Top           浮世絵文献資料館            藤岡屋日記Top     
                 『藤岡屋日記』【よ】    ☆ よこはま 横浜    ◯『藤岡屋日記 第八巻』(藤岡屋由蔵・安政五年(1858)記)   ◇横浜開港 p407   〝十二月晦日、今度、於神奈川、亜墨利加・魯西亜・英吉利・仏蘭西・阿蘭陀、右五ヶ国ぇ貿易御差許ニ    相成、来未年五月より同所御開港ニ相成候旨被仰出候ニ付、此上自国商民共右国々と直売買仕法筋、并    ニ御禁制之廉々は追々可触示候得共、差向御府内諸問屋・諸商人共之内、神奈川表ぇ出店差出、又は荷    物差送り取引致度者は、早々播磨守番所ぇ申出、請指図候様可致候。     右之通、町内不洩様可触知者也〟    ◯『藤岡屋日記 第十二巻』p373(藤岡屋由蔵・元治二年(1865)記)   ◇横浜噺    〝元治二乙丑年正月     横浜噺し    横浜在留之外国コンシイロ館ぇ、当春より各門松を建ル、大キサ、国主大名表門の錺りニ同じ、其製日本    門松の通り、左右ぇ松を建、注連錺し、海老・だひ/\・柿・炭の類・都て我国錺の如し、尤外国にては    此事なし、日本政府の威令盛大成を感佩し、大君を祝し奉り、日本歳旦の賀を寿て、当年初て立たる也。     (中略)    蒸気製造伝習のため、去子年八月中和蘭陀ぇ渡海せる日本人二十人、十二月之末に帰帆せり、製造之器械    夥しく持帰る也。浦賀港に於て製造ある由〟    ☆ よしだ せんじ 吉田 千四    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p524(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   ◇禁制の緩み   〝此節(五月)、御趣意も段々ゆるみて、人形身振咄し吉田千四、松永町へ出る、講談咄し扇拍子、西川    伊三郎、竹本連中、上野広小路三橋亭ぇ出る也〟    ☆ よしつな うたがわ 歌川 芳綱  ◯『藤岡屋日記 第七巻』p199(藤岡屋由蔵・安政三年(1856)記)   ◇『安政見聞誌』一件 (六月二日付)       〝地震安政見聞誌出板一件                         日本橋元大工町、忠次郎店      本板元                         三河屋鉄五郎    右者、馬喰町山口藤兵衛も少々入銀致し、初九百部通り摺込、三月下旬ニ出来致し、四月八日より売    出し、跡二千通り摺込、手間取十五日ニ上り、諸方ぇ配り候処、大評判ニ而、四月廿五日、懸り名主福    嶋右縁より手入有之、五月七日ニ板木取揃候而、茶屋寿迄持出し候様申付置候処ニ、本売れ口宜敷候ニ    付、日々摺込致し、中々七日迄取揃上ル事不能、日延願致、十五日ニ寿へ持出し、明十六日、北御番処    へ差出し候積り之処、懸り石塚来らず故、猶予致し居候処ぇ、御差紙到来致候、是ハ十五日、北御奉行    井戸対馬守御登城之処、殿中ニ而右本之御咄し有之、本御覧有之候ニ付、御退出之後、懸り名主呼出し    御尋之上、十六日御差紙ニ而、十七日初呼出し、吟味懸り島喜一郎。                      元大工町、由兵衛店       板元名前人           板行摺        要 助                      南伝馬町二丁目、長三郎店、芳綱事       画師                         清三郎                      八丁堀北島町、友七店                          一筆庵英寿事       作者                         与五郎                      小伝馬町上町、清三郎店       板木師                        長次郎      一 但要助義、十七日手鎖被仰付候ニ付、翌十八日、大鋸町要助店絵双紙糶亀吉義、私板元之由名乗    出候ニ付、要助義手鎖御免ニ而、家主預ケなり、亀吉は御証文預ケ。     一 同日                     狂言師、梅の屋事                                      左 吉     右者口画の達摩の事ニ而、御呼出御尋ニハ、上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上    之思召ニたがひ候由御𠮟り、然ル処、右画ハ扇面へ書候を写し取られ候由申上候ニ付、御構無之。     