Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
               「曲亭馬琴資料」「天保三年(1832)」  ◯ 正月 二日『馬琴日記』第三巻 ③7   〝(長子宗伯)半蔵御門外三宅内渡辺登方へも罷越、則、対面之上、去卯九月中、登せ話被致候、唐本水滸    四伝全書四帙代金、弐両弐朱、登ニ渡し畢〟    〈渡辺登が渡辺崋山。馬琴の長子宗伯とは共に金子金陵に画を学んでいる。「唐本水滸伝全書」については、天保二年九月六日     以下の記事参照〉    ◯ 正月 九日『馬琴日記』第三巻 ③12   〝俳優板東三津五郎【六十余才】・瀬川菊之丞【三十余才】、旧冬十二月中死ス。今日三津五郎送葬、芝増    上寺地中某院のよし、見物群集ス。菊之丞ハ、明十日深川の菩提所へ送葬のよし、風聞あり。三津五郎ハ    借材(ママ)七八千両ありなどいふ。虚実ハしらねど、さもあるべし〟
   〈両者をお半・長右衛門に見立てた一勇斎国芳の「死絵」をみると、〝天保二年極月廿七日 芝増上寺寺内常照院 行年五十七     才 板東三津五郎 同三年壬辰正月七日 本所押上大雲寺 行年三十二才 瀬川菊之丞 勇誉方阿哲芸信士〟とある。二人の     死絵は他に国貞・国安・貞景画などが画いている。大変な売れゆきだったようで、馬琴も関心を示したが、入手困難であった。     三月二日、六日記事参照〉    ◯ 正月十二日『馬琴日記』第三巻 ③14   〝(『殺生石後日怪談』)右さしゑ、英泉方へ罷越、承り候へバ、旧冬類焼之節、焼失のよし〟     〈昨冬十二月十日記事では「殺生石後日怪談」の稿本は無事であったが、挿絵の方は焼失したのである〉     ◯ 正月十六日『馬琴日記』第三巻 ③16   〝画工柳川来ル。余、対面。とし玉持参。八犬伝八輯、二の巻さし画遣り二丁出来、見せらる〟    ◯ 天保三年(1832)正月廿日    ◇篠斎宛、七月朔付書翰(二巻・書翰番号-38)②165    〝俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。この肖面の追善にしき画、旧冬大晦日よ    り早春、以外流行いたし、処々ニて追々出板、正月夷講前迄ニ八十番余出板いたし、毎日二三万づゝうれ    捌ケ、凡惣板ニて三十六万枚うれ候。みな武家のおく向よりとりニ参り、如此ニ流行のよし、山口屋藤兵    衛のはなしニ御座候。前未聞の事ニ御座候。このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六等、一向    うれず候よし。ヶ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候板元ハ、末に至り、二万三万    づゝうれ遣り候ニ付、多く(門+坐)ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大問屋にてハ、    ヶ様之にしき絵ハほり不申、うけうりいたし候共、末ニ至り、いづれも二三百づゝ残り候を、反故同様に    田舎得意へうり候よしニ御座候。かゝる錦絵をめでたがる婦人ニ御座候。これニて、合巻類ハほねを折る    は無益といふ処を、御賢察可被下候。正月二日より白小袖ニて、腰に葬草(シキミのルビ)をさし候亡者のに    しき画、いまハしきものゝかくまでにうれ申とハ、実に意外之事ニて、呆れ候事ニ御座候。ヶ様之事を聞    候ニ付ても、弥合巻ハかく気がなくなり候也〟       〝右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日比までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし〟     ◇桂窓宛、七月朔付書翰(第二巻・書翰番号-40)②172   〝当早春、「俳優三津五郎・菊之丞追善のにしき画」、大流行いたし、八十余番出板いたし、凡三十五六万    枚うれ候ニ付、並合巻・道中双六などハ、それにおされ候て、例より捌ケあしく、小まへの板元ハ本残り、    困り候よし。死人の錦絵、正月二日比より同廿日比迄、三四十枚もうれ候とは、意外之事ニ御座候。多く    ハ右役者白むくニて、えりに数珠をかけ、腰にしきミ抔さし候、いまハしき図之処、早春かくのごとくう    れ候事、世上の婦女子の浮気なる事、是にて御さつし可被成候〟    〈記事は同年七月朔日のもの。正月二日頃から正月二十日頃にかけて、坂東三津五郎と瀬川菊之丞の死絵が婦女子、特に武家の     奥向きを中心に三十六万枚も売れたというのであるが、その余波が、購買層を同じくする合巻や道中双六に及んだという、馬     琴の見立てである。坂東三津五郎は天保二年十二月二十七日没、享年五十七才。瀬川菊之丞は天保三年一月六日没、享年三十     一才。二人の死絵は国貞・国安・国芳等が画いている。馬琴が見たものは、白無垢、襟に数珠、腰に樒を差した図柄というが、     誰の死絵であろうか。ここでは一勇斎国芳と国安の死絵をあげておく〉
      「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」 一勇斎国芳画 山口屋板 (東京都立図書館)     「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」 歌川国安画  尾伝板  (東京都立図書館)    ◯ 二月 朔日『馬琴日記』第三巻 ③26   〝(宗伯を以て)根岸画工柳川重信方へ、年賀礼ニ立寄候様、申付、とし玉二種もたせ遣ス。依之、柳川方    へ立寄、夕七時前帰宅〟    〈この年、浮世絵師の中で、馬琴と年賀の礼を交わしたのは柳川重信だけである〉    ◯ 二月 二日『馬琴日記』第三巻 ③27   〝丁子屋平兵衛より、使ヲ以、八犬伝八輯三の巻さし画の壱、右壱枚、昨日柳川より出来の(ママ)持参〟    ◯ 二月 七日『馬琴日記』第三巻 ③30   〝松前内蔵より被頼候、御蔵前画工椿年方へ、宗伯可罷越処、大風ニ付延引。右ハ、椿年画御所望ニて、    宗伯、過日被頼候よし也〟    〈宗伯は自ら仕える松前家の依頼を請け、蔵前に住む大西椿年の許を訪ねたもの〉    ◯ 二月 八日『馬琴日記』第三巻 ③31   〝宗伯、御蔵前画家椿年方ぇ被越、松前内蔵たのミの画絹持参。注文之画誂候処、当月廿日迄ニ出来のよし、    及約束〟    ◯ 二月 九日『馬琴日記』第三巻 ③31   〝丁子や平兵衛、平林庄五郎、同道ニて来ル(中略)是より画工柳川方へ罷越候よしニ付、同書(八犬伝)    八輯四ノ下、さし画の壱、画稿壱丁、并ニ、四の下稿本、料紙差添、わたし遣ス〟     ◯ 二月十一日『馬琴日記』第三巻 ③32   〝(八犬伝八輯挿絵)柳川画三の巻さし画の弐、すはの湖辺馬上旅人きせるを持居候きせるハ、今めかしく    不宜ニ付、其段申遣し、直させ可申候処、とり紛レ不及、追て申遣し、直させ可申候事〟    ◯ 二月十二日『馬琴日記』第三巻 ③33   〝八犬伝八輯三の巻さし画、旅人馬上之図、右旅人きせるを持居候ニ付、きせるハ不宜候。扇ニ画キ直させ    候様、申遣ス〟    〈版本は確かに扇になっている。「八犬伝」の時代設定に煙草も煙管も存在しないからである〉     ◯ 二月十六日『馬琴日記』第三巻 ③36   〝画工歌川広重来ル。廿三日、両国柳橋大のし富八楼にて、書画会いたし候よしニて、右すり物一枚持参。    口上申述、帰去〟    〈二月二十三日、馬琴がこの書画会に出席した形跡はない。また広重が馬琴作品の挿画を担当することもなかった。『滝沢家訪     問往来人名録』によると、二年前の文政十三年(1830)閏三月七日、広重は馬琴宅を訪れている。今回はおそらくそれ以来の来     訪と思われるが、この間もそして今後も、天保七年(1836)の馬琴の古稀を祝う書画会に参加した以外、私的な交渉は両者の間     にはなかったようだ〉    ◯ 二月十七日『馬琴日記』第三巻 ③36   〝画工柳川重信来ル。八犬伝八輯四の下さし画の壱、一枚出来、見せらる。是より、板元丁子やぇ罷越候よ    しニ付、右さし画直ニわたし遣ス。柳川手みやげ二種、被送之〟    ◯ 天保三年(1832)二月十九日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-31)②117   〝「八犬伝錦絵」の事、いかゞ致候哉、其後ほり立候様子不聞候。右板元、年始に参候節、先客有之、口状    申置罷帰り、其後未逢候故、様子しれかね候。『八犬伝』板元より故障を申にても可有之哉、難斗候。就    夫、今般『八犬伝』八輯壱の巻口絵の末半丁へ、蟹丸ぬし犬士の八歌書あらはし、且漢文にて略伝を添候    故、半丁十六行の中細字に成申候。右稿本、小津氏に見せまゐらせ候故、御聞可被下候。錦絵にては一時    のもの故、後に迄伝らず候。『八犬伝』中に加入いたし置候へば、長く遺り申候。常久ぬし、懇意には無    之候へ共、貴兄の御族弟の御事なれば、まんざらにも不覚、江戸御店に支配して被居候節、存候御仁故、    少しも御名を弘め度存候迄の老婆心切に御座候。常久ぬし没日、文政十三年七月十四日、享歳五十二ト覚    居候故、その通りに記し候処、小津氏被申には十四にあらず、十六日也と覚たりといはれ候故、又疑心お    こり申候。十四日ならば被仰下候に不及、十六日に候はゞ、其段御幸便に御しらせ可被仰下候。