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                 『藤岡屋日記』【く】    ☆ くじら 鯨    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p247(藤岡屋由蔵・文政三年(1820)記)   〝(三月九日、品川にて「ゴンド鯨」二頭仕留める。大の方は長さ三間五尺、小の方は弐間三尺の由)〟    ☆ くじらざいく 鯨細工    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p64(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   ◇鯨細工の見世物   〝閏二月廿八日初日 浅草鯨大細工之事     浅草観音奥山念仏堂之脇に、鯨にて大細工之見せ物有之、まねき看板に龍の頭にて姫乗り居、宝珠を持    二人居、俵富太人形、鯨細工の鷲開き、中より太夫出る也。右に義太夫、左に富本出る也。    弘法大師鐘をたゝき居候が、引くり返ると唐人を天人四人上る也〟    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞 初代    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p271(天保十三年(1842)五月)   〝天保十三寅年五月    飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事    去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛    門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し    売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原    天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。     右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七     人三貫文宛過料、     画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり。     六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟   〈天保十三年の五月、昨年十一月の芝居移転令と時を同じくして禁じられた役者似顔絵を出版したという廉で、「飛騨内    匠棟上ゲ図」と「菅原操人形之図」が手入れに遭い、絵師の国芳と豊国、板元の伊賀屋・古賀屋等を含めて関係者七名    が三貫文(3/4両)の罰金を科せられたという記事である。役者似顔絵の禁止については、天保十三年の六月の町触が    よく知られているが、十二年の十一月の禁止令は確認できてない。(本HP「浮世絵辞典」「う」の「浮世絵に関する御    触書」参照)竹内は霊岸島とあるから宝永堂竹内孫八か。「せり」は糴(セリ)売り(行商)の意味。摺師の久太郎は、翌十    四年の冬、国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」の流行に便乗して出版した小形版「土蜘蛛の絵」(貞秀画)の出版が咎    められて、罰金三貫文に処せられている(『藤岡屋日記 第二巻』②413)なおこの藤岡屋の記事で不審なのは「豊国    事、庄蔵」というくだり。庄蔵とあるからこの豊国が国貞であることは疑いないが、国貞の豊国襲名は天保十五年(弘    化元年・1844)四月とされる。(『藤岡屋日記』第二巻②419)藤岡屋は、この天保十三年五月の記事を、国貞が豊国    を襲名した後に書き改めたのであろうか。ところで、この件に関しては馬琴も、記録を残している。下出、天保十三年    (1842)九月二十三日付、殿村篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』(第六巻・書翰番号-10)参照のこと。2013/09/20追記〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十四年(1843)記)   ◇豊国画絶板 p337   〝五月十九日    此節豊国の画、子供踊りの錦絵、絶板ニ相成、其外役者名前紋付候品、同断也〟    〈豊国とあるが、五月廿四日の記事と同じであることから、国貞のことであろう〉     ◇国貞画絶版 p340   〝五月廿四日    子供踊錦絵、国貞画、板行御取上ゲ也、売々(買)御差留、其外役者名前紋付候もの、同様ニ御差留也〟    〈国貞の「子供踊錦絵」は未詳〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p419(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記)    ◇国貞、豊国襲名   〝(四月)此頃歌川豊国弟子五渡亭国貞、二代目豊国と成、此時沢村訥升、沢村宗十郎訥子と改名致し、    梅の由兵衛を相勤ル也。右看板を国貞、豊国と改名致し、始而是を書也、浮世絵師ニて哥舞妓役者の似    顔絵・女絵の名人也、名ハ文左衛門、本所五ッ目渡舟持也、故ニ五渡亭といふ也、亀戸天神前に住ス也。     草双紙田舎源氏、鶴喜板本ニて種彦作、国貞画ニて大評判ニて、三十八篇迄出しが、此度絶板ニなる    也、正本仕立も同く絶板也、右絶板故ニ鶴屋喜右衛門ハ潰れる也〟    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p506(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇仮名手本忠臣蔵    〝七月七日初日     仮名手本忠臣蔵 増補十五段続  座元 中村勘三郎    世に知られたる竹田出雲が妙作の十一段へ、御好に任せ銘々伝を綴り合せし幕無の、大道具は花野の秋    のいろはの袖印、御ひいき御恵之神の応護、大星之手配。     【浄瑠璃道行】千種花旅路の嫁入 八段目に相勤申候     (配役名あり、中略)    右狂言の錦絵、豊国画八十番、国芳が画五十番、出板致す也〟      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p543(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849))   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝十月      田舎源氏草双紙一件     文政十二年正月、油町鶴屋喜右衛門板ニ而諺(偐)紫田舎源氏といへる表題ニて、柳亭種彦作、哥川国    貞の画ニて出板致し候処、男女の人情を書し本ニて、女子供のもて遊びニて枕草紙の笑本同様ニて、大    きに流行致し、天保十二年ニハ三十八篇迄出板致し、益々大評判ニて売れ出し候処ニ、天保十三年寅春    ニ至リ、御改正ニ而高金之品物売買之義差留ニ付、右田舎源氏も笑い本同様ニて、殊ニ表紙も立派成彩    色摺故ニ絶板被仰付候ニ付、鶴喜ニて金箱ニ致し置候田舎源氏の板けづられ候ニ付、通油町鶴喜、身代    退転(二字欠)候、然る処夫より六年過、弘化四年未暮、少々御趣意も相ゆるミ候ニ付、田舎源氏(一    字欠「表?」)