Top 浮世絵文献資料館藤岡屋日記Top 『藤岡屋日記』【な】☆ なおまさ 直政 ◯『藤岡屋日記 第四巻』p87(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記) ◇大蛇の見世物 〝三月廿一日、大蛇之見せもの、今日初日にて、向両国の左り側、あわ雪の前角に出るなり。 小屋も大形ニ致し、日本一大蛇の子といへる大幟を立、一間四方程の大看板の画ニ、滝の下ニて狼三疋 を手取ニ致し、一疋ハ足ニふまへ一疋ハ滝壺へ打込候処、一候ハ差上ゲ居候処、上ニ雲の中ニ龍顕れし 処、母親おどろき欠付て留候処の絵也、脇ニ口上書の立看板有之、右口上書ニハ、奥州牡鹿郡反鼻多山 麓蛇田村旧家里長何某孫ニて、其母大蛇ニみいれられ懐妊致せし男子金太郎、故ニ山中ニて猛獣ニもお それず、水中ニ入、暫く居候にてもおぼるゝ事無之よし。 木戸銭一人前廿四文ヅヽニて、大入大当り也、然ルニ山師共、右蛇子を金百両ニ買取、七月迄之極ニ て、当座ハ廿両遣し候由。 斯て四月十日、右懸り合絵草紙屋共、懸り名主宅ぇ呼出し有之、以来無印之物は売捌有之間敷由申渡、右 一件落着に相成候。 初めには蛇の出るやふな騒ぎにて蚊もいでざればぐうの音も出す 右一件相済候に付、豊嶋町岡本栄太郎方にて、直政 が画にて蛇の子絵出候得共、一向にうれず〟☆ ながたね じろう 長種 次郎 ◯『藤岡屋日記 第一巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年(1836)記) ◇回向院の開帳 〝六月十五日より六十日之間、嵯峨清涼寺釈迦如来、回向院にて開帳。 大当たり、いろ/\の見せ物出来る也。〈八月十六日より九月十六日まで三十日の日延べ、都合九十日の開帳〉 籠細工富士の牧狩、表看板曽我五郎・朝比奈草摺引、格好よく出来候、亀井町長種次郎 作、代三十二文、 笑ひ布袋見せもの廿四文也、虎狩の見せ物廿四文。 江の島宮島長崎の女郎屋の見世物、看板遊君の人形・禿人形・ギヤマン家仕立、代三十一文、東海道伊 賀越敵討大仕掛見世物看板、京都清水人形立、代三十二文、三千世界一水大仕懸看板、龍宮女人形五ッ、 代三十二文、此外数多見世物有之、参詣群集致し、朝参り夜七ッ時より出るなり〟☆ なかむら うたえもん 中村 歌右衛門 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p523(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記) ◇中村歌右衛門名残狂言 〝八月朔日より 於市村座、中村歌右衛門、御当地御名残狂言相勤申候。 (歌右衛門の口上あり、略)」 (座元市村羽左衛門の病気全快口上あり、略)〟 〝(外題「詞花紅葉の世盛」) 右天日坊法眼之画、三枚つゞき、 先へ六番出ル也、跡追々出ル也。 右狂言ハ、天一坊宝沢ニて大岡之政要記ニ候間、六ヶ敷からんと存候処、一向ニ障りも無之。 八月九日酉ノ日酉ノ刻ニ木性の者有卦ニ入候ニ付、右之画、先へ三十九番出ル、跡追々出て、残らずニ ては六十三番も出し候よし、大はたらき也。 人形屋・菓子屋ニ而、ふの字(一字欠)しニて、種々七色の備物有之。 一 公方様も五十七歳ニて、桑の木性ニて有卦ニ入給ふ也。 一 我等も御同年ニて有卦ニ入候ニ付、ふの字七ッの狂哥、 ふくぶくとふとんのうへにふくれ居て ふだんふでとりふるごとをかく〟「詞花紅葉の世盛」 豊国画 (東京都立中央図書館・貴重資料画像データベース) ◯『藤岡屋日記 第五巻』p46(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記) ◇中村歌右衛門逝去 〝嘉永五壬子年二月十七日 四代目中村歌右衛門死去。 【大極上上吉/給金千両】中村哥右衛門、俳名翫雀。 