Top           「幕末明治の浮世絵師伝」   幕末明治の浮世絵師伝            や行                出典:『幕末明治の浮世絵師集成』「幕末明治の浮世絵師伝」(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)  ☆ やすじ 安治   〝安治 井上探景の本名、その項参照〟    ☆ ようさい 容斎   〝容斎 菊地氏、名は武保、雲水、無尽庵とも号した。幕臣河原氏の子。高田円乗の門に入り、容斎派の    一流を創始した。浮世絵師ではないが、歴史画を描き、明治の浮世絵師界に影響する所が多かつた。松    本楓湖、渡辺省亭等はその門人でもある。明治十一年、九十一才の高齢で歿した〟    ☆ よしいく 芳幾   〝芳幾 歌川を称す。落合幾次郎、一蕙斎、蕙斎、朝霞楼、晒落斎等の数号があつた。浅草田町の引手茶    屋の息子、国芳の門に入り芳虎、芳年と並び称された。しかも初代豊国の艶筆を倣つて、美人画に巧み    であつた。既に安政時代より作画があり、横浜絵も描いている。明治五年に創立された東京日日新聞の    幹部となり、続いて八年には東京絵入新聞を創刊し、また歌舞伎新報を主宰し、その経営者であつた。    また錦江新聞の創始者であつた。晩年新聞事業より離れてからは悲境に陥り、明治二十年代からその死    の時までは、浮世絵界からも離れ、僅かに手造りの人形を売つて暮していたという。その性質は極めて    円満洒脱であり、万人から愛されていた。門人に幾丸、幾英、幾勝、幾年がある。天保四年生れ、明治    三十七年、本所の陋屋で病死している〟    ☆ よしうめ 芳梅   〝芳梅 歌川を称す。中島藤助、一鴬斎、夜梅楼と号した。大阪堀江の人。江戸に出て国芳の門に入り、    のち帰阪して、国芳流を上方浮世絵界では彼を盟主とする国芳派の末流と国貞門下の貞広、貞升一派が    相対していた。門人には梅雪、梅英、芳峰、芳滝、梅春、芳升、芳国等があつた。明治十二年、六十一    才で歿した〟    ☆ よしかげ 芳景   〝芳景 歌川を称す。斎藤亀吉、国芳の門人、幕末期に横浜絵があり、維新後には横浜に移つて輸出画を    描いた〟    ☆ よしかげ 芳景   〝芳景 後藤徳次郎、芳滝の門人、大阪の人だが、東京に出て明治二、三十年代に新聞の挿絵、雑誌の口    絵を描いている〟    ☆ よしかず 芳員   〝芳員 歌川を称す。一川次郎吉、一寿斎と号し、国芳の門人である。開港当時より慶応年間にかけて横    浜に住み、外国人、異国事物、地図等を描いた横浜絵の記憶さるべき浮世絵師であつた〟    ☆ よしかね 芳兼   〝芳兼 田蝶の別号。その項参照〟    ☆ よしぎく 芳菊   〝芳菊 歌川を称す。国芳の門人、一秋斎と号し、慶応より明治の初めに作画がある〟    ☆ よしきり 芳桐   〝芳桐 歌川を称す。国芳の門人、一風斎と号し、文久頃より明治の初めに作画が〟    ☆ よしくに 芳国   〝芳国 野村与七、京都の人、一陽亭、笑翁と号した。大阪の芳滝の門人。清親の影響を多分に受けた洋    風画の版画の「京阪名所図会」を明治十八年頃に描き、関西の明治の版画界に特異の立場を示した。そ    の晩年は劇場の看板絵師となつている。安政二年生れ、明治三十六年、四十九才せ歿した〟    ☆ よしさだ 芳貞   〝芳貞 歌川を称す。国芳の門人、一葉斎と号した。馬喰町三丁目の旅館駿河屋に生れ、嘉永より明治の    初めにかけて作画がある〟    ☆ よしたき 芳滝   〝芳滝 笹本氏、のち中井氏、恒次郎、一養斎、養水、阪田舎居、里の家と号した。上方浮世絵師で、芳    梅の門人。その作画期は文久頃より明治の初めに及ぶ。役者絵の他に風景画、風俗画も描き、上方派と    しての妙手であり、門弟も数多あり、一勢力をなしていた。天保十二年生れ、明治三十二年、五十九才    で、泉州堺で歿した〟    ☆ よしたつ 芳辰   〝芳辰 歌川を称す。一雷斎と号した。国芳の門人、明治初年に作画があつた〟    ☆ よしつな 芳綱   〝芳綱 歌川を称す。