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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
画人伝-明治-
内外古今逸話文庫
(ないがい ここんいつわ ぶんこ)
浮世絵事典
☆ 明治二十六年(1893) ◯『内外古今逸話文庫』一~五編 岸上操編 博文館 明治二十六年九月~二十七年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
※(1-5編の合本だが、5編の奥付なし。毎月配本とすると27年1月刊か。原文は漢字に振り仮名付き)
(第一編「文芸」の項) 〝
一蝶
と嵩谷の発句(16/426コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
英一蝶晩年に及び手ふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ゐたるが、それしも心のまゝにもあら ざれりければ、 おのづからいざよふ月のぶんまはし これは高嵩谷の話なり、嵩谷は町絵師にて、近来の上手なり、俳諧を好み発句をよくせり、 海鼠(なまこ)の自画賛は、望む人あれば誰にても速にかきて与へしなり、その発句 天地いまだひらき尽さでなまこかな(太田南畝)〟 〝
一蝶
と馬琴と他人の印を用う(17/426コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
英一蝶赦に遇ひ帰郷して後、作りし画幅に、往々薛国球(せつこくきう)、君受(くんじゆ)、薛君受氏、 北窓中隠などの印を捺して款記となす。倶(とも)に唐人の印なるを、一蝶得て其侭用ひて己れが印とす るなり、又馬琴が乾坤二卦(にくわ)の間に艸亭(そうてい)を刻せし印は、馬琴一夜出行するに、碌々足 に触るゝものあり、拾ふてこれ見れば乃ち銅印にて、二卦と艸亭とを鐫(ほ)る、馬琴悦(よろこん)で云 く是れ杜句(とく)に原(もと)づくなり、我業卒(つい)に大に両間に行はるゝの兆(てう)なるべしと、是 より乾坤一艸亭とも号す〟 〝
北斎
の絵、裸体に衣裳を装ふ(18/426コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
葛飾北斎、一の人物を画くに、往々一日を費(つひや)して僅(わづか)に一人を作る、或は一人三数日に 渉りて成るもあり、其故を聞くに、初め裸体を描きて、先づ体格の尺度四肢の長短を定め、然る後にこ れを衣裳を加へ、これを下絵として別に本図を作る、ゆゑに右の如く日時を費すと、されば画成るに及 びて、自然の恰好を具することは、余人の実に及ばざる所なり、是は元人王淵が法に原(もと)づくなり とぞ〟 (第一編「豪爽」の項) 〝
葛飾北斎
大達磨を画く(49/426コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
文化甲子の春、護国寺観音大士(だいし)の開帳ありて、子女雲集す、一日画人北斎観音堂の側に就き、 半身の達磨を画く、紙数百帳を接て巨幅と為し、大さ百二十畳、烏麦稭(むぎわら)を下に鋪きて、以て 紙底に襯(しん)し、四斗樽及び銅盆を以て墨を貯へ、藁(わら)帚、棕(しゆろ)帚、地膚(くさ)帚を以て 筆に代へ、臂を攘(かゝ)げ裳(しやつ)を蹇(かゝ)げ、紙上を周旋して縦横(じうわう)捕洒(ほさい)す、 観るもの環立し、嘖々賞嘆す。されど平地に在(あつ)ては其全体を尽すこと能はず、堂に登り俯して瞰 (うかゞ)ひ、始めて全身を見るを得、肩背(けんはい)突兀(とつこつ)、姿態壮偉、其口大なること弓の ごとく、眼中人を容るべし、真の絶技なり〟
