Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
扶桑名画伝
             『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序                 (国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序    ※『浮世絵類考』は大田南畝著 本HPは『浮世絵考証』名で収録     『浮世絵類考附録』は笹屋邦教編『古今大和絵浮世絵始系』   ◇鳥文斎栄之([26]巻九之八 庶士 59/191コマ)   〝栄之    姓名詳ならず 細田氏 名は栄之 或は鳥文斎と号す 御小納戸役つとむ 栄川典信門人にて 後 浮    世絵を画かきければ 師家を破門せられ事と聞けり 寛政頃の人なるべし    (以下『浮世絵類考』記事 本HP収録済み 省略)〟   ◇石川流宣([29]巻十之三 雑家 117/127コマ)   〝流宣    姓諱詳ならず 石川氏流宣と号す 元禄の人なるべし    「諸家人名略」【九左】石川流宣 元禄武鑑の末に絵図有り〟   ◇菱川師宣([30]巻十之四 雑家 29/109コマ)   〝師宣    姓は藤原菱川氏 名は師宣【或は師信また師直につくる】法名友竹 通称吉兵衛【或は長兵衛に作る】    道茂入道光竹の男 房州の産【或は京師の人とす】江戸に住す 仕女春宮等の彩画に名を得しとぞ 菱    川流と称して一家をなせり 正徳年中死す 年七十余    「増補近世逸人画史」巻之上云 菱川師信(ママ)通称長兵衛 一ニ師直ニ作ル 晩年友竹ト号ス 京師ノ     人又房州小港ノ人トモ江都ニ寓居ス 画ヲ以活業トス 仕女或ハ春宮ノ図 又時世粧及ビ春画ニ名ヲ     得 世ニ菱川流ト称ス 一家トス 其画風 洒落ニシテ其品最モ高シ 同時ニ宮川長春ナル者アリ      時世粧ヲ専ラ画ク 其品及バズ〟    (以下『画乗要略』『浮世絵類考』『浮世絵類考追考』『本朝古今書画便覧』記事 本HP収録済み 省略)   ◇菱川政信([30]巻十之四 雑家 59/109コマ)   〝政信    姓詳ならず 菱川氏 名は政信 字は守節 菱川師宣門人 正徳頃の人なるべし〟    (以下『浮世絵類考追考』記事 本HP収録済み 省略)   ◇菱川友房([30]巻十之四 雑家 60/109コマ)   〝友房    姓しられず 菱川氏 名は友房 菱川師宣の門人 其画 師に及ばず下筆なり 正徳頃の日となるべし〟    (以下『浮世絵類考追考』記事 本HP収録済み 省略)   ◇菱川師平([30]巻十之四 雑家 62/109コマ)   〝師平    姓詳ならず 菱川氏 名は師平 師宣の子といへる説もあれど さだかならず 其画蹟 伊達家の画工    菊田伊洲といへるもの携へ来りて 予に見せしことあり 画後に菱川師平とあり 其筆風よく師宣の画    法を得たれど及ばさること遠し 師宣の男といへるによれば 正徳頃の人なるべし     按ふにこの人師宣の子といへれど諾ひがたし 師宣系図【浮世絵類考追考に載す】に嫡男師房二男師     永と見えて師平なし もしは(ママ)この二人の内の初名なりけんもしらねど 恐らくは門人の内なるべ     し〟   ◇菱川師房([30]巻十之四 雑家 64/109コマ)   〝師房    姓詳ならず 菱川氏 名は師房 通称初吉左衛門 後吉兵衛と改む 画工を業とし 晩年に及び紺屋を    業とす 正徳頃の人なるべし    (以下『浮世絵類考追考』記事 本HP収録済み 省略)   ◇宮川長春([30]巻十之四 雑家 