Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
辞世集 浮世絵師編辞世 Top
   ☆ あつまる こがね 小金 厚丸    ◯『増訂武江年表』2p79(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝(文政十二年・1829)十月、狂歌師神田庵厚麿終ふ。神田鍋町に住す。     辞世 月花とうかれ出たる夜あるきの           けさとぢらるゝ雪のあしかき〟    ☆ いっく じっぺんしゃ 十返舎 一九    △『戯作者撰集』p181(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝十返舎一九 寛政七乙卯年より    通油町書肆仙鶴堂が裏に住せり【初め橘町又深川佐賀町にも住居す】姓は重田、名は貞一、駿河の産    なりと云。俗称与七。    墨川亭曰、    一九、幼きとき市丸と呼ぶ。故に市を一に作り雅名とす。弱冠の頃、東都に出、或侯舘【一説に小田    切侯江都尹にておはせし時/その舘にて注簿たりしといふ】に仕へ、そのゝち大坂へ登り、彼地に住    て志野流の香道に称誉あり。十返舎の号は黄熟香の十返をとりて然よぶといへり。其頃のことにや、    並木千柳、若竹笛躬と倶に木下蔭の繰戯曲を編述したるよし。後、故ありて自ら香道に遊ぶ事を禁ず。    寛政六寅年、復び東都に来て始めて稗史両三部を著述して耕書堂が梓に上せて発市せり。天保二辛卯    年、病て没す。浅草土富店善龍寺【俗にぬけ寺と云】地中にて東陽院【墓石は惣乱塔裏門方より二側    目にて東三軒目】     戒名 心月院一九日光信士【天保二辛卯八月上旬七日】    石塔左り方に     辞世 此世をばどりやおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら    〈「寛政七乙卯年より」とあるのは草双紙(黄表紙)の戯作。「日本古典籍総合目録」によると、作画は寛政六年から     ある〉    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p468(藤岡屋由蔵・天保二年(1831)記)   〝八月七日      戯作者十返舎一九卒    重田氏、名貞一、下谷土富店善龍寺に葬す、寺中東陽院檀越なり。      辞世 此世をバどりやお暇にせん香と           とも終には灰左様なら
     十返舎一九像 国貞画(早稲田大学「古典籍総合データベース」岩本活東子撰『戯作六家撰』)    ☆ いっけい はなぶさ 英 一珪    ◯『浮世絵師伝』p4(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝天保十四年(1843)十二月廿一日歿・八十五或は九十六歳    英氏、名は信重、墓所は芝二本榎承教寺中、顕乗院     辞世 二三百生きやうとこそ思ひしに八十五にて不時の若死        百までは何でもないとおもひしに九十六ではあまり早死    二説ありて、未だ何れとも決定し難し〟    ☆ いっせん はなぶさ 英 一川    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   (麻布二本榎承教寺地中顕乗院、英一蝶の墓)   〝英量院一舟日達  明和五年正月廿七日    英徳院一川日長  安永七年正月廿八日    量仙院妙寿日栄  安永六年三月上六日〟     此石碑の左の脇に一首の詠あり、     辞世 我も又本来空にかへるなり日にいさなへ(三文字欠)ふね 英一川〟    ☆ いっちょう 英 一蝶    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   (麻布二本榎承教寺地中顕乗院、英一蝶の墓)   〝本是院妙寿日量  正徳四甲午年 三月十三日    英受院一蝶日意  享保九甲辰年 正月十三日    建心院妙好日性  正徳三癸巳年十二月十二日     此の石碑の左の脇に辞世の歌あり     辞世 まぎらはす浮世の業の色とりもありとや月の薄墨の空 英一蝶書〟    ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉    △『戯作者撰集』p254(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝一筆庵可候 画名渓斎英泉    嘉永元年戊申年七月廿三日終る。