Top 『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)浮世絵文献資料館
増補浮世絵類考 ま行
☆ まごじ つつみ 堤 孫二 初代 (「三代堤等琳」の項、二代目等琳門人)「堤等琳系譜」〟 〝(二代目堤等琳)門人 堤孫二 雪峯 俗称雉子定 居神田大工町〟☆ まごじ つつみ 堤 孫二 二代 (「三代堤等琳」の項、初代孫二門人)「堤等琳系譜」〟 〝二代目 孫二 雪丘 俗称筆安 居(空白)〟☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝奥村政信 享保の頃 俗称(本屋)奥村源六 通塩町〈に〉住す(一本に〈通〉油町) 号 文角〈梅翁〉 芳日堂、丹鳥斎(奥村観妙政信と書るものと見たり) 政信は自ら日本絵師とかけり、朱にて瓢箪の印を用ゆ漆画にも多し、鍾馗の画を能かきて眼に金箔をお けり、俗に浮絵を云て、名所或は富士牧狩の図、曽我十番切に遠景を奥深く見ゆる図を書 板行にせし なり。其頃は大ひに流行す、紅絵の始也。浅草寺境内に出し、講釈師志道軒の容を写し画く事、妙なり しと〟☆ まさのぶ きたお 北尾 政演 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) ◇「北尾重政」の項、(重政門人。名前のみ)
「北尾重政系譜」 ◇「北尾政演」の項 〝北尾政演 重政門弟 (空白)年中の人 俗称 京屋伝蔵 京橋南壱町目、 姓 岩瀬 本姓 拝田 名 蔵 字伯慶 号 葎斎 一に醒世老人 一号 山東庵京伝 戯作の名也 三歳の童子も不知はなし 幼名 甚太郎 江戸深川木場の産 両国回向院に墓碑あり、 浅草寺〈人丸社辺〉に筆塚の碑石立之(家弟京山人筆記) 京伝は書画ともに善す。〈双紙(ママ)画作又他人の作の指絵あり〉戯作に高名なる事は世に知る所なれば、 爰に誌さず。文〔政〕〈化〉十三子九月七日五十六歳にして卒、回向院に葬す。 〈京伝が事は曲亭の撰いはでもの記に詳なり)〟〈「曲亭の撰いはでもの記」は曲亭馬琴の『伊波伝毛乃記』(文政二年成立)〉 ☆ まさのぶ ひしかわ 菱川 政信 (「菱川氏系譜」師宣門人)「菱川師宣系譜」 〝菱川政信 字守節 画風ハヨク師ニ似タリ〟☆ まさふさ おくむら 奥村 政房 〝奥村文志政房 一枚絵草双紙多くあり〟☆ まさよし きたお 北尾 政美 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) ◇「北尾重政」の項、(重政門人)「北尾重政系譜」 (門人に赤子と美丸あり) ◇「北尾政美」の項 〝北尾政美 重政門弟 〔文政(空白)年(空白)没す〕 俗称 三次郎 (始小網町 後住吉町裏河岸、後又於玉が池に住す) 姓 鍬形氏 号 杉皐 蕙斎 後紹真 政美は近世の〔上手也〕〈工夫者なり、其態拙しといへども風韻あり〉狩野家の筆意をも学びて〔一家 をなす〕又光琳或芳中が筆意を慕ひ、略画式の工夫行れし事、世に知る所なり(若き頃切くみ燈籠画あ また画り。吉原俄の図、葛西太郎庭中の所、芝居の燈籠などありし)〈京の黄華山筆の洛中一覧図に傚 ひて〉東都の絵図を一と眼に見る所の図を工夫して一枚摺となし、又神田の社額堂にも江戸絵図の額を 奉納せり。