題替ニて相願ひ、其ゆかり雛(鄙)の面影と云表題ニて改刻印出候得共、鶴喜ハ微禄ニて    出板自力ニ不及、依之神田鍛冶町(一字欠)丁目太田屋佐吉の両名ニて、雛の面影初篇・二篇と出し、    是田舎源氏三十九篇目故ニ、三十九じやもの花じやものといへる事を口へ書入、又々評判ニて、翌申    (嘉永元年)暮ニハ三篇・四篇を出し、作者は一筆菴英泉、画ハ豊国なり、当酉年(嘉永二年)春五篇    も出し候処ニ、板木ハ両人ニて分持分居り候処ニ、鶴喜ハ不如意故ニ右板を質物ニ入候ニ付、一向ニ間    ニ合申さず候ニ付、当秋太田や一人ニ而又々外題を改、足利衣(絹)手染の紫と云題号ニ直し、鶴喜の株    を丸で引取、雛の面影六篇と致配り候ニ付、十日鶴喜(文字数不明欠)致し、太田やへ押懸り大騒動ニ    及びて喧嘩致し候得共、表向ニ不相成、六篇目ハ両方ニて別々に二通り出ル也、太田屋ハ足利衣手染の    紫、作者一筆菴、鶴屋は其ゆかり雛の面影、作者仙果、右草紙ニ、仙果ハ師匠種彦が書残置候写本故ニ    此方が源氏の続なりと書出し、一筆菴ハ此方が源氏の後篇なりと書出し、是定斎屋の争ひの如くなれば、      本来が諺(偐)紫で有ながら        あれが諺だの是が本だの      田舎から取続きたる米櫃を        とんだゆかりの難に太田や〟    〈『偐紫田舎源氏』(初編~三十八編・柳亭種彦作・歌川国貞(三代豊国)画・文政十二年(1829)~天保十三年(1842)     刊)。『其由縁鄙俤』(初編~六編・一筆庵可候(英泉)作・一陽斎豊国(三代)画・弘化四年(1847)~嘉永三年     (1850)刊。英泉は嘉永元年没)。『足利絹手染紫』(六編(『其由縁鄙俤』五編の改題続編)笠亭仙果作・三代歌川     豊国画・嘉永三年刊)。天保改革の余波で『偐紫田舎源氏』が絶版になり家運傾く鶴屋喜右衛門と新興の太田屋佐吉     (神田鍛冶町二丁目)とが、それぞれ英泉と仙果を立てて、柳亭種彦亡き後の後継争いを演じたのである。絵師はと     もに三代豊国が担当したのであるが、仙果は戯作専門であるからともあれ、英泉は自ら絵師である、はたしてどんな     思いでこの合巻を書いていたのであろうか。おそらく『偐紫田舎源氏』では、国貞(三代豊国)画のはたす役割があ     まりにも大きかったので、読者は無論のこと板元にも豊国以外の起用など思いも及ばなかったのだろう。英泉自身も     あるいはそれを認めていたのであるまいか。定斎屋(ジョウサイヤ)〉は行商の薬売り。鶴屋と太田屋の後継争いを薬屋の     本家争になぞらえたのである〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p544(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)      ◇里見八犬伝、後日話    〝爰ニ故人曲亭馬琴が老筆をふるひて、初篇より九篇迄百八冊書残し置里見八犬伝、大評判ニて流行致し    当時丁子屋平兵衛板元ニ候処、南伝馬町一丁目蔦屋吉蔵板元ニて、右の本を丸取ニ致、馬琴のちからを    盗て、為永春水作、国芳画ニて、芳談犬の双紙と題号し、弘化四年未秋ニ合巻出板致し、当酉迄十三篇    迄出、流行也、丁平ニて是を聞て立腹致し、余り残念故ニ自分も同未年暮ニ同様之合巻ヲ出板致し、仙    果作・豊国の画ニて、仮名読八犬伝と表題致し、是も当時九篇出、流行致し候得共、元々の八犬伝ハ丁    平の株ニ候を蔦吉ニて類板致し候ニ付、今迄中之宜敷処不和ニ相成候よし       芳談と其仮名読ハわかれ共          心の犬がいがみ合けり〟    又、侠客伝・美少年録も馬琴ニて、丁平板元ニ是も又々おつかぶせ、蔦吉板元ニて、一九作・豊国画ニ    て、御年玉美少年始と題号し出板致し、当時ハ四篇迄出ル也。    又 侠客伝仦(ヲサナ)画説と題号し、是も当時三篇迄出ル也、右故ニ弥々中悪敷なりけれバ        丁平のたいらもこぶがいでるとは           さて蔦吉もよくなひと見へ〟    〈『南総里見八犬伝』(馬琴作・柳川重信、二世重信、英泉、貞秀画)は文化十一年(1814)から天保十三年(1842)まで     二十九年に及ぶ読本のロングセラー。「日本古典籍総合目録」は『犬の草紙』を笠亭仙果作・三代豊国画とし、『仮     名読八犬伝』を為永春水二世作・国芳画とする。前者は嘉永元年の初編から途中絵師を替えながらも明治以降に及ぶ。     後者もまた嘉永元年の初編から作画者共に替えながら慶応三年(1867)まで刊行された。『南総里見八犬伝』が文字通     り『犬の草紙』と『仮名読八犬伝』という「犬(似て非なるもの)」を生んだのである〉    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞 二代    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p378(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇合巻「猫又草紙」    〝一 嵯峨の奥猫又草紙      作者花笠文京、二代目国貞画、板元南鍋町二丁目浜田屋徳兵衛    右種本は、五扁迄書有之候由、初扁びらは九月十日頃に処々へ張出し置、芝居初日に配り候積りにて相    待居り候処に、是も同時に御差止に相成候、大金もふけ致し候積り之処、差止られ、金子三十両計損致    し候由、右に付、落首、      浜徳もしけをくらつて損になり    然る処に、右合巻、名題書替に致し、嵯嶺奥(サガノヲク)猫魔太話と直し候て、初扁、十月十日配りに相成    候〟    ☆ くにさだちゅうじ 国定 忠治    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p211(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇国定忠治、磔刑    (嘉永三年十二月二十一日、上州吾妻郡大戸の御関所において、国定村忠次郎、磔の刑に処せらる)   〝国を定め忠義治(ヲサメ)るとも行ず国を騒がす不忠ものなり    剱逆で関所を越る大戸ものかゝる仕置きは国の定めか〟    ☆ くにてる うたがわ 歌川 国輝    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し    (奉納物のリストあり、略)    奥山見世もの     一 力持、二ヶ処在、     一 ギヤマンの船     一 三国志  長谷川勘兵衛作     一 伊勢音頭     一 朝比奈〟
     「【キヤマム】細工舩」 貞重改 国輝画(「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)        〈「【キヤマム】細工舩」に「貞重改国輝画」「貞重改国てる画」とある。貞重から国輝への改名は弘化四年三月以前〉    ☆ くにまる 国丸      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p523(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇国丸画「山水遊覧行列之図」    〝七月廿六日より浅草茅町高野屋友右衛門板、国丸之画ニて、山水遊覧行列之図、三枚ツヾき。    是ハ今度西丸ぇ姫君、京都一条家より御下向ニ付、右之御行列、木曽山中固之図出し候得共、一向不売、    大はづれ〟    〈一条関白実通の娘・寿明姫が次期将軍・徳川家定の正室として、江戸に着いたのが十月四日。そしてお輿入れが十一     月上旬という日取りであった。国丸画「山水遊覧行列之図」は、それに先だっての出版であったが、当てが外れての     である。この寿明姫には次のような噂が巷間に広がっていた〉      ◇「変名問答」p561〈嘉永三年、国芳画「【きたいなめい医】難病療治」の項参照。p134〉   〝(七月)変名(ヘンナ)問答    纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。    右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも    ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東    御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ    ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ    ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承    知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是    非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無    之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟    〈寿明姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていた。翌三年の国芳画「【きたいなめい医】難病療治」     はこの噂を穿ったものとされている〉
