Top           浮世絵文献資料館            藤岡屋日記Top                  『藤岡屋日記』【に】    ☆ にしあらいだいし 西新井大師  ◯『藤岡屋日記 第三巻』③130(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   (西新井大師開帳)   〝三月三日より三十日之間居開帳    西新井厄除弘法大師  総持寺    当寺、近年は大師河原に劣らず発向致し、江戸にも講中多く、奉納もの多し、近在村方より奉納もの多    く有之、殊之外参詣群集致し、先は当年開帳内にて大当也    千住土手より出茶屋多く、色々作りもの喰物売也、土手下り候ニ茶屋三軒在、殊ニ賑し、此処の道の左    右ニ大挑灯二ツ懸在、小目原町野田平と在、夫より凡壱里程行て総持寺門前ニ、高サ壱丈余りの大挑灯    二ツ並懸たり、材木町と在、表門の前左右、鉄の溜井手桶、本銀町川岸材木屋中の奉納也、焼もの瓦ニ    て灯籠を作り、六玉川を画き、千住河原町奉納也、内陣護摩壇一式、神団鍛冶町奉納也、其外米炭酒樽    の奉納、金銀銭等、并いろ/\の作りもの奉納多く在、際限なけれバ是を記さず、奥院ぇ行く道に、池    の彼方に猟人の人形在、池の向に大きさ凡五間程の大猪在、毛はそだ也、細工人尾村松五郎と在、当村    の納め也。本堂の脇井の上屋、彫ものは美事也、此度出来、神田蝋燭講中と在、奥院ハ是迄も有之由、    大破ニ及びし所、此度再建、施主諏訪町八百栄とあり、見世もの・おでゞこ芝居、商人多く出る也。門    前料理茶屋何れも賑はしき中にても高砂や殊に繁昌也。      大繁昌大安売の此家を        高砂屋とは誰か云ららん      商ひは今を日の出と売れる見世        其名も四方に高砂の松〟    ☆ にしかわ いさぶろう 西川 伊三郎  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p524(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)    〝此節(五月)、御趣意も段々ゆるみて、人形身振咄し吉田千四、松永町へ出る、講談咄し扇拍子、西川    伊三郎、竹本連中、上野広小路三橋亭ぇ出る也〟  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇於竹大日如来開帳・見世物   〝三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於て開帳    (中略)      回向院境内見せ物之分     操人形芝居、伊賀越道中双六・和田合戦     壱人分百八文、桟敷二百八文、高土間百七十二文、土間百五十六文     太夫(豊竹此母太夫はじめ六人の名あり、略)     人形(西川伊三郎はじめ九人の名あり、略)     三味線(鶴沢勇造はじめ四人の名あり、略)    但し人形大当り、大入也     伊勢両宮御迁宮之図  吹矢  女角力  犬の子見せ物  大碇梅吉の力持見世物 榊山こまの曲〟    ☆ にしきえ 錦絵  ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   ◇錦絵禁制、町触 p276   〝六月四日 町触    錦絵と唱、哥舞妓役者・遊女・芸者等を一枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候ニ付、以来開板ハ勿論、是迄仕    入置候分共、決而売買致間敷候、其外近来合巻と唱候絵草紙之類、絵柄等格別入組、重ニ役者の似顔、    狂言之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等粉(ママ)色を用、無益之義ニ手数を懸、高直ニ売出候段、如何之義    ニ付、是又仕入置候分共、決而売買致間敷候、以後似顔又ハ狂言之趣向等止、忠孝貞節を取立ニ致し、    児女勧善之為ニ相成候様書綴、絵柄も際立候程省略致、無用之手数不相懸様急度相改、尤表紙上巻(包    ?)も粉色相用候義、堅可為無用候、尤新板出来之節は町年寄ぇ差出改請可申候。      但、三枚続より上之続絵、且好色本等之類、別而売買致間敷候〟    ◇色摺り回数制限 p302   〝十一月 町触    絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。    但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限    り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人    抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事〟    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇懸り名主・絵双紙屋への通達 p158   〝錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申    間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三    寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵而已ニ而は売    捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候而は難渋可仕義と、    差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下    候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来    之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は    源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人    之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有    之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者    之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候而は、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通    相心得、草稿可差出候〟     〈文化元年(1804)五月、錦絵・一枚摺に和歌の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外     の詞書きを禁止。天保十三年六月、歌舞伎役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが     生じた板元達は銘々工夫して、詞書き入りの狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言     わず「踊形容」として、手心を加え許可したところ商売が持ち直しのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また     緩み始めた。特に武者絵の緩みは甚だしく、天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、     それらと紛らわしいものが出始め、伝記絵に至っては、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将     ・勇士に擬えるのものまで出回っている。もっと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、     国芳・貞秀・芳虎等によって画かれている。いうまでもなく、この通知は、こうした出版動向と改め名主の緩みに対     する牽制である〉    ☆ にしきえ こうりね 錦絵 小売値  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p302(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   〝十一月 町触    絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。    但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限    り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人    抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事〟    〈天保の改革によって様々な制限が課せられた。値段は一枚16文。なお八月に銭相場が一両6500文に定められた〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(天保十五年(1844)正月十日)   (記事は天保十五年のものだが、この貞秀画「頼光土蜘蛛」の出版は天保十四年のこと)   〝(天保十四年)の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、    絵双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋    見せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚    続百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也〟    〈これは一勇斎国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」に続いて出版された貞秀の土蜘蛛の記事。小売り値を見ると、店頭に     つるした絵(改めを経た化け物なし〉は36文(一枚12文)、密売品(化け物入り)の方は100文(一枚33文)である。     貞秀画は国芳ものより小形でこの値段である。