〈この逸話を伝えるものは他にもあり、本HP「浮世絵事典」【た】「だるまえ 北斎・護国寺・名古屋」の項参照〉
(第一編「品藻」の項) 〝
西川祐信
は浮世絵の聖手(80/426コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
柳沢淇園云く、浮世絵は奥村政信、鳥井清信、羽川珍重、会月堂など数家あれども、画の名人は西川祐 信を除きて外になし、西川は浮世絵の聖手なりと〟 (第二編「豪爽」の項) 〝
葛飾北斎
国威を失せんを惧(おそ)る(122/426コマ)
※(かな・カナ)は原文の振り仮名
享和の頃江戸に来りし和蘭(オランダ)の加比丹(カピタン)某、我国町人の小児出産の体(てい)を始とし て、年々成長の体、筆算稽古の体、又年たけて遊里などへ通ふ体、又年老いて死去し、葬礼を行ふの体 を図し、男子女子と一巻づゝ、二巻に画かんことを北斎に依頼し、金百五十四の謝礼にて、約定せり、 加比丹属の医師某も、亦同図二巻を画かんを乞ふ、北斎諾して数日間にこれを画き、さて四巻の図を携 へて、旅館に到りしに、加比丹は、約のごとく百五十金を出だし、二巻を受納せり、夫より医師の許に 到りしに医師の曰く、予は加比丹と異なり薄給の身なれば、同等の謝礼はなし難し、半減即ち七十五金 にて二巻を与へ給ふべし、北斎少しく憤りて曰く、何故に最初に、其事を明し給はざるや、画は同じく ても、彩色其他を略すれば、七十五金にても画かるゝなり、既に画きたる上は今更なすべきなし、又こ れを七十五金にて進ずるときは、加比丹に対し余り高価を貪りたることに当り心苦しき限りなり、医師 の曰く、されば二巻の中、男子の図一巻を七十五金にて与へ給へと、此の時尋常の画工ならば諾して、 一巻を与ふべきに、赤貧洗ふがごとき北斎、其の約に背きたるを憤り、二巻共に懐にして直に家に持ち かへれり、家婦其故を聞き、諫めて曰く、日夜丹青を凝らし画き給へる画巻なれど、此の図我邦にては 珍しからぬものなれば、売らんとするも、買ふ者なかるべし、時間と費用を算ずれば、損失なれども、 七十五金にて医師に与へ給ふが得策なるべし、今七十五斤を得ざれば、貧苦の上に、貧苦をかさぬるの 道理ならずや、北斎黙して辞(ことば)なく、暫(しばら)くありて曰く、予も亦其の貧苦の日に迫るを知 らざるにあらざるなり、されど外国人の約に背きしを、其の通りになしおく時は、自分の損失は、免(ま ぬか)るゝとも、我邦人は、人によりて掛直(かけね)をいふとの嘲(あざけり)は、蓋し免るゝ能はざる なり、故に予は深く其所を考へて持ち帰りしなりと、後に訳官某此の事を聞き、加比丹に語りければ、 加比丹も深く感じて、直に百五十金を出だし、かの二巻をも請ひ得て、本国に持ち帰りしとぞ、其の後 和蘭より画を請ふ者多く、毎年数百葉を画きて、長崎に送り、海外に輸出せしが、後の幕府国内の秘事 を漏すをおそれこれを禁止せり(飯島虚心)〟
〈この逸話は、朝岡興禎編『古画備考』(嘉永3年起筆)「浮世絵師伝」の北斎の項にあり〉
(第三編「文芸」の項)
※(かな)は原文の振り仮名
〝
長谷川雪旦
