Top           『日本随筆大成 第二期』         浮世絵文献資料館
   日本随筆大成 第二期          か行                  ☆ まごじ つつみ 堤 孫二   ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳二代門人)堤孫二     雪峰ト号ス。俗雉子定ト云フ。神田大工町ニ住ス〟    ☆ まごじ つつみ 堤 孫二 二代   ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝二代目孫二    雪丘ト号、俗ニ筆安ト云〟    ☆ まさのぶ いちようさい 一陽斎 正信    ◯『新増補浮世絵類考』⑪237(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (京都・菊屋喜兵衛板「絵手本并読本附録」の項)   〝復讐束々物語 六冊 金石楼作、一陽斎正信画〟    〈「国書基本DB」は『復讐棗物語』金太楼主人作・一楊斎正信画、文政十年刊とする〉    ☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信    ◯『本朝世事談綺』⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な り。是を京都にては江戸絵と云〟    ◯『燕石雑志』⑲429(飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著・文化七年刊)   〝坂田金平入道 東武大和画工 奥村政信図〟   〝きほひさくら 全一冊折本なり/綉梓の書肆/奥村源八郎政信画/発兌の年月日詳ならず〟   〝宝永の年間の絵本にしてきほひ桜と題す。図する所の猛者すべて十余人、将門純友にはじまりて金平入 道を巻尾とせり。金平が祝髪の図は、画工の滑稽歟。これらを見ても当時の流行をしらん〟    〈国立国会図書館・貴重書画蔵データーベース「浮世画帖」に収録されている武者像が「きほひ桜」の「猛者」にあた     るか。ただし「金平入道」図はない〉      ◯『筠庭雑考』(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「薦僧笠」の考証 ⑧151   〝延享寛延の頃迄もあみ笠裾開けり。前に窓あり。今浪人体の乞児の着る是なり。奥村文角が画とみゆ〟
  ◇「重箱」の考証 ⑧164   〝奥村文角〟
  ◇「針箱」の考証 ⑧171   〝延宝寛延の頃 芳月堂文角画〟
 ◯『新増補浮世絵類考』⑪203(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝奥村政信    俗称本屋源六、或は源八、号文角、観妙。芳月堂。丹鳥斎といふ。通塩町に住す。一本通油町とも云。 自ら日本絵師とかけり。朱にて瓢箪の印を用る。漆絵にも多く、享保頃の人よく鍾馗を画きて、眼に金 箔を置り。俗に浮絵と云て、名所或は富士牧狩の図、曾我十番切に遠景を奥深く見ゆる図を書板行にせ しなり。其頃大ひに流行す。紅絵の始なり。浅草寺境内に出し、講釈師深井志道軒の容を写し画く事妙 なりしと云。此頃錦絵に三枚つゞきもの多し。和歌三神三夕三幅対など名付し物なり。彩色は紅と萌黄 のみなり。絵本新吉原千本桜倣画式〔割註 政信の画本也。狂画にして四巻あり。外題知れがたき古板 を買請て須原や茂兵衛文政末摺立かく外題を改し也〕〟    〈「国書基本DB」『絵本新吉原千本桜』享保十九年刊〉    ☆ まさのぶ きたお 北尾 政演    ◯『梅翁随筆』⑪12(著者未詳・寛政年間記事)   〝山東京伝が事    此頃山東京伝といふて、当世本草双紙などの作をなして名高し。