Top           浮世絵文献資料館            藤岡屋日記Top     
                 『藤岡屋日記』【し】    ☆ シーボルト事件    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p421(藤岡屋由蔵・文政十三年(1830)記)   ◇シーボルト事件落着   (高橋作左衞門一件、文政十一年十月十日 揚屋入り    同十三年三月廿六日、落着    御書物奉行天文方兼    高橋作左衞門 存命に候得ば死罪    作左衞門惣領 天文方見習 高橋小太郎  遠島〟    ☆ しかがり 鹿狩り    ◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇小金原鹿狩り p331   〝三月十八日、昨夜九ッ時之御供揃にて、小金原ぇ為鹿狩被為成〟    〈嘉永元年九月、貞秀画「富士の裾野巻狩之図」参照。p245〉     ◇三月、小金原鹿狩り p451   〝嘉永元年申年江戸咄    (上略)    牧狩絵図の山が当り、小金処か大金もふけ、太閤吉野ゝ花見の図、先年出せし其時ハ、板元咎めを受し    よし、此度出板改なく、障りもなけれバ売れもせず〟    ☆ しげひさ 重久    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p206(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   (記事は嘉永三年のものだが、英泉画の琉球使節の番付の出版は天保十三年(1842))   ◇琉球人参府、番付一件   〝十一月、琉球人行列付、一件之事                  北八丁堀鍛冶町新道      願人               品川屋久助                  芝神明前      相手               若狭屋与市     右番附ハ、先年天保十三寅年十一月参府之節ハ、神明前丸屋甚八板元ニて英泉画出板致し候処ニ、此    度ハ同処若狭屋与市、薩州屋敷へ願ひ、重久画にて出板致し、十月晦日琉球人到着の日ニ御免ニ相成売    出し候(以下略)〟
   「琉球人行列附」 歌川重久画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    ☆ しばい 芝居    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p228(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記)   ◇三芝居移転    〝(十一月)三芝居ぇ被仰渡候条    此度市中風俗改候様御趣意有之候処、近年役者共芝居近辺に住居致し、町家之者同様立交り、殊に三芝    居共狂言仕組甚猥に相成、右に付自然市中ぇ風俗押移り、近年別て野鄙に相成、又は流行之事抔多くは    芝居より起候義に付、依て往古は兎も角も当時御城下市中に差置候ては御趣意にも相戻り候、一躰役者    共義は身分之差別有之候処、いつとなく隔も無之様に相成候は不取締之事に付、此節堺町・葺屋町両狂    言座并操芝居、其外右に携候町屋之分不残引払被仰付、乍併弐百年来居付之地相離難候者、品々難義之    筋も可有之に付、相応手当可被下、替地之義は取調べ、追て可及沙汰、木挽町芝居之義は追て類焼又は    普請大破に及候節、是又引払可申付候間、兼て其旨可存、尤権之助狂言座之義は来春興行相始候共、仕    組方役者共猥に素人に不立交候様、取締之義も厚く心得可申事〟   〝〈替地について、十二月十八日、水野越前守殿より町奉行への書付〉    (前略)     替地之義も浅草今戸聖天町近辺にて可成丈ヶ一纏に可相成場所取調、可被相伺候、尤木挽町芝居之儀も    追て類焼致候哉、普請大破に及候節、為引払候間、其心得を以替地取調可被申聞候、且又芝居に携り候    町家之義も入替致候積もり、地坪并御手当金之義取調可被申聞候、(以下略)〟   〝十二月    堺町中村座・葺屋町市村座両芝居、引払被仰付、浅草にて替地被下、引料金五千五百両被下。    右廿九日に厳敷被仰渡候〟    〈翌十三年正月十一日、中村座及び市村坐へ沙汰あり、替地は小出伊勢守下屋敷、一万七十八坪。二月     朔日、千四百二十二坪追加、そして、四月廿八日、町名を猿若町とする旨の申し渡しあり〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)       ◇市村座看板上がる p283   〝(七月)猿若町一丁目操人形大薩摩坐、第一番に普請出来也。