Top 浮世絵文献資料館藤岡屋日記Top 『藤岡屋日記』【き】☆ ききみょうみょう 亀奇妙々 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(嘉永元年(1848)四月) 〝当申四月出板、南油町野村屋徳兵衛板元にて、亀々妙々亀の遊びとて、亀子を役者の似顔に致す候処、 三枚続六十文売にて、凡千通り三千枚程摺込配り候処、百五十通り、四百五十枚計売、跡は一向売れず、 残り候故無是非佐柄木町の天徳寺屋へなげしとなり。 是ハ近年所々造菊大評判ニて、番附も能売れ候ニ付、去年は所々にて板元多くなり、番付一向売 れず、残らず天徳寺ニ致せしとの咄を聞と、右亀之子の板元も天徳寺へ葬りしならん。 工夫して徳兵衛取らふと思ひしに 亀々妙々に売れず損兵衛〟一勇斎国芳画「亀奇妙々」三枚続 (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース) 〈三枚続60文、一枚20文。前項の「誠忠義士伝」は四十万八千枚、こちらは三千枚摺り込んだものの実際に売れたのは 四百五十枚。当たるとはずれるとでは雲泥の差である〉 ☆ きくかわ くにまる ◯『藤岡屋日記 第二巻』p179(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記) ◇曲鞠・菊川国丸 〝三月、浅草観音開帳之砌、奥山において三日(ママ)廿三日より、大坂下り風流曲手まり太夫菊川国丸 曲鞠 番組 次第 大序 寿三番叟 高まり 第二 ありわらのむかし男の姿とは おこがましくも渡る八ッ橋 第三 豊年を悦ぶ翁煙草 こくうを走る仙人の術 第四 張良が沓を捧し橋ならで 是は風流木曾の桟橋 第五 膝渡し左右流しや滝落し 浪を分つゝ雲にかくるゝ 第六 小廻りしゑを拾いッヽ、遊ぶ鞠 雲井はるかに渡る中釣 第七 生花を受流しッヽ折敷て 大廻りしてむかふ乱ぐひ 第八 登り龍くだりし龍や虎こま(ママ) たすきにかけて雁の入首 第九 柴船を足で留たる平た蛛 高く蹴あげて見るも一曲 第十 八重桜額にかけて腕流し、雲井を通ふ雁金の曲〟☆ きくづくり 菊作り ◯『藤岡屋日記 第二巻』p153(藤岡屋由蔵・文化十一年(1814)記) 〝文化十一年九月 巣鴨辺ぇ菊の作り物五十二軒出来る也、大評判にて菊の番付出る也〟〈天保十五年(弘化元年)の項目(『藤岡屋日記 第二巻』p447)に番付あり。以下に示す〉 〝島台 白山前 庄吉 屋形船 雞声ヶ窪 久兵衛 廿四孝 雞声窪 利兵衛 山水 新やしき 伊右衛門 錦帯橋 新やしき 忠兵衛 獅子 同 久治郎 二見潟 同 武助 唐子 すがも 金五郎 瀬多橋 御駕篭町 民蔵 くじら 同 治兵衛 一の谷 同 千太郎 浦島 同 平七 花出し 巣鴨 新助 狐の顔 同 長三郎 花だん 同 幸治郎 獅子 同 半平 大虎 同 佐太郎 舟に象 同 金左衞門 竜宮猿 同 藤右衛門 大江山 同 治郎吉 宝尽し 同 弥三郎 虎 同 弥左衞門 一の谷 同 治郎左衞門 初午 同 市郎兵衛 戻かご 同 熊二郎 黒木売 同 善蔵 獅子 同 四郎左衞門 万度 同 勝五郎 宇治川 同 金治郎 みの亀 同 市右衛門 富士 同 半三郎 鍵の額 同 八十治郎 虎 同 半治郎 樊噲 同 文治郎 網打 同 新二郎 鵺 同 庄五郎 道成寺 同 宗吉 島台 同 権左衞門 木菟 すがも 紋太郎 忠臣蔵 原町二丁目 清五郎 宝舟 同 十兵衛 鯛 同 八郎兵衛 鶴亀 同 藤治郎 みめぐり 仲町 八五郎 鎌輪ぬ 同 安五郎 鐘が渕 火の番丁 幸五郎 二見浦 同 鉄五郎 石山寺 同 亀五郎 角力 同 熊五郎 瓢簞 七軒丁 権之丞 函谷関 同 権八 唐崎 同 庄右衛門〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p443(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記) ◇巣鴨・染井の菊 