近年絵手本は此人の筆多し、是より世に薄彩色摺の画手本大に流行す、一時の聞人なり。 因に云、月岑云、寿阿弥の説に、切組燈籠絵は元上方下りのものなり、夫故中古のものには生州〈イ ケス〉天満祭など、京大坂の図多しといへり。 蕙斎筆絵本多し(青年の草そうしあまたあり。若き頃画しもの也。目録ここに記さず) 略画式 略画苑 草花略画式 蕙斎略画 〈蕙斎麁画〉 諸職画鑑 俳家奇人談〈玄々一篇〉 〈絵本咲分勇者 二冊 同 大江山 二 同 曽我物語 二 同 武隈末 三 尊氏勲功記 五〉 後、松平越前侯の藩中に在して、板行発市の絵を止め、鍬形紹真と改め落髪す〈文政七年三月廿一日卒〉 実子を赤子と呼ぶ(一号紹意)今猶越前侯の藩たり。門人に美丸と云ものありし。故在て政美が師重政 が名跡をつがしむ。画風は大に異なり、豊国が流なり。名を相続して、反て絶るにはおとれり〟☆ ますのぶ たなか 田中 益信 〝田中益信 画作の草双紙あり〟☆ またべい いわさ 岩佐 又兵衛 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝岩佐又兵衛 土佐ノ又兵衛 浮世又兵衛トモ云 姓藤原 荒木氏 越前産也(一説摂津ニ作ル〔住とあり〕 拠有レバ姑ク越前ニ従フ) 父は荒木摂津守村重と云。織田信長〈公〉に仕て軍功あり。公賞して摂津を与ふ。後公命に背自殺す、 又兵衛時に二歳、乳母懐て本願寺の子院に隠れ、母家の氏を仮て岩佐と称す。成人の後、織田信雄に仕 ふ。画図を好て一家をなす。能当時の風俗を写すを以て、世人呼て浮世又兵衛と云。世に又平と云は誤 なり。画所預り家に略伝あり。藤貞幹好古目録に見ゆ。按るに、是世にいはゆる浮世画の始なるべし。 又大津画も此人の書いたるなりといふ。(杏花園蔵以上浮世絵類考) 追考曰、按るに、一蝶が四季の画の跋に、越前の産としるしたるを見れば、越前において成人せしと覚 ゆ、名字は知る人もなかりしにや、たしかにしるしたる物を見ず。又兵衛父荒木摂津守名は村重、家士 に重郷(姓氏不詳)と云者あり。俗称久蔵、後に内膳と改む。一翁と号す。狩野松栄(松栄直信は元信 の長子、兄祐雪宗信の養子)門人にて画をよくす。一説に、又兵衛、はじめ此人を師として画を学ぶ、 後に土佐光信〈光弘男〉(明応の頃の人)〈大永五年五月廿日卒九十二歳〉の画風に傚て一家を成せり。 世に光信の門人と云は誤也。時代同じからずと云、然るやいなやをしらず。(以上追考山東京伝考) 岩佐又兵衛は、姓氏実に〈イ名〉未詳といへり。見聞せし処、絵の土佐流の名手なり。花鳥人物共に彩 色筆意の絶妙奇と云べし。就中浮世人物に妙あり(土佐流にては市中のさま或は花見なんど画たるをす べて浮世人物の絵巻と云。又兵衛にのみにかぎるべからず。土佐流にて浮世の人物をさして雑人形、雑 人物、浮世の人物、或は武者人形、大和人物などの唱へあり)土佐守門弟なりと云、□□年中の人也。 故有て姑く勘気を蒙り、流浪して画を以て渡世とす(と云、町絵師の如くなるべし)従来名を好ず、業 にほこらず、何くれとなく人の求に応じて画くといへども、妙手なれば自ら世に鳴用られしと云り。 土佐流破門の弟子なればとて、今に至る迄、又兵衛の画に土佐家より鑑定せず、極メを不出、添手紙の み也、是を折紙とす。 禁裏絵所預りは土佐流也。将軍家にて狩野氏の族を用給ふが如し、故ありて詳にしるしがたし、前浮名 流の遺脱甚多かるべし。姑く爰に闕あらましを記すのみ。 (以下、土佐派の画系あり、略) 又兵衛が画に名印有る物は究て少し。遊女の画などには墨肉にて字体分明ならぬ印有も多し。世を送る たつきとせしのみなる生質是にてたしか也。当世の人虚名を貪り、己れが未熟にて及がたきには代筆に ても名を顕し、ただ花押の立派を第一として、我物顔にほこる輩に反する事、おのづから名〔代〕〈人〉 の所為備れる所の妙と云べし。