市村坐も建也、七月十六日に看板上る也〟     ◇市村座興行 p290   〝九月廿七日、市村坐芝居普請出来に付興行、狂言伊賀越也〟    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十四年(1743))   ◇河原崎座移転 p317   〝去暮、木挽町河原崎座芝居、浅草猿若町三町目ぇ引地に相成候て、当正月中より地形に取懸り、役者共    大勢人夫に出るなり、夫に付て見物群集致す也〟     ◇河原崎座移転後初狂言 p336   〝五月五日    猿若町三丁目、此地ぇ河原崎座引ヶて初日狂言天神記と忠臣蔵、朝より終日迄幕なく、廻り舞台大仕掛、    尾上菊五郎工風にて大評判大当り、菊五郎、勘平の役にて持出候鉄炮、誠の鉄炮哉と御糺之処、同人手    細工、紙にて張貫候に付相済候、天神記菅丞相の装束、是も手細工之由に候得共、余り手数懸り候に付、    過料三貫文にて即日落着相済候。     但、三芝居共此地ぇ引、諸事下直に可致旨被仰渡、土間割壱人四匁、弁当九分、外に何品にても取候     餅菓子の類、都て七分宛也〟    ☆ しにせ 老舗    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p550(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   ◇名代の老舗、没落   〝(八月記事)    上野御成街道にて、亀屋の柏もち・鴻池の鯉こく    両家名代なりしが、亀屋は当春つぶれ、家作は六十両余に売渡し、跡万屋清八と云小間物びん付油屋に    に成る      繁昌はいつもかわらぬ御成道        亀屋の跡が又も万せひ    御成道角、鴻池又三郎は当所は百余年住居せし居酒屋にて、鯉のこくせう名代にて、此辺の番所帰りに    は是非共当家の鯉こくを出さねば、馳走にならぬ様に思ひしとなり、然る処近年おとろへて、当秋は天    麩羅屋へ五十七両三歩に売物に成也      龍門の滝へものぼる鯉こくの        天上したか今は天麩羅    其節、御成道ぇ三人の見世出し、何れも裏店横丁より出て出世也、紙屋徳八は唐人舘横丁より出、三河    屋喜左衞門は山城屋又三郎裏より出、本屋由蔵は市野屋三郎兵衛裏より出る也、此節評判に、      御成道見世出し三幅対       天地人に見立評判記 本由作       裏の天下の 天  天麩羅        天麩羅もかせぎ出して金麩羅の         山吹色がふゑて喜左衞門       頓て地主と成 地  かみ徳        かみ徳の恵みに金も貸本や         今はしよりんの問屋株也       小人の 人  本由        月花の永き詠も板庇し         今は本屋となりて由蔵〟    〈本由こと本屋由蔵は『藤岡屋日記』の記者・藤岡屋由蔵。上野御成町への出店は弘化二年(1845)の八月であった〉    ☆ しゃりんとう 車輪糖    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p124(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝二月中旬之頃より、宝おこし・車輪糖売来る也、初日には大勢揃て来る故立派也、売人の形は半天股引、    半天の背に源氏車朱にて付、惣地茶色宝尽しの中形、傘一ぱいに車を付、身ぶり致しながら売歩行、其    せりふに     夢の浮世に夢見てくらす、天道様は毎日東から西へ廻る、兎角しんぼがかんじんだ、くる/\廻りの     よいのは車輪とふ、宝おこしが来たわひな    同時に雷おこし売出る也、但し形は半天脚絆、黒雲に稲光、傘同断、太鼓の形の箱に菓子を入、荷ひ来    り、せりふに     三国一の観世音、日本一の大開帳、浅草名物かみなりおこし、雷よけにおかひなさひ    但し、三月十八日より浅草観音開帳ゆへに、このせりふなり。    車輪とふくる/\廻つて歩行ても(一字ムシ)銭がまわりてかふ人もなし      雷がごろ/\さわぎあるひても       へそくりぜにのとらるゝもなし    然れ共車輪とふのおのがせりふにも、しんぼが大事と云ひて、毎日/\くる/\廻ても売れないには、    しんぼも出来ず、雷おこしもとろ/\となり、歩行ても日本一の開帳の六十日もしんぼも出来ず也〟    ☆ しゅせん 酒戦    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p179(藤岡屋由蔵・文化十二年(1815)記)   〝文化十二乙亥年十月廿一日    千住壱丁目中屋六右衛門が家にて六十年賀酒呑くらべ有之     (中略、酒量と氏名あり)    此席に亀田鵬斎・谷写山抔招れて見物せし也、是を新酒戦水鳥記と云。