Top           『日本随筆大成 第一期』         浮世絵文献資料館
   日本随筆大成 第一期          ま行                  ☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信     ◯『骨董集』⑮376(山東京伝著・文化十年序)   (「臙脂絵売(べにゑうり)」の考証)   〝紅絵と云は、享保のはじめ創意(シイダセシのルビ)ものなり。墨に膠を引て光沢を出したるゆゑに、漆絵    ともいへり。奥村政信もはらこれをゑがけり〟    ◯『還魂紙料』⑫266(柳亭種彦編・文政九年刊)   (「七夕踊り 小町踊り、かけ踊り」の考証)   〝享保中まで小町踊りの名は残ながら、江戸にてはたゞ歌をうたひ、太鼓の拍子をとるのみにて踊事は    絶しならん〔割註 ちかく奥村政信が絵本に小町をどりの図あり〕〟  ◯『用捨箱』⑬221(柳亭種彦著・天保十二年刊)  (「袖頭巾」の考証。模写あり)   〝〔絵本金竜山千本桜〕に載たる図此そうしに、年号は見えざれども、桜鏡と同時なる事は標題にて明    なり。されば享保年間より此頭巾あり”“画人は奥村政信なり〟      ◯『柳亭筆記』④324(柳亭種彦著・成立年未詳)   (「おこそ頭巾」の考証)   〝〔画本金竜山千本桜〕〔割註 芳月堂丹鳥斎奥村文角、梅翁政信画〕〟   〝此冊子には年号は見えざれども【桜鑑】と同時なる事は標題に明か也。享保年間より此頭巾あり〟    〈「国書基本DB」には『絵本金竜山浅草千本桜』享保十九年刊とあり〉    ☆ またべい いわさ 岩佐 又兵衛     ◯『好古日録』22巻p149(藤原貞幹著・寛政八年序)   (「岩佐又兵衛」の項)   〝又兵衛父ヲ荒木摂津守ト云、信長公ニ仕テ軍功アリ。公賞シテ摂津国ヲ予フ。後公ノ命ニ背テ自殺ス。    又兵衛時ニ二歳、乳母懐テ本願寺ノ子院ニ隠レ、母家ノ氏ヲ仮テ岩佐ト称ス。成人ノ後織田信雄ニ仕    フ。画図ヲ好テ一家ヲナス。能当時ノ風俗ヲ写スヲ以、世人呼テ浮世又兵衛ト云、世ニ又平ト呼ハ誤    也。画所預家ニ又兵衛略伝アリ〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』「岩佐又兵衛」記事はこの『好古日録』をそのまま写している。「日本随筆大成」本は     寛政八年の藤原資同の序文と“寛政七年乙卯九月刊行”の奥付を付す。だが、この奥付は不審である。序の年紀よ     り刊年の方が早いからだ。因みに「国書基本DB」は寛政八年序、寛政九年刊とする。この方が自然だ。したがっ     て、南畝の『浮世絵考証』岩佐又兵衛記事は寛政九年以降と思われる〉    ◯『歴世女装考』⑥269(山東京山著・安政二年刊)   (「唐輪髷之古図」模写あり)   〝此図は岩佐又兵衛が筆なりとて或人のもたる摸本なるを、こゝには全図を略しつ。本幅は極彩色にて    いかさま岩佐が真跡と見ゆとぞ、此画人は慶長元和を盛にへたる人なれば唐輪の髪のさま証とすべし、    此画人を俗に浮世又平と云つたふ〟    ☆ またへい うきよ 浮世 又平    ◯『橘窓自語』④447(橋本経亮著・享和元年の記述あり)   〝土佐又平、浮世又平などいふは、大津絵をかきはじめたる人にて、画所の土佐の流にはあらず。其父    荒木摂津守といふ人にて、信長に仕て軍功あり、信長摂津国をあたへたりしが、信長の命にたがひて    自殺せしが、成長の後織田信雄につかへ、画をこのみて一家をなし、当時の風俗をうつすことをえた    るより、世の人浮世又兵衛と呼べり、また又平ともかけり〟    ☆ またべい うきよ 浮世 又兵衛     ◯『文会雑記』⑭234(湯浅常山著・寛延二年)   〝浮世又兵衛ハ古法眼同時代ニテ古法眼同流ノ絵ナリ。墨絵ノ山水ナド、イカニモ古法眼ニ似タルモノ    也。至テ上手ナリ〟