前年、天保十三年のお触れでは「彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文     以上之品無用」であるから、如何に高価であるかがわかる〉  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(嘉永元年(1848)四月)   〝当申四月出板、南油町野村屋徳兵衛板元にて、亀々妙々亀の遊びとて、亀子を役者の似顔に致す候処、    三枚続六十文売にて、凡千通り三千枚程摺込配り候処、百五十通り、四百五十枚計売、跡は一向売れず、    残り候故無是非佐柄木町の天徳寺屋へなげしとなり〟    〈国芳画「亀奇妙々」は三枚続60文(一枚20文)〉  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p245(嘉永元(1848)年九月)   〝 嘉永元申年九月出板     右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図 三枚続之絵出板之事    抑建久四年、右大将頼朝卿富士之牧狩は、日本三大壮(挙脱カ)と世に云伝へ、其後代々の大将軍御狩有    し処ニ、御当代に至りては近き小金が原にて御鹿狩有之候処、来酉の年御鹿狩仰出され、去年中より広    き原中に大き成山二つ築立、此所へ御床机を居させ給ひ、三十里四方の猪鹿を追込せ、右の山より見お    ろし上覧有之との評判也、右ニ付、御鹿狩まがい、頼朝卿富士の牧狩之図三枚続き、馬喰町二丁目久助    店絵双紙渡世山口藤兵衛板元にて、画師貞秀ニて、右懸り名主村田佐兵衛へ改割印願候処、早速相済出    板致し、凡五千枚通も摺込、九月廿四日より江戸中を配り候処ニ、全く小金の図ニて富士山を遠く書て    筑波山と見せ、男躰女躰の形を少々ぎざ/\と付、又咄しの通りの原中に新しき出来山を築立、其ぐる    りに竹矢来を結廻し、猪鹿のたぐひを中ぇ追込ミ、右山の上に仮家を建て、此所より上覧之図、三枚続    ニて七十二文に売出し候処、大当り大評判なり。然ルニ古来より富士の牧(巻)狩之図ニは、仁田四郎が    猛獣を仕留し処を正面ニ出し、脇に頼朝卿馬上ニて、口取ニ御所の五郎丸が大長刀を小脇ニかい込、赤    き頬がまへにてつゝ立居ざれバ、子供迄も是を富士の牧狩といわず、是ハいか程の名画にても向島の景    色と(を)書に、三めぐりの鳥居のあたまがなけれバ、諸人是を向島の景なりといわざるが如し。然ルニ    頼光の土蜘蛛の怪も、一つ眼の秀(禿)が茶を持出ると見越入道ハ御定りの画也、然ルを先年国芳が趣向    にて百鬼夜行を書出して大評判を取、いやが上にも欲にハ留どもなき故に、とゞのつまりハ高橋も高見    ニて見物とは行ずしてからき目に逢ひ、これ当世せちがらき世の人気ニて、兎角ニむつかしかろと思ふ    物でなければ売れぬ代世界、右之画の脇に正銘の富士の牧狩ニて、仁田の四郎猛獣なげ出せし極く勢ひ    のよき絵がつるして有ても、これは一向うれず、これ    (歌詞)二たんより三だんのよきが、一たんに勝利を得、外の問屋ハ四たんだ踏でくやしがるといへど     も、五だん故に割印いでず、山口にて六だんめにしゝ打たむくいも成らず、七の段の様に六ヶ敷事も     なく、すら/\と銭もふけ、七珍万宝は蔵之内に充満し、下着には八反八丈を差錺り、九だんと巻て     呑あかし、そんな十だんを言なとしやれ、山口の山が当りて、口に美食をあまんじ、くばりの丸やも     丸でもふけ、いつ迄も此通りに売れて、伊三郎とと(ママ)いる小金処が大金を設(儲)けしハ、これふじ     の幸ひならんか。          小金とはいへども大金設けしは ふじに当りし山口のよさ      川柳点に        富士を筑波に書し故ニ    ふたつなき山を二つににせて書き        原中ニ新きに山出来けれバ  原中にこがねをかけてやまが出来    右牧狩之絵、最初五千枚通り摺込候処、益々評判宜敷故ニ、又/\三千枚通り摺込、都合八千枚通りて、    二万四千枚摺込候処、余りニ大評判故ニ、上より御察度ハ無之候得共、改名主村田佐兵衛、取計を以、    十一月十日ニ右板下をけづらせけり。             あらためがむらだと人がわるくいゝ〟    〈この頃の落首に〝来年は小金が原で御鹿狩まづ手はじめに江戸でねこがり〟(『藤岡屋日記』三巻p223)という句     がある。これは、この頃また息を吹き返してきた深川両国などの岡場所に、天保十三年三月の摘発以来、久しぶりに     手入れ(猫狩り。猫とは岡場所の娼婦をさす)があったこと、そして、来年には将軍家慶が小金原で大がかりな鹿狩     りを催すという巷間の評判を取り上げて詠み込んだものである。その鹿狩りを当て込んだ錦絵「富士の裾野巻狩之図」     が九月二十四日出版された。今まで「富士の巻狩り」といえば、仁田四郎が猪に逆さに跨って仕留める図柄が定番で     あった、しかし今は「兎角にむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」世の中である。そこで「むつかしく」みせる     ために一計を案じた。富士を大きく画いているものの、男体女体を小さくぎざ/\と画いて筑波に擬え、噂の通り大     きな築山を配したのである。この趣向が小金原の鹿狩りを連想させるのは当然で、板元山口の狙いは当たった。しか     し、その評判が逆に心配の種になった。お上のお咎めもないのに、類が自分に及ぶことを恐れたのか、改めの懸かり     名主・村田佐兵衛は板木を削らせたのである。もっともこれはお上への恭順のポーズであって、商売としては、その     時点で十分過ぎるほどの利益はあげていた。三枚続きの8000通り(都合24000枚)小売り値段が明確でないが、国芳     の「亀奇妙々」が〝三枚続六十文売〟(『藤岡屋日記』p246)とあるから、それにならうと、売り上げは48万文に     のぼる。