四ヲ六に    入木直し致させ可申候〟    〈「八犬伝錦画」(国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』)の出版が遅れている。読本「八犬伝」の板元文渓堂、丁子屋平兵衛から     横槍でも入ったのかと、馬琴は推測している。「八犬伝錦画」の板元は西村屋与八。当初この「八犬伝錦画」用にと考えてい     た蟹麿の歌を、永く後世にも伝えんと『南総里見八犬伝』の八輯に加えることにした。理由は「錦絵にては一時のもの故、後     に迄伝らず候」というものであった。この馬琴の錦絵評はあるいは江戸人一般のものでもあろう。蟹麿はしかし後世に名を遺     すことになった自詠の刻印を目にすることなく逝ってしまったのである〉    ◯ 二月廿三日『馬琴日記』第三巻 ③42   〝画工北渓、為年礼、来ル。且、奥州仙台の人ニ被頼候よしニて、書画帖持参。染筆を乞ふ。夕方ニ付、書    画帖ハ預りおく〟     〝(宗伯、松前屋敷へ参る)松前内蔵ニ被頼候椿年画、一昨日清右衛門を頼ミ、椿年方へ遣し、とりよせ置    候右之画、今日松前内蔵ぇ渡候。尤、画料百疋、椿年落手の手紙、為念差越、内蔵へ見せ候よし〟    〈「百疋」は約千文で一両の四分の一、金一分に相当する〉    ◯ 二月廿四日『馬琴日記』第三巻 ③43   〝北渓頼之画帖へ歌一首書入〟    ◯ 三月 二日『馬琴日記』第三巻 ③48   〝俳優三津五郎・菊之丞追善にしき画の事、鶴やぇ申入候処、不残うり終り、一枚も無之よしニて、右役者    追善合巻さうし、二部差越候よしニて、清右衛門持参〟    〈この死絵については正月九日記事参照。「追善合巻さうし」の題名未詳〉      ◯ 三月 六日『馬琴日記』第三巻 ③51   〝(清右衛門)俳優三津五郎・菊之丞追善にしき絵、もはや西村や・森やにも無之、山口やニてハ蔵板のも    の残り居候よしニ付、不残、乞求候よしニて持参、請取畢〟    〈山口屋蔵板の死絵だとすると、正月九日で示した国芳のものであろうか。画像は同日にあり〉      ◯ 三月十一日『馬琴日記』第三巻 ③55   〝画工柳川重信来ル。予、対面。手みやげ、被贈之。且、八犬伝八輯四の下残り画写本、并ニふくろ画写本    出来、見せらる。是より板元へ持参のよし、稿本もそのまゝさし添遣す〟    ◯ 三月廿四日 ③136   〝予、覚重より借用の諸鳥写生一巻、入用之処、栗本氏の文のミ、十餘枚抄録〟    〈覚重は馬琴の女婿渥美覚重(画号赫州)。「諸鳥写生一巻」とは「栗本氏」とあるところからすると、当時博物者として有名     な栗本丹洲の解説の入った写生画譜であろうか〉    ◯ 三月廿五日 ③136   〝予、諸鳥巻物考書、筆録畢。それより、覚重ニ画せ可申、鳥の図百五種、題目書抜き、取しらべおく〟   〈覚重に画かせた鳥の写生摸写が後に『禽鏡』になってゆく。天保四年二月朔日および同五年十月八日記事参照〉    ◯ 三月廿九日『馬琴日記』第三巻 ③67   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。八犬伝八輯下帙六之巻、さし画稿六丁わたし遣ス。手みやげ、被贈之。    八犬伝板初輯より七輯迄、ミのや甚三郎久しく質入いたし置候処、今度大坂書林河内屋長兵衛方ぇ代金百    五十両ニ売渡し候よし。尤、此度ほり立候八輯・九輯ハ、丁子屋株板ニ成候趣、今日、平兵衛物語也〟     ◯ 四月 三日『馬琴日記』第三巻 ③69   〝昨夕、火事見舞の人、追々来ル(中略)此内、画工柳川、飯田町しつくひや并に丁子や・西村や・つるや    三軒組合、見舞物代、被贈之〟    ◯ 四月 五日『馬琴日記』第三巻 ③70~71   〝画工柳川重信来ル。予、対面。右ハかねて頼置候根岸に売地面有之、百坪弱ニて、代金百両のよし。六十    両ニつけ候もの有之候へ共、未売場所は比丘尼寺辺ニて、不宜候へ共、望も有之候ハヾ、一覧いたし候様、    被申之。いづれ一両日中、宗伯可遣旨、及約束、則、帰去。柳川、此節脚気ニて休筆、右ニ付、八犬伝さ    し画、出来かね候よし也〟     〝(宗伯)柳川方へ罷越、右売地、一覧可致之処、売主他行ニ付、来ル八日ニ可罷越よし、やくそくいたし    候よし也〟   〈文政十二年(1829)の根岸転居騒動以降、馬琴の移住願望は沈静化したかに見えるが、「かねて頼置候」という書きぶりから想像    すると、依然として意欲は継続していたのである。馬琴が頼りとしたのは、前回あれほど熱心に動いた英泉ではなく、今回は柳    川重信であった。当時、重信は根岸大塚村に住んでいた。その関係であろうか。それにしても、重信の脚気、休筆するほどであ    るからひどい病状なのであろう〉           〝画工北渓来ル。予、対面。去ル二日夕、近火見舞のおくれ也。手みやげ持参。先月中差越被置候書画帖、    染筆いたし置候間、今日渡し遣す〟      ◯ 四月 六日『馬琴日記』第三巻 ③71   〝丁子や平兵衛来ル(中略)是より根岸柳川方へ罷越候間、さし画壱丁ヅヽも方便を以、画せ候様、示談〟    〈柳川重信の「八犬伝」挿絵またまた滞りがちになったようである〉      ◯ 四月 八日『馬琴日記』第三巻 ③72   〝宗伯、根岸柳川重信方へ罷越、同人紹介の売地面一見いたし、夕七時比帰宅〟    ◯ 四月 九日『馬琴日記』第三巻 ③73   〝(宗伯)昨日根岸へ罷越、柳川口入之売地一見いたし候処、七畳の間一ヶ所母屋ニて、外ハ茶ノ湯坐敷の    みニて、住居になりかね候よし(中略、もう一件、別人口入れの売家の記事あり)先見合せ候様、談じお    く〟    ◯ 四月廿一日『馬琴日記』第三巻 ③81   〝尾州熱田旗屋町狂歌師橘庵田鶴丸事、僧霊寿書状着。同人去秋より京都を辞し去、右同所祐学院といふ小    寺に寓居のよし。祐学院本堂修復の勧化書、被指越之〟    ◯ 四月廿五日『馬琴日記』第三巻 ③85   〝過日、田鶴丸状中ニ申来候、尾州の人仙果来訪、面謁を乞ふ。右同断(多用)ニ付、不逢〟    ◯ 四月廿六日『馬琴日記』第三巻 ③85   〝画工国安より、使ヲ以、殺生石後日五編の下、写本之義ニ付、以参、可奉伺処、病気ニ付、使を以伺候。    此ものへ御指図、被成下候様、申之。則、宗伯を以、右使ぇさし画の事示談〟   〈『殺生石後日怪談』の挿画担当が渓斎英泉から歌川国安に替わった。やはり英泉の遅筆が原因であろうか〉    ◯ 四月二十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第二巻・第二巻-32)②122   〝(「八犬伝」八輯)下帙も引つゞき、八九月比出板のつもりニて、五六の巻ハ板木師ニわたし(三字ムシ)    ほらせ候得ども、画工柳川病気のよしニて、下帙ハ画は一枚も出来不申、板元も甚困り候得ども、いたし    方なく、又画ニて幕つかへ候。〟    〈文化十一年の初輯以来、「八犬伝」の挿絵をひとりで担当してきた柳川重信、このところの体調不良で、挿絵がままならず、     八輯の上帙の出板が四月下旬から五月下旬にずれ込んだり、また八九月出板予定の下帙の画が一枚も出来ていなかったりで、     とうとう「幕がつかへ」てしまった。またしても画工で延引か、という馬琴たちのため息である。重信に限らないが、戯作者     は画工の病気・我が儘に手を焼いたようである。五月二十一日付、篠斎宛書翰によると八輯上帙の発売は五月二十日であった〉     ◯ 四月二十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-33)   ◇ ②128    〝「八犬伝にしき画」出板延引に付、かにまろぬし御歌、八輯巻端余紙へ加入、且御略伝もしるしつけ候趣、    桂窓子へ右の稿本見せ候に付、委細御承知にて、貴君にも御満足に思召候よし、并に御同人忌、琴魚様よ    り七月十四日ト御記し被遣候故、其趣にしるし候処、桂窓子云々被申候に付、御問合せ申上候へば、桂窓    子被申候ごとく十六日のよし〟    〈「八犬伝にしき画」は国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』。この出板が遅れているため、『南総里見八犬伝』での披露の方が先     になった。九月十六日付、桂窓書翰(番号46)によると、遅れの原因は国芳の遅筆にあったようだが、ともあれ「一時のもの」     でしかない錦絵ではなく「後世に迄伝わる」読本に、蟹麻呂の名を残すことになったのである。第八輯の刊本には〝いはやの     かにまろおぢが、八犬伝をめでよろこびて、よみたる八うた〟に続いて、蟹麻呂の略伝があり〝文政十三年。庚寅秋七月十六     日病没す。享歳五十二〟と当初原稿の日付十四日を十六日に直している〉     ◇ ②136   〝(「八犬伝」第八輯)上帙五冊は、まづ申さば、下帙の仕入趣向にて、うまみは下帙の方に可有之候。下    帙も八九月中迄にうり出し度とヤ、板元連りに急ギ候故、五ノ巻ははやほりに出し候へ共、画工柳川労下    地のやうなる病症にて、机にかゝるとふさぎて筆がとられぬと申、下帙の画、一枚も出来不申候。又画工    にて幕つかへ候故、いそぎ稿し候かひもなく、中だるみいたし候。此画工は、画にて飯をくはぬ人故、か    やうの病気も起り候事と存候。何とぞ、はやく画せたく存候へ共、病気と申事故、さいそくもいたしかね、    板元も大困りに御座候。とかく障り出来たがり、こまり申候〟    〈柳川重信は「此画工は、画にて飯をくはぬ人」とある。これは本業を別に持っているという意味であろうか。