Top 『燕石十種』浮世絵文献資料館
燕石十種 は行☆ はるのぶ がくてい 岳亭 春信 (岳亭丘山・岳亭定岡参照) ◯『無名翁随筆』③314(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝岳亭春信 俗称斧吉、江戸青山ノ人【狂歌ヲヨクス、窓村竹ノ門人也、堀川太郎春信ト云り】号八島定岡ト云、 北渓の門人となり、狂歌摺物、草双紙、読本等を画けり〟☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信 初代 ◯『無名翁随筆』③293(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝鈴木春信【明和頃ノ人也】 俗称(空欄)、居住両国米沢町角、号湖竜斎、【江戸産也】西村重長門ト云、 鈴木春信は浮世美人画に名あり、一時の聞へあり、吾妻錦絵と称する祖とす、画本、小本の差画等多し、 此頃の画本は、こまかき麻の葉の表紙に紅唐紙の外題をはり、袋入なり、明和のはじめより吾妻錦絵を画 き出して、今是を祖とす、是は其頃、初春略暦大小の摺物大に流行して、五六度摺はじめて出来しより工 夫して、今の錦画とはなれり、春信一生歌舞伎役者の画をかゝずして云、我は大和絵師なり、何ぞ河原者 の形を画くに絶へんやと、其志かくの如し、明和六年の比、湯島天神に泉州石津笑姿開帳有し時、二人の 巫女美女のよきを撰みて舞しむ、名をお浪、おはつと云、又、谷中笠森稲荷の茶屋鍵屋の娘おせん、浅草 楊枝店柳屋仁平次娘お藤の姿を錦画にゑがきて出せしに、世人大にもてはやせり、【以上浮世絵類考】 小本画本、春の雪、春の友、武の林【春信筆画本也】 △かさもりおせん △飴売土平も、一時の者也、△銀杏のおふじと云は浅草なり、 絵本諸芸錦、同花かつら 同さゞれ石、同千代松、 同八千代草、同浮世袋、同春の錦、【右春信筆なり】 三馬按、此門人某、橋本町に住て二代目春信となる、後年長崎に至り、蘭画を学びて、再江戸に帰りて、 大に行る、 鏡画の事等、別記にしるせり〟〈「居住両国米沢町角、号湖竜斎、【江戸産也】西村重長門ト云」の記述は、どんな根拠によってどの時点から加えら れたのであろうか〉 ☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信 二代 ◯『無名翁随筆』③294(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「鈴木春信」の項) 〝三馬按、此門人某、橋本町に住て二代目春信となる、後年長崎に至り、蘭画を学びて、再江戸に帰りて、 大に行る、鏡画の事等、別記にしるせり〟〈蘭学者・銅版画家・唐画絵師、司馬江漢のこと。「鏡画」「別記」未詳〉 ☆ はるまち こいかわ 恋川 春町 初代 ◯『無名翁随筆』③296(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝恋川春町【(空欄)年中ノ人】 俗称倉橋寿平、住居小石川春日町、 春町は鳥山石燕の門人也、自画作の青本有り、【草双紙の事也、五枚ヅツ綴】、小石川春日町に居れる故、 勝川春章が名を戯れにかれるなり【以上類考】 三馬按、二代目恋川春町と唱たる画工ありしが、近年改めて二代歌麿となる、春町、歌麿共に、石燕の 門人なり〟 ◯『戯作者小伝』②29(岩本活東子編・安政三年成立) 〝恋川春町 姓は源、名は格、通称を倉橋寿平といふ。