Top          著作堂雑記抄 曲亭馬琴記          浮世絵文献資料館          原本 …『著作堂雑記』曲亭馬琴記・文化元年(1804)~嘉永元年(1848)の記事          底本 …『曲亭遺稿』所収「著作堂雑記抄」。国書刊行会・明治四十四年(1811)刊              (国立国図書館「近代デジタルライブラリー」所収)       ※ 例「211/275」は近代デジタルライブラリー『曲亭遺稿』の画像番号で、275画像のうち211番目の意味    ◯『著作堂雑記』211/275(曲亭馬琴・文化五年(1808)記)   〝去る九月二十日【文化五年】蔦屋重三郎より文通之写      合巻作風心得之事    一 男女共兇悪の事    一 同奇病を煩ひ、身中より火抔燃出、右に付怪異之事    一 悪婦強力の事    一 女并幼年者盗賊筋の事    一 人の首抔飛廻り候事    一 葬礼の体    一 水腐の死骸    一 天災之事    一 異鳥異獣の図     右之外、蛇抔身体手足へ巻付居候類、一切【この間不明】、夫婦の契約致し、後に親子兄妹等の由相    知れ候類、都て当時に拘り候類は不宜候由、御懸り役頭より、名主山口庄左衛門殿被申聞候に付、右之    趣仲ヶ間申合、以来右体の作出版致間敷旨取極置候間、御心得にも相成可申哉と、此段御案内申上候     九月二十日       蔦重      著作堂様〟    〈この蔦屋重三郎は二代目。絵入読本等の改め担当名主が地本問屋へ通達した合巻の禁忌事項である〉    ◯『著作堂雑記』219/275(曲亭馬琴・文政二年(1819)記)   〝狂題文晁画達磨    浙江のあしのひと葉は、水なぶりの章にもしられ、葱嶺の履かた/\は、草履かくしの鬼をも度すべし、    面壁の春永くして、九年母の尻くされ、伝灯の光あきらかにして、廿八祖は頭とおばる、吁是教化別伝    の大禅機、何ぞ起あがれ小法師といはんや〟    〈この記事は前後の年次から文政二年(1819)のものと推定される〉    ◯『著作堂雑記』219/275(曲亭馬琴・文政三年(1820)記)   〝画工北尾重政【紅翠斎又号花藍】、数十年来、根岸の百姓惣兵衛地内に住す。文政三年庚辰春正月廿四    日没、年八十二歳成べし。嘗て云ふ、年十六歳の頃より江戸暦の板下を書こと六十余年、其の間享和中    二ヶ年間断ず、其の他今の江戸暦に至るまで皆重政の筆耕也、其の極老にして細字を能せしを、人皆一    奇とす〟    ◯『著作堂雑記』246/275(曲亭馬琴・文政五年(1822)記)   〝こゝろは直かるべく、かたちは常盤なるべく、行ひは一ふしあるべし、上見ぬ為の笠、ころはぬ先の杖、    唯この君をのみ友とすれば、清風耳にみちて、秀色目にあり【壬午四月二十八日画工柳川画】      うち霞む門の柳のけぶりより           もゆるともなき庭のくれ竹〟    〈柳川重信画は竹の図か〉    ◯『著作堂雑記』250/275(曲亭馬琴・文政八年(1825)五月三日記)   〝屋代氏より、今朝古画美女の図三幅、箱書付に土佐又平画とあるを、使を以て被差越、此三幅御一覧可    被下候、とても又平よりはおくれ可申候、如此帯はゞ広きはいつ頃よりの事に候や、示教希候と申来り    候に付、右の使またせ置、あらまし返書申遣す事左の通如仰箱書付はあてになり不申候得ども、図は天    正中の人物にて、慶長已来に画きしものにや、よろしき画とは見え不申候へども、土佐の筆意は少しづ    ゝ有之様に思ひ候、是は天正中の遊女歟、市井の婦人の図なるべく候、この頃かやうに幅広き帯あるべ    きやうなし、是は真の帯にては無之、帯ばさみにて可有之候、むあしは婦人出行の節、帯ばさみといふ    ものを致し候よし及承候、此帯ばさみは、紅染の布或は染絹など、人の好みにまかせ、二尺あまりに切    りて、一幅のまゝ帯のうへより、右の脇にて結びし由に御座候、これは古代の鞸の遺製にて可有之候、    鞸の和名ウハモ也、此鞸より今の前だれは出来しと申節あれ共、愚案は鞸より帯ばさみとなり、帯ばさ    みより今の前だれになり候哉と存候、今も佐渡越後の村落の婦人、他行の節は、紅染の木綿を二尺あま    りに切たるを三つに折、帯にはさみ候よし、只今は田舎といへ共帯の幅広き故、かくるに不及、依之折    り候てはさみ候よし、田舎者律儀なるもの故に、古風も遺り候、帯ばさみの図説は、所蔵いたし候得ど    も、只今急にとり出しかね候、ゆる/\尋出候はゞ、御目にかけ可申候、かゝればこの画の帯はからく    み紐などにて可有之候得ども、帯ばさみにて、真の帯は見えぬなり、又遊女のすり箔を着る事、うたが    ひあれども、遊女にすり箔禁制は、慶長已来の事故、その事なしとは云ひがたく候、かゝれば、図は天    正中の京師の遊女にて、筆者は天正後にても可有之候、三幅の内蔦模様有之方、出来よろしく見え申候、    愚案これにのみ不限候ことも、御使またせ即時に認候故、つくしがたく奉存候、早々已上、五月三日    かくのごとく申遣したり、但帯ばさみは、本名帯かけなるべし【文政八年乙酉仲夏初三】〟    〈幕府の表右筆・屋代弘賢が土佐又平画の箱書を持つ美人画三幅を馬琴のもとに送り、そこに画かれている幅広帯の時代考証     を依頼したのである。