の『近世奇跡考』、烏亭焉馬の『歌舞伎年代記』其他にも考証として引用されたり     但し原本は縦九寸横六寸余の大冊なれども茲には写真にて宿刻せるものを出す。
    『古今四場居色競百人一首』童戯堂四囀、恋雀亭四染作・鳥居清信画     (東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)   〔頭注〕古今しばゐ百人一首    此書の挿画は鳥居清信壮年の筆なり、後世鳥居風と称さるる特殊の筆意に変化せざりし前のものなれば、    一見菱川派の画なるが如し    予の蔵本には十二枚に渉れる数名の序跋ありて、改題『古今四場居色競』の序跋も添へり、其一に于時    癸酉正月日(元禄六年)とあり    絶版即ち発売禁止となりし理由として『此花』第一枝に掲出したる一條は、全く予の誤見なりしこと関    根翁の記にて知れり    元木魁望子は烏亭焉馬の蔵本なりしを所持されたるならんか、安田氏は先年吉田文淵堂主人の手を経て、    大久保紫香氏の蔵本を百金にて購ひたるなりと聞く、その珍本なることを察すべし     安田氏の蔵本は先年の大地震にて烏有にきせり、予の蔵本は七円にて購入せしを、大正二年百二十円     にて売却せしが、今年春東京帝国大学図書館が購入せし渡辺霞亭の蔵本中に右の品なり、評価一千円     なりし〟    〈関根只誠によると、役者百人の評判を小倉百人一首に擬えて行ったことと、刊年を記さなかったことが咎められて、     本は発禁処分、板元は軽追放に処せられたらしい。これも絵柄そのものに対する処罰ではない。2011/06/06追記〉  ☆ 元禄七年(1694)  ◯「鹿の巻筆」p35   〝此の書は落語家鹿野武左衛門の著作にして古山師重の挿画あり。貞享三年出版なりしが、其九年後即ち    元禄七年に至り、版木焼棄の上、著者武左衛門は伊豆の大島に流刑となりしなり。其事件の顛末は諸書    旧記に散見するところなれども、関根正直氏の記されたる『落語源流談』及び『徳川政府出版法規抄録』    には、諸記を総括して簡明に記述しあり、乃ち左の如し     元禄六年四月下旬、或所の馬もの語りしには、本年ソロリコロリと呼べる悪疫流行す、之を除けんに     は南天の実と梅干を煎じて呑めよと、且「病除の方書」とて一小冊を発兌せし者あり。奇を好むは人     情の習、一犬虚を吠え万犬が実を伝えて、江戸の人々大に驚怖し、南天の実と梅干を買ふほどに、其     価常よりも二十倍し、唯此事のみかまびすく(*「かまびすしく」の誤記か)、世業も手につかず、     これに依て六月十八日、月番の町奉行能勢出雲守より布告に曰く      一、頃日、馬物言候由申触候、個様の儀申出し不届に候、何者申出候や、一町切に順々話し次者先      々段々書上げべく候、初めて申出候者有之候はゞ、何方の馬物言候や書付致し、早々可申出。殊に      薬の方、組迄申触候由、何れの医書に有之候や、一町切に人別探偵書付可差出候、隠し置候はゞ、      曲事たるべく候間、有体に可申出もの也     斯く厳重に触しかば、各町に於て探索せしに、此事の起りは、俳優見習の齋藤甚五兵衛といふ者、堺     町市村座にて市川団十郎の乗りし馬となりしに、甚五兵衛贔屓の者見物に来りしかば、甚五兵衛馬の     まゝにて応答せりといふ落語を、当時の落語家鹿野武左衛門といへる者作りて、鹿の巻筆と名(づ)     けし書に筆しに基き、神田須田町八百屋総右衛門并に浪人筑紫園右衛門申し合せ付会の説をなし、梅     干呪方の書物等を以て、金銀を欺き取りし事ども露顕せしかば、関係の数人入牢の末、翌元禄七年三     月、筑紫園右衛門は首謀なれば、江戸中引廻しの上斬罪となり、八百屋総右衛門は流罪のところ牢死     せり、落語家武左衛門は右の妖言及び詐欺一件に毫も関係あるにあらねど、畢竟するに、妖言の種と     なるべき、由なし事を版行し、それがため人心を狂惑せしめし科によりて、同年三月二十六日、伊豆     の大島へ流され、板木元弥吉といへるは追放となり、刻板は焼捨となる、武左衛門は大島にて六ヶ年     謫居せしが、元禄十二年四月赦免になりて江戸に帰れり、然れども身体疲労のため同年八月歿す、歳     五十一    予が曩日『鹿の巻筆』全部を翻刻発行せし時、其例言中にも右の顛末を摘記し、且つ最後に左の如き評    言を附せり     詐欺漢が落語本を見て、奸策を案出したりと云ひしとて、其奸策に何等の関係なき滑稽落語の作者及     び版元をも罰するは、古来法典の一原則とせる「遠因は罰せず」と云ふに背反したる愚盲の苛虐と云     ふべきなり   〔頭注〕馬がものいふ物語    『鹿の巻筆』にある馬がものいふ落語といへるは、左の如き事なり       堺町馬の顔見せ     市村芝居へ去る霜月いり出る齋藤甚五兵衛といふ役者、前方は米がしにて刻煙草売なり、とつと軽口     器量もよき男なれば、とかく役者よかるべしと人もいふ我も思ふなれば、竹之丞太夫元へつてを頼み     出けり、明日より顔見せに出るといふて、米がしの若き者共頼み申けるは、初めてなるに、何卒花を     出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人言合てせいろう四十、また一間の台に唐辛を     積みて上に三尺程の造り物のたこ載せ、甚五兵衛殿へとはり紙して芝居の前に積みけるぞおびたゞし、     甚五兵衛大きに喜び、さて/\おそらくは伊藤庄太夫とわたくし花が一番なり、とてもの事に見物に     御出と申ければ、大勢見物にまいりける、されども初めての役者なれば、人らしき芸はならず、切狂     言の馬になりて、それも頭は働くなれば、尻の方になり、かの馬出るより此馬が甚五兵衛といふほど     に、芝居一とうに、いよ馬殿/\と暫くは鳴も静まらずほめけり、甚五兵衛すこ/\ともならずおも     ひ、いゝん/\と云ながら舞台中を跳ね廻つた    といふ一笑語なり、これにて流刑六年とは、時代の罪ともいへず、実に気の毒の事なりける〟
    『鹿の巻筆』「馬がものいふ落語」鹿野武左衛門作・古山師重画     (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     〈『鹿の巻筆』所収の鹿野武左衛門の落語「馬がものいふ物語」と梅干しとを「付会」して、金銀をだまし取った浪人筑    紫園右衛門と八百屋総右衛門は、それぞれ斬罪と流罪に処せられた。そしてそれに連座するように鹿野武左衛門も「妖    言の種となるべき由なし事を版行し、それがため人心を狂惑せしめし科」で、六年の流刑処分。しかしこれも挿絵が問    題視されたわけではない。たまたま挿絵を請け負った本がその内容を咎められたに過ぎない〉  ☆ 元禄十一年(1698)  ◯「太閤記」p39   〝徳川家康が譎作権謀を以て、豊臣家を亡ぼし、而して自己が大将軍職に就きし事は、家康子孫の脳裏に    も、其忘恩破徳の暴挙たるを認識せるがため、それだけ、豊臣家の事蹟を衆人に普知せしむるを欲せず、    随つて其戦況伝記の出版をも禁止するの暴圧手段を執りしなり、『無聲雑簒』に曰く     元禄十一年の春、江戸書肆鱗形屋より太閤記七巻を刊行せし処、其年八月、松平伊豆守掛にて、版元     は御咎の上、絶板を命ぜらる、これ太閤記絶板の濫觴なり   〔頭注〕太閤記の冊数及び刊年    『日本小説年表』太閤記三冊、元禄十六年、鱗形屋板、版出後直に絶板を命ぜらる、とある三巻は七巻、     十六年は十一年の誤なるべし〟
    『太閤記』画工未詳〔『筆禍史』所収〕      〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『日本小説年表』に従い元禄十六年の刊行とする。参考までに云うと、     徳川家康(権現様)は無論のこと、徳川家および他家の家柄や先祖に関する書物の出版を厳禁とする触書が出たのは、     享保七年(1722)十一月。また、歌川豊国が『太閤記』に取材した武者絵を一枚絵にして、絵および板木没収のうえ重     過料に処せられたのが、文化元年(1804)五月。以降、天正以降の武者の名前及びそれに紛らわしい名前・紋所・合印     も使用禁止となった。それに先立つ『太閤記』の絶板処分ということになるが、典拠の『無聲雑簒』が如何なるもの     か知り得ないのを遺憾とする。享保七年と文化元年の項に禁令と判決文あり〉  ☆ 宝永元年(1704)  ◯「島原合戦記」p42   〝寛永十三年肥前島原に起りし切支丹宗徒一揆の顛末を、当時の従軍者(匿名)が、同十七年に記述した    るものにて一に『天草軍記』ともいふ、宝永元年六月の出版(絵入三冊物)なるが、後に絶版を命ぜら    れたりといふ、これも切支丹に関するが為めなること明かなり、    されど、これより前、凡そ寛文頃の版本と見るべきものに、絵入三冊の同文本あり、此古版本の方は絶    板の命に接せざりしならんか   〔頭注〕島原記    『絶焼録』には『島原記』を絶版書目中に加へあれど、此版本あるを聞かず、島原合戦記の誤ならん〟     〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『島原記』を統一書名としている。