(「栗に鶉 極彩色 蔵又兵衛画縮図」「花見之図 同上 蔵縮図」 「遊女之図 又兵衛筆 所蔵」) 予が知己にてよく見たりし又兵衛が画、数種あり。悉く紙巾大なれば略す。屏風画の類多くあれども 爰にはぶく。追て好古の画譜に縮図し出せり。爰には其一二を写すのみ〟☆ またべい おおつ 大津 又兵衛 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝大津又兵衛 大津画 一説追分画ト云 按るに、元禄三年の板〈遠近道引撰菱川図〉東海道分間絵図に、大津大谷〈池川〉辺仏画いろ/\あり と記す。むかし仏画を専ら書きて、今の如き戯画は其かたはらなり。飛州の市に毛坊主と云あり。俗 〔称〕〈体〉にて常には農業木樵し、人死れば導師となりて是を葬す。本尊は石地蔵、或は大津絵の十 三仏也と本朝俗諺志に見ゆ。余大津画の閻魔并観音を蔵す、ともに古画なり。 大津絵の筆はじめは何仏 はせを 今も仏画を彼地に売れども、大津絵の画風にあらず。常の仏画を板刻し、彩色したる類の物也。本朝文 鑑に、浮世又兵衛は大津絵の元祖と云に、此説普く人口にはあれど、たしかなる証なし。古き浄瑠璃に、 傾城反魂香(□□作□□年中)と云に、土佐の末弟浮世又平重興と云もの、大津に住て画をかきたるよ しをつくれり、是よりしてます/\虚説を伝ふ。或説に、別に大津又平と云者ありてかきはじむ、享保 の頃まで其子孫有しと云々、予大津の古画、奴の鑓を把たる図を蔵す。八十八歳又平久吉と書て花押あ り。古雅なるものなり。彼又平が子孫の画か、貞享四年板好色旅日記に曰、大津追分やつこ鎗持の勢ひ なき画をうるか大谷云々、鎗持の画もふるきものと見ゆ。大津画も浮世絵に類し、且浮世又兵衛が事を 弁ぜんが為に、是を記す〟☆ またべい とうせい 当世 又兵衛 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝 当世又兵衛 同 半兵衛(名を似せたるものなるべし) 欄外〈按るに吉田半兵衛なるべし〉 元禄五年板買物調方三合集覧に、京にて当世絵かく、丸太町西洞院古又兵衞とあり。是等も岩佐又兵衛 が名を似せたる物なるべし。又是にならわせて、四条通〈御〉旅所のうしろ半兵衛とあり。是等も京の 浮世絵師なり。(以上浮世絵類考追考山東庵考証、杏花園蔵書)〟☆ まとら おおいし 大石 真虎 〝大石真虎 百人一首一夕話〈ひとよばなし〉 神事行燈 厳島名所図会(尤よし)〟☆ みちょう こかわ 古川 三蝶 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝古川〈コカハ〉三蝶〟〈名前のみ〉 ☆ みつのぶ はせがわ 長谷川 光信 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝長谷川光信 〈梅峯軒永春 伝不詳 又松翠軒 英勇画譜 一冊 名古屋 梓行〉〟☆ みんこう たちばな 橘 岷江 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝珉江 姓 橘 名(空白) 俗称(空白) 宝暦明和の頃、元縫箔師、後浮世絵師となる。