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『藤岡屋日記』【み】☆ みせもの 見世物 ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵・文政五年(1822)記) ◇小人 p303 〝五月廿五日より 両国広小路におゐて、日本一小人 【大坂下り】岩本梅吉、年三十六才、立せい壱尺七寸、顔の大きさ人 並、両の手は勿論、両足にて紙細工・織もの・はさみ細工、又々音曲打はやし等能覚へ、大坂表にて御 目に懸候処、大入繁昌仕り、古今珍敷者故、此者御当地へ呼下し、御当所において晴天百日の間御覧に 入候〟 ◇駕篭細工 p304 〝文政五午年七月廿九日より山下にて、大坂下りかご細工一世一代、細工人一田正太郎 泰平富士野牧狩之籠細工 (中略) 建久の頃、勇猛の人物、或は禽獣草木の類迄残らず透抜きに致し御覧に入れ候 頼朝公七尺・仁田四郎一丈八尺・五郎丸七尺五寸・騎馬武者三十一人七尺宛・鎧武者六十人六尺宛 雑兵千三百人五尺宛・馬三十一疋八尺五寸宛・猪しゝ大壱疋二丈八尺・同小三十一疋八尺五寸ヅヽ・ 犬五疋四尺ヅヽ・熊三十五疋五尺ヅヽ・猿百疋三尺・きつね二十五疋三尺ヅヽ・草木しな/\・ 川津股野一丈三尺・玉もの前七尺五寸・玄翁和尚七尺・五郎八尺・朝比奈七尺五寸・定盤御七尺五 寸【頼朝三尺五寸牛若三尺】・十郎八尺・とら七尺・海老四丈五尺・ふぐ七尺、ねぎ一丈・越後じし 七尺・生花十二席・鳥類品々〟 ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵・文政七年(1824)記) ◇ 五重塔 見せ物 p334 〝三月下旬より 東叡山山下にて五重塔 をせり上る見せ物出る、其高さ二丈余といへども、中へ組込てせり上る故、土中 は聊か堀たるのみ、其九輪小屋つらぬき大路より見ゆる也〟 ◇ 駱駝 p343 〝文政七甲申秋 (両国橋西広小路に於て駱駝 の見世物)去年紅毛国より長崎表ぇ持渡候也、おだやかにして、喰物、大 根・蕪菜・さつまいも等のよし、三十二文宛にて見物夥敷群集すなり〟
「駱駝之図」 国安画 ・山東京山撰(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース) 〈この「駱駝之図」には〝文政四年辛巳六月阿蘭陀人持渡駱駝之図〟とあって、長崎への渡来は文政四年。画中に〝文政 七甲酉年閏八月上旬より江戸大に流行〟の朱書きがある。また「古典籍総合データベース」には国安画・江南亭唐立撰 の「駱駝之図」もあり、こちらの朱書きには〝文政七年庚申年初秋江戸に来り壬八月より両国に於て見せもの〟とある〉 ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵・天保六年(1835)記) ◇木偶人形 p581 〝未年九月頃、浅草奥山に韓信市人のまたを潜る処の木偶を見せ物とす。 人形丈二丈三尺余、衣裳羅紗猩々緋等之類を用ひ、能き細工なれども、餝りたるのみなれば、面白から ず、されば見物人はなし〟 ◯『藤岡屋日記 第一巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年(1836)記) ◇回向院の開帳 〝六月十五日より六十日之間、嵯峨清涼寺釈迦如来、回向院にて開帳。 大当たり、いろ/\の見せ物出来る也。〈八月十六日より九月十六日まで三十日の日延べ、都合九十日の開帳〉 籠細工富士の牧狩、表看板曽我五郎・朝比奈草摺引、格好よく出来候、亀井町長種次郎作、代三十二文、 笑ひ布袋見せもの廿四文也、虎狩の見せ物廿四文。 江の島宮島長崎の女郎屋の見世物、看板遊君の人形・禿人形・ギヤマン家仕立、代三十一文、東海道伊 賀越敵討大仕掛見世物看板、京都清水人形立、代三十二文、三千世界一水大仕懸看板、龍宮女人形五ッ、 代三十二文、此外数多見世物有之、参詣群集致し、朝参り夜七ッ時より出るなり〟 ◇浅草寺境内の開帳 〝三月中より、浅草境内淡島明神、三社権現開帳。 同所念仏堂にて、会津柳沢虚空蔵開帳、同所にて出生の男の三ッ子、七才なるが来る也、右に付ギヤマ ン舟見世物、代三十二文、殊之外評判よろし。 忠臣蔵大仕懸見世物、代三十二文 大坂天保山の景、大仕懸の見世物、代三十二文〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保九年(1838)記) ◇奉納物 p46 〝三月朔日より、市ヶ谷茶の木稲荷、居開帳也〟 〝市ヶ谷茶の木稲荷、開帳大繁昌也、奉納物、銭細工、氏子町々より上る也、太田道灌、山吹稲荷神狐の 舞、加藤清正虎狩、伊勢物語井筒、玉藻の前、鶏、殺生石、鉄物細工、獅子の子落し、酒道具にて、鞍 馬山僧正牛若丸、其外いろ/\在り〟 ◇奉納物 p60 〝五月二十五日、紀伊国加太淡島大明神、回向院にて開帳大繁昌、奉納物数々あり、但し五月廿一日御着 之節、大群集致す也。 