此もの二三年前より、京橋へ煙草入店 を出しけるが、寛政七年卯年五月二十四日、芝愛宕の縁日に、山内にて安売の引札口上を、画と文字と を交ぜて認め、はんじものにして配りたるが、大に世に行はれて、そのすり物に包みて煙草入を商ひし 故、すり物を見んとて、京伝がたばこ入を遠方よりも買にやりて大に繁盛せしなり。其後よりも、いろ いろ画にて絵解したる草紙など数多出たり。京伝が口上書、此作の要なり。いにしへより芳月書と書く 事あり。全く夫より思い付なるべし。或としの暮に京伝が、   来年は/\とて歳暮かな〟    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「北尾氏系譜」の項 ⑪186 「北尾重政系譜」     ◇「北尾政演」の項 ⑪211   〝北尾政演    名は醒(初名は田蔵)、字は伯慶、後字を酉星、姓灰田氏、又岩瀬とす。山東菴、甘谷菊亭醒斎、醒々 老人等数号あり。京伝とは戯作の名なり。性書画ともよくす。戯作に高名なる事は世の知る処なり。文 化十三丙子年九月七日歿す。年五十六歳。本所回向院に葬す。法名知誉京伝信士〟    ☆ まさのぶ ひしかわ 菱川 政信    ◯『新増補浮世絵類考』⑪179(竜田舎秋錦編・慶応四年成立) (「菱川氏系譜」の項) 「菱川師宣系譜」 〝(師宣)門人 菱川政信    【字守節、ヨク師ノ画風ニ似タリ】〟    ☆ まさふさ おくむら 奥村 政房    ◯『新増補浮世絵類考』⑪203(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝奥村政房    文志と号す。一枚絵草双紙等多くあり〟    ☆ まさよし きたお 北尾 政美 (鍬形蕙斎参照)    ◯『兎園小説』①296(著作堂(曲亭馬琴)記・文政八年十月二十三日)   (「兎園会」第十一集〔乙酉冬十月二十三日於海棠庵集会〕において、著作堂が披講した「丙午丁未」)   〝常(ママ)時書肆仙鶴堂が、北屋(ママ)政美に画せて板にせし中洲納涼の浮画あり。燕石雑志に載せたるもの 是なり〟    〈「丙午丁未」は天明丙午六年の火災洪水及び天明丁未七年の飢饉の江戸における様子を記したもの。政美の「中洲納     涼の浮画」は洪水前の作画。中洲は洪水の原因とされ、寛政元年撤去、建造物が取り払われその賑わいを失った〉    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「北尾氏系譜」の項 ⑪187 「北尾重政系譜」     ◇「北尾政美」の項 ⑪211   〝北尾政美    姓鍬形、俗称三次郎、杉皐又蕙斎と号す。近世の工夫者也。狩野家の筆意を学び、又光琳、或は芳中が 画法を慕ひ、略画式の工夫世に行れ、東都の絵図を一眼に見る所の図を工夫して一枚摺となし、又神田 の社額堂にも江戸絵図の額奉納せり。近年の絵手本は此人の筆多し。是より世に薄彩色摺の画手本大い に流行す。松平越前侯より藩中に入て板行の絵を止め、落髪して号を紹真と改む。文政七年三月廿一日 歿す     略画式        略画苑       艸花略画式      蕙斎略画       諸職画鑑      蕙斎麁画     絵本咲分勇者 二冊  同 大江山 二冊  同 曾我物語 二冊     同 武隈松  三冊  尊氏勲功記 五冊  俳家奇人談  武内玄々一篇〟      ☆ ますのぶ たなか 田中 益信    ◯『新増補浮世絵類考』⑪221(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝田中益信〟(名前のみ)    ☆ またへい 又平    ◯『本朝世事談綺』⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝大津絵 又平と云人書はじめし也。