版本はこれ以前にもあり、慶安二年、    寛文十三年、貞享五年と刊行されている。絵入本であるが、画工名はない〉    ☆ 享保五年(1720)  ◯「色伝授」p46   〝『月堂見聞集』に享保五年八月十八日口触として左の一條あり     一 頃日色伝授と申す草紙板行致、不埒成事有之様に相聞候、絶板商売停止申付候條、右草紙取あつ       かひ仕間敷旨、洛中洛外へ可触知者也    風俗を紊すものとしての禁買なるべし     好色本禁止令(享保七年)      春画好色本の出版は寛永年間以来行はれたれども、当時は未だ何等んお取締令あらざりしかば、著      画者及び版元は公然其実名を著して出版し、書肆亦之を公然売買したりしが、此年の至りて幕府は      初めて左の如き令を発せり     一 唯今迄有来候板行物ノ内好色本之類ハ風俗之為ニモ不宜儀ニ候間、段々相改絶板可申附候事(享       保七寅年十一月)    此令の発布によりて、従来売買せし好色本は、爾後禁止となりしかば、卑猥の挿絵なき好色本は、改題    して好色の二字を削り去れり、彼の井原西鶴著にして貞享元年出版せし『好色二代男』を『諸艶大鑑』    と改題し、同三年出版せし『好色五人女』を『当世女容気』と改題し、元禄元年出版せし『好色盛衰記』    を『西鶴栄花話』と改題したりし類は、皆これが為めなり、然り而して、其好色の二字を削り去りて、    幸に絶版の厄を免れ得たりしならんが、其改題前の好色本は勿論、改題もせざりし公刊の春画好色本は    此時悉く絶版となりしものと見て可なるべし     此好色本禁止令と同時に、諸種の出版取締令も亦発布されたるなり   〔頭注〕好色本禁止令の年代     大久保葩雪氏編『浮世草子目録』中貞享三年の項に      本年遂に好色本差止めの令は当路の有司より下りぬ     とあれども、貞享三年とするは誤なるべし、元禄年間は最も盛に公刊され、宝永正徳の末までも、好     色何々と題せるもの多く公刊されたり、尚又改題して好色の二字を削りしも、元禄後の事たりしなり       出版物取締令     享保七年十一月、好色本禁止令と共に発布された諸種出版物取締令は左の如し       新板書物之儀ニ付町触     一 自今新板書物之儀、儒書仏書神書医書歌書都テ書物類、其筋一通リ之事者格別、猥リ成儀異説ヲ       取交作出候儀、堅可為無用事     一 唯今迄有来候板行物之内、好色本之類ハ風俗之為ニモ不宜儀ニ候間、段々相改絶板可申付候事     一 人之家筋先祖之事抔ヲ彼是相違之儀共、新作之書物ニ書顕シ世上流布候有之候、右ノ段自今御停       止候、若右之類有之、其子孫ヨリ於訴出ハ急度吟味有之筈ニ候事     一 何書物ニヨラズ此後新板之物、作者並板元実名奥書為致可申事     一 権現様之御儀者勿論、惣而当家之御事板行書本自今無用ニ可仕候、無拠子細モ有之バ、奉行所へ       訴出差図請可申候事     一 右の趣ヲ以、自今新作之書物出候共遂吟味可致売買候、若右定ニ背候者有之バ奉行所へ可訴出候、       経数年相知候共其板元之問屋共ヘ急度可申付候、仲間致吟味違犯無之様可相心得候〟  ☆ 享保八年(1723)  ◯「百人女臈品定」p47   〝宝暦七年、馬場文耕筆記『近世江都著聞集』英一蝶の項に曰く、    百人女臈の絵共を本として、其後洛陽西川祐信といへる浮世絵師、好色本枕絵の達人といはれしが、或    年百人女臈品定といふ大内の隠し事を画き、其後夫婦契ヶ岡といふ枕絵を板木にして、雲の上人の姿を    つがひ絵に図し、やんごとなき方々の枕席、密通の体を模様して、清涼殿の妻隠れ、梨壺のかくし妻、    萩の戸ぼそのわかれ路、夜のおとゞの妻むかへと、いろ/\の玉簾の中の、隠し事を画きしに因て、終    に公庁に達して、厳しき御咎にて、板を削られ絶板しけるとかや、是世人の多く知る所也云々    又渓斎英泉著『無名翁随筆』に曰く、    西川祐信、古今比類なき妙手なり、春画は此人より風俗大に開けたり、百人美女郎とて、雲上高位の尊    きより、賤のいやしき迄、各其時世の風俗を写し画き分たり、後又是を春画にかきしかば、罪せられし    と云、筆意骨法狩野土佐の二流をはなれず、委く画法にかなひし浮世絵師は此人に限れり、或人の蔵書    に、祐信、画の事にて罪せられし事を書きたるものを見たりしが、書名を忘れたり云々    此両記事によれば、西川祐信は始め『百人女臈品定』といふ普通の絵本を出版せしめ、後又其図を春画    に画きかへて出版せしめしが為め、罰せられたりと云ふにあり、    然れども、春画の『百人女臈品定』といふ版本あるを聞かず、其絶版となりしは享保八年正月出版のマ    ジメなる絵本『百人女臈品定』なるべし、同絵本は、上は女帝皇后より下は湯女鹿恋いの買女に至るま    での風俗を描出したるものなるが、河原者を小倉百人一首に擬したりとて、絶版となりし前例もあれば、    至尊高貴の方々を賤しき買女等と共に画き並べたるは上を畏敬せざる仕業なりとて、公家より絶版を命    ぜられたるならん。然るに之を春画のためと伝ふるに至りしは同人が春画の妙手なりと云ふに付会せし    説ならん乎、講釈師馬場文耕の記述は所謂見て来たやうな嘘なるべし。      〔頭注〕百人女郎品定    マジメの『百人女臈品定』女臈にあらずして女郎と書けり     禁庭に百官百寮の座をわかてり、百敷の大宮人とは訓つゞけり、美女に百の媚あり云々    といへる八文字舎自笑の序文ありて大和画師西川祐信と署せり、大本二冊にて版元は京麩屋町通誓願寺    下ル町の書肆八文字屋なり    其画様は茲に模出せるが如きものにして別に説明文附けり〟
    『百人女郎品定』西川祐信画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     〈『百人女郎品定』が絶板処分になったという噂の源は、どうやら馬場文耕の宝暦七年(1757)の著書『近世江都著聞集』    にあるらしい。宮武外骨は「講釈師馬場文耕の記述は所謂見て来たやうな嘘なるべし」とこれを否定するが、祐信には    「好色本枕絵の達人」という評判もあってか、渓斎英泉の『無名翁随筆』(天保四年(1833)成立)にもあるように、祐    信が春画で罰せられたという噂は、事実とは別に常について回っていたようだ。2013/06/20追記〉    ☆ 明和六年(1869)  ◯「娘評判記」p65   〝 明和六年六月、此節娘評判甚だしく、評判記など写本にて出る。読売歌仙などにして売りあるく、公    より之を禁ず(半日閑話)    これは当時の娘評判記を、一枚或は二枚の粗末なる版行摺にして、市中に読売せしを禁止せしといふ事    なり     〔頭注〕娘評判の大流行時代    『寸錦雑綴』に『風流娘百人一首』の摸刻絵一葉を掲出し、尚     明和六己丑、大江都に名高き妓女或は茶店の少女を集めて見立三十六歌仙といひて売りありきしとな    むとあり、また当時江戸の三美人とて名高かりし谷中笠森稲荷の茶屋鍵屋の娘お仙、浅草楊屋の娘お藤、    同茶屋蔦屋お芳などの姿絵を      浮世絵師 鈴木春信    が江戸絵として版行せしも、此時代なりしなり、その娘評判記のはやりしこと推して知るべし〟  ◯「明和妓鑑」p66   〝太(ママ)田南畝(蜀山人)の随筆『半日閑話』明和六年の條に「十月、此節役者評判記を武鑑になぞらへ    て梓行す、明和妓鑑と名づく、公より是を禁ず、実は塗師方棟梁栗本兵庫の作、手代かはりて遠島せら    るといふ」とある、是は江戸三座と称せられた中村座、市村座、森田座の役者及び狂言作者、囃子方、    芝居茶屋等を武鑑に擬して著作したのを、幕府では、河原乞食の事を天下鎮撫の武家に擬して述作する    などは、公儀を畏れない不届至極の者なりとあつて、出版即時に発売禁止を命じ、作者淡海の三麿とは    何者かと糾問し、実は栗本兵庫の著作なれども、手代何某主人に代つて其罪を受ける事になり、その何    某が遠島流刑に処せられたと云ふ事である、此『明和武鑑』といふのは、半紙四ッ折の小形本であつて、    総数七十四枚ある、画者の名は署して無いが、勝川春章の筆らしい云々(此花)     〔頭注〕明和妓鑑と勝川春章    (*序文あり、省略)著者淡海三麿の長き序あり、此序の文字も浮世絵師勝川春章の筆蹟に似たり、挿    画と共に此序もかきしなるべし     明和妓鑑の版元は 本町四丁目 書栄堂 伏見屋清兵衛〟
