Top              『随筆百花園』             浮世絵文献資料館
   随筆百花園               か行                    ☆ きょせん 巨川    ◯『仮寝の夢』⑦57(諏訪頼武記・文政四年序)   〝今の錦画ハ明和の初、大小の摺物殊外流行、次第に板行種々色をまじへ、大惣になり、牛込御籏本大久    保甚四郎俳名巨川、牛込揚場阿部八之進砂鶏、此両人専ら頭取に而、組合を分け大小取替会所々に有之、    後は湯島茶屋などをかり大会有之候。一両年に而相止。右之板行を書林共求メ、夫より錦繪を摺、大廻    に相成候事〟    ☆ きよみつ とりい 鳥居 清満     ◯『かくやいかにの記』⑥407 (長谷川元寛著・明治二年正月跋)   〝文化頃の京伝が絵草紙に清岑画とあるは、当時の鳥居清満が事なり〟    ☆ きよみね とりい 鳥居 清岑     ◯『かくやいかにの記』⑥407 (長谷川元寛著・明治二年正月跋)   〝文化頃の京伝が絵草紙に清岑画とあるは、当時の鳥居清満が事なり〟    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞   ◯『無可有郷』⑦396(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (文化四~五年記事)  〝其歳(鈴木桃野、九歳頃)より稗史の合巻といふもの初れり【文化四年なり。お六櫛合巻の初なり。其    明年は双蝶々、吃又平等数種出る。爰におゐて、楚満人豊廣の輩漸々おとろへて、三馬、京山、国貞、    春亭、興子、京伝、馬琴、豊国は元の如し】〟    〈合巻「お六櫛」は文化四年、山東京伝作・豊国画『於六櫛木曾仇討』。「双蝶々」は文化五年、京伝作・豊国画『敵     討雙蝶々』か。「吃又平」は文化五年、式亭三馬作・国貞画『吃又平名画助刃』〉  ◯『かくやいかにの記』⑥412(長谷川元寛著・明治二年正月跋)   〝【六さままゐる/かしくの小伝】蛙歌春土手節(頭注「合巻ノ標題蛙ノ歌春ノ土手節」)、是は楽屋落    にて、国貞◯〔「□」ヲ訂〕画がく事おそし。此時は早く仕揚になる。是は其頃国貞うたひ女になじみ    居たり。その事をかきしと心得しなり。故に色男の衣裳の模様宝珠〔「ひやうたん」ヲ訂〕、〔「柳亭」    消〕立〔「捌」ヲ訂〕役の侍は〔「男は」ヲ訂〕柳亭のつもりにて三つ彦のもやうなり〟    〈柳亭種彦作・国貞画の合巻『蛙歌春土手節』は文政九年刊〉    ◯『無可有郷』⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「浮世絵評」の項)   〝予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ    ざるべからざるものあり。北齋似をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ    ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下    してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をずる所は各古今一人なり。其餘名人多しとい    へども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くな    らず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者    (ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝばあしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の機械また    如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜    しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相混じて用ゆ。愈其至らざるを見る。予その人に為に一    言して迷ひを解かんと欲す。北斎の画を見るときは、人其筆の曲を見てよろこばしむ。繪よふはいかな    るものなりとも構ふことなし。人物の形は只奇なるをよしとし、人物鳥獣の形ちも其理なきことをかき    て、人を驚かす。何ぞ其人物鳥獣に相似たるを期とせんや。往々鬼魅魍魎を画く、此其長ずる所なり。    其画くところの人物鳥獣生動のもの少しも心ありて働くものなし。みな作り物なり。其働く様はみな北    齋絲を引き心を入て働かすなり。その物々の心にあらず。故に見て奇なり。国貞が絵は、似がほ美人其    餘春本の仕組といへども、皆世人の目にありて、只他人のかゝざるを恨みて居たる所を、其侭画くあり、    たま/\未見ざることを画くといへども、人々心の内にかくあらんと思ひ、夢などにて見るやうなるこ    となり。故に見る人其心を忖度されたるに驚きて、筆意などのことに及ぶに暇あらず。然ども筆意無理    多ければ、人人往々其見るに邪魔なるを覚ゆることならん。国貞な<ママ>し。また筆のきゝたる者にあら    ずして何ぞや。況や春本は作者の用意を汲取、邪正男女老若此人々の五情を備へざれば本本に當らず。    就中柳亭の芝居がゝりは、狂言の筋のみにあらず、役者の身振りを専らとす。故に役わり其人を得ざれ    ば趣向面白からず。国貞其意をしり、此人此役をするときは、如此ならんと、心の思ふ処を計りて画く    ゆへに、人みたることもなき古人なども、成程如此ならんと思ふ。これは長ずる所なり。