Top              『大田南畝全集』            浮世絵文献資料館
   大田南畝全集               は行                    ☆ はりつ 破笠 〔寛文三年(1663)~延享四年(1747)〕    ◯『武江披砂 巻三』⑰499(寛政二年頃記)  〝麹町天神 社内の扉に青螺にて作りたる飾象有。工人破笠なり。妙はなはだし。近頃火災に焼失〟  〈これは小川破立の絵でなく螺鈿細工。なお『武江披砂』とは南畝の未刊の江戸地誌〉    ☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信 ◎〔享保十年(1725)~明和七年(1770)〕    ◯『金曾木』⑩309(明和二年の事・文化六年十二月記)  〝明和三四年の比、予が十八九歳の時作りし狂詩あり、その時の事を記せり  大小会終錦絵新 又看洲崎闢塩浜 天文台上調新暦 医学館前哀古人  宗滅出山御蔵講 参多稲荷大明神 又聞巣鴨挑灯集 応是当時挊立身  明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ    しよりその事盛になり、明和二年より鈴木春信吾妻錦絵といふをゑがきはじめて紅絵の風一変す(後略)〟   〈錦絵の出現は明和期を代表する出来事なのである。巨川の項参照〉    ◯『寝惚先生文集』①353(明和四年九月刊)  〝詠東錦絵   忽自吾妻錦絵移 一枚紅摺不沽時 鳥居何敢勝春信 男女写成当世姿〟    〈明和期、吾妻錦絵といえば春信画。紅摺の一枚絵に活躍していた鳥居派は衰退する〉    ◯『売飴土平伝』①373・385(明和六年春刊)  (春信画・舳羅山人署名の南畝の漢文戯作。平賀源内と平秩東作の序跋があり。須原屋市兵衛板。    春信の挿絵は、当時評判の飴売り土平と鍵屋お仙・柳屋お藤を画く。この評判娘二人の優劣を論じた狂    文が「阿仙阿藤優劣弁并序」で、南畝はお藤の美貌を次のように表現している)   〝雑劇(キョウゲン)趣を写し、錦画世に伝ふ。春信も幾たびか筆を投げ、文調も面(カホ)を肖(ニ)せ難し〟    ◯『半日閑話 巻十二』⑪343(明和七年六月十五日)  〝〈六月〉十五日、大和絵師鈴木春信死す。この人浮世絵に妙を得たり。今の錦絵といふ物はこの人を祖    とす。明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかヽずして云、われは大和絵師也、何    ぞや川原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌    川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す〟    〈南畝は春信より直接聞いたのであろうか。春信画の役者絵は存在する。豊春の項で言及したように、この「役者絵」     と対になっている「浮世絵」の意味がよく分からない。前出豊春の項参照〉    ◯『浮世絵考証』⑱443(寛政十二年五月以前記)  〝明和のはじめより吾妻錦絵をゑがき出して今にこれを祖とす。これは其頃初春大小のすり物大に流行し    て、五六遍ずりはじめて出来より工夫して今の錦絵とはなれり。春信一生歌舞妓役者の絵をかヽずして    いはく、われは大和絵師なり、何ぞ河原者のかたちをゑがくにたへんやと。その志かくの如し。明和六    年の頃、湯島天神に泉洲石津笑姿開帳ありし時、二人の巫女みめよきをえらびて舞しむ。名をお波、お    みつといふ。又谷中笠森稲荷の前なる茶屋鍵屋の娘おせん、浅草楊枝や柳屋仁兵衛娘おふじの絵を錦絵    にゑがきて出せしに、世の人大にもてはやせり〟    ◯「南畝文庫蔵書目」⑲415(年月日なし)  (「画部」の項) 〝遊色妹背種 二巻 春信画〟    ◯「杏園稗史目録」⑲452(年月日なし)  (「画本部」の項) 〝遊色妹背種 春信画 二〟    ◯「杏園稗史目録」⑲467(年月日なし)  (「春画并好色本」の項) 〝遊色妹背種 二巻 鈴木春信と見ゆ〟    〈南畝は春画「遊色妹背種」を春信画とする。『国書総目録・著者別索引』には見えない〉     〈南畝と春信の交渉は、明和六年刊の南畝著『売飴土平伝』に春信が挿絵を画く以前からのものであろう。明和三年十月、    南畝は川名林助を介して神田白壁町に住む平賀源内に初めて会ったが、源内の門人・万象亭の『反古籠』によると、そ    の頃源内は同町の戸主でもあった春信と常に往来する仲であった由。するとその頃から二人に面識があっても不思議で    はない。したがって『浮世絵考証』にいう春信が一生役者絵を画かずの話も、絵が実際に残されているから事実とは違    うが、春信が自らそう語ったというのは事実ではないか〉   ☆ はるまち こいかわ 恋川 春町 ◎〔延享元年(1744)~寛政元年(1789)〕    (画業に関する記事のみ)    ◯「杏園稗史目録」⑲462  (「巾箱本」の項)   〝第二嚢  当世風俗通 安永二年 春町 続編女風俗通 安永四年 春町〟  〈「巾箱本」とは小本の意味で洒落本の事〉    ◯『半日閑話 巻十三』⑪396(安永五年一月明記)  (「鱗形屋双紙」の項の欄外注に追考として)   〝去年夏か秋の頃絵草紙二冊出る。金々先生栄花夢て云名也。此絵草紙より風を変ず〟  〈春町作黄表紙『金々先生栄花夢』(鱗形屋板)は、子供の慰み物から大人の読み物に一変させた黄表紙    の記念碑的作品。出版は安永四年であった。南畝は早速反応したのである〉