『滝沢家訪問往     来人名録』(天保六年四月頃)〝根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳川重信〟の記事か     らすると、初代の重信は「根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子」ということになる。すると本業は「根岸中村御玄関番」か。     「根岸」は重信の住所、役職は「御玄関番」ということであろうが、「中村」とは何であろうか、地名か家名か、これがよく     分からない〉     ◯ 五月十四日『馬琴日記』第三巻 ③102   〝音羽町板木師伊兵衛来ル。右は、山口や板殺生石の画、今日比、国安方ニて出来のよしニ候間、罷越候て、    聞合せ可申哉と云。取次おミち也。予云、その義ハ勝手次第たるべし〟      ◯ 五月 廿日『馬琴日記』第三巻 ③106   〝画工国安方より、殺生石五編四の巻絵出来、見せらる。即刻一覧、宜候間、板元へ遣し候様、右、使ぇ申    聞、写本そのまゝ返し遣す〟     ◯ 五月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-35)②144   〝(「八犬伝」第八輯下帙)此節八ノ下、不残稿し畢、但つけがなのミ、半分遺り候。筆工も七の巻出来候    へ共、画工不快のよしニて、今に一枚も画キ不申、はり合無之候へ共、もはや下帙五冊、あらまし稿し畢    候間、一安心ニ御座候〟    〈画工柳川重信の不快は馬琴の精神状態にまで影響したのである〉    ◯ 五月廿六日『馬琴日記』第三巻 ③110   〝宗伯を丁子やぇ立よらせ、八犬伝八輯上帙稿本の事并ニ柳川さし画遅滞之要談等、申遣之〟    ◯ 五月廿七日『馬琴日記』第三巻 ③111   〝(丁子屋平兵衛来訪)八犬伝八輯五の巻さし画壱丁、昨日、柳川方より出来のよしニて、見せらる。尚又    壱丁、今日中ニ出来のよし。いづれ柳川、夕方此方へ罷越候よし也〟     〝丁子や平兵衛来ル。金兵衛筆工、此度ハ延引遅滞ニ付、きびしく致催促処、四ノ下ハ外より参候品も有    之、はやくハ出来かね候よし申ニ付、仙吉ぇかゝせ申度よし、申之。仙吉ハ筆工もあしく、且、かのも    の近来不届ニ付、遣し候事好しからず候へ共、格別急ギ候ハヾ、仙吉へかけ合候様、及示談。依之、平    兵衛、今日、向嶋仙吉方へ罷越、かけ合可申よし〟    〈馬琴は筆工・中川金兵衛を信頼しているが、英泉から紹介された仙吉(仙橘)の方は気に召さないようだ〉       〝音羽町板木師伊兵衛来ル。殺生石さし画、国安方より出来候哉、今日、国安方へ罷越候ニ付、伺候旨、申    之。取次むら(下女の名)ニ付、宗伯を以、右さし画ハ、不残出来、筆工も昨日一冊出来候へ共、右落字    有之候間、写本直させ候つもり。依之、明日夕方罷越候様、示談〟      ◯ 五月廿八日『馬琴日記』第三巻 ③113   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯五ノさし画の弐、出来、被為見之(中略)柳川へは、八ノ上下    さし画稿、四丁わたし、画ぐみ注文、示談畢〟    ◯ 五月廿九日『馬琴日記』第三巻 ③114   〝丁子や平兵衛、筆工向嶋仙橘同道ニて来ル。仙橘手みやげ、手製三色上牡丹餅小片木折ニ入、持参。予、    対面。一昨日、丁子や申ニ任せ、八犬伝八輯八ノ下并ニ五ノ附録共、筆工右仙橘にかゝせ候つもり、書    やうの心得の事、申ふくめ、五ト八ノ下稿本三冊、料紙差添、わたし遣ス〟     ◯ 六月 六日『馬琴日記』第三巻 ③119   〝画工重信より、口上書を以、やくそくにたがひ、口画を先へいたし候申訳、申来ル〟    ◯ 六月 八日『馬琴日記』第三巻 ③121   〝画工国安より、使ヲ以、殺生石五編三・四両巻、校合相済候哉ト問ニ来ル。右写本三の巻筆工ハ、先達    而出来、板元より彫刻ニ出し置候五ノ巻ハ、筆工未出来旨、及挨拶。因て帰去。取次村(下女むら)也。    板元山口や藤兵衛より、問ニ遣し候哉、心得がたし〟       〝渡辺登来ル。年始答礼のおくれ也。予、対面。(中略)画工北渓、瘡毒古疾再発。此節大病のよし等、聞   之〟    〈北渓の消息が渡辺崋山経由で来るのは不思議である〉         〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯六の巻さし画の弐、画写本一枚出来、見せらる(中略)去冬、    大和八滝村ニてほり出し候文忌寸禰丸の骨龕の図説写し一綴、見せらる。去冬、松前大野幸治郎より贈候    ハ右図のみ也。柳川の写しの方、精細ニ付、しばらくかりおく。兎園別集へかき入るべき為也〟    〈壬申の乱の功臣・文忌寸禰麻呂の墓碑が発掘されたのは天保二年九月。重信は版本の挿絵だけでなく、こうした珍しい図の模     写も請け負っていたのである。この図は馬琴著『兎園小説別集』の「文忌寸禰麿骨龕所掘図説」に収められている。(『日本     随筆大成』第二期4所収)〉    ◯ 六月十日『馬琴日記』第三巻 ③123   〝丁子や平兵衛方より、八犬伝八輯、一昨日出来の二の巻さし画の弐、柳川持参の画かき入等、今に見せず。    今日迄三ヶ日不沙汰也。去ル七日夕方、八ノ下六丁より十(ママ)迄の校合写本遣し候処、筆工方ニて稿本引    さき、かりとぢもせず差越候ニ付、その段きびしくいましめ、改済候迄ハ、稿本大切ニとり扱可申候処、    麁末ニいたし、紛失等有之候てハ、とりかへし成がたし、且、商売冥利宜かるまじき旨かき付、筆工仙吉    方へ遣し候処、自分の事ト心得、立腹いたし候哉、日々人差越候処、俄ニ不沙汰三四日ニ及ぶ。平兵衛、    平生癇症ニて短気なる様子、日ごろより折々見ゆれバ、憤りたるにや、人に信をつくしがたかる事、大か    たハかくのごとし〟    〈板元丁子屋平兵衛と馬琴とのトラブル。馬琴の言い分は正論である。しかし丁子屋の方はこれを自分をことさらあげつらった     ものと受けとって立腹したというのだ。この筆工仙吉は八犬伝第七輯には筑波仙橘、第八輯下帙には墨田仙橘とある。筑波と     墨田と称したのは仙吉の住所向嶋にちなんだものであろうか〉    ◯ 六月十一日『馬琴日記』第三巻 ③123   〝(丁子屋平兵衛へ)口状書を以、画工柳川へ画のさいそくの事、出来候様、可申趣、申遣す〟     ◯ 六月十三日『馬琴日記』第三巻 ③126   〝画工柳川、根岸より来ル。八犬伝八輯五ノ口画之弐、画写本壱丁出来、見せらる。過日借用の文忌寸禰麻    呂骨龕の図説一綴、返却畢。昨十二日夜、根岸三嶋門前鈴木一郎方ニ大変有之、一郎妻、内弟子今茲十五    才ニ成候ものに切られ、深手三ヶ処のよし。即死ハ不致候へ共、平愈(ママ)心もとなきよし、外科長崎氏    いふと也。右内弟子ハ自害して死したり。立派に腹をきり、吭をかきたるよし也。一郎ハ近所ぇ夜咄しニ    出、其節宿にあらず。相手即死ニ付、様子詳ならざるよし、物がたり也。件の一郎ハ画名有年、上野宮様    御家来ニて、狩野家の画工也。関忠蔵内義の親類たるにより、予も相識の人也。件の禍ハ色慾の遺恨なる    べき歟。彼内弟子しば/\予が方へも使ニ来つるもの也。十五才といへども、小利口に見えたれバ色情な    しともいひがたし。実に駭嘆に堪ざる珍事也。又先月ハ根岸に住居の御家人火之番某、十才ニ成候忰を携、    本所辺ぇ釣ニ罷越、乱心いたし、右忰を刺殺し候よし。只独子ニてありけるとぞ。是又、今日柳川物がた    り也。今日、柳川持参の画写本ハ、同人板元丁子やぇ持参のよしニて、携帰去〟    〈この一条、前後にある柳川重信の記事に、鈴木有年の記事が挟み込まれているが、別々の記事ではなかろうか。鈴木一郎、画     名有年、狩野派絵師。根岸三嶋門前住。「滝沢家訪問往来人名簿(下)」の文政十二年(1829)十一月には〝根岸元三嶋明神前     【下谷坂本札の辻より山陵へ付てまハリ嶋の池と酒屋ニて尋ぬへし】東叡山御家来 鈴木一郎〟とあり、以来ときおり日記に     名が見える。また馬琴の『兎園小説余録』第二「鰻鱧の怪」の項には〝吾友鈴木有年、名ハ秀実、俗字は一郎、〔割註 東台     輪王寺の御家臣〕〟とある。(『日本随筆大成』第二期5所収)この「大鰻」の奇談はこの年(天保三年)閏十一月十三日に     有年が披露したもの。さて同月二十四日記事によると、鈴木一郎の内儀は平癒に向かいつつあること、また自害した少年は     〝一郎妻異母の弟のよし、全く乱心歟〟とあり「色慾の遺恨」ではなかった〉    ◯ 六月十四日『馬琴日記』第三巻 ③127   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。(中略)残り画稿六七丁ハ、柳川方ニて、画下絵いたし、差戻し候筈、相    談いたし候旨、申之〟    ◯ 六月廿一日『馬琴日記』第三巻 ③133   〝丁子や平兵衛より、昨日やくそくの狂歌水滸伝画像一冊、被指(ママ)。則、請取おく〟    〈この「狂歌水滸伝画像」とは『狂歌水滸伝集』(芍薬亭長根編・柳川重信画・文政十二年(1829)刊)。なぜ丁子屋平兵衛がこ     の本を馬琴の許に持参してきたかは六月廿三日を参照のこと〉      ◯ 六月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-37)   ◇ ②150   〝(「八犬伝」第八輯下帙五冊。