盗賊と誤らる(185/426コマ) 御茶の水は江戸の一勝区なり、渓に臨みて一停あり、守山といふ、鰻鱺(うなぎ)を売るを以て著(あら) はる、一日客あり、酒飯を命じ鰻鱺(うなぎ)を喫(くら)ひ、詳(つまびらか)に亭榭(ていしや)の結搆、 邱壑の位置等を観察し、私(ひそか)に図写して去る、其夜、盗守山に入る、亭主おもへらく、必ず日間 (につかん)図を作るの客なりと、已にしてその客又来る、亭主密(ひそか)に之を捕吏(り)に訴ふ、吏数 人鉄棍を揮(ふるひ)て闖入し、将(まさ)に客を捉へんとす、客錯愕(さくがく)、為さん所を知らず、偶 (たま/\)吏中客を識るものあり、曰く、子は画伯長谷川雪旦老にあらずやと、乃ち同僚を顧みて曰く、 雪旦平素篤実謹厚、何ぞ賊を為すものならんやと、衆(しう)雪旦に問ふに、詳に此家を窺(うかゞ)ふの 由を以てす、雪旦曰く、頃日(このごろ)友人斎藤月岑、江都(こうと)名所図絵を著し、その画を余に嘱 す、故に来つて勝景を写生するのみと、粉本を出して吏に示す、衆吏首肯、亭主亦深く其粗鹵(そろ)を 謝す、終に満坐大笑して去る、他日名所図絵世に出づるに及び、声価果して嘖々(さく/\)たり、而し て雪旦力実に多きに居ると云〟
〈この逸話は竹本石亭著『石亭雅談』(明治17年・1884刊)に拠ったか〉
〝
葛飾北斎
画に無性ならず(187/426コマ) 北斎は面白き男なり、一生裏店に賃居して蜜柑箱を机にかへ、炭俵を火鉢の脇にたて、食事は買食ひし て器(き)を洗はず、寝床は敷詰(しきづ)めにして掃除せしことなし、室汚くなれば居を移して、引越し 九十三度の多きに及べり、かばかり無性(ぶせう)なれど画は至つて無性ならず、数々(しば/\)百二十 畳敷きの大紙に藁筆(わらふで)振(ふる)つて達磨の像をゑがきしことあり、又徳川将軍家斉公、北斎の 妙技を聞き、放鷹の途次、写山楼文晁及び北斎を浅草伝法院に召して、席上画(せきじやうゑ)を画かし む、文晁先づ画く、次ぎに北斎将軍の前に出で、従容としておそるゝ色なく、筆を揮ふて先づ花鳥山水 を画く、後に長くつぎたる唐紙(とうし)を横にし、刷毛をもて長く藍を引き、さて携へたる鶏を籠中よ り出し、さらに補へて趾(あし)を朱肉につけ、これを紙上に放ち、趾痕(しこん)を印残(いんざん)せし め、是はこれ立田川の風景なりとて拝一拝して退(しろぞ)きたり、人皆其奇巧に驚く、此時、写山楼傍 に在りて手に汗を握りしと〟
〈北斎の天保三年頃の稿『無可有郷』参照〉
〝
葛飾北斎
百歳にして神妙ならん(188/426コマ) 天保五年、葛飾北斎富嶽百景を画き、自ら跋を造りて曰く、 己六歳より物の形状を写すの癖ありて、半百の頃よりしば/\画図を顕(あら)はすといへども七十年 画く所は実に取るに足る者なし、七十三歳にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟り得たり、 故に八十歳にしてはます/\進み、九十歳にして猶(ナオ)其奧意を極め、一百歳にして正に神妙ならん か、百有十歳にして一点一格にして生(いけ)るが如くならん、願(ねがは)くは長寿の君子、予が言の 妄ならざるを見たまふべし云々 然れども翁は年九十にして、嘉永二年溘焉(こうえん)として永眠しぬ、その欲(ほつ)する所を果さずと 雖(いへ)ども、而かも大名奕々千歳に垂(た)る、何の遺憾か之れあらん〟 〝
長谷川雪旦
五百羅漢を畏(おそ)る(189/426コマ)※原漢文(ひらがな)とあるのは本HPの読み仮名 文政中、斎藤月岑東都名所図絵を稿す、長谷川雪旦其図を草す、月岑雪旦及び同志一二人と、日々諸名 勝を探り、僧寺及び故家に就きて、其の事跡を質し、聞に従ひ録に従ふ、独り雪旦或いは坐し或いは立 ち、出入徘徊して、其の真景を摹す、後本所羅漢寺に至り、以謂(おもへ)らく、許多(あまた)の仏像、 蒼卒(そうそつ)に写し畢はるべからずと、因りて僧に乞ふて堂中に投宿す、夜半眠り醒め、首を昂(あ) げ灯を挑(かか)ぐ、明暗中、忽ち五百応真(らかん)の、臂(うで)を攘(はら)ひ足を翹(あ)げ、形勢獰悪 にして、曳きて去らんと欲するが如きを見る。雪旦悸(おそ)れて、被を蒙(かぶ)りて屛息し(布団をか ぶり息を殺して)以て天明を遅(ま)つ、後毎(つね)に此を言ひ以て笑いの資となす(中根香亭)〟 〝