   「【きたいなめい医】難病療治」 一勇斎国芳画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p271(天保十三年(1842)五月)   〝天保十三寅年五月    飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事    去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛    門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し    売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原    天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。     右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七     人三貫文宛過料、     画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり。     六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟   〈天保十三年の五月、昨年十一月の芝居移転令と時を同じくして禁じられた役者似顔絵を出版したという廉で、「飛騨内    匠棟上ゲ図」と「菅原操人形之図」が手入れに遭い、絵師の国芳と豊国、板元の伊賀屋・古賀屋等を含めて関係者七名    が三貫文(3/4両)の罰金を科せられたという記事である。役者似顔絵の禁止については、天保十三年の六月の町触が    よく知られているが、十二年の十一月の禁止令は確認できてない。(本HP「浮世絵辞典」「う」の「浮世絵に関する御    触書」参照)竹内は霊岸島とあるから宝永堂竹内孫八か。「せり」は糴(セリ)売り(行商)の意味。摺師の久太郎は、翌十    四年の冬、国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」の流行に便乗して出版した小形版「土蜘蛛の絵」(貞秀画)の出版が咎    められて、罰金三貫文に処せられている(『藤岡屋日記 第二巻』②413)ところで、この件に関しては馬琴も、記録を    残している。下出、天保十三年(1842)九月二十三日付、殿村篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』(第六巻・書翰番号-10)    参照のこと。2013/09/20追記〉
   一勇斎国芳画「飛騨匠柱立之図」    (Kuniyoshi Project「Comic and Miscellaneous Triptychs and Diptychs, Part I」に所収)      ◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844))   (記事は天保十五年のものであるが、国芳の「頼光土蜘蛛」は天保十四年の出版である)     ◇源頼光土蜘蛛の画   〝同(正月)十日      源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし。     又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵    双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見    せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続    百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也     其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
   「源頼光館土蜘作妖怪図」 一勇斎国芳画(早稲田大学・古典籍総合データベース)
   「源頼光館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画・「土蜘蛛妖怪図」玉蘭斎貞秀画    (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)      〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)八月の刊。これはその判ずる内容が幕政を諷したものではない     かと評判をよんだが、お上を警戒した板元伊場屋が絵を回収し板木を削るという挙に出たため、お咎めはなかった。     次ぎに、貞秀の画く「土蜘蛛妖怪図」が同年冬(十月以降)に出回った。これは店先にはお化けのない絵をつるし、     内々にはお化けの入ったものを売るという方法をとった。が、やはりこれも噂が立ち、今度は板摺(板木屋)で板元     を兼ねた久太郎と絵師の貞秀が三貫文の過料に処せられた。そして、天保十四年の暮れか翌十五年の正月早々に、芳     虎の「頼光土蜘蛛のわらいを添」えた画が「たとう(畳紙)」入りの組み物として売り出された。今回は、板摺兼板     元の高橋喜三郎以下、卸問屋・小売り・絵師芳虎ともども、咎を免れえなかった。ところで、貞秀画の板元も芳虎の     板元もそれぞれ板摺となっている、板摺とは板木屋か彫師をいうのであろうから、国芳画の板元・伊場屋とは違い、     板元は一時的なものであろう。高橋喜三郎の場合は松平阿波守家中のものとある。内職にこのような危ない出版も請     け負ったものと見える。あるいは改めを通さない私家版制作に深く関わっていたのであろう。     さて、国芳画の「源頼光館土蜘作妖怪図」の出版は、天保の改革を断行した水野忠邦が老中首座を失脚する直前のも     のである。(忠邦は閏九月に失脚)当時は、幕政と市井との関連が取りざたできるような「はんじもの」が出回り、     さまざまの憶測・風説が巷間に広がっていた。「はんじもの」であるから、絵は読み解く対象になる。読み手は画中     の人物を自分のもつ情報と想像力を駆使して、現実に存在する者となんとか対応させようとする。しかしそれにして     は読み解く根拠も確証も画中にはみつからない。国芳に意図があるとすれば、画中のものを現実のものと特定できる     ような可能性は画くが、特定できるような根拠は画きこまないということではないだろうか。それは一つにはお上か     ら嫌疑がかかった時の弁明というか、逃げ口上にもなりうるし、また判者の自由な想像力をも保証することにもなる     からだ。