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画人伝-明治-近世画史(きんせいがし)浮世絵事典
 ☆ 明治二十四年(1884)  ◯『近世画史』巻之一~五 細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。(文字)は本HPの読みや意味。茶文字は訓読出来なかった箇所。    収録は本HPの「浮世絵師総覧」に立項した絵師のデータのみ。絵師名の読み(かな)は本HPが施し、五十音順に並べかえた    書き下し文は本HPのもの。誤りも多いと思う、併せて御示教を願う)   (いっけい 一蕙)〔巻之一〕   〝浮田一蕙 本(もと)豊臣氏、自ら言ふ、浮田秀家の遺裔なりと。因りて浮田氏と称す。初名公信、後ち    可為と改め、内蔵允と称す。京師の人なり。画を好み、田中訥言を師として土佐氏の風に傚ふ。而れど    も差(やや)新意に出づ。人物を善くし、設色工(たくみ)なり。嘉永中、勅を奉じて御屏画を作す。旨(内    容)を称へて、賞賚(賞品)甚だ渥(あつ)し。会(たまたま)米利堅国(アメリカ合衆国)軍艦を遣はして互    市を求む。幕府好(よし)みを修すも、一蕙素より攘夷説を唱ふ。憤悒(憤りと憂え)益(ますます)甚だし。    画を乞ふ者有り。神風の舟を覆す図を作して之に与ふ。又屡(しばしば)上疏して時事を言ふ。党人の獄    興に及びで、幕府吏一蕙父子を捕へて、江都に檻致す。年を踰えて放され京師に帰るも、獄中病に嬰(か    か)り、此に至りて愈(いよいよ)篤く、遂に起たず。安政六年十一月十四日、年六十五。一蕙又和歌を    好み、且つ書を善くす。書為家卿に似たり〟   (いっちょう 一蝶 いっぽう 一蜂 いっちょう 一蜩 いっしゅう 一舟 いっせん一川)〔巻之二〕   〝英一蝶 一蜂 一蜩 一舟 一川    英一蝶 本(もと)多賀氏、名信香、一名安雄、字君受、治右衛門と称す。又助之進と称し、別に牛丸・    暁雲・六巣・澗雪・宝蕉・和央・翠簑翁・隣樵庵・隣濤庵・旧艸堂・狂雲堂・一蜂閑人・一閑山人等十    数の号有り。大坂の人なり。父伯庵、某藩侯の侍医たり。侯に従ひて江都藩邸に居す。一蝶少(わか)き    時、父に従ひて任所に在り。因りて画を狩野安信に学ぶ。別に新意に出で、意匠の妙、常に人の意表に    出づ。論者謂ふ、鳥羽僧正の後ち独りのみと。又書及び俳歌を善くす。佐佐木玄龍・佐佐木文山・松尾    芭蕉・宝井其角・服部嵐雪等と莫逆の友たり。顧るに人となり豪放にして、行検無し(品行不良)。遂に    罪を獲て南海の三宅島に謫せらる。島中に在ること十二年。母を思ひて忘すること能はず。毎(たびた    び)北窓を開きて之を望む。島に在りて画く所、款して北窓翁と曰ふ。宝永六年、忽(にわか)に胡蝶の    飛来して花上に止まるを見る。会(たまたま)赦書を得。因りて又氏名を改め英一蝶と曰ふ。或いは曰く、    禍福は常(つね)靡(な)し、猶ほ胡蝶の一夢の如し、蓋し此より取るかと。享保九年正月歿、年七十三。    義子一蜂、名信勝、父の画に傚ひ、第二世一蝶と称す。元文二年十一月没。    一蜂の弟一蜩、及び其の義子一舟、皆戯謔の画を善くす。一舟、名信種、東窓翁と号す。一に潮翁と作    す。