馬琴の見立ては「図は天正中の京師の遊女にて、筆者は天正後にても可有之候」というものであった。     この土佐又平画については『兎園小説別集』「帯被考」(『新燕石十種』第六巻所収)にもあり、そこには〝げに又平が筆     にはあらず。さばれ、画中の人物は天正中の妓女なるべく、画者は天正後にやあらん〟としている。また幅広帯と見えたの     は実は帯ではなく「帯被(オビカケ)」というものであると考証している〉    ◯『著作堂雑記』229/275(曲亭馬琴・文政九年(1826)二月記)   〝三世市川三竹肖像【戌二月下旬、二代目歌川豊国図】丙戌二月廿七日詠題      親ほどになるべきものを竹の子の          みつとかぞふるよい名のみにて〟    〈丙戌は文政九年。この豊国は前年の文政八年三月、二代目を襲名したばかり〉    ◯『著作堂雑記』233/275(曲亭馬琴・天保二年(1831)九月二十日記)   〝仲道事、御勘定馬場忠蔵事【下谷二長町に住】病気の処、辛卯九月十七日死去、いまだ御届に不及、内    分に候得共、旧来の相識に付云々と、右家内より今日しらせの手簡来る。此人文化の初めより、小普請    にてありし時は、内職に草紙類の板下筆工を書したり、文政のはじめ、御勘定見習に召出されし後は、    日勤に付、江戸暦の板下のみにて、その余の筆耕はせず、女児のみあり。仲道享年五十前後なるべし    【九月廿日記】〟    〈仲道は『南総里見八犬伝』の第一輯(文化十一年(1814)刊)から四輯(文政三年(1820)刊)や合巻『金毘羅船利生纜』初編     (文政八年(1825))など筆耕を務めた〉    ◯『著作堂雑記』235/275(曲亭馬琴・天保四年(1833)十月記)   〝聞まゝの記第十一に載す、黙老問云々、美成答て云、浮世絵師家系及高名のもの御尋でに御記被下度、    拝覧の所、僕年来聞に及びたるを録し置たりといへども、今悉記しまいらせんことたやすからず、その    一二を左に記す、元禄二年の印本江戸図鑑に、浮世絵師菱川吉兵衛【橘町師宣】、同吉左衛門師房【同    町】、古山太郎兵衛師重【長谷川町】、石川伊左衛門俊之【浅草】、杉村治兵衛【通油町】、菱川作之    丞師永【橘町】下略、浮世絵類考、画伯冠字類、風俗画談、近世逸人画史等によらば大概はしるべきな    り〟    〈天保四年十月頃の記事と思われる。同月十四日馬琴の日記に、高松藩の家老・木村黙老から「近来浮世画工之事」について     質問を受け、馬琴は早速「浮世絵師伝略文」なるものを認めて送ったとある。また弘化二年(1845)には浮世絵師や戯作者の     小伝『戯作者考補』の編集を終えている。『聞くまゝの記』はその黙老の随筆。馬琴が黙老に紹介した『江戸図鑑綱目』は     石川流宣著の地誌。「浮世絵類考」はどの系統のものであろうか。馬琴とは親密であった渓斎英泉に天保四年の序をもつ     『無名翁随筆(別名「続浮世絵類考」』があるが、おそらくそれではあるまい。「画伯冠字類」は『画師冠字類考』か。こ     れは高嵩月著。『風俗画談』は未詳。『近世逸人画史』は『江都名家墓所一覧』(文化十五年(1818)刊)の著者でもある岡     田老樗軒の画人伝。これは坂崎坦著『日本画論大観』中巻に収録されている。なお美成は山崎美成であるが、この記事にお     ける美成の関わりが判然としない〉    ◯『著作堂雑記』259/275(曲亭馬琴・天保四年(1833)記)   〝仙鶴堂は通油町絵草紙問屋鶴屋喜右衛門と云、姓小林氏、大酒淫情常に満たり、天保四年癸巳十二月十    日卒倒して身まかる、明午春正月十八日葬式をいとなむ、手向に詠て遣したり、      しるやいかに苔の下なる冬ごもり            ひがしの松に春をまたして〟    ◯『著作堂雑記』237/275(曲亭馬琴・天保五~六年(1834~35)記)   〝此頃【元禄十三年】云々、又京都難波東都に令して、春画楽事等、凡時尚の俗書板行を禁じ給へり、自    注、近世大阪にて西鶴と云し俳師、戯書多く作りて板せしかば、是にならふてよしなき事を作りて、世    を弄び人心の害にもなる故と云々【塩尻に出】〟    〈天保五~六年頃の記事〉    ◯『著作堂雑記』237/275(曲亭馬琴・天保六年(1835)記)   〝五月六日、琴嶺が病痾漸々に奇窮に及びしかば、いかで肖像を書かして、嫡孫等が成長の日に見せばや    と思う程に、末後に至て、飯田町より清右衛門が来にければ、予その事をばいはで、急に手簡一通を書    