原稿出来、筆耕も終わり、彫は八月下旬に仕上がる予定)但、画工柳川、    素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入、やう/\七ノ巻の内、壱のさし画迄出来、今に六七枚画    キ残り有之。板元大に気をもミ、せわり候へども、今に出来かね、困り申候〟    〈柳川重信「素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入」。昨年八月十八日、「八犬伝」の板元丁子屋平兵衛、重信を同道     して、馬琴に以後遅滞なく画くことを約束していたのに、このていたらくである。病気なのか怠慢なのか。国貞、北渓しかり、     どうも画工だけは、馬琴をもってしても、板元をもってしても、制御しにくい存在であったようだ〉      ◇ ②153   〝先年、英平吉ほりかけ候『水滸画伝』の板株ハ、大坂河内や茂兵衛買取候よし、此度初て聞知申候。右蘭    山作ハ、百回迄稿本出来、北斎画も三十五冊め迄出来居候而、右板ニ添、かひ取候間、ほり立、当節河茂    方ニて、又十冊うり出し候よしニ御座候。乍去、英平吉うり出し候節、二編の評判宜しからず候間、丁子    屋ニてハ引受不申、断候ニ付、河茂甚こまり候よし申候。右ニ付、『水滸略伝』と申ものヲ被頼候。是ハ、    柳川画キ候『水滸伝』百八人の像、略画のやうニ画キ候もの、先年狂歌連ニて出来いたし候。右板を、丁    子やかひ取候よりの思ひ付ニ御座候。なれ共、『水滸伝』ハ株物ニ付、丁平のミにてハ出板いたしかね候    間、河茂と合刻ニいたし、右百八人の像を口画ニいたし度旨申候。この略伝ハ、少々著し可申心も有之、    且附録ニ「水滸伝略評」を加へ、五六冊ニ書とり可申候旨、約束いたし候。稿本出来次第、来年彫刻いた    し度旨、両板元申居候。此附録の「水滸伝の評」ハ、後世へ遣し度心も御座候間、手透次第、来年より創    し可申存候事に御座候〟    〈『新編水滸画伝』はもともと馬琴と北斎の組み合わせで、文化二年と四年に初編として出していたもの。ところが、板元の角     丸屋甚助及び北斎と馬琴との間にトラブルが生じて、この出板から馬琴が降りてしまい、以降途絶していた。それを文政十一     年、板元英平吉が高井蘭山訳・北斎画の組み合わせで二編として出版した。(文政十一年正月十七日付、殿村篠斎宛(『馬琴     書翰集成』第一巻・書翰番号-41)こんどの出版はそれ以来のものであるが、二編の評判があまりよくないこともあって、英     平吉にかわってこの板株の持ち主になった河茂こと河内屋茂兵衛が『水滸略伝』なる企画を馬琴に持ち込んだのであった。こ     れは狂歌連が制作した略画のような『水滸伝』すなわち『狂歌水滸画伝』(芍薬亭長根編・柳川重政画・文政十三年跋)に着     想を得たものらしい〉     ◇ ②154   〝『水滸画伝』新刻、評判あしく候間、手入をいたしくれ候様、河茂より被頼候得ども、是ハかたく断り申    候。そのかハりに、『水滸後画伝』といふものを稿し遣し可申候旨、申聞置候。是ハ、『水滸後伝』を通    俗ニいたし、『後伝』のわろき処ハ書直し、『画伝』のごとく画入ニいたし候つもりニ御座候。『画伝』、    終り迄出来の上、命あらバつゞり遣し候つもりニ御座候〟   〈高井蘭山訳・北斎画の『水滸画伝』三編も評判があがらなかったらしく、河内屋より手入れを頼まれたようだが、馬琴はよほど    文化四年頃の角丸屋と北斎とのひと悶着にこだわっていると見えて、かたくなに拒否している。そのかわり河内屋の窮状を察し    てか、『水滸後画伝』なるものの約束をしている。これは結局日の目をみることはなかったが、馬琴の「水滸伝」に対する執着    の一端をうかがうことができよう〉    ◯ 六月廿三日『馬琴日記』第三巻 ③134   〝画工柳川重信、為暑中見廻、来ル。団扇四柄、被贈之。八犬伝八輯七の巻さし絵の三出来、持参。今日ハ    板元へ不参よし申ニ付、預置、筆工へ廻可申旨、示談。此後、水滸略伝画の事、其外、及示談〟     〝(丁子や手代へ)過刻、中川氏へ頼遣し候、水滸略伝・水滸後画伝目録等の事も、主人ぇ申聞候様、申付    遣ス〟    〈この「水滸略伝」とは、六月廿一日記事にある「狂歌水滸伝画像」、すなわち重信画『狂歌水滸伝集』所収の百八人像に、馬     琴の「水滸伝略評」を加えたもの。二日前の六月二十一日、馬琴が伊勢の殿村篠斎に宛てた書簡には「柳川画キ候『水滸伝』     百八人の像、略画のやうニ画キ候もの、先年狂歌連ニて出来いたし候。右板を、丁子やかひ取候よりの思ひ付ニ御座候。なれ     共、『水滸伝』ハ株物ニ付、丁平のミにてハ出板いたしかね候間、河茂と合刻ニいたし、右百八人の像を口画ニいたし度旨申     候。この略伝ハ、少々著し可申心も有之、且附録ニ「水滸伝略評」を加へ、五六冊ニ書とり可申候旨、約束いたし候。稿本出     来次第、来年彫刻いたし度旨、両板元申居候。此附録の「水滸伝の評」ハ、後世へ遺し度心も御座候間、手透次第、来年より     創し可申存候事に御座候」とあり、丁子屋平兵衛と大坂の河内屋茂兵衛はこの出版にかなり具体的な見通しを持っていたよう     である。「水滸後画伝」についても同書簡に「『水滸画伝』新刻、評判あしく候間、手入をいたしくれ候様、河茂より被頼候     得ども、是ハかたく断り申候。そのかハりに、『水滸後画伝』といふものを稿し遺し可申候旨、申聞置候。是ハ、『水滸後伝』     を通俗ニいたし、『後伝』のわろき処ハ書直し、『画伝』のごとく画入ニいたし候つもりニ御座候。『画伝』、終り迄出来の     上、命あらバつゞり遺し候つもりニ御座候」とある。     書簡中の「『水滸画伝』新刻」とは高井蘭山訳・北斎画『新編水滸画伝』(文政十一年(1828)刊)である。もともと馬琴作・     北斎画で文化二年(1805)と同四年に出版されたものだが、板元角丸屋甚助と馬琴の間にトラブルが発生して、馬琴が執筆を拒     否、以来出版が中断していた。それを河内屋茂兵衛が蘭山訳・北斎画で引き継いだのであるが、評判が上がらない。そこで河     内屋は馬琴に手直しを依頼したである。しかし馬琴はそれを断り、その代わり『水滸後伝』を読本化した『水滸後画伝』の出     版を提案したのである。画工はこれも柳川重信である。ただどういうわけか『水滸略伝』も『水滸後画伝』も未刊に終わって     しまった。この間の経緯については、高木元の論文「『水滸後画伝』攷 - 草稿本をめぐって -」が詳しい〉    ◯ 六月廿四日『馬琴日記』第三巻 ③135   〝(宗伯)画工柳川重信方へ立寄、暑中見舞申入候つもり、重信へは仏像粉本の事、本居像毛がきの事等、    はなし置候様、申付遣す〟    〈本居宣長の肖像は伊勢の殿村篠斎より入手したもの。天保二年の日記中、殿村篠斎関連の記事に宣長の肖像記事あり。八月四     日記事参照〉       〝丁子屋平兵衛、河内や茂兵衛同道ニて来訪。予、対(ママ)。俠客伝第二編潤筆内金拾両持参、被渡之。則、    請取畢。右当暮出板之手都合等、及示談。并ニ、昨日遣し候水滸略伝等、ちらしもくろく丸一枚ニいたし    度よし申ニ付、書直し候つもり。稿本うけ取おく。并ニ、柳川画百八人画像好ヲ(ママ)之事、其外注文、唐    本俗語小説ものゝ事抔、河茂へ相談〟      ◯ 天保三年(1832)七月朔日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-38)②165  ◯ 天保三年(1832)七月朔日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-39)②172     〈両書翰に「俳優三津五郎・菊之丞追善ににしき画」大流行の記事あり。ここでは省略。この年の正月二十    日記事参照〉    ◯ 七月 二日『馬琴日記』第三巻 ③141   〝丁子や平兵衛たのミ、水滸略伝・水滸後画伝のもくろく、過日、丸一丁ニ書直し置候ども、丁子やより、    其後便り無之候間、今朝、なつを以、筆工金兵衛方へ遣之〟    〈「水滸略伝」及び「水滸画伝」については、六月二十一日付殿村篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』第二巻・ 書翰番号-37)参照。     「なつ」は下女。余談ながら、馬琴の家に務める下女はこの頃長続きしない。この「なつ」も六月二十二日から仕えたが、七     月晦日には〝自分所持のふろしき包・くし箱等、窃に持出し、逐電いたし候〟という結末に至る〉     ◯ 七月 五日『馬琴日記』第三巻 ③145   〝丁子屋平兵衛より、使を以、柳川子より八犬伝遣りさし画出来参り候哉と問ニ来ル。未出来之趣申聞并ニ    水滸略伝・同後画伝近刻もくろく写本わたし遣候。此分ハ八犬伝八輯・俠客伝へつけ出し、大坂河茂へハ    別ニ板下かゝせ遣し、彼方ニてほらせ可然旨、予自身、丁平手代ぇ申聞、右写本わたし遣ス〟      ◯ 七月 八日『馬琴日記』第三巻 ③146   〝丁子屋平兵衛、為暑中見舞、来る。予、対面。手みやげ二種持参。大坂河茂へ遣し候、水滸略伝近刻もく    ろく板下写本等之事、談之。当月十六日出立にて、富士登山いたし候つもりのよし。柳川も同道云々〟      ◯ 七月 九日『馬琴日記』第三巻 ③147   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯八ノ上さし画の弐出来、見せらる。(中略)水滸伝、狂歌師ニ    て出来の柳川が水滸百八人の像古板、丁子やかひ入、今日取引相済、金子請取、板主へわたし参候よし、    物語也。