 〝今年新板の内高慢斎行脚日記といへる本行われる。画工恋川春町作也〟    〈春町作『高慢斎行脚日記』(鱗形屋板)は安永五年刊。黒本の出版に混じって、春町作品が新しい分野を確立しつつ     あることを、南畝は感じていたのではないか。南畝はさすがに文学史上の節目を見逃すことはなかったのだ。なお     「高慢斎」は以後春町の別号にもなった〉    ◯『半日閑話 巻十三』⑪413(安永六年一月明記)  〝当年の絵草紙、鱗形屋新板、恋川春町画并作あり。また、気〈ママ〉三二作大に行はる〟    〈朋誠堂喜三二の初登場も見逃していない。二人の登場で黄表紙はその地位を確実なものとしたのだ〉    ◯『菊寿草』⑦232(安永十年一月刊)  〝二十余年の栄花の夢、きんきん先生といへる通人いでヽ、鎌倉中の草双紙これがために一変して、どう    やら草双紙といかのぼりは、おとなも物となつたるもおかし〟    〈前出『金々先生栄花夢』のこと。「鎌倉中」とあるのは黄表紙の常套で「江戸中」の意味〉
 〝作者恋川氏休まれて後は、当時のきヽもの喜三二丈の狂言、板元の細工は流々、仕上の仕打を御覧なさ    れい〟    〈これは喜三二作『見徳一炊夢』に対する南畝の評判だが、これによるとこの天明一年、どういう事情があったものか、     春町は黄表紙を作っていないようだ。「作者之部」にも名前はない〉    ◯『岡目八目』⑦268(天明二年一月刊)  〝春町さん打ちませう。祝ふて三冊うりませう。近年袋入斗おつとめゆへ、青本では久ぶり〟    〈天明二年、春町作者に復帰。「作者之部」にも名があり。この「青本」は現在の黄表紙のこと。また「袋入」とは再     版本ということか〉    □「杏園余芳」(月報4 巻三 「南畝耕読」)  (「耕書堂夜会出席者名録 天明二年十二月十七日」)  〝北尾重政/安田梅順/北尾政演/政美/藤田金六    「天明二年/壬寅蝋月十七日夜会耕書堂/遂宴文字楼者九人【木阿 耕書堂/在座】/菅江 田阿 唐    参和 政美/政演 梅順 恋川春町〟     〈蔦屋主催の夜会に参加。北尾重政の項参照〉    ◯『巴人集』②396(天明三年三月詠)  (南畝、酒上不埒(春町)の日暮里狂歌会にて三首詠む〉   〝花  しら雲と見る人丸で無理ならず花はよしのゝ山のてつぺん    乞食恋い     乞食を三日してよりわすられぬ姿は小屋に落ぬ君かな    寄生酔祝     生酔の行たふれても辻番のよく世話をする御代ぞめでたき〟     ◯『巴人集』②410(天明三年六月上旬詠)  〝酒上不埒・地口有武などヽ、むかふ島の酒家むさしやのもとにてさヽげをよめる  初物をさヽげし膳のむかふ島是も十六むさし屋が見せ〟    〈地口有武は星野文竿という人。向島の武蔵屋は鯉料理で有名な料亭〉    □「判取帳」(天明三年頃成)  〝高慢斎恋川春町於子子孫彦宅応需写之   (遊女の後頭部の絵)  身あがりのまつにおもひをたきましてにくらしゐ柴こるばかりなり もとのもくあみ〟    〈この頃、毎月十二日行われていた子子孫彦の狂歌会の席上であろうか。春町の戯画に元の木阿弥の狂歌を配したので     ある。赤良の注は〝高慢斎倉橋寿平住小石川春日街狂名酒上不埒 松平豊後守臣〟とする〉    ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝恋川春町 倉橋寿平  自作の青本の絵あり。小石川春日町に居れるゆへ、勝川春章の名を戯れにかれるなり〟    〈寛政元年七月七日、春町逝去。その死因等について色々憶測も飛んだようであるが、南畝に書留はないようだ〉   ☆ ひゃっき こまつ 小松 百亀 〔享保五年(1720)~寛政五年(1793)   (画業に関する記事と南畝との交渉記事のみ)    ◯「識語集」〔南畝〕⑲690(安永二年十二月十二日明記)  (細井広沢の和歌書「広沢和歌」を書写した時の南畝の識語)  〝飯田町に薬ひさぐ小松やの翁のもとより借りもとめて写し置もの也。安永二年季冬十二日〟    〈南畝との交渉は安永二年から始まったか。この年の春、小松百亀は「鹿の子餅」(木室卯雲作、明和九年刊)と並ん     で江戸咄本の祖ともされる『聞上手』を出版し、評判を得ていた〉    △「全集 巻一 解説」〔南畝〕①525(安永三年二月四日)    〈浜田義一郎氏の解説によると、安永三年二月日、牛込恵光寺にて開催された滑稽版「宝合」の会に、南畝や塙保己一     等とともに、小松百亀も和気春画(ワケノハルエ)の狂名で参加の由〉    ◯『四方の留粕』〔南畝〕①203(安永八年一月四日明記)    〈狂文「春の遊びの記」によると、正月四日、絵師・吉田蘭香宅にて「写絵(うつしゑ)の書ぞめ」会あり。絵師の隣     松、蟷車、狂歌の赤良、橘洲、菅江等とともに小松軒も参加。この会で小松軒は〝小松はみどりの亀のを、泥中にひ     きしりぞき〟とある。小松の苗字そのものが正月にふさわしくそもそも目出たいのだが、なおそのうえに名前百亀に     ちなんで亀の絵を画き、新年を言祝いだのだ。