73/109コマ)   〝長春    姓しられず 宮川氏 名は長春 江戸に住す 菱川師宣【或作師信】同時の画工なり 工みに当世の婦    人の風俗を絵がきて 着色尤も密なり 正徳の人なり    (以下『増補近世逸人画史』『浮世絵類考追考』記事 本HP収録済み 省略)    「古今墨蹟鑑定便覧」巻中【画家之部十右】云 宮川長春 江戸に住す 世俗の美人を写すに妙なり〟   ◇英一蝶([30]巻十之四 雑家 85/109コマ)   〝信香(一蝶)雑家    姓は藤原英氏【本氏多賀】名は信香 或は安雄 幼名猪三郞また助之進【或は助之丞】後次右衛門と改    む 薙髪して朝湖と号す また一蝶 翠蓑翁牛麻呂 一蜂閑人【後門人に譲る】一門散人 旧草堂 暁    雲堂 北窓翁 隣樵庵 隣濤菴 狩林斎等の諸号あり 俳号を暁雲 或は和央 或は和応【こは花街に    て呼ばれし名といへり】と云ふ 浪花の人 父は医を業とし 多賀伯庵といへりとぞ 信香十五歳の時    江戸に下り 画を狩野安信に学び 後新意を加へて一家をなせり 元禄十一年十二月 故ありて三宅島    【或八丈島とす】に流謫せらる 時に年四十七 島にあること十二年 宝永六年九月帰郷して 江戸本    所深川宜雲寺に寓居し 北窓翁 英一蝶と改む【英氏に両説あり】 其後同所長堀町に住せしとぞ 享    保九年正月十三日死 年七十三    「画事備考」【四十六左】云 右京時信門弟多賀長湖 故あつて三宅島へ流人 後年島より帰て 英一     蝶とあらため江戸に住す    「土佐狩野両家系図」【十五右】云 安信門人 多賀朝湖 始助之丞 英一蝶 北窓翁 狩林斎信香     【有故破門】    (以下『増補近世逸人画史』『浮世絵類考』『浮世絵類考追考』『近世奇跡考』『画乗要略』『一蝶流謫考』記事      本HP収録済み 省略)    「俳人系譜」云 桃青門 暁雲【旧草堂多賀氏】    「俳家人名録」云 暁雲 初和央 旧草堂 英一蝶 多賀氏 芭蕉門」〟   ◇長谷川宗清([30]巻十之四 雑家 104/109コマ)   〝宗清    姓しられず 長谷川氏 名は宗清 通称 宇右衛門 その墨痕 京師祇園の絵馬所にかくる鍾馗の額あ    り 享保十三年頃の人なり    (以下『扁額軌範』記事 本HP収録済み 省略)     ◇古山師政([30]巻十之四 雑家 105/109コマ)   〝師政    姓しられず 古山氏 名は師政 文志と号す 通称新九郎 菱川【本氏古山】太郎兵衛師重の男 菱川    吉兵衛師宣の門人 江戸に住す 享保年中の人なり    (以下『近代世事談』『浮世絵類考追考』記事 本HP収録済み 省略)    按ふに この人追考に享保中の人と見ゆれど 世事談【享保十九年梓行】の文意を味ふれば 享保中の    中の人ともいひかたくや 宝永頃の人にて 享保の初め頃迄も 猶存生せし人にてもありけん歟 され    ど明徴を得ざれば 姑く享保中の人として載(せ)つ〟  ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※『浮世絵類考』は大田南畝著 本HPは『浮世絵考証』名で収録    『浮世絵類考附録』は笹屋邦教編『古今大和絵浮世絵始系』   ◇宮川春水([31]巻十之五 雑家 13/108コマ)   〝春水    姓しられず 宮川氏 春水と号す 宮川長春の男 よく大和絵を画かく 享保の人なり    「浮世絵類考」【十九左】云 宮川長春男 同氏春水 大和画師 よし町住居 享保頃〟    〈春水を長春の男とする『浮世絵類考』は不明〉   ◇鳥居清信([31]巻十之五 雑家 16/108コマ)   〝清信    姓は◎鳥居氏 