五十七才     辞世 色どれる五色の空に法の道心にかゝるくま取もなし    〈一筆庵可候名の合巻初出は、文政四年(1821)刊『恋女房讎討雙六』と『桃花流水』の自作自画二点〉    ◯『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「杉並区」福寿院(高円寺三ノ三一二)曹洞宗(旧四谷箪笥町)   〝池田英泉(画家)名義信、通称善次郎、渓斎と号す。菊川英山門人に入り、最も遊女を描くことを得意    とせり。また戯作を好み一筆庵可候と号し、桃花流水、昔語忠義智達磨、花街寄恋白浪等の作あり。嘉    永元年七月二十二日歿。年五十七。渓斎英泉居士。     辞世 色とれる五色の雲に法の道こゝろにかゝるくまどりもなし        かぎりある命なりせば、惜しからで唯かなしきは別れなりけり〟    ☆ きょうでん さんとう 山東 京伝    △『戯作者撰集』p25(石塚豊芥子・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝山東京伝    京橋銀座一丁目に住す、烟管・煙草入、并、家製読書丸、其外製薬を鬻きて業とす、諱は醒、字酉星、    号を醒々斎又山東庵、菊花亭の号もあり、俗称を京屋伝蔵といふを以て京伝と呼と云、画を北尾紅翠斎    に学て、北尾政演葎斎といふ、狂歌に身軽折助の名あり、文化十三年丙子九月七日、病て没す、両国回    向院に葬す、法号 弁誉智海京伝、行年五十六才     吸付煙草の雲となり     居続日和の雨となり     夜着のうち蒲団のうへ     一生の歓会代金三分            京伝    右は本町庵三馬所蔵屏風張交の内〟    〈式亭三馬所蔵の屏風張り交ぜの内にあったというこの詠、京伝が辞世のつもりで詠んだものではないだろうが、吉原     の昼夜に明け暮れし、先妻後妻とも遊女を選んだ京伝にふさわしいものとして、『戯作者撰集』の石塚豊芥子は採っ     たのであろう〉    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞(豊国三代)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪228(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝歌川豊国    初名国貞、俗称角田庄蔵、武州葛飾郡西葛飾領の産也。一雄斎、月波楼、北梅戸富望山人、桃樹園、富    眺庵、一陽斎、晩年香蝶楼、琴雷舎、本所五ッ目渡し場辺に住り。渡船の株式其家にある故、仍て五渡    亭の号あり。(中略)    草双紙大に行れて多く画出し、又役者似顔絵は師豊国にまさりて、俳優の故実を正し、当世美人絵は殊    に工夫をこらし、花街娼妓の風俗を、深川、品川、四ツ谷、新宿、千住、根津、弁天、松井町、新地、    常盤町、於旅、谷中、三田三角、其余の賤妓に至る迄、風俗を分ち画出せしかば、一時其名を轟し、三    都片雛迄賞しあへり。天保四年より、英一桂門に入て英一蹛と号す。又香蝶楼と号す。天保十五年師の    名を継て一陽斎豊国と号す。〔割註 二世豊国と名書を記す〕。按るに二世にはあらず三世なり。改名    の頃何人の狂歌にや        歌川をうたがわしくもなのり得て二世の豊国偽(二世)の豊国    画風は豊国の骨法を学び、又一蝶嵩谷が筆意をも慕ひしかど、似るべうもあらず。読本を画るものは尤    少く、出来宜しからず。弘化二巳年薙髪して肖造と号す。翌年柳島へ移住なし、聟国貞に亀井戸の居を    譲れり。元治元年子十二月十五日歿す。七十九歳、亀戸村光明寺に葬す。法名豊国院貞匠画僊信士、肖    像の錦絵に辞世の歌とてあり。        一向に弥陀へまかせし気の安さ只何事も南無阿弥陀仏        命毛の切れてことしの別れかな〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「城東区」光明寺(亀戸町三ノ一四三)天台宗   〝歌川豊国(画家)二世、本名角田庄蔵、一雄斎と号す。