小松百亀の即席画である〉    △『判取帳』(天明三年四月七日明記)   〝天明三卯月七ツの日 予が大草のかくれ家を小草庵と名付たまはりしはかぎりなきよろこびなりけらし    小松百亀六十四才書 (小松百亀の自画像) 〟    〈南畝の注に〝小松屋三右衛門飯田町中坂薬舗住大草屋舗〟とあり〉   ◯『巴人集』〔南畝〕②399(天明三年四月詠)  〝小松軒が大草のかくれ家をとひて  山中にひきこもりたる小松やと思ひの外に大草の庵〟    〈これは前項「判取帳」の四月七日と同じ日か〉    ◯『檀那山人藝舎集』〔南畝〕①461(天明四年三月序成)  〝七月二十六日夜過小松軒遇雨    飯田町上小松軒 新話枝栄葉亦繁 風雨闇雲廿六夜 不知何処拝三尊〟    〈月の出を賞して阿弥陀以下三尊を拝むこの小松軒での「六夜待ち」は天明三年のこと。あいにく「風雨闇雲」の空模     様であったが〉    ◯「会計私記」〔南畝〕⑰52(寛政九年一月十日明記)    〈南畝は年始の挨拶に小松屋三右衛門宅を訪問。ただし百亀は寛政五年十二月九日没であるから、この三右衛門は次代     である〉   ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱443(寛政十二年五月以前記)  〝小松屋 俗名三右衛門 後百亀と云    明和の頃大小のすり物の画、多く小松屋のかけるなり。西川氏の筆意を学びて春画をかけり。元飯田町 薬舗なり。肉蒲団、ぬくめ夜着等の本あり〟    〈西川氏とは祐信の事〉    ◯『一話一言 巻二十九』〔南畝〕⑭123(文化五年頃記)  (「牛込七軒寺町弁天社の相撲取り肖像絵馬の事」)  〝飯田町小松軒 小松屋三右衛門薬店 これを模写して世継稲荷社の絵馬に上しが、其後の回禄にうせて今 はなし〟    〈焼失して文化五年当時は既になしという〉  ◯『金曾木』〔南畝〕⑩309(文化六年十二月記)  〈旗本の大久保(巨川)と摺物の大小会こと。巨川の項参照〉    ◯『奴凧』〔南畝〕⑩480(文化十五年成)   〝元飯田町中坂にすめる薬店、剃髪して百亀といふ。若き時より春画をこのみて、西川祐信のかける画本、 春画ともにことごとくおさめけり。  その自ら絵がける春画、板行になりしは、肉蒲団、ぬくめ夜着、此外にも猶あるべし。落とし咄しの本 も多し。小本に書しは、卯雲の鹿の子餅をはじめとして、百亀が聞上手という本、大に行れたり。其後 小本おびただしく出し也〟  〝文武丸といへる丸薬は小松屋が秘方也。老人など大便秘結するによろし。委くは予が板下をかける効能 書にみゆ〟    〈明和期、江戸における西川祐信画の受容には小松百亀の存在も大きいようだ。一方百亀は木室卯雲とともに江戸小咄     の創始者でもあった。卯雲の「鹿の子餅」(春章画)は明和九年刊、『聞上手』(挿絵も百亀か)は翌安永二年の出版と、     あいついでいる。また南畝と百亀の交渉は、薬の効能を書いてあげるくらいであるから相当親密であった〉    ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩533(文政七年刊)  〝百亀は八十余歳にて寛政の比終れり。此人落し咄の上手にて、聞上手といひしはなしの小冊大きに行れ たり。これ落し咄小本のはじめなるべし〟    ◯『あやめ草』〔南畝〕②81(年月未詳)  〝名にしおふ文武丸をも用ひずによく通じたる小松教訓  これは飯田町小松屋といふ薬屋にある文武丸といへる通薬を年比用ひたればなり〟    〈文武丸の効能を書したばかりでなく、南畝は自らも服用した〉   ◯「南畝文庫蔵書目」〔南畝〕⑲415(日付なし)  〝画部  女容婦美硯 一巻 不知足堂〟    ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲467(日付なし)   〝春画并好色本   女容婦美硯 一巻 不知足堂選 娯楽堂蔵   艶堂散人画 〟    〈この不知足堂は百亀か。安永二年刊「聞上手二編」の自序に〝不知足散人〟の名が見え、これは百亀である。「娯楽     堂」「艶堂散人」も百亀の仮名だろう〉
  〈百亀と南畝との交渉は安永二年頃から寛政五年、百亀の死まで約二十年にわたったようだ。南畝の印象では、百亀は木    室卯雲と並ぶ江戸咄本の創始者であり、また祐信を信奉する春画の百亀ということになろうか〉
  ☆ ふさのぶ とみかわ 富川 房信 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱443(寛政十二年五月以前記)  〝富川房信 吟雪  一枚絵、草双紙などにあり。つたなきかたなり〟    〈絵師の配列等からして、一枚絵は紅摺絵の一枚絵、草双紙は黄表紙ではなく黒本を指しているようだ〉    ☆ ぶせい きた (喜多) 武清〔安永五年(1776)~安政三年(1856)    ◯「書簡 212」⑲266(文化九年十一月十六日付)   〝深川正覚寺橋より南、海福寺前にこいや伊兵衛と申候烟草屋有之候。蕉門杉風子孫にて、夥敷芭蕉、其    角、杉風、支考、許六等之書画所持、平日に人に見せ候事無之、漸当時こいや之旧主より申込、先日致    一見候処、中々短日には見つくされ不申候。いづれも真跡驚目申候。午前より薄暮迄二十四幅見申候。    又々来春日永之節を約し申候。蕙斎、武清など参候て少々図を写し申候。巻物等も数多、杉風隅田川紀    行一巻写取申候。朝湖之朝顔之画に翁之色紙などは誠に奇々妙々〟      〈杉風の子孫、鯉屋伊兵衛の所蔵する蕉門の書画を見る機会は多くはなかったようだ。書簡の主大田南畝と鍬形蕙斎と     喜多武清は、漸く願いが叶って一見したのである。見残したものも多く、来春の再来を約束したというのであるが、     叶ったのであろうか。南畝の記事は見あたらない。「朝湖」は英一蝶〉   ☆ ぶんいつ たに 谷 文一 ◎ 〔天明七年(1787)~文化十五年(1818)〕    ◯「寸紙不遺」⑯口絵(文化八年三月二十日明記)