〝天保十五秋九月 【巣鴨染井】菊番附順道記 狸腹つゞみ 白山社 菊の石台 小原町 繁蔵 奉納額 小原町 善二郎 瓢簞駒 いなり前 増右衛門 日蓮上人御難 巣鴨 霊感院 扇日の出 巣鴨下組 市左衞門 富士山 すがも 弥三郎 菊花壇 同所 鉄三郎 旭獅子 同四郎左衞門 三宝に御備 同長太郎 菊花壇 同卯之吉 菊花壇 染井 五三郎 竹沢の駒 染井 音右衛門 竹に虎 同源右衛門 菊花壇 同虎吉 蜃気楼 同由五郎 大象 同金五郎 二見ヶ浦 同粂蔵 鴛鴦 同富治郎 屋根舟 同金蔵 亀 妙義坂下 妙義亭 子供力持 殿中 喜兵衛 兎住吉踊 殿中 庄八 菊花壇 吉祥寺前 仙太郎 〆廿四ヶ所之所、十月始に霊感院菊は取払也、殿中庄八が続に、鹿と猿出来る也、 かいろも出来る也、小原町ぇ挑灯に釣鐘出来〟 〝菊見の道草 栗崎常喜作 天保十あまり五ッとせといふ年の菊月の末の頃、巣鴨の里染井あたりに菊の作ものくさ/\出来しとて、 貴賤袖打引て群れ行ける。(以下略)〟 〝(十月)此節巣鴨・染井之作菊、三十三年目にて出来致せし故に大評判にて、見物の群集引もきらず〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p554(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記) ◇造り菊 〝弘化二年秋の末、巣鴨・小石川・染井・駒込・千駄木・谷中辺、植木屋造り菊出来、見物之諸人群衆致 すなり (出展作品名・句・制作者名からなる「乙巳秋菊百句合」は省略) 但し、追々に作り菊出来致し、根津・谷中・染井・駒込・巣鴨・小石川・白山辺、八十ヶ処余有之、番 附も数多出て一様ならず 十月朔日頃より初り、同廿九日に仕舞候よし。 去年よりも群集す也 向島ぇも作り菊出来る也、番附出る (番付あり、省略) 此節、本町三丁目裏河岸(△の中に「二」の字の図)鱗二といへる薬種店の主、なぐさみに庭ぇ菊を植、 手入致し候処、菊殊の外によく相成、花檀に拵へ、凡百本余にて、丈ヶも延候故、近所よりも見物に参 り、夫より大評判となり、諸方より見物参り候に付、いや共言われず、鳶の者抔懸置て、諸人に見物致 させけるに付、大群集致し、往来ぇは食物等の商人迄出候程の処、見物之内にて足踏候とか何とか申、 公論致し、是が喧嘩となり騒動致せし故に、夫より見物を止て、菊を取払候なり おとなしく見て翁草何故に 遅道 すむのすまぬのきくのきかぬの 菊の番付、九月十六日より売出し廿二軒、九月末には板元六十軒計也、向島の菊の番付四文とて売歩行 也、今年の菊、都合にては八十軒も出来之由、右番付も絵双紙懸り名主村田佐兵衛、浜野宇十郎へ願出、 割印出て板元百軒の命も出来しとの事成〟 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p192(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記) ◇菊の番附 〝九月末、巣鴨、染井、根津、谷中、千駄木、駒込、殿中、其外共菊の番附 (市川団十郎人形、助六揚屋町の場、梅王丸・松王丸人形、八重垣姫・勝頼人形、殺生石に九尾狐等の 番付あり、省略) 菊現物、十月朔日初日にして、十一月五日仕舞なり〟☆ きたいなめいい きたいな名医 ◯『藤岡屋日記 第四巻』p134(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記) ◇「【きたいなめい医】難病療治」国芳画 〝六月十一日之配りニて 通三丁目遠州屋彦兵衛板元にて、一勇斎国芳筆をふるい書候はんじもの、百鬼夜行の類ひならんか。 きたいな名医 難病療治、女医師【廿四五才位、至て美し、風団之上ニ居】、弟子四人惣髪ニて、何れも年頃也、美 しき女のびつこ・御殿女中の大しり・一寸ぼし・人面瘡・疳癪・やせ病、何れも四人之弟子、種々に 療治致居候処、其外溜りに難病人大勢扣へ居候図也。 