Top            『武江年表』            浮世絵文献資料館
    武江年表              は行                 ☆ かいげつどう 懐月堂    ◯「正徳年間記事」1p120(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝懐月堂(号安慶、称源七)この頃行はる(誠云ふ、懐月堂は浅草蔵前に住ひす)〟    〈この「誠云ふ」は関根只誠の増補か〉    ☆ かしんさい みわ 三輪 花信斎    ◯「寛政九年」2p13(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝四月二十七日、画人三輪花信斎卒す(名は在栄、猿を写す事殊に上手なり。河崎の平間寺にも猿を画き    し額ありしが今は見えず。四谷勝興寺に葬す)〟    ☆ きぎょく 鬼玉    ◯「宝暦年間記事」1p170(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師鈴木春信、石川豊信(秀葩と号し、六樹園飯盛の父にして馬喰町の旅店ぬかや七兵衛といへり)、    鳥居清倍、山本義信(平七郎と称す)、鬼玉其の外多し〟     ☆ きょうでん さんとう 山東 京伝    ◯「寛政十二年」2p17(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝「浮世絵類考」成る、写本一巻(山東京伝著。笹や「邦教追考」をあらはす。又式亭三馬書入の本有り、    近頃渓斎英泉増補して三巻とす。抑(ソモソモのルビ)浮世絵は大津又兵衛、英一蝶、宮川長春等を始祖とし、    江戸に名人多し。又天明寛政の頃より劂人(ホリニンのルビ)刷人(スリニンのルビ)の上手出て巧を尽し、次第に美    麗の物出来て、方物の第一となれり。諸国にまねぶものあれど及ばず。◯筠云ふ、「浮世絵類考」はも    と杏花園の輯録にて、又浮世絵始系といふものは、本銀町縫箔屋新七がしるせるなり。それを附録にし    て、杏花園が跋を書けるは庚申の中夏とあり、山東京伝その追考を書きたるは、享和二年壬戌十月なり。    「浮世絵類追考」といへり)〟    〈斎藤月岑はなぜ「浮世絵類考」の原作者を大田南畝(杏花園)ではなく京伝とし、「追考」のほうを京伝でなく笹屋邦     教としたのであろうか。もちろん、喜多村筠庭の補正記事が正しい。ただし「浮世絵類追考」とあるのは「浮世絵類     考追考」の誤記であろう。「庚申の中夏」は寛政十二年五月である。また、渓斎英泉の『無名翁随筆』(増補浮世絵     類考)は天保四年の成立〉    ☆ ぎょくざん いしだ 石田 玉山(二代目玉山)    ◯「享和年間記事」2p25(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝京大坂より画入り読本、新作あまた梓行して江戸へ下せり。(中略)画者は石田玉山、青陽斎蘆国、一    峯斎馬円、丹羽桃渓、合川珉和、松好斎半兵衛、歌川豊秀、速水春暁斎等其の外数多あり〟    ◯「文政年間記事」2p81(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝文政始めの頃より、大坂の石田玉山が弟子岡田玉山修徳、江戸へ下りて神田紺屋町に住ひけるが、或る    日家を出て後帰らず。常に着たる垢付きし衣服の儘にて、路費も貯へずして出たり。其の妻もありてき    ん隣のものと倶に尋ぬれども行方知れず。其の絵も次第に行はれ、且つ好人物にてありし、惜しむべし    (筠庭云ふ、後の玉山はもと中江藍江が弟子とか。江戸に来て神田明神に為朝の像を図したる額を納む。    下た地わろきにやひわれたりと見ゆ)〟    〈この記事「石田玉山が弟子岡田玉山修徳」とあるが、「岡田玉山が弟子石田玉山修徳」の誤りではないか。つまり二     代目石田玉山のことではないのか。喜多村筠庭は「後の玉山」としているから二代目玉山と見なしている。また、二     代目玉山の没年は文化八年とされるから「文政年間記事」にあるのは不自然ではないか〉     ☆ ぎょくざん おかだ 岡田 玉山(初代玉山)    ◯「文政年間記事」2p81(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝文政始めの頃より、大坂の石田玉山が弟子岡田玉山修徳、江戸へ下りて神田紺屋町に住ひけるが、或る    日家を出て後帰らず。常に着たる垢付きし衣服の儘にて、路費も貯へずして出たり。其の妻もありてき    ん隣のものと倶に尋ぬれども行方知れず。其の絵も次第に行はれ、且つ好人物にてありし、惜しむべし    (筠庭云ふ、後の玉山はもと中江藍江が弟子とか。江戸に来て神田明神に為朝の像を図したる額を納む。    下た地わろきにやひわれたりと見ゆ)〟    〈この記事「石田玉山が弟子岡田玉山修徳」とあるが、「岡田玉山が弟子石田玉山修徳」の誤りではないか。つまり二     代目石田玉山のことではないのか。喜多村筠庭は「後の玉山」としているから二代目玉山と見なしている〉     ☆ きよなが とりい 鳥居 清長    ◯「安永年間記事」1p206(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師鳥居清長(彩色摺鈴木春信の頃より次第に巧みに成りしを、清長が工夫より殊に美麗に成たり)、    尚左堂、春潮、恋川春町(倉橋寿平)、歌川豊春(一竜斎)等行はる〟    ☆ きよのぶ とりい 鳥居 清信    ◯「元禄年間記事」1p105(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師 橘町菱川吉兵衛、同吉左衛門、古山太郎兵衛、石川伊左衛門、杉村治兵衛、石川流宣、鳥井    (ママ)清信、菱川作之条〟