   〈池之端蓬莱亭において行われる村田雲渓主催の書画会に山本北山、大窪詩仏、南畝等と参加する。書画会引札には     〝痴斎〟とあり。雲峰の項参照〉
   ◯『七々集』②261(文化十二年十月上旬詠)  〝市川蝦十郎浪花にかへるを送るとて、文一子の画ける蝦に題するうた  市川市蔵市鶴、ことし蝦十郎新升と改名して難波にかへるを祝して あらたなるかへ名をみます市のつるなにはの芦はいせの大蝦 〟    ◯「紅梅集」②330(文化十五年三月九日詠明記)  〝弥生九日、人の来て、よべ谷文一子身まかりしといふ。その夜の暁のゆめにその人をみて  あかつきのみはてぬゆめに書させる文ひとつだになきぞかなしき〟    〈三月八日、谷文一は父の文晁に先立って、三十二才の若さで逝った。南畝の夢に出るくらいであるから文晁同様、親     密な交遊であったのだ〉    ◯『南畝集 二十』⑤446(文化十五年三月中賦)  〝聞谷痴斎訃 臥疾不能会葬 其睡夢見痴斎【痴斎諱文一】  病裏聞君遊岱宗 孤雲飛隔丈人峰 枕頭残夢難為続 画手空埋馬鬣封〟    〈南畝は病気のため会葬できなかった〉   ☆ ぶんしょう きし 岸 文笑 ◎〔宝暦四年(1754)~寛政八年(1796)〕    (南畝と交渉のあった記事のみ)  ◯『巴人集』②399(天明三年四月詠)  〝つぶりの光におくる  夕顔のやど屋の軒におつぶりの光源氏とあやまたれぬる〟    〈馬喰町奈万須盛方宅、伯楽連の狂歌会か〉    ◯「判取帳」(天明三年四月八日頃)   〝四方先生をとひ侍りけるとき御茶の水をすぎける時ほとゝぎすを聞きてよめる   御仏の産湯にあらでお茶の水てつぺんかけてほとゝぎす鳴 つむりの光〟    (南畝の注に〝号文笑〟とあり)   〝筆跡師匠の所にて昼寝し侍りてよめる     転寝のあさきゆめみしゑびす様アヽよいかなと忘れせす京 襖の明立つ     つむりの光画〟    (絵は「ゑびす」の由)    〈襖の明立は南畝の注に〝橋本町唐紙屋久二郎〟とあり〉    ◯『四方の留粕』①207(天明四年六月明記)    〈狂文「角田川に三船をうかべる記」。蔦屋主催、宿屋飯盛、鹿津部真顔等四方側の狂歌師による船上狂詩狂歌合わせ。     つぶり光も参加。判者は四方赤良〉    ◯「三保の松」②508(天明六年九月記)    〈宿屋飯盛とつぶり光、南畝の妾(しづ)宅逍遥楼を訪問する。しづは吉原・松葉屋の新造・三穂崎。南畝は同年七月     十五日に身請けしたばかり〉    ◯『狂歌才蔵集』①50(天明七年一月刊)  〝紀みじか、二歩只取、宿屋めし盛、つぷり光、鹿津部真顔、紀定丸等よみかうがへす 天明七のとし初春〟    〈四方赤良序。文笑は狂名つぶり光として校訂者に名を連ねる〉    ◯「識語集」⑲701(寛政八年五月記)  〝「新吉原遊女町規定証文」  北里規定証文一冊、城東亀井町桑揚庵岸氏 岸名教明。称宇右衛門、善夷曲、又号後巴人亭、法諱恕真    斎徳誉素光 病中使人繕写、将以贈予。未達而死。友人六樹園斉来伝遺命、因紀其事。字雖数行、涙亦    数行矣。政辰夏五 杏花園〟    〈つぶり光は吉原に関する古文書を南畝のために病気をおして写し繕い贈ろうとした。しかし果たさないまま四月十二     日逝去した。つぶり光の友人宿屋飯盛が遺命とともに、この「証文」を齎したのである〉    ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)  (一筆斎文調の項に朱筆にて)  〝門人岸文笑 絵冊子ニ此名アリ。狂歌士頭光〟    〈南畝の資料に狂歌師としての記事はあるが、絵に関する記事は「判取帳」「浮世絵考証」だけのようだ〉    ☆ ぶんちょう いっぴつさい 一筆斎 文調 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝一筆斎文調 (以下朱筆)   門人岸文笑 絵冊子ニ此名アリ。   狂歌士頭光  男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなき方なり〟  ◯『売飴土平伝』①385(明和六年三月刊)  (「阿仙阿藤優劣の弁」お藤の美貌を)   〝雑劇(キョウゲン)趣を写し、錦画世に伝ふ。春信も幾たびか筆を投げ、文調も面(カホ)を肖(ニ)せ難し〟    〈文調の評判は似顔絵にあったようだ。春信の項参照〉    ◯『一話一言 補遺参考編一」⑯110(文化八年五月二日明記)  (「雲茶会 二集」(凡例参照)に老樗庵主人の出品として)   〝大谷十町似顔 文調筆一片〟    〈文化八年で明和期の文調画は珍重すべき作品になっていたのか〉    ◯「杏園稗史目録」⑲485(文化十三年明記)  (この年の南畝の収得書目として〉  〝舞台扇 三冊 明和七年庚寅 春章 文調画〟    〈『絵本舞台扇』を入手したのは出版後四十六年の後であった。この記念すべき作品の存在を、南畝はずっと気に留め     ていたのであろう〉   ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁 ◎〔宝暦十三年(1763)~天保十一年(1840)〕    ◯「識語集」⑲710(寛政四年一月十七日明記)  〝「二水七画画巻」  (巻首)近世所謂書画会従此始也。文化庚午孟夏 遠桜山人。   (巻末)右柳橋万屋宴集、画人席上所題、集以為巻。時寛政四年壬子春正月十七日也。杏花園〟    〈巻首は文化庚午七年四月の書入れ。料亭での書画会の始りは、寛政四年一月十七日、谷文晁の柳橋万屋の書画会だと     南畝は言う〉   ◯『南畝集 十四』④311(文化一年三月二〇日賦)(漢詩番号2710)  〝暮春廿日谷文晁約諸友展観古画于南泉寺 南泉精舎借簷楹 詩自無声画有声 乍見雲煙眼前起 還聞百鳥耳辺鳴〟    〈日暮里の南泉寺においてどのような古画を鑑賞したのか記述は見当たらない。また「諸友」も未詳〉    ◯『南畝集 十五』④392(文化二年七月下旬賦)(漢詩番号2706~7)  〝和清人銭徳位吉題谷文晁二画韻  安座罷牛背 飄風何律々 村笛雑樵歌 如従金石出  右牧童  半日芦中客 長江雨後天 得魚還買酒 帰去楽天然  右漁夫〟    〈南畝の長崎赴任中(文化一、二年)、来日中の清人のうちもっとも親しく交遊したのは、医師胡兆新と船頭・張秋琴     とこの銭位吉であった。長崎まで持参した文晁画に銭位吉の詩を請うて、それに南畝が和したのである〉 ◯『一話一言 巻二十八』⑭59(文化五年五月二十七日明記)    〈小石川百間長屋前、幕臣青木久右衛門宅に南畝、文晁、飯田茗陽と古書画を見る。董其昌、探幽等あり。これは五月     七日に続いての鑑賞。この両日に見た古書画の詳細は『一話一言 巻二十九』⑭一二七に所収の「青木氏所蔵書画目」     にあり〉   ◯『南畝集 十七』⑤173(文化七年九月上旬賦)(漢詩番号3403)  〝河世寧寛斎集 同天民五山谷文晁賦  怪石疎松不受塵 小山書屋宴嘉賓 酔郷何憾封侯晩 盤有嘉魚席有珍〟    〈市河寛斎宅の詩会。寛斎の主宰した江湖詩社から輩出した大窪天民と菊池五山、そして文晁と南畝の賦〉    □「年譜」⑳268(文化八年?)  〝此の年、文晁に寿像を描かるか〟    〈出典は東京国立博物館蔵「名家肖像図巻」。ただしそれには〝文化五壬午六十三年寿像〟とある由。これだと文化五     年は戊辰だから干支が合わない。「全集」の年譜は南畝の年令に信をおき、文化八年の作としたようだ〉    ◯「書簡 192」⑲253(文化九年五月五日付)   (壺天楼主人宛書簡)   〝今夕は文晁子初幟によばれ〈云々〉〟    〈初節句に呼ばれるというのは相当親密な仲といってよいのであろう。おそらく言祝ぎの狂歌くらいは詠んでいそうな     ものである〉    ◯『一話一言 巻四九」⑮292(文化十年四月二十七日明記)  (南畝所蔵の「南朝賸粉図」について、文晁が行った考証を写す。考証、略)   〝南朝賸粉図一幅、崎陽春孫二郎所恵蔵于家    右写山楼谷文晁所考也     文化癸酉孟夏念七甲子写于緇林楼中 杏花園〟    〈文晁の考証によると、この絵は明末南京の名妓・李香の肖像画の由。南畝は長崎在住の会所役人・春孫二郎という人     からこの絵を贈られたのである。緇林楼・杏花園は南畝の住居名と別号〉    ◯『南畝集 十八』⑤296(文化十年十月頃賦)  〝題写山楼主人図  曾為筑石行 有嶺字寒水 今見写山図 覚世彼山似〟    〈文化二年十月十四日、長崎からの帰路、南畝は筑前の「寒水嶺(冷水峠)」を越えた。文化十年の今、その景色が文     晁画から彷彿として蘇ってくると言うのだ。やはり文晁の山水画は胸中の山水ではなくて、写実的な山水なのである〉    ◯『南畝集 十八』⑤310(文化十一年二月賦)(漢詩番号3877)  〝東叡山看花邂逅谷文晁諸子  放衙偸得片時閑 独往看花東叡山 山上偶逢同好士 有樽可酌有荊班〟  〈役所を退出して独り上野の花見に行くと、文晁の一行とばったり。次いで飲に及んだ〉    ◯『七々集』②279(文化十二年十一月二十一日明記)    〈狂文『後水鳥記』より。この日千住にて酒戦あり。酒井抱一・亀田鵬斎・文晁・南畝等、どういう縁で結ばれたもの     か立会人となった。ひたすら呑んで酒量を競うというこの実にたわいもない無駄に、江戸を代表する錚々たる文人が     参加したのだ。無駄とはいえ賭けるエネルギーは相当なものである。ところでこの酒戦には先蹤があった。慶安二年     (1649)、川崎の池上太郎左衛門底深と地黄坊樽次との酒戦がそれで、様子は『水鳥記』に記されている。千住の酒戦     記を「後水鳥記」としたのはそれに倣ったからである。なお蛇足を言えば、「水鳥」とは〝水の酉〟つまり酒のこと〉    ◯『巴人集 拾遺』②491(文化十二年頃?賦)  〝写山楼の祝に  鶴亀期千寿 亀齢約万秋 蓬瀛与方丈 併属写山楼〟    ◯『丙子掌記』⑨596(文化十三年九月三日明記)  〝白川老侯、白川へ湯治にゆき給ひし比、谷文晁、木犀一本を鉢植して奉りければ(九月三日御発途ト云)  月かげをうつす桂の一枝は名だたる山の玉とこそみれ 楽翁〟    〈文晁と松平定信との交渉を示す一断片である〉    ◯『紅梅集』 ②315(文化十四年十一月詠)  〝沢村源平が名を源之助と改るを祝して、文晁の寒菊の画にかきて贈る  寒菊の花のかほみせ霜月の春まつ曽我の源之介成〟   〈南畝の手許にはいつも文晁画があったのであろか〉    ◯『南畝集 二十』⑤443(文化十五年一月下旬)(漢詩番号4333)  〝田安府の中村子寅、歴代名公画譜を恵む。云ふ、是れ其の君の賜なりと     歴代名公各擅場 千秋画手有余光 密分恩賜佳公子 七十侯生仰大梁〟    〈『国書総目録』によれば、文晁の「歴代名公画譜」は明・顧画黯の編を模写したもので、寛政十年の成立とある。