奉納物 瀬戸物舟、神功皇后、武内宿禰。銭細工で同断。 額巻(ママ)の額、いろ/\細工人形、角力、女子供都合五人、十組問屋中奉納 加田の浦景、子供十五人、米船に乗る 銭細工、紙ひいなの大額 五節句の餝りもの 田舎源氏須磨、男女人形弐人、其外いろ/\〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p136(藤岡屋由蔵・天保十一年(1840)記) ◇天王祭錺物 〝(六月)小舟丁天王錺もの、六ヶ処出来る也 丸太河岸 大坂新町吉田屋坐しきの景、夕ぎり伊左衞門、人形二ッ 薬師堂前 仙台萩御殿場、人形三ッ 諏訪新道 富士之狩場曽我兄弟の夜打之段、人形三ッ 牢屋裏門 伊賀越敵討、人形三ッ 亀井町表町 かさね与右衛門、人形三ッ 裏河岸 宮本武蔵、人形三ッ〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記) ◇驢馬 p163 〝当二月、浅草観音開帳に付、御入国以前より相続罷在候並木町海苔御用正木庄左衞門事、金設け可致と 存付、大明国大驢馬を長崎表より金四百両に買受候由、見世物小屋掛り迄七八百両も入用懸り候との事、 近々停止沙汰にて大迷惑致し候との事、右は宗対馬守殿御館へ預ヶ置候との事 耳長く惣身鼠色、大さ馬程、鳴く声井戸釣瓶を汲音の由、時をたかへず時刻々に鳴候よし〟 ◇曲鞠・菊川国丸 p179 〝三月、浅草観音開帳之砌、奥山において三日(ママ)廿三日より、大坂下り風流曲手まり太夫菊川国丸 曲鞠番組 次第 大序 寿三番叟 高まり 第二 ありわらのむかし男の姿とは おこがましくも渡る八ッ橋 第三 豊年を悦ぶ翁煙草 こくうを走る仙人の術 第四 張良が沓を捧し橋ならで 是は風流木曾の桟橋 第五 膝渡し左右流しや滝落し 浪を分つゝ雲にかくるゝ 第六 小廻りしゑを拾いッヽ、遊ぶ鞠 雲井はるかに渡る中釣 第七 生花を受流しッヽ折敷て 大廻りしてむかふ乱ぐひ 第八 登り龍くだりし龍や虎こま(ママ) たすきにかけて雁の入首 第九 柴船を足で留たる平た蛛 高く蹴あげて見るも一曲 第十 八重桜額にかけて腕流し、雲井を通ふ雁金の曲〟 ◇瀬戸物細工・貝細工 p181 〝【浅草念仏堂】曽我両社開帳 七月朔日より瀬戸物細工 牛若弁慶五条橋 樊噲門破り 鬼の念仏藤娘 笑ひ大黒 茶の湯座敷貝細工 貝細工人 淀川富五郎 人形師和泉屋五郎兵衛 【俵藤太遊女】大蛇に百足【凡十間余前手すり 五条橋】 大原女草苅 雀竹 色遊 其外鉢植二十品 見世もの大評判、其外に 太刀持 子供刀持 神事さゝら獅子 糸細工 空乗大曲馬 小人島足長島 目出太郎 狐娘 角乗 人形 刀持〟
「かゐさいく」 貞幸画 (早稲田大学・古典籍総合データベース) ◇両眼自在 p184 〝羽州最上郡新庄二間村百姓林助孫長次郎とて十四才に成けるが、六七年前より両眼自在に出這入す、眼 の玉大さ一寸余も有べし、其出たる眼へ紐を下げ、銭五貫文、或は石、色々のもの右に順じ懸る故、終 に江戸に出して両国宮芝居広場に於て見せものとす。但し、絹針のめどを通し矢を射る〟 ◇歯力鬼右衛門 p217 〝九月、両国橋西広小路ぇ、紀州和歌山の生れにて、歯力鬼右衛門といふもの見世物に出るなり。磁器の 茶碗をかみ割、或は大だらい差渡し六尺子供二人入れ、是をくわへ踊り、鐘の龍頭を口にくわへ、右臼、 右と左りへ四斗俵のせ、口にくわへ矢をいる、誠に奇妙也、重きもの四五十貫のものをくわへ自在に扱 ふ也〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p264(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記) 〝四月廿九日 此節、深川八幡・成田山開帳にて成和亀吉乱杭渡り大評判なり〟 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1846)記) 〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し (奉納物のリストあり、略) 奥山見世もの 一 力持、二ヶ処在、 一 ギヤマンノ船 一 三国志 長谷川勘兵衛作 一 伊勢音頭 一 朝比奈 浅草田歩六郷兵庫頭、是迄登城之節、馬道ぇ出、雷神門内蕎麦屋横丁ぇ雷神門より並木通り通行せし処、 