    『明和伎鑑』淡海三麿著・勝川春章画?(東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)    ☆ 天明八年(1788)  ◯「文武二道万石通」p74   〝朋誠堂喜三二(平沢平格)の著にして、画は喜多川歌麿の門人行麿の筆なり、此書が絶版となりしは、    其序文にも「質勝文野暮也、文勝質高慢也、文質元結人品として、月代青き君子国、五穀の外に挽ぬき    の、おそばさらずの重忠が、智恵の斗枡に謀られし、大小名の不知の山、三国一斗一生の、恥を晒せし    七温泉の垢とけて、三島にあらぬ大磯の化粧水に、しらげすませし文武二道万石通と名けしを云々」と    ある如く、これ天明七年六月、松平越中守定信が幕府の老中となりて、諸政を改革し、文武二道の奨励    をなせし事を諷刺せしものにして、記述は鎌倉時代の事に托しあれども、全篇の主旨は、松平定信の政    策を愚視せしものなりしかば、市民の好評を得て売行盛んなりしが、忽ち絶版の命を受くるに至りしな    り    著者喜三二こと平沢平格は、佐竹藩の留守居にして、多能の人なりしも、此戯作のため、藩主より諭旨    ありて、爾後戯作の筆を絶ちしといふ〟
    『文武二道万石通』朋誠堂喜三二作・行麿画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)  ☆ 寛政元年(1789)  ◯「天下一面鏡梅鉢」p77   〝唐来三和の著にして、画は栄松斎長喜なり、天明九年即ち寛政元年の出版なるが、是亦前の『文武二道    万石通』と同じく、白河楽翁こと松平定信の文武二道奨励政策を暗に批評したる戯作なりしがため、同    く絶版の命を受けたるなり、其目次にも「上の巻、末白川の浪風も治まりなびく豊年の国民「中の巻、    天下太平を并べ行はるゝ文武の両道「下の巻、月額青き聖代も有り難き日本の風俗」とありて、天満天    神の神徳に擬して褒むるが如くなれども、実は愚弄したる戯作なりしなり〟
    『天下一面鏡梅鉢』唐来三和作・長喜画(東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)  ☆ 寛政元年(1789)  ◯「鸚鵡返文武二道」p78   〝恋川春町の著にして、画は北尾政美の筆なり、此黄表紙も亦前に同じく絶版となる、『青本年表』寛政    元年の項に曰く     鸚鵡返文武二道は、前年喜三二の出せる文武二道万石通の後編に擬しての作なれば、所謂文武のお世     話を主題とし、以て怯弱游惰の武士を微塵に罵倒せし痛快の諷刺作なれば、洛陽の紙価を動せし売行     にて、好評嘖々たりしも亦主家(松平丹後守)の圧迫に遭ふのみならず、一身の進退に関係を及ぼさ     む勢なりしに、今秋七月を以て不帰の客となりし云々〟  ☆ 寛政元年(1789)  ◯「黒白水鏡」p79   〝石部琴好の著にして、画は北尾政演の筆なり、此黄表紙も亦絶版となり、著画者は刑を受けたり、『法    制論簒』に曰く、     寛政元年の春、石部琴好と戯名せし者、『黒白水鏡』と題して、黄表紙と称する草双紙を著し、北尾     政演これを画けり、琴好は本所亀沢町に住せる用達町人松崎仙右衛門といへる者にて、政演は山東京     伝のことなり、然るに此の冊子は天明の始め、麾下の士佐野政言(善左衛門)が当時威勢熾なりし老     中田沼意次を、営中にて刃傷に及びし次第を書綴り、絵を加へたるものなるからに、忽ち絶版を命ぜ     られ、作者琴好は数日手鎖の後、江戸払となり、画工は過料申付けられたりき〟
    『黒白水鏡』石部琴好作・北尾政演画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)  ☆ 寛政三年(1791)  ◯「仕懸文庫、錦の裏、娼妓絹籭」p81   〝明和安永頃より洒落本又は蒟蒻本といへる、遊里遊女遊客等の状態を細写せる小冊物流行し、戯作者山    東京伝(浮世絵師北尾政演)の如きも亦其時弊に投じて著作したるもの少からざりしが、前項所載の取    締令の発布ありしにも拘らず、本年も亦重ねて此三種(各一冊)の蒟蒻本を出版せしががめ、版元蔦屋    重三郎は財産半没収、著者京伝は戯作者界に前例なき手鎖の刑を受けたり、其吟味始末書に曰く       新両替町一丁目家主伝左衛門悴    伝蔵  三十一歳     右之者儀親伝左衛門手前に罷在浮世絵と申習し候絵を認め本屋共へ売渡渡世仕候処、五六年以前より     不計草双紙読本の類作り出し、右本屋共へ相対仕作料取て売渡来候に付、当春も新板の品売出可申と、     去年春頃より追々作り置候仕懸文庫と申す外題の読本其外、錦之裏、娼妓絹籭と申読本、右三部の内     仕懸文庫と申は御当地深川辺料理茶屋にて、遊興致候体を合含并古来より歌舞伎芝居にて狂言仕候曾     我物語の趣向に当地の風俗を古今に準へ書つゞり、錦之裏と申は前々より浄瑠璃本に有之摂津神崎の     夕霧と申遊女、伊左衛門と申町人と相馴染る趣、并に娼妓絹籭の儀は是亦浄瑠璃本に有之候大阪新町     の梅川と申遊女、忠兵衛と申町人に相馴染候趣を御当代新吉原町の体に準へ相綴り、同七月中右三部     共、前々取引仕候草双紙問屋蔦屋重三郎(蔦屋)方へ売遣候、対談にて相渡作料画工共紙一枚に付代     銀一匁づゝの割合にて、三部代百四十六匁、金に直し金二両三分銀十一匁の内、其節為内金金一両銀     五匁請求候処、同十月の町触に(云々中略)申渡有之承知致罷有候上は其以前重三郎方へ渡置候読本     も同人より行事改更へ可仕儀差図候得共、右三部は遊女の放埒の体を書綴り候本に候得ば行事共へ改     為請候に不及、右の段早速重三郎方へ申談じ売買為致間敷儀に候処、重三郎儀は前書町触以前右本の     板木出来致候に付摺取、同十二月廿日草双紙問屋行事共方へ持参り改更候処、売捌候ても不苦候旨差     図致候由にて三部共可売出段、其砌重三郎申聞、右に付当春已以来右本重三郎方より売出候処、此度     呼出有之吟味に相成候旨申候、此者去年中重三郎より受取候作料残金の儀は右三部共当春より重三郎     方にて売捌の売高の多少に寄り代金増減仕、追々受取の積り、兼ての対談に付、右残金は未請取不申     罷在候旨、右の外去年より当年に至り、読本等作出売渡候儀無之、畢竟余分売捌の儀専一心掛候故、     寓言而已を重に致書綴り候儀有之旨申候に付、書物の類の儀前々より厳敷申渡候趣も有之、殊に去年     猶又町触も有之候処、等閑に相心得放埒の読本作出候て重三郎へ売捌きの段、不埒の旨吟味受無申訳     誤入候旨申候間、五十日手鎖申付候       亥三月        初鹿野河内守      〔頭注〕蔦屋重三郎    同人に対する吟味始末書は、京伝と略ぼ同一にして管々しきにより省く、言渡は「身上半減の闕所」と    いへるなり〟     『仕懸文庫』 『青楼昼之世界錦之裏』 『娼妓絹籭』 山東京伝作・画     (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)  ☆ 寛政三年(1791)  ◯「辰巳婦言」p91   〝式亭三馬の著にして、関東米の序、馬笑の跋、喜多川歌麿筆の口絵普賢像あり、小本一冊にして、「石    場妓談」と標せり、石場とは江戸深川の花街七場所の一なり、其地に於ける妓女の痴態を写せるものに    して、所謂蒟蒻本なり、此書亦風教に害ありとして絶版の命を受けたりといふ、されど著者には何等の    累を及ぼさゞりしが如し〟
   『辰巳婦言』口絵歌麿筆(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)  ☆ 寛政十一年(1799)  ◯「侠太平記向鉢巻」p92   〝式亭三馬(菊池太輔)の著にして、画は北尾重政の筆なり、黄表紙三冊物、此書は絶版なりしにあらざ    れども、御用火消組の者を誹謗したるがため、騒擾を起したりとて、著者三馬は手鎖の刑を受けしなり、    『青本年表』に曰く     寛政十一年正月五日、式亭三馬並西村新六の二家、よ組鳶人足の為めに破壊せられ、遂に公事となり、     後ち人足数名は入牢し、新六は過料、作者は手鎖五十日に処せらる、其起因は客歳鳶人足間に闘争の     事実ありしに基づき、今春『侠太平記向鉢巻』の作を出せしに、其書中によ組の鳶を誹謗せし点あり     しとて、此騒擾を惹起せしなり、然れども三馬はこれが為めに其の名を高めしとなり〟     〈宮武外骨は『侠太平記向鉢巻』の画工を北尾重政とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は初代豊国画    とする〉
   『侠太平記向鉢巻』式亭三馬作・歌川豊国画(国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 享和二年(1802)  ◯「婦足鬜」p95   〝成三楼酒盛の著にして、子興(栄松斎長喜)筆の口絵あり、是亦淫猥の蒟蒻本なりしがため、直ちに絶    版の命を受けたり、其一節に「堪忍しておくんなんしと例の殺し目尻でにつこり、此時の顔、うちへ帰    つても、立つても居ても、寝てもさめても、ちら/\見ゆべし、これより咄いたつて低くなり、何か聞    へるやうで、聞こへぬやうなり云々」とあり、其キワドキ細写の一斑と知るべし     〔頭注〕鬜    此字を「かむろ」とよむよし、通気多志と冠して「つきだし、ふたりかむろ」といへり、面倒臭き洒落    にてありける〟