田辺清太郎、一登斎、一度斎と号した。国芳の門人、幕末期に武者絵、諷刺画を描    いている〟    ☆ よしつや 芳艶   〝芳艶 歌川を称す。甲胡万吉。一栄斎、一英斎と号した。国芳の門人、武者絵の他に、横浜絵をよく描    いている。文政五年生れ、慶応二年、四十五才で歿した〟    ☆ よしつや 芳艶 二代   〝芳艶 二代 歌川を称す。箕輪氏、一英斎、一仙舎其村と号した。初代芳艶の門人、明治初期に作画し    た〟    ☆ よしつる 芳鶴    周延の前号。その項参照〟    ☆ よしとし 芳年   〝芳年 月岡米次郎、王桜楼、一魁斎、魁斎、咀華亭等の号がある。のち大蘇を称した。町医者吉岡金三    郎の次男として生れ、十二才の時、国芳の門に入り、また菊地容斎の画風を慕い、歴史上の人物を描く    を得意とした。しかも洋画の特徴を巧みに取入れて、末期浮世絵の手法に新機軸を出した所も少なくな    い。既にその作画期は文久頃より始まつているが、その本格的活動は明治に入つてからである。一枚刷    りの錦絵の他に草双紙、錦絵新聞から、新聞挿絵にも及び、特に歴史画に新機軸を出した。また肉筆に    も長じていた。あらゆる分野にあつて健筆を揮い、数多の弟子を養成し、また浮世絵師の社会的地位を    向上せしめる等と、明治の浮世絵界の大御所として貫禄を示している。その門人には年方、年恒、年英    が現われている。五十に達してからは、漸く脳を患い不運であつた。天保十年生れ、明治二十五年六月、    享年五十四才で亀沢町の仮寓で歿した〟    ☆ よしとみ 芳富   〝芳富 歌川を称す。萩原氏、一芸斎と号した。のち横浜に移り芳洲と改めた。国芳の門人、その作画期    は嘉永から明治の初めであるが、その作品中の横浜絵には優れたものが残されている〟    ☆ よしとよ 芳豊   〝芳豊 歌川を称す。福山兼吉、一龍斎と号した。初めは三代豊国の門人であつたが、のち出でて国芳の    門人となり、芳豊の号を与えられた。その作画期は幕末であり、武者絵をよく描いたが、横浜絵もある。    天保六年生れ、慶応二年、三十七才で歿している〟    ☆ よしとよ 芳豊 二世   〝芳豊 二世 歌川を称す。川守栄太郎、一龍斎と号した。初代芳豊の門人、その没後に二代芳豊といつ    た。凧絵に長じ、明治四十年頃までそれに専業したといふ〟    ☆ よしとよ 芳豊   〝芳豊 上原兵三、含粋舎、北粋、北酔、北翠の号があつた。大阪の人、国芳の門人で、一時は芳梅と並    んだ上方浮世絵界の妙手であつたが、明治初年には既に歿したらしい。風俗画がある。江戸の一龍斎芳    豊とは別人である〟    ☆ よしとよ 芳豊 二代   〝芳豊 二代 武部豊次郎、大阪の人、芳峯の男、明治中期頃に作画がある〟    ☆ よしとら 芳虎   〝芳虎  歌川を称す。永島辰五郎、一猛斎、孟斎、錦朝楼と号した。国芳の門人、武者絵を得意とした    が、三代豊国に模倣した大首美人画を描き、また横浜絵をも多く描いた。明治になつてからも、多くの    風俗画や戦争絵を描いている。その作画年代は弘化頃から明治二十年代に及ぶ。生前に余り評判はよく    なく、粗暴の人だつたらしく、履歴も伝わらない。弟子に虎重、春暁がある〟    ☆ よしのぶ 芳延   〝芳延 歌川を称す。松本弥三郎、一雲斎と号し、のち一侠斎と改めた。狂歌を好み、遊狸庵都逗美とも    いつた。国芳の門人、陶器に浮世絵風の美人、武者を描くのは彼が初めといわれている。狸を好み、そ    の方でも有名で浅草田圃の狸と仇名されていた。天保九年生れ、明治二十三年、六十三才で歿している〟    ☆ よしはる 芳春   〝芳春 歌川を称す。生田幾三郎、一蜂斎、一梅斎、朝香楼と号した。国芳の門人。武者絵、明治初期の    風俗画があり、明治十五年頃に終つている〟    ☆ よしはる 芳春   〝芳春 歌川を称す。藤井喜三郎、大阪の人、芳梅の門人、明治期に作画がある〟    ☆ よしひこ 芳彦   〝芳彦 歌川を称す。一元斎と号し、俗称は彦八といつた。