明和五年正月歿、一舟の子一川、亦た家風を失はず〟   (かんげつ 関月 かんぎゅう 関牛 さんげつ 山月)〔巻之四〕   〝蔀関月 関牛 山月    蔀関月 名徳基、字子温、原二と称す。大坂の人なり。画を月岡雪鼎に学ぶ。又和漢の諸家法に倣ひて、    自(おのづか)ら一家と成る。山水・人物に工(たくみ)なり。詩書を善くす。寛政九年月歿、年五十一。    嘗て伊勢参宮名所図絵・山海名産図絵、二書の画を作す。頗る工緻なり。又嘗て篠塚伊賀守国の図を作    し、浪華天満の菅神廟の楣間(びかん:長押の間)に掲ぐ。鑑賞家推して絶作と為す。    関牛 名徳風、字子偃、家声を墜(おと)さず。門人に山月有り。氏名を詳らかにせず。泉州岸和田の人    なり。山水・人物に長ず。法橋に叙位せらる。文政中歿〟   (ぎょくざん 玉山)〔巻之四〕   〝岡田玉山 名尚、字友、大坂の人なり。月岡雪鼎に学ぶ。山水・人物・花卉・翎毛に工(たくみ)なり。    嘗て絵本太閤記及び和漢名所図絵中の画を作す。鏤板(ろうばん=版本)世に行はれ、法橋を叙位せらる。    文化九年歿、年七十六〟   (けいさい 蕙斎)〔巻之四〕〈まさよし 北尾政美〉   〝鍬形蕙斎 一に北尾氏と作す。初名政美、後紹真と改む。別に杉皐と号し、三四郎と称す。江都の人な    り。伝へ言ふ、谷文晁に学ぶと。然れども其の年歳を考うれば、文晁より先輩たり。且つ其の画を観る    に、粗(ほぼ)狩派に類す。山水・人物・花卉・翎毛を能す。而れども勝地の真形を写すこと、尤も工(た    くみ)なり。略画式を著して、鏤板(ろうばん=版本)世に伝ふ。山水人物草木一巻、百工図一巻、禽獣一    巻、合わせて三巻。其の人物の如きは尤も変態を極む。葛飾北斎作す所の漫画は、此に本(もと)づくと    云ふ。文政七年三月歿〟   (けいほ 敬輔)〔巻之二〕   〝高田敬輔 名隆久、竹隠斎と号す。眉間に疣(いぼ)有り、老いて毛を生ず。因りて眉間毫翁と号す。徳    右衛門と称し、江州日野の薬舗主人なり。幼くして画を好み、長ずるに及びで水口侯に仕ふ。侯之を遣    はして狩野永敬に就けて学ばしむ。壮歳にして致仕し里に帰る。益(ますます)絵事に耽(ふけ)る。僧古    澗を師とし、後ち又参に諸家の法を以てす(諸家の法を参考にした)。尤も人物に長ず。善く鯉を画く。    独り性霊を抒べるに成法に拘はらず相伝ふるのみ。曽我蕭白の縦逸、古人を本(もと)とすと曰ふと雖も、    亦た敬輔の風に傚ふなり。当時呉俊明と名を斉しうす。其れ江都に在りし日、人の為に墨鷹を作して、    名声大起す。因りて法眼に叙位せられ、豊前大目と称し、後ち法印に陞(のぼ)る。宝暦五年没、八十三、    或いは八十一と曰ふ。子三径、亦た画を善くす〟   (こういん 孔寅)〔巻之三〕   〝長山孔寅 字子亮、紅園・五嶺・牧斎斎等の号有り。出羽秋田の人なり。大坂に住す。松村月渓に学び、    而して人物・花鳥を善くす。後ち稍(やや)師風を変(へん)ず〟   (こうかん 江漢)〔巻之四〕   〝司馬江漢 名峻、字君嶽、一に春波楼と号す。江都の人まり。和蘭の学を以て聞こえ、画は西洋の烘染    法に傚ふ。又其の画を銅版に鐫(え)る。共に本邦の未だ嘗て有らざる所と為る。性游を好む。