江戸長谷川町産ニて、藤間勘十郎忰也、幼名吉太郎と云、其後亀三郎と改、森田坐ぇ振付ニ出ル也、 十七歳之時、三代目加賀屋哥右衛門の門弟となり大坂へ上り、中村藤太郎と改メ、又鶴助と改、其後芝 翫となり、文政十亥年江戸中村坐へ下り、其後中村哥右衛門と改名也、然ル処ニ、嘉永二酉年八月、於 市村坐名残狂言致し、師匠中村玉助十三回忌ニ付、上坂致し候処ニ評判宜敷、夫成ニ大坂道頓堀中に芝 居へ出勤致し、当春ハ狂言四海波平清盛と申名題ニて、青砥の善吉を加へ、大切所作事六哥仙、何レも 古めかしき乍事、御蔭を以大入大繁昌仕候、然ル処、二月十三日之頃より腮の下へいささかの腫物出来 候得共、押て罷在候処に、清盛・黒主抔の冠の紐を結び候ニ邪魔ニ成候故、医師ニ相談致し候得ば、腫 物ニ致候へバ出勤も成兼可申と申候ニ付、大入之芝居一日も難相休候間、無是非ちらし薬相用候処、障 り候哉、十五日於芝居、俄ニ病気差重り、療養手当致し候得共不相叶、十七日八ッ時、無常の風ニ誘わ れて終ニはかなくなりニけり。 俗名中村哥右衛門、法名哥成院翫雀日龍信士、行年[(空白)]、浪花中寺町浄円寺葬。 辞世 如月の空を名残や飛ぶ雀 世の中の芝居を於て二の替り 哥舞のぼさつの樂やせん わざおぎの神とも人のあおぎしを 仏の数に入りてはかなし 加茂の屋 武蔵野をしきりニ恋しきじの声 川柳 御病死の御入りと極楽へ哥右衛門 哥右衛門回向だんはな三ッ具足 金主ハ往生哥右衛門に入れ仏事 中村哥右衛門葬送 葬送行列先ぇ、寺七ヶ寺行列、挟箱徒四人、侍四人宛也、役者六十人計上下ニて二行、棺は乗物也、 左右へ弟子十五六人、乗物之先ぇ、位牌三尺計、忰福助持也、乗物之跡ぇ、弟子三四十人立也。 中村哥右衛門翫雀死去ニ付、 御当地御名残之節は天日坊ニ涙を残し、其節の入は皆様御存じと見て、 天日無藤石橋が一六六三十六 哥せん引れんからば(ママ)い 清盛し七八五十六死す 菅原の哥 浪波津に其名も高きうら梅も 時吹風に散りて哀ぞ 一 右、大海屋より出板之涅槃像の絵ハ中彩色三篇摺ニて、前ニ名倉弥次兵衛・野田平・国芳・藤間 勘兵衛、其外役者大勢なひ(泣い)て居ル処の絵也、二枚絵ニて、鶴林袋入配り、壱部ニて壱匁五 分売、大評判也。 抑去年江戸で死したる江戸ッ子の尾上菊五郎の忰松助死去の節ニは、追善の絵一枚も不出、然ル処ニ 今度大坂ニて死去の哥右衛門追善の絵、いでる共/\凡出板六十三番、外ニ写本彫懸共、都合八十二番、 板元三十三軒也。 右之内ニて馬喰町三丁目江崎屋板にて清盛大入道の画、当り也、又和泉橋いせや平吉板の浪花土産と 云、極楽よりの手紙の文言ニて、竹之丞と哥右衛門両人ニて口上の画、梅の屋作ニて面白く、外ハ残ら ずはづれニ而損金也。 右ニ付、川柳、丸鉄の作、 追善の跡の始末は天徳寺 右は追善の絵余り多分出候とて、絵双紙懸り名主福嶋三郎右衛門より手入ニて、二月廿七日板行取上 ゲ之上、御奉行所ぇ伺ひニ相成候、右之内堀江町三丁目大梅屋久太郎板ニて、釈迦の涅槃の処彫懸ニて、 板上ル也。 大海も呑勢ひで懸りしが 寐釈迦となりてみんな損金 又北八丁堀品川屋久助ニて、鞘当・清盛・狐忠信道行、三番出来、残らず上ル也 静ニて清く盛んニ売積り 鞘当違ひミんな香奠〟「中村歌右衛門」死絵 無款 (東京都立図書館・貴重資料画像データベース) 「中村歌右衛門」死絵 酔放散人画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム) 「中村歌右衛門」死絵 酔放散人画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム) ☆ なかむら でんくろう ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記) ◇中村伝九郎、十三代目中村勘三郎襲名披露の摺物 〝(三月三日より御礼のための猿若狂言興行。並びに猿若町内に摺物を配る。その摺物の挿絵) 門松 門松錺り有之、大紋・烏帽子・万歳の形、長上下着、三人居。 猿若 猿わかおどり、長上下着、廿二人居る也。 