大田蜀山此事を聞、狂歌有、其    の詞書に     地黄坊樽次と池上某と酒の戦ひせしは慶安二年のことになん、ことし千寿の和たり、中六ぬし六十の     賀に酒戦を催せしときゝて、      よろこびのやすきといへる年の名を本卦がゑりの酒にこそくめ〟     〈本HP「浮世絵事典」の「酒戦」参照。「水鳥記」の「水鳥」は「さんずい+酉(鳥)」で「酒」の意味〉    ☆ しゅっぱんとうせい 出版統制    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇懸り名主・絵双紙屋への通達 p158   〝七月十七日、通三丁目寿ぇ絵双紙懸名主八人出席、絵双紙屋へ申渡之一条     去ル丑年御改革、市中取締筋之儀、品々御触被仰渡御座候処、近来都而相弛、何事も徒法ニ成行候哉、    畢竟町役人之心得方相弛候故之義と相聞候旨御沙汰ニ而、此上風俗ニ拘り候義ハ不及申、何ニ不限新工    夫致候品、且無益之義ニ手を込候義ハ勿論、仮令誂候者有之候共、右体之品拵候義は致無用、事之弛ニ    不相成様心付、其当座限ニ不捨置様致世話、此上世評ニ不預、御咎等請候者無之様、心得違之者共ハ教    訓可致旨、先月中両御番所ニ而、各方ぇ被仰渡御坐候由、絵(一字欠)之義ハ前々より之御触被仰渡之趣、    是迄度々異失不仕様御申聞有之、御請書等も差出置候処、近来模様取追々微細ニ相認候故、画料・彫工    ・摺手間等迄差響、自然直段ニも拘、近頃高直之売方致し候者も有之哉、右ハ手を込候と申廉ニ付、勿    論不可然、銘々売捌方を競、利欲ニ泥ミ候より被仰渡ニ相触候義と忘れ候仕成ニ至、万一御察斗(当)請    候節ハ、元仕入損毛而已ニハ無之、品ニ寄、身分之御咎も可有之、錦絵・草双紙・無益之品迄取締方御    世話も被成下、御咎等不請様、兼而被仰論候は御仁恵之至、難有相弁、此上風俗ニ可拘絵柄は勿論、手    を込候注文不仕、篇数其外是迄之御禁制(二字欠)候様、御申論之趣、得と承知仕候、万一心得違仕候    ハヾ、何様ニも可被仰立候間、其印形仕置候、以上     錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申    間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三    寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵而已ニ而は売    捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候而は難渋可仕義と、    差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下    候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来    之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は    源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人    之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有    之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者    之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候而は、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通    相心得、草稿可差出候〟     〈天保十二(丑)年以来の改革で強化した市中取締に緩みが生じているので、「改め」を行う名主と絵草紙屋に対して、     もう一度趣旨を確認し徹底させようという通達である。時の風俗に拘わる絵柄は勿論、彫り・摺りに手間のかかる高     直のもの、そして是まで禁制であったもの、これらを再度禁じたのである。そのうえ万一おとがめを受けた場合には     原材料の損ばかりでなく、身分上の処罰も覚悟せよという圧力まで加えた。文化元年(1804)五月、錦絵・一枚摺に和     歌の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外の詞書きを禁止。天保十三年六月、歌舞     伎役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが生じた板元達は銘々工夫して、詞書き入     りの狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言わず「踊形容」として、手心を加え許可     したところ商売が持ち直しのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また緩み始めた。