 ◯「享保年間記事」1p139(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師、奥村文角政信(芳月堂)、西村重長(仙花堂)、鳥居清信、同清倍、近藤助五郎清春、富川    吟雪房信等行はる〟    ☆ きよはる こんどう 近藤 清春    ◯「享保年間記事」1p139(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師、奥村文角政信(芳月堂)、西村重長(仙花堂)、鳥居清信、同清倍、近藤助五郎清春、富川    吟雪房信等行はる〟    ☆ きよます とりい 鳥居 清倍    ◯「享保年間記事」1p139(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師、奥村文角政信(芳月堂)、西村重長(仙花堂)、鳥居清信、同清倍、近藤助五郎清春、富川    吟雪房信等行はる〟
 ◯「宝暦年間記事」1p170(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師鈴木春信、石川豊信(秀葩と号し、六樹園飯盛の父にして馬喰町の旅店ぬかや七兵衛といへり)、    鳥居清倍、山本義信(平七郎と称す)、鬼玉其の外多し〟     ☆ きよみね とりい 鳥居 清峯    ◯「文化年間記事」2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。筠庭云ふ(中    略)鳥居は清長が弟子にて、古きは清元又戯作者の振鷺亭なり。次は清忠なり〟     ☆ きんちょう 金長    ◯「寛政年間記事」2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞    ◯「文化年間記事」2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)    〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟
 ◯「天保十年」2p93(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝三月朔日より、亀戸天満宮開帳。(筠庭云ふ、天満宮開帳に奉納もの種々あり。中にも木彫細工人寄合    ひ、さま/\のものをつくれる額、又歌川国貞「田舎源氏」を書きたる美麗なりき。当時国貞天神前に    住す。裏家なり〟
 ◯「文政二年」2p63(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝此の秋、浪花より下りし一田正七郎といふ者、籠にて人物鳥獣草花の類を作りしを、浅草寺奥山にて見    せ物とす。遠近の見物夥し。狂歌      観音の加護にてはやるかご細工皆人ごとにほめざるはなし     筠庭云ふ、文政二年の春、難波天王寺に、九丈六尺の釈尊涅槃像を竹籠にて作れるが、殊の外はやり     て、其の秋細工人江戸に来り、大なる関羽の坐像、并びに其の外さま/\小さきものども作りて、浅     草寺の境内に見せものとす。思ふに取りくづしたる竹をも用ひしなるべし。此の見せもの終りて、江     戸の細工人どもさま/\大造(オオヅクリ)なるものを見せたり。此の翌年頃、彼の大坂籠細工、上野山下     にも作りもの出したれども、これは最早見物評判なし〟    〈細工物による見世物の一大ブームを引き起こすことになった一田庄七郎の籠細工記事である。浮世絵への言及はない     が、国貞のものが残されているのであげておく。なお、この籠細工のことは川添裕著『江戸の見世物』(岩波文庫)に     詳しく紹介されている〉
    一田庄七郎 籠細工 関羽像 五渡亭国貞画     (RAKUGO.COM 見世物文化研究所「見世物ギャラリー」「見世物絵世界へようこそ」川添裕解説)    ☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政    ◯「文化年間記事」2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。筠庭云ふ、国    丸は国貞の前にあるべし。猶古きは国政なり。瀬川富三郎が似貌は、之が書き初めたり〟     ☆ くにまる うたがわ 歌川 国丸    ◯「文化年間記事」2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。筠庭云ふ、国    丸は国貞の前にあるべし。猶古きは国政なり〟     ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯「天保年間記事」2p102(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦絵行はる。     筠庭云ふ、この頃国芳、頼光病床四天王の力士直宿を書きたる図に、常にある図なれど、化物に異変     なる書き様したり。其の内に入道の首は、已然小産堀と呼ぶ処本所にあり、爰に挑灯屋にて凧を売り     しが画をかき得ず、猪の熊入道とて、彩色は藍ばかりにて書きたる首則ちこれにて、悪画をうつした     るなり。この評判にて人々彼是あやしみたるもおかし。板元の幸にて売れかた多かりき。近時も療治     をする所のつまらぬ錦絵を色々評判うけて売りたり。皆不用意にして幸ありしなり〟
