Top 『大田南畝全集』浮世絵文献資料館
大田南畝全集 あ行☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信 〔貞享三年(1686)~明和元年(1764)〕 ◯『浮世絵考証』⑱442(寛政十二年五月以前記) 〝号芳月堂、一号丹鳥斎〈朱筆〉 奥村文角政信 同利信 江戸通垣(ママ)町本屋なり。瓢箪の印をなせり。漆絵に多し〟 ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯92(文化八年四月二日明記) (「雲茶会」初集。紀束(西川権)の出品。凡例参照) 〝志道軒 芳月堂 奥村文角政信 はしら絵版元〟〈深井志道軒は享保から明和の初年にかけて活躍した講釈師〉 ◯『瑣々千巻』⑩332(文化八年四月八日明記) 〝わか草物語 あぜち少将若草のまへ 大和絵師 奥村政信〟〈『国書総目録・著者別索引』が載せる『若草源氏物語』がこれに相当するか。そうだとすると、宝永四年(1707)の刊行。 『瑣々千巻』は凡例参照〉 ◯「南畝文庫蔵書目」⑲414(日付なし) (「絵本」の部) 〝遊君仙人絵本 一巻 奥村政信筆〟〈「国書総目録・著者別索引」には同名の絵本が見当たらない〉 ◯「杏園稗史目録」⑲452(日付なし) (「画本部」) 〝折本 無名 奥村政信 一〟〈題名なしの折本ということか〉 ☆ まさのぶ きたお 北尾 政演 ◎ 〔宝暦十一年(1761)~文化十三年(1816)〕 〈絵画記事および交遊関係のみ。京伝著の所蔵書目録も全て省略〉 ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊) 〝絵師之部 北尾政演〟 ◯『岡目八目』⑦262・271(天明二年一月刊) 〝作者之部 京伝〟 〝画工之部 政演〟 (天明二年の黄表紙で「青本惣巻軸」を飾った京伝の出世作『御存商売物』について) 〝作者京伝とはかりの名、まことは紅翠斎門人政演丈の自画自作〟〈この当時はまだ〝紅翠斎門人〟と師匠重政の名を冠しないと格好のつかない存在だった〉 □「杏園余芳」(月報4 巻三「南畝耕読」) 「耕書堂夜会出席者名録」(天明二年十二月十七日明記)〈蔦屋主催のふぐ汁の会に師匠北尾重政と参加。南畝との交遊はこのあたりから始まるか。北尾重政の項参照〉 □「判取帳」(天明三年成) 〝葎斎政演画 一名身がるの折輔 (松の梅の絵)〟〈天明三年頃は戯作者京伝より、絵師政演の方が通りがよかったのであろう〉 ◯『四方の留粕』①197(天明四年一月刊) 〝山東京伝画美人号序 花の色をうつせるものは、〈中略〉 天明四ッのとし辰の初春〟〈南畝の京伝作品初めての序か〉 □『吾妻曲狂歌文庫』(天明六年一月刊)〈京伝、南畝の肖像を画く〉 □『古今狂歌袋』(天明七年一月刊)〈京伝、南畝の肖像を画く〉 ◯『南畝集 九』④141(寛政五年九月下旬)(漢詩番号1898) 〝聞京伝生新開煙袋舗賦贈 児童走卒識京伝 更掲高標列百鄽 煙火神仙製煙袋 風流不譲薛涛牋 〟〈京伝の煙草屋開店は弟京山の『山東京伝一代記』によれば同年四月、京橋銀座一丁目に店開きとある。南畝が民間人の 商売に関して漢詩を寄せることは極めて珍しい。特別の思い入れがあったと見てよいのだろう〉 ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記) 〝(北尾重政)弟子 同政演 【京橋山京(ママ)屋伝蔵、所謂京伝なり。/葎斎と云。戯作に名高し】 擁書漫筆に岩瀬醒字ハ田蔵トアリ。 (朱丸・以下二行分朱筆)【姓岩瀬、名田蔵、字伯慶、号醒世老人、/一号山東、江戸深川木場丁産、 幼名甚太郎】 【本文朱注恐ラクハ誤ナルベシ。