て、こをけふ翌日までに、麹町一丁目なる三宅備中守殿の家老、渡辺登【画名崋山】へ届けよとて、ゆ    だね遣しけるに、清右衛門がものに紛れて、八日のあした渡辺氏へ遣はしたり、九日の哺時に登来訪し    て、きのふは貴翰を賜はりて、云々の義を命ぜられしかども、さりがたき主用ありて、けふも亦使者に    出たるが、箯輿は外にとどめて来つとて、手牌一折をもたらして、琴嶺が病の安危をば問はれしかば、    予答て、琴嶺はきのふ朝五つ時に身まかり候ひぬと告ぐるに、登いたくうち驚き悼みて、御亡骸いかに    と問ふ、昨夕既に龕に斂めたれども納戸に在りといふに、登點頭て、苦しからずばしばし蓋をひらきて    見せ賜はりてんやと云、素より望む所なれは、折からまう来たる清右衛門に案内をさして、納戸に伴ひ    て龕を開きて見するに、登則筆硯を請求めて、枯相を写すこと一時ばかり、写し果て出てゝ予にいふや    う、枯相なれば肖るべくもあらず、なれども骨格は写し得たり、異日画稿ならば見せまつらんと辞して    まかれり、抑々此渡辺生は、初に画を金陵に学びて、琴嶺と同門なりければ、二十七八年の友なり、後    に画は一家をなして、肖像を写すに、必蘭法により二面の鏡をもて照らし、その真を写すに、肖ざるこ    となし、たゞ画事のみならず、文字あり、且剛毅の本姓にて、曩にある人の酒宴の席にて、髑髏盃にて    多く酒を喫せしと聞えたり、さればこそ琴嶺が亡骸に手をかけて、よくその枯相を写したり、この挙は    実に千金なり、世に懇友はもつべかりきと思ふ、予が喜しるべし【渡辺登画名は崋山、古画の鑑定をよ    くす、学力あり見識ありて、主君に登用せられたり】寛政中孝妣の遠忌に、画像を作りて祀り奉らばや    と思ひつつ、北尾重政にあつらへて、たび/\画かせたれども、毫も知らぬ人を画く事なれば、竟に肖    たるものなかりき、肖像は、必生前に画せおくべき事ぞかし【乙未六月七日】〟    〈馬琴の嫡子・滝沢琴嶺を画いた渡辺崋山の肖像画は写真であるが、それに比べると、寛政の頃、北尾重政に依頼した母の肖     像はあまり似ていなかったというのである。崋山と琴嶺はともに金子金陵に画を学んだ友人、しかも琴嶺の臨終に間に合わ     なかった崋山は、棺桶を開けて琴嶺を写生したのである。一方、重政は馬琴の母親とは面識もなかった。馬琴の言葉を聞い     て画像化したものであろう。彷彿とするはずもないのである。「乙未」は天保六年〉
    「滝沢琴嶺像」 渡辺崋山画(ウィキぺディア「渡辺崋山」より)    ◯『著作堂雑記』237/275(曲亭馬琴・天保七年(1808)五月十五日記)   〝木々の落葉といふ写本随筆やうの物に、英一蝶が遠島になり候訳は、或一諸侯甚だ記憶悪く、諸侯の面    を見識候事成りがたく、難儀の由一蝶へ咄候得ば、夫は心易き事とて、一蝶右の諸侯の供を致し、御城    へ参り、諸侯方の面貌を写真に致し候てまゐらせ候へば、殊の外歓び候処、右の儀聞伝へ候他の諸侯よ    り、我も我もと頼み参り、段々画き遣候に付、御役人の聴に達し、甚不届のよしにて、遠島に被処候由    有之候、行状先後考合せ候に、此説実事とも候哉、右抄録彼是取集一冊と致候て、近々致進上可申と心    掛居申候、    右は讃州高松家宰木村黙老手簡、丙申二月十九日の状中に申来候処、同年五月十三日到着、右の答書に    予云、英一蝶謫居の事は、英一蝶当時御庫門徒なりし故なりと、口碑に粗伝へたり、しかるにその木々    の落葉に載する所、又一説なり、虚実孰れか是なるをしずといへども、尚珍説といふべし、申五月十五    日記〟    〈「木々の落ち葉」という随筆に、一蝶の流謫は大・小名に頼まれて彼らの肖像(写真)を画いたこと、そこが原因だという     記事があるらしい。高松藩家老の木村黙老がそのことを、馬琴に書状で伝えてきたのである。それに対して、馬琴は、一蝶     の流罪は一蝶が禁制の宗派、浄土真宗の異端派・御蔵門徒であったからという言い伝えがあることを、黙老に示すと共に、     「木々の落ち葉」の記事も又一説なりとしたのである。要するに、一蝶の遠島処分が何に拠ったものなのか、依然として虚     実不明のままなのである。ところでこの御蔵門徒説であるが、一蝶の墓がある承教寺顕乗院は日蓮宗、こちらの禁制宗派だ     とすると不受不施派になるのだが……〉    ◯『著作堂雑記』242/275(曲亭馬琴・天保十一年(1840)記)   〝天保十一年庚子冬十一月、谷文晁病死、七十八歳なるべし、田安御画師にて、近来第一の名画なり、養    子文一も画匠なりしに、早く死したり、実子文二は画下手にて行はれず、文一の子後の文一は、佐竹の    画師にて同居す、此文一画才ありて世評宜し、予文晁と相識久ければ、記してもて遺亡に備ふ〟    ◯『著作堂雑記』243/275(曲亭馬琴・天保十二年(1841)記)   〝辛丑秋九月十六日、丁子屋平兵衛同道にて、画工国貞亀井戸より来る、我肖像を写さん為なり、この挙    は我本意にあらず、丁平が薦めによれり、終日酒飯のもてなしあり、写し得て帰去、其後八犬伝第九輯    五十三の巻下のさし画に、我肖像を載せたるに、他人は似たりといへども、我家の内の者どもは、さば    かり似ずといへり、我左眼病衰して、かすかに見ることを得ざれば、似たるや似ざるや未だしらず、然    れども肖像は、其当人をかたへに置て見くらべては、似ざる事自然の理なり、却て肖像の似たりといふ    は、只其趣あるのみ、写真は得がたきものなるべし、是にて肖像の真ならぬを悟るべし〟    〈『南総里見八犬伝』の最終回に馬琴の肖像を載せるため、板元の丁子屋は、当時肖像画に評判の高かった国貞を起用     した。