土佐光信の弟子といへり。大谷、池の側辺にて画く。追分絵とも云〟    ☆ またべい うきよ 浮世 又兵衛    ◯『近世奇跡考』(山東京伝著・文化元年刊)   ◇「大津絵の考」の項 ⑥301   〝世に伝へて、(大津絵を)浮世又兵衛がかきはじむといへども、たしかなる証なし。案るに、浮世又兵 衛は、越前の産、本姓は荒木、母の姓岩佐を冒(ヲカスのルビ)。よく時世の人物を画によりて、時の人浮世 又兵衛と称す〔割註 世にいはゆる浮世絵は、こゝにおこる歟〕又平といふは誤りなり。享保四年〔傾 城反魂香〕といふ浄瑠璃に、土佐の末弟、浮世又平重(シゲのルビ)おきといふ者、大津に住て絵をかきた るよしをつくれるより、妄説を伝ふる歟。或は別に大津又平といふ者ありて、かき始む。享保の頃まで 其子孫ありしと云。予がをさむる、ふるき大津絵に、八十八歳又平久吉とかきて花押あり。前の説のご とく、大津に又平といふ者ありしを、浮世又兵衛が事にして、かの浄瑠璃につくりしより、虚説を伝へ しならん。さはいへ、支考が〔本朝文鑑〕に、浮世又兵衛は大津絵の元祖といふ。〔文鑑〕は享保三年 の板にて、彼浄瑠璃より、一年まへなれば、其前より云伝へし事かもしれず。とまれかくまれ。〔好古 目録〕にしるす。又兵衛が伝を見るに、大津にて売画をかきし事、あるべしともおぼえず。予又兵衛が 正筆ををさめて、其画風を見るに、大津絵をかくべき風にあらず〟    〈京伝は「浮世又兵衛」を岩佐又兵衛の異名とする。しかし「浮世又平」の方は近松の浄瑠璃『傾城反魂香』の虚構が     生んだものとする。そして大津絵の元祖説については、各務支考の『本朝文鑑』(「国書基本DB」享保二年自序・     三年跋)の説はあるものの、「予(京伝)又兵衛が正筆ををさめて、其画風を見るに、大津絵をかくべき風にあらず」     とする。浮世絵師・北尾政演としての直感である。ところで、京伝が見た「又兵衛が正筆」とは次項の「江口君図」     であろうか〉     ◇「浮世又兵衛江口君図」の項 ⑥352   〝【紙中長二尺七寸五分横一尺五分/縮図シテアラハス 山東軒清翫】     (模写あり)     かけ衣朱。ひつたの鹿子。うは衣黒。地紋金泥。したかさね銀泥。帯緑青。鱗形金泥〟
 ◯『目さまし草』⑧227(清中亭叔親著・文化十二年)   (「煙管」の考証)   〝浮世又兵衛画中に在る所の煙管図 按に寛永正保の頃の図ならんか〟   〝これは浮世又兵衛が画たる六枚屏風の人物の傍にある烟管の図なりと。     此浮世又兵衛が父は荒木某といひて云々、本名を改めて母方の苗字を名乗、岩佐と称す。成長の後、 信雄に仕へ、浮世絵を画き出し、遂に妙手となり、名誉を得たり。故に世上に浮世又兵衛とは呼べる とあり。但後の人、又兵衛が名をみだりにあつるものありともきけば、右の屏風の柄の鑑定にあるべ し。人の贈りしまゝを出せり〟  ◯『筠庭雑考』(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「印籠」の考証 ⑧160   〝名画苑 又兵衛筆 瓢の根つけ古風也〟
  ◇「煙管」の考証 ⑧161   〝浮世又兵衛遊女図 寛文年中屏風絵 雁首と云名是にて知るべし〟