   『婦足禿』成三楼主人作・子興画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)  ☆ 享和二年(1802)  ◯「絵本年代記」p97   〝秋里湘夕(籬島)の著にして、挿画は西村中和の筆なり、湘夕が盛んに名所図会の類を編纂せる間に於    て著したるものにして、神代より人皇四十九代までの年代記を大本五冊に分てり、『絶焼録』の絶版書    目中に此書を加へてあれど、其絶版の理由は解し難し、或は『天神七代記』に類せるものならんか〟
   『絵本年代記』(東京学芸大学付属図書館「望月文庫往来物目録・画像データベース」)     〈望月文庫所蔵本は江戸版で、著者名及び画工名の記載がない。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は上記本を    籬島著・中和画とする〉  ☆ 享和三年(1803)  ◯「絵本戯場年中鑑」p97   〝篁竹里の著にして、挿画は歌川豊国の筆なり、全三冊、劇場に於ける正月の仕初より十二月の舞納に至    る迄の行事を記し、衣裳小道具等の図をも出せるものなるが、劇道の秘密を漏らせしとて「芝居太夫元    より擦当を受け絶版となりしものと伝ふ」と浅草文庫蔵本の添書にあれど、此類の羽勘三台図会、芝居    年中行事、戯子名所図会、戯場楽屋図会、戯場訓蒙図彙等、此前後に於て刊行されしもの多くあるに、    何等の事なくして、只特に此書のみが擦当を受けしといふこと、其真否判定し難し   〔頭注〕戯場年中鑑    役者の似顔絵をよくし、亦劇道通たりし初代歌川豊国の筆なれば、其妙趣賞玩に余りあるものなり〟
    『絵本戯場年中鑑』篁竹里著・歌川豊国筆(東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)  ☆ 文化元年(1804)  ◯「絵本拾遺信長記」p99   〝権現様(家康)の御儀は勿論総て御当家の御事、板行書本自今無用に可仕候といへるは、享保七年の幕    府令なりしが、文化元年に至りては、家康の事のみならず、天正以来の武将に関する事をも厳禁し、絵    草紙の武者絵に、名前紋所合印等を入るゝをも禁じたりしが、是亦前にいへるが如く、家康が譎詐奸計    を以て、天下を横領せし事実を、諸人に知らしめざらんとするにあり、此『絵本拾遺信長記』絶版のこ    とも亦これが為めなり、『大阪書籍商旧記類纂』に本屋行事より奉行所に出せし上書あり     一 絵本拾遺信長記、寛政十二年申年初編より後編迄追々新板の儀願上、同十三酉年御聞届の上追々       板行摺立売買罷在候処、此度於江戸表、右本売捌御差留右絵本御取上に相成候に付、元板も絶板       被仰付、摺立有し板本七十九冊并板木百五十枚御取上、以来板行仕間敷候、且是迄売捌候板本の       内、此後売先相分り候はゞ取集め可差出旨、被仰渡奉畏候    一旦許可せしものを、其出版後に至りて直ちに絶版を命ずるとは、御無理不尤の至極にして書肆の損害    も亦少からざりしなるべし   〔頭注〕絵草紙取締令    幕府が文化元年五月、絵草紙問屋行事に達したる令左の如し     絵草紙類之儀ニ付、度々町触申渡之趣有之候処、如何成品商売致不埒之至ニ付、今般吟味之上夫々咎     申付候、以来左之通可相心得候     一 壱枚絵草紙類、天正之頃以来之武者等名前を顕し画候儀は勿論、紋所合印名前等紛らは敷認め候       儀も決相致間敷候     一 壱枚絵に和歌之類並景色之地又は角力取歌舞伎役者遊女之名前等は格別、其外之詞書一切認間敷       候     一 彩色摺致し候絵本双紙等、近来多く相見え不埒ニ候、以来絵本双紙等は墨斗ニて板行致し、彩色       を加へ候儀無用ニ候〟     〈秋里籬島の『絵本拾遺信長記』は、初編が丹羽桃渓の画で享和三年(1803)の刊行、後編は多賀如圭(流光斎)の画で文    化元年(1804)の刊行である〉
    『絵本拾遺信長記』丹羽桃渓・多賀如圭画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)  ◯「絵本太閤記及絵草紙」p100   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太閤記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり      〔頭注〕喜多川歌麿    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖のあまり、心せきて玉山が著したる絵本太閤記の事を申述べたりしによりて、同書も出板を禁ぜられ    たるは、此道のために惜むべく、且板元に対して気の毒にて、己れ一世の過失なりと語れりといふ、さ    れば絵本太閤記が七編までにて絶版になりしは、これが為なりと『浮世絵画人伝』にあり    歌麿絵本太閤記の図を出して御咎を受たり、其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく死す    と『浮世絵類考』にあれども、其再度の御咎といふ事真否不詳なり         化物太閤記 十返舎一九作画 黄表紙二冊 山口屋忠兵衛版       享和四子初春(即文化元年)出版      全編悉く化物の絵と物語のみなれど、其化物の紋所又は旗印等に戦国次代の諸将即ち織田、明智、      真田、豊臣等の紋又は合印を附けて諷刺の意を寓しあるなり〟
    『太閤五妻洛東遊覧之図』三枚組左 三枚組中 三枚組右 歌麿筆(東京国立博物館所蔵)
    『絵本太閤記』 法橋玉山画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
   『化物太閤記』十返舎一九作・画〔『筆禍史』所収〕    ☆ 文化二年(1805)  ◯「近世奇跡考」p106   〝山東京伝作「此書文化元年に印行するや、雅俗倶に賞鑑して多く売れべき勢いなりしに、第五巻に英一    蝶の伝記をしるし、朝妻舟の歌の考証したるより、一蝶の末派一蜂(三世か)怒りて理不尽にも、京伝    方へ六ヶ敷掛合に及びしかば、京伝大に驚き、異議もなきよしを、板元大和田安兵衛に告知らせて其板    を摧きけり、京伝は寛政の初め洒落本の咎ありしより、をさ/\謹慎を旨としたれば、当時冊子の稿本    を町年寄に提出して免許を乞ひし折なれば、故ありて奇跡考は板元自ら絶版すといふよしを、大和田安    兵衛書林行事と共に役所へ届出たりといふ」(無聲雑簒)    予の蔵本『近世奇跡考』を見るに、其第五巻に出せる英一蝶伝の「俳号を暁雲又和央と云ふ」の下二行    半ほど削り去りて無し、一蜂が厳談に及びし点は、此所の記事なりしならんか、其板を摧きて絶版とな    りしなるべし、其後右の原版本を入手せしが、奥書に「文化改元甲子十二月云々、江戸大伝馬二丁目大    和田安兵衛梓」とあり、翻刻本に削去あるは「俳号を暁雲又和央と云」の次     元禄十一年十二月【元禄八年トスルハ非ナリ】呉服町一丁目新道に住し時。故ありて謫せらる。時に     年四十七。謫居にある事十二年。宝永六年九月【宝永四年トスルハ非ナリ】帰郷して後。英「一蝶と     称し云々」に続ける二行半なり        〔頭注〕削去の歌    再刻本には朝妻舟の歌の中、    一蝶謫居の自詠と見るべき左の一章をも削去しあり     うきをかたらん友さへなくて。なぐさめかねつわが心あらうつゝなや。     すぎしつたへのその水ぐきの、くろみしあとを見るにつらさのいやますなみだは。     あはれとそでもとらへかし〟  ☆ 文化五年(1808)  ◯「商人金采配」p107   〝『日本小説年表』に「商人金采配三冊、十返舎一九画作、文化五年刊、此草紙出版の際、函館一件に付    障る事あり、暫く禁売せらる」とあり    右の函館一件とは露艦来寇をいへるなるべし、障る事の何たるは知らずといへども、其実物を一閲する    に、商家の番頭が若旦那を勘当せしめて一家を横領し、後終に負債山をなすに至り、其悪番頭を放逐し    て若旦那を呼帰し、漸く商運復旧すといふ筋なり、何かの寓意はあるならんも、函館一件の諷刺と見え    しは、幕吏の誤解たりしこと判明して、間もなく解禁となりしものならんか〟
   『商人金の采配』 十返舎一九作・画(国立国会図書館デジタルコレクション)    ☆ 文政十年(1827)  ◯「阿漕物語後編」p112   〝『阿漕物語』の前編四巻は文化六年式亭三馬の著なり、勢洲阿漕ヶ浦の争乱を基としたる小説にして、    例の平次等と共に忠臣孝子烈婦等を描出したるものなるが、此後編は其あとを継げる為永春水の著なり、    『国書解題子に曰く     阿漕物語後編(六巻)式亭三馬の阿漕物語の続編なり、即ち三馬が前帙の例言に「這の書編述未だ稿     を畢らず、全部八巻、先づ半を裂て世に広くす、後帙四本、開市を俟て高覧あらば、余が幸甚しから     ん」と記せるが、其の後其の志を果さずして病没したりければ、其の遺意を受けて門人狂訓亭三鷺     (為永春水)之れを補定し、歌川国安画図の業に与りて、一書を成せる所なり、文政九年丙戌秋七月     の序あり、全編六巻十齣より成れり、但し本書は頗る当時の子女の嗜好に適し、大に其名を博したる     が、風俗壌乱故を以て罰せられ、書は悉く絶版せられたり    如何なる刑罰を受けたるかは未詳なり、又此書絶版と成し事も右の記事にて見るのみ    さて風俗壌乱とは那辺の記事なるかと、試みに通覧すれども、此処ぞと云ふべき点もなし、     (*以下、記事の引用あり、略)    著者春水が後年の『春色梅暦』に筆せるが如き誨淫卑猥の個所はなかりし、之を当時幕府が風教上に害    ありとして絶版を命じたりとは思はれず、或は『東鑑』に拠れる鎌倉時代の物語といふと雖も、実は仮    托にして、近き諷喩の意あるものと認めしにもありしならんか〟