一 画師芳綱ハ見附之崩れ候を書候ニ付、御叱り。        安政にならで地震がゆり出し          さて版元がうきめ三河や        六月二日、右一件落着                         大鋸町、要助店                          板元                                  亀 吉       所払                                        南伝馬町二丁目、長三郎店                          芳綱事       画師                         清三郎     右者、画料金壱両御取上ゲ、五貫文過料。                         北島町、友七店       作者                         与五郎     右之者、金壱両二分作料御取上ゲ、五貫文過料。                          元大工町、由兵衛店       板行摺                        要 助     右之者、摺、仕立手間、都合金二両三歩、銀三朱御取上ゲ、五貫文過料。                         小伝馬上町、清助店       板木師                        長次郎     右之者、彫代金都合金七両二分五取上ゲ、五貫文過料。     右、於北御番所被仰渡之。      六月二日〟
   『安政見聞誌』 一筆庵英寿著・一勇斎国芳、一登斎芳綱画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
   〈「口絵の達磨」には梅の屋の詠で〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れては一物もなし〟とあった。この「一物も     なし」が御叱りの対象になったのだが、梅の屋は扇面に認めたものを写し取られたと釈明して、咎を免れた〉    『安政見聞誌』「口絵の達磨」 一登斎芳綱?画
   〈一登斎芳綱が御叱りを受けた「見附の崩れ候」画〉    『安政見聞誌』「四ッ谷見附」 一登斎芳綱画
   〈「亀戸天神橋通横十間川筋柳嶋之図」中に、三代目歌川豊国(初代国貞)の家が画かれているので、示しておく〉    『安政見聞誌』「歌川豊国」宅 一登斎芳綱画
   〈『安政見聞録』は一勇斎国芳も画いているが、ほとんど一登斎芳綱の作画である。また、作者については、野崎左文     から二説出されている、一つは仮名垣魯文説、もう一つは燕栗園(ササグリエン)千寿(チホギ)説、前者は魯文の自著を根拠     とし、後者はこの書の取り次ぎでもあった達磨屋五一(無物翁)の言に拠っている。『増補 私の見た明治文壇』所     収「仮名書魯文翁の自伝」参照。ただ、この『藤岡屋日記』の記事から云えば、作者は一筆庵英寿となっており、判     然としない。なお、英寿が画いた挿絵も一葉載っている〉    ☆ よしとら うたがわ 歌川 芳虎      ◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844))         ◇源頼光土蜘蛛の画   〝同(正月)十日      源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし。     又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵    双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見    せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続    百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也     其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
    「源頼光館土蜘作妖怪図」 一勇斎国芳画(早稲田大学・古典籍総合データベース)