狂歌を好みて、其名を酒の上の不埒、又寿山人と号す、戯作に 恋川春町と名のる、駿州小島侯の家臣にして、小石川春日町に邸あり、恋川といふは、住居する地名によ れる也、絵を鳥山石燕に学びて、自画作の冊子多し、他の冊子をも画けり、一説に、勝川春章に学ぶとも いふ、安永四年未年の著述「金銀先生栄花夢」二冊と題号し、邯鄲の趣向大に行れ、同五申年「高慢斎行 脚日記」是又大当りにて、宝暦以来の草双紙は爰に至りて一変す、是より春町の名大に鳴る、寛政元年己 酉年七月七日没す、四ツ屋新宿裏通り浄覚寺【大宗寺横町】に葬る、 【本堂前六地蔵のならびに墓あり】 法名 寂静院廓誉湛水 墓の左傍に辞世の語あり、曰、 生涯苦楽四十六年、即今脱却浩然帰天 (以下、草双紙と洒落本の書名は省略)〟☆ はるまち こいかわ 恋川 春町 二代 (喜多川歌麿二代参照) ◯『無名翁随筆』③296(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「恋川春町」の項) 〝三馬按、二代目恋川春町と唱たる画工ありしが、近年改めて二代歌麿となる〟 ◯『戯作者小伝』②49(岩本活東子編・安政三年成立) 〝二世恋川春町 下谷坂本町に居住と聞けり、文寿堂書房なりし頃の話に、貴家の剃髪して隠居し給へりともいひ、又医師 なりともいふ。何れ歟是ならん。故春町が門人にて、恋川幸町といひけるよし、自らいへりとぞ〟〈『戯作者撰集』に同文あり。なお『戯作者撰集』p九八に〝恋川行町【春町門人天明七より】李庭亭と号 す、著述の書多からず〟〝落し咄 百福物語【小本、俗に油揚本と云】春町喜三二ゆき町掛合の作あり。 序は春町同ゆき町、跋春町、口画歌麿也、三人の像なり〟とある。咄本『百福物語』は天明八年刊〉 ☆ はんべい よしだ 吉田 半兵衛 ◯『無名翁随筆』③290(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝吉田半兵衛【貞享中ノ人】 俗称(空欄)、居(空欄)、京都ノ人ナルカ、号(空欄)、姓氏共ニ未詳、 無色軒が序に云、いはでの山の岩つゝじ、云ねど色に通りものは、吉弥結びの永き契りをかわし、あるは すげがさの深き思ひをしのすゝき、ほに出てより言よしなが染のそめ尽す、とあれば、師宣同時の人かと をもはる、長谷川長春同時の浮世絵なるべし、好色旅日記に、長谷川、吉田とかきしを見れば、其の頃流 行の人とおもはる、 好色訓蒙図彙【貞享三年ノ板、画師吉田半兵衛トアリ】 其後江戸にて再板せしは、師宣の画なり、其後板刻せしは祐信也、是を貞享訓蒙とはいへり、 次篇に委しく記す、画名は数度見たれども、外題を失す〟〈「次篇」未詳。『無名翁随筆』の次篇ということか〉 ☆ ひでまる きたがわ 喜多川 秀麿 ◯『無名翁随筆』③303(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「喜多川歌麿」の項、歌麿門人)「喜多川歌麿系譜」 〝秀麿【俗称(空欄)、下谷柳稲荷前ニ住ス、錦絵アリ】〟☆ ひゃっき こまつ 小松 百亀 ◯『無名翁随筆』③298(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝小松屋【俗名三右衛門、後百亀といふ】 明和の頃、大小の摺ものヽ画、多く小松屋のかけるなり、西川氏の筆意を学びて、春画をもかけり、肉ぶ とん、ぬくめ夜具等の本あり、元飯田町の薬舗なり〟〈百亀著、咄本『聞上手』は安永二年刊。「国書基本DB」は『肉蒲団』を石川豊信画?とする〉 ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 ◯『無名翁随筆』③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「歌川豊広」の項、豊広門人)「歌川豊広系譜」 〝八代洲川岸住、武士近藤徳太郎、文政ノ末ヨリ天保ノ今専画ク、錦画、草双紙多シ〟☆ ひろつね うたがわ 歌川 広恒 ◯『無名翁随筆』③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「歌川豊広」の項、豊広門人、名前のみ)「歌川豊広系譜」 ☆ ひろまさ うたがわ 歌川 広昌 ◯『無名翁随筆』③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「歌川豊広」の項、豊広門人)「歌川豊広系譜」 〝門人 広昌【駿州沼津宿大平某、錦絵二三種アリ】〟☆ ひろまさ うたがわ 歌川 広政 ◯『無名翁随筆』③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「歌川豊広」の項、豊広門人、名前のみ)「歌川豊広系譜」 ☆ ふさのぶ とみかわ 富川 房信 (富川吟雪参照) ◯『無名翁随筆』③294(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝富川房信【(空欄)年間】 俗称山本九左衛門【大伝馬町二丁目ニ住す、絵双紙問屋也】吟雪ト云、錦絵双紙などに出たり、拙き方な り、類考 醒世翁曰、富川房信は、大伝馬町二丁目山本九左衛門と云絵双紙問屋の主人なり、家おとろへて、後に画 師となれり、房信の子を長兵衛と云、板下を摺て業とす、又娘二人あり、兄弟三人共、今存生す、此山本 九左衛門は古き本屋にて、貞享板江戸鹿子にも見ゆ、房信が代に断絶せり【摺職人に山本長兵衛あり、本 所横網町】〟〈「醒世翁」とは山東京伝のこと。この部分が『浮世絵類考追考』に相当する) ◯『戯作外題鑑』⑥62(岩本活東子編・文久元年) 〝年代記誤り多し、前青本の吟雪と房信と別人とす〟〈『稗史提要』に同文あり。「年代記」とは式亭三馬作・画の『稗史億説年代記』(享和二年)のこと〉 ☆ ぶんこう 文康 ◯『無名翁随筆』③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「柳文朝」の項) 〝三馬按、柳文朝の門人に文康あり、俗称安五郎、人呼て文康安といふ、老人にして今尚存す【文政元戊亥 年、三馬が書入なり】〟☆ ぶんちょう いっぴつさい 一筆斎 文調 ◯『無名翁随筆』③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝一筆斎文調【(空欄)年中ノ人】 俗称(空欄)、住居亀井町、狂歌師頭光なり 文調は、男女流行の風俗を画き、あるひは役者画もかけり、拙き方なれども、板下画に出たり 類考 類考附録に曰、文朝は役者画の上手、二代目八百蔵の顔をよく似せたる、とあり〟〈「狂歌師頭光」は、岩波書店『大田南畝全集』第十八巻所収『浮世絵考証』によると、細字二行の朱註記事。大田南 畝の記述かどうか判然としないが、註者は何を根拠として文調と同人としたのであろうか〉 ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁 ◯『戯作六家撰』②69(岩本活東子編・安政三年成立) (「式亭三馬」の項、文政三年三月明記) 〝(鳥文斎栄之の書画会にて)狂歌堂真顔翁、傍におはしけるが、我も流行に はおくれじとて文晁翁が蝶のかた画たる扇に 真顔 今はやる人のかきたる絵扇は蝶々静に腰へさしこめ〟〈真顔の狂歌賛は当時流行した「てふ/\しづかにさしこめ」という囃子を踏まえたもの〉 ☆ ぶんちょう やなぎ 柳 文朝 初代 ◯『無名翁随筆』③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝柳文朝【(空欄)年中ノ人】 俗称(空欄)、住居通油町南新道、 文朝は、狩野流の画を学び、浮世画をかけり、儀太夫節を好て、朝太夫門弟なり、二代目大谷十丁の似貌 の上手なり (三馬の柳文康に関する按記あり、略、「柳文康」の項参照) 深川霊巌寺に碑あり、今二代目柳文朝は、尾張町の辺に居住すと云り、呉服屋の仕入物などに画名見ゆ、 文化、文政の頃也〟☆ ぶんちょう やなぎ 柳 文朝 二代 ◯『無名翁随筆』③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「柳文朝」の項) 〝今二代目柳文朝は、尾張町の辺に居住すと云り、呉服屋の仕入物などに画名見ゆ、文化、文政の頃也〟☆ ほうしゅう かみや 神屋 蓬洲 (春川五七参照) ◯『戯作者小伝』②48(岩本活東子編・安政三年成立) 〝神屋逢洲 小石川に住せり。後花洛に移住せし由。