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『藤岡屋日記』【や】☆ やくしゃ 役者 ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記) ◇歌舞伎役者の処罰 p264 〝四月二日、南番所にて、市川海老藏、本名は成田屋七左衞門、手鎖に相成る、是は格別に奢に依て也。 右に付、木挽町芝居大入之処、休に成也 〝同十日、中村歌右衛門、相撲見物して預けに相成也〟 〝同十四日、市村羽左衞門・板東彦三郎・嵐吉三郎・中村歌右衛門、御呼出し有之。北、遠山佐衞門尉様 御白州にて、素人と立交り申間敷段、被申渡候〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p289(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記) ◇沢村宗十郎・尾上梅幸御咎 〝九月十九日、哥舞伎役者 宗十郎 梅幸 御咎 右は編笠冠り候様兼々申渡置候処、木挽町芝居ぇ罷出候役者之内、右両人編笠失念致し、冠り不申候に 付、吟味中手鎖之処、同日過料三〆文ヅヽ被申付〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十四年(1843)記) ◇板東秀佳逮捕 p317 〝二月二十七日、猿若町にて板東秀佳、女湯に入て召捕る也、湯屋の亭主も召捕る也〟〈六月廿一日、秀佳・菊二郎・藤蔵、鳥居甲斐守より過料三貫文に処せらる〉 ◇中村富十郎三ヶ国追放 p324 (三月、歌舞伎役者中村富十郎(四十一歳)、家屋・名石園庭・茶道具に贅を尽くし、名筆名画を収集す る等の奢侈のため、居宅取り崩し地面取り上げのうえ摂津・河内・和泉の三ヶ国追放の刑に処せらる) 〝右富十郎は若女形名人にて、中村松江と名乗候節、先頃江戸表へ参り、評判宜敷三四年罷在、文化十三 年秋、名残狂言所作相勤上京致し、其後古人富十郎名跡を継、富十郎と改名致し、極上上吉千両余之立 者に相成候に付、自然と奢侈増長に及、此度御咎めに相成申候〟☆ やくしゃえ 役者絵 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p239(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記) ◇役者の紋所禁止 〝十二月(女髪結いの渡世を禁ずる)〟 〝櫛笄又は手拭其外之翫様之物に、歌舞伎役者之紋所付候義、是又風俗之妨にも相成 候間、以来は右様之品々、役者紋付候義堅致間敷候〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記) ◇役者似顔絵禁止 p271 〝天保十三寅年五月飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図 役者似がほ ニて御手入之事 去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛 門板元ニて、国芳 之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し 売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原 天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国 の画ニて是も売る也。 右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七 人三貫文宛過料、 画師豊国 事、庄蔵、国芳 事、孫三郎なり。 六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟〈この二つの役者似顔絵、「飛騨内匠棟上ゲ図」(国芳画・伊賀屋板)と「菅原操人形之図」(豊国画・古賀屋板)に関 して、曲亭馬琴が次のような記事を残している〉 (天保十三年九月二十三日付、殿村篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-10)⑥50) 〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ 成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改を不受して売出し候所、其 絵ハ人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有 之候間、役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ被預ケ 候由ニ候。又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞台姿ニ 画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ絶板せ られ候由聞え候。いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々敷事ニ 存候。是等の犯人、合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然るに、さ る若町の茶屋と、下丁成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売出し候。 是ハ江戸絵図の如くニ致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観音抔を遠 景ニ見せて、人物ハ無之候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度を守り、 後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事を せし故ニ、罪を蒙り候。此度出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候ハヾ買取 候て、後便ニ可掛御目候〟〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きた る」図とは、その板元名から『藤岡屋日記』の国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と豊国(国貞)画の「菅原操人形之図」 に相当すると考えられる。しかし、藤岡屋記事の方は「役者の似顔ニ致し」たのが処分理由であり、馬琴の書翰にい う「似顔ならねど」「役者絵に紛識」故の絶板処分とはちがっている。