名は清信 通称庄兵衛 浮世絵師 鳥居家の始祖なり 江戸難波町辺に居住す 四座の    歌舞伎絵看板の名人といへり はじめ菱川師宣の筆風を画き 後に一家をなす 享保頃の人なり    (以下『浮世絵類考』『浮世絵類考追考』記事 本HP収録済み 省略)〟   ◇奥村政信([31]巻十之五 雑家 26/108コマ)   〝政信    姓しられず 奥村氏 名政信 文角 或は志道軒 或は芳月堂 或は丹鳥斎と号す 通称源六 画風師    信に似たりといへり 鳥居庄兵衛清信門弟 よく鍾馗を絵かく 享保頃の人なり    (以下『浮世絵類考』『浮世絵類考追考』記事 本HP収録済み 省略)〟   ◇西村重長([31]巻十之五 雑家 34/108コマ)   〝重長    姓しられず 西村氏 名は重長 浮世絵師 江戸に住す 享保頃の人なるべし    (以下『浮世絵類考附録』記事 本HP収録済み 省略)   ◇懐月堂安度([31]巻十之五 雑家 43/108コマ)   〝安度    姓しられず 岡沢氏 名は安度 江戸に住し 宮川長春の画風をゑかく 元文頃の人なり    「画家人名略」【二左】云 岡沢安度 元文宝暦の比まで行るゝ人と云 江戸人 宮川長春の画様を(ママ)     つきて画けり〟   ◇石川豊信([31]巻十之五 雑家 50/108コマ)   〝豊信    姓しられず 石川氏 名は豊信 秀葩と号す 通称糠屋長兵衛 西村重長門人 江戸に住す 浮世画工    なり 寛保頃の人    『絵本俚諺草』巻三奥書云 宝暦二年申正月吉日 画図石川豊信 彫刻 佐脇庄兵衛〟    (以下『浮世絵類考附録』『浮世絵類考』記事 本HP収録済み 省略)   ◇橘守国([31]巻十之五 雑家 61/108コマ)   〝守国    姓詳ならず 橘氏 名は守国 後素軒と号す 又有税の印章あり(頭注:名歟号歟さだかならず)通称    惣兵衛 大坂に住す 板刻の密画に妙を得たりとぞ 鶴沢探山の門人 後に薙髪す 好みて雑学をよく    すといへり 寛延元年【或は延享中】没す 年七十    「本朝古今書画便覧」【八十二左】云 守国 鶴沢探山門人 橘氏 号後素軒 通称惣兵衛 大坂に住     す 寛延元年年に没す 七十    (以下『画乗要略』『浮世絵類考』『古今墨蹟鑑定便覧』『和漢書画集覧』記事 本HP収録済み 省略)     〈新日本古典藉総合データベース所収の『和漢書画集覧』(天保三年序)記事は『増補和漢書画一覧』文政二年刊と同じ〉    「唐土訓蒙図彙」巻之十四【九左】云 浪華 画者 橘有税 印章〔衛 橘有税〕又序末云 享保己亥     孟春云々    (以下『唐土訓蒙図彙』の画工橘有税が〔衛 橘有税〕の印章を同じくする橘保国ではなく守国であること説く 省略)   ◇皎天斎国雄([31]巻十之五 雑家 64/108コマ)   〝国雄    姓氏しられず 名は国雄 皎天斎と号す 通称酢屋平十郎 橘守国の門人なり 寛延期の人なるべし    (以下『和漢書画集覧』(橘守国の項)記事 本HP収録済み 省略)   ◇西川祐信([31]巻十之五 雑家 66/108コマ)   〝祐信    姓詳ならず 西川氏 名は祐信 文華堂また自得叟【或作自得斎】通称孫右衛門 後右京と改む 西川    団右衛門の男 大和絵師狩野永納(ママ)と称す 永納吉信の門人とぞ 京師の人なり よく婦女子の図を    絵かく 宝暦元年没す 年八十一    「絵本姫小松」奥書云 寛保二年壬戌正月吉日 洛陽画工 文華堂 西川自得叟祐信     彫刻師 洛陽 丹羽庄兵衛    (『扁額軌範』祇園社「釣狐」記事 本HP収録済み 省略)    「画事備考」【左近門人條三十八左】云 