八犬伝八輯の上とびらの画、紅毛狗画キ候様、示談。外わくもやう注文いたし、紅毛画箋一枚か    し遣す〟    〈丁子屋平兵衛は『狂歌水滸伝集』(重信画)の板木を入手して、いよいよ『水滸略伝』の出版に向けて準備が整ったのである〉    ◯ 七月十六日『馬琴日記』第三巻 ③153   〝丁子や平兵衛、富士登山紀行、今朝出立いたし、柳川も同道のよし〟    〈七月朔日の日記、丁子屋平兵衛来訪記事に〝富士登山去る十六日出立にて、廿七日に帰府のよし〟とあり、柳川重信も同着で     あろう〉    ◯ 七月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-40)②174   〝(「八犬伝」)画者病気も、先比痊可ニて、やう/\本月十六日ニ惣さし画・とびら共、不残出来揃ひ申    候〟   〈仕事の遅れで板元のみならず馬琴をもやきもきさせたこの画者は柳川重信、病が癒えてやっと仕事に復帰したのである〉    ◯ 七月廿四日『馬琴日記』第三巻 ③158   〝画工歌川国安、当月盆前歟、死去のよし。今日、山口や藤兵衛、告之。国安年来瘡毒ニて、歩行不自由の    よし。右古疾ニて、病死のよし。年四十許共。予が作合巻の画をこ(ママ)ゝせ候処、病死ニて已来差支ニ及    ぶべし〟      〈「お盆前歟」とあるから七月上旬の逝去か。瘡毒は梅毒。馬琴と国安の間には、英泉や重信のような私的なつきあいはなかっ     たようである。しかし英泉や北渓のように画稿を督促されることも殆どなかった。「已来差支ニ及ぶべし」という馬琴の感慨     には、国安の確かな伎倆に対する信頼感はもちろんのこと、彼の律儀な仕事ぶりに対する信頼感もこめられているような気が     する。馬琴作・国安画の合巻は以下の通り。    『傾城水滸伝』  十三編(二~十二編担当・文政九年(1826)刊~天保四年(1833)刊)                 十三編は歌川貞秀が担当    『漢楚賽擬選軍談』 三編(全て担当・文政十二年(1829)刊~天保二年(1831)刊)    『風俗金魚伝』  上下編(全て担当・文政十二年刊~天保三年刊)    『新編金瓶梅』   十集(一~二集担当・天保二年刊~同三年刊)                 三集以降は歌川国貞が担当    『殺生石後日怪談』 五編(五編上下担当・天保三年刊~同四年刊)                 初編は初代豊国と国貞、二~四編は渓斎英泉、五編を国安、死後の残りは国                 貞が担当    『千代褚良著聞集』 二輯(一輯担当・天保三年刊)                 二輯は二世北尾重政が担当する       なお馬琴作読本は一作もなし。国安に読本挿画が無いわけではない。しかし実に数少ない。式亭三馬の二点と為永春水の二点、     合計四点あるのみ。一方、合巻の挿画は七十九点にのぼる。これで見ると、国安は合巻の挿画に特異な才能を持っていたのであ     ろう。そしてそれは衆目の一致するところでもあったようだ〉    ◯ 八月 四日『馬琴日記』第三巻 ③165   〝宗伯を以、根岸柳川重信方へ、かねて頼置候仏像粉本并に本居像毛がきの事、頼に遣し、仏像図彙五冊の    内二冊、手みやげ二種、遣之〟    〈「仏像図彙」は土佐秀信画の版本『増補諸宗仏像図彙』(天明三年自序)か。「本居像」は伊勢の殿村篠斎より入手した本居宣     長像。「毛がき」を重信に依頼したのである。九月九日、重信は仕上げて馬琴に届けている〉      ◯ 八月 五日『馬琴日記』第三巻 ③166   〝山口屋藤兵衛来ル。予、対面。殺生石後日五編三・四の外題稿わたし遣す。国貞へ画キニ遣し候様、示談〟    〈『殺生石後日怪談』の挿画は担当だった歌川国安が七月十日前後に亡くなったので、国貞が急遽引き継いだのである〉     ◯ 八月十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-42)②184   〝清の陸謙が画キ候『水滸伝』百八人の像を、南溟が摸し候画巻一巻、黙老購得候よし。おく書をたのまれ、    右之巻物差越され候間、一覧いたし候。かやうのものを見候毎に、柳川が画き候は、素人好キ可致候へど    も、天罡地煞の順もなく、半和半唐にて、いやなるものに御座候。阮小二抔は、定九郎に似より候。あま    りわろきは、入木直しいたさせ可申哉とも存候。公孫勝は、魔法つかひのやうに御座候。それを板元はじ    め、うれしがり候もの多し〟    〈南溟は春木南溟。黙老は高松藩家老・木村黙老。殿村篠斎や小津桂窓と同様、馬琴作品の書評仲間にして書籍愛好家。「天罡地     煞」とは天罡星・地煞星の意味。『水滸伝』に登場する百八人を象徴する星である。「順もなく」とは、天罡星の人三十六人、     地煞星の人七十二人。柳川重信はこれをかき分けてないというのであろうか。また「半和半唐」とは和漢折衷の中途半端な描き     方をいうのだろう。馬琴が苦々しげにいう重信の『水滸伝』とは『狂歌水滸画伝』(芍薬亭長根編・文政十三年跋)であろうか〉    <早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」で画像が公開されている。外題は「清陸謙画水滸百八人     賛臨本」〝右清陸謙画水滸一百八人像賛、以耕雲外史南溟摹寫巻軸再寫焉。南溟落款壬辰夏五月偶見此     軸、不覚故(一字未詳)、因摹其図云々、像賛誤寫甚多、今推文而改正畢 著作堂〟の識語あり>
     水滸百八像賛臨本/陸謙筆(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)      ◇ ②184   〝恩貺の本居翁画像かしらの事、いぬる比、柳川に相談いたし候処、柳川申候は、画は拙からず宜く候。か    くまで画きながら、毛がきをせざりしは心得がたし。忘れたるにても候はん。六十翁にて白髪なく候はゞ、    髪際はまばらにかきおこしをいたし、それより段々あつく毛がきをいたし候はゞ、年齢位に見え可申よし    申候に付、則毛がきをたのみ遣す置候〟    〈馬琴は本居宣長肖像の「毛がき」を柳川重信に依頼する。重信、九月九日には完成して持参している。九月二十一日付、殿村篠     斎宛書翰(番号49)参照〉    ◯ 八月十七日『馬琴日記』第三巻 ③174   〝関根江山より使札。亡父友竹年忌ニ付、竹の詩歌書画とり集候ニ付、宿題の詩歌の内、しるしくれ候様、    申来り、短尺一枚、被差越之。竹の歌しるし遣ス〟    〈関根江山は書家〉     〝過日、木村亘より被指越候、陸謙画水滸伝百八人像賛、賛斗、抄録之。誤脱多し。しれ候分ハ考之〟    〈木村亘は高松藩家老・木村黙老。「陸謙画水滸伝百八人像」は八月十一日付、殿村篠斎宛書翰(番号42)参照〉    ◯ 八月十九日 ③176   〝当五月上旬、召とられ候夜盗鼠小僧次郎太夫(ママ)、今日刑罪、江戸中引まハされ候ニ付、処々見物のよし。    覚重物がたり也〟    〈覚重は娘婿・渥美覚重。画号赫州〉    ◯ 八月廿五日 ③180   〝覚重来ル。水滸百八人画像、速ニ写し出来、遣せらる。写しよろしく出来、神速之旨、及挨拶。賛の誤写    はり札落、しれかね候処有之よしニて、問る。則、その処へはりつけ、并ニ過日写し置候右賛一冊もかし    遣ス。又諸鳥写生の内、写し今日十丁出来、持参〟    〈「諸鳥写生」とは、馬琴の解説付き鳥類図譜『禽鏡』(天保五年の序)に収録される写生画である。馬琴がこの写生画に解説を     施すのは翌天保四年正月十七日から二月朔にかけてのこと。二月四日記事参照〉     <三百六種の鳥類図鑑『禽鏡』六巻・六軸は現在東洋文庫に収蔵されている。ネット上でもその一端を見る    ことが出来る>      ◯ 九月 朔日『馬琴日記』第三巻 ③184   〝山口屋藤兵衛来ル。予、対面。殺生石五編の下、国貞画外題写本見せらる。筆工金兵衛方へ廻し候様、示    談〟    ◯ 九月 六日『馬琴日記』第三巻 ③187   〝雪丸事、田中源治来ル。時候見廻、口状被申置〟     〈雪丸は墨川亭雪麿〉     ◯ 九月 八日『馬琴日記』第三巻 ③189   〝(『開巻驚奇俠客伝』二集二の巻の画稿を丁子屋の手代)直に根ぎし柳川へ持参のよし〟     ◯ 九月 九日『馬琴日記』第三巻 ③190   〝画工重信来ル。手みやげ持参。俠客伝二集壱の巻さし画の弐出来、見せらる。丁子やより、小もの付添い    罷越候に付、直に筆工金兵衛方へもたせ遣す。且、重信へ七月中頼置候、本居肖像毛がきいたされ持参。    則、請取畢〟      ◯ 九月十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-46)②196   〝「八犬伝にしき絵」も画工国よし方ニて長引、八枚の内、やう/\此節二枚出来のよし。板元にし村や、    いぬる日参候節申候。二枚ハ、当暮迄ニ出板可致候。此にしきゑにも、かにまろ哥加入いたし候間、弥世    に弘り可申候〟    〈「八犬伝にしき画」は『曲亭翁精著八犬士随一』。この企画は『馬琴日記』によると、天保二年の六月廿七日に板元西村屋与八     が持ち込んだもの。実際の出版は天保七年のことになるが、遅延の原因は板元西村屋の「手元不如意」(天保七年六月二十一日、     小津桂窓宛書翰)と国芳の遅筆にもあったようだ。