天明中江    都を発し、相模を経、伊豆に入り、熱海の温泉に浴す。日金山の絶頂に上り、繞(めぐ)りて三島に出づ。    駿州の庵原久能寺・遠州の秋葉山・参州の鳳来寺を過ぎり、勢州四日市より左折して皇太神廟に謁す。    志摩の鳥羽より海を航りて西して数里。岸に上りて、江州日野に抵(いた)る。石塔寺の大塔を観、八月    十五日夜を以て石山寺に宿り、月を観て去る。大坂に留まること数日、遂に播備の勝(地)を探り、芸州    の厳島の祠を瞻(み)る。防長の佳き処、大抵捜討せざる無し。赤間関に抵りて、海を渡り西す。肥前の    長崎に至り、笈を卸して久之(しばらくして)、又平戸に之き、生月島に航る。土人の鯨を捕るを観て反    (かえ)る。伊万里・唐津・博多を経て、再び赤間関に抵り、舟に乗る。備後の鞆津に至り、舟を捨てて    東す。京師に入り、道を岐岨(木曽)に取り、浅間・妙義の諸勝(地)を覧て帰る。途中、橐筆(筆袋)を抽    (ひ)きて之を記す。歴(へ)る所、都邑・山川の大略より、草木・歌謡の類に至るまで、畢(つい)に載せ    ざる靡(なし)し。間之、以図画、以便閲者。鏤板(ろうばん=版本)世に行はる。名づけて画図西游譚と    曰ふ。此の種の紀行、勝具(健脚)を有する者、之を作すこと難(かた)からず。而れども其の図の如きは    則ち画を能くする者に非ざれば弁ずること能はざるなり。又春波楼画譜及び雑著数種有り。文政元年十    一月歿、年七十二〟   〈「西洋の烘染(コウセン)法」とは陰影を使って物の形を強調することをいうのであろうか〉   (しゅんぼく 春卜)〔巻之二〕   〝大岡春卜 名愛菫、大坂の人なり。画を狩野氏に学ぶ、而れども常師無し。法眼に叙位せらる。宝暦七    年歿、年八十四。著に、明朝紫硯・画本手鑑・画史会要・欄間図式・丹青錦嚢・画功潜覧・麤画便覧・    画品似錦集・和漢名画苑・名花十二種・和漢名筆画品・甲州廿四将図有り。都て十二種。子無く有元氏    の子甫政を養ひ嗣と為す。春川と号す。亦た画を善くして法眼に叙せらる。安永中歿、年五十五〟   (すうこく 嵩谷)〔巻之二〕   〝高久嵩谷 名一雄、又屠龍翁と号す。江戸の人なり。英一蝶の画風を慕ひ、佐脇嵩之に従ひて学ぶ。氷(ママ)    藍の誉有り。後ち又佐狩二家の筆法を以て、英氏の未だ足らざる所を助く。是より先、一蝶の画風、人    々寖(やや)之を厭ふも、嵩谷に至りて再び盛んになる。文化元年八月没、年七十五〟   (すうし 嵩之 すうせつ 嵩雪 えいし 英之)〔巻之二〕   〝佐脇嵩之 嵩雪 女英之    佐脇嵩之、一名道賢、字子嶽、中嶽堂・一翠斎・幽篁斎等の数号有り。甚蔵と称す。江戸の人なり。画    を英一蝶に学ぶ。而れども其の風大変す。狩氏の画、此に至りて世に謂ふ所の浮世絵と、相去ること幾    ばくも無し。明和九年七月没、年六十六。    子嵩雪、字貫多、中嶽斎と号し、倉治と称す。画に父の風有り。文化元年十一月没。    嵩説の女英之亦た画を善くす〟   (すけのぶ 祐信)〔巻之二〕   〝西川祐信 自得斎と号す。叉文華堂と号す。右京と称す。京師の人なり。画を狩野永納に学ぶ。已而(そ    の後)画風一変して、日本絵を為す。喜(この)みて美人及び優人を写す。