五文字点式おほく此人の画也。画本〈職人部類〉に摺込 の彩色を工風して、大に世に行る。(以上追考) 職人部類 (空白)冊 摺込〈彩色〉の画〈本〉なり 〈月岑按るに、京大坂には草紙の袋其外に摺込の彩色画尤多し。甚名手際なるものなり〉〟☆ みんわ あいかわ 合川 珉和 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝〔相〕〈合〉川珉和 〈京師 源秀成 字 士陳 雪山と号 よみ本多し〉岸駒山人 漫画百女〟〈「岸駒山人」とあるのは岸駒の門人という意味か〉 ☆ めきち 目吉 (「三代堤等琳」の項、二代目等琳門人)「堤等琳系譜」〟 〝(二代目堤等琳)門人 目吉 別記あり〟☆ もりかず いずみ 泉 守一 (目吉参照) (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) (「三代堤等琳」の項、二代目等琳門人)「堤等琳系譜」〟 〝泉守一 寛政、享和、文化中没 五十余才 俗称 吉兵衛、泉氏、居 本郷一丁目 号 寿香亭 江戸産也 目吉と字す 俗中の渾名〈アダナ〉なり 始古等琳の門人也。後狩野探信門人となり、守の字を免許さる。町画には〔所』〈可〉惜の名筆也。武 者画を善かけり。父は泉義信と云し狩野流の門人にて画工なりし。俗称の目吉を以て画名とす。本郷の 一侠客たり。摺物画、花鳥の団扇画等を出せり。又諸社諸普請の修復の彩色の御用を勤む(日光久能山 江戸両山類)町絵職人の頭なり(斎藤源左衛門受屓なり)親吉兵衛より二代勤む(三代目吉兵衛は門人 林之助と云し者也。実子女にて相続し業をつげり)生涯名を不好りし、画し額、王子〔権現に為朝〕 〈稲荷に頼政隼太、清水堂に主馬判官〉の図なり。本郷弓町天神の社頭に五郎時宗の額有。湯島天神に は童遊の図あり。其他多し。門弟に泉鉄有、号を寿川斎と云、師の風をよく学びたり(月岑按、近年人 形細工人に泉目吉と号るもの有、此人の門人にや、いぶかし〟☆ もりくに たちばな 橘 守国 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝橘守国 享保比の頃の人〔延元年卒す〕〈寛延元年卒す、七十才〉 俗称〔惣〕〈宗〉兵衛 名、有税 浪花の産也 居住(空白) 姓 橘 楢村氏、号 後素軒 狩野探山の門に入て業を受、(探山付〈本ノマヽ〉信、鶴沢氏、探幽門人、大坂の人也)後、一家の画 法を以て世に雷鳴す。狩野流の骨法を失はず、刻板の画に妙を得たり。精密奇巧、此人より起る。刻す る所数種、天保の今に至る迄、盛に世に行る。書画ともに善し。文学も博識の秀才なり。故に世の画師 の為に広く画法を伝へ、粉本にともしからざる為にせんとて、勢力を費し、図を巧、傍に其意を誌して 是を刻せしむ。画本の著述、古今に比類なし、名手世に知る処也。狩野土佐を始、倭絵の名家多しとい へども、其業を己に知るのみ。