 ◯『擁書漫筆』⑫258(高田与清著・文化十三年)   (「水祝」の項。模写あり)   〝金玉画府五の巻浮世又兵衛が図、十二月遊画巻、などのそのありさまをゑがけり〟    〈「うきよまたひやうゑ」のルビ。『金玉画府』明和八年刊、月岡雪鼎画。「十二月遊画巻」は未詳〉    ☆ もろしげ ふるやま 古山 師重    ◯『骨董集 上編上中巻』⑮376(山東京伝著・文化十年序)   (「臙脂絵売(べにゑうり)」の考証)   〝板行の一枚絵は延宝天和の比始れる歟。朝比奈と鬼の首引土佐浄瑠璃の絵、鼠の嫁入の絵の類なり。    芝居の絵は坊主小兵衛をゑがけるなど、其始なるべし。当時は丹緑青などにてまだらに彩色したり。    菱川師宣、古山師重等これを画けり〟    ☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣    ◯『骨董集 上編上中巻』(山東京伝著・文化十一年刊)   ◇「金竜山米饅頭」の考証 ⑮370(模写あり)   〝延宝六年板、菱川の絵本に此辻売の図あり〟
  ◇「臙脂絵売(べにゑうり)」の考証 ⑮376(模写あり)   〝板行の一枚絵は延宝天和の比始れる歟。朝比奈と鬼の首引土佐浄瑠璃の絵、鼠の嫁入の絵の類なり。    芝居の絵は坊主小兵衛をゑがけるなど、其始なるべし。当時は丹緑青などにてまだらに彩色したり。    菱川師宣、古山師重等これを画けり〟
  ◇「挑燈」の考証 ⑮393   〝(延宝)八延宝六年板〔菱川絵本〕に、箱挑燈に柄をつけたるものあり。当時よりもはらこれを用ひ    たりと見ゆ〟
  ◇「笠の下に布を垂」の考証 ⑮399(模写あり)    〝詞花堂蔵本 天和四年印本 菱川の絵に此の図あり〟
  ◇「女の編笠、塗笠」の考証 ⑮403(模写あり)   〝天和四年印本菱川師宣の絵に此図あり。当時かくのごとく綿にて頭面をつゝみしは中年の女又老女に    おほく見えたり〟
  〝紫のてぼそ(綿帽子)といふ事見えたり。菱川の絵などに少年の女紫のほうかぶりしたる体多くゑか    けり、是なるべし〟
  〝天和貞享元禄の比の女の編笠の形は寛文延宝の比とはいたく変れるを見るべし。当時此あみ笠かぶり    たるはおほくはふり袖の少女なり。菱川の絵にあまた見えたり。ゆゑにこれを小女郎手といひて男子    もかぶれり〟
  ◇「大津絵の仏像」の考証 ⑮412(模写あり)   〝元禄三年印本 東海道分間繪図所載 大谷の所に仏絵(ぶつゑ)いろ/\有、としるせり。芭蕉の大    津絵の句は元禄四年なれば、これわづかに一年さきの板行なり。当時のおもかげ目のまへにうかびて    すずろに珍し、奥書ニ云、作者 遠近道印 絵師 菱川吉兵衛 元禄参年庚午孟春吉旦〟    ◯『骨董集 上編下巻』(山東京伝著・文化十二年刊)   ◇「お乳母日傘(ひがらかさ)といふ諺」の考証 ⑮459   〝今の世、いやしき者の人にほこるに、お乳母日傘にてそだちたる者ぞといふ諺あり。昔は乳母をめし    つかふほどの者の児には、日傘をさしかけたるゆゑにさはいふめり。そのからかさは、丹青もてさま    /\のゑをかきしなり。ことに菱川が絵におほく見えて、延宝、天和、貞享の比もはらもちひたり。    これ近き世までもありしが、今はてて諺のみのこれり〟