  ◇「銚子」の考証 ⑧164   〝又兵衛画中に出づ〟    ☆ またべい いわさ 岩佐 又兵衛    ◯『新増補浮世絵類考』⑪193(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝岩佐又兵衛 土佐の又兵衛、浮世又兵衛とも云。姓藤原、荒木氏、名勝重、越前の産也。〔割註 一説 摂津に作る。拠あれど姑く越前に従ふ〕父は荒木摂津守村重と云。織田信長に仕て軍功有り。公賞して 摂津を与ふ。後、公命に背自殺す。又兵衛時に二歳、乳母懐て本願寺の子院に隠れ、母家の氏を仮て岩 佐と称す。成人の後、織田信雄に仕ふ。画を好て一家をなす。能当時の風俗を写すを以て、世人呼で浮 世又兵衛と云。世に又平と云は誤なり。画所預り、家に又兵衛伝あり。藤貞幹好古日録に見ゆ。按るに、 是世にいはゆる浮世絵の始なるべし。又大津画も此人の書出せるなりといふ。〔割註 杏花園蔵 以上 浮世絵類考〕追考曰、按るに、一蝶の四季の画の跋に、越前の産と記したる見れば、越前において成人 せしと覚ゆ。名字は知る人もなかりしにや、たしかにしるしたるものを見ず。又兵衛が父荒木摂津守、 名は村重、家士に重郷(姓氏不知)と云者あり。俗称久蔵、後に内膳と改む。一翁と号す。狩野松栄、 〔割註 松栄、直信、元信の長子、兄祐雪宗信の養子〕門人にて画をよくす。一説に、又兵衛、はじめ 此人を師として画を学ぶ。後に土佐光信〔割註 秋錦云、光信は土佐光広の男、大永五年五月廿日卒す。 九十二歳〕の画風に俲て一家を成せり。〔割註 以上、浮世絵類考追考〕世に岩佐又兵衛は姓氏実名未 詳といへり。見聞せし所、絵は土佐派の名手也。花鳥人物共に彩色筆意の絶妙奇といふべし。就中浮世 人物に妙あり。〔割註 土佐流にては、市中のさま或は花見なんど画たるを、すべて浮世人物の絵巻と 云。又兵衛のみにかぎらず、土佐流にて浮世人物をさして、雛人形雛人物、或は武者人形大和人形抔と 唱へり〕土佐守門弟なりと云。故有て姑く勘気を蒙り、流浪して画を以て渡世とす。〔割註 今云町絵 師の如くなるべし〕従来名を好ず。業にほこらず。何くれとなく人の求に応じて画くといへども、妙手 なれば自ら世に増用られしなり。土佐流破門の弟子なればとて、今に至る迄、又兵衛の画に土佐家より 鑑定せず。極メを不出、添手紙のみ也。禁裏絵預りは土佐家なり。将軍家にて狩野氏の族を用玉ふが如 し。故ありて様子しるしがたし。前後名流の遺跡甚多かるべし。昨日爰に御願ひならましを記すのみ。 是を折紙とす。又兵衛の画に名印ある物は究て少し。遊女の画などには墨肉にて字体分明ならぬ印有も、 多く世を送るたづきとせしのみなる生質、是にてたしか也。当世の虚名を貪り、己が未熟にて及びがた きには、代筆にても名を顕し、ただ花押の立派を第一として、我物顔にほこる輩に反する事、おのづか ら名人の所為備れる所の妙と云べし。〔割註 月岑子編には、大津絵の考あれども、奇跡考と同じけれ ば略す〕〟    ☆ まとら おおいし 大石 真虎    ◯『新増補浮世絵類考』⑪236(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝大石真虎    百人一首一夕話 厳島名所図会 神事行燈〟       ☆ みつのぶ はせがわ 長谷川 光信    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「長谷川光信」の項 ⑪200   〝梅峯軒永春と号す。又松翠軒。     英勇画譜〔割註 尾張名古屋永楽屋板〕〟
  ◇(京寺町通松原下ル町菊屋喜兵衛板)「絵手本并読本附録」の項 ⑪237   〝絵本ゑくぼのちり 三冊  長谷川光信〟    〈「国書基本DB」は『絵本靨の塵』宝暦三年とする〉    ☆ みんこう たちばな 橘 珉江    ◯『新増補浮世絵類考』⑪200(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝珉江橘姓    氏、俗称とも未詳。宝暦、明和の頃、元縫箔師にて後、浮世絵師となる。五文字の点式、おゝく此人の 画なり。