尚後人ノ考ヲ俟ノミ】〟〈凡例にあるように「(朱丸)擁書漫筆」以下の記述は南畝以外の注記。なお小山田与清の『擁書漫筆』は文化十四年の 刊行。与清と京伝は極めて交渉が頻繁で、様子は文化十三、四年の与清の日記「擁書楼日記」に詳しい〉 □『浮世絵追考』⑱689(享和二年十月明記)〈京伝による『浮世絵追考』成る〉 ◯『細推物理』⑧346(享和三年一月十九日明記) 〝狂歌堂真顔・吾友軒米人・山東京伝・曲亭馬琴来。馬蘭亭の息・及柳長、かほる、吉田やおますを携へ 来りて、三線をひかしむ〟〈南畝宅での狂歌会。豪華な参加者である。柳長は酒泉亭柳屋長二郎。かほるは蘭奢亭薫。吉田屋お益は芸者だが、狂歌 師・人真似小真似のわすれがたみと南畝は言う〉 ◯『細推物理』⑧351(享和三年閏一月二十五日明記) 〝馬蘭亭会。狂歌堂真顔・山東京伝・曲亭馬琴・烏亭焉馬・吾友軒米人等来。六樹園 五老・島田氏の女・ 為川氏も又来れり〟〈馬蘭亭での例会。前項の顔ぶれに六樹園(五老・宿屋飯盛)が加わる。「島田氏の女」とは芸者お香、南畝の妾になる人〉 ◯『細推物理』⑧361(享和三年四月十日明記) 〝山東京伝をとひ、酒くみかはし、所著の骨董集をみる〟〈京伝著『骨董集』の出版は後年の文化十二年。南畝は文化十年冬に序を認めている〉 ◯『細推物理』⑧364(享和三年五月十五日賦) 〝亀沢別業の会。烏亭焉馬・狂歌堂真顔・山東京伝・馬蘭亭高彦来、八重川勾当来弾筝 曲裏薫風可解慍 月臨亀沢又黄昏 請看第二橋頭水 交淡談清酒一樽〟〈次項参照。竹垣柳塘の別荘での会。南畝を始めいつもの顔ぶれ。琴を弾く八重川勾当は、この頃の宴席に頻りに登場す る〉 ◯『南畝集 十三』④263(享和三年五月十五日明記)(漢詩番号2286) 〝五月望同馬蘭亭狂歌堂山東窟烏亭集竹柳塘亀沢別業瞽八重川勾当筝〟〈詩は前項に同じ〉 ◯「書簡 135」⑲198(文化三年八月十五日明記) (本所の近藤重蔵正斎寓居にて月見の宴。以下当日の参加者) 〝京伝・馬琴・焉馬・飯盛・馬蘭亭・唐画人芙蓉(阿波ノ臣)・柳橋歌妓お増・大橋歌妓・義太夫ぶし手妻 遣も有之、中村勘三郎座へ出候歌うたひ等来〟〈芙蓉は鈴木芙蓉。南畝とは安永以来の交渉あり。この日の亭主は近藤重蔵だが、参加者はおそらく南畝の招集に応じた もの。芸者に下座の者、義太夫手妻とあるから相当にぎやかな中秋の宴である〉 ◯「書簡 163」⑲227(文化八年三月三日明記) 〝去上巳山東京伝、京山に内会いたし曲水にかへ申候。珍書珍画会いたし、来月より月々二日と相定、神田 明神前雲茶店と申候茶店之楼上へ、二百年来の古物、青楼、戯場其外之俗ナル古物を持ちより申候。尤大 連成候へばあしく候間十人迄に限り、一人五品を限り申候。素見物は禁じ申候。御閑暇に候はヾ御出会奉 待申候。近隣書肆青山堂雁がねや発起に御座候。俗物は一切入不申、小連に限り申候。京伝、京山は是非 来るよしに候〟〈竹垣柳塘宛。上巳三月三日、京伝・京山と「雲茶会」のことを相談したのであろう。凡例および次項以下、四月二日・ 五月二日の会参照〉 ◯『一話一言 補遺参考編一」⑯91(文化八年四月二日) (「雲茶会」初集、京伝の出品。凡例参照) 〝一 万治高尾自筆色紙 揚屋さし紙二張 高尾 うす雲 一 延宝年間よし原の図 菱川師宣筆 一 雛屋立圃作美少年人形〟 ◯『一話一言 補遺参考編一」⑯107・108(文化八年五月二日) (「雲茶会」二集、京伝の出品三品) 〝海西子休甫戯筆〟 〝(京伝の識語)休甫ハ泉州堺ノ俳諧師也。貞徳ト時ヲ同ジウセリ。〈中略〉則此絵ハ寛永正保ノ比ノ モノ也。画者詳ナラズトイヘドモ六尺袖紫足袋ノ古風ヲミルニタレリ〟