  ◇「雛使図」の考証 ⑮481(模写あり)   〝天和貞享の比菱川師宣がかける年中行事の印本に此図あり”
 ◯『瓦礫雑考』②165(喜多村信節著・文化十五年刊)   〝遊女が粧    (上略)いにしへの江口神崎などの遊女は皆小袿着たりと見ゆれど、後世の遊女はしからず、岩佐又    兵衛が画、その後は菱川師宣英一蝶が画にも、猶遊女に打かけ着たるはなし、それらの絵にも稀には    打かけ姿書るも見ゆれど、みな内に居体也、外に出たるは必うへに帯しめたり、よりておもふに遊女    が小袖を打かけ着たるは、褻のことにて晴にはせざしを、今は武家の婦人の打かけのごとく礼服とせ    しは、粗潜上の儀とやいはまし〟
   ◯『花街漫録』⑨301(西村貘庵編・文政八年序)   「薄雲之図【長弐尺四寸六分巾八寸三分】(正八角形に「菱川」の印)花明園蔵」    (模写あり)   〝薄雲は高尾につぎたる太夫にて、世にその名も聞えし三浦屋四郎左衛門が抱の遊女也。このうつし絵    は菱川師信が筆にて誰かすがたとも極かたけれど、師信常にいへらく遊女の画は高尾薄雲などにかぎ    りてほか/\の遊女はおのれ画かゝずといひふらしたりとぞ。さるよしをもて考えれば薄雲にやとも    いふべきか〟      ◯『柳亭筆記』(柳亭種彦著・成立年未詳)   ◇「涼船」の考証。④267   〝踊船の事種々〔大和続浮世絵〕〔割註〕天和四年子正月鱗形屋三右衛門板菱川画〟
  ◇「勝山」の考証。④301   〝〔菱川画本岩木づくし〕天和三年〟
  ◇「煙草の付ざし」の考証。④307   〝天和四年に刊行せし菱川師宣が絵本〔団扇絵づくし〕の頭書に(以下略)〟
  ◇「角兵衛獅子」の考証。④308   〝菱川師宣の画に鶏の頭をかぶり其他へ太鼓をかけしさまなんどは彼獅子にかはらざるあり〟
  ◇「女の覆面」の考証。④317   〝菱川画本十二月三月花見の画讃 ふくめんや花に忍ぶのおかただち 作者不知〟
 ◯『柳亭筆記 脱漏』(柳亭種彦著・成立年未詳)   「手遊びくさ/\」の考証。④389   〝うかれん坊〔浮世続絵屋〕〔割註 天和四年印本、菱川画〕(以下略)〟
 ◯『歴世女装考』(山東京山著・安政二年刊)   ◇「象牙の櫛」の考証 ⑥201   〝むかしは今のやうに女として必ず櫛をさしたるにはあらじとみへて、延宝、天和、貞享、元禄(割註    略)の間、浮世絵師菱川師宣が肉筆にも板本にも女の櫛をさしたるをゑがかず。元禄のゝち廿年可を    歴て正徳にいたりては西川祐信が女絵に櫛をさしたる図往々見ゆ〟
  ◇「今の如く簪をさしたる起原」の考証 ⑥234   〝寛永以来寛文の末まで五十年ばかりの間の画軸板本のるゐの女絵どもには首飾(カミノカザリのルビ)一品も    みへず、延宝、天和、貞享、元禄此間三十四年菱川師宣が絵本あまたあれど遊女すら髪のかざりなし〟
  〝寛永の比及(コロオヒ)より元禄中まで八十年可(バカリ)の間江戸にて上梓の浮世草子は甚稀也。写本にて伝    ふる随筆物にはおほかたは図なし。たゞ菱川師宣出て延宝より元禄の間まで浮世の時粧を画たる絵本    どもあまたあれど、師宣が在世には浮世文章の作者なかりしゆゑ時粧のさまを考べき証すくなし〟
 ◇「なげ島田」の考証。(模写あり)⑥301   〝此図は菱川師宣筆、天和三年江戸板の絵本にあり、なげ島田とてはやりしはこれならん〟