嘉永元年の銭相場は分からないが、仮に天保十三年の改革時に定めた一両6500文・二朱812文で計算すると、     74両になる。ただ、嘉永二年末の記事に〝初は弐朱に七百十八孔にかへ、末は七百三十六孔にて年は暮たり〟という     時もあり(『事々録』〔未刊随筆〕⑥386)、こちらを参考にすると、仮に二朱(1/8両)720文とすると一両5760文、     約83両に相当する。〉    「富士の裾野巻狩之図」 玉蘭斎貞秀画(早稲田大学・古典籍総合データベース)  ◯『藤岡屋日記 第四巻』p134(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇「【きたいなめい医】難病療治」国芳画    〝(六月十一日之配り、通三丁目遠州屋彦兵衛板元、一勇斎国芳画「【きたいなめい医】難病療治」記事)    右絵、最初遠州屋彦兵衛願済にて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候に付直下げ二    〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下げ候、然る処に重板出来致して、売出しは百枚に付卸直一    〆文、又は二朱也〟。    〈遠州屋彦兵衛の卸値は百枚2300文(一枚23文)、売れるにつれて卸値が下がり、一枚20文から一枚12文になる。一方     重板のほうの卸値は百枚1000文(一枚10文)か、または百枚に二朱(2朱は1/8両で、天保改革の公定では約812文、     嘉永二年末で718~736文という記事もあるから(『事々録』未刊随筆〕⑥386)、一枚約7~8文である。小売りの方     は分からない〉  ◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇三人賊の錦絵   〝二月廿五日     昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也      錦絵板元  浅草地内雷神門内左り角  とんだりや羽根助     今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ    て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門    より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。       三賊で唯取様に思ひしが 飛んだりやでも羽根がもげ助     右羽根助ハ板摺の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。          浅草並木町 湊屋小兵衛/長谷川町新道 住吉屋政五郎/日本橋品川町 魚屋金治郎     右三人、三月廿日手鎖也〟    〈嘉永五年十一月「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右衛門・市川小団次」「月・児     来也・市川団十郎」「花・鬼神於松・板東しうか」が出版されている。板木を没収されたこの「三幅対」は、改めを     経ない非合法出版をも請け負うと言われる板摺(板木屋=彫師)とんだりや羽根助が名目上の板元になって、江戸で     は禁じられていた金入りの豪華版を作り、小売り値四匁五分、これは天保改革時の公定銭価格一両6500文で換算する     と、487文に相当する。また、Web上の「江戸貨幣年表」というサイトに出ている、嘉永五年の相場、一両6264文に     基づくと、470文で売り出したことになる。いずれにせよ、天保十三年十一月の御触書では「彩色七八扁摺限り、値     段一枚十六文以上之品無用」とあるから、この三枚続き470~487文(一枚157~162文)は飛び抜けて高価である。     二月二十五日から板木没収の二十八日まで実質三日、どれくらい売れたのだろうか。参考までに、この年の国芳画     「浮世又平名画奇特」は「七月十八日配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六     百枚宛摺出し、益々大売なれば」とある。この「三幅対」も同様に1600枚とすると、一日だけで銭27万2000文、こ     れを金換算すると、天保の公定レートで42両、実勢レートで43両である。二日で84~86両にもなる。板木を取り上     げられるまで、どれだけ摺ってどれだけ売り抜けられるか、それに勝負をかけているのだろう〉   〝 東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東    都会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。     右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大    評判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名    主立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが 皆幽霊できへて行けり     右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟    〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6264文で換算すると約209文)、中品一枚が一匁     五分(約157文)、並一枚一匁(約104文)とこれもかなり高価。