   『阿古義物語』後輯 狂訓亭楚満人(為永春水)作・歌川国安画(ARC古典籍ポータルデータベース)     〈宮武外骨は『阿古義物語』後輯の刊行年を文政十年とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は文政九年    刊とする〉  ◯『兎園小説余録』〔新燕石〕⑥389(滝沢解著 文政十年記事)   〝大空武左衛門    文政十年丁亥夏五月、江戸に来ぬる大男、大空武左衛門は、熊本侯の領分肥後州増城郡矢部庄田所村なる    農民の子也。今茲二十有五になりぬ。身の長(タケ)左の如し     一 身の長(タケ) 七尺三寸   一 掌 一尺     一 跖     一尺一寸五分 一 身の重サ 三十二貫目     一 衣類着丈ケ 五尺一寸   一 身幅   前九寸後一尺     一 袖     一尺五寸五分 一 肩行 二尺二寸五分    全身痩形にて頭小さく、帯より下いと長く見ゆ。右武左衛門は熊本老侯御供にて、当丁亥五月十一日、江    戸屋敷に来着、当時巷談街設には、牛をまたぎしにより、牛股と号するなどいへりは、虚説也、大空の号    は、大坂にて相撲取等が願出しかば、侯より賜ふといふ。是実説也。武左衛門が父母并兄弟は、尋常の身    の長ケ也とぞ、父は既に没して、今は母のみあり、生来温柔にして小心也、力量はいまだためし見たるこ    となしといふ、右は同年の夏六月廿五日、亡友関東陽が柳河侯下谷の邸にて、武左衛門に面話せし折、聞    見のまに/\書つけたるを写すもの也、下に粘ずる武左衛門が指掌の図は、右の席上にて紙に印したるを    模写す、当時武左衛門が手形也とて、坊売の板せしもの両三枚ありしが、皆これとおなじならず、又武左    衛門が肖像の錦絵数十種出たり。【手拭にも染出せしもの一二種あり】後には春画めきたる猥褻の画さへ    摺出せしかば、その筋なら役人より、あなぐり禁じて、みだりがはしきものならぬも、彼が姿絵は皆絶版    せられにけり、当時人口に膾炙して、流行甚しかりし事想像(オモヒヤ)るべ(以下略)〟  ☆ 天保十三年(1842)  ◯「絵草紙人情本等取締厳令」p133   〝六月四日幕府令を下し、俳優妓女等の一枚摺錦絵の刷行并売買を禁じ、且つ合巻絵双紙の絵組に俳優の    似顔狂言の趣向を用ゐ、或は表紙上包に一切彩色を施す事を厳禁す、七月幕府更に令を発し、人情本の    売買貸借を禁止し、書肆蔵する所の該書冊并板木を没収せらる。    十一月晦日令を書肆組合世話掛名主に下し、合巻絵草紙の類、都て草稿中に掛りの名主月番の認印を受    け、出版の際査照せしむる事とせり     大久保葩雪曰、草双紙の全盛期は此五六年以前より打続き、極彩色の表紙を附し、上包にまで彩色を     施して、専ら美麗に仕立られありしに、此夏六月閣老水野越前守が風俗矯正の厳法は、是等の出板売     買を禁止し、翌月は又人情本の売買貸借を禁止するのみならず、現在の板木及び書冊を悉皆没収し、     冬に至りて原稿検閲の制を厳にする等、当時の出版界を驚動戦慄せしめたるは、大に峻酷の如くなる     も、時の風紀を戒飾矯正し、奢侈淫風の盛んなる人心をして、勤倹主義に誘導するの策としては、時     の有司の当然執るべき手段にして、水野閣老が果断の措置を称揚せざるべからず     当時に於ける草双紙の内容は、云ふまでもなく、男女の痴態情話を唯一の骨子として作意となすの外、     他に着想なきものゝ如く、又一面には一層激烈なる人情本の行はるゝあれば、公然の秘密とも謂ふべ     き竹天屯日の冊子類、亦闊歩横行する等、風俗の紊乱は、殆ど頂点に達したる堕落社会なれば、極端     なる法令にあらずんば、到底矯正の実を挙ぐること難かりしなるべし、されば此法網に包み纏はれた     る当年の稗史界は、呆然自失したりしなるべく、加ふるに十一月晦日に下りし原稿検閲令は、板元な     る書肆に対して如何に大打撃を与へたりしか、想像するに余りあり(増補続青本年表)〟    ☆ 天保十三年(1842)  ◯「人情本春画本数種」p138   〝為永春水の著作なり、その題号は未だ詳かならず、『春色梅暦』なりといふ人あれども、同書は天保三    年四年の出版なるを以て、その時代違へり、春水は、春色辰巳の園、春雨日記、春色恵の花、春色恋の    白波、梅の春、春告鳥、春色籬の梅、春色田舎の花、春の若草、春色玉兎、春色霞の紫、春の月、春色    花見舟など題せし人情本といへるものを数多く公刊せしめたりしが、いづれも誨淫小説にして、其名の    如く春画好色本に似たる卑猥の作のみなりし(秘密出版の春画好色本も亦多し)、斯くの如き風致に害    ある著作を専らとせしがため、其最後天保十二年の出版にかゝる「梅暦再開」といへる『春色花見舟』    及び春画本にて捕へられたるならん、『著作堂雑記』に曰く     天保十二年丑十二月、春画本並に人情本と唱へ候中本の儀に付、板元丁子屋平兵衛外七人、並に中本     作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉殿北町奉行所え召出され、御吟味有之、同月二十九     日春画本中本の板木凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行ぇ差出候、翌寅年春正月下旬より右の一     件又御吟味有之、二月五日板元等家主へ御預けに相成、作者為永春水事長次郎は御吟味中手鎖を掛ら     れ、四月に至り板元等御預け御免、六月十一日裁許落着せり、右の板は皆絶版に相成、悉く打砕きて     焼棄られ、板元等は過料全各五貫文、外に売得金七両とやら各召上られ、作者為永春水は改めてとが     め手鎖を掛けられて、右一件落着す    版木五車程といへば、其数多しといへども、春画本等を合せての事なれば、人情本は二三編の版木に過    ぎざるべし、『法制論簒』に拠りて、春水に対する申渡書を左に録す       神田多町一丁目五郎兵衛店    為永春水事    長次郎     其方儀絵本草紙の類風俗の為に不相成猥ヶ敷事又は異説等書綴り作出し候儀無用可致旨町触に相背地     本屋共より誂へ候とて人情本と唱候小冊物著作致右之内には婦女の勧善にも可相成と心得違致不束之     事ども書顕し剰へ遊所放蕩之体を絵入に仕組遣し手間賃請取候段不埒に付手鎖申付る          〔頭注〕其人格と家庭    為永春水教訓亭号す、文政中人のために吾(馬琴)旧作の読本抔を筆削し、再板させて多く毒を流した    れば、実に憎むべき者なり、性酒を貪りて飽くことを知らず、且壬寅の秋より人情本という中本一件に    て、久しく手鎖を掛けられたる心労と内損にて終に起たずといふ、子なし養女一人あり、某侯へ妾にま    いらせしに近ごろ暇をたまはりて他人へ嫁しけるに、其婿強飲粋狂人にて親の苦労を増たりといふ(著    作堂雑記)     〈手鎖刑の原因とされる天保十二年の『春色花見舟』とは翌十三年にかけて出版された『春色梅美婦禰』の誤記であろう    か。画工は歌川国直静斎英一である〉    ◯「偐紫田舎源氏と水揚帳」p139   〝柳亭種彦著なり、『戯曲小説通志』に曰く     田舎源氏は頗る傑作として当時に持囃されたり、此書たるや、源氏物語を根拠として時代を近古に取     り、文詞の優麗、語句の精妙は云ふに及ばず、数十婦女の容貌気質を写出して、各種各様、姿を換へ     態を異にし、筆々変転、絶えて類似の痕跡だに露はさゞるが如き、実に草双紙中の覇王たり(中略)     然れども種彦が禍を買ひしも、亦此田舎源氏に在り、天保十三年閣老水野忠邦の弊政を釐革し、風紀     を匡正するや、卑猥の稗史小説を挙げて悉く絶版を命ぜしが、此際人あり上告して云く、種彦幕府の     禄を食み徒に無用の文筆を弄し、其著はす所の田舎源氏は、托して以て殿中の陰事を訐きたるものな     りと、是に於て種彦亦吏の糾訊する所となれり、然れども組頭の弁疏頗る理ありしかば、事暫く解く     ることを得たり、此より種彦禍の其身に及ばんことを憂ひ、恐懼の余り終に病を発し、同年七月十八     日を以て歿す、享年六十歳。    