新発意 正面に楽太鼓有之、僧三人居る也 鳥居清忠画〟 〝(四月)右之摺物、袋に入有之、其袋之表に一面に舞鶴を書、口に銀杏をくわへ居、下に寿の字書有之、 かたに、二百二十七年、下に猿若町十三代目猿若、勘三郎。 (中略) 右摺物を町中に配り候に付、集金六百四十両有之候と也、右入用金四百両も相懸り候よし、差引残り金 弐百四十両も有之候得共、坐元勘三郎借金にて、残らず引取られ候よし〟☆ なかむら とみじゅうろう 中村 富十郎 ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十四年(1843)記) ◇中村富十郎三ヶ国追放 p324 (三月、歌舞伎役者中村富十郎(四十一歳)、家屋・名石園庭・茶道具に贅を尽くし、名筆名画を収集す る等の奢侈のため、居宅取り崩し地面取り上げのうえ摂津・河内・和泉の三ヶ国追放の刑に処せらる) 〝右富十郎は若女形名人にて、中村松江と名乗候節、先頃江戸表へ参り、評判宜敷三四年罷在、文化十三 年秋、名残狂言所作相勤上京致し、其後古人富十郎名跡を継、富十郎と改名致し、極上上吉千両余之立 者に相成候に付、自然と奢侈増長に及、此度御咎めに相成申候〟☆ なべしまそうどう 鍋島騒動 ◯『藤岡屋日記 第五巻』p378(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記) ◇芝居絵売れず (九月二十一日から興行予定の中村座「花野嵯峨猫またざうし」、同月十五日番付を市中に配る) 〝右狂言大評判に付、錦絵九番出候也。 一 座頭塗込 三枚続 二番 【蔦吉/角久】 一 同大蔵幽霊 同 三番 照降町 ゑびすや 神明町 いせ忠 南鍋町 浜田や 一 碁打 三枚続 壱番 石打 井筒屋 一 猫又 同 壱番 銀座 清水屋 一 大猫 二枚続 壱番 両国 大平 一 猫画 同 壱番 神明町 泉市 〆九番也。 右は同日名前書直し売候様申渡有之候得共、腰折致し、一向に売れ不申候よし〟「鍋島の猫の怪」 豊国画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム) 〈「早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」には、外題を「花野嵯峨猫☆稿」として、延べ三十八点が収録されて いる。すべて豊国三代の作画である。この芝居は興行直前、佐賀の鍋島家から当家を恥辱するものと訴えられて、上 演禁止になった。鍋島家のこの告発は頗る評判が悪い。佐倉宗吾狂言に対する堀田家の姿勢と比較して次のように言 う〉 〝去年、小団次、佐倉宗吾にて大当り之節に、堀田家にては、家老始め申候は、今度の狂言は当家軽き者 迄いましめの狂言也、軽き者は学問にては遠回し也、芝居は勧善懲悪の早学問也、天下の御百姓を麁略 に致時は、主人之御名迄出候也、向後のみせしめ也、皆々見物致し候様申渡され候よし。鍋島家にて、 狂言差止候とは、雲泥の相違なり〟☆ なるわ かめきち 鳴和 亀吉 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p264(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記) ◇乱杭渡り 〝四月廿九日 此節、深川八幡・成田山開帳にて成和亀吉乱杭渡り大評判なり〟☆ なんぽ おおた 大田 南畝 ◯『藤岡屋日記 第一巻』①312(藤岡屋由蔵・文政六年(1823)記) 〝文政六癸未年四月六日大田南畝翁 卒、七拾五、名覃、通称直次郎、後改七左衞門、狂歌をよくし、初四方赤良と云、蜀山人、 遠桜山人、杏花園、寝惚先生の数号あり、戯作の書数十部あり、世の知る所なり、白山本然寺葬す、先 生自ら戒名を、杏華園心逸日休居士と考へ置しとなり。 右は三月廿八日の作なりと、又辞世の句とて、 酔世(スイセイ)将(ト)夢死(ムシ) 七十五居諸(ヰシヨ) 有酒市鋪(シホ)近(チカシ) 盤餐(ハンサン)比目魚(ヒモクギヨ) 時鳥鳴つる片身初鰹春と夏との入相のかね〟