国芳の門人、文久より明治にかけて作画があ    る〟    ☆ よしひで 芳秀   〝芳秀 歌川を称す。小磯前氏、国芳の門人で一旭斎と号したが、のちに菊地容斎に就いて歴史画を学び、    従前の画風を一変した。その後に画名を雪窓と改め、紫衣堂または三樹園と号した。その作画期は嘉永    より明治中期に及び、歴史画が多い。天保三年生れ、明治三十五年、七十一才で歿している〟    ☆ よしひで 芳秀   〝芳秀 小林英次郎、明治十年代のおもちや絵にこの名がある。小磯前芳秀とは別人である〟    ☆ よしふじ 芳藤   〝芳藤 歌川を称す。西村藤太郎、一鵬斎と号した。国芳の門人。その作画期は嘉永より明治十年代に及    ぶ。武者絵、組み上げ燈籠、切組み絵の小児の手遊絵に長じていたので世人は「おもちや芳藤」と呼ん    でいた。また幕末には横浜絵を描いていた。文政十一年生れ、明治二十年、六十才で歿している〟    ☆ よしまさ 美政   〝美政 川崎氏、名は茂春、俗称六之丞、名古屋藩士、沼田月斎の門人で、浮世絵を好み描いた。文化四    年生れ、明治十四年、七十五才で歿した〟    ☆ よします 芳升   〝芳升 歌川を称す。大阪の人、芳梅の門人。明治期に作画がある〟    ☆ よしまる 芳丸 二代   〝芳丸 二代 歌川を称す。伊東鶴吉、一円斎と号した。国芳の門人であつたが、その没後は、三代清満    につき芝居看板を習つた。文久より明治に作画がある。明治四十年、六十四才で歿している〟    ☆ よしまろ 芳麿   〝芳麿 歌川を称す。伊藤重兵衛、一張斎と号した。国芳の門人、その作画期は明治である。祭礼の大行    燈を描くのを得意とした。天保九年生れ、明治十七年、四十七才で歿した〟    ☆ よしまろ 芳麿   〝芳麿 暁斎の前名。その項参照〟    ☆ よしみつ 芳満   〝芳満 歌川を称す。伊藤重兵衛、一張斎と号した。国芳の門人、呉服の上絵職となった。天保八年生れ、    明治四十三年、七十四才で歿した〟     ☆ よしみつ 芳光   〝芳光 笹本喜蔵。大阪の人、国芳派の人で、幕末に風景画、諷刺画を描く〟    ☆ よしみね 芳峯   〝芳峯 武部安兵衛、一梅斎、胡蝶楼、玉亭と号した。大阪の人、芳梅の門人で、明治中期頃に京阪の風    俗画を描く。長く大阪朝日新聞の挿絵を担当した〟    ☆ よしみね 芳峯   〝芳峯 筒井氏、国芳、の芳年の門人。明治二十年代に雑誌口絵を描く。武部芳峯に対して同時代に東京    で活躍した〟    ☆ よしみね 芳峰   〝芳峰 中山氏、武州安行村の地主。国芳の門人、幕末より明治初めに多少の作画があり、古浮世絵の蒐    集家であつた〟    ☆ よしむね 芳宗   〝芳宗 歌川を称す。鹿島松五郎、一松斎と号した。国芳の門人、その作画は少ないが、大勢の弟子を養    成した。文化十四年生れ、明治十三年、六十四才で歿した〟    ☆ よしむね 芳宗 二代   〝芳宗 二代 初代芳宗の子、故あつて新井氏を名乗る、幼時より芳年の門人となり、初め年雪と号した    が、父の歿後は二代芳宗を襲名した。錦絵の他に、新聞挿絵、雑誌挿絵を多く描いた。一時画博堂なる    店舗を経営していた。昭和十六年、八十才で歿した〟    ☆ よしむら 芳村   〝芳村 静斎の前号、その項参照〟    ☆ よしもり 芳盛   〝芳盛 歌川を称す。三木氏、或いは田口氏ともいつた。俗称作蔵、一光斎、光斎、さくら坊とも号した。    国芳の門人、その作画期は文久より明治の初めに及んだ。武者絵、諷刺画、横浜絵がある。維新後は一    時内務省の小吏となつたが、間もなく辞めて、横浜に移つた。天保元年生れ、明治十七年、五十五才で    歿した〟    ☆ よしもり 芳盛 二代   〝芳盛 正木福松、初代芳盛の門人、一光斎と号した。明治十、二十年代に多少の作画があり、また浅草    常盤座の芝居看板を描いていた〟    ☆ よしゆき 芳雪   〝芳雪 森米次郎、南粋、六花軒、蕙雪の号がある。大阪の人、芳梅の門人、明治期の風俗画がある。明    治十二年、四十五才で歿している〟