初め国貞といひ五渡亭、香蝶楼の号あり。京伝、    三馬、種彦等の草双紙に画き、また俳優の似顔画を描きて名高し。元治元年十二月十五日歿。年八十。    豊国院貞匠画仙信士      辞世 一向に弥陀に任せし気のやすさたゞ何事も南無阿弥陀仏    〈「豊国二世」とあるが、実は三世。『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は享年を七十九歳とする〉    ☆ くにちか とよはら 豊原 国周  ◯「明治の浮世絵師 豊原国周」双葉生(『錦絵』第三十三号所収 大正九年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 明治三十三年七月一日、八十三度目の移転地である、本所番場町の寓居に病没した。享年六十六。浅    草今戸真言宗大谷派本龍寺に葬り、法名を「鴬雲院釈国周」といふ。二男一女あつたが父業を襲ぐもの    なく、香華も絶え/\なるを、其の一周忌に門人湯川周丸の発起にて、辞世を刻した碑を本龍寺本堂の    右傍に建立した。     辞世 世の中の人の似顔もあきたれば えんまや鬼の生うつしせむ〟    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯「一勇斎国芳死絵」一恵斎芳幾画   〝一勇斎国芳、俗姓井草孫三郎、号朝桜楼、法号深修院法山国芳信士    文久元辛酉年三月五日没、寿六十五、浅草八軒寺町大仙寺葬     (肖像) 一惠斎芳幾謹画     楼号も手向くによし朝さくら    有人     すり合す袖にも霜の別れかな    魯文      摘ためた袖にしほるゝ土筆かな   玄魚〟
    一勇斎国芳死絵 一恵斎芳幾画(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム)    ☆ げんぎょ ばいそてい 梅素亭 玄魚  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(82/103コマ)   〝梅素玄魚    宮城氏、通称喜三郞、一に梅素亭と号す、浮世絵師にあらざれども、書画の板下を善くし、燈籠の画を    かけり、頗る好劇の癖ありて、団十郎老爺と戯号し、六二連の幹事をなしたり、浅草黒船町に住みしが、    火災に遇ひて、両国吉川町に寓居せり、明治十三年二月病に罹りて没す、享年六十四、時世の狂歌に、      (辞世)何時に迎が来てもこゝろよく 南無阿弥陀仏六時ごろなり〟    ☆ こうかん しば 司馬 江漢    ◯『総校日本浮世絵類考』p127(由良哲次編・画文堂・昭和54年刊)   〝〔故法室〕春信門人にて二代目鈴木春信となる、橋本町に住す、学識も有し人にて、後年長崎に至り、    蘭画を学びて後再び江戸に帰り、司馬江漢と名を改む。洋学年表の曰、芝に住せしを以て、司馬と改し    と。江漢名は峻、字君岳、号春波楼、又不言道人、皇朝にて銅板を草創すること此人より初む、大に行    れたり、文政元年戊寅十月廿一日歿す、行年七十二歳。(中略)    江漢将に死なんとするに望み、自像一葉を画き其上に辞世の歌をかき附たり。     江漢年がよったで死るなり浮世にのこす浮絵一枚    此画像今は美濃大垣の医師江馬活堂氏の家に存せり〟    〈飯島虚心著『葛飾北斎伝』(明治二十六年(1893)刊)にも同文あり。岩波文庫本ではp53〉  ☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信  ◯『見ぬ世の友』巻三 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 35/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其三 兼子伴雨稿       柳川重信 天保三年閏十一月二十八日 下谷坂本 宗慶寺     投いれの水もとゝかず柳かな〟    ☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章    ◯『見ぬ世の友』巻一 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 19/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其一 