 ◯「弘化二年」2p106(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)    〝〔筠補〕九月麻布にて唐もろこしの実変じて、鶏の頭の如き形と成り、国芳錦絵に出づ、これは気候に    よるて□して出来る。中は灰の如しと云ふ。他国には往々あり、珍しからず〟
 ◯「嘉永三年」2p122(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   〝〔無補〕六月二十六日より三日間鳴物停止、西丸御廉中寿姫逝去の故なり(法号澄心院、此の君少し跛    (ビッコのルビ)なり。歌川国芳三枚続きの錦絵女医師のもとに療治を受くる図中に、美婦の下駄と草履とを、    かた/\に履きたるを画きしは、此の君の事を諷せるものなりといふ)〟
 ◯「嘉永六年」2p135(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   〝六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催しける書    画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九紋龍史進憤怒の    像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし〟
 ◯「文久元年」2p183(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   〝三月四日、浮世絵師歌川国芳死す(六十五歳、称孫三郎、一勇斎又朝桜楼と号す。初代豊国の門人にし    て、文化の末より板本のさし画を画き、天保の頃より錦絵其の外多く画きて行はれたり)〟    ☆ けいさい くわたが 鍬形 蕙斎 (北尾政美参照)    ◯「享和年間記事」2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝北尾蕙斎略画式と号し、浮世絵の略画を工夫せし彩色摺の粉本数篇を梓行する〟    〈「国書基本DB」には『略画式』寛政七年刊、『鳥獣略画式』同九年刊、『山水略画式』同十二年刊とあり〉       ◯「文政七年」2p73(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝三月二十一日、画人鍬形恵斎卒す(名紹真、北尾重政が門人にして、始めは北尾政美といへり。一枚絵    草紙のるゐ多く画けり。略画式をあらはして世に行はれ、又京の黄華山が「花洛一覧図」にならひて、    江戸一覧の図を工夫し梓に上せ、神田の社へも江戸図の類をさゝげたり。其の男を赤子といふ。筠庭云    ふ、蕙斎はもと竈河岸畳屋の子也。薙髪して紹真と改名、越後侯の絵師と成る。於玉ヶ池に住す〟    〈黄華山の「花洛一覧図」は文化五年刊。また『東京掃苔録』は〝文政七年三月二十二日歿。年六十四〟とする〉    ☆ こうかん しば 司馬 江漢    ◯「享和年間記事」2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝浮世絵師二代の春信といひしもの、長崎に至り蘭画を学び、後江戸に帰り世に行はれ、名を司馬江漢と    改む。又銅板画を日本に草創せるも此の人の功也〟
 ◯「文政元年」2p61(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝十月二十一日、司馬江漢峻卒す(七十二歳、不言道人と号す。江戸にて西洋画をなし行はる。文もあり    し人にて長崎の紀行をあらはし「西遊旅譚」と号し刊行せり)。     筠庭云ふ、司馬江漢、はじめ町絵師なりしが、長崎へ行き蘭画を学び、江漢と改名して江戸に顕はる。     文才もあり、「西遊旅譚」は鯨を猟る事尤もくはしくかきたり。いつの頃にか、仏国暦象編の作者に、     その著編の事をいひけるは、今漢土も我が国にも、暦法は西洋の法を御用ひなるに、天竺の暦の事を     いわるゝは如何とて、彼是論じたりとぞ。彼の作者もこれを恐れて、東叡山にたより首尾よく刊成る     よし聞きて、江漢またこれを恐れ、いづちへかうせたり。程へて又出たりといへり。度々出没したる     こそおかしけれ〟
 ◯「天保十一年」2p95(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (十月十三日、浅草寺本堂修復成就記事に続いて)   〝筠庭云ふ、浅草寺本堂の額、此の時より見えぬもの猶あり。古き額にて揚香が虎を逐ふ図なくなりて、    今岸良が画見えたり。蘭斎が孔雀などもなし、江漢が油画周防錦帯橋の図、これは本堂修復前より見え    ず〟〈「岸良」は佐伯岸良。「蘭斎」は森蘭斎〉