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画人伝-明治-滑稽百話(こっけいひゃくわ)浮世絵事典
 ☆ 明治四十二年(1909)  ◯『滑稽百話』加藤教栄著 文学同志会 明治四十二年(1909)十一月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※全角(よみ)は原文の読み、半角(よみ)は本HPの補注   ◇歌川国貞(37/123コマ)   〝国貞己の家に盗に入る    歌川国貞、婦人賊に遇ふの図を倚頼され、苦心惨憺するも妙想浮ばず、一日外出して久しくかへらざり    しかば、妻心配して寝ずして待つ、偶(たまたま)盗あり、頬冠(かぶ)りをなし、表戸を押し明けて侵入    せしかば、妻狼狽して腰を抜かさんばかりに打驚き、声さへ立る事能はず、軈(やが)て妻盗賊の頬冠を    とるを見れば、吾が夫なるに、二度吃驚して終に泣き出しぬ、翌日国貞其の図を画きて佳作を得たり〟   ◇柴田是真(39/123コマ)   〝柴田是真其の子の教訓す    饗庭篁村が読売新聞の編輯に従事せし頃、柴田是真が日の出の勢あるを、石切河岸に訪ひしが、偶々不    在なりしを以つて、せめては是真が平生の様子にても聞かんと、長男の令哉が応接に出てたるに「御尊    父のお噂はかねて承はつて居るが、不幸にして未だ御目にかかつた事がない、子供衆に対しては定めて    有益なる御教訓もあるべし、一体どういふ様に導かれるか、お差支なくば後学のため、小生への御伝へ    下されたい」と、尋ねければ、令哉頭を掻きながら「エ-、別に之と申して御話をする程のことも御ざ    らぬが、父は平生私に向つて、貴様は後世から是真の子に令哉ありと云はれるな、令哉の父は是真と云    ふ者ぢやと言はれろ」と、口喧しく申し居れり、其の外のことは一寸考へ出せずと、答へたれば、篁村    座を退つて平伏し「天晴名匠の御教訓、小生までも有益の学問を致しました、御尊父が言葉づかひの意    匠の巧なことは、又格別のことと感服仕る」とて厚く謝して帰りしといふ〟   ◇十返舎一九   〝十返舎死後の戯れ(45/123コマ)    十返舎一九死にのぞみて、沐浴せしめずして直に火葬せよと命ず、門人等よつて火を点ぜしに、櫃炎々    として燃えあがりしと共に、数個の流星爆声と共に屍中より迸りいでしかば、会葬者皆愕然として驚き    ぬ、一九在世中の戯らにあきたらず、死してまでも戯らせんとて、予め児戯に供する煙火を懐にせしな    り、其の辞世に曰く     此の世をばドリャお暇に線香の/煙となりてハイ左様なら〟   〝十返舎一九借衣にて年礼す(101/123コマ)    十返舎一九常に赤貧にして筆始の衣服なし、即ち一策を案じ出し、一月元旦朝湯を調へおきて、早々年    礼に来りし某へ頻りに入湯を進め、客の衣を解いて浴室に入るや、その脱ぎたる衣服をそのまま借着し    て内を飛び出し、客の未だ風呂よりいでざる先きに、近所五六軒の年礼をすます〟   ◇英一珪(48/123コマ)   〝不時の若死    英一桂信重、北窓斎一蝶四世の孫なり、八十五歳にして没せしが、其の辞世の歌に     二三百生きやうとこそ思ひしに 八十五にて不時若死〟   ◇河鍋暁斎   〝暁斎外人を門弟とす(49/123コマ)    河鍋暁斎酒を好み、晨(あした)より杯を銜み昏に至りてやめず、或は痛飲連日、画債山積すれども少し    も意に介せず、客至るあれば唯酒を談じて毫も画に及ばず、ために往々画を責むる機を得ずしてかへる、    然れども一旦酒醒むるときは、大小紙絹手に手に従つて描写し、概ね稿をつけずして之れをなす、明治    の初年酒席に於て戯画を書き、忌諱に触れ、獄に於て拷問せられ、ために左腕萎縮して終身衣帯を約す    ること能はず、然れども右腕旧にまさりて愈(いよいよ)健、画法愈進む、英人コンデール弟子の礼をと    りて之れを学ぶ。