如此論じて而    して後初て平等ならんかし〟     〈北斎の項参照。国貞の画は北斎のように新奇を衒うものではなく「人々心の内にかくあらんと思ひ、夢などにて見る     やうなることなり」、既に見て潜在していたものに形象を与えるというのである。また柳亭種彦作『偐源氏田舎紫』     では、芝居がかりの粗筋に、国貞が「此人此役をするときは、如此ならんと、心の思ふ処を計りて画く」ので、「人     みたることもなき古人なども、成程如此ならんと思ふ」仕掛になっているというのだ。役者似顔絵が気韻生動を喚起     するというのであろうか〉    ☆ くになお うたがわ 歌川 国直     ◯『無可有郷』⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「浮世絵評」の項)   〝予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ    ざるべからざるものあり。北齋似をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ    ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下    してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をずる所は各古今一人なり。其餘名人多しとい    へども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くな    らず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者    (ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝばあしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の機械また    如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜    しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相混じて用ゆ。愈其至らざるを見る〟    〈鈴木桃野によれば、柳川重信も歌川国直も、北斎の方向と国貞の方向と追ったがために北斎・国貞に及ばないという     のである〉    ☆ こうかん しば 司馬 江漢     ◯『雨中の伽』⑮424(堤主礼著・文化八~九年記)   (「蛮学 蘭学とも云」の項)   〝近年江戸にて蛮学流行し、中にも司馬広(「江」カ)漢、【芝に住】是に村山藤九郎弟子付、斎直公命に依    て学。又城州臣島本良順、是は於長崎学。又同御代にて依て司馬広漢が画する所の油絵の蛮画を、村島    雪川、副島半十郎、増田宗閑などに学ぶ〟    〈同随筆の中村幸彦「解題」によると、著者・堤主礼は佐賀藩の歌人。宗魯、以心庵乙馬、藤原範房入道。文政三年十     月十二日、七十一才没。斎直公は鍋島九代藩主。島本良順は佐賀蘭学の始祖とされる医者〉    ◯『思ひ出草』(池田定常著・天保三年序)   △「奴婢の事」⑦155   〝(太田全斎曰く)儒者にてはなくとも書画技芸等に長じたるもの、藩士にても処士にても人をえらび、    折々君前にちかづきちかづかしめば、四方山のはなしのうちは人情世態を聞こしめすべきと。我が世子    にも司馬江漢といえる画工を推挙して出入とはしぬるが、藩臣にてはいひ難き直言をも献じ、下ざまの    情をものべしなりとなん〟    〈跡継ぎに世上指南役として司馬江漢を推挙したのは池田定常、則ち松平冠山である〉      △「喎蘭画之事」⑦210   〝喎蘭の画法、昔しより崎陽には伝へたりしかど、巧を極めたる人もなかりし、天明の頃、江戸の人司馬    江漢といふ画工、始めて精妙を盡し、油絵をも描し、銅版をもつくり、今は世に廣まり、是を業とする    ものいできて、頗る精妙を極め、彼国の真に逼るにいたれり。江漢少き時は染物屋の上は絵と云者を描    き、たつきとせしが、天稟聡敏にして物の理を窮むる事を好み、喎蘭流の医前野良沢、杉田玄白等に就    き、某書を読習ひ、遂に喎蘭画の一家を成せり。名は峻、字は君岳、江漢をもて通称とせり。    (中略)    江漢常に才智をくらまし、外には愚を示したれば、世人は庸人とのみ思ふもの多かりき。予は一見して    よく彼を知り、彼も亦我を知りたつ事、太田全斎は亦能く是を知れり。予一日彼が字を称し、君岳を呼    びしに答えず。又君岳々々と呼たれば、暫くにへいと答へ、我と我が字を忘れたり。さればこそ、日本    人の字の無用なる事をと相共に大笑ひせしなり。年老て後、相州江島にまうで龍窟に江漢先生羽化して    去と題銘し、其後は深く迹を隠くせしより、世にはなき人の数に入れしに、又忽然とあらわれて出、予    も逢しが、程なく麻布鉤鉤匙橋の寓居にて病死せり〟    〈江漢は文政元年、八十一歳没。「予」は池田定常〉    ☆ ごしゅん まつむら 松村 呉春    ◯『癸丑西上日程暦』④118(頼春水記・寛政五年十月記事)   〝月渓畫 竹山    黯淡川原雨一簑 笭箵収去渉軽波 中流相顧無佗語 新漲明朝魚可多〟    ◯『掌録 十二』④287(頼春水記・文化十年記事)   〝京師画家呉春ハ月渓トモ云、常々人ノ請托ヲ拒ミ、タマ/\承諾シテモ不果コト久シ。死スルノ日、日    頃人ノ請シ紙又ハ絹ニ一々其人名ヲ書シ、且ハ黄白ノ謝儀ナドアルハ皆々紙絹ニ添テ返進セヨト書付ア    リシトナリ。其高潔ニ精密ナリシ、死後ニマス/\画名高シトナリ〟