〝蒔絵香合考〟 〝(京伝の識語)是寛永時代の蒔絵也。洛北修学寺村或は松ケ崎等の題目踊の図なるべし。〈後略〉〟
〝新撰御ひいながたの序 瓢水子 〈序文省略〉 于時寛文六年七月吉日 山田市郎兵衛開板 絵様以上二百 寛文六丙午年八月吉日 寺町通二条上ル町 山田市郎兵衛板〟 〝(京伝の欄外注)瓢水子ハ浅井了意ノ号也〟 ◯「松楼私語」⑩12(文化九年記)〈「松楼私語」とは、南畝の妾しづ(賎)が吉原・松葉屋内の年中行事や風俗・習慣について語ったものを、南畝が筆記 したもの。筆記は天明七年の春のことであった。しづはもと松葉屋の新造・三穂埼。天明六年七月十五日、南畝が身請 けした。この筆記を文化八年、南畝が清書し、翌九年、京伝が一覧した。天明七年春と言えば、この年出版の京伝作・ 洒落本「総籬」も松葉屋が舞台であった。京伝は当時二十五才、この筆記を読んで青春時代が彷彿と蘇った違いない。 それかあらぬか、京伝は「総籬」の主人公・仇気屋艶次郎ならぬ〝艶示老人〟の名で識語を書いている。ところで「松 楼私語」は、南畝自ら〝一切他見無用〟(書簡211⑲11)と言う秘本であった。それを見ることができた京伝は、やはり 南畝にとって特別な間柄であったのだろう〉 ◯「序跋等拾遺」⑱556(文化十年冬明記) (南畝、京伝の『骨董集』(文化十一年刊)に序。序文は省略) 〝文化癸酉冬日 杏園主人書于緇帷之林下〟 ◯『一話一言 巻五十』⑮346(文化十三年三月明記) (南畝、京伝宅に「琉球雛」を見る) ◯『丙子掌記』⑨599(文化十三年九月七日明記) 〝丙子九月七日暁、醒々老人山東京伝 岩瀬氏頓滅。翌八日葬于本所廻向院無縁寺 歳五十六 法号智嶽 恵海(欄外注、法号、墓石の事等略) 六日の夜、弟京山のやどに狂歌堂真顔 北静廬などヽともに円居して物くいなどし、子の刻すぐるまで物 語せしが、狂歌堂は久しくやめるのちなれば、竹輿にのりて帰り、京伝は静廬とヽもに家に帰る道すが ら心地あしければ、下駄ぬぎてゆかんといふにまかせて、静廬かた手に左の下駄をもち、京伝を肩にか けて帰りしが、わづか道に三たびばかりもやすみ、やうやうやどに帰りてなやみつよく、つゐに丑の刻 半すぐる比に息たえぬ。脚気衝心とかやいふなる病なるべしと静廬ものがたりしを、八日廻向院にてき けり。 七日の夕、児定吉、柳原の書攤にて京伝か作の小本三部并青本数巻を得てかへれり〟〈以下省略。南畝の嫡子定吉が購入して来た小本(洒落本)名および南畝所蔵の京伝作・洒落本名あり。しかし不思議に も青本(黄表紙)の方は記載ない。これは京伝作に限らない。南畝の蔵書目録にも黄表紙作品は一切ない。不思議である。 南畝が京伝の臨終の様子を聞いた北静廬は、国学者としても著名な京橋住の伊勢屋勝助。狂名を網破損針金という。南 畝とは天明三年以来の旧知である〉 ◯『一話一言 補遺参考編一」⑯154(文化十四年二月以前) 〝京伝机塚碑文相願候に付口上之覚〟〈山東京山、兄の「京伝机塚」建立を計画。記事は碑文を南畝に依頼する口上書の写し。書面及び京伝自身の「古机の記」 は省略〉 ◯「序跋等拾遺」⑱646(文化十四年二月明記)〈南畝、弟京山の依頼にて「京伝机塚」(浅草寺境内現存)を撰す。碑文は省略した〉 〝文化十四年丁丑春二月 江戸南畝覃撰〟〈浮世絵師の中で、南畝が一番親密だったのは山東京伝であった。交渉は南畝が天明二年の黄表紙評判『岡目八目』で京 伝作を激賞して以来のもの。文化十四年の南畝撰「京伝机塚」碑文にも〝余識翁三十余年〟とある。黄表紙・洒落本・ 読本等の〝稗史作者〟京伝を高く評価するとともに、『近世奇跡考』や『骨董集』のような考証ものについても、〝考 拠精確、可以補小史矣〟と南畝は高く評価していた。