又『史海』には、柳亭種彦が其著『水揚帳』といへる春画本のために、糾問を受けんとせし事ありし旨    を記せり、又種彦は病死に非ずして自殺なりとの説あり、大槻翁の談に曰く      柳亭種彦自殺説      柳亭種彦は本名高屋彦四郎といふ旗本の士であつたが、最初田舎源氏のために、高屋彦四郎名義宛の     差紙(呼出状)が来たので、奉行所へ出頭すると、奉行遠山が「其方の宅に柳亭種彦といふ戯作者が     居るそうであるが、近年如何はしい作本をいたして不都合であるから、其方より以後はさやうの戯作     相成らぬやう申聞けよ」と達せられた、役人の方では、彦四郎と種彦とは同人であることを知つて居     ながらの訓戒であつたのだ、そこで当日種彦は、唯々恐縮低頭で引下つたが、さて其後『水揚帳』と     いふ春画本も、種彦の作なりと告げる者があつたので、奉行所から再び差紙が来た、すると種彦大き     に愕いて、今度は迚も逭れられまいが、何とか方策はあるまいかと心配の極、兎も角もとて、病気届     をして出頭の延期を願つた、ところが「病気の由なれどもたつて出頭これあるべし」と重ねての差紙     が来たので、種彦は其夜終に自殺をして、昨夜病死いたし候といふ死亡届をなさしめたのであるそう     な、しかし、種彦の門人梅彦などは此説を非認して居たが、某々等は自殺を事実として居た云々       〔頭注〕淫書研究家の著作    柳亭種彦は淫書研究家たりしなり『春画好色本目録』といへる元禄前刊行の絵入本解題の著あり、また    『水揚帳』のみならず『春色入船帳』外数種の淫本をも著作して秘密に出版せしめたりといふ              源氏絵の大流行    『田舎源氏』は徳川大奥の状態を写せしものなりとて、満都の歓迎を受け其売行も非常なりしかば、当    時その『田舎源氏』によれる源氏絵といふ錦絵大に流行せり              田舎源氏の版元    天保十三年寅六月、合巻絵草紙田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行所へ召出され、田舎源氏作者種彦    へ作料何程宛遣し候哉を吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板残らず差出すべしと被仰付候、鶴    屋は近来渡世向弥不如意に相成候故、田舎源氏卅九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請    出し則ち町奉行所へ差出候処、先づ上置候様被仰渡て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なる    べしと云(著作堂雑記)〟     〈『偐紫田舎源氏』の画工はすべて歌川国貞。『水揚帳』は婦喜用又平(国貞)画で天保七年刊。『春色入船帳』は九尻    亭佐寝彦(種彦)篇・一妙開程よし(国芳)画で天保八年刊〉
   『偐紫田舎源氏』 柳亭種彦作・歌川国貞画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ 天保十四年(1843)  ◯「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」p146   〝一勇斎歌川国芳が画ける錦絵に、頼光病臥なして四天央是を守護し、様々の怪物頼光をなやますの図は、    当時幕政に苦しむの民を怪物なりとし四天王を閣老なりと、誰いひふらしけるとなく、其筋の聞く所と    なりて、既に国芳は捕縛せられ、種々吟味せられしが、漸くにして言訳、からくも免罪せられしといふ    とは『浮世絵師系伝』の記事なるが『浮世絵画人伝』には左の如くあり     天保十四年の夏、源頼光土蜘蛛の精に悩まさるゝ恠異の図を錦絵にものし、当時の政体を誹毀するの     寓意ありて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき、其寓意と云へるは、頼光を徳川十二代将     軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精に悩まさるゝの意に比した     りといふにありき(浮世絵画人伝)    当時玉蘭斎貞秀も亦国芳の頼光四天王図に模倣したるものを描きて出版せしがため、貞秀及び版元等関    係者四名は過料五貫文宛に処せられ、販売せし絵草紙屋は売得金没収の上、過料三貫文に処せられたり    と『浮世絵編年史』にあり     天保十四年十二月二十六日、歌川貞秀等戯画の事にて罰せらる(中略)右は国芳画頼光四天王の上に     化物有之絵に種々浮説を書含め彫刻絵商人共売方宜敷候に付、又候右の絵に似寄候錦絵仕立候はゞ可     宜旨久太郎存付最初は四天王土蜘蛛の下絵を以て改を請相済候後貞秀に申談四天王の上の土蜘蛛を除     き種々妄説を付化物に仕換改を不請摺立売捌候段不埒の次第に付右の通り過料申付           〔頭注〕摸倣絵と縮刻絵    『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』が売行よかりし事は、貞秀等に対する刑罰申渡書中にもある如くに、当    時類似の物も数種出たるなり、同じ一勇斎国芳の筆にても、頼光が土蜘蛛を退治するの図もあり、いづ    れも彩色ある大錦絵形三枚続なり     雨花子の寄書に曰く    頼光土蜘蛛の錦絵に付きては、『黄梁一夢』に左の記事あり     (上略)解者曰、其四天王暗指当時執政、群鬼中分得意者、与失業者、為甲乙、又皆有暗符歴々可徴、     一時流伝、洛陽為之紙貴、巳而官停其発行    なほ当時の落首等の中、耀甲斐(鳥居耀蔵)咄し中「手下の化物には一ッ目小僧(長崎与力小笠原貢三    のことを指すなりとぞ)小菅小僧(普請役小菅幸三郎)金田小僧(勘定組頭金田郁三郎)云々」とあれ    ば是等も右の錦絵中にあるならんか〟
    「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」「土蜘蛛妖怪図」一勇斎国芳画・玉蘭斎貞秀筆      (「浮世絵と囲碁」「頼光と土蜘蛛」図版6-4・6-6 ウィリアム・ピンカード著)    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯「御代の若餅」p118   〝歌川芳虎筆の一枚版行絵なり(縦一尺二寸横八寸五分)其全図は左に縮摸するが如く、武者共の餅つき    絵なるが、其模様中の紋章等にて察すれば、織田信長が明智光秀と共に餅をつき、其つきたる餅を豊臣    秀吉がのしをし、徳川家康は座して其餅を食する図なり、要するに徳川家康は巧みに立廻りて、天下を    併呑するに至りしといへる寓意なり、徳川幕府の創業は殆ど此絵の寓意に近きものなれども、家康が何    の労力をもせずして、大将軍の職に就きしが如くいへるは、其狡猾を諷せしものなれば、何條黙せん此    版行絵は忽ち絶版の厳命に接せり、しかのみならず、文化元年五月、幕府が令を下して、天正以来の武    者絵に名前又は紋所、合印等の記入を禁じあるにも拘らず、之を犯したるは不埒なりとて、画者芳虎は    手鎖五十日の刑に処せられ、版木焼棄の上、版元の某も亦同じ罰を受けたりといふ    右の事実は古記録にて見たるにあらず、画者芳虎は明治の初年頃まで生存し居り、其頃同人直接の懐旧    談にて聞きしといへる、某老人の物語に拠れるなり     歌川芳虎は一勇斎国芳の門人にして一猛斎と号し、豪放不羈の性質なりしといふ      〔頭注〕水滸伝長屋    一猛斎芳虎は、水滸伝百八人の錦絵を描きて好評を博したる一勇斎国芳の門人なりしかば、自己の居住    せる長屋に水滸伝の放逸人物のみを集めて、水滸伝長屋と称し居たりと『雅三俗四』にあり〟
   「御代の若餅」一猛斎芳虎画(早稲田大学図書館所蔵)             〈「道外武者御代の若餅」は、餅を搗くのが織田信長、以下、捏ね取り明智光秀、餅を延ばすのが豊臣秀吉、最後に竜     頭の兜を被って餅を食っているのが徳川家康。神君が一番おいしいところをもっていったと言う寓意は明らかである。     当初、改め名主がその寓意に気がつかず、いったん市中に出まわってしまったのだが、半日ほどして噂が立ち、あわ     てて回収にまわったといういわく付きのものである。     『筆禍史』は天保八年刊(1837)とするが、『藤岡屋日記』は嘉永二年(1849)とする。ちょうど十二年の隔たり。芳     虎本人から直接聞いたという某老人、あるいは、芳虎が酉年と答えたのを、嘉永二年(1849)ではなく一回り昔の天保     八年と受け取ったのかもしれない。『藤岡屋日記』嘉永二年の項、参照されたい。