詩     題によると当初は田安家の所蔵だったらしい。それが家臣の中村子寅に下賜され、そして密かに南畝へ贈られたよう     である。詩は南畝を「七十侯生」に、また田安家を「大梁」に擬したのだろう。ただし南畝の蔵書目録にはない。中     村子寅(荷堂)は田安家の儒臣で『東京掃苔録』には文政四年、四十二才没とある。南畝とは享和の頃から交遊があ     る。北斎が護国寺にて大達磨像を画いた様子を南畝に伝えたのはこの人である。北斎の項参照〉    □「年譜」⑳303(文化十五年一月二十五日)  〝擁書楼発会。文晁・北馬・鶴陵・岸本由豆流・京山・山崎美成等と会す〟    〈「年譜」は高田与清の「擁書楼日記」よりとった。擁書楼は蔵書家・高田与清の書庫のこと。この会には考証学の学     者および愛好者がたくさん集まっていたようである。南畝・屋代弘賢・菊池五山・岸本由豆流・谷文晁・京伝・京山・     山崎美成等の名が見える。もっともこの日の会合に京伝はいない。既に故人となっていた〉    ◯『紅梅集』②362(文政二年三月下旬)    〝助六狂言ありし時、文晁の画る桜の扇に  花の雲鐘は上野か浅草の風情なりけるけしきなりけり〟    ◯『紅梅集』②386(文政二年十月二十二日)  〝文政三年庚辰大小をしる句  二八そば極ひきさげて十五文 小月  此年、市令より市中に令して、よろづの直段を下よといへる事によりてなるべし。己卯の小春廿二日の    夜、写山楼主人の話也〟    〈月の大小を示す句にも、世知辛く世相は反映するらしい〉   ◯『半日閑話 次五』⑱204(文政二年十月記)  〈杉本茂十郎旧宅、恵比寿庵所蔵書画、一蝶の項参照〉  〝十畳 福禄寿の間 文晁筆       襖は皆芭蕉布張。銀雲スナゴ 秋野に鹿〟    ◯『あやめ草』②85~6(文政四年六月中旬詠)  〝文晁のかける鬼箭のゑに  一筋に思ふ心は目にみへぬ鬼の箭ながらたつる錦木〟  〝文晁の画がけるかんかんおどり  かんかんの踊をみても本つめのむかしの人の名こそわすれね 文晁の故妻幹々といふ、唐画をよくせり〟    〈「かんかん踊り」は文政四年の春より流行の唐人踊り。翌年春には禁止される。なお文晁の妻・幹々の唐画に寄せた     南畝の題・賛の類は見当たらない〉    ◯『南畝集 二十」⑤523(文政四年八月下旬賦)(漢詩番号4614)  〝題谷文晁山水画  曾伝院画風 後入南蘋局 酔墨淋漓中 時々見本色〟    〈文晁は清の南蘋派に学んだが、山水画だと宋の院画風が現れると南畝は見ているようだ〉    ◯『南畝集 二十』⑤524(文政四年九月上旬賦)(漢詩番号4618)  〝題谷文晁画山水  数間茅屋両三松 雖有柴門不見蹤 金殿玉楼何足羨 南窓寄傲膝堪容〟    ◯「書簡」⑳62(文化年間 九月十八日付)   〝秋冷罷成候へども弥御清福被成御座珍重奉存候。然ば柳橋星池子、此度二階新居出来一会いたし候に付、    来廿九日、小連にて一会いたし候由、私より此段御序申上くれ候様被相頼候間申上候。御繁多に候はゞ    御子息様にも御出まち入候。私にも参申候。尤廿八被は大会いたし候由、廿九日之方は文晁其外小連之    由申候。早々     以上        九月十八日認置      筆丹様      蜀山人〟    〈宛名の「筆丹様」は未詳。九月二十九日に行われる書家・秦星池の二階新築祝の案内。南畝、文晁も参加の由〉   ◯『杏園集』⑥264(年月日なし)  〝谷文晁画賛   于以結網 于以垂綸 得魚則止 不肯売人 漁夫    采薪々々 可以代酒 富貴巧名 於吾何有 樵夫〟    〈南畝の文晁との交渉は文化年間から始まる。関係は親密で、南畝肖像画の存在はそれを如実に示していよう。また清     人の題画を貰うべく長崎まで文晁画を持参したらしいことは、南畝の文晁評価の高さを物語るものでもあろう〉   ☆ ぶんれい かとう 加藤 文麗 〔宝永三年(1706)~天明二年(1782)〕    ◯『杏園集』⑥183(安永八年賛)  〝賛文麗翁所画六祖手杵図   八月踏碓、是非汝耶、碓本無碓、杵亦非杵、粉々粃糠、数米而炊、見汝手杵、謂之阿誰〟    ◯『一話一言 巻五」⑫219(天明二年三月五日明記)  〝加藤予斎の死  同年同月〈天明二年三月〉五日加藤予斎殿死去。文麗翁、名は都、草画に名あり。従五位下加藤伊予守 殿。[付箋。加藤伊予守藤原泰都、法名以心院殿前予洲刺史天慶了山大居士。葬于麻布広尾慈眼山光林 寺]〟   ☆ ほういつ さかい 酒井 抱一 ◎ 〔宝暦十一年(1761)~文政十一年(1828)〕    (画業と交遊に関する記事のみ)   ◯『南畝集 七』③484(天明八年一月十五日賦明記)(漢詩番号1400)  〝上元宴屠竜公子館  金馬門前白日開 上元春色満楼台 和令飛蓋遊西苑 天下誰当八斗才〟    〈新年早々、酒井雅楽頭の家に招かれたようだ。目出度い席である。南畝は屠竜公子(抱一)の詩文の才能を高く評価し     祝福した〉   ◯『南畝集 九』④93(寛政三年八月頃賦)(漢詩番号1750)  〝秋日過屠竜公子   屠竜公子在江皐 百尺楼頭臥自高 晩命漁人聊下網 得魚新欲酌醇醪〟    〈前出の荘厳な館と違って、こちらは水辺の別荘らしい。とはいえ百尺楼頭であるから、庵などという代物ではない。     