   「源頼光館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画・「土蜘蛛妖怪図」玉蘭斎貞秀画    (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)      〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)八月の刊。これはその判ずる内容が幕政を諷したものではない     かと評判をよんだが、お上を警戒した板元伊場屋が絵を回収し板木を削るという挙に出たため、お咎めはなかった。     次ぎに、貞秀の画く「土蜘蛛妖怪図」が同年冬(十月以降)に出回った。これは店先にはお化けのない絵をつるし、     内々にはお化けの入ったものを売るという方法をとった。が、やはりこれも噂が立ち、今度は板摺(板木屋)で板元     を兼ねた久太郎と絵師の貞秀が三貫文の過料に処せられた。そして、天保十四年の暮れか翌十五年の正月早々に、芳     虎の「頼光土蜘蛛のわらいを添」えた画が「たとう(畳紙)」入りの組み物として売り出された。今回は、板摺兼板     元の高橋喜三郎以下、卸問屋・小売り・絵師芳虎ともども、咎を免れえなかった。なお、芳虎の「頼光土蜘蛛」は未     詳。ところで、貞秀画の板元も芳虎の板元もそれぞれ板摺となっている、板摺とは板木屋か彫師をいうのであろうか     ら、国芳画の板元・伊場屋とは違い、板元は一時的なものであろう。高橋喜三郎の場合は松平阿波守家中のものとあ     る。内職にこのような危ない出版も請け負ったものと見える。あるいは改めを通さない私家版制作に深く関わってい     たのであろう。     さて、この年の十月十日記事に〝南伝馬町二丁目辻屋安兵衛、笑ひ本一件にて正月十二日より戸〆の処、今日御免也〟     (p449「戸〆」は押し込め=外出禁止)とある。この辻屋安兵衛は芳虎の土蜘蛛画で小売りを行い、手鎖に処せ     られた絵双紙問屋である。「笑ひ本一件」とは何であろうか。正月十二日より「戸〆」になり十月十日「御免」にな     った。「手鎖」は「十月十日に十ヶ月にて落着」とある。「戸〆」も「手鎖」も外出禁止であるから、この二つの記     事は同じ事件の処罰であろう。そうすると「たとふ入ニ致し、外に替絵にて頼光土蜘蛛のわらひを添て」の「わらひ     を添て」とは「笑ひ本(春本)」化したということなのだろうか。「板摺」の中にはこうした内職も含まれていたの     であろう〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p475(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」   〝嘉永二己酉年      翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画出るなり。    板元麹町湯島亀有町代地治兵衛店、酒井屋平助ニ而、芳虎が画也、但し右拳の絵は前ニ出せる処の図の    如くにして、名主村田左兵衛・米良太一郎の改割印出候へ共、はんじものにて、翁いなり、三途川の姥    婆さまハ別ニ替りし事も無之候へ共、馬込が下女のお竹女が根結の下ゲ髪にてうちかけ姿なり、是は当    時のきゝものにてはぶりの宜敷、御本丸御年寄姉小路殿なりと言い出せしより大評判ニ相成候故、上よ    り御手入れの無之内、掛り名主より右板をけづらせけり、尤是迄ニ出候処之絵、新宿の姥婆さま廿四番    出、外ニ本が二通り出ルなり、お竹の画凡十四五番出るなり、然ル処今度お竹のかいどりの画ニて六ヶ    敷相成、名主共相談致し、是より神仏の画ハ一向ニ改メ出スまじと相談致し、毎月廿五日大寄合之上ニ    て割印出すべしと相談相極メ候、今度又々閏四月八日の配りニて、板元桧物町茂兵衛店沢屋幸吉、道外    武者御代の君餅と言表題にて、外ニ作者有之と相見へ、御好ニ付、画師一猛斎芳虎ト書、発句に、         君が代とつきかためたる春のもち       大将の武者四人ニて餅搗之図     一 具足を着し餅搗の姿、はいだてに瓜ノ内ニ内の花の紋付、是ハ信長也。     一 同具足ニてこねどりの姿、はいだてに桔梗の紋ちらし、是ハ光秀也、白き衣ニて鉢巻致すなり、       弓・小手にも何れも定紋付有之。     一 同具足ニて餅をのして居る姿ハ、くゝり猿の付たる錦の陣羽織を着し、面体ハ猿なり、是は大(太)       閤秀吉なり。     