年恒
の達磨米国人を驚かす(191/426コマ) 閣龍(コロンブス)大博覧会へ渡航したる大坂の画工稲野(いねの)年恒(としつね)、一夜ヘラルド新聞社 の画工テーラ氏の案内に依り、ナイトチヤペル倶楽部に遊ぶ、宴酣(たけなは)にして部員頻りに席画を 子に求む、子(し)起(たつ)て持合したるハンカチーフに墨汁を浸し、方六尺ばかりの紙上に達磨を画き、 一分時間にして成る、観る者皆手を拍(う)ち足を踏み、喝采して止まず、此画直ちに額面となり、同倶 楽部の壁上に懸る、後ち揮毫を請ふもの絶えずと云ふ(村瀬◎山)〟
〈「閣龍(コロンブス)大博覧会」とは、明治26年(1893)シカゴで開催された万国博覧会のこと(期間は5月1日から10月3日ま で)年恒は大阪で新聞挿絵を担当していたから、特派員のようなかたちで派遣されたのかもし知れない。◎は滲んで不明瞭〉
(第三編「品藻」の項) 〝
葛飾北斎
の浮世絵(245/426コマ) 北斎の画は浮世絵なり、浮世絵を画く者は板下似顔抔(など)を生業(なりはひ)とし、鎖事(さじ)卑俗を 旨としたれば、人も卑(いやし)み、己(おの)れも何時(いつ)しか職人根性となりて、高尚の趣味を解す るもの少なし、されど画材の自由なると画境の真相を描取するの一段に至つては、此(この)派に如(し) くものなきがごとし、詩家の用語例もて云へば、此派は実相派とも云ふを得(う)べく、漫(そゞろ)に塗 抹(とまつ)して雅趣風韻に隠るる空想派に比すれば、将来望みあるは此派ならん、北斎は浮世絵師なり と雖(いへど)も、尋常(よのつね)の浮世絵師にあらず、弓張月、南柯夢、水滸伝等の挿画(さしゑ)及び 数十冊の画譜画帖は、後の画家より云へば趙壁も啻ならざる賜物なるべし(時事新報)〟 (第四編「洒落」の項) 〝
北斎
虱を捻りて馬琴を罵る(296/426コマ) 葛飾北斎、性快活瀟洒、貧を以て意とせず、俗塵の煩はしきをいとひ、屡々(しば/\)遷(うつ)りて居 を定めず、老年に及び春の木馬場に住し、娘栄女と俱に居り、家只膝を容(い)るゝのみ、冬時火炉を擁 して纔(わづ)かに寒を凌ぎ、衣を換ゆることなきゆゑに、虱之に生ずれども晏如(あんじよ)たり、幕府 の用達鶴の屋某、一日薬商千葉某を共に来りて、画帖の揮毫を乞ふ、翁時に南軒に坐して虱を拈(ひね) りながら答へて曰く、我えに差掛りの急用あり、乞ふに応じ難しと云ふて、更に衣縫(ぬいめ)を翻へし、 其子母を拾ふて止まず、二人頻りに乞ふて承諾を得、顰蹙して其家を出づ、行くこと数十歩、北斎之を 呼び謂(い)つて曰く、他人若(も)し我が居宅を聞くことあらば、清潔華美を以て答へよと、北斎初め滝 沢馬琴と善し、馬琴南柯後記を作り挿画を乞ふ、図は刀屋道次が立廻りの場なり、馬琴道次をして口に 草履を含み裙(すそ)を褰(かゝ)ぐるの様を望む、即ち笑つて曰く、此の汚穢物誰か此を口にすべき、若 し然(しか)らずとせば、君先づ之を口にせよ、馬琴大ひに怒る、これより二人交(まじはり)を絶つと云 ふ。亦三世川柳と交はる、一句あり 河童の子三味線堀で弾き習ひ 其洒落(しやらく)思ふべ、晩年門人等に語つて曰く、今の画工は道具屋の手代なり、画工没後にあらざ れば画に価値(ねうち)なく、価値は只道具屋の手にありて、子孫は徒(いたづ)らに他人が祖先の利益を 占むるを健羨(けんせん)するのみ、実に迂(う)なる業(わざ)ならずやと(葛飾為一)〟 (第四編「品藻」の項) 〝
河鍋暁斎