今度開帳に付、奉納の金龍山と書し銭の額、蕎麦や横丁ぇ道一ぱいに建し故に、六郷氏通行之節、鎗支 へ通る事ならず、右故に少々片寄建呉候様相頼候得共、浅草寺役人申には、片寄候事決て相ならず、右 奉納之額邪魔に相成候はゞ脇道御通行可被成之由申切候に付、無是非是より幸龍寺の前へ出、登城致し 候処、此節六郷兵庫頭、常盤橋御門番故に、早速御老中廻り致し相届候義は、今度浅草寺奥山に広大な る見世物小屋相懸候に付、出火之節御城之方一向に見へ不申候に付ては、万一御廓内出火之節、見そん じ候て御番所詰相闕候事も計り難く候間、此段御届申候と、月番ぇ相断候に付、早速右之趣月番より寺 社奉行へ相達候に付、寺社方より奥山朝比奈大細工の小屋取払申付る也、是六郷が往来を止し犬のくそ のかたき也。 島めぐり田歩めぐりで取払 一 こま廻し 奥山伝司 至て評判あしきに付、落首 奥山にしかと伝じも請もせず 㒵に紅葉をちらす曲ごま〟〈浅草寺に奉納された銭細工の額によって、通行に支障をきたしたうえに、浅草寺の役人から迂回を命じられた六郷 兵庫頭が、その意趣返しに、奥山の広大な見世物小屋が邪魔で江戸城を見渡せず、万一出火した場合、番所に詰め るのも難しいと老中に訴えたのである。それが大細工・朝比奈の撤去になったというのである〉
「浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図(朝比奈大人形)」 玉蘭斎貞秀画 (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」) 〈参考までに、国芳画「朝比奈小人嶋遊」をあげておく〉
「朝比奈小人嶋遊」 一勇斎国芳戯画 (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース) 「【キヤマム】細工舩」 貞重改 国輝画 (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」) ◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記) ◇於竹大日如来開帳・見世物 〝三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於て開帳 (中略) 回向院境内見せ物之分 操人形芝居、伊賀越道中双六・和田合戦 壱人分百八文、桟敷二百八文、高土間百七十二文、土間百五十六文 太夫(豊竹此母太夫はじめ六人の名あり、略) 人形(西川伊三郎はじめ九人の名あり、略) 三味線(鶴沢勇造はじめ四人の名あり、略) 但し人形大当り、大入也 伊勢両宮御迁宮之図 吹矢 女角力 犬の子見せ物 大碇梅吉の力持見世物 榊山こまの曲〟〈「伊勢両宮御迁宮之図」は、九月の式年遷宮を当て込んだもの。前出、玉蘭斎貞秀の藤慶板「伊勢太神宮御遷宮之図」 のほかに、一勇斎国芳の山口板「伊勢太神遷御之図」などがある〉
「【おたけ大日如来】略えんぎ」 一勇斎国芳画 (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵) ◯『藤岡屋日記 第四巻』p87(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記) ◇大蛇の見世物 〝三月廿一日、大蛇之見せもの、今日初日にて、向両国の左り側、あわ雪の前角に出るなり。 小屋も大形ニ致し、日本一大蛇の子といへる大幟を立、一間四方程の大看板の画ニ、滝の下ニて狼三疋 を手取ニ致し、一疋ハ足ニふまへ一疋ハ滝壺へ打込候処、一候ハ差上ゲ居候処、上ニ雲の中ニ龍顕れし 処、母親おどろき欠付て留候処の絵也、脇ニ口上書の立看板有之、右口上書ニハ、奥州牡鹿郡反鼻多山 麓蛇田村旧家里長何某孫ニて、其母大蛇ニみいれられ懐妊致せし男子金太郎、故ニ山中ニて猛獣ニもお それず、水中ニ入、暫く居候にてもおぼるゝ事無之よし。 木戸銭一人前廿四文ヅヽニて、大入大当り也、然ルニ山師共、右蛇子を金百両ニ買取、七月迄之極ニ て、当座ハ廿両遣し候由。 斯て四月十日、右懸り合絵草紙屋共、懸り名主宅ぇ呼出し有之、以来無印之物は売捌有之間敷由申渡、右 一件落着に相成候。 初めには蛇の出るやふな騒ぎにて蚊もいでざればぐうの音も出す 右一件相済候に付、豊嶋町岡本栄太郎方にて、直政が画にて蛇の子絵出候得共、一向にうれず〟 ◯『藤岡屋日記 第四巻』p492(藤岡屋由蔵・嘉永四年(1851)記) ◇虎の見世物 〝十月九日より 於西両国広小路、虎の見世物興行仕候 見料三十二文、番付十六文 正面の看板【二間四方計の大看板に墨絵の虎を画、竹三本】 左右之立看板、右は豊歳国の産(賛カ)。