賦色妍媚、俗眼に入り易し〟   (せっかん 雪館 しゅうざん 秋山)〔巻之二〕   〝桜井雪館 女秋山 孟素    桜井雪館 名館、字常翁、別に山興と号す。又雪志と曰ふ。一に三江と曰ふ。常陸の人なり。江都に寓    し、遂には籍を占む。画は雪舟に法(のっと)り、多く濃墨を用ゆ。山水・人物を作すに、腕力勁健、恨    むらくは、未だ圭角太露を免れざる(角々しさが取れない)を。寛政三年二月没、年七十六。    女秋山 名雪保、字桂月。画に父の風有り。(孟素省略)〟   (せっしん 雪岑)〔巻之一〕   〝福王雪岑 名盛勝、白鳳軒と号し、茂右衛門と称す。画を英一蝶に傚ひ、後ち土佐氏の風に傚ふ。福王    氏、世々猿舞を業とす。此に由りて猿舞の図を妙とす。好んで重色を用いて、金碧燦然たり。天明五年    三月没〟   (せったん雪旦 せってい 雪堤)〔巻之二〕   〝長谷川雪旦 雪堤    長谷川雪旦 名宗秀、巖嶽斎・一陽菴等の号有り。江都の人なり。家世画を以て業と為す。雪舟風に傚    ひて、雪旦尤も顕(あらは)る。法橋に叙位せられ。江戸名所図絵、即ち其の画く所なり。天保十四年正    月歿、年六十六。    子雪堤、名宗一、又梅紅・松斎等の号有り。画比其父、未多譲 曾て調布玉川図を作し、鏤板(版本)世    に伝ふ。尾張侯に仕ふ〟   (せってい 雪鼎 せっさい 雪斎 せっけい 雪渓)〔巻之四〕   〝月岡雪鼎 雪斎 雪渓    月岡雪鼎 本姓木田、名昌信、字太素、又信天翁と号し、丹下と称す。近江の人なり。籍を大坂に占め、    画を高田敬輔に学び、更に和漢の諸家法に傚ふ。好んで美人を描き、時に亦た秘戯図を作す、又善く魚    を写して、円山応挙の如し。亦た其の意を摸すと云ふ。画名著しく聞こえ、法橋に叙位せらる。天明六    年十二月歿、年七十七。著す所の玉画府世に行はる。    両子雪斎・雪渓有り。同じく父に画を学び、並んで法橋に叙せらる〟   (そうり 宗理)〔巻之一〕   〝宗理 其の氏を詳らかにせず。俵屋と称す。初め住吉広守に就き画法を問ふ、後ち尾家の法に傚ふ。因    りて又青青と号す。没の年月亦た未だ詳らかならず。或いは曰ふ、明和安永年間の人なりと〟   〈「尾家」とは尾形光琳〉   (ちはる 千春)〔巻之一〕   〝高島千春 大坂の人なり、江都に寓す。画を土佐氏に傚ひ、善く伎楽面を写す。安政六年十一月没、年    八十三。門人福島隣春、花所と号す。江都の人なり。善く猿舞図を写す〟   (ちょうしゅん 長春 しゅんすい 春水 しんすい 薪水)〔巻之二〕   〝宮川長春 勝川春水 薪水    宮川長春 江都の人なり。画を土佐氏に傚ふ。又岩佐又兵衛風を喜(この)みて、邦俗の士女を写す。菱    川師宣の流亜なり。元禄享保年間の人なり。    子春水、父の画に傚ひ、氏を改め勝川と為す。元文年間の人なり。    春水の子薪水、亦た父の画に傚ふ。寛保年間の人なり。    菱宮二川の外、日本絵を以て名づく者は、固より僂指(指折り数える)すべからず。皆競ひて優人・力士・    娼婦を写す。叉邦俗雑画を作す。之を板に鏤(ちりば)め彩を施し印行し、以て児女の玩具と為す。称し    て錦絵と為す。力(つと)めて新奇を闘ひ、以て俗目を悦ばしむ。此の如きは、宜(よろ)しく之を画史中    の諸人と厠(まじ)うべからず。故に以て、予、之に伝を立て、此二家をば止む。