為政者からすれば、その「はんじもの」が事実を擬えているかどうかという以上に、憶測や風評が燎原の火     の如く広がり、秩序・風紀が乱れてコントロール不能になることが恐ろしいのであった。国芳や板元・伊場仙にそう     した紊乱の意図があるとは思えない。しかし放っておけば制作側の意向を越えて混乱を招く恐れはあった。絵の回収     と板木を削るという処置は、為政者に向けて発した恭順のポーズである。     「兎角ニむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」世の中とは、弘化五年(1848)、将軍家慶の鹿狩りを擬えた「富士     の裾野巻狩之図」(王蘭斎貞秀画)に対する、藤岡屋由蔵の言葉であるが、判じものがあるはずなのに、それを具体     的に案ずることが難しいもの、あるいは改めを通るのが難しそうなもの、そうしたものを敢えて画かないと売れない     時代になっていたのである。処罰されるたびに謹慎の姿勢を示すのであるが、難しいものを求める世の欲求に応えよ     うとすると、どうしてもきわどい画き方をしてしまうのである。         ところで、鏑木清方の随筆「富士見西行」(岩波文庫本『明治の東京』所収)という文章を読んでいたら、次のよう     なくだりに出会った。「七めんどうで小うるさい、碁盤の上へ網を張って、またその上へ蜘蛛の巣を張ったような世     の中」。碁盤・網・蜘蛛の巣という組み合わせには「七めんどうで小うるさい世の中」という意味合いがあったのだ     ろうか。これを使って判じてみると、七めんどうで小うるさい世の中をもたらしたのは頼光と四天王、つまり為政者     側だ。ところがその為政者側がそんな世相に悩まされて病んでいる、ということなろうか。もっとも国芳が碁盤と蜘     蛛のもつ意味合いを清方同様に共有していたかどうか、これまた確証がない。知らないはずはないだろうという想像     をめぐらすことは可能だが、それを国芳に押しつけることは出来ない。国芳には、お上をもってしても、幕政批判の     意図を持って画いたはずだと断ずることは出来まいという自覚はあったように思う〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し    (奉納物のリストあり、略)    奥山見世もの     一 力持、二ヶ処在、     一 ギヤマンの船     一 三国志  長谷川勘兵衛作     一 伊勢音頭     一 朝比奈    浅草田歩六郷兵庫頭、是迄登城之節、馬道ぇ出、雷神門内蕎麦屋横丁ぇ雷神門より並木通り通行せし処、    今度開帳に付、奉納の金龍山と書し銭の額、蕎麦や横丁ぇ道一ぱいに建し故に、六郷氏通行之節、鎗支    へ通る事ならず、右故に少々片寄建呉候様相頼候得共、浅草寺役人申には、片寄候事決て相ならず、右    奉納之額邪魔に相成候はゞ脇道御通行可被成之由申切候に付、無是非是より幸龍寺の前へ出、登城致し    候処、此節六郷兵庫頭、常盤橋御門番故に、早速御老中廻り致し相届候義は、今度浅草寺奥山に広大な    る見世物小屋相懸候に付、出火之節御城之方一向に見へ不申候に付ては、万一御廓内出火之節、見そん    じ候て御番所詰相闕候事も計り難く候間、此段御届申候と、月番ぇ相断候に付、早速右之趣月番より寺    社奉行へ相達候に付、寺社方より奥山朝比奈大細工の小屋取払申付る也、是六郷が往来を止し犬のくそ    のかたき也。      島めぐり田歩めぐりで取払     一 こま廻し 奥山伝司    至て評判あしきに付、落首      奥山にしかと伝じも請もせず       㒵に紅葉をちらす曲ごま〟    〈浅草寺に奉納された銭細工の額によって、通行に支障をきたしたうえに、浅草寺の役人から迂回を命じられた六郷兵     庫頭が、その意趣返しに、奥山の広大な見世物小屋が邪魔で江戸城を見渡せず、万一出火した場合、番所に詰めるの     も難しいと老中に訴えたのである。それが大細工・朝比奈の撤去になったというのである〉
   「浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図(朝比奈大人形)」 玉蘭斎貞秀画    (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)      〈参考までに、国芳画「朝比奈小人嶋遊」をあげておく〉
   「朝比奈小人嶋遊」 一勇斎国芳戯画    (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)   ◇英泉戯作・国芳画「誠忠義士伝」p246   〝当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、    団扇問屋にて、海老屋林之助板元ニて、作者一筆庵英泉、画師国芳ニて、誠忠義士伝と号、義士四十七    人之外ニ判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が蜜柑を配り候処迄、出入都合五十一枚    続、去未年七月十四日より売出し、当申ノ三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り摺込也、五十一番    ニて紙数四十万八千枚売れるなり、是近来の大当り大評判なり。           誠忠で小金のつるを堀江町              ぎし/\つめる福はうちハや〟
   「誠忠義士伝」 一筆葊誌・一勇斎国芳画(Kuniyoshi Project)      〈五十一枚組の「誠忠義士伝」が八千セット(合計すると四十万八千枚)。上記貞秀画「富士の裾野巻狩之図」三枚組     72文で計算すると、一枚当たり24文が408000枚であるから、総計で9792000文。これを前項同様、1両6500文の相場     で換算すると1506両になる。因みに次項の国芳画「亀奇妙々」三枚続60文を参考に一枚20文とすると、8160000文で     1255両となる。いずれにせよ前年の七月からこの年の三月まで、約八ヶ月でこれだけの売り上げである〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(嘉永元年(1848)四月)   〝当申四月出板、南油町野村屋徳兵衛板元にて、亀々妙々亀の遊びとて、亀子を役者の似顔に致す候処、    三枚続六十文売にて、凡千通り三千枚程摺込配り候処、百五十通り、四百五十枚計売、跡は一向売れず、    残り候故無是非佐柄木町の天徳寺屋へなげしとなり。       是ハ近年所々造菊大評判ニて、番附も能売れ候ニ付、去年は所々にて板元多くなり、番付一向売       れず、残らず天徳寺ニ致せしとの咄を聞と、右亀之子の板元も天徳寺へ葬りしならん。          工夫して徳兵衛取らふと思ひしに                亀々妙々に売れず損兵衛〟