西川孫右衛門団右衛門子祐信と云 女郎其外近代大和絵を画     上手なり    (『浮世絵類考』『画乗要略』記事 本HP収録済み 省略)    「掌中書画年契」云 宝暦元年 西川祐信没 年七十四〈『掌中書画年契』不詳〉    (『和漢書画集覧』本HP収録済み 省略)    按ふに 祐信の師を類考集攬等に狩野永納といへりと見ゆ こは三代目の永納吉信なるべし 然らざれ    ば時代符合せず また類考附録には土佐流とす さて祐信の画蹟を見るに 土佐家狩野家の両流を兼て    しかも新意を加ふるものなり さるによりて推考するに 初め狩野家の画格を学び 後に仕女遊妓等を    画がくに至れり 土佐家の筆風に傚ひしものなるべし また備考に左近の門人の列とせしは非なり さ    ては師弟の時代さらに協(かな)はず 左近は必貞信ならむを この人は元和九年に廿七歳にて没したれ    ば祐信の生れしほどより 五十七年ばかり前の人なり また祐信は書画年契に宝暦元年没 年七十四と    見ゆれど これもまた誤れり 没年はしかりとすとも七十四といへるは必わろし そのよしは軌範に載    する祇園の絵馬に行年七十四歳筆とありて 其絵馬の縁に延享元年奉納のよし見ゆれば 七十四歳は延    享元年にて 宝暦元年は八十一歳なり かく年齢を誤れるからは 没年を宝暦九年といへるも猶おぼつ    かなくおもはるれど 外に慥なる證を得ざれば 姑く宝暦元年八十一歳にて没すとす 猶後学訂してよ    かし〟   ◇英一蜂([31]巻十之五 雑家 76/108コマ)   〝一蜂    姓名詳ならず 英氏一蜂【或は一峯また一峰につくる】また春窓翁と号す 一水の門人といへり【或は    一蝶の門人とす】 宝暦十年四月廿八日死す 年七十【或は明和九年七月六日 六十六歳にて没すとす】    (以下『江都名家墓所一覧』記事 本HP収録済み 省略)    「掌中書画年契」云 宝暦十年四月廿八日 英一蜂没 年七十    (以下『一蝶流謫考』『画乗要略』記事 本HP収録済み 省略)    『古今墨蹟鑑定便覧』巻之中【画家之部二右】云 英一嶂 一蝶ノ門人タリ 宝暦十年四月廿八日没ス     年七十    按ふに この一蜂の峰字かつ其伝も一定ならず 一覧には初代一蜂と見え 流謫考には一水門人一蜂と    載せ 要略には一蝶の子として一峰とし 鑑定便覧には一蝶門人一嶂とす 推考するに 一蝶の男或は    門人などいへるには 蜂の字のかた其縁ありて聞え また一水門人とする時は峰字 はた其因みなきに    あらず されど蜂のかた多く見ゆれば 姑くそれに従ひ また鑑定便覧に一嶂とあるは誤りなめり さ    るは同書また別に一蜂の伝を載て それには一蝶男 名は信勝 通称長八とし その没せし年月日及び    年齢 みな一蝶信勝に同じく また一嶂と挙げたる方は上件に記せるがごとし こはまたく一蜂とした    る方は一蝶信勝を混じ 一嶂の方は蜂字を嶂に誤りたるなるべし また流謫考は其没年月日年齢等 み    な他書に異なり これはたよしやあしや決めかたけれど 姑く墓所一覧によりて載せつ〟    〈『古今墨跡鑒定便覧』誤記が二つあり。一つは一蝶信勝を一峰と記したこと。