山口豊山稿     枯ゆくや今ぞいふことよしあしも 勝川春章 寛政四年(1792)十二月八日 浅草西福寺〟  ☆ すうげつ かん 観 嵩月  ◯『見ぬ世の友』巻三 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 35/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其三 兼子伴雨稿       観嵩月 文政十三年十一月二十日 深川 陽岳寺     積む年に旅路へゆきの枯野かな〟    ☆ すうとう こう 高 嵩濤    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「芝区」證誠寺(高輪台町二八)真宗本願寺派   〝絵馬屋額輔(狂歌)初代、通称奥田賀久輔、初代北斗庵の兄にて若年より文芸を好み、また嵩谷の門に    入り画名を嵩濤といふ。狂歌は朱楽菅江を師とし、老後六樹園と深く交り名声世に聞ゆ。嘉永七年一月    二十七日歿。年七十四。英叟院釈一翠居士     辞世 麻衣能身伝来ませと呼れけり馳走はしら受黄泉の客〟    ☆ せきえん とりやま 鳥山 石燕    ◯『浮世絵師伝』p110(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝【歿】天明八年(1788)八月三日-七十八〟   〝辞世は「隈刷毛の消ぎはを見よ秋の月」とし、法名は「画照院月窓石燕居士」といふ、淺草永住町、新    光明寺(浄土宗)に葬れり〟    ☆ ちんちょう はねかわ 羽川 珍重    ◯『増訂武江年表』1p161(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「宝暦四年(1754)記事」)   〝七月二十二日、浮世絵師羽川珍重卒す。七十余歳也。池のはた東円寺に葬す。其の伝、曲亭の「燕石雑    志」に見えたり。     辞世 たましひのちり際も今一葉かな〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝羽川珍重 享保中 江戸人     俗称 太田弁五郎      名 沖信 羽川藤永とあるは別人なるか。谷中感応寺天井の竜と天人は羽川藤永とあり    享保の頃の浮世絵師也。芝居絵本、吉原細見記の指絵、赤本の絵多くかきぬ(以上、類考追考)    〈月岑按、説教上るり本等の差画多くかきぬ。又一枚絵もあり。遊女の絵一枚を近頃得たり〉    三馬曰、珍重門人に羽川和元あり。    馬琴が燕石雑志の文を略して云、羽川珍重は武蔵国埼玉郡川口村の人也。三同〈サントウ〉と号、本性    真中〈マナカ〉氏、俗称大田弁五郎と云。大田は川口の旧名、珍重は画名也。弱冠より江戸に来つて画    を学び(元祖鳥居清信の弟子也、後に羽川と改たる歟)享保の頃行る。心ざま老実にして言行を慎み、    遊山翫水にも肩衣を脱事なし。其心画にあらざる日は利の為に筆をとる事なし。又志画にある日は歌舞    伎の画看板といへども辞する事なしと。老衰して三同宜観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日、葛飾郡    川津間の里、藤浪氏の家に病死す。      辞世 たましひのちり際も今一葉哉    享年七十余歳、池の端東円禅寺〈に〉葬りぬ〟    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 初代    ◯「歌川豊国死絵」五渡貞国貞画   〝文政八年 正月    実彩麗毫信士  三田聖坂功雲寺    俗名 一陽斎 歌川豊国 行年五十七才    この月七日、師たる人と長きわかれとはなりぬ。然るに喪にこもりしあさ、なみだとともに        すゝらばや粥の七種の仏の座  五渡亭国貞〟