守国は委く人の為にせし故に、板刻画の汚名を受たり、画道にこゝろざ し有ども、書籍を見ざる俗家の者の為には、笠翁が画伝をも委しく唐本を平仮名に記して、其意を得さ しむ。倭漢画法の奥儀を極め、其業に達して画本をあらはし、諸職の助となして、是が為にも、世上に 其業の力を得るもの幾ばくならん、皆翁の丹志によれり、尋常の浮世絵師に列する人にはあらずと云共、 板刻の画に名を得たれば、姑く爰に挙。 門人多き中に、国雄、(号)皎天斎、俗称酢屋平十郎、此人、名を不好ざるが故に、世にしられず、 生涯を困窮して終れり。其落款して世に遺せる画もな〈け〉れば、人其名を知らず。古来かゝる類の 後世に伝らざるもの多かるべし。世人多くは目を賤め耳を貴る事、歎かはしき事ならずや〈以上、天 明七年上木の書画一覧を引るなり) 毛詩図譜 皎天斎国雄画 刻本世に行れたり 守国筆絵本 絵本通宝志 十冊 絵本故事談 十冊 同 直指宝 同 同 画典通考 同 同 写宝袋 同 同 謡曲画志〈中村三近編〉同 同 鴬宿梅 七冊 唐土訓蒙図会〈中村三近編〉十冊 同 野山草 雲筆麁画 三 〈南都名所図 一冊 有馬勝景図 一冊 絵本詠物選 五冊 本朝画苑 六 扶桑画譜 五冊 同 玉の壺 万歳武勇絵鑑 三 画志 三〟 月岑按るに、享保時代刻板の密画は唐土訓蒙図彙に始れるなるべし。夫より以前、かゝる細密の板本を 見る事なし〟〈『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)より「画者の釈尊とも云べき神伝の開手なるべし」の記述を 削除。皎天斎国雄記事の出典「書画一覧」を加筆。「守国筆絵本」を増補。細密画の元祖という『唐土訓蒙図彙』は 享保四年の刊行〉 ☆ もろしげ ふるやま 古山 師重 (「菱川氏系譜」師宣門人)「菱川師宣系譜」 〝古山太郎兵衛師重 江戸長谷川町住ス 元禄中ノ人ニシテ江戸図鑑ニ見ユ 三合集覧ニ菱川太郎兵衛ト 有リ 古山ハ本姓ナルベシ〟☆ もろなが ひしかわ 菱川 師永 (「菱川氏系譜」師宣門人)「菱川師宣系譜」 〝二男 同(菱川)沖之蒸(ママ)師永 鹿子及図鑑ニ作之蒸トアリ 一説ニ酒造之蒸 父ト同居 彩色ニ妙ヲ得タリ〟☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣 (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝菱川師宣(正保の生れ、正徳中歿、七十余) 姓藤原(一説)日本絵師 菱川氏 俗称 吉兵衛 後剃髪して友竹〈いうちく〉と云 安房国平群郡保田町の産なり 吉兵衛師宣は若年の時より江戸に移居して縫箔を業とす。後画を アキ の門に入て学び、後一家をなれ り、浮世絵に妙手也。亦板下画を多くかけり。浮世板下画の始祖と云べし。後剃髪して友竹と云、村松 町弐丁目に住す。傾城遊女をよく写せり、彫刻の画本多し。 浮世絵類考ノ山東庵追考ニ云 菱川師宣伝并系図 菱川吉兵衛師宣剃髪して友竹と称す。はじめは縫箔を以て業とし、上絵と云ものより画を書きならひて、 後一家をなせり。英一蝶と時を同ふすといへども、〔一〕〈十〉年〈とせ〉ばかり前立て世に行る。按 るに、師宣は土佐の画風を好み、浮世又兵衛(岩佐氏)が筆意に傚て一家をなせり。一蝶は狩野家の筆 意を以て〈師宣が画風により時世の粧を画て〉一家をなせり。共に近世の名画なり。