右女医師の名、凩コガラシ 一 右之絵、七月初には少々はんじ候者も有之、御殿女中の大尻は御守殿のしり迄つめるとはんじ候よ し、段々評判に相成、絵は残らず売切、摺方間に合不申候。 難病の療治姉御は広くなり跡より直に詰るせわしさ 藪井竹斎の娘、名医こがらし。 一 近眼は阿部の由、鼻の先計見へ、遠くが見へぬと云事なるよし。〈「阿部」は当時の老中阿部伊勢守正弘。一条家の寿明姫を家定の正室に見立てたのは、阿部伊勢だと巷間は見てい た。しかも「遠くが見へぬ」近眼の見立てであったと、揶揄している〉 一 一寸ぼしは牧野にて、万事心が小さきとの事なるよし。 一 びつこは寿明印にて、御下向前に御召衣裳も残らず出来致し居り候処に、御せい余り小く衣服長過 て間に合兼候に付、下着計にて足を継足し候よし。〈一条関白実通の娘・寿明姫は、前年冬、徳川家定の正室になったばかり。しかし、お輿入れの前から寿明姫には身 体に関する噂が流れていた。この年六月廿八日逝去。二十八歳であった。嘉永二年七月頃「変名問答」(p561)及 びこの年六月の逝去記事の参照〉 一 鼻なし、西尾にや、蔦の紋付也、是は嫡子左京亮、帝鑑間筆頭を勤、男は(一字不明)し、行列は 五ッ箱、虎皮鞍覆自分紋付二疋を率、万事不足無之自慢に致し、鼻を高く致し居り候処に、六月五 日に忰左京亮卒去、国替同様なりと云しと也。 一 あばた、銅の面を当て、釜ニ湯をわかしてむし直候処、精欠(ママ)にや、故は右器量にて、加賀をは ぶかれ、金と威光にて有馬へ取替遣し候なり。 一 ろくろ首、むしば、かんしやく女。 一 せんき、菊の紋、人面瘡、米代金十五両八分余。 一 やせ男、りん病。 右はんじもの画、国芳を尋られ候処に、是は今度私の新工夫にも無之、文化二年式亭三馬作にて、嬲 訓歌字尽しと申草紙ニ、右轆轤首娘有之、是を書候由。 いろ/\な大難風が発りてもすら/\渡る遠州の灘 一 右難病療治大評判に相成、ます/\売れ候故、諸方に重板出来致すなり。 最初 三鉄 二番目丹半 是ハ初〆ハ 両人のり 越前屋 板木屋太吉 両人のりニて 壱板ニて相談之上、三枚之内、太吉ハ職人故壱枚持、丹半ニて二枚持、合にて摺出し候処ニ、後に 丹半一枚彫足し三枚ニ致し、勝手次第ニ沢山ニ摺出し候ニ付、太吉も二枚摺足し、三枚ニ致し摺出 し候に付、板木二通ニ相成候。 三番目 大面(西カ)伊三郎一枚持候。 四番目 芝口三丁目 和泉屋宇助一枚 五番目 釜屋藤吉一枚彫刻致候。 〆 六板也、本板共に七枚也。 右絵、最初遠州屋彦兵衛願済にて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候に付直下 げ二〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下げ候、然る処に重板出来致して、売出しは百枚に 付卸直一〆文、又は二朱也。 一 七月廿五日 三鉄配り候処、其日に北奉行所へ遠彦より願出し、板上る也、釜藤は八朔より重板配 候処、同十日馬込ぇ板上る也。 難病療治の絵、落着之事。 八月廿五日 通三丁目寿ぇ掛り名主寄合 釜屋左治郎/越前屋平助 板木・摺本取上げ、板は打割り、摺本包丁を以、名主切さき捨候、凡摺本六百枚計きり捨る也。 凌ぎよくなりて難病快気なり 同時、馬喰町山口藤兵衛板元ニて、四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図三枚続き、貞彦画にて出板致 し、七月十一日絵双紙問屋名主八人、通三丁目寿ぇ寄合之節、右之絵を改出し候処に、船軍の躰相いか にもイギリス軍船の模様に能く似たる故に、先売出しは差扣へ可申之由被申候に付、先は配りは相なら ず候、尤先達て名主改め割印は出居り候。 改めはすみ友なれば伊予のぜふ摺りいだしたら山ぐちを止〟〈参考までに、嘉永二年七月頃の「変名問答」を引いておく〉 〝(七月)変名(ヘンナ)問答 纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。 