    歌川豊国死絵 五渡亭国貞画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)   ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②91(岩本活東子編・安政三年成立) (「一陽斎豊国」の項)   〝一陽斎豊国    豊国、号を一陽斎といふ、歌川豊春が門人也、芝神明前三島町の産にして、人形師の男也、俗称倉橋熊    吉といふ、初め芳町に住し、後堀江町に居す、又槙町油座に移る、歌舞伎役者の似顔絵の名人なり、又、    読本、草ざうし、合巻の類枚挙にいとまあらず、文政八酉年正月七日没す、年五十七、三田聖坂功雲寺    に葬る、     法号 得妙院実彩麗毫信士     辞世 焼き筆のまゝかおぼろの影法師〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪223(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝歌川豊国    号一陽斎、俗称熊吉、豊春門人なり。後一蝶の風を慕ひ、又玉山九徳斎が画風をも慕ひ一家となす。豊    広と一時に行る。当世の風俗を写す事妙を得たり。美人役者画似顔此人より行る。中興の祖といふべし。    始三島町に住し、後芳町堀江町上槇町河岸油座等に移住す。黒と紫計りにて錦絵を書初む。    (中略)    豊国歿後出板なしたる追善の絵に辞世の句とて、        焼筆のまゝかおぼろの影法師    と記せるは、他人の句にして、辞世にあらざる事明らか也。     追善肖像画国貞筆并に讃、この月七日師たる人と長きわかれとはなりぬ。然るに喪にこもりしあさ、     なみだとともに        すゝらばや粥の七種の仏の座〟  ◯『続墓所一覧』写本 源氏楼若紫編 成立年未詳   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊国墓 辞世 七草の粥にも入れや仏の坐 聖阪 功運寺〟  ☆ とよくに うたがわ 歌川豊国三代(国貞初代)  ◯『見ぬ世の友』巻十五 東都掃墓会 明治三十四年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 15/76コマ)   〝詞林 名家辞世 其六 上杉多尾       二代(ママ)歌川豊国 元治元年十二月十五日 本所亀戸 光明寺     一向に弥陀へまかせし気のやすさ只何事も南無阿弥陀仏〟    ☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)   〝歌川豊春  安永より天明、寛政、享和、文化の間、享年七十余歳にて歿す     俗称 庄三郎 但馬産と云  居 始芝三島町 又日本橋近に住す     号 一竜斎  落髪して赤坂田町に住す  江戸の産なり    豊春は始め(空欄)門人なり(附録に西村重長が門人と有るは非なりと云々)後、流行の風俗を画き、    一家をなせり。操芝居の看板画をかけり。彩色尤委し。寛政の頃、日光山御修復の節、彼地に職人頭を    勤めしとぞ。類考に云、豊春、近来浮絵を錦画に多くかき出せり。    (浮絵といふは蘭画の俗あぶらゑといふものに比して画る遠景の山水を錦画に横に画しなり)宝暦の頃    の浮絵に勝れりと云々。草双紙の類は多くかゝず。弟子に高名の者多し。      押上春慶寺碑   文化十一戌春       花は根に名は桜木に普賢像のりのうてなも妙法の声         行年八十歳〟      〈これを明治の飯島虚心は弟子達の追悼歌と捉えて次のようにいう〉   〝この歌は門人が【豊国か豊広歟】詠みたる歌なるべし。師をしたうの情甚だ深し。その大意は、はなは    根にかえり、人は死して土にかえる。はかなきものはいのちなりと、師の画名はながく桜木にのこりて、    減ずることなしというこころより不減と普賢、象と像をかよわせていい、さらに乗と法をかよわせ、仏    法の場にても、妙法ととなえて声するは、師の画を称賛するがごとしと、師を慕い師を尊びてよめるな    り〟    〈飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』所収「歌川豊春伝」明治二十七年、新聞「小日本」に掲載〉    ☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広    ◯『見ぬ世の友』巻十五 東都掃墓会 明治三十四年十一月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 16/76コマ)   〝詞林 名家辞世 其六 上杉多尾       歌川豊広 文政十一年五月廿三日 