外人の我画工を師とするものこれ前なからん〟   〝暁斎尻餅を撞て布袋となす(55/123コマ)    河鍋暁斎かつて知人と貪欲し、酔に情じて紙をのべ、裳を褰(から)げて尻に墨を塗り、紙上に尻餅をつ    き爭(とし)を加へて布袋となす、一座ために腹を抱へて絶倒す〟    〈「爭(とし)」の意味がわからない〉   〝河鍋暁斎の一筆鴨    河鍋暁斎得意の一筆鴉に、正価百円を附して絵画共進会に出品す、係官怪(し)みて其の価高きに失する    なきやを問ふ、暁斎笑つて曰く、貴官の言極めて理なれども、此の百円は単に鴉一筆の価にあらず、実    に我が腕熟練の価なりと、開会に及び、菓子商栄の主人之れを奇とし百円にて購(か)はんとす、自ら    も其の不廉なるを思へる暁斎、私(ひそ)かに五十円にて売らんと言ふ、主人聴かずして曰く、此の画若    (も)し五十円ならんには我れ豈に之を購はんやと〟   ◇勝川春章(55/123)   〝勝川春章の即智    勝川春章某家へ年礼へ行きしに、酒肴をおきて某の言ふ様、先頃より御願ひ申せし金屏風、今日こそ是    非とも御書き給はれと、春章辞み難く筆をとりて今や揮はんとする時、三歳ばかりなる家の小児、こそ    こそと歩み来りて傍にありし墨鉢を 屏風の上に蹴ね返へし、あまつさへその上於遠慮なく、あちこち    と歩きまはりたれば、居合せたる人々は言ふも更なり、主人はいたく落胆せしを、春章平気にて筆をと    り、小児の足跡をそのままに、万歳が新年の屠蘇酒に酔ひて、泥溝へ落ちし様を書き、一座をしてその    即智に呆れしめしと〟   ◇司馬江漢(61/123コマ)   〝司馬江漢街上を逃ぐ    司馬江漢かつて不義理の事をなして某処に匿れ、其の人には既に死せりと之言ひ遣しおきたり、然るに或    日其の人往来にて江漢が後姿を認め、追ひかけて其の名を呼びたるに、江漢一目散に逃げ出せしかば、    其の人後を追ひて呼ぶこと甚だ急なるに、江漢振返りて目を怒らし、呼んで曰く、我れは死人なるに何    ぞ返答すべきと、また一散に逃げ失せたり〟   ◇建部凌岱(64/123コマ)   〝建部凌岱山の芋を画く    建部凌岱豪放不羈にして画をよくす、一貴人その画才を愛し、三百両を与へ熊斐について学ばしむ、凌    岱其の金を以つて吉原遊女を買ひ家にとゞめてゆく、学ぶこと六年業成てかへるや、貴人命じて、画を    作らしむ、凌岱則ち墨痕模糊としてその何物たるかを弁ぜざるものを画きて呈す、貴人其の山の芋なる    を知り、赫怒して之を逐ふ、凌岱手をうつて笑つて曰く、三百金の束縛、一幅の山芋によつて脱却する    ことを得たりと〟   ◇大石真虎(65/123コマ)   〝大石真虎夫婦喧嘩を仲裁す    大石真虎は名古屋の画家なり、其の隣に毎日夫婦喧嘩をなすものありしかば、真虎之れを根絶してやら    んと思ひゐし矢先、又々喧嘩はじまりしと注進するものありしかば、真虎急ぎて菓子屋の前に行き見し    