一信の羅漢を評す(333/426コマ) 河鍋暁斎嘗て芝増上寺の羅漢堂に詣(いた)り、逸見一信の画くところ見る(立志欄参看)帰りて人に語 つて曰く、技術に至りて直(ただち)に信服しがたしと雖も、其精力強絶に至ては企て及ばざる所なしと 云へり、暁斎にして猶(なほ)且(かつ)然り、然るを況(いはん)や常人をや(平林探溟)〟
〈立志欄に一信の小伝「逸見一信兄に疎まれて画工となる」あり〉
〝一信三画師を祭る(335/426) 顕幽斎一信の号は自ら命ずる所、狩野探幽を信奉するが為(た)めなり、又応挙北斎を信じ、常に三人を 祭りて画祖となす(島崎柳塢)〟
〈島崎柳塢はこの『内外古今逸話文庫』の挿絵を担当している〉
(第五編「畸行」の項) 〝
田中訥言
言を喰(は)まず舌を噛む 田中訥言は尾張の人、土佐氏の流にして和画を善くす、典古博識当時に重んぜらる、常に言ふ、我もし 明を失はゞ則ち死せんと、晩年に至り盲目となる、訥言、性剛直清廉、平生一も言を食(は)まず、今盲 (もう)するに及びて人々之を危ぶみしに、訥言果して死を決して食を断つ数日、命未だ尽きず、乃ち舌 を噛みて死す、文政六年三月廿一日といふ、人これを哀れむ、門人渡邊清、浮田一蕙これを両翼と称す といふ(竹本石亭)〟
〈この逸話は竹本石亭著『石亭雅談』(明治17年・1884刊)に拠る〉
◯『内外古今逸話文庫』6-10編 岸上操編 博文館 明治二十七年刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
※原文は漢字に振り仮名つき
※(6-10編の合本だが、3月刊の6編以外奥付なし。毎月配本とあるから10編は7月刊か。原文は漢字に振り仮名付き)
(第六編「文芸」の項) 〝
歌川国芳
浴衣を以て岩石を画く(9/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
嘉永六年、両国柳橋の河内屋にて、狂歌師梅の家鶴子狂歌画会の催しあり、其席にて一勇斎国芳、畳五 十畳敷に、水滸伝百八人の内、九紋龍史進を画けり、当日国芳大勢の門弟を取持かた/\連来り、おの れを始め一同、真岡木綿白地に大絞りの浴衣の揃(そろひ)にて、扨画(ゑ)にかゝり、人物を認めおはり て、九の龍を画き、雲のところは手拭の両端に藍と薄墨を浸し、これにて隅どり、それより浴衣を脱ぎ て、磨(す)り置きたる墨の中へ入れ、よく/\墨を含ませ、史進が足を踏みかけたる岩石を画きけるに、 筆力勁健にして、おのづから凡ならず、一座どつと感嘆して、感嘆して、流石は当時江戸に名高き画工 なりと評判せしよし〟 〝
暁斎
が百福(ひやくふく)の画(ぐわ)御感に逢ふ(11/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
故猩々暁斎は戯画を以て世に持て囃されしが、先年の事とか、暁斎百福の戯画、畏くも聖上の御眼に触 れ、下司(かし)に命ぜられて揮毫を命ぜられしも、当時暁斎已に病死せしを以て、掛員(かゝりゐん)は 之を他の画工に画かしめて奉(たてまつ)りたるも、御意に叶はせられず、更に上命に依りて、翁の嗣子 暁雲に勅(みことのり)あり、今度は百布袋の図にして、旧蠟来(きうらうらい)丹精を抜んでて揮毫中の よし、暁斎霊あらば如何に地下に感泣すらむ〟
〈暁斎の戯画、お多福百人図が明治天皇の目にとまり揮毫を命じられたものの、暁斎はすでに亡くなっていたので、代わりに 二男の暁雲が命を請け、目下「百布袋」を揮毫中との記事。暁斎は(明治22年没)没。「旧蠟」とは昨年の12月という意味。 そしてこの記事は明治27年3月刊・第6編所収のものであるから、この逸話は明治26年12月頃のものと考えられる。ところ で明治天皇が目をとめたという暁斎の「百福図」、また暁雲が揮毫中であるという「百布袋」、これらはその後どうなった のであろうか。暁斎の娘である暁翠の「百福図」はよく知られているようであるが〉