しかし馬琴は肖像画に対して一家言をもっていた。「昔年豊国が京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是     ハ日々面会之熟友なれバ也」(天保十二年十一月付、殿村篠斎宛)、つまり一陽斎豊と山東京伝のように、日々面会     するような仲でなければ写真とでもいうべき肖像画は無理だというのである。それに比して国貞とはこれまで一二度     ちらっと会ったことがあるだけ、むろん長時間対面するようなことは一度もなかった。内心気が進まなかったのは当     然であった。しかし不満を鬱屈させながらも要求を受け入れてしまうのが馬琴の常で、やはり丁子屋の薦めに従った。     だがこの国貞に対する違和感というか、馴染めない距離感のようなものが、馬琴の心中あったことは間違いあるまい。     果たしてこの肖像画に対する周囲の受け止め方はそれぞれ別であった。丁字屋など他人は似ているという、しかし家     族のものは似てないという。では本人の馬琴はというと、これが既に失明していて見ることが叶わない。おそらく国     貞は馬琴に漂う弱さと頑なさが同居するような窮屈な感じを写し取っているのだと思う。丁子屋が似ているとしたの     は肖像画にそのおもむきが現れていると感じたからではあるまいか。一方家族のものたちは四六時中生活を共にして     いるから、他人が感じる雰囲気は既に自然化してしまって殆ど感じず、関心は専ら容姿の形似の方に向かったのかも     しれない。以下、国貞の馬琴肖像画と、天保七年(1736)馬琴の古稀を記念して画かれた長谷川雪旦画の肖像画をあげ     ておく〉
         香蝶楼国貞画「曲亭馬琴肖像」(早稲田大学「古典籍総合データベース」『南総里見八犬伝』第9輯巻53下)
     巌岳斎雪旦画「滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠」(早稲田大学「古典籍総合データベース」)    ◯『著作堂雑記』243/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)正月二十三日記)   〝崋山は渡辺登なり、三宅肥後守用人なり、先年蘭学の事にて罪を得て、入牢久しかりしに、竟に三宅殿    に御預けに成て、三州田原に送られて蟄居す、然るに猶其侭にてあらば、主君の為あしかるべしと言ひ    聞せし者あり、時に天保十二年十二月中旬、崋山意衷を書残して自殺す、享年四十九歳ばかり成るべし、    此故にや、三宅殿いく程もなく御奏者番に成て勤めたまへり、崋山の忠死其甲斐ありといふべし、此儀    壬寅正月二十三日、御刀研御用達赤坂の竹屋平八殿事、狂名山川白酒来訪、語次に是を告て、伝聞なが    ら慥なる説を得たり〟    ◯『著作堂雑記』244/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)記)     〝同(天保十三)年六月、江戸繁昌記の儀に付、右作者静軒実名寺門次右衛門は【静軒今は駿河台某殿の    家来に成りてある故に、右主人に御預けになれり】鳥居甲斐守殿南町奉行所え被召出、御吟味之処、右    繁昌記は静軒蔵板に候処、丁子屋平兵衛、雁金屋引受候て売捌候次第、五編は丁子屋平兵衛方にて彫立、    初編より四編迄の板も、平兵衛方へ売渡し候由申に付、丁子屋平兵衛を被召出、御吟味之処、右繁昌記    の板は、何某と申者より借財之方に請取り候て摺出し候、其何某は先年他国致、只今行衛知れず、五編    を彫刻致候事は無之由陳じ候、然れども右繁昌記は、初編二編出板之頃、丁子屋平兵衛引受候て、町年    寄館役所え窺に出し候間、館市右衛門より町奉行所え差出し伺候処、漢文物に候間、林大学頭殿へ付問    合候に付、大学頭殿被見候て、此書は不宜物に候、売買無用可為(タルベシ)と被申候に付、右之書は御差    止に相成、出版仕間敷旨、丁子屋平兵衛より館役所え証文被取置候所、平兵衛内内にて摺出し、剰へ五    編迄売捌候事、重々不埒之由にて、平兵衛は五人組え厳敷御預に相成候由にて、未だ御裁許落着無之候    へども、犯罪、人情本より重かるべしと聞ゆ〟    ◯『著作堂雑記』244/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)記)   〝天保十二年丑十二月、春画本并並に人情本と唱へ候中本之儀に付、右板本丁子屋平兵衛、外七八人並中    本作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉殿北町奉行所え被召出、御吟味有之、同月廿九日春    画本中本之板本凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行所え差出候、翌寅年正月下旬より、右之一件又    吟味有之、二月五日板元等家主へ御預けに相成、作者春水事長次郎は御吟味中手鎖を被掛、四月に至り    板元等御預御免、六月十一日裁許落着せり、右之板は皆絶板に相成、悉く打砕きて焼被棄、板元等は過    料銭各五貫文、外に売得金七両とやら各被召上、作者春水は、改てとがめ、手鎖を掛けられて、右一件    落着す〟    ◯『著作堂雑記』259/275(曲亭馬琴・天保十三年(1808)記)   〝天保十三年八月六日官令、一朱銀通用を被差止、且銭相場は一両に六貫五百文【二朱に八百十二文】に    定むべしと御下知有之、近来は銭下直んにて、七貫文、七貫百三十二文、今茲六月より六貫八百九百文    なり〟    ◯『著作堂雑記』259/275(曲亭馬琴・天保十三年(1832)八月七日記)   〝天保十三年寅六月、合巻絵草子田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行え被召出、田舎源氏作者種彦へ作    料何程宛遣し候哉を、吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板不残差出すべしと被仰付候、鶴屋は    近来渡世向弥不如意に成候故、田舎源氏三十九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請出し    則ち町奉行へ差出し候処、先づ上置候様被仰渡候て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なるべ    しと云風聞きこえ候、否や遺忘に備へん為に伝聞の侭記之、聞僻めたる事有べし、戯作者柳亭種彦は小    十人小普請高屋彦四郎是也、浅草堀田原辺武家之屋敷を借地す、【種彦初は下谷三味線堀に住居す、後    故ありて、其借地を去て、根岸に移ると云、吾其詳なることを不知】其身の拝領屋敷は本所小松川辺也、    此人今茲寅五六月の頃より罪あり、甚だ悪敷者を食客に置たりし連累にて、主人閉被籠宅番を被付しと    云風聞有之、事実未だ詳ならざれども、田舎源氏の事も此一件より御沙汰ありて、鶴屋喜右衛門を被召    出、右の板さへ被取上しなるべし、予寛政三年より戯墨を以て渡世に做す事こゝに五十三年也、然れ共    御咎を蒙りし事なく、絶板せられし物なきは大幸といふべし、然るに今茲より新板の草紙類御改正、前    條の如く厳重に被仰出候上は、恐れ慎て戯墨の筆を絶て余命を送る外なし、さらでも四ヶ年以前より老    眼衰耄して、執筆によしなくなりしかば、一昨年子の冬より、愚媳に代筆させて僅に事を便ずるのみ、    然れば此絶筆は吾最も願なれども、是より旦暮足らざるを憂とする者は家内婦女子の常懐也、吾後孫此    記閲する事あらば当時を思ふべし【壬寅八月七日記之、路代筆〔頭注〕路は翁の亡児琴嶺の婦】〟    ◯『著作堂雑記』260/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)記)   〝天保十三年寅年八月廿三日、江戸繁昌記一件落着、作者静軒は武家奉公御構、丁子屋平兵衛は所払にて    家財は妻子に被下、右繁昌記売扱ひ候雁金屋は過料十貫文、右之書を彫刻致候板木師等は過料五貫文、    右之彫刻料を不残被召上、是にて一件落着也、丁子屋平兵衛は同月高砂町の貸家へ移る、小伝馬町三丁    目の本宅は六歳の男子平吉を主人にして、手代等是に従ふと云〟     〝天保十三年壬寅七月下旬柳亭種彦没す、廿七八日頃の事にて、田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門も召捕れて    町奉行え差出せし日と同日也と云ふ、種彦享年六十歳許なるべし、此事同年八月七日太郎吾使して芝神    明前へ行きし折、和泉屋市兵衛に聞て帰り来て吾に告る事如此〟    ◯『落書類聚』中巻(鈴木棠三・岡田哲校訂・東京堂出版・昭和五十九年刊)   〝一、天保十二年春の頃より女髪結を禁ぜらる。十三年に至りて、尚やまざれバ、御厳禁甚敷、女髪結も    結する者も、或は召捕られ手鎖を掛られ、町中路次に女髪ゆひ入べからずといふ張札を出す。