若し夫れ其の風を悦び    て、而講其伎者、欲伝若輩事跡、則ち諸(これ)太(ママ)田南畝輯する所の浮世絵類考等の書に本(もと)づ    かば、別に一編を著はすも可ならん〟   (とつげん 訥言)〔巻之一〕   〝田中訥言 名敏、一に癡と曰ふ。字虎頭、大孝斎と号す。尾張の人なり。京師に居す。幼きより画を嗜    (この)む。偶(たまたま)藤原信実の真蹟を観ることを得て、悦びて其の風に傚ひ、益(ますます)古人の    名蹟を訪求して、以て濡染の資と為す。是を以て其の画、粗(ほぼ)土佐氏に似たり。而して別に神韻有    り。山水・人物・花鳥・草蟲を善くす。而れども古衣冠人物、及び宮殿図、尤も得意と為す。文政六年    三月没〟   (なひこ 魚彦)〔巻之三〕   〝楫取魚彦 茂兵衛と称す。下総佐原の人なり。江都に寓す。国学及び和歌を以て聞こゆ。嘗て古言梯一    書を著す。大いに後学に裨(たすけ=益)有り。又書を建部凌岱に学ぶ。筆墨簡老、作す所鯉魚墨梅多し。    並びに人物を善くす〟   (はりつ 破笠)〔巻之五〕   〝小川笠翁 一に破笠と号す、名観、字尚行、一に宗宇と名づく。又卯観子、夢中庵等の号有り。平助と    称す。伊勢の人なり。江都に流寓し、俳歌を善くして、松尾芭蕉の門人と為る。又巧みに漆器を造る。    鉛錫牙角及び瓷製諸物を以て漆上に嵌(は)む。暎帯趣(おもむき)を成す。世人称して笠翁細工と為す。    蓋(けだ)し此より前、未だ嘗て此の種の工芸有らざるなり。画を土佐氏に学び、設色花鳥を善くす。並    びに人物を工む。延享四年六月歿、年八十余〟   (ぶせい 武清)〔巻之四〕   〝喜多武清 武清は其の名、字子慎、可菴と号す。画を谷文晁に学ぶ。後狩野守信を慕ひ、稍(やや)其の    格を変じて、人物・花鳥を善くす。時に狩野氏寖衰(しんすい=次第に衰え)して工手出ず。狩氏の風を    悦ぶ者は皆武清画を牽(ひ)くと云ふ。安政三年十二月歿、年八十一。    其の子武一、亦た画を能くす。嘉永年中、父に先だつ。没年五十余、武清乃ち人の子を養ひ嗣と為す。    亦た武一と称す。一に探斎と号す。明治初歿〟   (ぶんれい 文麗)〔巻之二〕   〝加藤文麗 名泰都、世(々)幕府麾下(旗本)の士たり。伊予守と称す。画を狩野氏に学む。而れども後ち    稍(やや)其の風を変ず〟   (ほくさい 北斎)〔巻之二〕   〝葛飾北斎 初名春朗、叉宗理と名づけ、後ち辰政と改む。字為一、八五郎と称し、後八右衛門と改む。    叉卍老人と号す。江都の人なり。家世徳川氏の銅鏡工なり。北斎少(わか)き時、画を勝川春章に学ぶ。    春章は春水門人なり。是に由りて風俗図を善くす。後ち更に前人の真蹟を摸し、以て師資と為す。楼閣・    人物・花卉・翎毛、一つとして能はざる無し。而れども戯筆の画、尤も妙なり。変態百出、観る者の頤    (おとがい)を解く。蓋し其の天稟、画趣を饒かにするならん。而れども其の初め正派より門に入らず。    遂に俗を免かること能はず。賞鑑家は率(おおむ)ね取らず。其の著はす所の北斎漫画若干巻、大いに世    に售(う)れ、印板之の為漫滅するに至れり。余、米国華盛頓(ワシントン)に在し時、一画士を訪(たづ)ぬ。    乃ち架上の漫画数巻を抽(ぬ)きて余に示し、嗟賞して輟(や)まず。