自ら画き、みづから書し、又彫刻をせしとぞ〟〈『戯作者撰集』に同文あり〉 ☆ ほくうん とうなんさい 東南西 北雲 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項)「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 東南西 北雲【大工久五郎トアリ、スリ物、錦絵一二種アリ、 画本アリ】〟☆ ほくおう 北黄 ◯『無名翁随筆』③311(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項)「葛飾為一系譜」 〝画狂人ノ号ハ門人北黄ニ譲ル、北黄ハ板下ヲカゝズ〟☆ ほくが ほうてい 抱亭 北鵞 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項)「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 北鵞【スリ物多シ、ヨミ本アリ】〟☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎 (画狂人・時太郎可候・群馬亭・勝川春朗・二代菱川宗理・載斗・北斎辰政雷斗参照) ◯『無名翁随筆』③310(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝葛飾為一【明和ノ生レ、寛政ヨリ、享和、文化、文政、天保ノ今ニ至ル】 俗称(空欄)、幼名時太郎、後鉄二郎、居始本所横網町、数十ヶ所ニ転居ス、今浅草寺前ニ住ス、 姓氏(空欄)、江戸本所ノ産也、数号アリ、改名左ニ記ス 始めは、業を勝川春章に受く、勝川春朗と画名す、故ありて破門せられ、叢春朗と云り、古俵屋宗理の跡 を継て、二代目菱川宗理となり、其比画風をかへて、【宗理ノ頃ハ狂歌ノ摺物多シ、錦画ハカヽズ】一派 をなさず、【堤等琳孫二ノ風ヲ慕フ】亦、門人宗二に宗理に譲り、【三代目宗理トス】名を家元へ帰せり、 于時寛政戊午の末年、爰に至り、一派の画風を立て、北斎辰政雷斗と改む、【一説、北辰妙見ヲ信ズ、故 ニ北斎ト改シト云、其頃ハ東都ニ明画ノ風大イニ行レ、画心有モノハ唐画ヲ学ブ事専ラ流行ス、俗ニ従ヒ テ画風ヲ立シハ、世ニ出ルノ時ナリ、雷斗ノ画名ハ重信ニユヅル】北斎流と号し、明画の筆法を以て浮世 絵をなす、古今唐画の筆意を以て画を工夫せしは、北翁を以開祖とす、爰に於て世上の画家【俗ニ云本画 師】其画風を奇として、世俗に至る迄大にもてはやせり、一時に行れて、門人多く、高名の妙手となれり、 従来、書を読み学才あれば、戯作の絵双紙多く、草双紙の画作を板行す、作名を時太郎可候と云り、【叢 春朗ノ頃ハ役者ノ錦絵ヲ出セリ、北斎ニ至リテ錦画ノ板下ヲ画カズ、狂言摺物画ヲ多クカケリ、錦画風ア ラヌヲ以テコト/\ク北斎ノ画風ヲ用ユ、摺テ奇巧ナリシ】 画狂人ノ号ハ、門人北黄ニ譲ル、北黄ハ板下ヲカヽズ、専ら画狂人葛飾北斎と画名して雷鳴す、画風、錦 画、草双紙等の尋常にあらず、繍像、読本の插絵を多くかきて世に行れ、絵入読本此人より大いにひらけ り、【此頃、画入読本世ニ流行ス、画法草双紙ニ似ヨラヌヲ以テ貴トス、亦時ニアヘリ、読本画トテ別ニ ス、杏花園蔵書浮世絵類考ニ云、北斎宗理ハ狂言摺者ノ画ニ名高シ、浅草ニ住ス、スベテ摺物ハ錦画ニ似 ザルヲ貴トスト云】京師、大坂より、雷名を慕ひ、門人多く、学ぶ者多し故、尾州名古屋を始として、京、 大坂に至れども、必覿する画家絶てなし、板刻の密画に妙を得て、当世に独歩す、数万部の刊本枚挙すべ からず、漫画と題して、画手本を発市す、大に世に行る数篇を出せり、【始板元江戸麹町角丸屋甚助ナリ シガ、故有テ、後尾張名古屋永楽屋東四郎蔵板トナレリ】再名を門人に譲りて、錦袋舎戴斗と改たり、前 北斎戴斗と云【二代目北斎ハ本所ノ産ナリシガ、後吉原仲ノ町亀屋ト云茶屋ナリ△両国回向院ニテ大画錦 袋ヲカケリ、錦袋舎名弘メ画会アリ、大画ハ十六間四方、十八間四方、名古屋ニテハ釈迦出山ノ図ヲカケ リ】是をも、文化の末門人北泉に譲り与へて、前北斎為一と改名す、門人に臨本を与ふる遑あらず、画手 本を是が為に板刻して、数十冊を世に行しむ、生涯の面目は、画風公聴に達して、御成先に於て席画上覧 度々あり、稀代の画法妙手といふべし、 板刻の画手本書標目 北斎漫画【自初編至十三編】 櫛□雛形 戴斗画譜 地文雛形 北斎画譜 画本独稽古 同 画叢 画本早引 一筆画譜 三体画譜 為一画譜 北斎写真画譜 画手本数部枚挙すべからず、僅に其一二を爰にしるすのみ、世以て知る処なり、委くは別記に譲る