此女髪結    ハ、文化年間より始りて次第に甚しく行れしかバ、賎しき裏屋の女房・娘、或は人の下女迄も女髪結に    髪ゆはせざるハなし。今ハ自身に髪を結得ざるもの多かり。始ハ結者より油を出して百文ヅゝなりしに、    女髪結多くなるによりて、或ハ五拾文、三拾弐文、弐拾四文にても結といふ。是等の御停止ハ、乍恐尤    御善政にて難有御事也。    一、同年の春より、よせと唱へて女子の浄瑠璃を以て人よせして、渡世に做者被禁。去年より此儀停止    の御触ありしに、今茲に至りて各日を替て尚興行なす者ありしかバ、よせの主人其女子共ハ被召捕て、    御吟昧中手鎖をかけられ、久しくして御免なり。よせの家ハ皆破却せらる。    一、江戸中の軍書読、其家を拾五ヶ所に定められ、皆年久しく渡世したる者どものみ許されて、其余は    停廃せらる。    一、江戸中岡場所と唱ふる隠し売女、皆停廃せらる。当寅八月迄に新吉原町へ引移りて渡世致候共、商    買がへ致候共致すべく被仰渡、此故に吉原へ引移る者、引移り得ざるものと皆其地とを引払ふといふ。    深川・本所・根津・音羽町・赤坂・三田の三角切見世と唱ふる者迄、其地にて渡世致事ゆるされず。此    故に品川・新宿・板僑・千住の飯盛繁昌すといふ。    一、両替屋書林草紙問量其外之諸商人、仲間を立、行事を置る事を禁ぜらる。此外湯屋株・髪結株・都    而株と唱るもの、上ケ銭を取事を停廃せらる。此故に人々勝手次第に渇屋なり髪結床を出す者少なから    ず。是迄髪結銭三十二文なりしに、上ケ銭ならずなりしかバ、弐拾文に引下ケたり。新たに出し候髪結    床ハ、拾六文にて結といふ。湯銭も是迄ハ八文なりしに、小児迄も各六文迄定められ、いともかしこき    御趣意によりて、都て物の価を引下ケて下直にすべしと御下知あり。此故或は五分、或は三分と直段を    引下ケて売ぬハなし。    一、江戸中家主、其店々より節句銭取べからず、店貸候時樽代取べからずといふ厳禁なり。并ニ江戸中    地代・店貸引下ケ候様と地主・名主へ被仰渡、其町々地主・名主・家主等取調。寛政御改正の頃と引く    らぺ、地代・店貸を二割、或ハ二割余も引下ケ候て、町奉行所へ書上候に付、名主・家主等打寄勘定致    し、今茲寅八月に至りて各其帳面出来、奉行所へ上ると云。是等の事今の人の知る所なれ共、後生の為、    且遺忘に備へん為に略記する者なり。    一、鮓を高直に売候者、壱ツ四拾八文より拾六文まで有之、右内々御糺しの上、其者共を町奉行所へ被    召出、御吟昧の上商売を止められ、久しくして後に御免ありしと。夫よりして鮓一ッ八文より高直の品    不可売と定めらる。    一、野菜もの、其時に先達而高直に売候事を禁ぜらる。此故に瓜・茄子ハ、今茲に壬寅五月に至りて売    事を許されたり。例の初物と違ひ黄瓜ハ一ツ六文、八文。茄子ハ十ヲニ付五、六拾文也。又江戸近辺の    荘客、孟宗竹を多く植て、多く笋を出す事を禁ぜられ、五月に至りて荘客地の孟宗竹を切捨て、其跡を    田畑にすべしと御下知ありと風聞す。    一、江戸中銀の髪ざし銀の金具を禁ぜらる。其家主より、店々の銀の釵銀金具を取集めて銀座へ出せば、    其代料を銀座より渡され、今年壬寅春此事あり。秋に至りて、又御下知有て、当春集残りしたる銀の髪    ざし金物を、家主等又店々より取集て銀座へ出す事、当春の如し。此故に、当夏の頃より象牙櫛・髪ざ    し・角竹の髪ざし、所々より売出して大に行ハる。    一、玳瑁の櫛笄、高料の呉服物を売候小間物問屋を、御穿盤有之。通油町炭屋、其外小間物問屋三、四    軒、其品々を召上ゲられ、御吟昧の上、代金五両より下の品ハ其商人に返し被下、五両より高金の品々    皆打砕て焼捨られ、此件壬寅夏四月落着すといふ。    一、照降町のぜいたく屋、其外にも高料異風の衣服・小間物、高直の裏付草履・下駄・足駄等売候物ハ、    皆町奉行所へ被召出、御吟味の上、高直の品ハ御差留にて焼捨られ、当人共ハ御咎を蒙る。其中に賛沢    屋の主人ハ、始め偽りを申たる罪によりて入牢す。牢にある事十五日にして、死すと云。詳なる事を知    らず。是よりして、女子の裏付草履に天鵞絨の鼻緒を禁ぜらる。此外小児もて遊び品、代銀壱匁限り、    銭売は、百文より高直の品不可売。仕入候分も、当寅八月迄に売尽すべしと御下知有之。鼻紙袋ハ代銀    弐拾目限り、喜世留ハ五百文より高直の品売べからずと、其問屋共へ御下知あるといふ。是等の事、皆    伝聞の侭に記す。おしなべてたがへるもあるべし。    一、去年丑十二月、可然商人共を北町奉行所へ被召出、遠山殿自身、御趣意の御旨を説示して、高直の    品ハ不可売と教諭ありしに、今茲に寅の春に至りて、右の商人等しのび/\に玳瑁の櫛・弄、其外高料    の物を売しかバ、畢に前条の如くに行ハれ、当人共ハ所払に成されて、家財ハ妻子に被下しといふ。そ    が中に通油町の炭屋ハ、玳瑁の櫛・弄など三長持あり。其内一ト長持ハ価金五両以下の物なれバ返し被    下。