一 緋威の鎧を着し、竜頭の兜の姿にて、大将餅を喰て居ル也、是則神君也、右之通り之はんじもの       なるに、懸りの名主是ニ一向ニ心付ズ、村田佐兵衛・米良太一郎より改メ割印を出し、出板致し       候処ニ、右評判故ニ、半日程配り候処ニ、直ニ尻出て、直ニ板けづらせ、配りしを取返しニ相成       候、然ル処、又々是ニもこりず、同十三日の配りニて、割印ハ六ヶ敷と存じ、無印ニて出し候、       板元も印さず、品川の久次郎板元ニて出し候処の、(ママ、原文はここで切れている)     一 翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組、翁ヶ嶽ニ三途川、行事粂の平内、年寄仁王・雷神・風神・四       本柱の左右ニ並居ル、相撲ハ皆々当時流行の神仏なり、是ハ当年伊勢太神宮御遷宮ニ付、江戸の       神仏集りて、金龍山境内ニて伊勢奉納の勧進相撲を相始メ候もの趣向ニて、当時流行の神仏ニハ、       成田山・金比羅・柳島妙見・甲子大黒・愛宕羅漢・閻魔・大島水天宮・笠森・堀ノ内・春日・天       王・神明・其外共、釈迦ヶ嶽、是ハ生月也。              成田山 大勇 象頭山 遠近山 築地川 割竹 関ヶ原 筆の海 有馬山 三ッ柏 堀之内       猪王山 柏手 初馬 綿の山 注連縄 翁ヶ嶽 剱ノ山 経ヶ嶽 於竹山 錦画 御神木 三途       川 死出山、行事長守平内、年寄仁王山雷門太夫・大手風北郎・おひねりの紙、お清メ水有、行       事・呼出し奴居ル、見物大勢居ル也。        此画、伊予政一枚摺ニて、袋ニ手遊びの狐・馬・かいどりの姉さまを画、軍配ニ神仏力くらべ       と表題し、外に格別の趣向も無之様子ニ候へ共、取組の内ニ遠近山ニ三ッ柏と画たり、是は両町       奉行の苗字なるべし、割竹ニ猪王山と云しハ御鹿狩なるべし、外ニうたがわしき思入も有之間敷       候得共、右之はんじものニて人の心をまよわせ、色々と判断致し候より此画大評判ニてうれ候処       ニ、是も間もなく絵をつるす事ならず、評判故ニ引込せ仕舞也。         お竹のうちかけ姿を見て         遅道           かいどりを着たで姉御とうやまわれ         三途川の老婆御手入ニ付、           新宿は手がはいれども両国の             かたいお竹はゆびもはいらず           老ひの身の手を入られて恥かしや             閻魔のまへゝなんとせふづか         両国の開帳           お竹さんいもじがきれて御開帳             六十日は丸でふりつび〟
   「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画) 道外一猛斎芳虎画    (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
   「【道外武者】御代の若餅」 一猛斎芳虎画(早稲田大学・古典籍総合データベース)      〈一猛斎芳虎画「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画)に関する記事は、お竹の「下ゲ髪にて     うちかけ姿」が大奥の姉小路を暗示しているのではないかという評判がたち、お上の手入れを恐れて板木を削ったと     いう内容。     同じく一猛斎芳虎画「道外武者御代の若餅」(『藤岡屋日記』は「君餅」とする)の方は、餅を搗くのが織田信長、     以下、捏ね取り明智光秀、餅を延ばすのが豊臣秀吉、最後に竜頭の兜を被って餅を食っているのが徳川家康。神君が     一番おいしいところをもっていったと言う寓意は明らかである。当初、改め名主がその寓意に気がつかず、いったん     市中に出まわってしまったのだが、半日ほどして噂が立ち、あわてて回収にまわったといういわく付きのものである。     だが、余波はおさまらず、今度は版元名のない無届け版が出まわったとある。なお、この「【道外武者】御代の若餅」     の出版時期について、宮武外骨の『筆禍史』は、明治初年頃まで生存していた芳虎本人の懐旧談を聞いた某老人の証     言を拠り所として、天保八年(1847)のこととしている。丁度十二年の隔たりがある。芳虎が酉年と答えたのを、嘉永     二年(1849)ではなく一回り昔の天保八年に受け取ったのかもしれない。         「翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組」では、様々な取組のうち、遠近山対三ッ柏という取組があって、これが当時の     町奉行・遠山左衛門尉景元と家紋が三ッ柏の牧野駿河守成綱を擬え、割竹と猪王山の組み合わせは、この三月に物々     しく行われた将軍の鹿狩を判じたものとされる。この絵師は未詳。     このころの錦絵は、様々な禁制や制約を楯にとって「うたがわしき思入も有」るものや「人の心をまよわせ、色々と     判断」できるような「はんじもの」が、とかく評判になって売れる。噂が広がり過ぎると、結局は、板木を削ったり     自主回収してしまうのだが、それまでにどれだけ売りきるか、版元はそこに勝負を賭けているようなフシがある〉    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇絶版・板木没収処分 p115   〝四月廿四日之配りニて、紫野大徳寺信長公焼香図。     照降町蛭子屋仁兵衛板元ニて、芳虎画、大法会之図と大焼香場之図を三枚続きに致し出候処、秀吉束    帯ニて三法師君をいだき出候処の図也、是ニてハ改印六ヶ敷候ニ付、村田佐兵衛へ改ニ出候節ハ三法師    をのぞき秀吉計書て割印を取、跡ニて三法師を書入たり、是ニていよ/\焼香場ニ相成候ニ付、大評判    ニて売れ候ニ付、同月廿八日ニ板元上ゲニ相成候、五月六日落着、絶板也。      三の切能く当たったる猿芝居       南無三法師とみんなあきれる〟    〈板元は、改め名主・村田佐兵衛に、問題になりそうな所を取り除いて差し出し、出版許可をもらう。だが、実際の売     り出しには、削除部分を加えて原画と同じものが配られた。これでは改め名主は防ぎようがない。そんな挙に出る板     元もあったのである。禁じられている「太閤記」ものであるから、おそらく板元も絶版覚悟の出版であったろう。評     判になれば、短期間で大量に売れる。当局の手の入る頃には売り抜けて、板木の方は用済みという計算なのであろう〉          ◇高松城水責めの図 p138   〝六月十七日頃配り     芝神明前和泉屋市兵衛板元ニて、芳虎画六枚続き、高松水責の図、大評判にて、同廿五日ニ引込ス也。    是ハ太閤記備中高松城水責に候得共、城一面水びたしに相成候処は大海の如くにて、舟より三重の櫓へ    石火矢を打懸候処の勢ひおそろしく、さながらイギリスが浦賀へ押寄候ば如斯ならんと有様を見せしな    らん、初め懸り名主改之節は三枚続二つに致し改、石火矢もけむりも無之候間、右程すさまじくも無之、    名主も心付ず、割印出し候処に、彩色にてけむり付候ニ付、おそろしき有様ニ相成、唐人が御城を責る    に尤(異カ)ならずとて、右配り候絵を引込せ、石火矢を除き、出し候様にとの事也。       もふけるをせん市向ふみづ仕懸け〟    ☆ よしふじ うたがわ 歌川 芳藤    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p155(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇真薦の馬に毛が生える・芳藤画   〝七月、板橋宿手前、滝の川三軒家百性、種屋友次郎家ニて、真薦の馬へ毛の生し一件     是ハ去年七夕ニ備へ候真薦の馬を、家根へ上ゲ置候処ニ、今度是へ馬の毛生じて、引抜候ニ肉付候由、    見物人多く参り候ニ付、箱ニ入金網を張置て、仕廻置候よし、山師共買ニ参り候得共、売不申よし、地    頭御先手頭野馬忠五郎殿、七月廿四日見分ニ参り、右馬ハ屋敷ぇ預り置候よし。        練馬の大根種は生れども          真薦の馬がはへし評判     右之一件、七月下旬ニハ霊岸島、田中鉄弥と申者、右評判記を出板致し、売出し申候、又国芳弟子ニ    芳藤図ニて、左り甚五郎作の馬の生て野ニ出し処の壱枚絵出ル也。       右、真薦の馬ニ毛の生し次第之書ハ     頃ハ嘉永三戌年七月、王子滝野川村百性友次郎と申者、常/\神仏を記念致し、例年之通聖霊棚きれ    いニ餝り、灯明を上ゲ候処ニ、十四日夜明ヶ方、夢中ニ馬の鳴声を聞付て、友次郎目を覚し辺りを見廻    し候へ共、何の子細も無之、夫より身を清めて仏前を拝し見るに、不思儀(議)成哉、真薦草ニて作りた    る馬に生るが如く毛はへ候、家内之者奇異の思ひをなし、夫より隣家之者始メ村役人立合、地頭処ぇ訴    候処、御地頭様御見分之上、右馬ハ友次郎ぇ御預ケニ成候、誠ニ世に珍らしき事共也。         