特に武者絵の緩みは甚だし     く、天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、それらと紛らわしいものが出始め、伝     記絵に至っては、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将・勇士に擬えるのものまで出回ってい     る。もっと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、国芳・貞秀・芳虎等によって画かれ     ている。いうまでもなく、この通知は、こうした出版動向と改め名主の緩みに対する牽制である〉    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇大筒一件 p170    〝八月八日 通三丁目寿ぇ絵草紙懸り名主八人出席致、市中絵草紙屋を呼出し、大筒一件之書付を取也。     大筒之狼烟相発候傍ニ、驚怖之人物臥居候体之錦絵、内々売々(買)致候者は勿論、彫刻并ニ摺立候者    有之哉之旨、厳重之御尋ニ御座候、前書被仰含候絵柄之義は、市中ニ験(ママ)類に携候者共、蜜々精々探    索仕候得共、決而無御座候、何様押隠取扱候共、私共不存義ハ無御座候処、右図柄ニ限り及見聞候義無    御座候、若向後見聞仕候ハヾ早々可申上候、外より相知候義も御座候節ハ、何様ニ被仰立候共、其節一    言之義申上間敷候、為後日御請印形仕置候、以上。                            絵草紙屋糶       絵草紙懸名主                     廿四人        佐兵衛殿初                       印        同外七人 名前    一 八月三日、通三丁目寿ニ於て、町方定廻り衆二人出席有之候て、絵草紙屋を呼出し御詮義有之候ハ      富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画出候ニ付、御奉      行よりの御下知ニて買上ゲニ参り候よし申され候ニ付、懸り名主より絵草紙やを銘々吟味有之候処      ニ、一向ニ手懸り無之候ニ付、右之由申上候。    一 是ハ先達浦賀表ニ而、大筒のためし有之、其時出役之内、石河土佐守・本多隼之助両人、三拾六貫      目大筒の音の響にて床机より倒れ気絶致し候由の噂、専ら街の評判ニ付、右之画を出せしよし。    一 然ル処、右之絵、所々を穿鑿致候得共、一向ニ相知れ申さず、見たる者も無之候ニ付、八月八日、      寿ニて寄合、前書之通、書面を取也。    一 但し、大筒ためし横画一枚絵出候よし、是ハ浅草馬道絵双紙や板屋清兵衛出板致し候よし。    一 又一枚絵ニて、大鰒の腹の下へ大勢たおれ居り候処の画出ル、是ハ大きなる鉄炮故ニ大筒なり、大      筒の響にて倒れ候と云なぞのはんじものなり、板元芝神明町丸屋甚八なり、是の早々引込せ候よし。    一 雷の屁ひりの画も出候よし、是の大筒のなぞ故ニ、引込せ候よし。         ねをきけバたんと下りて扨つよく           長くこたゆる仕入かミなり〟    〈早速改めの懸かり名主達の詮議が厳しくなった〉             ◯『藤岡屋日記 第五巻』p238(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)       ◇役者似顔絵出回る    〝嘉永六丑年三月、当時世の有様    去春より鉄棒の音ちやんから/\にて、商内もなく仕事もなくてちやんからになり、其上かんから太鼓    の流行にて、弥々身上かんからとなり仕舞候所に、当春に相なり上野の花も咲初て、毎日栄当/\の見    物出候処、今度不忍弁天の池へ新土手出来致し候とて、池の浚に相懸り候処、池の主おこり候に哉、毎    日/\の雨天、こまり候者は上野野(ママ)茶やと、相撲勧進元の伊勢海村右衛門、右之者共ぴつ/\と苦    しがり居り候より心付にて、爰に木曾の薮原より江戸表へ罷出候相模屋栄左衞門といへる櫛屋、当時堺    町に住宅致し候処に、此者お六すき櫛の出来そこなひのぴつ/\となるより思ひ付て、さくら笛と名付、    一本四文と売出し候処に、はやるまいものか、皆々ぴつ/\と苦しがり居候時節なれば、天に口なし人    を以いわしむるの道理にて、子供等是を求て人の耳元へ来り、ぴつ/\と吹て苦るしがらせ悦ぶは、去    年かんしやく玉にて人に肝を潰させ楽が如し、上の御政道も御尤至極なり、冨士講が差留られ、木魚講    