左りは虎斑の毛物、天幕には竹に虎、提灯を十一つるし、幟 豊歳国の産、虎ふの毛物二本立、木戸番は竹の大形の模様半天揃也。 口上 一 虎の形形体惣身一面金毛色有、頭に八将軍の八字を頂き、全体は八方無敵黒毛の八字を負ひ、画虎 に等猛獣也。 一 是は対州の深山にて生どりし山猫の由、彼国にても珍敷ものなるよし、至て猛き獣なり、鳥の生餌 計喰し候よし。 山猫かともあれ猛き獣をどこの山でかよくとらゑたり〟 ◯『藤岡屋日記 第五巻』p64(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記) ◇鯨細工の見世物 〝閏二月廿八日初日 浅草鯨大細工之事 浅草観音奥山念仏堂之脇に、鯨にて大細工之見せ物有之、まねき看板に龍の頭にて姫乗り居、宝珠を持 二人居、俵富太人形、鯨細工の鷲開き、中より太夫出る也。右に義太夫、左に富本出る也。 弘法大師鐘をたゝき居候が、引くり返ると唐人を天人四人上る也〟 ◇平河天神、開帳 p82 〝麹町平川天神、二月廿五日より六十日の間開帳、十日之日延にて四月五日迄開帳也。 天満宮神影、御真筆神影。 右開帳に付、作庭三ッ出来、□(ママ)納金・四神剣・発句れん、外に額種々有之、本哥之類も有之、境内 に曲馬、柳川一蝶斎手妻、大坂下り鉄割藤吉、同伜音吉、足の□(ママ)、両国より当処へ出る也〟 ◯『藤岡屋日記 第五巻』p245(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記) ◇大鯉の見世物 〝五月三日、大鯉の見世物出候也 常陸国河内郡牛久町牛沼にて取候由にて、三尺の大鯉八丁堀へ持来り、金拾五両にて売らんと申候所に、 見せ物師十両に付候得共、売不申由、評判有之候処に、是は鰒の皮にて細工物之由、いかにも飛龍とな るべき鯉のかく数年を経て広大に相成候者のおち候は不思議と存候所、右鯉の評判故に頓知の者工夫し 致し、銭儲に拵へ候よし。 鉄砲と異名をうけし鰒の皮こひで浮名のたつはうしぬま〟 ◇大烏賊の見世物 p245 〝(五月)上総国金谷浜大烏賊、長サ壱丈七尺程、目方五十貫目 (見料十二文) 右大烏賊は上総より魚河岸へ持来候得共、余り大き過候間買入無之、問屋にて安々に引取置候義に、見 物師是を聞付参して、金二両二分に買取、見世物に出し候よし〟 ◇山椒魚の見世物 p245 〝(五月)山椒魚は生て居り候に付、五両にて買取、見世物に出し候よし〟 ◇見世物 p306 (五月十日より、回向院において、伊勢国津、国府阿弥陀如来開帳) 〝境内見世物之次第 一 伊勢音頭一刀持 一 猩々 一 廿四孝海草細工 一 灯心細工 一 竹田縫殿介、怪談細工 一 中嶋庄五郎歌舞伎芝居 御壱人前百八文 一 豊年踊り 一 水からくり〟 ◯『藤岡屋日記 第六巻』(藤岡屋由蔵・安政二年(1855)記) ◇浅草奥山軽業興行 p457 〝三月十九日、浅草奥山軽業にて、坊主喧嘩之事 二月十八日より浅草観世音開帳に付、大坂新下り軽業玉本勝代綱渡り乱柱渡りの大評判にて、見物群集 致し候、(以下、伝法院の僧侶、木戸番と入れろ入れぬの口論喧嘩、それを聞きつけた近辺の若者と鳶 の者が加わって僧侶と睨み合う、そこへ「と」組の頭・新門辰五郎や浅草寺代官が駆けつけて鎮めたと いう記事あり) 軽業に唯見せ物と這入のは伝法院の坊主なるゆへ〟 ◯『藤岡屋日記 第七巻』(藤岡屋由蔵・安政三年(1856)記) ◇浅草奥山生人形 p139 〝肥後国熊本、生人形細工人 松本喜三郎 同平十郎 太夫元 小島万兵衛 入口招き人形近江のおかね、夫より浅茅原一ツ家、水滸伝、為朝島巡り、水湖伝、粂の仙人、吉原仮宅 黛の部屋、忠臣蔵夜討、夫より仕廻が鏡山御殿場、仕合之処、都合人形七十二番、木戸銭三十二文、中 銭十六文づゝ、二ヶ所にて取、都合六十四文、中にて番付十六文、目鏡を見せ四文〟 (二月二十五日、水戸家の中間、奥山の生き人形を見物しようとして、客止めに遭い、腹立ち紛れに乱 暴して、人形を打ち壊すという騒動あり。翌日は休業、翌々二十七日より再興行) 〝(三月二十六、七日、人形を預かった家で、一ツ家姥の娘を責める声が、夜中もの凄く、張り番の若者 がうなされて肝を潰すという怪異あり)右に付、翌廿八日念仏堂和尚を相頼み人形ぇ読経上げ、一ツ家 姥娘の人形は焼捨、灰を大川へ流し候よし。是は見物の諸人、一ツ家の人形は能出来た/\と評判致し、 人の気の寄所、古狸付込み右之怪をなせし事なるべし。 右人形は向島水茶やの姥、一ッ家の姥に能似て居候とて人形之図に取度由、松本喜三郎義、姥に咄し候 処に、姥承知致し、我年寄て此世に何の望もなし、勝手次第に被致よと申に付、 喜三郎悦び早速写しに図を取、人形出来致し候処に、右姥は間もなく死し候由、右に付、一ツ家姥人形 には水茶や姥の魂入候とて大評判大入也。 右人形出来は正月十五日、初日にて百両取上げ、翌十六日も同断取上げ、其後にても七拾両ならしには 取上げ候由、尤小屋を懸候には千両も懸り候との評判、二三百両 も懸りしなるべし。 右喧嘩に付、水戸家来国許に差送られ候、落首 だんまりで口をふさいで済しても生人形がものを云たか〟