(天保改革時の公定レート(一両6500文)だと、     極上217文、中品162文、並108文となる。     「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳。     「同合之宿」も未詳。     「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か。     「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か。     「同十二支」は一勇斎国芳画「見立十二月支」か。     「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か。     「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か。     「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か〉    ☆ にわか 俄  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p58(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)   ◇大坂新町俄の事   〝六月、大坂新町俄之事、十余年目にて今年六月出来、名前左の通り    鍾馗 尾張屋紫 楓屋三ッ扇 牛若 伊勢屋照葉 芦川 千切屋玉川 江口 東扇屋緑木太夫     狐小鍛冶 よしや恋衣 魚籃観音 松屋三枡野 兎 尾張屋佐代鶴 東坡居士 槌屋花露太夫    蟻通宮守 折屋りう 神あそび 加賀屋旅鶴 春日龍神 東扇屋都路太夫 宗近 吉屋歌野 飛騨内匠    倉橋屋道里 貫之 折屋あき 舟弁慶 西応屋揚巻太夫     右新町太夫・天神・鹿恋・芸子等出る也     右之肖像画之上に其唄物を書附し、彩色摺出来、但立四寸、横壱尺程の紙也〟    ☆ にわか よしわら 俄 吉原  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p202(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   ◇吉原俄   〝十一月十五日より十九日迄五日之間、新吉原秋葉縁日後の俄番出る也    鉄棒二人  和泉屋のぶ 升見屋よし    獅子    若水屋みき 桐やくま まきやなつ まきやかま 升湊やしま 荻江あき 金子やせき          万屋ひで いせやとし    (以下「俄手遊び人形尽し」として、紙吹人形、豆人形等あり。また「鹿島の事触」「俄汐干狩」等の     演目が続く)    但し、右俄番附、不許売買、飛板也〟  ◯『藤岡屋日記 第五巻』p140(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   ◇吉原にわか    〝八月朔日、新吉原町    如例年、今日より俄興行之処、今日漸々二番出来、六日に相揃、見分有之、九日迄有之候処に、十日大    嵐にて相休、夫より雨天勝にて、九月廿一日千秋楽也〟    ☆ にわつくり 庭作り  ◯『藤岡屋日記 第一巻』p158(藤岡屋由蔵・文化十二年(1815)来)   (於竹大日如来開帳)   〝於竹大日如来 羽州羽黒山 黄金堂玄即坊     七月廿一日より六十日之間、浅草金龍山念仏堂に於て開帳     此度の開帳に付、大伝馬町より、金物細工にて諫鼓鶏奉納、新吉原玉や弥八内白玉より硝子細工にて     葡萄棚に栗鼠、庭の景色作り物、是は開帳金主より     此節に川柳に 後生だといわれてお竹こまりけり〟    ☆ にんぎょ 人魚  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p490(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇人魚   〝閏四月中旬、越後福島潟人魚之事    越後国蒲原郡新発田城下の脇に、福島潟と云大沼有之、いつの頃よりか夜な/\女の声して人を呼ける    処、誰有て是を見届ヶ、如何成ものぞと問詰けるに、あたりへ光明を放ちて、我は此水底に住者也、当    年より五ヶ年之間、何国ともなく豊年也、但十一月頃より流行病にて、人六分通り死す、され共我形を    見る者は又は画を伝へ見るものは、其憂ひを免るべし、早々世上に告知らしむべしと言捨つゝ、又水中    に入にけり。      人魚を喰へば長寿を保つべし 見てさへ死する気遣ひはなし    右絵図を六月頃、専ら町中を売歩行也〟   〝七月盆後より、越後国福嶋潟之人魚之図、先へ三番出し処に、跡追々出て、十六番迄出候よし〟    ☆ にんぎょう 人形  ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵・天保六年(1835)記)   ◇木偶人形 p581   〝未年九月頃、浅草奥山に韓信市人のまたを潜る処の木偶を見せ物とす。    