がはびこり、此方は浅草観音の御花講にて、東叡山宮様の御支配にて、念仏だからいゝおかひ(ママ)とい    ふかけ声を高らかに張上げ、大木魚の布団を天鵞絨縮緬にて拵へ、是へ金糸にて縫を致し、二重に敷重    ね、信心は脇のけにて、是見よがしと大行にたゝき歩行、又師匠の花見も段々と仰山に相成、娘子供は    振袖の揃ひ、世話人は黒羽弐重の小袖に茶宇の袴を着し、大拍子木をたゝき、先へ縮緬染抜の幟を押立    て、祭礼年番之附祭り気取りにて、甚敷は種々さま/\の姿にやつし、途中道々茶番狂言を致し歩行、    往来を妨げ候故に、是も差留られ、又錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず    候処に、少々緩み、去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評    判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛    に商ひ候より御手入に相成、板木を削れら候仕儀に相成候、右之通り万事が兎角上みへさからへ(ママ)候    故、天道是をにくませ給ひて、降通し吹通しも、尤の事也。      節季候は霜をも待ず早く出て有顔見せる春に延けり     さくら笛    何廼家桜顔見    うか/\といきたかい有初さくら、今年も春のうらゝかに、日あしものびて糸遊の、曳や霞の花見まく、    花がそふか桜が呼哉、招きまねかれする中に コレハ笛で御座イ ヲイ笛屋さん、なぜ是をさくら笛と    言やす、ハイさくらが吹ますから、コレ/\花見の中で桜が吹とはわりい、花に風はさはりだろう、    イエ/\、竹細工の宇九比寿笛は梅が香こぼさず、桜が吹ても花は散りません、はてなあ。      さくら咲桜の山のさくら笛風哉いとはで吹れこそすれ〟    〈「去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致     し候」とあるのは、三代目歌川豊国の「東海道五十三次の内(駅名)(役名)」という形式の標題をもつ作品群をい     うのであろう〉
   「東海道五十三次内 まり子 田五平」三代目歌川豊国画(東京都立中央図書館・東京資料文庫所蔵)    ☆ しゅんが 春画      ◯『藤岡屋日記 第十三』p465(藤岡屋由蔵・慶応二年(1866)記)   ◇春画、パリ万博出品   〝三月廿三日 町触     今日拙者共、北御番所ぇ御呼出し有之、罷出候処、今般仏国博覧会ぇ御差出しニ相成候品之内、近世浮世    絵豊国、其外之絵ニて極彩色女絵、又ハ景色にても絹地へ認候巻物画帖之類、又ハまくらと唱候類ニても、    右絵御入用ニ付、売物ニ無之、所持之品ニても宜、御買上ニ相成候義ニは無之、御見本ニ御覧被成度候間、    早々取調、明後廿五日可差出旨被仰渡候間、御組合内其筋商売人手許御調、同日四ッ時、右品各様御代之    衆ぇ御為持、所持主名前御添、北御腰掛ぇ御差出可被成候、無之候ハヾ、其段同刻、御同所迄御報可被成    候。     三月廿三日                                 小口世話掛      右、古今異同を著述    夫、わらい本ハ春画と言て、戦場ニて具足櫃ぇも入候品ニて、なくてならぬ品ニ候得共、若き男女是を見    る時ハ、淫心発動脳乱して悪心気ざす故ニ、此本余り錺り置、増長する時ニハ御取上ゲニ相成、御焼捨ニ    相成候、其品が、此度御用ニて御買上ゲニ相成、仏蘭西国ぇ送給ふ事、余りニ珍敷事なれバ、      母親の子に甘きゆへ可愛がり末ハ勘当する様になし〟    ☆ しゅんすい ためなが 為永 春水    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p291(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   ◇出版関係者の処罰   〝十月十六日  寺門五郎左衛門 号静軒。    一 江戸繁昌記作者、板本小伝馬町丁子屋平兵衛御咎メ、所構ニ而、大伝馬町二丁目ぇ引越ス。    一 田舎源氏作(者脱)柳亭種彦・小説(以下ママ)田舎源氏作者為永春水・南仙笑杣人二世人情本作者、      右三人当時之人情を穿、風俗ニ拘候間、以来右様之戯作可為停止、叱り、板木取上ゲ焼捨也〟    ☆ じょうきせん 蒸気船    ◯『藤岡屋日記 第五巻』(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇アメリカ船浦賀来航 p464    「海防全書 上」    〝(アメリカ合衆国・ワシントンの軍船四艘、浦賀に来航)    日本浦賀ぇ六月三日八ッ時に渡来、アメリカ王より日本大王ぇ使節之趣、是迄漂流船と違ひ、船ぇ役人    方は勿論、夫役船抔更に寄せ付不申、九日御奉行様、四家様拝謁申上候に付、書翰御受取に相成、其節    上陸人四百人計御坐候間、調練仕候処、一同目を驚し候よし。      