「当世見立人形」「風流人形」等 一勇斎国芳画 (1856年のものが安政三年の生人形) (「KuniyoshiProject.com」「Comic and Miscellaneous Prints Modern Select Dolls」) ◇見世物 p153 〝(三月二十日より六十日間、於深川八幡境内、成田山新勝寺、不動明王并二童子開帳。日延十日) 右開帳参詣大群集也、日延有之、六月朔日迄、此節仮宅大繁昌致し、深川の潤ひ広大之事也、開帳奉納 物も多く有之候得共、是は番付に記し有之、境内見世物当も多く有之候得共、先荒増之分、表門に有之 候者、 一 八犬伝人形、招き人形、伏姫宮参り之処、表門入、橋渡り右手 一 生人形、招き人形、猿田彦にうずめ【いざなぎ/いざなみ】左り手 一 生人形、文覚上人荒行之処 一 曲馬 一 大女 一 蒸気船 一 名鳥等也〟 〝右見世物之大女 肥後国天草郡城崎村百姓大平娘 姉おまつ 十六 六尺八寸余 三十八〆目 中おたけ 十一 五尺七寸余 廿五〆七百目 妹なむめ 八才 五尺一寸余 十九〆八百目 木戸銭廿四文、廻り仕懸にて上り、上には牛二疋にて麦こがしの臼を挽居、三人兄弟の大女は、麦こが しを廿四文より売也、衣服は赤き絹に松竹梅名前模様を付る也、面白くもなんともなき見世物なれ共、 開帳にて是計が大当り、外は残らずはづれ也、是時の仕合也〟 〝(見世物の鳥五羽、夜番が目を離した瞬間、狐らしきに襲われる。跡には羽根のみ) 阿蘭陀渡り丹頂鶴、高五尺三寸余 孔雀・白(一字欠く)鳥・錦鶏鳥・鴛鴦〟 ◯『藤岡屋日記 第七巻』(藤岡屋由蔵・安政四年(1857)記) ◇早竹虎吉軽業興行 p440 〝安政四丁巳年二月、風邪流行之事 (中略) 右、風邪流行の発りは、大坂下り軽業早竹虎吉、両国にて興行、正月廿六日初日、此者大坂より風を引 来りて江戸にて流行致させ候よし、大評判也、軽業も大流行、風も大流行也。 (中略) 大坂下り早竹虎吉は風(一字虫)共に大急行、大入にて、金主より給金毎日金拾両、外に拾貫文、衣装 化粧代出候よし。 早竹虎吉看板 菊慈童布さらし 富士牧狩建まへ三番叟 天拝山雷烏帽子狩にて(一字虫)結渡り 早竹虎吉口上之処、額五枚也、進上天幕松井町御旅所弁天前、川端水茶や暖簾残らず竹の絵也 軽業に(一字欠)まし 【木戸銭三十二文/中銭二十四文】 右は正月廿六日初日にて、大入大繁昌致、前日より言込無之候ては見物出来兼候程の群集にて、古今稀 成大入、然る処三月四日ぼんぼり渡り興行致し候所、狂言の最中大風にてぼんぼり不残倒れ、虎吉、骸 は針がねにて釣候之候(ママ)故、空中にぶらさがり居、大きに間が抜候よし、是より評判悪敷相成候よし、 同時に早竹に張合、奥山ぇ出候。 軽業曲独楽 太夫 桜鯛駒寿 所作事 若太夫 同 幸吉 桟敷一間 壱貫六百文 同割合壱人前 三百七十二文 看板之次第 唐子船の力持、奴鎗を持、子供上に軽業 布袋唐子(一字欠)ひ船の業 淀川の水車 菅丞相荒れ場雷 稲荷社狐階子上り 幽霊出遣ひ人形 阿陪仲麿入唐幽霊 階子渡り井戸の曲 奥山生人形 細工人御馴染 竹田縫之助 大道具大工 長谷川友吉 同 竹田芳太郎 肥後熊本 秋山(一字欠)猪次郎 同 作次郎 万助 生人形細工人、熊本秋山平十郎 看板次第 新吉原遊女屋二階之処 中の町さくら、おいらん道中 田舎源氏光氏酒宴之処 招き人形 信濃や前の所、長のれん懸ヶ行灯 母にお半、下女にでつち、人形四ツ 脇に角力取二人 大形〟 ◇見世物 p499 〝(四月十六日より両国回向院にて、上総国芝山観音寺の十一面観世音菩薩・仁王尊并霊宝開帳) 境内見世物之分 殺生石 膃肭臍 大眼鏡 大江忠兵衛作生人形 招天神・猿田彦其外 百面相人形 招官女子日遊小松引 花鳥亭 招うさぎ数疋有之 肥後松本喜三郎作 怪談招清玄 蒸気車 隅田小きん軽業〟 ◯『藤岡屋日記 第十一巻』p477(藤岡屋由蔵・元治元年(1864)記) ◇見せ物 (四月、伝通院境内にて大黒天開帳、中間と元鳶との喧嘩記事の中に、当時興行していた見せ物記事あり) 〝足之曲持【名代/若太夫】【橘錦太郎/同文次郎】 力持 大力 大碇謙吉 (中略) 足之曲持 