画本職人部類に、摺込の彩色を工夫して大に世に行る〟    ☆ みんわ あいかわ 合川 珉和    ◯『新増補浮世絵類考』⑪235(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝合川珉和    京師の人、読本多し。源秀成、字士陳、雪山と号す。岸駒と云     漫画百女 一冊〟    〈『漫画百女』は文化十一年刊〉    ☆ もりかず 守一   ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項) 「堤等琳系譜」   〝(堤等琳二代門人)守一〟(名前のみ)    ☆ もりかず いずみ 泉 守一    ◯『新増補浮世絵類考』⑪205(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝泉 守一    泉氏、俗称吉兵衛、号春香亭。江戸の産にして、本郷一丁目に住す。世俗目吉と渾名す。始故等琳の門 人、後狩野探信門人となり、守の字を免許さると〔割註 探信は狩野探幽斎の長男、名は守政、図書と 称す。享保三年十月四日歿す。守一は寛政、享和を盛にして歿す。その歿年へだゝる事九十年に近し。 探信の門人と云はいぶかし〕町画には可惜の名筆なり。武者絵をば善画く。父は泉義信と云し狩野家の 門人にて、画工にて俗称の目吉を以て画名とす。本郷の一侠客たり。摺物画、花鳥の団扇画等を出せり。 又諸社御普請日光久能山江戸両山御修復、彩色の御用を勤む。町画職人の頭なり。親目吉より二代勤む。 門弟に泉鉄道、号を寿川斎といふあり。其師の風をよく学びたり。近年人形細工人泉目吉といふ者あり。 此人の門人にやいぶかし〟    ☆ もりくに たちばなの 橘 守国  ◯『新増補浮世絵類考』⑪197(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝橘 守国    姓橘、猶村氏、名有税、称宗兵衛、号後素軒、浪花の産なり。狩野探山の門に入て業を受、〔割註 探 山は鶴沢氏、名守見、又良信、或は兼信、初め幽泉と号す。又探春斎とも云。探幽の門人、大坂に住す〕 後一家の画法を以て世に雷名す。狩野流の骨法を失はず。板刻の画に妙を得たり。精密寄巧此人より起 る。寛文(ママ)元年卒す。七十歳。刻する処数種、天保の今に至る迄盛に世に行る書画私に善す。文学も 博識の秀才なり。故に世の絵師の為に広く画法を伝へ、粉本にともしからざる為にせんとて、精力を費 し写を巧み傍に其意を誌して是を刻せしむ。画本の著述古今に比類なし。名手世に知る所なり。狩野土 佐を始、倭絵の名家多しといへども、其行を已に知るのみ。守国は悉く人の為にせし故に、板刻が画の 汚名を受たり。画道にこゝろざし有とも、書籍を見ざる俗家の者の為には、笠翁の画伝をも悉く唐本を 平仮名に記して其意を得せしむ。倭漢画法の定義を極め、其業に達して画本をあらわし、諸職の助とな して、是が為に世上に其業力を得るもの幾ばくあらん。皆翁の丹志によれり。尋常の浮世絵師に列する 人にはあらず共、板刻の画に名を得たれば姑く爰に挙ぐ。     絵本通宝志  十冊     同 玉の壺   五冊      同 画志    三冊     同 直指宝  同      同 詠物選   五冊      同 運筆麁画  三冊     同 写宝袋  同      同 本朝画苑  六冊      同 扶桑画譜  五冊     同 鴬宿梅  七冊     同 謡曲画志  十冊中村三近編 南都名所図   一冊     同 野山景  五冊     同 万歳武勇絵鑑 一冊     同 故事談   十冊     有馬勝景図  一冊     同 画典通考  同       唐土訓蒙図彙  一冊    享保時代板刻板の密画、唐土訓蒙図彙に始れる成べし。