(第六編「豪爽」の項) 〝
英一蝶
石燈籠に対して初茄子を喰(くら)ふ(26/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
英一蝶本姓は多賀、初め狩野安信に従ひて画を学び、狩野信香と名乗りしが、後師の氏を返して多賀長 湖と改め、後又英一蝶といふ。画風一家の趣(おもむき)をなし、其筆力頗(すこぶ)る鋭く、性亦(また) 胆勇なれども、母に仕へて至孝なり、一旦故ありて遠島に流されし間も、画を毎(つね)に贈りて衣食の 料に充(あ)つ、赦に逢ひて帰り其画ます/\行はる、或時大国の主侯両人にて一の石燈籠を争ひもとめ 給ふ聞えありしかば、一蝶数多(あまた)の金を出しておのが物とし、狭き庭の内にうつしける、折しも 初茄子を売る者あり、価の貴きをいはず、需めて生漬(なまづけ)といふものにして喰ひ、彼の燈籠に火 をともし、天下第一の歓楽なりといへり、其磊落豪放およそ此類(るい)なり〟 (第六編「博聞」の項) 〝鈴木芙蓉絵師を命ぜられて失望す 鈴木芙蓉は元信州の人、江戸に出て学び、傍ら画を習ひ亦盛名あり、一日阿波侯の招(まねき)に応じて 行く、命ずるに絵師を以てす、芙蓉家に帰り友人に語(つ)げて曰く、今日の事、儒ならんと思ひしに、 画師を命ぜられしは意外なりと(穂積南軒)〟 (第七編「文芸」の項) 〝
歌川貞秀
馬琴の鑑識に服す(80/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
今を距(さ)ること二十年ばかり前(明治十八年よりいふ)にてありしが、余(よ)(依田百川氏)藤森天 山翁が下谷の塾に物学(ぶつがく)せし時、学友何某が知る人に歌川貞秀と云ふものあり、其(その)号を 玉蘭斎といふ、一陽斎豊国が門人にして、世にいふ浮世絵といふものを画けり、 一日(あるひ)何某に伴(したが)ひ、貞秀が本所亀戸村の草庵を訪ひしに、その家は亀戸天神社の前にあ りて、膝を容るゝばかりの狭き住居(すまゐ)なり、流石(さすが)に庭の草木なども程よく栽(うゑ)なし て、主人は窓の下に画をかきてゐたりしが、余等(よら)が来りしを見て筆をとゞめて物語す、其の頃は 西洋画(せいやうゑ)といふものは世に多からざりしが、貞秀はいかゞして蓄へけん、帖に作りたる洋画 を多く出して余等に示し、且(かつ)いへらく、 和漢の画を多く見たれども、洋画ほど世に妙なるものはあらじ、文雅学士の画(ゑ)はくはしくは知り侍 (はべ)らねど、和漢の俗書多くは一種の偽体(ぎたい)ありて、すべて画を見る人の為にのみ前面を画き、 その人物山川(さんせん)の向背(こうはい)に心を附(つく)るものなし、殊に我国の俗画は皆劇場俳優の 所為(しよい)をのみ旨とし画くをもて、婦女の形容に至りても多く劇場の身振りといふことを写して、 尋常(じんじやう)居動(きよどう)には有るべきやうもなき形のみ多し、戦闘の状(さま)に至りてはその 弊(へい)甚しく、英雄豪傑奮勇苦戦の形状をして、俳優劇子の所為と異なることなからしむ、実に笑ふ べく嘆ずべきの至りなり、某(それがし)かつて曲亭馬琴翁の為めに、その著述せし八犬伝の図を画きし ことありしに、翁常に某を戒しめて、勉めて劇場の体(てい)に傚ふことなからしめたり、その後西洋画 を閲(けみ)するに果して実形を画きて、前面のみ心を用ゐて背面の姿体に意を用ゐざる如きものなし、 識者の見る所実に違(たが)はずといふべしと語りき、 余大(おほい)にその言に服し、塾に帰りて天山翁にかくと告げたりしに、翁其の言を善(よし)とし、書 を読み道を講ずるも、徒(いたづら)に前面にのみ心を用ゐて、後面を顧みざるは実行の君子となす可ら ず、画師(ゑし)の言大に道理にかなへりと言はれたり(依田百川)〟