一蝶若かりし時、 師宣が画風を慕ひし事は、四季の画跋(一蝶の部に出せり)と云ものに、岩佐菱川が上にたゝん事を思 ひてと、みづからかけるを以て証とすべし。師宣みづから印本の板下と云物を画て、板刻の絵本甚多し。 他国の人江戸絵と称して板刻の絵を翫ぶは此人に起れり。みなし栗に、 山城の吉弥むすびも松にこそ 其角 菱川やうの吾妻俤 嵐雪 みなし栗は天和三年の板なり、此比さかりに行たるを見るべし、 蘭外〈延宝、造内裏に、菱川孫之丞か事あり〉
「菱川師宣系譜」 菱川吉兵衛師宣入道友竹 浮世画の始祖 房州平群郡保田町ノ産 若年ノ時江戸ニ移リ居ス 正徳年中江戸ニ歿ス、享年七十余 居所ヲ考ルニ 貞享四年板江戸鹿子ニ村松町二丁目 元禄二年板江戸図鑑及同五年板買物調方三合集覧ニ橘町トアリ 一説堺町横町 又大伝馬町二丁目ト云是等転宅ノ処ナルへシ〟 房州保田村林海山別願院境内に在る所 洪鐘 一口 周廻 七尺 厚二寸五分 口 二尺二寸五分 長サ 三尺五寸 〈鐫字如此 寄進施主 予打本一紙ヲオサム〉 菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹 元禄七甲戌歳五月吉日 以上房州保田町医師渋谷元竜に問て其実を記す、元竜は菱川の親族なり(以上京伝類考ノ追考) 杏花蔵浮世絵類考曰、菱川吉兵衛師宣大和絵師又日本画師とも称す、房州の人也。〔絵本師宣筆〕 和国百女 三冊(元禄八年板) やまとの大寄 壱冊 月次の遊び 一冊(元禄四年) 恋のみなかみ 一冊 画本大和墨 三冊 絵本勇士ちから草 三冊(貞享二年板、大伝馬丁鱗形や也) かくら大全 (天和四年板) 訓蒙図彙(再板は師宣の画、貞享三年の原板は吉田半兵衛画也) 大和名所絵尽 三冊 江戸雀 職人尽 蘭外〈床談〈タン〉儀、艶書葛籠、色双子、近世大全 共ニ師宣画ナリト云、然ルヤ否ヲシラズ〉〈『温知叢書』本には〝天和四年板まくら大全に、菱川吉兵衛とあり〟とある〉 其外、天和貞享の頃の板本多し、貞享四年の板江戸鹿子に 〈イニ村松町二丁目〉 浮世絵師 〈堺町横町〉 菱川吉兵衛 同 吉佐衛門 元禄二巳年板江戸図鑑に 浮世絵師 (橘 町) 菱川吉兵衛師宣 (同 所) 同 吉左衛門師房 (長谷川町) 古山太郎兵衛師重 (浅 草) 石川伊左衛門俊之 (通油町) 杉村治兵衛正高 (橘 町) 菱川作之丞師永 元禄五年板買物調方三合集覧(横切本一冊) 江戸浮世絵師 菱川吉兵衛 同 吉左衛門 同 太郎兵衛 三馬曰、元禄十年板国花万葉記(七ノ下ニ) 大和絵師 菱川吉兵衛 同 作兵衛 村松町二丁目 同 吉左衛門 如斯出たり 按るに、伊沢長秀が俗説弁に曰、俗間の画師みだり倭画師とかく者あり。倭画師〈ヤマトヱシ〉は姓な り。続日本紀に曰、霊亀元年乙巳従六位下江見忍勝が姓を更為倭画師とあるを見るべし、みだりに書べ からずとあり〟☆ もろふさ ひしかわ 菱川 師房 (「菱川氏系譜」師宣門人)「菱川師宣系譜」 〝実子 菱川吉兵衛師房 始吉左衛門ト称ス 鹿子及図鑑、三合集覧等ニ吉左衛門ト在 父師宣ト同居 始画師、後紺屋ヲ業トス〟☆ もろまさ ふるやま 古山 師政 (「菱川氏系譜」師宣門人)「菱川師宣系譜」 〝古山新九郎師政 享保中ノ人 称文志 両国米沢町江市屋長屋住ス 此人ニ至テ菱川ノ画風ヲ失フ 世事談ニ見ユ 市川海老蔵似㒵画出スト〟