夫より以前かゝる細密の板本を見る事なし〟    ☆ もろしげ ふるやま 古山 師重    ◯『新増補浮世絵類考』⑪179(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菱川氏系譜」の項) 「菱川師宣系譜」   〝(師宣門人)古山太良兵衛師重     【三合集覧ニ、菱川太郎兵衛トアリ。古山ハ本姓ナルベシ】〟    ☆ もろなが ひしかわ 菱川 師永   ◯『新増補浮世絵類考』⑪179(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)  (「菱川氏系譜」の項)「菱川師宣系譜」 〝菱川沖之丞師永    【鹿子及ビ図鑑ニ作之丞トアリ。一説酒造之丞父ト同居彩色等妙ヲ得タリ】〟    〈「父」とは師房を云うか〉    ☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣    ◯『江戸雀』⑩284(菱川師宣画・延宝五年刊)   (刊記)   〝延宝五年丁巳仲夏日              武州江戸之住 絵師 菱川吉兵衛            江戸大伝馬三丁目    鶴屋喜右衛門板〟    〈千葉市美術館の展覧カタログ『菱川師宣』によると、初版の刊記は〝延宝五年丁巳中春日/武州江戸住近行遠通撰之     /同絵師、菱川吉兵衛/江戸大伝馬三丁目 鶴屋喜右衛門板〟とし、また、選者の近行遠通については『東海道分間     絵図』著者の遠近道印と同一人物で富山藩医藤井半知と推定されるとしている。なお「日本随筆大成」第二期第十巻     の「解題」は〝旧本に近行遠通撰と見えるが、静嘉堂の「東海道分間絵図」五巻末に遠近道人の名が見え、絵師菱川     師宣、板木屋七郎兵衛とあるところから推すに、これも師宣のこの書に際しての筆名と思われる〟とする。不思議な     のは、後印本から選者近行遠通の名を削除した点である〉    ◯『本朝世事談綺』⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な    り。是を京都にては江戸絵と云〟
      ◯『近世奇跡考』(山東京伝著・文化元年序)   ◇「凡例」⑥256   〝浅井了意、井原西鶴等がたはれ書(ブミのルビ)、雛屋立圃、菱川師宣等がざれ絵のたぐひも、その代のお    もむきをもてかけるは、いにしへをまのあたり見るごとき有りて、証とすべき事おほかり。それゆゑへ    に俗書といへども、実とおぼしきはとりもちゐぬ〟
  ◇「土手の道哲并高尾」の項 ⑥278・282    (『吉原恋の道引』延宝六年板を引用する。模写あり)   〝土手道哲菴図 延宝六年板 菱川繪本ノ図ヲ摸ス〟    〈模写は『近世奇跡考』の「凡例」に〝古画はすべて予が自画なり。覧者あやまりて、予が筆のつたなきを画者におふ     する事なかれ〟とあるから、山東京伝(北尾政演)である〉    ◯『燕石雑志』(飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著・文化七年刊)   (「浅草の事実」の項)   ◇「駒形堂」の考証 ⑲369   〝大和名所鑑は菱川師宣が画く所にして、書肆万屋清四郎刊す。発兌の年号は後に削去りしにや、正月吉    日とのみ記して詳ならざれども、江戸名所記と同じころに出せるものなるべし。何をもてこれをしると    ならば、同書亀戸天神の図説に、葛西の郡亀井戸といへるところあり。ちかき比まで、べやう/\たる    原なりしを見たて、筑紫安楽寺の天神を勧請し奉るなりとあり。亀戸天満宮は寛永三年に菅原信祐建立    す。