橘錦太郎 よしあしの曲はともあれ金太郎も釣方なれば腹をたちばな 力持 大碇謙吉 大力で船も留たる大碇外の喧嘩は留られもせず〟 ◯『藤岡屋日記 第十四巻』p208(藤岡屋由蔵・慶応二年(1866)記) 〝慶応二丙寅年九月 亜墨利加国持渡之道具芸名 足芸曲持、浜碇定吉 番組荒益之分 同 三挺階子曲乗芸 同 大幟曲持上乗之芸 同 崩階子上乗之芸 同 壱本竹上乗之芸 同 大半切桶曲持之芸 同 石台曲持、水風呂桶曲持 同 家内喜樽曲持、大障子曲持 同 数小桶上乗之芸、但是をはねむしと云 〆拾壱番 手品遣、隅田川浪五郎 芸名荒増分 一 三番叟操消人形 後ニ替り二間四面之幕ニ相成申候 一 唐子人形 同 頭壱尺五寸達磨ニ相成申候 一 替り人形 後ニ替り龍灯 一 叶福助人影 同 替り高サ五尺おかめ形 一 武楽(ママ)之舞 同 花車高サ二尺造り物ニ相成も候 一 ぜんまいからくり 同 傀儡師人形 一 ぜんまいからくり 大和駕籠小鳥の娘(ママ)入 一 千寿万寿の玉水からくり 一 淀川連の水からくり 一蝶之曲 一 丸竹の上一本下駄ニて渡り 一 平障子崩渡り 後ニ中骨一本ニ相成候、上へ居、手品遣 一 二重花台からくり 一 天地八声蒸籠 一 四ッ綱石橋獅子狂ひ 一 平綱渡り 但、此外番数有之候へ共、略之松井菊次郎 、独楽番組 一 大独楽一ッ 但、一尺八寸、目方五〆五百目 一 麻之紐 但、目方一〆七百目 一 羽子板曲独楽 天満宮当物独楽 一 万灯四方開之之中より(鶴牡丹)罷出申候 但、竪二尺、横一尺五寸 一 石橋渡り階子 但、丈四尺二寸四方 一 富突入形独楽 但、ぜんまい仕懸、丈七尺、横三尺四方 一 大独楽 此独楽二ッニ割候へば、此内より壱尺五寸娘つね罷出、所作仕候、此度新工夫 一 浦嶋太郎人形独楽 但、丈ノ(ママ)五尺、横四尺 一 閑子鳥四方ひらき 但、丈七尺、横巾二尺五寸四方 一 駕籠抜独楽 横四間半、竪一尺 一 時計独楽 丈七尺、横二尺五寸 一 刀刃渡之独楽・提灯独楽壱尺 一 後段独楽五ッ 大サ六寸五分 右芸名荒増之分、如此五坐候〟〈次項に浜碇・隅田川・松井の給金が出ているので、以下示しておく〉 足芸曲持、新吉原京町二丁目 吉兵衛店 浜碇定吉 三十五才 三千五百両(二年) 手品遣い、寛大相生町 源蔵店 隅田川浪五郎 三十七才 千五百両(一年) 独楽廻し、浅草龍宝寺門前、茂兵衛店 松井菊次郎 三十才 七百両(一年)☆ みたてさんぷくつい 見立三幅対 ◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記) ◇三人賊の錦絵 〝二月廿五日 昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也 浅草地内雷神門内左り角 錦絵板元 とんだりや羽根助 今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門 より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。 三賊で唯取様に思ひしが 飛んだりやでも羽根がもげ助 右羽根助ハ板摺 の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。 浅草並木町 湊屋小兵衛 長谷川町新道 住吉屋政五郎 日本橋品川町 魚屋金治郎 右三人、三月廿日手鎖也〟〈嘉永五年十一月「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右衛門・市川小団次」「月・児 来也・市川団十郎」「花・鬼神於松・板東しうか」が出版されている。板木を没収されたこの「三幅対」は、改めを 経ない非合法出版をも請け負うと言われる板摺(板木屋=彫師)とんだりや羽根助が名目上の板元になって、江戸で は禁じられていた金摺りの豪華版を作り、小売り値四匁五分(当時の銭相場がどれくらいか分からないが、今機械的 に1両=60匁=4000文で、計算してみると、三百文になる)で売り出した。天保十三年十一月の御触書では「彩色七 八扁摺限り、値段一枚十六文以上之品無用」とあるから、この三枚続き三百文(一枚百文)は飛び抜けて高価である。 ところが評判を得て売れた。すると早速、改めの懸かり名主がそれを咎め(察斗)て板木を取り上げてしまった。さ らに、板摺・とんだりや羽根助なるものの陰に隠れていた実の板元の名が割れて、湊屋小兵衛・住吉屋政五郎・魚屋 金治郎が手鎖に処せられた。当時の江戸の板元は、利益率も高いが検挙されるリスクも高い商品の場合、密かに板摺 に資金を提供して、板元の役割をさせたのではないか。