もう一つは一蜂を一嶂としたこと〉   ◇英一舟([31]巻十之五 雑家 89/108コマ)   〝信種    姓詳ならず 英氏 名は信種 一舟或は東窓翁また潮窓翁(ミセケチまた孤雲)と号す 通種(ママ称)弥三郎    一蜂の義子にて 一蝶【或は一蜩】門人 後年師家を継ぐといへり 明和五年正月【或五月】廿七日    【或は廿三日】死す 年七十一    「画事備考」【四十七右】云 英一舟 一蝶跡    (以下『浮世絵類考追考』『一蝶流謫考』『江都名家墓所一覧』『古今墨跡鑒定便覧』記事 本HP収録済み 省略)    「増補近世逸人画史 巻上」云 信勝 一蜂と号 多賀長八郎と称す 門人信種一舟と号す 子となす    「掌中書画年契」云 明和五年正月廿三日 英一舟没 年七十一    按ふに 信種の没せし月日異同あれど 姑く墓所一覧に従ふ 五月とあるは正と五と字体近ければ 誤    写せしなるべし またこの信種を或人の説には 一蝶信香の男一蝶信勝故ありて代々の数にくはへず     信種師家をつぎて二代目になるといへり そは嫡子信勝を除き 信種を養子として嫡子に立しに 信香    没後 父の家をば継がず号のみをつぎて 私に二代目一蝶といへるにてもあるべし されどこは推考の    さたにて 明証なければおぼつかなし(中略)    二代目は信勝にて 信種は三代目と思はるれば二代といへる説はいかがあらむ また一舟は一蜂の義子    といへるも たしかには信け(ママ)かたし 逸人画史及び鑑定便覧など信勝と一蜂を一人に混じ誤れり    【一蜂の條対照すべし】猶一舟の二代三代のけぢめは他日よく考ふべし〟   ◇佐脇嵩之([31]巻十之五 雑家 93/108コマ)   〝道賢    姓詳ならず 佐脇氏 名は道賢【或は直賢に作る】字は子嶽嵩之と号す はじめ一水といへり 果々観    【或は昇々観に作る】中岳堂 東宿 一翠斎 春窓翁等の号あり 通称甚蔵【或は甚内につくる】一蝶    信香【或は一舟信種】門人 明和九年七月三日【或は六日】死 年六十六【或は七十余】    「増補近世逸人画史 巻上」云 嵩之 名道賢 字子嶽 果々観と号す 佐脇氏 画を英一蝶に学ぶ     明和九年七月三日卒 浅草誓願寺中称名院に葬る     (以下『江都名家墓所一覧』『浮世絵類考追考』『一蝶流謫考』『続諸家人物誌』記事 本HP収録済み 省略)   ◇鈴木春信([31]巻十之五 雑家 100/108コマ)   〝春信    姓は穂積 鈴木氏 名は春信をいへり 明和のはじめ頃よりあつま錦絵といjふ物を画き出したる人な    り(以下『浮世絵類考』記事 本HP収録済み 省略)〟   ◇俵屋宗理([32]巻十之五 雑家 105/108コマ)   〝宗理    姓名詳ならず 俵屋宗理と号す はじめ住吉広守門人 後に光琳の画風をゑかく 明和頃の人なり〟  ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇英一川([31]巻十之六 雑家 3/102コマ)   〝一川    姓名ともに詳ならず 英氏 字は宗峰 一川また松下庵と号す 一舟の男 或人いへらく 通称新次郎    一舟の養子 実は門人なり 一蝶信香三代目といへり 安永七年正月廿八日没す    (以下『画乗要略』『古今墨跡鑒定便覧』記事 本HP収録済み 省略)    「画工略伝【二右】」云 一川 字宗峰 号松下庵〟   ◇西川祐尹([31]巻十之六 雑家 27/102コマ)   〝祐尹    姓詳ならず 西川氏 名は祐尹 西川家二代目なり 安永頃の人なるべし    「画家人名略【三左】」云 西川祐尹 印文西川二代と有り〟   ◇竹原春朝斎([31]巻十之六 雑家 29/102コマ)   〝信繁    姓詳ならず 竹原氏 名は信繁 春朝斎と号す 通称門次 大坂の人 浮世絵師といへり 都名所図会    の画工なり 安永頃の人     都名所図会巻之六 奥書云 画工浪花春朝斎 竹原信繁 安永九年子仲秋新板    (以下『古今墨跡鑒定便覧』記事 本HP収録済み 省略)   ◇楫取魚彦([32]巻十之六 雑家 32/102コマ)   〝魚彦    姓詳ならず 