   「亀奇妙々」三枚続 一勇斎国芳画(ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)      〈三枚続60文、一枚20文。前項の「誠忠義士伝」は四十万八千枚、こちらは三千枚摺り込んだものの実際に売れたのは     四百五十枚。当たるとはずれるとでは雲泥の差である〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p157(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」   〝当春錦絵の出板、当りハ    一 伊勢太神宮御遷宮之図、  三枚ツヾき、   藤慶板。    一 木下清洲城普請之図、   三枚続、     山本平吉。    一 羽柴中国引返し尼崎図、  足利尊氏ニ書、  同人。    一 姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死、是を粟津合戦今井四郎ニ書。    当春太閤記の絵多く出候ハ、去年八月蔦吉板元にて今川・北条との富士川合戦、伊藤日向守首実検の図、    中浦猿之助と書、村田左兵衛の改ニて出たり、此絵ハ首が切て有故に不吉なりとて、余り当らず候得共、    是が太閤記の絵の最早ニて、当年ハ色々出しなり、又夜の梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、    三枚続出て大当り也、夫故に当春ハ夜の梅の墨絵三枚ツゞき凡十番計出たり、是皆々はづれなり。      太閤記の画多く出板致けれバ       小田がいに摺出しけり太閤記         羽柴しまでも売れて豊とミ       夜の梅昼は売れなひものと見へ〟   〈「太閤記」に取材した錦絵の出始めは嘉永元年(1848)の「富士川合戦」からという。宮武外骨の『筆禍史』によれば、    「太閤記」は受難が続き、古くは元禄十一年(1698)に絶版処分があり、文化元年(1804)には、岡田玉山の『絵本太閤    記』と草双紙武者絵が絶版処分に遭っていた。この時は画工にも累が及んで、喜多川歌麿・歌川豊国・勝川春亭・同春    英・喜多川月麿・十返舎一九等が吟味のうえ手鎖五十日の刑に服していた。今回の「太閤記」ものは、少しは緩んでき    たとはいえ、天保の改革の記憶が生々しい時世での出版である。リスクの高さは予想された。定石通りというか、お上    を憚って木下藤吉郎を中浦猿之助に替えて「富士川合戦」を出版してみた。しかし杞憂にすぎなかった。ただ、首が切    れているのが不吉だとして売れ行きはよくなかった。板元にとっては当てが外れた格好であったが、これはこれで一種    の観測気球にはなったようだ。この程度ならお咎めがないという目安が出来たからだ。この「富士川合戦」は未見。こ    の嘉永二年正月の「木下清洲城普請之図」「羽柴中国引返し尼崎図」「姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死」が「太閤記」も    の。このうち「木下清洲城普請之図」は一勇斎国芳画。あとの二図は未見。「伊勢太神宮御遷宮之図」はこの年の九月    に行われる二十年に一度の式年遷宮を当て込んだもの。国芳にもあるが、藤慶板とあるから玉蘭斎貞秀画である。「夜    の梅」の嘉永元年蔦吉板とは渓斎英泉画か、また嘉永二年板の方は国芳などをいうか〉
   「木下清洲城普請之図」 一勇斎国芳画(「森宮古美術*古美術もりみや」提供)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」   〝於竹大日如来開帳    三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於て開帳〟
   「【おたけ大日如来】略えんぎ」 一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)        ◯『藤岡屋日記 第三巻』p506(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇仮名手本忠臣蔵   〝七月七日初日     仮名手本忠臣蔵 増補十五段続  座元 中村勘三郎    世に知られたる竹田出雲が妙作の十一段へ、御好に任せ銘々伝を綴り合せし幕無の、大道具は花野の秋    のいろはの袖印、御ひいき御恵之神の応護、大星之手配。     【浄瑠璃道行】千種花旅路の嫁入 八段目に相勤申候     (配役名あり、中略)    右狂言の錦絵、豊国画八十番、国芳が画五十番、出板致す也〟    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p523(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝(七月)通三丁目、遠彦より盆後出ル、    宇治川合戦佐々木先陣     実ハ阿部豊後守、大川渡り三枚続、    ほめて計り有て、一向ニうれず〟    〈遠彦こと遠州屋彦兵衛板元の一勇斎国芳画「宇治川合戦」であろう。表向きは佐々木四郎高綱の一番乗りだが、実は     「阿部豊後守、大川渡り」を擬えたと読んでいるのである。「阿部豊後守、大川渡り」とは、三代将軍家光の治世、     大川(隅田川)が氾濫を起こした時、対岸江東の地の視察を命じられた旗本・阿部豊後守が、濁流を渡りきって報告     したというもの。現在、旧安田庭園内にある「駒止め石」は、その時、阿部豊後守が愛馬を止めた石だとされている。     それにしても、何に基づいて、この佐々木四郎を阿部豊後守に見立てたのであろうか。また「ほめて計り有て」全く     売れなかったというのだが、これは寓意不足で、江戸っ子にはものたりないという意味であろうか。ところで「七月     五日、今六ッ半時前御供揃にて、大川筋被為成」(p479)と云う藤岡屋由蔵の書留がある。この「宇治川合戦図」     は、この将軍家慶の大川お成りと関連づけようとしたのであろうか。売りだしは「盆後」とあるから、七月下旬〉
   「宇治川合戦」 一勇斎国芳画(「森宮古美術*古美術もりみや」提供)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p544(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝爰ニ故人曲亭馬琴が老筆をふるひて、初篇より九篇迄百八冊書残し置里見八犬伝、大評判ニて流行致し    当時丁子屋平兵衛板元ニ候処、南伝馬町一丁目蔦屋吉蔵板元ニて、右の本を丸取ニ致、馬琴のちからを    盗て、為永春水作、国芳画ニて、芳談犬の双紙と題号し、弘化四年未秋ニ合巻出板致し、当酉迄十三篇    迄出、流行也、丁平ニて是を聞て立腹致し、余り残念故ニ自分も同未年暮ニ同様之合巻ヲ出板致し、仙    果作・豊国の画ニて、仮名読八犬伝と表題致し、是も当時九篇出、流行致し候得共、元々の八犬伝ハ丁    平の株ニ候を蔦吉ニて類板致し候ニ付、今迄中之宜敷処不和ニ相成候よし       芳談と其仮名読ハわかれ共          心の犬がいがみ合けり    又、侠客伝・美少年録も馬琴ニて、丁平板元ニ是も又々おつかぶせ、蔦吉板元ニて、一九作・豊国画ニ    て、御年玉美少年始と題号し出板致し、当時ハ四篇迄出ル也。    又 侠客伝仦(ヲサナ)画説と題号し、是も当時三篇迄出ル也、右故ニ弥々中悪敷なりけれバ        丁平のたいらもこぶがいでるとは           さて蔦吉もよくなひと見へ〟    〈『南総里見八犬伝』(馬琴作・柳川重信、二世重信、英泉、貞秀画)は文化十一年(1814)から天保十三年(1842)まで     二十九年に及ぶ読本のロングセラー。「日本古典籍総合目録」は『犬の草紙』を笠亭仙果作・三代豊国画とし、『仮     名読八犬伝』を為永春水二世作・国芳画とする。前者は嘉永元年の初編から途中絵師を替えながらも明治以降に及ぶ。     後者もまた嘉永元年の初編から作画者共に替えながら慶応三年(1867)まで刊行された。『南総里見八犬伝』が文字通     り『犬の草紙』と『仮名読八犬伝』という「犬(似て非なるもの)」を生んだのである〉    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p115(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」   ◇絶版・板木没収処分    〝又々五月中旬、日本橋元大工町三河屋鉄五郎板元ニて、国芳之画三枚つゞき、真那板ヶ瀬与次郎灘之図、    豊臣太閤、肥前名護屋引返し之処、長門下之関ニて大難船、毛利家の船ニ助られし処の図、国芳筆をふ    るひ候得共、余り人が知らぬ故に売れず〟