毛唐人は抔と茶にして上喜撰 夜はうかされてねむられもせず      阿部川は評判程にうまくなし 上喜せんにはわるひ御茶うけ      日本を茶にして来たる上喜撰 安部川餅へみそをつけたり      異国船伊豆の軍と皆岩見 浦賀しつたる事にてはなし      江戸の町女唐人出来た故 浦賀の沖へアメリカが来る      唐人は早く帰つてよかつたねへ又来る迄は御間ダもあり〟    〈「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」の上喜撰は、高級宇治茶の銘柄。阿部川は当時の老中・     阿部伊勢守正弘。岩見は浦賀奉行・井戸岩見守弘道〉    ◯『藤岡屋日記 第八巻』(藤岡屋由蔵・安政五年(1858)記)   ◇蒸気船 p261   〝七月十七日、英吉利献上の蒸気船は、明十八日夕受取に相成候処、此節大樹公御不例に付、祝炮之義も    遠慮致し、少々空炮を放し候よし〟    〈「大樹公御不例」、第十二代将軍徳川家定はこの七日に亡くなっていたが、表向きは「不例(病気)」     としていた〉    ☆ じょうるり 浄瑠璃    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p230(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記)   ◇女浄瑠璃   〝(十一月廿六日、女浄瑠璃三十五人召し捕られ、家主は手鎖、席亭女子は入牢)     題娘浄瑠理狂詩    当時流行人寄場   多是浄瑠理語嬢   日夜平生棹与撥   朝暮無隙紅粉粧    坐料内々金百疋   太平仮名新六行   勤番稽古更如鼾   鼾義太夫誉如鴬    君不見一月雑用   旦那半分見透贈間夫 町内評判千本突   又言仇名万年雛    度々看触少雖隠   平均名付莫止時   売淫天罰已為廬   将是因縁地獄堕    未忘昨夜巫山雨   難歩今朝行後路   空叫非常眼泣腫   坐食握飯口猶腥    呼出吟味白州上   見物大勢伝馬町   俄誦発心観音経   頻祈父母責聖天    一把大根捧欲油   二朱死金護摩烟   堪笑復古是享保   可足栄花幾何年〟    ☆ しょくさんじん 蜀山人    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p312(藤岡屋由蔵・文政六年(1823)記)   〝文政六癸未年四月六日    大田南畝翁卒、七拾五、名覃、通称直次郎、後改七左衞門、狂歌をよくし、初四方赤良と云、蜀山人、    遠桜山人、杏花園、寝惚先生の数号あり、戯作の書数十部あり、世の知る所なり、白山本然寺葬す、先    生自ら戒名を、杏華園心逸日休居士と考へ置しとなり。    右は三月廿八日の作なりと、又辞世の句とて、     酔世(スイセイ)将(ト)夢死(ムシ) 七十五居諸(ヰシヨ)     有酒市鋪(シホ)近(チカシ)   盤餐(ハンサン)比目魚(ヒモクギヨ)     時鳥鳴つる片身初鰹春と夏との入相のかね〟    ☆ しらぬい だくえもん 不知火 諾右衛門    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p294(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   ◇不知火横綱免許   〝(十~十一月頃)両国回向院にて勧進相撲興行    肥後、不知火諾右衛門、横綱免さる也〟
   「不知火諾右衛門」 香蝶楼国貞画(香山磐根氏「相撲錦絵の世界」)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十四年(1843)記)   ◇上覧角力 p378   〝天保十四卯年閏九月廿五日     於吹上、上覧相撲     (以下、取組あり、略)〟   ◇勧進相撲 p405   〝十一月中、於回向院、勧進相撲興行有之、大関不知火、横綱免許にて、三日程負候に付、     不知火がしめか錺か橙か      けふも負たりあすも負たり〟    ☆ しんじゅう 心中    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p162(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   ◇三人娘の身投げ   (五月十日、酒屋の娘およね、魚屋の娘ちか、八百屋の娘ひさ、三人申し合わせて入水。理由は不明)   〝酒盛に娘をちよつとつまみもの魚類精進あとはどんぶり    酒魚青物なぞで流行の拳をうつゝの夢の世の中〟