姫路侯・酒井雅楽頭の次男ともなるとさすがに豪勢だ〉    ◯『南畝集 九』④138(寛政三年賦)(漢詩番号1890)  〝屠竜公子席上 題妬婦夜祈貴船祠図  香羅曾結両同心 海誓山盟契濶深 溝水応須無断絶 谷風何事変晴陰     伐柯斧使良媒失 積羽舟随旧怨沈 苦向叢祠将告訴 松杉夜色気蕭森〟    〈いわゆる丑の時参りの図に南畝の題〉   ◯「会計私記」⑰48(寛政九年一月一日)   〈南畝、年始の挨拶に行く。酒井栄八殿と記す〉    ◯『細推物理』⑧366(享和三年六月一日明記)  〝伝法院にて、開帳の前にぬかづき、矢大臣門前を出て、富士浅間の宮にまうで、等覚院殿をとふにあはず〟    〈「等覚院」がすなわち抱一である〉    ◯『細推物理』⑧371(享和三年六月十五日詠明記)  (狂歌師花の屋道頼の宅にて)  〝襖に屠竜子の画き給ふといふ一つの柿の実あり。たはぶれに筆とりて  歌の道に熟したる人丸かぶりたつた一つの柿のもとにて〟    〈南畝、新材木町の花の屋少々道頼の家に、抱一の画く柿の絵を一見。花の屋は文化七年四月逝去、南畝は追悼歌を詠     んでいるから、親密な交渉であったようだ〉    ◯『放歌集』②177(文化九年一月上旬詠)   〝鶯村君の松の画は金川宿羽根沢といふ楼の庭にある松なり  かな川の松の青木の台の物洲浜にたてる鶴の羽根沢〟    〈鶯村君とあるのが抱一。この松の画をどこで見たものか記述がない〉    ◯「序跋等拾遺」⑱556(文化十年三月八日記)  (文化十年刊の抱一著「屠竜之技」に南畝の跋)  〝覃(南畝)識抱一隠君 蓋三十有余年。隠君之操。終始如一。性好誹諧。善図画。〈以下略〉  文化癸酉晴明後日 南畝覃書于緇林楼中〟    〈文化十年の「三十有余年」前となると、安永の末年ということになる。しかし管見では、安永期・天明初年の交遊記     事は見当たらない〉    ◯『六々集』②222(文化十二年一月詠)  〝抱一君の梅のずあえの図に  如意々々と素枝の出しもとよりも宝珠のごとき梅の花さく〟    ◯『南畝集 十九』⑤三四一(文化十二年二月上旬賦)(漢詩番号3972)  〝春日尋抱一隠君  狂風処々起清芬 不是探梅偶訪君 幽谷孤鶯求友入 片時閑話洗塵氛〟  〈南畝、根岸の里に抱一を訪問するのは、俗塵を洗い流すためでもあったようだ〉    ◯『万紅千紫』①279(文化十二年二月記)    〈〝根岸の抱一隠君〟を訪問したという詞書あり。そしてその詞書の欄外に注記して〝等覚院抱一君称鶯邨〟とあり。     この詞書は前項と同じ日のものか〉    ◯『七々集』②279(文化十二年十一月二十一日明記)    〈「後水鳥記」より。この日千住にて酒戦あり。抱一、亀田鵬斎、谷文晁、南畝立会う。普段は幽谷に住む隠君抱一も、     時折はこうした戯れにうち興じたのである。谷文晁の項参照〉    ◯『七々集』②298(文化十三年二月中旬詠)  〝抱一上人、月と鼈のゑに  大空に月にむかへるすつぽんの甲のまろきや地丸なるらん〟    ◯『紅梅集』②338(文化十五年四月十二日詠明記)  〝卯月十二日、鶯邨上人のやどりに晋子のかける光陰の道行といふものをみて  光陰の道行はやかくれ家は鶯村も山ほとヽぎす  所からちかき山屋の若楓岡べのまくづかヽるもてなし  夕ぐれに山の根ぎしをいでくればいそぐ四つ手に帰る安茀〟 〈晋子は俳諧師・榎本其角のことか。山屋は吉原の名物豆腐屋。岡部は豆腐の異称〉    ◯『紅梅集』②349(文政一年七月詠)  〝抱一上人より三幅対の画讃をこひ来る  中は遊女の形にして、花に権現の事をよむべきむねをこふ   おいらんの中座の蔵王権現はこがねのみねの山にこそすめ  左右は里の藝者の形して、手に桜のはなをもてり。子守勝手の明神のうたよめといふ  一きりに千代をこもりの神ならばいざせん香をたて直さばや  いにしへの静がまへる法楽も花をもらふが勝手なるべし〟    ◯『半日閑話 次五』⑱204(文政二年十月記)  (杉本茂十郎旧宅、恵比寿庵所蔵書画、一蝶の項参照)  〝松竹梅の間 十畳 抱一筆 袋戸、松竹梅、同筆〟  ◯『麓の塵 巻三』⑲510(日付なし)  〝袖移香  古きうたのよし、土佐画の図あり。次君名忠因称栄八、姫路大守乃二郎君のもとにて見侍りし〟    〈酒井抱一と南畝の交渉は天明初年、狂歌の関係から始まるのであろう。以来題画も多く、身分の違いを越えて息の長     い交遊が続いた〉    ☆ ほくさい 北斎 ◎〔宝暦十年(1760)~嘉永二年(1849)〕    ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)  〝画工之部 春朗〟    ◯『浮世絵考証』⑱447 (寛政十二年五月以前記)  〝(以下二行分朱筆)  古俵屋宗理名ヲ続  二代目 (以下朱筆)   宗理 寛政十年の 三代目   頃北斎と改ム 宗理 北斎門人  これまた狂歌摺物の画に名高し。浅草に住す。すべてすりものヽ画は錦画に似ざるを尊ぶとぞ〟    ◯『細推物理』⑧351(享和三年閏一月十九日明記)  〝名和氏にて、北斎をむかへて席画あり。山道高彦なども来れり。島氏の女、ならびに赤の歌妓お久米来    れり〟    〈名和氏は「細推物理」に頻出、遊山や酒宴での交遊が多い。山道高彦は狂歌名で山口彦三郎という田安家臣、馬蘭亭     とも称した。南畝とは天明初年以来の交渉がある。この頃、馬蘭亭での狂歌会は毎月二十五日に行われており、南畝     もよく参加していた。「島氏の女」は島田お香といい南畝の妾とされる人。そして赤坂の芸者。この席画は賑やかな     こと、芸者の三絃付きであった〉    ◯『細推物理』⑧359(享和三年三月十五日明記)  (竹垣柳塘の亀沢町別荘にて)  〝烏亭焉馬はとくより別荘にして、北斎をもよびて席画あり〟    〈竹垣柳塘は幕臣、南畝とは古書画等で同好の士。烏亭焉馬とも南畝は大変親密であった。この頃の北斎、生活の糧の     中にはこのような席画もあったのであろうか〉    ◯『一話一言 巻四十一』⑭595(文化一年四月十三日明記)    〈文化元年四月十三日、護国寺境内において、北斎は巨大な達磨の半身像を画いた。その様子を中村文蔵という人が書     き留めていた。南畝はそれを書写したのである。中村文蔵(子寅)は文晁の項参照〉