   「豊前国与次兵衛灘之図」 一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p134(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」   〝六月十一日之配りニて     通三丁目遠州屋彦兵衛板元にて、一勇斎国芳筆をふるい書候はんじもの、百鬼夜行の類ひならんか。    きたいな名医     難病療治、女医師【廿四五才位、至て美し、風団之上ニ居】、弟子四人惣髪ニて、何れも年頃也、美     しき女のびつこ・御殿女中の大しり・一寸ぼし・人面瘡・疳癪・やせ病、何れも四人之弟子、種々に     療治致居候処、其外溜りに難病人大勢扣へ居候図也。      右女医師の名、凩コガラシ    一 右之絵、七月初には少々はんじ候者も有之、御殿女中の大尻は御守殿のしり迄つめるとはんじ候よ      し、段々評判に相成、絵は残らず売切、摺方間に合不申候。        難病の療治姉御は広くなり跡より直に詰るせわしさ      藪井竹斎の娘、名医こがらし。    一 近眼は阿部の由、鼻の先計見へ、遠くが見へぬと云事なるよし。     〈「阿部」は当時の老中阿部伊勢守正弘。一条家の寿明姫を家定の正室に見立てたのは、阿部伊勢だと巷間は見てい      た。しかも「遠くが見へぬ」近眼の見立てであったと、揶揄している〉    一 一寸ぼしは牧野にて、万事心が小さきとの事なるよし。    一 びつこは寿明印にて、御下向前に御召衣裳も残らず出来致し居り候処に、御せい余り小く衣服長過      て間に合兼候に付、下着計にて足を継足し候よし。     〈一条関白実通の娘・寿明姫は、前年冬、徳川家定の正室になったばかり。しかし、お輿入れの前から寿明姫には身      体に関する噂が流れていた。この年六月廿八日逝去。二十八歳であった。嘉永二年七月頃「変名問答」(p561)及      びこの年六月の逝去記事の参照〉    一 鼻なし、西尾にや、蔦の紋付也、是は嫡子左京亮、帝鑑間筆頭を勤、男は(一字不明)し、行列は      五ッ箱、虎皮鞍覆自分紋付二疋を率、万事不足無之自慢に致し、鼻を高く致し居り候処に、六月五      日に忰左京亮卒去、国替同様なりと云しと也。    一 あばた、銅の面を当て、釜ニ湯をわかしてむし直候処、精欠(ママ)にや、故は右器量にて、加賀をは      ぶかれ、金と威光にて有馬へ取替遣し候なり。    一 ろくろ首、むしば、かんしやく女。    一 せんき、菊の紋、人面瘡、米代金十五両八分余。    一 やせ男、りん病。     右はんじもの画、国芳を尋られ候処に、是は今度私の新工夫にも無之、文化二年式亭三馬作にて、嬲     訓歌字尽しと申草紙ニ、右轆轤首娘有之、是を書候由。        いろ/\な大難風が発りてもすら/\渡る遠州の灘    一 右難病療治大評判に相成、ます/\売れ候故、諸方に重板出来致すなり。      最初    三鉄     二番目丹半  是ハ初〆ハ      両人のり  越前屋    板木屋太吉  両人のりニて      壱板ニて相談之上、三枚之内、太吉ハ職人故壱枚持、丹半ニて二枚持、合にて摺出し候処ニ、後に      丹半一枚彫足し三枚ニ致し、勝手次第ニ沢山ニ摺出し候ニ付、太吉も二枚摺足し、三枚ニ致し摺出      し候に付、板木二通ニ相成候。       三番目 大面(西カ)伊三郎一枚持候。       四番目 芝口三丁目 和泉屋宇助一枚       五番目 釜屋藤吉一枚彫刻致候。       〆 六板也、本板共に七枚也。      右絵、最初遠州屋彦兵衛願済にて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候に付直下      げ二〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下げ候、然る処に重板出来致して、売出しは百枚に      付卸直一〆文、又は二朱也。    一 七月廿五日 三鉄配り候処、其日に北奉行所へ遠彦より願出し、板上る也、釜藤は八朔より重板配      候処、同十日馬込ぇ板上る也。     難病療治の絵、落着之事。          八月廿五日                     通三丁目寿ぇ掛り名主寄合                               釜屋左治郎                               越前屋平助    板木・摺本取上げ、板は打割り、摺本包丁を以、名主切さき捨候、凡摺本六百枚計きり捨る也。       凌ぎよくなりて難病快気なり〟      〈参考までに、嘉永二年七月頃の「変名問答」を引いておく〉   〝(七月)変名(ヘンナ)問答    纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。    右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも    ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東    御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ    ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ    ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承    知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是    非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無    之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟    〈寿明(スメ)姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていたのである。寿明姫はこの嘉永三年六月六日に     亡くなる。それにしても、幕府・朝廷間の道具にされたうえに、酷い噂を立てられ、結婚後一年も経たずして亡くな     った薄倖の身の上には心が痛む〉
   「【きたいなめい医】難病療治」 一勇斎国芳戯画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p209(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇国芳画、牛若丸弁慶五条大橋の立ち回り、大当たり    〝十月十日配り    日本橋遠彦板元、国芳画にて、源牛若丸京都五条橋ニて弁慶と立合之処、八天狗助太刀致し候図。    鞍馬山僧正坊、彦山の豊前坊、大峯の善鬼、飯縄三郎、愛宕の栄術太郎、大山伯耆、比羅治郎坊、雨降    山相模坊、      以上八人也、右之絵大当り也。         牛若の五条の橋が大当り         これ八天狗の働きとみえ〟    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p214(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850))   ◇相撲・鬼若力之助    (十一月二十二日、回向院において相撲興行)   〝初日より土俵入り致し候    丈ケ四尺一寸、重サ十八貫目、鬼若力之助 少年八歳     生国上総国武射郡戸田村にて、相撲年寄浦(ママ)の浦与一右衛門門人に相成候〟