に、近所の小児等群集して山の如し、真虎仲裁すべしとて人を掻きわけて店にあがるより早く、並べあ    る(ママ)つかみて群る小児等に投げ与へければ、夫婦のもの之れを見て、掴み合ひも何処へやら、左右よ    り真虎にすがりて何をなされますと咎むるに、真虎打ち笑ひながら、汝等は今互に殺せ殺せとて喧嘩せ    しが、何方が死んでも一方は下手人として命をとらる、左れば当家も今日限り故、死後の追福をを営ま    んよりは、生前に施行する方よからんと思ひ、汝等に代りて施行したるなり、此の後とても殺せ/\が    始らば又来りて菩提を弔はんとて立ちかへりしかば、夫婦は顔見合せて呆れしが、其の後喧嘩どころか    仲よき夫婦となりたりといふ〟   ◇歌川豊斎(90/123コマ)   〝『釈迦八相倭文庫』にて其の名高き万亭応賀、之れも俳優絵にて有名なる歌川豊斎と共に、或る初冬修    善寺より熱海へ行きしことありしが、途々(みちみち)馬鹿話をしながら、一里程来て路傍の水茶屋へ    腰打ちかけ、江戸の子の気風を見せる積りにて、茶代拾銭おきしを、こんなに沢山戴いてはと、お世辞    タラ/\大喜びの姿、背戸に枝折れたる美しき柿一枝を折りて与へたれば、二人も喜びて夫(れ)を担ぎ、    談笑しながら五六丁行く内、俄に起りし竹螺(ちくら)の音ブー、ブー、ブブー、二人は之れを聞いて    「サテは猪でも出たと見える、怪我でもしては詰らねへ」と、相戒めつつキヨロ/\眼にて進む所へ、    手々に鋤鍬を持つてバラ/\と駈け来り、四五人の土百姓「此奴等は好い間の振をしやがつて、柿を盗    みくさつたナ、其の柿が何よりの証拠、サア棒縛にするからさう思へ」と。突然左右より二人の手を捕    へたれば、応賀と豊斎は吃驚仰天、「之はとんでもない、此の柿は後の水茶屋で貰ふたもの、さう言へ    ば今しがた、柿の枝を担いだ二人連れの男が急ぎ足で」など、言訳しても百姓中々承知せず「盗人たけ    /\しいおてゃ此奴等がこと、そんな手に乗る乃公(おれ)達では無い」と、遂に荒縄にて縛りあげた    れば、豊斎此処ぞと度胸を据へ「斯うしたら乃公達が逃げも隠れも出来ぬから、安心して後の水茶屋ま    で連れて行け」と怒鳴りたてしかば、百姓等も事によつたら人違ひかも知れぬと疑惑を起して、一人去    り二人去りて遂には縛られたまゝ二人残りぬ、縛られてゐてはどうする事も出来ず、縄附のまま十丁ば    かり引かへして前の茶屋に行き、姿に縄を解いて貰ふたとは滑稽の極(み)〟   ◇豊原国周(101/123コマ)   〝豊原国周十三両にて草双紙を買ふ    豊原国周かつて浅草広小路の露店にて、田舎源氏十冊程を見出し、値段を問ひしに、一朱と二百文なり    と答へしかば、乃公(おれ)は日本一の国周なり一朱に負けよと怒鳴りしが、其の本屋も亦乃公も日本一    の石井清次郞なり、懸直(かけね)は言はずと言ひ返へしぬ、国周こは面白き男と思ひ、然らば日本一の    国周が胆玉(きもたま)を見よとて、十三両ばかり入れたる紙入を投げ出して、草双紙を持ち去りさり、    然るに本屋も奇人にて、其の紙入を其の侭(まま)封じおき、己(おの)が臨終の時、之れを国周に返却    せしといふ〟   ◇葛飾北斎(109/123コマ)   〝葛飾北斎鶏を走らして画を作る    葛飾北斎、徳川将軍に召されて曲書をなせし時、一鶏を持ち来りて其の尾(に)藍を浸し、足に臙脂を含    ませて紙上に走らす、一條の青藍洋々たるの間、班々たる赤点紅葉浮び、龍田川の幽趣自然に全幅に横    溢す〟