もっとも、板元の台所の苦しさが国芳の遅れを誘発しているのかもしれない〉    ◯ 九月十六日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号47) ②199   〝(『開巻驚奇俠客伝』二集)柳川へもきびしく申談じ、此度ハずるけなしニ画せ候つもりニとり極メ申候〟     〈河内屋茂兵衛は『開巻驚奇€侠客伝』の板元。またしても、画工柳川重信の「ずるけ」のため「幕につかえ」が生じている。そこ     で今度こそはと、「ずるけなし」の約束を重信と取り決めたのであるが、実は、昨年の八月十八日、「八犬伝」の板元丁子屋平     兵衛、重信を同道して、馬琴に以後遅滞なく画くことを約束していた。にもかかわらず、六月二十一日付、殿村篠斎宛書翰には、     重信が「素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入」と記されいる。当てにはならないようだ〉     ◯ 九月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-49)②212   〝本居翁像頭毛がき、いよ/\過日、柳川より出来申候。白髪少々まじへ、六十歳の恰好ニ成り、格別よろ    しく成候。御歓び可被下候。柳川も、賛どもすきうつしにうつしとり候よし。此節、その下画を壁に張り    置、日々ながめ、尚又工夫を以清画いたし、秘蔵可致度(ママ)と申候。頭毛がきの故を以、彼人幸ひを得候    事に御座候〟   〈柳川重信、本居宣長肖像の頭の「毛がき」の方は早速仕上げた。九月十六日書翰にある、以降「ずるけなし」の約束を果たそうと    しているのかもしれない〉      ◯ 九月廿五日『馬琴日記』第三巻 ③202   〝昨日柳川方より指越候、俠客伝二集二の巻さし画の壱、右(丁子屋)小ものを以、筆工金兵衛方へかき入    にもたせ遣す〟      ◯ 九月廿九日『馬琴日記』第三巻 ③204   〝二代め画工北尾重政【初名よし丸】西村や与八紹介にて願度義有之、参上のよし申之、手みやげ持参。予、    対面。已来合巻の画願候よし也。是迄、石町ニ罷在候処、来月三日、中橋槇丁へ引移(一字ムシ)候よし、    申之〟    〈北尾重政二代のこの依頼は叶うことになる。十月二十四日参照。重政二代は十月三日日本橋石町から中橋槙町へ引っ越す〉    ◯ 十月 朔日『馬琴日記』第三巻 ③206   〝山本宗慎(ママ)殿御出、宗伯并ニ予、対面。(中略)先月被為見候、そゞろ物語・よし原道引、共ニ二冊、    并ニ古画かけ物二ふく・古代やくしや附、右今日返却畢。(中略)又同人被携候、古本江戸名所百人一首    一冊并七夕考一冊、被為見候ニ付、かりおく〟    〈山本宗慎は宗伯が就いた医師啓春院の後継ぎ。古書画好き。後に宗洪と改名。「よし原道引」は菱川師宣の『吉原恋の道引』、     また「古本江戸名所百人一首」は近藤清春の『江戸名所百人一首』であろうか〉    ◯ 十月 四日『馬琴日記』第三巻 ③209   〝にし村や板八犬伝にしき画、筆工出来、見せらる〟    〈この西村与八板「八犬伝にしき画」とは『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画・櫟亭琴魚の題(実は馬琴が代作)・殿村常久     の歌)であろう。昨年十一月十一日の日記に〝年内四番出し候つもりのよし〟とあるから、その残り四枚分であろうか。ただし     琴魚名で代作した馬琴の原稿は天保二年十一月九日八枚分西村与八に渡してあった〉    ◯ 十月 九日『馬琴日記』第三巻 ③212   〝(丁子や手代へ)柳川方さいそくの口状、申ふくめ遣ス〟      〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。根岸柳川へ、俠客伝の画催促に罷越候帰路のよし也〟     ◯ 十月十七日『馬琴日記』第三巻 ③218   〝根岸柳川重信方より、使以、つけ菜廿一把、被贈之。口状書ニて、謝礼申遣す〟       ◯ 十月十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-50)②216   〝(『開巻驚奇€侠客伝』二集)柳川の画、埒あき不申、やう/\画ハ弐の巻迄出来故、暮うり出しの間に    合可申哉、心もとなく存候〟      ◯ 十月十八日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-52)②222   〝(『開巻驚奇€侠客伝』二集)画工柳川の画、埒明かね候故、暮うり出しの間に合可申候哉、是又不安心    ニ御座候〟      ◯ 十月十八日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-53)   ◇ ②224   〝『俠客伝』稿本、追々出来、四の巻迄出来、只今五の巻ニ取かゝり居申候。もはや末少しニいたし候間、    当月中ニハ、不残出来可致候。但、画工柳川画埒明かね、やう/\二の巻迄出来申候。丁平殿、油断なく    さいそくいたし候間、どうやら間ニ合せ候半と存候へども、心ならず候〟     ◇ ②225   〝画工のふやくそくニハ、ほとんどこまり申候。何分暮うり出しの間ニ合候様、せり立候事ニ御座候〟    〈「丁平」は河内屋茂兵衛と共に「俠客伝」の板元である丁子屋平兵衛。心配の種は依然として重信の挿絵〉     ◯ 十月 廿日『馬琴日記』第三巻 ③221   〝画工赤坂北渓来ル。時候見廻也。予、対面。手みやげとして落鮎十七、被贈之。北渓、当夏古疾再発ニて、    久しく病臥の処、平愈(ママ)也〟    〈六月八日日記参照。「古疾」とは瘡毒〉     ◯ 十月廿四日『馬琴日記』第三巻 ③223   〝(西村屋与八の手代に)合巻著聞集二輯弐冊わたし遣ス。画工はよし丸ニ可致旨、示談。則、今の北尾重    政事也。国貞ニてハ、急に出来かね候(ママ)、右之通りに致させ候〟    〈「著聞集」は合巻『千代褚良著聞集』。国安死亡のあと挿絵を担当したのは北尾重政二代であった。もっとも「国貞ニてハ、急     に出来かね候」とあるから、出来れば国貞を起用したかったのだろう〉    ◯ 十月廿七日『馬琴日記』第三巻 ③225   〝(西村屋与八の手代)今日重政方へ画のさいそくニ罷越候処、三四日風邪ニて罷在候間、未取掛候よし。    追々順快ニ付、明日比より画キ可申のよし也。則、ちよ/\ら著聞集二輯壱・四弐冊稿本、外に同書画外    題・とびら稿、右のわたし遣ス。画外題ハ国貞方へ遣し、画せ候様、及示談。右承知致いたし、帰去〟    ◯ 十一月 朔日『馬琴日記』第三巻 ③227   〝柳川重信来ル。予、対面。手みやげ持参。右の人風邪の処、快方ニ候へども、持参(ママ)の鬱滞ニて筆硯に    不親、気分不宜候間、宗伯ニ様子見もらい度よし也。宗伯、今日ハ別して寒熱つよく打臥居候へども、懇    意之事故、胗(ママ)脉いたし、尚又、薬ヲ乞候間、明朝とりニ人遣し候様、及約束〟    〈重信、気分が鬱屈して絵筆をとる気がしない。そこで医者でもある宗伯に診察を頼んだのだが、宗伯がまた病弱で、当時は〝口     痛・風邪、今日も同様ニて病臥也〟(十月廿七日)の状態。とても他人を診るどころではないのであるが「懇意之事故」特別に     薬を見立てたのである。翌二日、柳川重信は薬を受けとっている〉    ◯ 十一月 六日『馬琴日記』第三巻 ③231   〝渥見覚重来ル。(中略)頼置候衆鳥写生の図、遺り十枚許画キ持参。是ニて不残写し畢候よし也。但、鴈    のミ遺ル〟    〈渥見覚重は馬琴の娘婿。赫州の画号で、馬琴の注文に応じ様々な絵図の模写を行っている。この「衆鳥写生の図」はこの三月末     以来の写生作業であった。(三月廿四~廿五日記事参照)これは後の天保五年(1834)、馬琴の解説がついて『禽鏡』として六巻     にまとめらる。(同年十月八日記事参照)参考までに云えば、天保十三年(1842)八月二十六日、殿村篠斎宛書簡には〝「諸鳥写     真極彩色大絵巻」六巻 但し、桐の二重箱ニ入。種々の奇鳥アリ。鳥の写真ハこゝに尽せり〟とあるものであろう。やはり鳥類     の書籍である『飼籠鳥』と共に〝代金拾両〟とある〉        〝丁子やより、手代を以、俠客伝二輯のひやうし画稿、柳川より出来、見せらる。一覧の上、観世水に散桜    いたし候様、其外注文くはしく右手代へ申聞、画稿かへし遣す〟    ◯ 十一月 七日『馬琴日記』第三巻 ③232   〝柳川忰、今朝薬取罷越、柳川昨夕より腹痛いたし、困申候よし、申之〟      〝(宗伯)根岸柳川重信方へ罷越、胗(ママ)脉いたし、薄暮帰宅〟    ◯ 十一月 八日『馬琴日記』第三巻 ③233   〝柳川より薬乞に来ル。宗伯、調合いたし置候に付、おみち、遣之〟     ◯ 十一月 九日『馬琴日記』第三巻 ③233   〝丁子やより、手代を以、俠客伝二輯表紙の画、重信より出来、見せらる。いまだ不宜、少々書直させ候様    注文、右手代に申ふくめ、写本わたし候〟      ◯ 十一月十四日『馬琴日記』第三巻 ③237   〝丁子やより、手代来る(中略)重信画延引に付、暮うり出しの間に合かね可申、左候はゞ、三集は引つゞ    き綴まじき旨、丁平へ申遣之〟    ◯ 十一月十五日『馬琴日記』第三巻 ③238   〝(宗伯)根岸柳川重信方へ見舞、胗(ママ)脉いたし(云々)〟     ◯ 十一月十八日『馬琴日記』第三巻 ③240   〝丁子や平兵衛来る。予、対面。俠客伝さし画延引に付、是より根岸柳川方へさいそくに罷越候よし也〟   〝西村やより、ちよ/\ら著聞集画外写本、国貞より出来、見せらる。