真薦馬、丈ヶ四寸五分、長サ七寸余        これハ真こも馬だといへば趙高笑ひ顔        腐れてはへたといわれては馬らなひ     右馬の画、板元ハ本郷四丁目、絵双紙屋丹波屋半兵衛ニ而、芳藤の画也〟    ☆ よじべえなだ 与次兵衛灘    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p115(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」      〝五月中旬、日本橋元大工町三河屋鉄五郎板元ニて、国芳之画三枚つゞき、真那板ヶ瀬与次郎灘之図、豊    臣太閤、肥前名護屋引返し之処、長門下之関ニて大難船、毛利家の船ニ助られし処の図、国芳筆をふる    ひ候得共、余り人が知らぬ故に売れず〟
   「豊前国与次兵衛灘之図」 一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)    ☆ よしわら 吉原    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p100(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇禿・新造の花見    〝新吉原町禿新造、花見通るなり、花やかにてきれいなる事なり、昨年の春初て出しより、当年も又々出    るなり、道筋、蔵前通りより藤堂御屋敷前へ出、大通りより御成道へ出、夫より上野花見也〟     ☆ よしわら しょうしつ 吉原 焼失    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p549(藤岡屋由蔵・天保六年(1835)記)   〝二月廿一日夜、新吉原角町より出火、残らず焼候也、三月浅草広小路門跡裏門前ぇ仮宅、八九月頃迄出    候也〟    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p45(藤岡屋由蔵・天保八年(1837)記)     〝十月十九日、朝六ッ時、新吉原伏見町より出火して、廓中残らず焼失也、五十間道と京町の名主残る也〟    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p601(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)    〝十二月五日、暮六ッ時より、新吉原京町弐丁目川津屋鉄五郎宅より出火致し、廓中残らず大紋迄焼失、    五十間道少々残る也、      けふ待て逢ふた間もなく焼出され   本由       もふ是からは女郎川津や          きのふ迄のめやうたへや京は火事   栗喜       これでは女郎うらず川津や〟     〈仮宅は翌弘化三年八月五日まで〉    ◯『藤岡屋日記 第九巻』p473(藤岡屋由蔵・文久二年年(1862)記)   ◇吉原焼失 p473   〝戌ノ十一月十四日、夜六半時出火  新吉原京町壱丁目 丸亀屋ゑひ裏店にて 文蔵店    判人清助居宅より出火    廓中不残焼、京町壱丁目北之隅にて、三軒計残り、西之隅にて壱軒半計残る也。    大門焼、外五十軒焼、夫より田町へ壱丁余焼出す。                     新吉原京町二丁目 大黒屋藤助抱遊女                     新御番頭山名壱岐守家来 堀内宗兵衛娘みの事 吾妻戌十七歳     十一月十四日夜出火    右之者住替中に付、同所文蔵店清助方に罷在候内、諸事不手当に付、右を不心能存、右清助居宅二階ぇ    附火致し候故、御召取に相成候よし。      