右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東 御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承 知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是 非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無 之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟〈寿明(スメ)姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていたのである。寿明姫はこの嘉永三年六月六日に 亡くなる。それにしても、幕府・朝廷間の道具にされたうえに、酷い噂を立てられ、結婚後一年も経たずして亡くな った薄倖の身の上には心が痛む〉 「【きたいなめい医】難病療治」 一勇斎国芳戯画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース) ☆ きつねけん 狐拳 ◯『藤岡屋日記 第十三巻』(藤岡屋由蔵・慶応元年(1865)記) ◇狐拳・虫拳(十月) ⑬315 〝狐拳 庄屋をバうまく化かせし狐めを鉄砲持てねらふ狩人 庄屋 大樹公/狐 一橋 /狩人 会津 虫拳 大いさ(ママ)なる口で蟇を呑気でもぬらりと側へ寄るなめくじり 蟇 大樹公/蛇 関白閣下/なめくじり 唐津嫡〟〈大樹公は徳川十四代将軍家茂、一橋は水戸の徳川慶喜、狩人は京都守護職・会津藩主松平容保。関白閣下は史上最後の 関白とされる二条斉敬。唐津嫡は老中・唐津藩主小笠原長行〉 ☆ ぎやまんせん ギヤマン船 ◯『藤岡屋日記 第一巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年(1836)記) ◇回向院の開帳 〝六月十五日より六十日之間、嵯峨清涼寺釈迦如来、回向院にて開帳。 大当たり、いろ/\の見せ物出来る也。〈八月十六日より九月十六日まで三十日の日延べ、都合九十日の開帳〉 籠細工富士の牧狩、表看板曽我五郎・朝比奈草摺引、格好よく出来候、亀井町長種次郎作、代三十二文、 笑ひ布袋見せもの廿四文也、虎狩の見せ物廿四文。 江の島宮島長崎の女郎屋の見世物、看板遊君の人形・禿人形・ギヤマン家仕立、代三十一文、東海道伊 賀越敵討大仕掛見世物看板、京都清水人形立、代三十二文、三千世界一水大仕懸看板、龍宮女人形五ッ、 代三十二文、此外数多見世物有之、参詣群集致し、朝参り夜七ッ時より出るなり〟 ◇浅草寺境内の開帳 〝三月中より、浅草境内淡島明神、三社権現開帳。 同所念仏堂にて、会津柳沢虚空蔵開帳、同所にて出生の男の三ッ子、七才なるが来る也、右に付ギヤマ ン舟見世物、代三十二文、殊之外評判よろし。 忠臣蔵大仕懸見世物、代三十二文 大坂天保山の景、大仕懸の見世物、代三十二文〟 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1846)記) 〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し (奉納物のリストあり、略) 奥山見世もの 一 力持、二ヶ処在 一 ギヤマンの船 一 三国志 長谷川勘兵衛作 一 伊勢音頭 一 朝比奈 (以下略)〟「【キヤマム】細工舩」 貞重改 国輝画 (「RAKUGO.COM・「見せ物ギャラリー」) ☆ きょくげい 曲芸 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p264(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)) 〝四月廿九日 此節、深川八幡・成田山開帳にて成和亀吉乱杭渡り大評判なり〟☆ きょくば 曲馬 ◯『藤岡屋日記 第一巻』p247(藤岡屋由蔵・文政三年(1820)記) 〝三月 両国西広小路曲馬 みせもの女美人のよし、薬研堀の家主酒狂の上にて、右女の口を吸候由、然る処曲 馬の男女大勢にて大屋を打擲致し、誤り証文出候、右に付見世物六七日休のよし。 