花(ママ)西応寺墓石     死んで行く地獄の沙汰は兎に角も跡の始末ぞ金次第なる〟    〈忌日及び西応寺の地名は下掲巻十六記事で同年12月21日及び「芝西応寺」に訂正される〉  ◯『見ぬ世の友』巻十六 東都掃墓会 明治三十四年十二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 27/76コマ)   〝歌川豊広の忌日及墓地    前編上杉多尾編録の名家辞世歌川豊広の項に「文政十一年五月廿三日 芝西応寺墓石不明」とあるも、    豊広の墓地は芝西久保真宗攝取山専光寺にして、没年は文政十一年十二月廿一日、法名は影(ママ)秀信士    といふ〟    〈上杉多尾の「名家 辞世」とは上掲巻十五記事。法名正しくは「釈顕秀信士」〉  ◯『浮世絵師伝』p140(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝【歿】文政十一年(1828)五月廿三日歿-五十六〟   〝明治二十年四月、彼が六十囘忌に際し、三代広重の発起にて一碑を向島長命寺に建てたり、碑面に辞世    の狂歌を刻す、曰く「死んで行く地獄の沙汰は兎も角も跡の始末は金次第なり」〟   〈辞世、専光寺の墓石は「跡の始末ぞ金次第なる」、長命寺の石碑は「跡の始末は金次第なり」、六十回忌に係り結びを外して    刻したか〉    ☆ はるまち こいかわ 恋川 春町    △『戯作者撰集』p19(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝恋川春町    駿州小嶋侯家臣にて、俗称倉橋寿平【源性/名格】、狂歌好みて狂名を酒上不埒又寿山人と号す。戯作    に恋川春町と名乗る小石川春日町の邸にありける。恋川といふは住居する土地の小石川のしの字の仮名    を省き、春町は春日町の日の文字を除たる戯号なりとぞ。絵を鳥山石燕に学びしが故に、自画作の冊子    多し。他の著述の冊子おも画く。一説に勝川春章に学ぶともいふ。且、安永四年年未年の著述部二冊物    にて『金銀先生栄花夢』と題号し、邯鄲の語句世に行れ、同五申年『高慢斎行脚日記』是又大当りにて、    宝暦以来の草双紙は爰に至りて一変す、是より春町の著作名を発す。    寛政元年己酉年七月七日病て卒す、四ツ谷新宿裏通り浄覚寺に葬す【浄土宗大宗寺ヨコ町】。本堂前六    地蔵の並に墓あり】     法名 寂静院廓誉湛水     墓石左傍に辞世の語にや     生涯苦楽、四十六年、即今脱却、浩然帰天    (以下の「稗史目録」省略)〟    ◯『浮世絵』第三号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(18/24コマ)   ◇「浮世絵師掃墓録(三)」恋川春町 荘逸楼主人(20/24コマ)    〝(新宿成覚寺墓)寂静院廓誉湛水居士      本国参州生国駿州田中 倉橋寿平源格 寛政元己酉年七月七日      生涯苦楽 四十六年 即今脱却 浩然帰天 源格      我もまた身はなきものとおもいしか 今はのきはゝさひしかり鳧〟  ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝【歿】寛政元年(1789)七月七日-四十六〟   〝寛政元年正月『鸚鵡返文武二道』と題する黄表紙を公けにして幕府の忌諱に触るゝ所あり、老中松平定    信より召喚されしも、病と称してこれに応ぜず、其の後幾ばくも無くして死去すと、実は彼が十一代將    軍家斉の内行を諷刺したる黄表紙式艶本『遺精先生夢枕』に罪を得たる事を覚り、受罰に先ちて自刃せ    しを、斯く修飾して伝へしものならむと云ふ。     法名を寂静院廓誉湛水居士とし、新宿北裏町成覚寺に葬る、墓石の正面には、法名と本国生国、姓名歿    年月日等を記し、上部に家紋(丸に子持抱茗荷)を刻す、又其の側面には称世の偈と歌一首あり、曰く     生涯苦楽、四十六年、即今脱却、浩然帰天、     我もまた身はなきものとおもひしか今はのきははさひしかり鳧〟        ☆ ひかる つぶりの 頭 光    ◯『名人忌辰録』下巻p22(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝桑揚(ママ)庵光 識之    通称岸宇右衛門、又光甫、狂名つぶりの光。