戌十一月十四日     吉原ヶ様に間も無之、度々焼失は家根や常吉祟りとは申ながら、三ヶの津にも珍しきことゆへに、      身は吾妻けふ(京)よし原に致すとは難波ともあれ罪に逢ふさか〟    ☆ よしわら とうろう 吉原 灯籠(玉菊灯籠参照)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p533(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   ◇玉菊灯籠   〝七月、新吉原、例年之通玉菊が追善之灯籠、当年は大仕掛にて、芸州宮島の風景、大門の内に鳥居を建、    中の町廻廊にて、水道尻は拝殿也、同揚屋町は京都清水観音舞台景也     吉原に宮島の景を移す前に 船を繋(ウカ)べて客を乗す      多くは皆芸州の湊入込 終は身上灯籠の如くになる       清水の地主の桜と詠むれど       冬枯時は同じ柴かな〟         ◯『藤岡屋日記 第三巻』p172(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝(七月)新吉原灯籠も、始めは評判悪敷候処、盆後替りて至て評判宜敷、中にも江戸町一丁目分、中の    町茶屋若水屋常七灯籠、忠臣蔵初段より十一段目迄残らず小く致し拵る也、亭主常七の作にて大評判な    り。次に京町一丁目分、中の町小竹屋彦兵衛たぬき茶の湯の作りもの、是も評判なり、其外、盆後の灯    籠至て評判よし〟      ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇吉原灯籠番附(作品名のみ。制作出展した店名は省略) p146   〝戌六月晦日より七月十五日迄 新吉原灯籠之番附     大門入右側江戸町一丁目         軒灯籠竹取物語図  ギヤマンの灯籠  釣りもの養老の滝  同絵合人形雪見の図       釣し物四季見立て  同深川八幡    同牛若十二段     大門入左側同二丁目分          伊勢物語兵庫屋の絵 筒井筒業平    井筒姫の図     江戸町一丁目入口    義経千本桜人形     同続、揚屋町木戸際迄         三河八ッ橋図    十六むさし見立て うちはおしゑ  浄るり外題   二幅対懸物     同右側揚屋町木戸より京町一丁目木戸迄   浅草寺境内図  三保の松原体  江戸名所図     同二丁目入口      昔し咄し見立てぢゝ・ばゝ     同続、角町木戸際迄   軒灯籠 名所尽くしの見立     同左側角町木戸先    内灯籠 向じまの景    内灯籠・軒灯籠・絹張武者・硝子細工・竹細工・善尽美尽・家毎に提灯・ぼんぼり十二三宛、花やかな    る事いわんかたなし〟     ◇吉原灯籠(作品名のみ。制作出展した店名は省略) p152   〝七月十五日より三十日迄 新吉原灯籠二の替り番附     大門入右側江戸町一丁目         内灯籠書画会のてい  同三井寺さくらつりがね班女       軒灯籠釣物角灯籠押絵 同額行灯島原の画    同釣り芝山二王境内図       内灯籠顔見世     同屏風へ鶴岡の画切ばり     江戸町二丁目入口            軒灯籠不破名古や押絵 通天閣の図       両国涼みの体  おしゑ五人男の見立       釣しものすわこ水   宇治川戦陣の体人形二つ 和藤内虎狩の体     同続揚屋町木戸際迄       釣しもの吉原古画の図 内灯籠春日見立     軒灯ろう廿四孝御殿場  和藤内       鉢の木最明寺どの   三幅対             同右側 揚屋町木戸より京町一丁目迄       軒灯ろう花車     遠見の画        紅葉の画    懸物三幅対       大津絵        秋の七草        切込灯籠            大門入左側二丁目分    軒灯籠秋の野虫籠釣しもの     同二丁目                    軒ギヤマンつるし一つ くす玉釣し  くじら汐ふき  両国見世物       軒灯籠釣し 蘭丸・光秀人形 八文嶋の体  梅やしきの体  床の間三福対  十二ヶ月見立     同続角町喜木戸際迄       軒灯籠桃太郎     天拝山図   秋の七草    軒灯籠三幅対  妹背山の段       内灯籠狐子わかれ   軒灯籠三幅対 ほたる狩体     同左側角町木戸より先       内灯籠鎌倉御所    忠臣蔵三段目 瓢簞棚人形   髪ゆい床    国姓爺紅流       廿四(以下字を欠く)    右之外、種々の灯籠有之候〟    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p129(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   ◇吉原灯籠    〝七月、新吉原灯籠【六月晦日より七月十四日迄】十弐日間    中の町、江戸町壱丁目、二丁目分茶屋、両側残らず軒灯籠絹張にて、絵兄弟見立、同右側揚屋町木戸際    迄、四ッ目垣に切子灯籠、同左側角町木戸際迄三面絵合、左側角町木戸より先銘々内灯籠色々在、右側    揚屋町木戸より京町壱丁目木戸迄、軒灯籠伊加保八景なり。     