残る二長持ハ、皆高金の長持なれバ、前条の如く焼捨られしといへり。    一、天保十三年の春より、江戸中水茶屋・楊弓場に若き女を出し置事を禁ぜらる。又地獄と唱ふる隠し    売女等、又かこひ者といふ者、男二三人あるハ、是又隠し売支に准ぜられて、地獄と共に吉原町へ被遣    て遊女とせらる。同年八月上旬、其類の女子、又客と共に八十四人被召捕しと云風聞あり。    一、右同年同じ頃、然るべく両替屋共仲ヶ間といふ事ハなきに、十三四人集会したれパ、其旨早く町奉    行所へ聞へて当座に皆被捕。且去年より大阪ハ銭相場高直なる故に、彼地に銭を積贈る事も閏へて、右    の御咎を蒙りしと風聞す。皆是、伝聞の侭しるす。詳かなる事を知らず。    一、右同年同頃、江戸の商人等軽重各差別あれ共、罪を得ぬ者不少。皆刑欲の為に法を犯し、度を破る    の故なり。夫小人の徳に服せず、只おどさゞれバ懲りず、誠なるかな、鳴乎。    一、御趣意にて、諸役人中節検を旨とせらる。当寅の夏より、御老中・若年寄を始めにて、登城毎に麻    の帷子・葛袴を着用あり。町奉行所遠山殿、組与力・同心に美服を禁ぜられ、絹紬(ママ)・太織木綿・麻    袴と葛織・麻等を着用すべしと命ぜらる。同心は皆麻の羽織なり。縮緬・絽を用ゆる事を許されず。    一、当寅の春町同心、町人の妻娘美服を着て往来する者を捕ふ。是によりて岡引と唱ふる者、其女の衣    裳を剥取事所々にて有之。是ハ町奉行の下知に非ず、岡引の私の計ひ也。後に聞へて、町奉行より禁ぜ    らる。且町触ありて、其者を触知らせたり。歌舞妓役者等、舞台の衣裳縮緬・太織木綿の外、高料の衣    服を禁ぜらる。又湯嶋・市ヶ谷・芝神明の宮芝居をバ禁ぜらる。壬寅の五六月より停廃にて、皆其地を    引払ふたり。又田舎芝居を禁ぜらる。甲州・奥州・常陸・下総等の領主へ御下知ありて、江戸歌舞妓役    者田舎に至りて渡世を致す事を許されず、又江戸の歌舞妓役者等、京大阪に至りて渡世をいたし、京大    阪の歌舞伎役者江戸へ来リて渡世致する事を停止せらる。是は其地の風俗を乱るゆへとぞ。是等ハ当時    の風聞囂しく、世の人知る所なり。    一、今茲壬寅の夏、江戸中町人ハ、多く麻の小紋の羽織を着用す。女子ハ、縮緬前かけ、同半てんはや    みたり。武士ハ、麻のぶつさき羽繊・小倉の馬乗袴にて往来するもの多かり。大名の家臣、然るべき人    他行の折、主僕同服にて、木綿衣ならぬは稀なり。制止厳重なる故なり〟      ◯『著作堂雑記』260/275(曲亭馬琴・天保十四年(1842)記)   〝ある人、柳亭種彦が辞世也とて予に吟じ聞かせける其発句      吾もまた五十帖を世のなごりかな    種彦この発句四時の詞なし、古人に雑の発句は稀也、ばせをに一句【歩行ならば杖つき坂を落馬かな】    支考に一句【歌書よりも軍書に高しよしの山】、只是のみ、況や辞世の発句に雑なるはあるべくもあら    ず、此れによりて是を観れば、種彦は前句などこそ其才はありけめ、俳諧を学びたる者にあらず、且享    年五十歳ならば五十帖も動きなけれども、只田舎源氏三十余編、いたく世に行れたるを自負の心のみな    らば、其識見の陋(イヤ)しきをしるべし、都て古人といへども辞世の詩歌発句などの妙なるは稀也、意ふ    に其人病苦に心神衰へながら、強て拈り出す故なるべし〟     ◯『著作堂雑記』261/275(曲亭馬琴・天保十四年(1833)記)   〝戯作者為永春水事越前屋長次郎、天保十四年癸卯年十二月廿三日、小柳町の宿所に死す、享年五十四歳、    書肆丁子屋平兵衛来訪の日、語次に是を聞知りぬ、春水は始めせどりと歟云ゑせ本屋にて、軍書講釈に    前座などを読で世渡りにしたり、其後をさ/\戯作を旨としつ、古人南杣笑楚満人の名号を冒して、又    楚満人と称しつゝを、ふさはしからずとて、貸本屋等が笑ひしかば、棄て又為永春水と称し、教訓亭と    号す、文政中人の為に吾旧作の読本抔を筆削し、再板させて多く毒を流したれば、実に憎むべき者なり、    性酒を貪りて飽くことを知らず、且壬寅の秋より人情本とかいふ中本一件にて、久しく手鎖を掛られた    る心労と、内損にて終に起(タタ)ずといふ、子なし、養女壱人あり、某侯へ妾にまゐらせしに、近曽(チ    ガゴロ)暇をたまはりて、他人へ嫁しけるに、其聟強欲酔狂人にて、親の苦労を増たりと云、妻の親里さ    ばかりまづしき町人ならねば、良人死して後親里えかへりにきと聞えたり、吾春水と交はらざれば詳な    ることを知らず、文渓堂の話也〟    〈文渓堂は丁子屋平兵衛〉    ◯『著作堂雑記』262/275(曲亭馬琴・天保十五年(1844)記)   〝肥前平戸の大男生月鯨太左衛門、去甲辰十八歳、身丈七尺三寸、安永中の釈迦ヶ嶽、文政の大空武左衛    門より巨大なりと云、旧冬より右の錦絵多く出たり、去天保十四年の冬、角力等と倶に江戸に来る、関    取某の宿所に同居す、丁子屋平兵衛の話に、其頃友人を倶に大男を見に行しに、実に風聞に違はず、地    