『雅三俗四』は石井研堂著・明治     三十四年刊〉    ☆ 嘉永三年(1850)  ◯「浮世絵師説諭」p154   〝同年八月十五日、錦絵の認め方につき、浮世絵師数名役人の糾問を受けたる事あり、『御仕置例題集』    によりて其憐愍書の一節を左に録す     一体絵類の内人物の不似合の紋所等認入れ又は異形の亡霊等紋所を付け其外時代違の武器取合せ其外     にも紛敷く兎角考為合買人に疑察為致候様専ら心掛候哉に相聞え殊に絵師共の内私共別て所業不宜段     入御聴重々奉恐入候今般の御沙汰心魂に徹し恐縮仕候    以下尚長々と認めて、此度限り特別に御憐察を乞ふ旨を記せり、其連名左の如し              新和泉町又兵衛店      国芳事  孫三郎              同人方同居         芳藤事  藤太郎              難鞘町六左衛門店      芳虎事  辰五郎              本町二丁目久次郎店清三郎弟 芳艶事  万吉              亀戸町孫兵衛店       貞秀事  兼次郎       南隠密御廻定御廻御役人衆中様           隠密といへるは現今の刑事巡査(探偵)の如きなり、浮世絵師数名はあやまり證文にて起訴さるゝ事も    なく、平穏に済みたるなり      〔頭注〕浮世絵師四名    いづれも歌川派の浮世絵師なり、国芳は初代一陽斎豊国の門人、芳藤芳虎芳艶は国芳の門人、貞秀は国    貞の門人なり     国芳  一勇斎 井草孫三郎     芳藤  一鵬斎 西村藤太郎     芳虎  一猛斎 永島辰五郎     芳艶  一英斎 三輪 万吉     貞秀  玉蘭斎 橋本兼次郎〟    ☆ 嘉永五年(1852)  ◯「時世策」p155   〝浮田一恵は土佐派の画人なり、京師の人姓は豊臣内藤允と称す、初めは名は公信、後ち可為と改む(中    略)常に門生に謂て曰く、画は小技と雖も、半ば教に関す徒に美花錦鳥を画て、俗眼を慰するは我徒に    非るなりと、一恵慷慨にして気節あり、嘉永癸丑米艦の来るや、江戸に在りて其子可成に謂て曰く、志    士国に報するの秋なり、然れども右族巨藩に依頼するに非ざれば必成らずと、乃ち長州藩に請て可成を    其の隊伍に編す、既にして幕府和を講じ米艦去る、一恵憤に勝へず、毎に画を乞ふ者あれば、神風夷艦    を覆すの図を作り以て之を与ふ、蓋し士気を振作せしめんとするなり、安政元年米艦再び来る、一恵可    成を遣はし其形勢を察せしめ、其地理を図り策する所あらんとす、其年皇城火災あり一恵書院の寄人に    斑し、御屏風を書き褒賞を賜はる、是時に当り外患日々に迫り国事甚だ非なり、乃ち当路者某に因り時    勢策一編を上る、天子之を嘉納し其名を問へば則御屏を画く者なりと、五年九月幕吏一恵の父子を獄に    繋き、尋て江戸に押送す、京師の人池内大学亦た踵て至る、一日幕吏同く之を詰す、一恵義を執り屈せ    ず、大学吐言曖昧たり一恵囚室に還り、大に怒て大学を責て曰く、汝ち士に非ずや、大丈夫寧ろ溝中の    鬼となるとも豈に節を屈す可んや、可成素と大学と友とし善し、乃ち可成に謂て曰く、汝速に大学と交    友を絶てよ、肯ざれば吾汝と絶たんと、君臣の大義を論ずる声室外に聞ゆ、六月十日父子釈されて京師    に帰る、一恵囚中瘡を病み遂に癒えずして歿す、年六十五、時に安政六年十一月十四日なり、文久二年    父子の罪名を免じ、明治二十四年従四位を賜る、可成後ち長州侯に禄せられ宮内省出仕と為るといふ、    新編先哲叢談、石亭雅談、扶桑画人伝、愛国叢談(大日本人名辞書)     右の外、備後福山藩の儒官門田重隣(樸斎)も亦此年外国の使節浦賀に来りて開港貿易を要求するに     当り、己が主阿部正弘の幕府老中たりしを機とし、屡々封書を上りて時勢の急務は攘夷に在ることを     論じたりしが、屡々上書せしを僭越の罪とし終に其職を免ぜられたりといふ〟    ☆ 嘉永六年(1853)  ◯「浮世又平名画奇特」p157   〝『武江年表』嘉永六年の條に「六月廿四日柳橋の西なる柏戸(料理屋)河内屋半次郎が楼上にて狂歌師    梅の屋秣翁が催しける書画会の席にて浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ三十畳程の渋紙へ水滸伝の豪傑九紋    龍史進憤怒の像を画く衣類を脱ぎ絵の具にひたして着色を施せり其闊達磊落思ふべし」とあるに、其翌    月には所謂お咎の筆禍ありたり、『続々泰平年表』嘉永六年の條に「癸丑七月国芳筆の大津絵流布す此    絵は当御時世柄不容易の事共差含み相認候判詞物のよし依之売捌被差留筆者板元過料銭被申候」とあり、    其詳細は記載せずといへども、大津絵とは『浮世又平名画奇特』と題せる二枚続の錦絵なるべし、此絵    には一勇斎国芳の署名と共に、天保十三年制定の名主月番の認印もある間に「丑六」とあり、丑六とは    嘉永六年癸丑の六月なること明確にして、年号も符合し居り、又図案は浮世又平が筆を執りて画きたる    雷公、鷹匠、藤娘、鬼、弁慶、奴、等が紙面を抜出て活動する画様なれば、「国芳筆の大津絵流布す」    といへる大津絵なるべし    時代懸隔のために、其画の寓意のある点を判断すること能はざれども、『浮世絵』第三号の所載に拠れ    ば、若衆に「かん」とあるは疳性公方の渾名ありし十三代将軍家定のこと、藤娘は大奥のきれ者藤の枝、    外方は老中    牧野忠雅、赤坂奴は紀州侯、鯰は若年寄鳥居忠挙、座頭は老中阿部正弘、弁慶は芝増上寺のことなりな    どとありて、同じく寓意の点は解し難しとせり、右の註は此錦絵の後に墨摺一度のものありて一々略註    を附けしものありしに拠るといへり     数年前に発行せし『帝国画報』に「歌川国芳は大津絵の狂画を描きて発行せしが、当時を誹るものと     して発売を禁ぜられたり、此に掲ぐる大津絵はそれならんか、但しは故らに我顔を覆はせたるは、其     後の諷刺的作ならんか、とにかくに、国芳の大津絵は世に珍らしければ、茲に紹介す」とありて、画     様は前記の『浮世絵又平名画奇特』と略ぼ同様にして只抜けからの画紙散乱し、其中の一葉が画者の     顔を覆へるが如し差あるのみのものを掲出しありたり、但し版元及び彫工を異にし、発行年月の記入     はなきものなりし     〔頭注〕大津絵考    これは既に先輩の諸説紛々として其判定に苦しむ所なるが、吃の又平、浮世又平、浮世又兵衛、岩佐又    兵衛、此四名を同一人物と見て、大津絵をかきしは、此又平なりとする説あれども、我輩は大津絵かき    の又平と浮世又兵衛とは別人なりとするなり、岩佐又兵衛が時世粧を画きしが故に、浮世又兵衛と呼ば    れたるにて大津絵かきの又平が浮世又兵衛にあらざる事は、其画風の大に相違せるにても知らるゝなり、    又其人格閲歴の上に於ても大に相違せるが如し、尚大津絵かきの名は又平といふにてあらざりしならん    と思はるゝ程なり    名画の誉れといへる演劇の吃又などは、妄誕の戯作たること無論なるが、其根元は支那小説に出で、そ    れに浮世絵の名画師岩佐又兵衛を付会せしなるべし〟
   「浮世又平名画奇特」一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 浮世絵)    ◯「当代全盛高名附」p160   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)        【吾妻】錦   浮世屋画工部     豊国 にかほ     国芳 むしや   国貞  国麿   かむろ     広重 めいしよ  国盛  清重    やく者     清満 かんばん  国綱  芳員    にがを     春亭 花てふ   芳宗  芳雪    むしや     貞秀 かふくわん 芳艶  広近    めい処)     国輝 むしや   清亢  春徳    けしき     芳虎       芳藤  春草    をんな               芳玉  房種    草そうし              直政  芳豊    うちわゑ                        すごろく                        かんばん                       やりて                         (未詳)〟      〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている。この豊国は三代目。     「武者」の国芳、「名所」の広重、ここまではよく引用されるところ。「看板」の清満は初名清峯を名乗った二     代目。春亭の得意分野は「花鳥」か。勝川春章の門人・勝川春亭は文政三年(1820)の没。また嘉永三年起筆の     『古画備考』には勝川春亭の他に「春亭【武者一番、弟子ニ上手無シ、天保十年死】」とあるが、没年からして、     この春亭でもない。『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」にも見当たらず不明である。貞秀は「合巻」     であろうか。2018/10/22〉
   「当代全盛高名附」「浮世屋画工郎」〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉
  〔頭注〕東京流行細見記    此『当代全盛高名附』に似たる明治元年の冬、玉家如山といへる人出版せり、題号は『東京流行細見記』    といへり、著述屋としては      春水(二世)  魯文  有人     梅彦  応賀  秀賀  雲峰     文彦  定岡  露香  春笑     琴路  念魚  種丸  京雀     おろか    を出し、又浮世屋絵工郎としては     貞秀  芳虎  芳幾  芳年     国周  国輝  国貞(二世)     国明  芳春  芳盛  芳藤     房種  重次  重清  国久     広重(三世)  一豊  国歳     芳富  芳延  国時  国玉     芳豊  芳信  艶長  幾丸     年晴  周延  年次    を出せり〟
   ☆ 安政三年(1856)  ◯「安政見聞誌」p160   〝安政の江戸大地震記たる『安政見聞誌』は、仮名垣魯文と二世一筆庵こと英寿との合著なりしに、其筋    の許可を受けずして出版せしといふ科によりて絶版を命ぜられしなりと云ふ、尚著作の署名者英寿と版    元とは共に手鎖の刑に処せられたり、魯文は主として筆を執りしも、見聞誌に実際筆を執りしは貴公な    り、我は唯手助けせしに過ぎざるに、運悪くも署名せしため災難に逢ひたり、刑余の身とて誰も相手に    なしくれずとて、是を種に屡々無心に来りしは魯文も当時貧窮の身とて困じ果てたりと『仮名反故』に    記せり〟
    『安政風聞集』 金屯道人(仮名垣魯文)編(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     〈一筆庵英寿の見聞記は上掲の『安政見聞誌』(芳綱・国芳画)。宮武外骨は野崎左文の魯文伝記『仮名反故』によって    『安政見聞誌』を一筆庵英寿と仮名垣魯文の合著とする。文の手助けをしただけにもかかわらず運悪く署名したために    手鎖に処せられたという英寿が、その後主筆であった魯文にしばしば金の無心に訪れたという記事である。なお『安政    見聞誌』の作者については、野崎左文から二説出されている、一つは仮名垣魯文説、もう一つは燕栗園(ササグリエン)千寿    (チホギ)説、前者は魯文の証言を根拠とし、後者はこの書の取り次ぎでもあった達磨屋五一(無物翁)の言に拠っている。    『増補 私の見た明治文壇』所収「仮名書魯文翁の自伝」参照。ところで大地震に関する見聞録は、他に安政三年七月    刊の『安政見聞録』がある。こちらはお咎めなしのようであるが、参考までに挙げておく〉
    『安政見聞録』一梅斎芳晴・鴬斎画 晁善(譱)(服部保徳)著(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)    ☆ 刊年未詳  ◯「奥女中若衆買の図」p165   〝若衆といひ野郎といひ「かげま」といふは、男色を売る美少年のことなるが、単に男子を客として色を    売るのみならず、淫婦の望みによりては、天賦の情交にも応ぜしなり、此かげま茶屋といへるもの江戸    にては芳町、湯島、芝神明前にありて男女いづれの客をも迎へしなるが、天保九年十二月に幕府は之を    禁止し、尚風俗等を絵画として出版する事をも禁止せり、然るに此奥女中若衆を買ふ図は、大錦絵三枚    続として出版せしなり、其図中に題号なく又何等の説明をも加へざりしため、其出版前制規によりて役    人の検閲を受けし際、役人等は普通の女子ども遊興の体ならんと見て、許可の検印を下せしなるが、其    出版後に至りて、かげま茶屋に於て奥女中が若衆を買へる図なること発覚し、直ちに絶版を命ぜられた    りといふ、但し最初役人の方に、許可の印を与へし不注意の廉ありしを以て、版元及び画者には何等の    咎めなかりしといふ     此図の出版は、歌川国貞が天保十四年の夏、三代目豊国と名乗りし後の筆にて、其画風及び欵識等に     よりて察すれば、弘化初年頃のものならんと思へども、其年月不詳なるを以て茲(*「出版年代不詳     の図書」)に録する事とせしなり           女かと見れば男のカゲマ茶屋    別印刷として添ふる『奥女中若衆買の図』は往年予が翻刻発行せし大錦絵三枚続を今回縮成せるものな    り     図中の四人の内楊枝を口にせるは奥女中、島田髷にて女装せる三人は皆若衆即ちカゲマ(男)なり
  〔頭注〕かげまの歴史    若衆考と題する、男色史の詳細なるものに、浮世絵師の筆に成れる絵図を数多挿入せるものを発行せん    と前年来企画し居れども未だ其機を得ず〟
   「奥女中若衆買の図」歌川豊国(三代)画〔『筆禍史』所収〕    ☆ 明治元年(1868)  ◯「江戸上野戦争の絵草紙」p172   〝江戸に在りし徳川方の残党中には、大政の返上を喜ばざる不平の徒多かりしが、其徒相結んで彰義隊と    号して官軍に抗し、明治元年五月十四日、江戸上野東叡山に於て、双方の激戦ありし事は、人々の皆知    る所なるが、当時は未だ新聞紙の発達せざりし時なれば、その戦況は例の絵草紙にて見るより外なかり    しなり、然るに当時新政府には、未だ出版條例新聞條例等の制定なきも、幕府残党の手に成れる官軍不    利の戦報あらん事を恐れて、総て戦況の報道を厳禁したりしがため、絵草紙も亦上野彰義隊戦争の図と    して出版すること能はざりしかば、已むことえお得ず、姑息の手段によりて出版し、図は上野に於ける    両軍の奮戦なれども、其題号は古き歴史絵らしく      本能寺合戦之図    (歌川芳盛画)    太平記石山合戦  (歌川国輝画)      信長公延曆寺焼打之図 (歌川芳虎画)    春永本能寺合戦  (歌川国宗(ママ)画)    など徳川幕府時代の旧式によりて題号せる三枚続の大絵なり、江戸市内の各絵草紙屋より此類を十数種    出版せしが、本能寺合戦といふも、其実は上野黒門前の激戦にして、人物も彰義隊と官軍の服装なれば、    紛うべくもなき禁制画なるを以て、是等の絵草紙は悉く発売を禁ぜられたりといふ〟     〈「春永本能寺合戦」の画工を歌川国宗とするが、英斎の誤記である〉
   「本能寺合戦之図」さくら坊芳盛筆(野田市立図書館蔵)
    「春永本能寺合戦」英斎画(早稲田大学図書館蔵)    ☆ 明治三年(1870)  ◯「猩々狂斎の戯画」p173   〝『暁斎画談』に暁斎翁自写の図画数葉を添へて掲出せる記事の全文を左に転載す     明治三年十月六日、東京下谷不忍弁才天の境内、割烹店林長吉(三河屋)方に於て、俳人其角堂雨雀     なる者、書画会を催したるに、暁斎氏は其飲酒連なるを以て、席上の揮毫を頼まれ、朝早くより書画     の会莚に臨みしに、会主も頗る乱酔の名を得し者故、未だ来客の顔も見ざる前より早盃を廻らし徳利     の底を叩きて飲始めければ、人集り群々を以て宴を開く頃には既に三升余の酒を傾けたる故、暁氏は     酔て泥の如くなりと雖も、氏に酒気あるは龍の雲を得たるが如く虎の風に遇るに似たれば、身体は愚     弱/\にて座に堪られぬ程なれど、筆を持てば益活発にて奇々妙々なる物を書出す、人々興じ一扇書     けば茶碗を差し一紙染れば丼を差し、代り/\に酒を進めて染筆を請ひければ、六升飲だが七升飲だ     か、氏は鬼灯提灯の如くになれども筆を揮ひて屈せざる折りから、傍らにて高声に噺す者あり、今日     王子辺へ参りたるに、外国人一騎乗切りにて来ると、茶屋の者出むかへ、今日は御一人なるかと問へ     ば、馬鹿を両人召連しよし答へたりと云が耳に入り、彼等に笑はして遣らんと思ひ、足長島の人物に     二人して沓をはかせ居る体を画き、又手長島の人物が大仏の鼻毛を抜きとる様を画きたりしに、画体     高貴の人を嘲弄せしものと認められ、其座に於て官吏に捕へられしかば、席上の混雑騒動は図に顕は     せし如くなり、然れども此時酔弥々甚敷く目は動かせども四辺朦朧雲霧の中の如くにして、物の何た     るを見分る事能はず、口は開けども舌廻らざれば詞を出す事能はず、只踊りの身振りして引かれ往き、     終に獄舎に下されたり、斯て漸く翌朝に至り酔醒め、其事を聞て千悔万愧すれども詮業なければ、只     恐縮の外無かりし、同月十五日、御呼出に成て右の御糾し有たれども何事を御尋ねあるも、更に覚え     なければ、他の御答は為し難き由を述べ、其日は御下となり再度禁錮させられたりしが、翌年正月三     十日に至り漸く官の放免を請て、晴天白日を見る事を得たれば、忘れざる内のと思ひ、牢獄中の有様     を図して我が二三の子弟に示し、且我酒狂の乗ずるの戒めにも為さばやとて書置たりとの物有しかば、     其侭に出して牢獄の中の苦しき有様を記すに文章を以て贅せず、此二三の画図に附きて見ば、後世の     戒めともならば氏が本懐ならんのみ        〔頭注〕狂斎恐縮して暁斎    川鍋洞郁こと惺々暁斎は、古今の浮世絵師中、其比を見ざる豪放の健椀家なり、始は狂斎と号せしが戯    画のため此繋獄の事ありて、大に恐縮し、爾後は「狂」を「暁」に改めて惺々暁斎と書けり       戯画の寓意    狂斎が大罪の嫌疑を受けて、獄に繋がれし戯画の寓意は、伝説にて聞ける所のあれど、茲に記すべき事    にあらず       暁斎画談    瓜生政和の編輯にして、内篇三冊外篇二冊の彩色入和装本なり、明治二十年の発行なるが、画家はじめ    諸人に珍重さる〟