筆工へ遣し候様示談、右使之手代へ    わたし遣ス〟       ◯ 十一月十九日『馬琴日記』第三巻 ③241   〝丁子や平兵衛来る。昨夕、根岸柳川方へ罷越候処、他行ニ付、尚又罷越、対面の上、俠客伝二輯残りさし    画の事、くはしく面談いたし候処、柳川疝積(ママ)とかく同様に候へども、推て出精いたし、当月中、不残    画終り可申旨、申ニ付、ぜひ/\当暮うり出可申、序文之事、何分御急ぎ被下候様、仕度旨、申之〟    ◯ 十一月二十五日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-59)②237   〝『俠客伝』二集五冊の稿本、五冊不残出来いたし候。筆工も大かた出来候へども、画工重信病気のよしニ    て、何分画出来不申候。扨々、是ニハ困り入候。打臥候程の病気にハ無之候へども、とかくふさぎ候て、    机にかゝるがいやと申病気ニ御座候。右画工ニて差支、当暮うれ出しの間ニ合かね候ハヾ、御地ハ春うり    出し不宜よしニ付、来巳の暮迄もちこしニ可成候。左候へバ、作者の勢ひもぬけ候て、引つゞき三集の作    いたし候ちからもおち候間、来夏秋の比より取かゝり可申候旨、丁平殿ぇ申聞候処、丁平殿承知不致、画    工之義は何分ニもいたし、間ニ合せ可申候間、三集稿本、引つゞき綴りくれ候様、達而被申候〟      ◯ 十一月二十五日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-60)   ◇ ②250   〝『俠客伝』二集、八月廿日頃より取かゝり、十一月廿日頃迄に、塵ものこさず稿し畢り候。壱弐の巻は、    彫刻も大抵出来候よしに候へども、何分画工、持病の疝にて気が塞ギ、机にかゝるがものうしと申候て、    一向に画キ不申候。画ヲ以飯をくはぬ人故、かやう成ルずるけ病ひも起り候事と存候。忰被頼、薬遣し候    へども、煎薬嫌ひにて、少しばかり飲候て、休薬いたし候故、実にせんかたなく候。只今さし画出来不致    候へば、とてもくれうり出しの間に合不申候間、作者の勢ひ大にぬけ、三集を引つゞき綴り候心もなく候    間、三集は、来年夏秋の比より取かゝり可申候旨、申断候処、上方板元とは申ながら、丁子やの算盤へ大    に拘り候事故、丁子や何分承知不致、ともかくもいたし、年内間に合せ可申候間、御任せ被下、何分三集    を引つゞき御綴り被下様にとくどき立、両三日前、三集の潤筆内金十枚持参致候〟    〈「画ヲ以飯をくはぬ人」「ずるけ病ひ」の画工とは柳川重信のことである。長子宗伯の調合した薬もすぐ止めてしまう、画は仕     上がらないでは、愚痴も出るというもの。経営上年内売り出しにこだわる丁子屋はなお一層気が気でない様子〉       ◇ ②252   〝『千代褚良著聞集』は画工国安、当秋物故いたし候故、此度は、今の北尾重政に画せ候。夫故、画も国安    より埒明かね、当月中旬、やうやう出来終り候〟    〈歌川国安は七月の盆前に病死していた。(『馬琴日記』第三巻、七月二十四日記事参照)そのため『千代褚良著聞集』の挿画は     北尾重政二代が引き継ぐことになった。だが「国安より埒明かね」で、馬琴には柳川重信に続いて画工が頭痛の種となった〉      ◯ 十一月二十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-62)   ◇ ②258   〝(『俠客伝』二集)画工病気のよしニて、一向ニ画が出来不申候。只今画が出来かねてハ、とても当暮う    り出しニ成不申候。大坂板元ニ付、浪花ハ暮ニ出し不申候て、春出し候てハ、捌ヶ宜しからざるよしにて、    わづかの遅速のわけを以、来年巳のくれのうり出しに成候。左様ニ成ゆき候てハ、作者の勢ひヌケ、はり    合無之間、三集は引つゞき書候心もなくなり候ニ不、来夏秋の間、綴り候半と存、其段、丁子やぇ申聞候    処、丁子や何分承知いたし不申、ともかくも仕り、暮うり出しの間ニ合せ可申候間、何とぞ三集、引つゞ    き綴り被下候へと口説立、三四日前、潤筆内金多分持参いたし、『俠客伝』三集出来次第、引つゞき『美    少年録』四輯を御書可被下候。その跡へ、『八犬伝』九輯を願候よし、勝手のミ被申候。尤、『巡島記』    は昨今被頼候事、且年来打捨置候間、急ニハ趣向も立不申候上、丁子屋のごとく、身にしミ候板元ハ多く    得がたく、今日のまゝにうけ引申候。依之、只今の内、合巻もの、今年のおこたり、二三部稿し遣し、来    早春より『俠客伝』三集を稿し候つもり、取極め候。なれども二輯年内ニ出板可致哉、未詳。来暮迄延び    候てハ、第一丁子やの懐、大ちがひニ成候間、如才あるまじく候へども、画にて飯をたべぬ画工のずるけ    病ひ、故障に成候事故、実におぼつかなく存候也〟       ◇ ②259   〝『千代褚良著聞集』ハ、画工国安、当秋物故いたし候間、今般ハ今の北尾重政ニ画せ候。夫故、国安より    画もおそく出来、十八丁ハほりニ出し有之、あと十丁ハ、いまだ筆工出来終り不申候。此仕合故、年内出    し候とも、十二月限りのうり出しニ可相成候。左候ハヾ、来春ならでハ被成御覧まじく候〟    ◯ 閏十一月 二日『馬琴日記』第三巻 ③349   〝田中源治事、雪丸来る。予、対面。愚作合巻敵討木斎伝、先年虫ぼしの節、紛失いたし候趣、かねて咄置    候処、ほし物后ニて見出し候よしニて持参。被贈之。表紙も無之候故、表紙つけおく。雪丸著述よミ本の    序文之事被頼之。先、挨拶いたしおく〟    〈「敵討木斎伝」とは合巻『武者修行木斎伝』(馬琴作・歌川豊広画・文化三年(1806)刊)か〉       ◯ 閏十一月 三日『馬琴日記』第三巻 ③250   〝覚重画真鶴・銀鳰・青蛯の図、三枚持参、請取畢〟    ◯ 閏十一月 五日『馬琴日記』第三巻 ③252   〝西宮や与八より、小ものを以、著聞集弐集三の巻の内、鉢六かしら不宜旨、先達而手代ぇ申聞置候ニ付、    画工重政ニ直させ、出来、見せらる。則、一覧。宜よし申示し、右写本返遣ス〟    ◯ 閏十一月十四日『馬琴日記』第三巻 ③259   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。画工重信病気、とかくむづかしき様子ニ付、今日根岸に罷越、俠客伝二集    さし画残り四丁、画稿うつしとらせ、稿本の付の分、請取、罷帰候。早々稿本改ニ出し度よし申ニ付、右    画稿四丁、稿本へはり入、稿本五冊ふくろかけ拵置候間、今日わたし遣ス。残りさし画四丁は、重信婿重    政に画せ候よし也〟    〈柳川重信の病状が思わしくない。婿重政は天保四年三月八日記事〝古人柳川重信壻、鈴木左源二事柳川重正初て来ル〟の重正と     同人か。ただ柳川重政(重正)の画名は「日本古典籍総合目録」には見あたらない。しかるに渓斎英泉の『無名翁随筆』(別名     『続浮世絵類考』)柳川重信の項に〝重山は師重信の聟となれり、馬琴作の俠客伝二篇五ノ巻の末二丁、重信病おもりし其時、     重山続て画しものなり〟とあり、これは馬琴日記の「残りさし画四丁は、重信婿重政に画せ候よし也」と吻合する。してみると、     馬琴の言う重正(重政)と重山とは同人ではないのか。馬琴は来年の十月二十一日記事に〝鈴木左源二事柳川重信〟とするまで、     重正(重政)名を使用する。なぜか分からないが、重山名は見あたらない〉      ◯ 閏十一月十九日『馬琴日記』第三巻 ③262   〝(宗伯)根岸柳川重信方へも立寄、病気見廻として、曲物入煮豆、遣之。当八月中、遣し置候仏像図絵と    り戻し候様申付、遣し候処、明日、彼方より返却可致旨、柳川申ト云々〟    ◯ 閏十一月 廿日『馬琴日記』第三巻 ③363   〝昨夜の火事、三宅やしきハ恙なし。うら通り少々類焼のよし。清右衛門、為名代、渡部(ママ)登方へ罷越、    口状申入候よし〟      ◯ 閏十一月廿一日『馬琴日記』第三巻 ③264   〝丁子や平兵衛、為寒中見廻、来ル。大坂河内や茂兵衛書状不謙之趣、逐一、うけ取置候内金、返却可致候    間、右うけ取書付、河茂よりとり戻しくれ候様、趣意申聞候処、丁字やいろ/\わびごといたし、此節、    河茂親類柏や源兵衛、煎肝(ママ)いたし居候間、申聞、近日同道ニて、御わび可仕旨、申ニ付、無是非、そ    の意に任せ畢。且、売薬引札、製本おく付の事、雪丸作よミ本序文断りの事等、くハしく示談〟    〈大坂河内屋茂兵衛の「不謙之趣」とは何か、二十三日記事には〝河内や茂兵衛勘定合之事、委細ニ趣意申談候処、源兵衛達てわ     び候ニ付(云々)〟とあり、金銭上のトラブルのようである。内金を返却するというのであるからただ事ではない。丁字屋の取     りなしでこの場は収まったが、六月十日記事の丁字屋とのトラブルといい、馬琴は義理を欠いた所行には敏感に反応するのであ     る。これが六月二十三日記事の『水滸略伝』『水滸後画伝』の出版の行方と関係するのであろうか。いかなる巡り合わせであろ     うか、北斎画で文化二年(1805)と四年に刊行された『水滸画伝』が中断したのは、やはり角丸屋甚助との金銭トラブルであった〉    ◯ 閏十一月廿九日『馬琴日記』第三巻 ③370   〝丁子やより、老僕を以、根岸柳川重信、昨夜中死去のよし、告来ル。明廿九日昼九時、出棺のよし也〟    〈十月下旬の風邪以来、約二ヶ月体調不良が続いていた。馬琴の長子宗伯に診て貰ったが、投薬の効能もなく遂に逝去。『開巻驚     奇俠客伝』や『南総里見八犬伝』の挿絵はどうするのであろうか。     