蓋し北斎の画、参に洋法を以てす    (洋法を参考にした)。其の用筆縦逸にして拘らざるに似たりと雖も、遠近向背、定度を失はず。故に特    に洋人の喜ぶ所と為る。嘉永二年四月歿、年九十。著す所、漫画数編の外、彩色通参巻、摸様画譜一巻〟    〈著者・細川潤次郎の訪米は明治4年(1871)。北斎の画は一見自由奔放に見えるが、遠近向背(前後)の表現は西洋画法の     基本通りだから、西洋人には好まれるというのである〉   (またへい 大津又平)〔巻之二〕   〝叉平、氏名を詳らかにせず。江洲大津の人なり。因りて大津叉平と称す。人(々)、之を称して第二世又    兵衛となす者有り。然れども勝重の子孫に非ざるなり。好みて仏画を作し之を鬻ぐ。人(々)、或いは其    れ霊験有りと伝ふ。往来の旅客多く之を買ふ。所謂大津絵は此より始むと云ふ。享保年間の人なり〟   (またべえ 岩佐又兵衛)〔巻之二〕   〝岩佐勝重 一に光輔と曰ふ。又兵衛と称す。世人称して浮世又兵衛と為す。其れ多く風俗図を作せしこ    と、而して俗に風俗図を称して浮世絵と為すを以てなり。相伝ふるに、勝重、荒木摂津守村重の子なり。    村重死する時、勝重甫(はじ)めて二歳、乳母之を携へて本願寺の支院に匿(かく)る。以て免を得て、後    ち越前の人岩佐某と為り、養を収むる所の岩佐氏を冒す。慶長中、京師に游びて画を土佐光則に学び、    専ら風俗図を作す。用筆精緻、金碧粲爛たり。然るに或るは、其の画に落款見えざるを以て、乃ち実に    其の人無しと謂ふ。恐らくは未だ必ずしも然らず。蓋し寛永年間の人なり〟   (もろのぶ 師宣 もろふさ 師房 もろなが 師永 まさのぶ 政信 ともふさ 友房     もろしげ 師重 もろまさ 師政)〔巻之二〕   〝菱川師宣 師房 師永 政信 友房 古山師重 師政    菱川師宣、宣、一に信と作す。友竹と号す。吉兵衛と称す。一つは長兵衛と曰ふ。房州小湊の人なり。    江都に移居して、家世刺繍を業とす。因りて画を学ぶ。土佐氏に傚ひ、叉岩佐又兵衛風を喜(この)み、    風俗を描写して遂に一家を成す。自称して日本絵師と曰ふ。日本絵の一派此より始めて盛んになる。元    禄八年没。    長子師房、父に画を学び、後ち染坊と為る。次子師永、亦た父に学び、設色に工(たくみ)なり。    其の門人に菱川政信・菱川友房有り。而して古山師重尤も著(あら)はる。師重の子師政、又其の風に傚    ふ。然れども菱川氏の画風、此に至りて衰ふ〟   (ゆうぜん 友禅)〔巻之五〕   〝友禅 本(もと)京師の染花の匠なり。又善く扇を造る。自署して扶桑の扇工と曰ふ。友禅此に因りて画    を工む。傅彩(ふさい)妍麗たり。後ち加賀金沢に遷る。一種の染法を創り、画家の着色の如くして、艶    美之に過ぐ。人称して友禅染と為す。不知友禅移画法以為染法乎、抑亦移染法以為画法。按ずるに宋時、    趙昌写生するに筆墨に由らず各色を染成す。友禅の染法と相類似す。未だ審(つまび)らかならず、友禅    亦た此等の事有るを知りて之を為すや否やを。蓋(けだ)し宝永元禄間の人なり〟   (ようさい 容斎)〔巻之四〕   〝菊池容斎 名武保、自ら正観公遠孫と称す。江都の人なり。家世徳川氏の徒士なり。画に於いて能はざ    る所無し。而れども最も人物に長ず。