人形丈二丈三尺余、衣裳羅紗猩々緋等之類を用ひ、能き細工なれども、餝りたるのみなれば、面白から    ず、されば見物人はなし〟  ◯『藤岡屋日記 第一巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年(1836)記)   ◇回向院の開帳・   〝六月十五日より六十日之間、嵯峨清涼寺釈迦如来、回向院にて開帳。    大当たり、いろ/\の見せ物出来る也。     (八月十六日より九月十六日まで三十日の日延べ、都合九十日の開帳)    籠細工富士の牧狩、表看板曽我五郎・朝比奈草摺引、格好よく出来候、亀井町長種次郎作、代三十二文、    笑ひ布袋見せもの廿四文也、虎狩の見せ物廿四文。    江の島宮島長崎の女郎屋の見世物、看板遊君の人形・禿人形・ギヤマン家仕立、代三十一文、東海道伊    賀越敵討大仕掛見世物看板、京都清水人形立、代三十二文、三千世界一水大仕懸看板、龍宮女人形五ッ、    代三十二文、此外数多見世物有之、参詣群集致し、朝参り夜七ッ時より出るなり〟  ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保九年(1838)記)   ◇奉納物 p46   〝三月朔日より、市ヶ谷茶の木稲荷、居開帳也〟   〝市ヶ谷茶の木稲荷、開帳大繁昌也、奉納物、銭細工、氏子町々より上る也、太田道灌、山吹稲荷神狐の    舞、加藤清正虎狩、伊勢物語井筒、玉藻の前、鶏、殺生石、鉄物細工、獅子の子落し、酒道具にて、鞍    馬山僧正牛若丸、其外いろ/\在り〟    ◇奉納物 p60   〝五月二十五日、紀伊国加太淡島大明神、回向院にて開帳大繁昌、奉納物数々あり、但し五月廿一日御着    之節、大群集致す也。    奉納物 瀬戸物舟、神功皇后、武内宿禰。銭細工で同断。        額巻(ママ)の額、いろ/\細工人形、角力、女子供都合五人、十組問屋中奉納        加田の浦景、子供十五人、米船に乗る、銭細工、紙ひいなの大額        五節句の餝りもの 田舎源氏須磨、男女人形弐人、其外いろ/\〟  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p136(藤岡屋由蔵・天保十一年(1840)記)   ◇天王祭錺物    〝(六月)小舟丁天王錺もの、六ヶ処出来る也    丸太河岸  大坂新町吉田屋坐しきの景、夕ぎり伊左衞門、人形二ッ    薬師堂前  仙台萩御殿場、人形三ッ    諏訪新道  富士之狩場曽我兄弟の夜打之段、人形三ッ    牢屋裏門  伊賀越敵討、人形三ッ    亀井町表町 かさね与右衛門、人形三ッ    裏河岸   宮本武蔵、人形三ッ〟  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   (於竹大日如来開帳)   〝三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於て開帳    (中略)      回向院境内見せ物之分     操人形芝居、伊賀越道中双六・和田合戦     壱人分百八文、桟敷二百八文、高土間百七十二文、土間百五十六文     太夫(豊竹此母太夫はじめ六人の名あり、略)     人形(西川伊三郎はじめ九人の名あり、略)     三味線(鶴沢勇造はじめ四人の名あり、略)    但し人形大当り、大入也     伊勢両宮御迁宮之図 吹矢 女角力 犬の子見せ物 大碇梅吉の力持見世物 榊山こまの曲〟  ◯『藤岡屋日記 第四巻』p160(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇山車人形、差し止め    〝七月廿六日、当年、谷中惣鎮守諏訪大明神本祭り之積りにて、出し等も荒方出来致し候処に、今度御趣    意の御触に付、名主より差留る也     右祭礼に付、出し九本出来也     一 加藤清正人形の出し 善光寺寺坂   一 五虎将軍関羽出し 八軒町     一 熊坂長範の出し   上三崎町    一 鞍馬山僧正坊出し 下三崎町     一 戸隠明神天の岩戸  新古門前町   一 龍神干珠の出し  茶屋町     一 神功皇后の出し   中門前町    一 信玄川中嶋出し  七面前町     一 鎮西八郎為朝出し  日暮里               〆以上九本    右之通り出し人形も修復致し、加藤清正出し抔は新規に出来致し、浴衣単もの揃等出来致し、子供は襦    袢・半天の類ひ立派に出来致し候処に、今度御趣意触出し厳敷候に付、名主より差止に相成、出し人形    は町内に錺り置候。      本祭り見て日ぐらしと思ひしに やなかになれど出しも渡らず〟    ☆ にんぎょうみぶりはなし 人形身振り咄  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p524(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   ◇禁制の緩み   〝此節(五月)、御趣意も段々ゆるみて、人形身振咄し吉田千四、松永町へ出る、講談咄し扇拍子、西川    伊三郎、竹本連中、上野広小路三橋亭ぇ出る也〟    ☆ にんじょうぼん 人情本   ◯『藤岡屋日記 第二巻』p284(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   〝七月七日 町触    近来人情本と唱候者流行致候処、右ハ風俗ニ拘り不宜候ニ付、本屋共所持之本并板木は取上ゲ候間、以    来売買貸借等決而令停止候事。     此日端々葭簀張之出茶や取払〟