ところで、どれほど売れたのであろうか。二十五日売り出し、 二十八日の板木没収まで実質三日の販売。参考までにみると、この年の国芳画「浮世又平名画奇特」は「七月十八日 配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六百枚宛摺出し、益々大売なれば」とあ る。この「三幅対」も同様に千六百枚とすると、一日だけで銭十六万文、これを金換算すると、実に四十両である。 二日で八十両にもなる。板木を取り上げられるまで、どれだけ売り抜けられるかそれに勝負をかけているのだろう。 この「三幅対」の絵師はやはり歌川豊国三代なのであろうか〉 ☆ みつご 三つ子 ◯『藤岡屋日記 第一巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年(1836)記) ◇浅草寺境内の開帳 〝三月中より、浅草境内淡島明神、三社権現開帳。 同所念仏堂にて、会津柳沢虚空蔵開帳、同所にて出生の男の三ッ子、七才なるが来る也、右に付ギヤマ ン舟見世物、代三十二文、殊之外評判よろし。 忠臣蔵大仕懸見世物、代三十二文 大坂天保山の景、大仕懸の見世物、代三十二文〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p405(藤岡屋由蔵・天保十四年(1843)記) (十一月五日、上総国埴生郡矢筈村 百姓 久兵衛 三十三 同人妻 三十六、男子三人出生) ◯『藤岡屋日記 第二巻』p528(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記) 〝三州設楽郡下津久村 百姓 栄蔵 二十七 同人妻 三十六 右栄蔵妻、天保十五辰年七月廿三日、三ッ子出生、内二人男、壱人女〟 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p486(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記) ◇三つ子 p486 〝新吉原にておいらん三ッ子を産し評判左之通り 今度新吉原京町壱丁目の岡本屋長兵衛抱遊女花山、当月十五日三ッ子を産し処、三人共男子に付、右之 わけ御番所ぇ御申上、則御見届之上、太郎・次郎・三郎と名を下され、壱人ぇ壱枚づゝうぶぎ被下、随 分大切にそだて可申候様被仰渡、難有だん御請申上候。 とんだなら早くかしらをあげて見な これも玉子の四角なるべし〟〈「女郎の誠と玉子の四角」ありえないものの喩えである〉 ☆ みよのわかもち 御代の若餅 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p475(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記) 「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」 〝嘉永二己酉年 翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画出るなり。 板元麹町湯島亀有町代地治兵衛店、酒井屋平助ニ而、芳虎が画也、但し右拳の絵は前ニ出せる処の図の 如くにして、名主村田左兵衛・米良太一郎の改割印出候へ共、はんじものにて、翁いなり、三途川の姥 婆さまハ別ニ替りし事も無之候へ共、馬込が下女のお竹女が根結の下ゲ髪にてうちかけ姿なり、是は当 時のきゝものにてはぶりの宜敷、御本丸御年寄姉小路殿なりと言い出せしより大評判ニ相成候故、上よ り御手入れの無之内、掛り名主より右板をけづらせけり、尤是迄ニ出候処之絵、新宿の姥婆さま廿四番 出、外ニ本が二通り出ルなり、お竹の画凡十四五番出るなり、然ル処今度お竹のかいどりの画ニて六ヶ 敷相成、名主共相談致し、是より神仏の画ハ一向ニ改メ出スまじと相談致し、毎月廿五日大寄合之上ニ て割印出すべしと相談相極メ候、今度又々閏四月八日の配りニて、板元桧物町茂兵衛店沢屋幸吉、道外 武者御代の君餅 と言表題にて、外ニ作者有之と相見へ、御好ニ付、画師一猛斎芳虎ト書、発句に、 君が代とつきかためたる春のもち 大将の武者四人ニて餅搗之図 一 具足を着し餅搗の姿、はいだてに瓜ノ内ニ内の花の紋付、是ハ信長也。 一 同具足ニてこねどりの姿、はいだてに桔梗の紋ちらし、是ハ光秀也、白き衣ニて鉢巻致すなり、 弓・小手にも何れも定紋付有之。 一 同具足ニて餅をのして居る姿ハ、くゝり猿の付たる錦の陣羽織を着し、面体ハ猿なり、是は大(太) 閤秀吉なり。 