〈この記事は依田百川の言を引いたもの。文中の余とは百川。明治18年(1885)から20年ばかり前といえば、慶応元年(1865) の頃の逸話である。貞秀のいう「我国の俗画」とは浮世絵を指すのだろう。貞秀曰く、浮世絵は役者絵が幅を利かし、美人 画でも武者絵でも、役者の所作に倣った画き方ばかり、これは実に笑止で嘆かわしいと。また、馬琴もそうした弊害を意識 していたらしいとして、貞秀が八犬伝の図を画いたとき、作者の馬琴から役者絵とは距離を置いて画くよう強く戒められた という逸話を紹介している。そして和洋を比較して、和漢の世俗画は前面をもっぱら画くばかりだが、西洋画は実景重視の うえ前面だけでなくその背面をも意識して画くから「洋画ほど世に妙なるものはあらじ」と断じている〉
〝画工
国貞
強盗の真似を為す(85/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
一陽斎国貞は歌川派の画を以て著(あらは)る、常に好んで官女閨秀の婉妍窈窕たる姿を写す、嘗て人の 依頼を受け、婦人賊に遇ふの図を画くことを約す、然れども意匠絶て動かず、以為(おもへ)らく、実見 せずんば不可なりと、乃ち一夕(せき)外出し、夜の将に半ばならんとするを期し、賊装して戸を排して 我家に入り、詳(つまびらか)に婦が周章狼狽して為す所を知らざるを見、後漸く面(おもて)を露(あら) はして情を告げ、以て之を慰む、而(しか)して翌日直に画を作りしと云ふ、画工の意匠を凝らす亦勉め たりと謂ふべし〟
〈この逸話は中根淑著『香亭雅談』下(明治19年(1886)刊)から引いている。また飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』所収の 「三世豊国伝」もこの記事引く。ただ、こうした行動は一世豊国ならばあり得なくもないが、謹慎の人三世豊国には考えら れないという豊原国周の言を添えている〉
〝
英一蝶
始めて女達磨を画く(87/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
世に美人を達磨の姿に画くは、英一蝶の創意なりとぞ、昔時(むかし)新吉原近江屋の抱(かゝえ)半太夫 と云(いふ)遊女、或商家へ縁付きけるが、その家に人々集りて物語の序(ついで)、半太夫、達磨は九年 の面壁(おもかべ)、われは苦界十年なれば、達磨よりも悟道(ごどう)したりとて笑ひけるとぞ、此話を 北窓翁きゝて、やがて半身の達磨の傾城の顔に画きたるが、世上に流行せしとなり〟 (第八編「文芸」の項) 〝画工は道具屋の手代(164/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
葛飾北斎
晩年門人某に語りて曰く、今の画工は道具屋の手代なり、画工の没後にあらざれば画に価値な く、価金は只(ただ)道具屋の手に渡りて、画工の子孫は徒(いたづ)らに、祖先の為めに道具屋が利を占 むるを羨み見るばかりなりと(青々園)〟
〈手代とはこの場合商家の奉公人。画工が貰うのはその時の作画料ばかりで、死後上昇した分についてはすべて道具屋の手に 渡る。これでは画工は道具屋の奉公人と同じではないかというのである〉
(第八編「洒落」の項) 〝
雛屋立圃
の洒落(182/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