ただ絵師としての評価に直接言及したものを見ない。やはり文芸 の人・京伝なのだろう〉 ☆ まさよし きたお 北尾 政美 ◎ 〔明和元年(1764)~文政七年(1824)〕 (鍬形蕙斎参照) ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊) 〝絵師之部 北尾三二郎〟 ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊) 〝画工の部 北尾政美〟 □「杏園余芳」(月報4 巻三「南畝耕読」) (「耕書堂夜会出席者名録」)(天明二年十二月十七日明記)〈天明二年十二月十七日、吉原大門口蔦屋重三郎宅のふぐ汁会に参加。この会のことは北尾重政の項参照〉 ◯『寿塩商婚礼』⑦501(天明三年刊)〈四方作、北尾政美画、蔦屋板。次項『此奴和日本』の初版本〉 ◯『此奴和日本』⑦318(天明四年刊) 〝四方作 北尾政美画〟〈全集は『此奴和日本』を所収〉 ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記) 〝〈北尾〉政美 【杉皐、俗称三次郎、後蕙斎と号、落髪して浮世絵をやめ一種の画をなす。名を紹真ト改】〟〈南畝との交渉は鍬形ケイ斎を名乗るようになってからの方が多く、政美時代は少ない〉 ☆ またへい うきよ 浮世 又平〔未詳〕 ◯『一話一言 巻九』⑫385(天明八年六月中旬記) (「三国遊女歌川の歌」の項。年月日未詳の欄外注) 〝或説、東海寺に浮世又平がかけるうかれめの障子あり。一休の賛とて、 高尾示曰、仏売法、僧売仏、汝以五尺体休衆生煩悩、遮莫 池水に月はよなよなかよへどもひかりもぬれず水もそのまヽ 一休といひて高尾示曰も可笑。いづれ偽作なるものなり〟〈確かに一休宗純と遊女・高尾とでは時代違いである〉 ◯『一話一言 補遺参考編一」⑯47(寛政六年六月二十一日明記) (『池田氏筆記』所収、京都「高台寺」の項) 〝屏風片シ 泉州堺エ昔唐船入津の図也。浮世又平筆〟 ◯『浮世絵考証』⑱440(寛政十二年五月以前記) (「英一蝶四季絵跋」) 〝近頃越前の産、岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍子の時勢粧をおのづから写し得て、世人うき世又 平とあだ名す〟☆ またべい いわさ 岩佐又兵衛 〔天文六年(1578)~慶安三年(1650)〕 ◯『浮世絵考証』⑱438(寛政十二年五月以前) 〝岩佐又兵衛 又兵衛父ヲ荒木摂津守村重ト云。(按、名村重〈朱筆〉)信長公に仕テ軍功アリ。公賞シテ摂津国ヲ 与フ。後公ノ命ニ背テ自殺ス。又兵衛時ニ二歳、乳母懐テ本願寺子院ニ隠レ、母家ノ氏ヲ仮テ岩佐ト 称ス。成人ノ後織田信雄ニ仕フ。画図ヲ好テ一家をナス。能当ノ風俗ヲ写スヲ以テ世人呼テ浮世又衛 ト云。世ニ又平ト呼ハ誤也。画所預家ニ又兵衛略伝アリ。藤貞幹好古日録ニ見ユ。 (朱丸)【無仏斎ガ此説信ジガタシ、四季画ノ跋ニ越前ノ/産云々ト有ニモ不叶。疑ラクハ誤ナルベシ】 按ずるに、是いわゆる浮世絵のはじめなるべし。又大津絵も此人の書出せるなりといふ〟〈無仏斎とは『好古日録』(寛政九年刊)の著者・藤貞幹(藤井貞幹)〉 ◯ 同上 ⑱440 (「英一蝶四季絵跋」) 〝近頃越前の産、岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍手の時勢装をおのづから写し得て、世人うき世又 平とあだ名す〟〈南畝には、岩佐又兵衛、浮世又平、浮世又兵衛、大津又兵衛の使用例があるが、浮世又平・又兵衛を岩佐又兵衛の渾名 と捉え同一人物視しているようだ。