これらの説によりて考るときは、その書の刊行寛永を去ること遠からじ〟    〈「国書基本DB」『江戸名所記』(浅井了意著)は寛文二年刊。「大和名所鑑」を『和国名所鑑』の別名とし天和二     年の刊行とする。寛文二年から天和二年、ちょうど二十年の差があるのだが。〉     ◇「笠」の考証 ⑲378   (「大和名所鑑」浅草仁王門前の茶屋の図を引く)   〝嘗て菱川師宣が画けるものを見るに、武士編笠を戴き、長き両刀を帯び、高脛をあらはして立てり。こ    こにも又その図あり。(中略、「昔々の物語云く」として)万治の比より玉淵といふ編笠、寛文の頃松    坂といふ笠、延宝の頃熊谷笠虚無僧などはやり、八分はやり、天和、貞享の頃より、編笠次第に止て、    皆一同に菅笠になる云々。菱川が画はみなこのころの時勢粧(イマヤウスガタのルビ)なり〟     ◇「西鶴〔附〕羽川珍重」の項 ⑲503   〝其角が五十四君〔割註 作名を四国太郎としるせり。繍像(サシヱのルビ)は菱川師宣が筆なり〕〟    〈「五十四君」は『吉原源氏五十四君』。「国書基本DB」は貞享四年刊とする〉     ◇「六郷橋」の項 ⑲523   〝六江橋躰 大和名所鑑上巻菱川師宣出像を臨す〟     ◯『兎園小説別集』④74(著作堂(曲亭馬琴)記・文政八年)   (「元吉原の記」の項)   〝菱川師宣、鳥居清信、及予が旧族羽川珍重等が画きしは、みな今の吉原になりての画図なれば、元吉原    の考にはえうなし。ふるき絵巻の残欠などにも、元吉原の図の伝らざりしは、元和、寛永の頃まで、江    戸はなほしかるべき浮世絵師のなかりし故也〟    ◯『八十翁疇昔話』(財津種ソウ(艸冠+爽)・寛延年間記・天保八年刊)   ◇(若衆とやっこの図の模写)④145   〝菱川図縮写 醉画堂徳田慶壽筆〟    〈徳田慶壽の模写は刊年である天保八年のものか〉     ◇(笠の考証に模写)④149   〝菱川師宣図〟
  ◇(〝悪所通い〟の模写図か)④154   〝菱川氏図〟
  ◇(遊女の髪に香を焚きこむ図の模写)④163   〝箔衣裳    菱川氏図〟
 ◯『足薪翁記』⑭47(柳亭種彦著・天保十三年以前成立)   (「とりんばう」の考証)   〝「浮世続絵つくし」〔割註 天和四年印本、菱川画本〕〟
 ◯『筠庭雑考』(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「大小十文字」の考証 ⑧132   〝菱川師宣画 元禄八年の画なれど、江戸にての当世やうにはあらず、上がたの男だてなり〟
  ◇「編み笠」の考証) ⑧143   〝天和貞享頃菱川師宣が画此体多し。一文字といふあみがさ是也。かぶりやうは伏せあみ笠なり〟
  ◇「笠」の考証 ⑧146   〝元禄 菱川吉兵衛絵本〟
  ◇「さゝら摺り」の考証 ⑧151   〝江戸雀 延宝五年 菱川師宣〟
  ◇「看板類」の考証 ⑧174   〝(金龍山米饅頭の看板図)天和の頃師宣筆〟
  ◇「雛の絵櫃」の考証 ⑧185   〝(雛の行器(ほかゐのルビ)の図)その図師宣がかけるもあり。又英一蝶がかきたるも見ゆ〟
  ◇「一服一銭下り出茶屋」の考証 ⑧195   〝菱川師宣図 堺町茶屋    貞享中に菱川がかける江戸堺町の図に水茶屋の女房茶をふる立つる処を写せり〟
  ◇「水船」の考証 ⑧198   〝師宣筆浅草寺本堂前に此図あり〟   〝延宝の頃菱川師宣がかける濃紛の絵巻物に、浅草寺の図もあり。本堂前に石の水船見えたり。是いはゆ    る船形の手水鉢なる事しるし。模して出て証とす〟
 ◯『新増補浮世絵類考』⑪180(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