楫取氏【本氏稲生】名は魚彦 茅生庵と号す 通称茂右衛門 下総国楫取の人 東都に住    す 国学を真淵に学びて能し 画法は寒葉斎凌岱に学びて一家をなせり 天明二年三月日(ママ)没す 年    六十    (以下『本朝古今書画便覧』『古今墨跡鑒定便覧』記事 本HP収録済み 省略)   ◇月岡雪鼎([32]巻十之六 雑家 45/102コマ)   〝昌信    姓しられず 月岡氏【本氏木田】名は昌信 号は信天翁また雪鼎 通称丹下 近江の人 大坂に住す    画を高田敬甫に学び 後一変す 国俗の美女をよく絵がき また雑画に工みなり 天明六年十二月日    (ママ)没す 年七十七    (以下『本朝古今書画便覧』記事 本HP収録済み 省略)    「掌中書画年契」云 天明六年十二月 月岡雪鼎没 年七十七〟   ◇英一蜂二代目([32]巻十之六 雑家 48/102コマ)   〝一蜂    姓名しられず 英氏一蜂と号す 二代目なり はじめ嵩林と号す 嵩谷の門人なりと或人いへり 天明    八年六月十二日死す    (以下『江都諸名家墓所一覧』記事 本HP収録済み 省略)   ◇北尾重政([32]巻十之六 雑家 49/102コマ)   〝重政    姓しられず 北尾氏【本氏北畠】名は重政 花藍また紅翠斎と号す 通称左助 江戸根岸に住す 男女    風俗武者等の錦絵をよくす 天明年間の人なり     (以下『浮世絵類考』記事 本HP収録済み 省略)   ◇三輪花信斎([32]巻十之六 雑家 77/102コマ)   〝在栄    姓しられず 三輪氏 名は在栄 花信斎と号す 江戸の人なり 寛政九年四月廿七日死す     (以下『江都諸名家墓所一覧』記事 本HP収録済み 省略)   ◇蔀関月([32]巻十之六 雑家 80/102コマ)   〝徳基(朱書「法橋ノ部ニ入ベシ」)    姓しられず 蔀氏 名は徳基【或作徳臺(誤也)】字は子温 関月また荑斎と号す 浪花の人 法橋に至    る 画法雪鼎を師とす 後に雪舟の筆風に法る 山水人物風致あり『伊勢参宮名所図会』并びに『山海    名産図会』の筆者なり 寛政九年十月廿一日没す 年五十一ときけり    (以下『画乗要略』『本朝古今書画便覧』記事 本HP収録済み 省略)    「和漢書画集覧【二十一左】」云 関月 蔀氏 名徳基 字子温 浪花人 寛政中没    (以下『古今墨跡鑒定便覧』記事 本HP収録済み 省略)    按ふに この関月の名を「要略」并びに「便覧」両書とも徳臺に作るは誤りなり 名産図会奥書の印文    によるべし    『日本山海名産図絵』奥書云「画図法橋関月〔徳基〕」  ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇長山孔寅([33]巻十之七 雑家 66/105コマ)   〝姓名詳ならず 長山氏 字は士亮【或作子亮】孔寅また牧斎と号す 出羽秋田の産 画を月渓に学び    平安【或作浪花】に住す 享和頃の人なるべし    「平安画家名字録」云 長山孔寅 字士亮 号牧斎    (以下『古今墨跡鑒定便覧』記事 本HP収録済み 省略)    ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇高嵩谷([34]巻十之六 雑家 6/138コマ)   〝一雄    姓しられず 高氏【或は高久】名は一雄 嵩谷はた楽只斎また屠龍翁【或は斎】と号す 佐脇嵩之の門    人 或は一蜂の弟子をいへり よく英一蝶の画格を得て時に称せらる 文化元年八月廿三日死す 年七    十五    (以下『続諸家人物誌』『江都名家墓所一覧』『一蝶流謫考』『増補近世逸人画史』『異本諸家人名録』記事 