寛政八辰年四月十二日歿す、歳七十。駒込瑞泰寺に葬る。     辞世 一声はまるでは聞かぬほとゝぎす半分夢の暁の空    〈正しくは「桑楊庵」〉    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪220(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝一立斎広重    八代洲河岸定御火消屋敷同心也。俗称安藤徳太郎、後十右衛門、又、徳兵衛と改む。同藩与力岡島林斎 〔割註 又素岡と称す武右衛門〕に狩野家の画風を学び、又豊広の門に入りて浮世絵を画く。居住大鋸 町弘化三年常盤町へ移り、又嘉永二酉年夏の頃、中橋狩野新道へ移住す。東海道五十三次、都名所、又 安政三辰年より江戸名所百景一枚摺続絵〔割註 下谷魚栄板小田屋栄吉といふ〕夥しく板行し、天保以 来世に行れたり。後薙髪す。安政五午年九月六日歿す。六十六歳。浅草新寺町東岳寺に葬す。     辞世 東路へ筆を残して旅の空西のみくにの名どころを見む〟       ◯「立斎広重死絵」三代目歌川豊国画   〝立斎広重子は歌川家の元祖豊春の孫弟子にして、豊広の高弟なりけり。今の世の豊国国芳ともに浮世絵    にて此三人にかたをならぶる者なし。常に山水のけしきを好み、また安政三辰の年より江戸百景をかゝ    れ、目の前に其けしきを見る如く、猶又狂歌江都名所図会を選み、此図を頼みしより、其月/\にあら    はす出板摺本の図取見る人、筆のはたらきを感吟せり。然る所この菊月の六日、家の跡しき納り方迄書    残し、辞世までよみおかれ、行年六十二を此世の別れ、死出の山路へ旅たゝれ、鶴の林にこもられしこ    そなごりをしけれ     東路へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見む  広重     書 天明老人露けき袖をかゝげて筆をとる      (肖像あり)     思ひきや落涙ながら 豊国画(印)〟
    立斎広重死絵 豊国(三代)画(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム)    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 三代    ◯『浮世絵師歌川列伝』〔中公文庫本〕p182(飯島虚心著・明治二十七年十月三日記)   〝二世(広重)の家を出ずるや、同門重政代りて家を嗣ぐ。これを三世広重とす。又よく山水を画く。嘗    て伊勢、大和、大阪、京都を廻り、また常陸、下総に遊び、行々山水をうつし、其の志し一世の工に出    でんを欲せしが、不幸にして病に罹り、明治廿七年三月廿八日歿す。惜むべし。友人清水氏後事をおさ    む。    〔註〕三世広重、辞世の歌、うかうかと五十三とせの春を迎へしことのおもてふでとれば、     汽車よりも早い道中双六は月の前を飛に五十三次ぎ    俳諧師夜雪庵金羅、代りて此歌を帛紗にしるし、三十五日にこれを旧友より配布せり。今は(明治廿七    年十月三日)金羅も病にかかりて歿せり(此の註「小日本」にはなし)〟     ◯『浮世絵師伝』p160(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝【歿】明治廿七年(1894)三月廿八日-五十三〟   〝辞世 汽車よりも早い道中すご六は目の前を飛ぶ五十三次〟    ☆ ぶせい きた 喜多 武清    ◯『名人忌辰録』下巻p25(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝喜多武清 可菴    字子慎、号五清堂、谷文晁門人。安政三辰年十二月廿日歿す、歳八十一。芝二本榎承教寺地中顕乗院に    葬る。法号道玄院幽誉可菴武清      辞世 来てみればこゝ二本の面白き噺相手に其角一蝶〟     △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「芝区」清林寺(二本榎町二ノ四)浄土宗   〝喜多武清(画家)字子慎、可庵と号し、谷文晁の門人なり。安政三年十二月二十日歿。年八十一。洞玄    院幽誉可庵武清居士。     