  ◇(「髪飾り」の考証。模写あり)⑥302   〝天和四年、江戸板、師宣絵本、子の日松にみへたる北里の遊女道中の図なり。此頃は髪のかざり更に    なし、髪をさげたるも見ゆ。帯のはゞ四寸ばかりとみゆ。わらひをうるあそび女さへかくの如し、む    かしはかく質朴なりしをおもふべし〝
  ◇「びんさし」の考証 ⑥304   〝〔割註 延宝より元禄にわたりては江戸に菱川師宣が絵本、宝永より元文にわたりては京に西川祐信    が絵本〕婦女の図にびんを張出したるはさらになし〟
 ◯『閑窓瑣談』⑫196(教訓亭主人貞高選・成立年未詳)   〝元禄の頃浮世絵師菱川吉兵衛師宣は、人形町の辺を住居て、其家に最々可笑き小僧ありしが、或年の    七月十三日の黄昏に、彼小僧は門口よりあはたゞしく奥へ逃入り、主人吉兵衛の前にいたりて、只今    幽霊が出来り候。早く逃げたまへといへば、吉兵衛は小僧を叱り、亦例の粗忽をいふか。奈何盆の十    三日にて姓霊の来る夕部なりとも、汝が眼に見ゆる程現に幽霊が来るべきか。愚か者めがといふを、    小僧は聞入ず、いな/\白き着物を着て、然も生霊軒幽霊なりと名号て参り候ものを、偽ならずと身    をふるはして云ひければ、菱川師宣は呆れつゝ、門口へ走り行き看れば、実にも白き浴衣を着て彳む    者有るゆへ、怪しみながら側ちかく至り誰ぞと問ふに、幽霊も薄くらがりに会釈をし、久しく不沙汰    を致し候ひぬといふを、師宣は能々看るに来りし者は幽霊ならで、徘諧の宗匠高井立志の子息にて、    松葉軒立栄といふ人なりければ、菱川は打ち笑ひて挨拶し、先奥へ伴ひて、小僧が粗相を立栄に語り    ければ、腹を抱へて大笑ひとぞなりける。然ど立栄を幽霊と云し麁忽を詫て、菱川は狂歌を詠たり。    此人画名は高く、浮世絵師の元祖とも云はれ、その画を今も珍重すれど狂歌の戯れは最々珍らしけれ    ば、落首めきたれどこゝに記せり。      何といふ例の麁相がまた出てしやうれうけんのなきうつけ者     右は風来山人の随筆に有しを写し出せしなり”
 ◯『還魂紙料』(柳亭種彦編・文政九年刊)   ◇「十筋右衛門」の項 ⑫247   〝〔咄大全〕は予(種彦)が此紙料を刻する鶴屋喜右衛門が板にて、〔割註 さし絵は菱川師宣〕江戸    の軽口ばなしなり〟
  ◇「玉川千之丞」の項  ⑫286   (『役者物語』より「高安通」の挿絵の模写あり。奥付〝延宝六年清明日 通油町本問屋開板〟)   〝寛文のはじめより延宝にいたるかぶき狂言をそれぞれとりあつめ菱川師宣が画るものなり〟
  ◇「稲荷岡附小砂とり」の項 ⑫293    (菱川師宣の絵本「道引」(延宝六年刊の『吉原恋の道引』か)を引いて「土手の道哲庵」後方の合     力稲荷のあたり、吉原通いが馬を下りるところを稲荷岡と考証する)
 ◯『用捨箱』⑬152(柳亭種彦著・天保十二年刊)  (「高燈籠」の考証)(模写あり)   〝画本月並の遊び    此画本に元禄の年号あるは後に彫られしにて貞享元年に刻なるべし〟
 ◯『宮川舎漫筆』⑯318(宮川政運著・柳川重信画・文久二年刊)   (「東錦絵はじまり」の項)   〝愛閑楼雑記といへる写本にいふ、江戸絵と称して、印板の絵を賞翫する事、師宣【菱川】をはじめと    す、印板の一枚絵は古く有りしものなれども、彩色したるはなく、貞享の頃より漸く彩どりたるもの    出来しを、明和のはじめ、鈴木春信はじめて、色摺の錦絵といふものを工夫してより、今益々壮んに    行はる〟