   「鬼若力之助」 一勇斎国芳画(国立国会図書館・貴重書画像データベース)       ◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇板木没収   〝東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東都    会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。    右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大評    判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名主    立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが         皆幽霊できへて行けり     右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟    〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6500文で換算すると約217文)、中品一枚が一匁     五分(約163文)、並一枚一匁(約108文)とこれもかなり高価。     「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳。     「同合之宿」も未詳。     「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か。     「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か。     「同十二支」は一勇斎国芳画「東都名所見立十二ケ月」か。     「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か。     「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か。     「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か。     以上はすべて嘉永五年の刊行〉       〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値、     極上品の二匁は195文、中品の一匁五分は147文、並の一匁は98文。「東海道五十三」は嘉永五年の刊年から、三代目     豊国のものと見た。2010/3/16追記〉
   「木曾街道六十九次」「下諏訪 八重垣姫」 一勇斎国芳画(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)
   「東都名所見立十二ケ月之内極月 両国 大星由良之助」 一勇斎国芳画(国立国会図書館・貴重書画像データベース)
   「見振十二おもひ月」 一勇斎国芳狂画(国立国会図書館・貴重書画像データベース)    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p352(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇浮世又平名画奇特    〝 嘉永六癸丑年七月     浮世又平大津絵のはんじもの、一勇斎国芳筆をふるひ、大評判に預りましたる次第を御ろうじろ。     右は此節、異国船浦賀渡来之騒動、其上ニ御他界の混雑被持込、世上物騒、右一件を書候ニは有之間    敷候得共、当時世上人気悪敷、上を敬ふ事を不知、そしり侮り、下をして、かミの愁ひを喜ぶごときや    から多き所ニ、恐多き御方ニ引当、種々様々ニ評を附、判段(断)致申候ニ付、如斯大評判ニ相成候。       浮世又平名画寄(ママ)特 二枚続       国芳画、板元 浅草新寺町、越村屋平助     右絵売出し、七月十八日配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千    六百枚宛摺出し、益々大売なれば、       一軒で当り芝居ハゑちむらや         からき浮世の時に逢ふ津絵     右画組ハ、三芝居役者ニ見立     一 浮世又平                  市川左団次     一 鬼の念仏                  嵐  音八     一 福禄寿                   板東佐十郎     一 藤娘                    中村 愛蔵     一 鷹匠若衆                  中村翫太郎     一 赤坂奴                   中村 鶴蔵     一 猿ニ鯰                   中山文五郎     一 大黒                    嵐 冠五郎     一 かミなり                  浅尾 奥山     一 弁慶                    中山 市蔵     一 座頭                    市川広五郎        鬼のやふになりて集し奉加帳          せふきのいでて跡はおだぶつ     右大津絵之評、荒増左之通                            水戸の御隠居           浮世又平                  市川左団次         めっぱふな当りはづれのあぶな芸           又も浮世に出てさわがせる     一 評、水戸前黄門斉昭卿、御幼名敬三郎殿とて、部屋住之節は瘂の如く聾ニ成居、家督之後、急に       発明ニなり、余り利口過て我儘ニなり、増長致し、国中の堂宮を潰し、釣鐘を大筒ニ鋳直し、軍       を催し騒ぎ(ママ)故ニ押込隠居となり、其後、御免ニて、又々今度引出され、浮世ニ又出て、世を       平らげるから浮世又平だ。                            十二代の親玉       鬼の念仏                   嵐 音八         一生の皆行条(状カ)は敵役           能くいわれずにおわり念仏     一 評、鬼と言物ハ、世界ニ無之ものゝ由、寛政五年癸丑の御生れ、鬼門ハ丑寅之間ニて、牛の角ニ、       虎皮の脚半致し、いかれる赤き顔ハ、是亦鬼也、奉加帳ハ西丸御普請上納金、折角帳面ニ記せしを、       残らず割返せしハ、隠居の差差(衍)略なりとて、撞木振上ヶて□□□(ママ)で居る、又傘壱本背負し       ハ、天が下をしろしめしたる尊き御身も、死出の旅路ハ道連もなく、たゞ傘壱本ニ付雨露を凌ぎ、       泪をこぼし、急に気がつひて後生心が出たから、是が鬼の念仏だ。                                十三代目       福禄寿                   板東佐十郎         疳症だ抔とわらひし見物も           いよ坂三津が再来の芸     一 評、文政七申年の御生れ、生得利口成ど、御病気故ニ首を振てきやつ/\と欠歩行、故ニ軍配団    扇之印ニ九棒にハ少しなひ、中が赤ひといふ、今迄ハ馬鹿の様ニ思われ、急ニ利口ニなり、万事行届き    過るから、大黒が今からそんなに利口振てハならぬと、頭を押へて居る、御末子成共、只一人り残り給    ひ、御家督をふまへ、天下を知らし召、故に福禄寿だ。                                 新下御台所       藤娘                  又、姉の小路共                                中村 愛蔵        奥様が御局さまか知らねども          御贔屓きゆへに時に愛蔵     一 評、御縁組ハ、何れ五摂家、御紋ハ下り藤、今迄のハ弱かつたが、今度のハ達者だと、藤を振廻       して居ル、是急ニ不時の御下りだからふじ娘だ、又姉さまハ是迄用ひられ、大姉へだとかき廻し       た所が、不時ニ御目通り差扣ニ下ゲられ、難義する故ニふじ娘だ。                              一ッ橋七郎麿       鷹匠の若衆                 中村翫太郎         たかを手に押へてくゝり袴とハ           これ先例のかんたろう也      一 着物の印が七郎丸ニて、始終の〆くゝり袴をかんで、鷹野ニ出ても一ッ橋を飛こへ欠廻る、すこ       やかな御若衆だ、又着物の前ニ四ッの筋在、前を合せるから、しじう仕合せだろう。                             