取を見物しけるに、二段三段等の角力、手に立つ者なし、但いまだ身の太りつかず、腹も小く裸体は反    て劣り、且搶肩なれば衣服着たるを宜しとす、此者を廿人力を定めしは、平戸にありし日廿人曳の地曳    網二つおろして、一つは廿人に曳せ、一つは大男に曳せけるに、大男の方三足程先へ進たれば也、甲辰    十月下旬より両国回向院にて角力興行、大男土俵入するとて大入の聞えあり、右大男の食の多少を丁平    同宿の関取に問ひしに、外の角力の異なることなし、貌の如く大食はせずと云、丁子屋土産にかすてい    ら一折遣しける、大男見て食たそうにて食はざりしは、いまだ其味を知らざりし故なるべしと丁平いへ    り、此余聞たる事あれど只要を摘て録しつ〟    ◯『著作堂雑記』264/275(曲亭馬琴・弘化三年(1848)記)   〝(弘化三年八月、市村座において馬琴の旧作読本に拠った桜田治助作の狂言「青砥稿(あおとぞうし)」    が大評判になる。その時、当の馬琴の承諾を得ず、看板や番付に「曲亭馬琴子」の文字を使用したこと    に、馬琴がクレームを付けた。その結果「近来高名家」と書き改められるというトラブルがあった。そ    のときに詠まれた落首)      桜田は青砥不実な摸稜案馬琴の責にあたり狂言    此歌はやく市村座の楽屋へも聞えて、俳優等絶倒したりといふ、書肆文渓堂が話なり、或は云、右の歌    は画工英泉の手より出たりと、他が口ずさみたるならん【丙午十月五日聞く所なり】〟    〈文渓堂は板元の丁子屋平兵衛。この芝居は『青砥稿』だが、馬琴は英泉詠の落首ではないとみていたようだ。一勇斎     国芳画「青砥左衛門藤綱」役の「中村歌右衛門」をあげておく〉
    一勇斎国芳画「青砥左衛門藤綱」(早稲田大学「演劇博物館浮世絵閲覧システム」)     ◯『著作堂雑記』265/275(曲亭馬琴・弘化四年(1847)記)   〝京橋なる本屋蔦屋吉蔵が板にて、八犬伝を合巻に綴り改め、上方より来つる戯作者某に綴らせて、画は    後の豊国になりと云、この風聞今年【弘化四年】六月の頃聞えしかば、八犬伝の板元丁子屋平兵衛ねた    く思ひて、吾等に相談もなく、亦八犬伝を合巻にすとて、文は後の為永春水【初名金水】に課せて是を    綴らせ、画は国芳の筆にて、其板下の書画共丁秋七月に至り稍成りし時、初て予に強て曲亭校合として    出さまほしといひしを、吾肯んぜず是に答て云、吾等此年来、他作の冊子に名を著して、校合など記さ    せし事なし、思ひもかけぬこと也とて、其使をかへしたり、彼蔦屋吉蔵は利にのみはしるしれものにて、    吾旧作の合巻冊子を、恣に翻刻して新板と偽るもの、是迄二三板出したれども、いふかひなくてそが侭    に捨置たり、蔦吉は左まれ右まれ、丁平は八犬伝の板元にて、作者猶在世なるに、吾等に告げずして、    是迄合巻の作はせざりける金水の為永に課て、是を合巻に綴らせしはいかにぞや、彼金水は其師春水の    遺恨にもやよりけん、丁子屋板にて彼が著したる冊子に、吾等の事をいたく譏りたりとて、伊勢松坂な    る桂窓が告げたりしことさへあるに、こたび丁平の做す所、義に違ふに似て心得がたけれども、夫将利    の為にのみして、理義に疎き賈豎のことなれば、いふべくもあらず、蔦吉板の合巻八犬伝は、書名を犬    の冊子と云、初編二編四十丁、今年丁未九月上旬発板の聞えあり、丁平のは初編二十丁、書名をかなよ    み八犬伝と云、近日発行すべしと正次の話也、蔦吉の課たる作者の巧拙は未だ知らず、金水が手際にて    よくせんや、否可惜(アタラ)八犬伝をきれぬ庖丁にて作改めなば、さこそ不按塩なるべけれと、いまだ見    ざる前より一笑のあまり概略を記すのみ〟    〈笠亭仙果作・三世豊国画『八犬伝犬廼草紙』と二世為永春水作・国芳画『仮名読八犬伝』の裏話である。共に嘉永元     年(1848)刊〉     〝蔦屋吉蔵、又美少年録草ざうしにせんとて、後の十返舎一九に約文させて、画は後の歌川豊国筆にて、    弘化四年冬十月上旬出板の聞えあり、因て取よせて、閲せしに、多くは美少年録の抄録にて、初編二冊    □□野の段に至る、その約文、一九が其身の文をもて綴たる処は、前と同じからず、抱腹に絶ざる事多    かり、丁子屋平兵衛又此事を聞知りて、弥憤りに堪ず丁平も又美少年録を合巻ものにして、蔦吉が烏滸    (オコ)のわざはいふにしも足らず、丁平の恣なる、予を蔑(ナイガシロ)にするに似たり、懐ふに当今は寅年    御改正の後、書肆の印本に株板と云物なく、偽刻重板も写本にて受ぬれば、彫行を許さるゝにより、同    書の二板も三板も、一時に出来ぬる事になりたるは、夫将に戯作の才子なければ、人の旧作を盗みて、    利を得まく欲しぬる書賈の無面目になれる也、独歎息のあまり、録して以て後の話柄とす〟    〈三世十返舎一九作・豊国画『新靱田舎物語』嘉永二年(1849)刊の裏話〉