「葛飾為一系譜」 其他数百人、板刻の画をかゝざるものは爰に載せず、しかれども、僅に刻本を画し人は、洩たるものあ るべし【北斎は俳諧を好み、川柳狂句をよくす】 伝に曰、為一翁は曲画を善す、【升、玉子、徳利、筥、スベテ器財ニ墨ヲツケテ画ヲナス、左筆モ妙ナリ、 下ヨリ上ヘ書キ上グル逆画ヲカケリ、ナカニモ爪ニテ墨ヲスクヒカク画ハスグレテ妙也、筆ニテ画タル如 シ、画ク所ヲミザレバ、其実ヲシルベカラズ、△刻本ノ春画ヲヨクカケリ、一派ノ風アリテ情深シ】彩色 に一家の工風をこらして、一派の妙を極めたり、総て総身に画法充満したる人にて、一点の戯墨も画をな さずと云事なし、稀代の名人なり、和漢の画法に委し、骨法自ら宋明の筆意ありて尋常の画風にひとしか らず、真を写すに、一家の筆法、画体、悉く異りといへども、能其真に似たり、【狩野ニテモ、似テ似ザ ルヲ画法ノ第一トス、画中不全シテ画ヲナスヲ以テ善トス】自ら云、数年諸流の画家に入、其骨法を得て、 一派の筆法、画道の業に於て、筆をこゝろみ得ずとせざる事はなし、と云り、香具師の看板画より、戯場 操の看板、油画、蘭画に至る迄、往々新規の工風を画き、刻本の細密、定規引きの奇行なる一家の画法を 起せしは尤妙なり、他郷に至るも、画者皆門に入て業を学ぶ、京師、浪花は、悉く翁の画風を学びて名を 改ずといへども、門弟にならぬはなし、【為一翁転居スル事一癖アリ、数十ヶ所ニ住ヲカヘル】浪花発市 の絵本を見て世にしるところなり、紅毛よりも画を需に応じて、二三年の間数百枚を送りしかば、蘭人も 大いに珍重す、故有て是を禁ぜられたり、天保の今に至るまで六十余歳、筆法少も衰へず、いよ/\老年 に及び筆に潤あり、近年錦画を多く出せり、【諸国の山水、花鳥尽し、三十六富士、百鬼夜行、琉球八景、 滝尽し】肉筆彩色は、他に勝れて見事なり、珍敷画法多く世にしるところなり、別に為一翁が画伝を誌す、 委しくは其書を見るべし〟〈為一翁が画伝」は未詳〉 ◯『寛天見聞記』⑤323(著者・成立年未詳) 〝文化に合巻といふ草双紙出てより、画も豊国、北斎など巧を尽し〔頭書〕【北斎は合巻の画の板下をかゝ ず、黄表紙に少々あり】連年出板夥し〟 ◯『戯作六家撰』②90(岩本活東子編・安政三年成立) 〝北斎 北斎、号を錦袋舎といふ、初め春朗といひて、勝川春章が門人也、俗称鉄五郎、後年破門せられてより、 勝川を改め、叢春朗といふ、其後、俵屋宗理が跡を続て、二代目宗理となる、後、故ありて名を家元に帰 し、北斎辰政【寛政十年のころ】と改む。其名を門人に譲りて、雷信と改め、再門人に与へて、戴斗と改 め、是をも門人にあたへて、為一とあらたむ、本所の産にして、住居数多かわれり、御用鏡師中島伊勢が 男也、作名を時太郎可候といふ、又、是和斎といひ、魚仏ともいふ。嘉永二己酉年四月十八日没す、年九 十、浅草六軒寺町誓教寺に葬る、 法号 南照院奇誉北斎信士 辞世 人魂でゆくきさんじや夏の原〟☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎 二代 ◯『無名翁随筆』(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) ◇「葛飾為一」の項 ③311 〝【二代目北斎ハ本所ノ産ナリシガ、後吉原仲ノ町亀屋ト云茶屋ナリ】〟 ◇「葛飾為一系図」③312「葛飾為一系譜」 ☆ ほくじゅ しょうてい 昇亭 北寿 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項、北斎門人)「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 昇亭 北寿【両国ヤゲンボリニ住ス、錦絵、山水ノ遠景多シ】〟☆ ほくしゅう しゅんこうさい 春好斎 北洲 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項、北斎門人)「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 