辞世 来てみれば二本榎もおもしろし咄の友は其角一蝶〟    ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎       ◯『増訂武江年表』2p117(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「嘉永二年(1849)」記事)   〝四月十三日、浮世絵師(サキノ)北斎為一(イイツ)卒す。九十歳なり。浅草八軒寺町誓願寺に葬す。     辞世句 人魂でゆくきさんじや夏の原〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪218(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝嘉永二酉年四月十三日歿す。九十歳。浅草八軒寺町誓教寺に葬る。     法号 南惣院奇誉北斎信士     辞世 人またで行きさんしや夏の原〟    ☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)  (「魚屋北渓」の項)  〝魚屋北渓 文化文政より天保の今に至る     俗称 初五郎郎 居 始四谷鮫ヶ橋 後赤坂永井町代地     号 拱斎 葵岡 姓氏の如く用 江戸人也    始は狩野養川院の門人にして、後北斎の弟子となりて浮世絵師となる。松平志州侯の用達の魚屋也(四谷)    仍て画名の傍に記したり。摺物は勝れてよし。北斎の高弟にて、能く師の風を得たり(よみ本、張交の錦    絵多し、役者画はかゝず(後魚を商はず、画を以て業とす)門人多し。彫刻の画になければ、名を出さず。     (中略)    青山立法寺     根府川石   翁諱辰行善絵事工于時世様逐武於            菱川宮川諸名流嗜学蔵書数千巻一生            行矣無愧忠信篤敬四字           葵岡老人北渓君之墓    忌日は見へず    あつくなくさむくなくまたうゑもせ     別に墓碑あるべし   うきこときかぬ身そこやすけれ〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪220(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝翁諱辰行、善絵事、工于時世様、遂武於菱川宮川諸名流、嗜学蔵書数千巻、一生行矣、無愧忠信等〈篤    カ〉敬四字、葵園老人北渓之墓     あつくなくさむくなくまたうゑもせずうきこときかぬ身こそやすかれ〟    ◯『浮世画人伝』p125(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   〝 魚屋北渓(ルビうをやほくけい)    北渓、名は辰行、通称岩窪金右衛門、また初五郎と呼び、拱斎また葵園と号しき。始め狩野養川院(養    川名は惟信、号玄之斎、文化五年正月十三日歿す、歳五十六)に画を学び、後、北斎の門に入て、浮世    絵をものし、落欵に魚屋北渓と記せり、(※一字未詳)は固(モト)松平志摩守の用達町人にて、魚商なれ    ばなりと。北渓の住居は四谷鮫橋なりしが、晩年赤阪永竹町代地に転じ、専ら師の画風に傚ひ、狂歌摺    物の画を認め、世に知られしが、一見識ありて、俳優画は一回も描かゝざりしと。著す所の『北渓漫画』    『吉原十二時』の挿画など高評を博したるものあり。嘉永三年、歳七十一にして歿す、墓は青山立法寺    にあり。     あつくなし寒くなし又うゑもせず憂きこときかぬ身こそやすけれ    此狂詠、北渓の辞世なるや、碑の裏面に刻せり〟    ☆ りゅうほ ひなや 雛屋 立圃    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪194(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝野々口氏、俗称は紅屋庄右衛門、或は市兵衛、名親重、自松翁と号す。書画を能す。又俳諧を貞徳翁に 学んで名あり。画は土佐氏の門に入て専ら浮世絵を画く。医師中川喜雲作の草双紙のさしゑ、多く立甫 也。許六が歴代滑稽伝に、雛屋立甫は画をよくす。京童と云名所自画なり云々。上り竹斎の画も立甫な り。男を生白といふ。鏡山と号す。父と共に画をよくす。寛文九年酉九月晦日歿す。行年七十一歳。法 名 日祐居士、或は日英、     辞世 月花の三句目を今しる世かな