水戸ニアメリカ       猿ニなまず                 中山文五郎         穏やかに帰してやるが大兄い           いやとぬかせバ神風が吹     一 日本国をゆるがす異国の大なまずを、御国の鹿島の要石で押へて居ル、又申の御事ハ西丸様ニて、       日本をゆるがす異国人を瓢箪の大筒ニて押へ、ぬらくらしても瓢箪でなまづだ。                            大筒稽古ニ                             アメリカ人       雷                     浅尾 奥山         かみなりでおこしおこし(衍字)ぶつきりのアメリカの           とけてながるゝ日の本のとく     一 評、大筒の音ハ雷の如く諸人を驚かし、碇ニて浅深をはかるも人にいやがられる敵役、億(臆)病       者ハいつそ奥山へ逃て行ふと言から、異国船の上へぴつしやり落て、雷火で焼ころせバ、是がほ       んのかミなりだ。                                       紀州       赤坂奴                   中村 鶴蔵         鎗の所作外に二人りとなき奴           大手を振てりきミ振り込     一 評、御先祖の是ハ有徳の君ときく、千代万代も栄ふべし、外ニ又とハなき血筋、壱本鎗の御道具       を、振てふり込西の国、入れバかさなる二重橋、昇り詰たる奴だこなり、又是を福山共言、余り       一人でやりすごし、はだしに成て逃るといふ。                                御内証の御方ニ長岡       大黒                    嵐 冠五郎         御表にあるは大黒柱にて           御内仏にも奥の大黒     一 評、福禄寿のあたまへ替紋の階子を懸て登り、其様ニ今から利口振てハわるひと頭を押へて居る、       自分もうへを見ぬ様にとて頭巾を冠り居る、是ぞゆるがぬ御棚の大黒、表向は跡へさがつて居ても、       内証ニて奥向を取締り、守護するから、内仏の大黒さまだ。                                芝ニ上野       弁慶橋                   中山 市蔵         三井寺へ行ふとハうぬ太いやつ           上への方よりなげし大かね         同役の早半鐘をやめにして           芝は大かね上野じん/\     一 評、是ニもとづき弁慶が、三井から上の方へ、大かねをひつかつぎ行んとせしが、かへろう/\       と言ゆへ、夫□みとなげた所が三縁山、いよ/\大かね増上寺、真に徳が付ましたと、りきミち       らせしかげ弁慶。                                    福山ニ筒井       座頭                    市川広五郎         総領となる一ッ目のちからより           肥前のはても見ぬ人明鏡         水にあわぬ御茶の出花や阿部伊勢茶           これハ肥前の銘茶嬉し野     一 評、御役始メにハ、浜松の嵐ニかわるいせの神かぜ抔と誉そやし、段々の御出世ニて、格式と御       加増ニて頂上致し、夫より皆々憎ミ嫉ミ出せしハ、当世の人気ニて、能言者一人もなし、乍然御       歳若ニて諸人の上ニ立勤候事、中々及ぶ事ニあらず、人ハめくらの様に言が、急度目の明た座頭       だ。       又、筒井ハ先祖から日和見の順慶と言が、日の岡峠の出張ニも、うかつに敗軍せず、当代になり       ても長崎奉行も在勤致し、町奉行も相手の榊原主計頭ハ、評判能て大目付ぇ投られ、筒井ハ評判       なくして、町奉行の大役を永く勤め、今西丸御留守居へ押こまれても、なくてならぬ人と見へて、       聖堂へ引出され、異国夷す文字さへも読あきらめるから、是はめくらでハない、目明の座頭だ〟
   「浮世又平名画奇特」 一勇斎国芳画(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)    ☆ くも 蜘蛛    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p429(藤岡屋由蔵・嘉永四年(1851)記)   ◇大蜘蛛百鬼夜行絵番付      〝七月廿五日取上ゲ、大蜘蛛百鬼夜行絵之番付之事     神田鍛冶町二丁目太田屋左吉板元ニて売出し、盆前ニ配り候処、今日御手入ニて残らず御取上ゲ也。       こりもせず又蜘蛛の巣に引かゝり         取揚られるめには太田や      右番附は、袋ニ上ニ蜘蛛が巣を懸ケし処を書、正面ニ碁盤ニ大将の刀掛、紫のふくさをかけ在、燭     台を立、碁もならべ有之、化物評判記ニ在。      番附ハ、      昔々在た土佐絵の巻物ニ碁、今ハ野暮百気夜興、化物評判記さへ箱根の先ニもなき。       中ニ百鬼の絵五十計有之、正面ニハ奢と書し玉の人物、鼠色の着物着しふんまたがり、大勢の百      鬼ニ手をとられ、是をとらへ又は喰付、或ハ八方より鑓ニて突懸ん(ママ)候図也、上下ニは右之外題      書有之、左之通り也      実と見へる       忠と見せる      善と見へる       虚の化物        不忠の化物      悪の化もの      倹約と見へる      金持と見へる     貧客と見せる       驕奢之化物       乏(ママ)人の化物    金持の化物      利口と見せる      としまと見せる    新造と見せる       馬鹿の化物       娘の化もの      年増の化物      医者と見へる      女房と見せる     革と見せる       坊主(の脱)化物    妾の化もの      紙烟草入の化物      親父と見せる      米と見せる      若く見せる       息子の化物       さつま芋の化物    親父の化もの      おしやう様と見せる   冬瓜と見せる     鉄瓶と見せて       摺子木の化物      白瓜の化物      土瓶の化物      殿と見せて       山谷と見せる     ふとんと見せる       手玉の化物       色男の化物      ふんどしの化物      火縄と見せる      鴨と見せる      鮒と見せる       麦わらの化物      あひるの化物     こんぶ巻の化物      鰻と見せる       武士と見せる     物識と見せる       あなごの化物      神道者(の脱)化物  生聞の化物      銀と見へる       血汐と見せる     佐兵衛と見せる       鉛の化物        赤綿の化物      猿の化物      お為ごかしニ見せる   不思議ニ見せる           欲の化物        造化の化物    一 右は七月廿五日、板木・絵共不残御取上ゲニ相成候処ニ、直ニ重板出来也。                            八丁堀鍛冶町                                品川屋久助                            本郷四丁目                               丹波屋半兵衛      右二板出来ニて安売致ス也。        生ケ取て丹波やからハいでる筈品川からもいでる化もの〟    〈「こりもせず又蜘蛛の巣に引かゝり~」とは、天保十四年(1843)の国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」を踏まえてい     るのであろう〉