北洲【大坂ノ産、錦絵、ヨミ本アリ】〟☆ ほくすう らんさい 蘭斎 北嵩 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項、北斎門人)「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 蘭斎 北嵩【本郷ニ住ス、ヨミ本、草双紙多シ、後唐画師トナル】〟☆ ほくせん たいがく 戴岳 北泉 (葛飾載斗二代・戴岳参照) ◯『無名翁随筆』(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) ◇「葛飾為一」の項 ③311 〝是(筆者注、錦袋舎戴斗)をも、文化の末年門人北泉に譲り与へて、前北斎為一と改名す〟 ◇「葛飾為一」の項(北斎門人) ③313「葛飾為一系譜」 〝北斎としての門人 戴岳北泉【別記ス、ヨミ本、画本多シ】〟☆ ぼくせん まき 牧 墨僊 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項、北斎門人)「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 斗図楼墨僊【名古屋ノ産、画本ヲ出ス】〟☆ ほくたい えいさい 盈斎 北岱 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) (「葛飾為一」の項)「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 北岱【浅草ニ住ス、スリ物、ヨミ本多シ】〟☆ ほくば ていさい 蹄斎 北馬 ◯『無名翁随筆』(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) ◇「葛飾為一」の項 ③312「葛飾為一系譜」 〝北斎と号しての門人 北馬【狂歌摺物多シ、別記アリ、画入ヨミ本数十冊ヲカケリ、後一家ノ画風ヲナス、 蹄斎ト云、下谷三スヂ町ニ住ス】〟 ◇「蹄斎北馬」の項 ③314 〝蹄斎北馬【文化、文政ノ頃ノ人】 俗称有坂氏、居始神田、後下谷三筋町、号(空欄)、江戸ノ産、 北斎に画法の業を受て、狂歌摺物を多くかけり、読本の密画に妙を得て数十部の板刻世に行れて、人の知 る処也、左筆の曲画をよくす、後落髪す、【川柳風の狂句もよくす】絵本三国妖怪伝は、玉山が絵の大本 よりも二三年先に売出せり、平家物語、鎌倉見聞誌【星月夜顕晦緑】の類、軍書の画入もの多し、【高井 蘭山編】新著の読本は枚挙するのいとまあらず、【門人、逸斎、遊斎等、多クアリシナリ】画風に一派の 筆意ありて、後には土佐の絵を慕ふ趣など多く画り、師の画風とは大に異なり〟〈『絵本三国妖怪伝』は高井蘭山著・文化元年刊。『星月夜顕晦録』は高井蘭山著・文化六~文政九序。なお、嘉永二年 刊の高井蘭山著『平家物語』の絵師・有坂蹄斎は二代目北馬か〉 ☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓 ◯『無名翁随筆』③312(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) ◇「葛飾為一」の項(北斎門人)③312 〝拱斎 北渓 別記アリ、赤坂ニ住ス、スリ物、ヨミ本多シ〟 ◇「魚屋北渓」の項 ③314 〝魚屋北渓【文化、文政ヨリ天保ノ今ニ至ル】 俗称初五郎、居始四谷鮫ヶ橋、後赤坂永井町代地、号拱斎、葵岡【姓氏ノ如ク用フ】、江戸ノ人也、 始めは狩野養川院門人にて、画を学び、後北斎の弟子となりて浮世絵師となる、四ツ谷の魚屋なり、仍て 画名の傍に誌したり、摺物画は勝れて妙手なり、北斎の高弟にて、画法能く師の則を得たり、読本、張交 の錦絵等有、役者、美人画はかゝず、彩色の密画は名手也、門人多し、【彫刻の画になければ、名不知】 梺の花【鬼武作】 三冊 美少年録二編より【馬琴作】 吉原十二時画【六樹園作】 彩色摺江戸名所附〟