本HP     収録済み 省略)    「掌中書画年契」云 文化元年八月廿三日 高嵩谷没 年七十五〟   ◇佐脇嵩雪([34]巻十之六 雑家 8/138コマ)   〝貫多    姓しられず 佐脇氏 名は貫多【或は字とす】 嵩雪 翠雲堂 伃止楼 中岳堂【或は中岳斎につくる】    等の諸号なり 通称倉治 嵩之の男なり 画風よくその家格を守れり 文化元年十一月廿二日死す    「増補近世逸人画史」巻上 云 佐脇嵩雪 名貫多 称倉治 中岳堂と号す 文化元年十一月廿二日卒     浅草誓願寺中称名院に葬る 画を父嵩之にうけ よく家風を守る    (以下『江都名家墓所一覧』『続諸家人物誌』記事 本HP収録済み 省略)    「諸家人名略」【五左】云 嵩雪 字貫多 号翠雲堂 伃止楼 嵩之ノ子〟   ◇北尾政演([34]巻十之六 雑家 47/138コマ)   〝政演    姓しられず 岩瀬氏 また北尾氏【本氏拝田】名は政演 或は醒 字は酉星 山東庵 醒々斎 醒世斎    醒斎 京伝 鼯鼠翁等の諸号あり 通称京屋伝蔵 或は由蔵 冊子の戯作に名あり また図絵をよくし    画風一家をなす 文化十三年九月七日死す 年五十六    (以下『異本諸家人名録』『和漢書画集覧』『江都名家墓所一覧』『古今墨跡鑒定便覧』『文苑名家紀年大成』記事     あり 割愛)   ◇高嵩嶽([34]巻十之六 雑家 67/138コマ)   〝良恭    姓しられず 高久氏 名は良恭 嵩嶽と号す 嵩谷の男 世を早くすと或人いへりき 文化頃の人なる    べし〟   ◇司馬江漢([34]巻十之六 雑家 71/138コマ)   〝峻    姓詳ならず 司馬氏 名は峻 字は君岳 江漢また春波堂と号す 画法一家をなす 本朝にて銅板の図    を作れるはこの人より始まれりといへり 文政元年十月廿一日没す 年七十二    「古今墨蹟鑒定便覧」巻之中【画家之部七十右】云 司馬江漢 名は君岳 春波楼と号す 画風一家    (ママ) 曽て皇朝に銅板の図を作るは此人より始まれりと 文政元年十月廿一日没す 七十二    按ふに『知己詩曩』初編地巻画部に司馬江南 京師人 君圭門人と見込たるあり 推考するに此江漢と    同人なめり その故は漢と南と声近ければ 南は漢の誤字にてもあるべし 鑑定便覧には江漢の名かき    (ママ)を影写して載せたれば 是たしかなり 又君岳とあるもよしありて聞ゆ 江漢の字を君岳といひ     名を峻といへり 君圭は市川適の字にて名もまた一字なり されば門人とあるに協へり 但はじめ江南    といひ 後江漢と改めしにはあらじ歟 これもまた考ふべし〟    〈原文は見せ消ち部分などあって文意の通らないところもあるが、司馬江漢と司馬江南同人説である。司馬江南に関す     る記事があるのが珍しいのであえて引用した〉  ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇桜井雪館([36]巻十之六 雑家 131/148コマ)   〝雪館    姓しられず 桜井氏 雪館 或は雪志 或は山興【或作三江】或は常翁 自ら雪舟派と称す 其画濃墨    を用ゐて 甚だ筆力あり 江戸の人なり〟    (以下『画乗要略』『増補近世逸人画史』記事 本HP収録済み 省略)    〈「逸人画史」の記事は「山興(さんこう)」の項に収録〉    「孔明龍虎」画幅【三幅中落款】云「行年六十七歳雪館常翁筆」〟   ◇耳鳥斎([36]巻十之六 雑家 135/148コマ)   〝二鳥斎    姓氏系伝ともにしられず 二鳥斎と号す 大坂の人    「知己詩曩」初編地巻【画部十六左】云 関羽 二鳥斎【大坂】