 (「菱川氏系譜」)「菱川師宣系譜」    〝菱川吉兵衛師宣剃髪して友竹と号す。房州平群郡保田町の産、若年の時江戸に移り居す。始めは縫箔を    以て業とし、上絵と云ものより画を書きならひて後一家をなせり。英一蝶と時を同ふすといへども、十    とせばかり前立て世に行る。按るに、師宣は土佐流の画風を好み。浮世又兵衛の筆意を傚て一家をなせ    り。一蝶は狩野家の筆意を学び、師宣の画風によりて時世の粧を画て一家をなせり。共に近世の名画な    り。一蝶若かりし時師宣の画風を慕ひし事、四季の画跋〔割注 一蝶の部に出せり〕と云ものに、岩佐    菱川が上にたゝん事を思ひてと自ら書けるを以て証とすべし。師宣自ら印本の板下と云物を画て板刻の    絵本甚多し。他国の人江戸絵と称して、板刻の絵を翫ぶは此人に起れり。みなし栗に      山城の吉弥むすびも松にこそ  其角 菱川やうの吾妻俤       嵐雪    みなし栗は天和三年板なり。此頃さかりに行れたるを見るべし。居処を考るに、貞享四年板江戸鹿子に    村松町二丁目元禄二年板江戸図鑑及同五年板買物調方三合収覧に橘町とあり。一説堺町横町、又大伝馬    町二丁目と云。是等転宅の処なるべし。     房州保田村林海山別願院境内に在る所        周回七尺厚二寸五分  寄進施主     洪鐘一口 口弐尺二寸五分 鐫字如此 菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹            長サ三尺五寸        元禄七甲戌年五月吉日    和国百女〔割注 三冊元禄八年板〕 大和の大寄 壱冊  月次遊ぎ〔割注 一冊元禄四年板〕    恋のみなかみ 壱冊  画本大和墨 三冊  絵本勇士力艸 貞享二年板    香貝大全 天和四年板 倭名所絵尽 三冊  訓蒙図彙〔割注 再板師宣画、貞享原板は吉田半兵衛画〕    江戸雀  ◯床礼儀  艶書規範  旅葛籠  色双子  近世大全 以上五部共師宣画なりと云。然るや否やしらず。    其外天和、貞享の頃の板本多し。    貞享四年の江戸鹿子に、 浮世絵師  村松町二丁目菱川吉兵衛  堺町横町同吉衛門 元禄二年板江戸図鑑綱目に     浮世絵師  橘町菱川吉兵衛師宣  同吉左衛門師房    長谷川町古山太郎兵衛師重       浅草石川伊左衛門俊之 通油町杉村次兵衛正高 橘町菱川作之丞師永    元禄五年板買物調方三合集覧横切本一冊     江戸浮世絵師  菱川吉兵衛  同吉左衛門  同太郎兵衛    元禄十年板国家万葉記 七ノ下二     菱川吉兵衛、同作之丞、同吉左衛門、村松町二丁目     按るに、井沢幡竜長秀の俗説弁に国史を引て、大和画師は倭画師にて、みだりに称すべからずと述た     り。俗説弁に云、画師みだりに倭画師とかく者あり。画師忍(オシ)勝姓を改て為倭画師とあるをみるべ     し〟     ☆ もろふさ ひしかわ 菱川 師房   ◯『新増補浮世絵類考』⑪179(竜田舎秋錦編・慶応四年成立) (「菱川氏系譜」の項) 「菱川師宣系譜」   〝(菱川師宣)実子 菱川吉兵衛師房    【始吉左衛門ト称ス。父師宣ト同居、始画師、後紺屋ヲ業トス】〟    ☆ もろまさ ふるやま 古山 師政    ◯『本朝世事談綺』⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な    り。是を京都にては江戸絵と云〟
      ◯『新増補浮世絵類考』⑪179(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)  (「菱川氏系譜」の項)「菱川師宣系譜」  〝古山新九郎師政    【享保中人、称文志、両国米沢町江市長屋ニ住ス。此人ニ至テ菱川ノ画風ヲ失フ。世事談ニ見ユ。市川    海老蔵ノ似顔書出ス。】〟