野々口立圃、俗称を雛屋市兵衛といふ、風流多芸、和歌を烏丸光広卿に学び、書は尊朝親王の流を受け て能筆の名あり、画は狩野探幽に学び、俳諧は貞徳の門に入りて此道の高手と称せらる、京童、はなび 草等の著あり、父の追善に独吟九百首を詠じける中、 雪と消えしあとの光や弥陀如来 手向けぬる花や九品の浄土経 曾て花桶の銘を作る、曰 花といへば吉野を思ひ、吉野といへば花の吹雪の思ひ出でらるゝよ、いづれか此の名の本末ならん 昔したれかゝる桜の種を植ゑて吉野を春の山となしけん とあり、そのいはれしれ難し 八専のふるをな似せそ花の雨 庭にさへさぞな落葉は東山 寛文九年七十一歳にて没す、辞世の句あり 月花の三句目を今知る世なか〟 (第九編「文芸」の項) 〝名妓花扇石山寺の額を書す 北里五明楼(扇屋)の花扇は、心さま風流にして頗る書を能くす、石山寺へ鳴琴の二字を書て納めける、 此額を源氏の間の上のかたに掛けたりとぞ、心ある人の所為(しよゐ)と覚えたり、其書余韻ありといふ (曲亭馬琴)〟 〝花扇文芸に通ず 花扇、その容色は口碑に伝へて人の知る所なり、書を東江原鱗に学ぶと云、或人の蔵せる扇面に歌の筆 跡あり、その書超凡、浮れ女などの手跡とは思はれず、その歌に曰、 身におはぬたぐひとや見ん山がつの名にはづかしき花あふぎ哉 和歌は蓋し橘千蔭に学ぶといふ〟 (第十編「洒落」の項) 〝
勝川春英
猿楽の女装束をなす(347/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
色(ママ)徳斎春英は江戸の人、明和五年和泉町に生る、絵を勝川春章につきて学ぶ、頗る名あり、春英性 質朴にして虚飾を嫌ひ、常に粗服をまとふ。何処へ行くにもかはる事なし、一日遊女屋に招かれて行く、 遊女等その服の粗なるを笑ひ、重ねてはうるはしき衣(きぬ)きて来給へといふ、亦の日絵を書く事に招 かれて行く、即ち春英先頃の詞を思ひ出して、猿楽の女装束のことにきらきらしきをひきかづきて至れ ば、出あへる者腹を抱へて笑ひしが、春英みづからは一向気にもとめざるげにてぞありけるとなん 〝
春英
自家の存亡を問ふ(348/410)
※(かな)は原文の振り仮名
この外いともをかしきは、或時(あるひ)他出して、久しき間旅の憂寐に身をやつしつ、やがて夜(よ)に 入りて帰り来り、我家の門に立ちて、いかに春英のやどりはこれかと、声たからかにいふを妻なる者驚 きて戸をひらき、いかにもさん候ふ、どなたかおはいりなされませといふに、我は春英なり、入りても 大事なきやといふ顔を、妻はつく/\とみてうちあきれ、たえてもなき事今宵はいかゞしてさは仰せら るゝぞといふに、いかにもかくいはゞ怪しくも思ふならん、されど我は日頃家にあらで、程へて後の帰 宅なれば、もしこの家(や)のいかなる事ありて、他人の者とならんもはかりがたければ、かく念をおし つるなり、されど別段の変りなくてまづは安心したりといへり、春英日頃質朴にして、何事も心にかけ ざる者の、猶この御念の入りたる事ありとて、その時の人語りあへり、春英は文政二年十月二十六日、 年五十八にて没す、墓は浅草本願寺の境内、善昭寺にあり〟
〈以上二つの逸話は、文政八年(1825)、牛島長命寺に建立された石碑「勝川春英翁略伝」(石川雅望撰)に拠っている〉
〝二世為永春水の辞世(350/410コマ)
※(かな)は原文の振り仮名
二世為永春水は実名を染崎延房と云て、旧対州の藩士なり、武州北豊島郡三の輪村なる対州の下屋敷に 生る、其著作中最も世人に持囃されしは北雪美談時代鏡なり、去明治十九年九月廿七日享年六十九歳に て此の世を逝きしが其辞世に 今よりは故郷の空にすむ月をいざやながめて遊びあかさん 皆さんへ扨(さて)いろ/\とお世話さまお先へまゐるはい左様なら と悟道の意を述べ、また諧謔の世を玩弄したる様なか/\に感心せり(河村直民)〟