とりあえず、双方の記事に信を措いてみると、 『藤岡屋日記』の「飛騨内匠棟上ゲ之図」と馬琴書翰の「飛騨番匠棟上の図」とは別ものと考えられる。馬琴のもの は、禁制の役者似顔をやめ入木して頭を直し紋所を入れたものであった。つまり似顔絵仕立ての原画が存在すること になる。それは『藤岡屋日記』が記す五月に手入れに遭い板元・絵師ともども過料を命じられた「飛騨内匠棟上ゲ之 図」であろうか。しかしそうだとすると、似顔絵仕立ての「飛騨内匠棟上ゲ之図」とその自主規制版である「飛騨番 匠棟上の図」とがそれぞれ処罰されたことになる。五月、似顔仕立てに対して処分が下ったのち、こりずにまた入木 して異版を出す、それが三日も経ずしてまたもや絶板処分である。いかに「こりずまニ、小利を欲」する板元だとし てもそんな危険を冒すであろうか。いずれにせよ、馬琴記事と藤岡屋記事との関係については、後考に待ちたい。と ころで、幸いなことに、似顔絵仕立ての画が残されているので、画像を引いておく。ただ、画題は藤岡屋の記す「飛 騨内匠棟上ゲ之図」ではなく「飛騨匠柱立之図」である。それで、藤岡屋由蔵が「柱立之図」を「棟上之図」と書き 誤ったとする説もあるのだが、これまたよく分からない。ともあれ豊国画の「菅原操人形之図」の方も役者絵に紛ら わしいという理由で、即刻絶版になった。役者似顔絵にとって、受難の時代がなお続く、九月下旬になると、英泉画 の「猿若町両芝居之図」が館市右衛門の改めを通して出回るようになったが、これは人物像のない「江戸絵図」のよ うな芝居図であり、依然として役者絵の出版に関しては警戒すべき状況が続いていたのである。参考までに、英泉の 「猿若町芝居之略図」(大々判錦絵、板元、中野屋五郎右衛門・三河屋善治郎、文花堂庄三郎)も併せてあげておく〉
「飛騨匠柱立之図」 一勇斎国芳画 (ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」データーベース)
「飛騨匠柱立之図」 一勇斎国芳画 (Kuniyoshi Project「Comic and Miscellaneous Triptychs and Diptychs, Part I」に所収)
「猿若町芝居之略図」 渓斎英泉画 (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵) ◇役者似顔・遊女芸者絵の禁制 p275 〝六月、役者似顔、遊女芸者類ひの錦絵 ・合巻・草紙 の類御法度被仰出之〟 ◇町触 p276 〝六月四日 町触錦絵 と唱、哥舞妓役者・遊女・芸者等を一枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候ニ付、以来開板ハ勿論、是迄仕 入置候分共、決而売買致間敷候、其外近来合巻と唱候絵草紙之類、絵柄等格別入組、重ニ役者の似顔、 狂言之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等粉(ママ)色を用、無益之義ニ手数を懸、高直ニ売出候段、如何之義 ニ付、是又仕入置候分共、決而売買致間敷候、以後似顔又ハ狂言之趣向等止、忠孝貞節を取立ニ致し、 児女勧善之為ニ相成候様書綴、絵柄も際立候程省略致、無用之手数不相懸様急度相改、尤表紙上巻(包 ?)も粉色相用候義、堅可為無用候、尤新板出来之節は町年寄ぇ差出改請可申候。 但、三枚続より上之続絵、且好色本等之類、別而売買致間敷候〟 ◯『藤岡屋日記 第五巻』p238(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記) ◇役者似顔絵出回る 〝嘉永六丑年三月、当時世の有様 錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず候処に、少々緩み、去年東海道宿々に 見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、 益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛に商ひ候より御手入に相成、板木を削れ ら候仕儀に相成候〟〈「去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致 し候」とあるのは、三代目歌川豊国の「東海道五十三次の内(駅名)(役名)」という形式の標題をもつ作品群をい うのであろう〉
「東海道五十三次内 まり子 田五平」 三代目歌川豊国画 (東京都立中央図書館・東京資料文庫所蔵) ☆ やながわ いっちょうさい 柳川 一蝶斎 ◯『藤岡屋日記 第五巻』(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記) ◇平河天神、開帳 p82 〝麹町平川天神、二月廿五日より六十日の間開帳、十日之日延にて四月五日迄開帳也。 天満宮神影、御真筆神影。 右開帳に付、作庭三ッ出来、□(ママ)納金・四神剣・発句れん、外に額種々有之、本哥之類も有之、境内 に曲馬、柳川一蝶斎 手妻、大坂下り鉄割藤吉、同伜音吉、足の□(ママ)、両国より当処へ出る也〟☆ やば 矢場 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p271(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記) ◇楊弓場女禁制 〝所々楊弓場女御法度、并水茶屋に若き女御法度、五十以上の女は御構なし。 楊(陽)弓場淫(陰)物けッして御差留 水茶屋へ水沢山をよせといゝ〟☆ やまぶし 山伏 ◯『街談文々集要』p80(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序) (「文化四年(1805)」記事「不動尊開扉」) 〝文化四手卯二月廿二日、快晴、幸手宿不動尊、回向院にて開帳着、講中と号する者、幟を持、鈴・鐸・ 杖・螺貝の類、凡人数千人余、行列ハ先供大念仏ニて、六七町程つゞく、其跡装束の山伏数十人、二行 ニ列す、其跡に黒塗に箔置たる斧をかつぎたる山伏二十余人、螺貝を吹く山伏八九人、次に厨子、神宝 等、其跡不動院乗輿、伊達道具二本、打物、供養の山伏大勢、中にハ異形の出立もあり、又壱人乗輿、 其人数幾千といふ事なし、近来是迄賑わしき開帳の江戸入りなし。 右開帳に大護摩と号し、竹矢来の内に火を起し、山伏大勢火焔の上を素足ニて渡り、是前代未聞の事と て、見物群集し押合、弥が上ニ重り、或ハ開帳場の屋根ぇ上り、乱妨夥敷、武家方の老女此ために踏殺 さるゝ、依之右火わたりの事、御吟味になり、暫開帳相止ム。 (以下「不動院行列略図」等、略)〟