同七月十五日より二の替り灯籠    江戸町壱丁目・二丁目分、両側家別にて人形の類ひ多し、同町続き揚屋町木戸際迄、軒灯籠縁日商人尽    し之見立之処、吉原も不景気にて、家台見世を茶屋にて出し候との大不評判也。    其外、硝子細工、竹細工、人形等有之〟    ☆ よしわら にわか 吉原俄     (「にわか」の項参照)    ☆ よせ 寄席    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p245(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)    ◇寄席・講釈場禁制    〝二月十四日より寄場・講釈場御禁制なり、江戸中二百十三軒之内十五軒御免に成、三十五年以前之寄は    残し、三十四年以後は取潰す也、但し、女浄瑠理は不及申、鳴物音曲は不相成、軍書講談・昔噺し計、    十一日に江戸組々取締懸名主御呼出にて、遠山左衞門尉様御番所にて申渡之〟    〈寄席が元通りになるのは弘化元年十二月二十四日のこと〉    ☆ よたか 夜鷹    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p460(藤岡屋由蔵・弘化元年(1844)記)    ◇夜鷹繁昌    〝十一月廿七日、今晩より両国ぇ夜鷹五人初て出る也、大繁昌にして五十文宛なりとの評判也。尤出るに    は諸方ぇ付とゞけ百両も懸りしよしなり、其後采女が原ぇも出る也〟    〈弘化二年十月二日の記事にもこの夜鷹記事あり。参照のこと〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p558(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   ◇すわり夜鷹   〝十月二日夜より、深川八幡表門前、川向あひる居見世有よし、跡ぇさゝやかなる仮家を作りて、すわり    夜鷹と唱し、遊女七人出る也、花代百廿四文也、是切見世の真似故に居り夜鷹と唱し、勤は廿四文にて、    外に百文は客より相対にて貰ふ由、右久々にて出し故に珍らしく、殊之外繁昌致し、右場処賑ひて法会    之如く、諸人群集致す故に往来ぇは商人迄出る也、右に付、是にて故障も無之に於ては切見せに致し候    積り之処、惜しい哉、纔に三日にして、同四日表向之御沙汰は無之候得共、御仁政を以、内々取払申付    る也、四日昼八ッ時に取払也。    但、天保十三寅年三月御改正之後は、所々隠売女は厳敷御法度に相成候に付、弘化元辰年十一月廿七日、    初て本所吉田町増田屋千太郎と申者、両国橋へ夜鷹を五人出せし処、大繁昌にて五十文宛にて売る也、    此時の川柳に      太刀の鞘両国で売はじめ〟    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p105(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝去午年(弘化三年)夏頃より今川橋へ夜鷹五人計出で、群集致す也。此頃は新シ橋・和泉橋辺へひつぱ    りと云歳間女出で、客に逢て相談を致し、宿ぇ連行、泊る也、つとめ金弐朱也、是地獄也。      地獄とはいへ共鬼はおらずして       迷ふ男を救ふ女菩薩〟    ☆ よどがわ とみごろう 淀川 富五郎      ◯『藤岡屋日記 第二巻』p181(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記)   ◇瀬戸物細工・貝細工    〝【浅草念仏堂】曽我両社開帳 七月朔日より    瀬戸物細工 牛若弁慶五条橋  樊噲門破り 鬼の念仏藤娘 笑ひ大黒 茶の湯座敷    貝細工   貝細工人 淀川富五郎 人形師和泉屋五郎兵衛          【俵藤太遊女】大蛇に百足【凡十間余前手すり 五条橋】          大原女草苅 雀竹 色遊 其外鉢植二十品    見世もの大評判、其外に    太刀持 子供刀持 神事さゝら獅子 糸細工 空乗大曲馬 小人島足長島 目出太郎 狐娘 角乗    人形 刀持〟
    「かゐさいく」 貞幸画(早稲田大学・古典籍総合データベース)