一 右曲馬の女、浅草観音奥山にて清水保之丞殿御同道御成、五月六日也、其節曲馬貝細工の見世 物も御覧有之べき由にて、見世物入口に御用という札を立有之〟☆ きょくまり 曲鞠 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p179(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記) ◇曲鞠・菊川国丸 〝三月、浅草観音開帳之砌、奥山において三日(ママ)廿三日より、大坂下り風流曲手まり太夫菊川国丸 曲鞠 番組 次第 大序 寿三番叟 高まり 第二 ありわらのむかし男の姿とは おこがましくも渡る八ッ橋 第三 豊年を悦ぶ翁煙草 こくうを走る仙人の術 第四 張良が沓を捧し橋ならで 是は風流木曾の桟橋 第五 膝渡し左右流しや滝落し 浪を分つゝ雲にかくるゝ 第六 小廻りしゑを拾いッヽ、遊ぶ鞠 雲井はるかに渡る中釣 第七 生花を受流しッヽ折敷て 大廻りしてむかふ乱ぐひ 第八 登り龍くだりし龍や虎こま(ママ) たすきにかけて雁の入首 第九 柴船を足で留たる平た蛛 高く蹴あげて見るも一曲 第十 八重桜額にかけて腕流し、雲井を通ふ雁金の曲〟☆ きょくもち 曲持 ◯『藤岡屋日記 第十一巻』p477(藤岡屋由蔵・元治元年(1864)記) (四月、伝通院境内にて大黒天開帳、中間と元鳶との喧嘩記事の中に、当時興行していた見せ物記事あり) 〝足之曲持【名代/若太夫】【橘錦太郎/同文次郎】 力持 大力 大碇謙吉 (中略) 足之曲持 橘錦太郎 よしあしの曲はともあれ金太郎も釣方なれば腹をたちばな 力持 大碇謙吉 大力で船も留たる大碇外の喧嘩は留られもせず〟 ◯『藤岡屋日記 第十四巻』p208(藤岡屋由蔵・慶応二年(1866)記) 〝慶応二丙寅年九月 亜墨利加国持渡之道具芸名 足芸曲持、浜碇定吉 番組荒益之分 同 三挺階子曲乗芸 同 大幟曲持上乗之芸 同 崩階子上乗之芸 同 壱本竹上乗之芸 同 大半切桶曲持之芸 同 石台曲持、水風呂桶曲持 同 家内喜樽曲持、大障子曲持 同 数小桶上乗之芸、但是をはねむしと云 〆拾壱番 〈次項に二年契約の浜碇の給金が出ている〉 足芸曲持、新吉原京町二丁目 吉兵衛店 浜碇定吉 三十五才 三千五百両(二年)〟☆ きよただ とりい 鳥居 清忠 ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記) ◇中村伝九郎、十三代目中村勘三郎襲名披露の摺物 〝(三月三日より御礼のための猿若狂言興行。並びに猿若町内に摺物を配る。その摺物の挿絵) 門松 門松錺り有之、大紋・烏帽子・万歳の形、長上下着、三人居。 猿若 猿わかおどり、長上下着、廿二人居る也。 新発意 正面に楽太鼓有之、僧三人居る也鳥居清忠 画〟 〝(四月)右之摺物、袋に入有之、其袋之表に一面に舞鶴を書、口に銀杏をくわへ居、下に寿の字書有之、 かたに、二百二十七年、下に猿若町十三代目猿若、勘三郎。 (中略) 右摺物を町中に配り候に付、集金六百四十両有之候と也、右入用金四百両も相懸り候よし、差引残り金 弐百四十両も有之候得共、坐元勘三郎借金にて、残らず引取られ候よし〟☆ きりちょうきり 桐長桐 ◯『藤岡屋日記 第一巻』p191(藤岡屋由蔵・文化十三年(1816)記) 〝文化十三年、市村座桐長桐に名代替り、文政二年迄五ヶ年之間也、文政弐より玉川彦十郎座と成也。 市村座名代桐長桐と替りて、棟二つに折し節、隣座中村勘三郎座芝居大当りなりし時 はりは落ち桜は青葉其中に何とて勘三ひとり当らん〟