 〝北斎画大達磨紀事  文化甲子三月、護国寺観音大士、啓龕縦人瞻拝、士女雲集、率無虚日、四月十三日、画人北斎、就其堂    側之地、画半身達磨、接紙為巨幅、下鋪烏麦稭、以襯紙底、紙大百二十筵、画者攘臂褰裳、縦横斡旋、    意之所向筆亦随之、蓋胸中已有成局、不持擬議而為也、画成、観者環立、嘖々賞歎、然唯見一班、未能    尽其情状、登座堂俯瞰、所見始全、口大如弓、眼中可坐一人、其所用、四斗酒榼一、胴盆、皆以貯墨、    水桶一、以貯水、為筆者凡六、而藁箒居三、大者如罍、小者如瓶、棕箒二、地膚箒一、皆以代筆    右中村文蔵所記〟    ◯「書簡 76」⑲104(文化一年十月十二日付)  〝近藤重蔵へ北斎画五十三次摺物壱帖、〈中略〉貸し置候〟    〈長崎滞在中の南畝より長男宛の書簡。近藤重蔵は北方領土の探検で知られた幕臣。南畝とは同僚であり、書籍収集お     よび書誌等の面で同好の士。「東海道五十三次」の摺物は享和四年正月(二月十一日改元して文化一年)の出版。南畝     は発売と同時に入手したのであろう。もっとも南畝の蔵書目録等には見えない〉    ◯『六々集』②234(文化十二年三月記?)  〝北斎漫画後編序  目に見へぬ鬼神をゑがきやすく、〈以下略〉〟    〈南畝の序。初編は文化十一年刊であった〉     ◯『七々集』②277(文化十二年十一月記)  〝載斗子三体画法序  書に真行草の三体あり。画も又しかり。〈以下略〉    文化乙亥のとし雪のあした 蜀山人〟    〈天明の〝画工之部 春朗〟以来、南畝は北斎の存在を意識していたようだ。絵本の序を依頼されたのは、南畝の北斎     画に対する高い評価の現れと考えてよいのだろう。ことに寛政期の北斎摺物への評価は俊満とともに高い。また席画     記事は享和三年のものしか残されていないが、これは日記の残っている年がたまたまその年しかなかったからなので     あって、おそらく記録のない他の年にも機会はけっこうあったような気がする〉    ☆ ほくば 北馬 ◎〔明和八年(1771)~弘化元年(1844)〕    ◯『千紅万紫』①232(文化七年三月詠)  (『あやめ草』②69も同文)   〝北馬子の外一人とヽもに巴屋の酒楼に酒のみけるに、一人は下戸なりければ  みつ巴ひとつどもえはき下戸にてふたつ巴はゆらゆらの助〟    〈巴屋は浅草の料理茶屋。書画会もよく行われた。狂歌は「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助気きどり〉    ◯『千紅万紫』①233(文化七年三月詠)  (前出と同じ日の詠か)  〝北馬のゑがける傾城の二人禿つれたるに     北馬の絵北里と対の禿ふでたくさんそうに見る事なかれ〟    〈これは狂歌を揮毫したのであろう〉    ◯『あやめ草』②71(文化七年四月詠)  〝庸軒流生花の師五英女一周忌に  いつまでも猶いけ花と思ひしにはや一めぐり水ぎはぞたつ  吟蝉女二十七回忌  かぞふればはたとせあまり七とせの春秋しらぬ空蝉のそら  右の二うたは北馬のもとめによりてよめり〟    〈五英女、吟蝉女ともに北馬ゆかりの人なのだろうが未詳〉    ◯『六々集』②232(文化十二年二月下旬記)  〝春雨宴柳花苑狂歌并序   (前略)今日こヽにあつまりて、酒をのむものはたそ、文蝶北馬の画にたくみなる人、伊勢伝福甚の興    にのる人、詩は五山、役者は杜若と、世にきこえたる駿河町の名妓になんありける  春雨にぬるヽとかつはしりながらおりたつ脛のしろきをぞみる  雨ふれば柳の糸の長々と長さかもりもかつはうれしき〟    〈新橋の料亭柳花苑(いづ喜)での席画。文蝶は未詳。伊勢伝は新橋住の知人。福甚も未詳。駿河町の名妓とは前出     (栄之の項)のように、当時全盛を誇っていた芸者お勝〉    □「年譜」⑳303(文化十五年一月二十五日)   〝擁書楼発会。文晁・北馬・鶴陵・岸本由豆流・京山・山崎美成等と会す〟    〈「擁書楼」については谷文晁の項参照。北馬がどの程度かかわっていたのか分からないが、民間考証学の拠点とも     いうべきこの擁書楼の会に、北馬は南畝や岸本由豆流、山崎美成などに伍して参会していたのである〉    ◯「杏園稗史目録」⑲486(文政二年)  〝話〈ママ〉本 〈十二部のうち〉  水の行衛 享和二年 北馬〟    〈南畝と北馬との交渉は師匠の北斎より親密であったようで、単に席画上の交渉にとどまらなかったのは、北馬ゆか     りの人に追悼狂歌を詠んでいることでも知られよう〉   ☆ ほっけい 北渓 〔安永九年(1780)~嘉永三年(1850)〕    ◯「南畝文庫蔵書目」⑲408(年月日なし)  (「青楼」の部)  吉原十二時 一巻 六樹園文 北渓画〟    〈「青楼」の部は吉原に関する史料、評判記、洒落本、吉原細見の目録。ただし若干吉原以外もまじる。六樹園は宿     屋飯盛〉