一 緋威の鎧を着し、竜頭の兜の姿にて、大将餅を喰て居ル也、是則神君也、右之通り之はんじもの なるに、懸りの名主是ニ一向ニ心付ズ、村田佐兵衛・米良太一郎より改メ割印を出し、出板致し 候処ニ、右評判故ニ、半日程配り候処ニ、直ニ尻出て、直ニ板けづらせ、配りしを取返しニ相成 候、然ル処、又々是ニもこりず、同十三日の配りニて、割印ハ六ヶ敷と存じ、無印ニて出し候、 板元も印さず、品川の久次郎板元ニて出し候処の、(ママ、原文はここで切れている) 一 翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組、翁ヶ嶽ニ三途川、行事粂の平内、年寄仁王・雷神・風神・四 本柱の左右ニ並居ル、相撲ハ皆々当時流行の神仏なり、是ハ当年伊勢太神宮御遷宮ニ付、江戸の 神仏集りて、金龍山境内ニて伊勢奉納の勧進相撲を相始メ候もの趣向ニて、当時流行の神仏ニハ、 成田山・金比羅・柳島妙見・甲子大黒・愛宕羅漢・閻魔・大島水天宮・笠森・堀ノ内・春日・天 王・神明・其外共、釈迦ヶ嶽、是ハ生月也。 成田山 大勇 象頭山 遠近山 築地川 割竹 関ヶ原 筆の海 有馬山 三ッ柏 堀之内 猪王山 柏手 初馬 綿の山 注連縄 翁ヶ嶽 剱ノ山 経ヶ嶽 於竹山 錦画 御神木 三途 川 死出山、行事長守平内、年寄仁王山雷門太夫・大手風北郎・おひねりの紙、お清メ水有、行 事・呼出し奴居ル、見物大勢居ル也。 此画、伊予政一枚摺ニて、袋ニ手遊びの狐・馬・かいどりの姉さまを画、軍配ニ神仏力くらべ と表題し、外に格別の趣向も無之様子ニ候へ共、取組の内ニ遠近山ニ三ッ柏と画たり、是は両町 奉行の苗字なるべし、割竹ニ猪王山と云しハ御鹿狩なるべし、外ニうたがわしき思入も有之間敷 候得共、右之はんじものニて人の心をまよわせ、色々と判断致し候より此画大評判ニてうれ候処 ニ、是も間もなく絵をつるす事ならず、評判故ニ引込せ仕舞也。 お竹のうちかけ姿を見て 遅道 かいどりを着たで姉御とうやまわれ 三途川の老婆御手入ニ付、 新宿は手がはいれども両国の かたいお竹はゆびもはいらず 老ひの身の手を入られて恥かしや 閻魔のまへゝなんとせふづか 両国の開帳 お竹さんいもじがきれて御開帳 六十日は丸でふりつび〟
「流行御利生けん」 道外一猛斎芳虎画 (翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画) (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
「【道外武者】御代の若餅」 一猛斎芳虎画 (早稲田大学「古典籍総合データベース」) 〈一猛斎芳虎画「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画)に関する記事は、お竹の「下ゲ髪にて うちかけ姿」が大奥の姉小路を暗示しているのではないかという評判がたち、お上の手入れを恐れて板木を削ったと いう内容。 同じく一猛斎芳虎画「道外武者御代の若餅」(『藤岡屋日記』は「君餅」とする)の方は、餅を搗くのが織田信長、 以下、捏ね取り明智光秀、餅を延ばすのが豊臣秀吉、最後に竜頭の兜を被って餅を食っているのが徳川家康。神君が 一番おいしいところをもっていったと言う寓意は明らかである。当初、改め名主がその寓意に気がつかず、いったん 市中に出まわってしまったのだが、半日ほどして噂が立ち、あわてて回収にまわったといういわく付きのものである。 だが、余波はおさまらず、今度は版元名のない無届け版が出まわったとある。なお、この「【道外武者】御代の若餅」 の出版時期について、宮武外骨の『筆禍史』は、明治初年頃まで生存していた芳虎本人の懐旧談を聞いた某老人の証 言を拠り所として、天保八年(1847)のこととしている。丁度十二年の隔たりがある。芳虎が酉年と答えたのを、嘉永 二年(1849)ではなく一回り昔の天保八年に受け取ったのかもしれない。 「翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組」では、様々な取組のうち、遠近山対三ッ柏という取組があって、これが当時の 町奉行・遠山左衛門尉景元と家紋が三ッ柏の牧野駿河守成綱を擬え、割竹と猪王山の組み合わせは、この三月に物々 しく行われた将軍の鹿狩を判じたものとされる。この絵師は未詳。 このころの錦絵は、様々な禁制や制約を楯にとって「うたがわしき思入も有」るものや「人の心をまよわせ、色々と 判断」できるような「はんじもの」が、とかく評判になって売れる。噂が広がり過ぎると、結局は、板木を削ったり 自主回収してしまうのだが、それまでにどれだけ売りきるか、版元はそこに勝負を賭けているようなフシがある〉