大津又兵衛については確証がない〉 ☆ またべい うきよ 浮世 又兵衛 〔未詳〕 ◯『紅梅集』②354(文政一年九月詠) 〝大津絵うき世又兵衛が古き図をみて 小ふくろの一つあまれば大津画の筆たて傘にくヽりつけたり〟☆ またべい おおつ 大津 又兵衛 〔未詳〕 ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯91・110(文化八年四月二日) 〈「雲茶会」出品目録〉 〝大津又牛〈ママ〉画鷹〟 〝大津又兵衛画鷹ノ絵〟〈「雲茶会」は凡例参照。出品は反故庵。反故庵は市川白猿(五代目団十郎)の隠居名であるが、白猿は文化三年に没し ている。この反故庵は白猿ゆかりの人だろうが未詳。この大津又兵衛が岩佐又兵衛をさすのかは不明である〉 ◯『一話一言 巻四十九』⑮327(文化八年七月?記) 〝護国寺什宝 慈童 光貞画〟〈この「光貞画」を土佐光貞とみた。諸寺の虫干しは一種の展覧会のようなものであった〉 ☆ もりくに たちばな 橘 守国 〔延宝七年(1679)~寛延元年(1748)〕 ◯『浮世絵考証』⑱442(寛政十二年五月以前記) 〝これまた町絵なれども世のつねの浮世絵にあらず。世に所伝の絵本通宝志、絵本故事談、謡曲画史、 絵本写宝袋等を見てしるべし〟〈『絵本故事談』は正徳四年(1714)の刊行。以下、『絵本写宝袋』享保五年(1720)『絵本通宝志』享保十四年(1729) 「謡曲画史」享保十五年(1730)の刊行〉 ◯『小春紀行』⑨44(文化二年十月二十二日) 〝むかし我十一二歳の頃、橘守国が図の画る絵本故事談といふものを見しに、いつくしまの図有て、 弥山といへる山の名をもおぼえしが、今年今日此島を見る事を得たりと思ふに涙さへ落ぬ〟〈南畝の蔵書目録には橘守国の『絵本故事談』は見当たらない〉 ☆ もろしげ ふるやま 古山 師重 〔生没年未詳〕 ◯『浮世絵考証』⑱439(寛政十二年五月以前記) 〝元禄二巳年板の江戸図鑑に、 浮世絵師 長谷川丁 古山太郎兵衛師重〟〈菱川師宣の項参照〉 ☆ もろなが ひしかわ 菱川 師永〔生没年未詳〕 ◯『浮世絵考証』⑱439(寛政十二年五月以前記) 〝元禄二巳年板の江戸図鑑に、 浮世絵師 橘町 菱川作之丞師永〟〈菱川師宣の項参照〉 ☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣 〔?~元禄七年(1694)〕 ◯『俗耳鼓吹』⑩18(天明八年六月以前記) 〝元禄の比の板にて月次の遊といへる絵本あり。菱川吉兵衛也。中に芝居の顔見世の事をしるして、つ らみせといへり〟〈『月次の遊』は元禄四年(1691)の刊行。南畝は師宣画を江戸の風俗資料として見ている〉 ◯『浮世絵考証』⑱438(寛政十二年五月以前記) 〝菱川吉兵衛師宣 大和絵師又は日本絵師とも称ス。房州の人なり。和国百女【三冊、元/禄八年板】 月次の遊び【一冊、 元/禄四年板 やまの(ママ)大寄 一冊 恋のみなかみ 一冊 其外天和、貞享の頃板本多し。 貞享四年板の江戸鹿子に 浮世絵師 イニ村松町二丁目(朱筆) 堺町横丁 菱川吉兵衛 同吉左衛門 元禄二年巳年板の江戸図鑑に 浮世絵師 橘町 菱川吉兵衛師宣 同所 同吉左衛門師房 長谷川丁 古山太郎兵衛師重 浅草 石川伊左衛門俊之 通油町 杉村治兵衛正高 橘丁 菱川作之丞師永 (以下上段六行分朱筆) 元禄五年板 買物調方三合集覧 横切本一冊 江戸浮世絵町 橘町 菱川吉兵衛 同吉左衛門 同太郎兵衛 〟〈『やまとの大寄』および『恋のみなかみ』はともに天和三年(1683)の刊行〉 ◯『一話一言 巻三十』⑭177(文化六年八月下旬記) 〝やまとめいしょ絵本尽 駒形堂他江戸名所菱河師宣の絵本に、やまとめいしょ絵本尽といふ三巻あり〟〈南畝は「駒掛堂」を駒形堂と見做し抄書した。