前賢故実二十巻を著し、其の収載する所、上古より南北朝に至る    無慮五百余人、人毎に像を作し、附するに小伝を以てし。其の作す所の詩歌を選録す。其の古人の容貌    を写し、諸国史の文に本(もと)づきて、その為人(人となり)を想像す。之(これ)以為(おも)へらく、服    飾の如きに至りては、必ず古図に拠る。古図無きは亦た諸古器に求め、湊合して之を為す。是の書乃ち    稿を文政より起こして、剞劂の功明治の初めに竣(を)はる。其の間、四十有余年。惟(ただ)人は猶ほ書    中服飾の類、考索の未だ精しからずして故実の名に負くこと有るを恨む。然考古之学、素非其所専習     無怪於少有差謬也 又鯉魚を工(たくむ)む。墨淡筆軽、水波揺蕩、藻荇掩映、而して三十六鱗、悉く生    趣有り。世史之躍鯉の瀑に登るを画く、水口頭を打ち、珠沫を噴散す。容斎心に疑ふ、此の如きは則ち    恐る上るを得ずと。一日、某所に於いて、忽ち水面に一鯉の跳出して、空を望み飛躍して、以て高処に    上るを見る。乃ち毎(そのたび)に其の図を作す。其の絵事への用心此の如し。    中興(明治)の後、年既に八十。猶ほ能く大幅細画を作す。其の画十余幀、及び前賢故実、曾て今上の御    覧を経(へ)る。因りて日本画史の称を賜る。明治十一年六月歿、年九十三。容斎児時 輒(すなは)ち喜    (この)みで筆を玩し塗抹す。其の父之を視て曰く、此の児或いは画を以て家と成すべし。稍(やや)長ず    るに及びて、其の画を学ぶことを勧む。容斎、父の意に忤(そむ)き難く。日夕黽勉(ビンベン=精を出して)    遂に業成るを得(う)。然して自ら思う。家、本(もと)より士人にして、且つ南朝忠臣の裔なり。宜しく    忠孝を以て身を立つべしと。而して少(わかき)より画を習ふ。中道にて(途中で)廃すべからず。若し能    く古人の忠孝節義を表彰し、以つて後に伝ふれば、画と雖も一小枝と為り、亦た未だ世道人心に裨益無    しと為さず。是より前賢故実の著有り。其れ曾て人の為に安房孝子番直家主の像及び和気清麿像を作す。    吉野に在りし日、後醍醐天皇の御容を写す。皆其平生極得意事云。或いは言ふ、其れ画を初め円山応挙    に学ぶと。惟(ただ)其れ自ら言ひて則ち曰はく、吾が学、師より承く所無しと。今其の用筆・濃淡・布    景・遠近を察(み)るに、其れ洋画より得るもの多し〟   (りょうたい 凌岱)〔巻之三〕   〝建部凌岱 初め凉岱と作す。字孟喬、一に字綾足、別に長江と号す。一に寒葉斎と曰ふ。大和の人なり。    少(わか)き時、亡命して僧と為るも、既にして俗に還る。材芸多し。博く古書を渉る。加茂真淵に従ひ    て游ぶ。和歌及び徘謌に工(たくみ)なり。又好んで片歌を詠む。因りて片歌道守と称す。神代繍江に従    ひて画を学ぶ。山水・花鳥、皆逸気有り。惟(ただ)性酒色に溺れ其の行を慎まず。学芸有り。而れども    世に售(う)れず。京都及び江都に流寓す。画を鬻(ひさ)ぎて自給す。安永三年三月歿、年五十三。著に、    寒葉斎画譜五巻・孟喬雑画五巻・漢画指南二巻・建氏画苑三巻有り。此の外猶ほ雑著二十二種有り。共    に五十余巻、其の書大抵古学を論ずるものなり。而後(しかるのち)世に人として之を伝へる者無し。良    (まこと)に惜しむべし〟