ここでの師宣画は江戸地誌の資料であった。なお「やまとめいしょ絵本 尽」は『国書総目録・著者別索引』の菱川師宣にはない〉 ◯『一話一言 巻三十四』⑭282(文化七年一月七日明記) 〝元禄四年板 月次の遊といふ菱川の画本に江戸山王祭の体をゑがきて(以下略)〟〈この山王祭の絵は、室町時代の僧万里が編集した『帳中香』の記事「竹枝歌(コキリコ)」を、南畝が考証する資料と して使われている〉 ◯『一話一言 補遺参考編一」⑯91(文化八年四月二日) (「雲茶会」初集、山東京伝の出品。凡例参照) 〝延宝年間よし原の図 菱川師宣筆〟 ◯『瑣々千巻』⑩339~340(文化八年四月八日) 〝姿絵百人一首 菱川 残本〟 〝和国名所鑑 闕本 菱川師宣〟〈『瑣々千巻』は、書肆青山堂・雁金屋の千巻文庫(慶長已来の稗史野乗、古器古書画を収蔵)を、南畝が点検して表題 を与え、識語等を記したもの。『姿絵百人一首』は元禄八年(1695)年、『和国名所鑑』天和二年(1682)の刊行〉 ◯「杏園稗史目録」⑲484(文政四年明記) (「収得書目 和」の項) 〝辛巳 大和絵つくし 三巻【大内 武者/浮世】菱川吉兵衛絵〟〈「辛巳」は南畝取得の文政四年。『大和絵つくし』は延宝八年(1680)の刊行〉 ◯『一話一言 巻二十一』⑬320(年月日未詳) 〝信武 狂歌たび枕 上下 〈南畝の抄書あり、略〉 天和弐年戌初秋上旬 絵師 菱河吉兵衛 江戸おやぢ橋 酒田屋開板〟
(南畝注)此たびまくらは永井信斎といふ人歟、此集の中のうたに、 永井ことをおもひあつめてさま/\に信濃よきこそ信斎ぢなり といふあり、己が姓名をいひしにや未詳〟〈この『狂歌たび枕』は南畝の蔵書。「識語集」⑲722に ◯「南畝文庫蔵書目」⑲413~5(年月日なし) (「絵本」の部) 〝恋のみなもと 一巻 菱川吉兵衛 月次の遊 一巻 同 岩木絵つくし 一巻 同 やまとの大寄 一巻 同 和国百女 三巻 同 余景作り庭の図 一巻 同 やまと絵つくし 三巻 同 〟 (「画部」) 〝そのまヽ 一巻 穴村法印 菱川師宣 遊姿枕ゑつし 一巻 天和二 菱川 きやらまくら 一巻 菱川 〟〝【信武】 狂歌旅枕二巻、先年一見之。文政改元戊寅九月尽前於本石町曬書堂収得。七十翁蜀山人 此書不題作者姓字、按此中のうたに、 永井ことをおもひあつめてさまざまに信濃よきこと信斎ぢなれ といふあり。永井信斎といふ人にや。蜀山人又識〟 とあり。狂歌本だけに南畝は作者を特定したかったのだろう。また南畝の蔵書目録「杏園稗史目録」 ⑲468にも〝一巻 寛文五年 永井信斎 天和二年板〟 とあり〉〈次項参照〉 ◯「杏園稗史目録」⑲452(年月日なし) (「画本部」) 〝和国百女 元禄八年 菱川 三 やまとの大寄 天和二年 菱川 一 岩木絵尽 天和三年 菱川 一 月次の遊 元禄四年 菱川 一 余慶作庭図 延宝八年 一 そのまヽ 一 遊姿枕 一 きやらまくら 一 〟〈『きやらまくら』を『国書総目録』は寛文年間(1661~1672)とする。『やまと絵つくし』延宝八年(1680)『やまとの 大寄』天和二年(1682)。『恋のみなもと』が『恋のみなかみ』であるなら天和 三年(1683)の刊行。『月次の遊』元禄 四年(1691)。『余慶作庭図』延宝八年(1680)『岩木絵尽』天和三年(1683)。『遊姿枕ゑつくし』天和二年(1862)。『和 国百女』元禄八年(1698)。「そのまヽ」は『国書総目録・著者別索引』に見当たらない〉
〈南畝の菱川師宣画に対する関心は、絵そのものつまり鑑賞用というより、近世初期の江戸風俗を知る格好の資料、考証の 資料としてあったようだ〉