馬琴作・重信画の作品は以下の通り〉    『犬夷評判記』  読本評判記(文政元年(1818)刊)(三枝園(殿村篠斎)批評・馬琴答述)    『赫奕媛竹節話説』合巻 六冊(文化十二年(1815)刊)    『南総里見八犬伝』読本 九輯(初輯・文化十一年(1814)刊 ~ 八輯・天保四年(1833)刊)    『開巻驚奇俠客伝』読本 五集(二集・天保四年刊)    ◯ 閏十一月 晦日『馬琴日記』第三巻 ③271   〝昼飯後より、宗伯、為予名代、根岸中村鈴木忠次郎方へ罷越、子息重信死去悔申入、同人菩提所坂本宗慶    寺に罷越、送葬待受、法事相済、夕七半前帰宅〟    ◯ 十二月 朔日『馬琴日記』第三巻 ③272   〝明後三日、柳川重信家内へ進物之ろうそく、清右衛門へ申付おく〟     ◯ 十二月 二日『馬琴日記』第三巻 ③273   〝根岸柳川重信養父御玄関鈴木忠次郎より、宗伯へ使札。薬礼として金百疋、被贈之。且、明三日初七逮夜    に付、麁茶進上致度候間、午後参くれ候様、手簡にて申来る〟    〈「養父御玄関鈴木忠次郎」の「御玄関」とは「御玄関蕃」で御小人の役務〉    ◯ 十二月 三日『馬琴日記』第三巻 ③274   〝多見蔵(下僕)ヲ以、根岸鈴木忠次郎方へ、ろうそく箱入一ツ并ニ手簡一通、予、代筆ニて認、遣之。今    日、重信初七逮夜ニ付、宗伯、被招候へども、眼病ニて参りがたきよし。并ニ、昨日被贈候薬礼の謝義等、    申付(ママ)す〟      ◯ 十二月 四日『馬琴日記』第三巻 ③275   〝丁子や平兵衛来る。八月中、柳川重信方へ遣し置候、仏像図彙弐冊、重信家内よりとり戻し、持参。則、    請取畢〟  ◯ 十二月八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-63)②265   〝画工重信、九十月両月ハ、外板元より急ニさし込たのまれ候春画とやらニ取かゝり、『俠客伝』のさし画、    一向ニ出来不申、十一月ニ至り、少々画キかゝり候内、同人、気分勝れ不申よしニて、又出来不申候。こ    れは、ずるけ病ひならんとのミ存候処、閏月より不食の病症に変じ、打臥候ニハ至らず候へ共、日々不食    故、段々おとろへ、閏十一月廿八日夜五時、物没いたし候。享年四十六。さし画の残り四丁有之。【三の    巻の内一丁、五の巻三丁】重信婿重正といふもの、若輩未熟に候へども、重信生前のたのミ故、これニ画    せ候へども、同居の事故、重信死去の取込にて、これも出来不申、やうやく三丁ハ出来候へども、甚わろ    く画キ候処あり、残り壱丁ニてせり詰申候〟    〈当初、馬琴は「俠客伝」の挿画が出来ないのは柳川重信の「ずるけ病ひ」のせいだと思っていた。実は春画の仕事が急に入り     「俠客伝」に影響が及んだようだ。どうやら春画製作が最優先されるようである。十一月に入って「俠客伝」にとりかかり始     めたものの、閏十一月から極度の食欲不振に陥り、遂に閏十一月二十八日死亡した。享年四十六才。残りの挿画は重信生前か     らの依頼で婿重正が担当することになった。この「婿重正」は後に二代重信を襲名するので、重山のことと思われるが、馬琴     はなぜか重山と記すことはなかった。その間の事情は不明である〉      ◯ 十二月八日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-64)②279   〝画工柳川重信、九月より十月迄、外の板元に、いそぎの春画とやらをたのまれ、俄にうけ込ミ、その画に    のみ取かゝり居、『俠客伝』の前約を等閑にせし故、さし画半分ほど不出来、十一月に至り、やう/\    『俠客伝』の画を画候処、いく程もなく気分あしく塞ギ候よしニて、埒明不申、忰たのまれ、療治いたし    候へども、身にしミて薬を飲ず。そのゝち両三人に見せ、転薬両三度に及び候よし、閏十一月に至り、不    食の症に変じ、病臥ハ不致候へども、ふら/\として日をおくる内、段々におとろへ、閏十一月廿八日の    夜五時に身まかり候。享年四十六也。『俠客伝』のさし画、三の巻の内【くどき画稿】壱丁・五の巻のさ    し画三丁、四丁残り、不画有之。此四丁の内弐丁ハ、重信婿重政、弱官未熟ながら、重信柳川氏さしづい    たし、弐丁画せ候。五柳村のさし画など、主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\敷候得ども、無是    非、そのまゝにほりニ出し候処、重信没し候故、此取込にて、代画も今に不出来候。ケ様之仕合故、    年内出板いたしがたく候。然ル上は、来巳の十二月うり出しにいたし候。大坂板元にハ勝手に候へども、    左候てハ合板の丁平、ふところ大ちがひにて、世話いたし候かひもなく候間、無理におしすくめ候て、大    坂・江戸共、来正月中うり出し申度よし、むなだくみにて、筆工、彫刻出来の分、先月より校合、今以最    中也。画ハ口画三丁・さし画弐丁、彫刻出来致し候のミ。筆工ハ五冊不残、彫刻出来いたし候内、四の巻    迄、追々校合いたし遣し、此節すり込せ候へども、さし画一丁、いまだ板下出来不申、不都合、御賢察可    被成候。弥来正月のうり出しのつもりニは候へども、大坂板元不の字を可申哉難斗、いまだ何とも取極め    候てハ申がたく候〟     〈柳川重信の後を引き継いだ重正(重山)の挿画は「主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\敷」思う    のだが、いかんともしがたかった。この時点で挿絵一丁まだならず、年内の出版は無理、それでも江戸の    板元丁子屋平兵衛は、経済的事情から正月出版を目指す。だが、大坂では江戸と違い、年の暮れのほうが    勝手がよいという理由で、板元河内屋茂兵衛は翌四年の暮れ出版を望んでいた。しかしこの商習慣の相違    が調整された気配はない。ともかく大急ぎで「俠客伝」の仕上げにかかっていたのである。このあたり丁    子屋平兵衛の執念が事態を動かしていたのである。この年、画工の歌川国安と柳川重信が亡くなって、そ    れぞれ北尾重政二代と柳川重正(重山)に代わったが、どうも力量に問題があって国安や重信ほどの出来    を期待出来ない、その上江戸と大坂の思惑違いもあって出版時期がハッキリしない、そのため馬琴の苛立    ちはなお一層募っていったようだ〉      ◯ 十二月十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-66)②289   〝『俠客伝』二輯、さし画残四丁、柳川婿重政代画、やう/\一昨九日雪中ニ出来いたし候。さし画出来揃    候間、板をわらせ、ほり立、正月七くさ比うり出しニいたし度よし、板元せわ人丁平、甚あせり候へ共、    七くさハ無覚束存候。いづれ十五日迄ニハ、出板ニ可成候。大坂河茂、存寄通り、来巳十二月迄延し候へ    バ、老拙為にハ、実ニよろしく候。左様ニ成候へバ、来春ゆる/\合巻物を多く書候故、勝手ニ成候へど    も、それハ不申ニ、もし当時うり出し及延引候へバ、三集ハ引つゞきて書ぬと申聞置候故、別してさハぎ    立、此節追々すり込罷在候〟     〈馬琴は自らの本音を封印して、焦る丁子屋平兵衛に協力した。大坂の河内屋には、正月出版が延引になれ    ば『俠客伝』の三集は執筆しないと伝えたのである。情に厚い馬琴をここに見る思いがする。そして丁子    屋の執念と馬琴の情は実を結ぶ。曲亭馬琴作・柳川重信画の読本『開巻驚奇俠客伝』は天保四年正月二十    一日売り出されたのである〉    ◯ 十二月十三日『馬琴日記』第三巻 ③282   〝山本宗慎殿入来。予、対面。過日返却の義貞記・陽復記、書賈かりがねやにかけ合候処、代銀参匁にまけ    候よしにて、持参せらる。右代三百三拾文わたし遣す。放言并に俠客伝(数字ムシ)も京雀・女諸礼書、    返却。尚又、板本嶋原記・百人女郎・菱川百人一首、貸進〟     〈山本宗慎は宗伯が就いた医師啓春院の嗣で古書好き。馬琴とは書籍の貸借を通して交流があった。雁金屋    は宗慎の許に出入りする書籍商であろうか。この日、馬琴は宗慎を通して雁金屋より『義貞記』と『陽復    記』を入手した。また貸しておいた自著の『玄同放言』『開巻驚奇俠客伝』と浅井了意の『京雀』および    往来物の「女諸礼書」が宗慎から返却されると同時に、「板本嶋原記」と菱川師宣の『百人女郎』と『百    人一首』が馬琴より貸し出されたのである〉      ◯ 十二月十七日『馬琴日記』第三巻 ③285   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。手みやげ、被贈之。俠客伝三集画工、北馬にいたし度よし、被及相談〟     〈丁子屋は「俠客伝」の二輯の出版も終わらないのに、先月亡くなった柳川重信に代わる三輯の画工を手配    していたのである。丁子屋は蹄斎北馬を推薦する。しかし馬琴は当時北馬とは疎遠で、文化八年(1811)    の『竹馬乃靮』以来、仕事上の関係はなかった〉    ◯ 十二月廿八日『馬琴日記』第三巻 ③294   〝(宗伯、関忠蔵方を訪問)俠客伝二集、来正月出板の案内申入、且、五六年已前(二字ムシ)ニかし置候、    大空武左衛門肖像大画幅とり戻し、かき入不被(三字ムシ)画まき一巻、ふくさともかり請(云々)〟       〈大空武左衛門肖像については、馬琴著『兎園小説余録』(文政十年(1827)五月記事・『新燕石十種』巻    六(⑥389)所収)に〝肖像の錦画数十種出たり【手拭にも染出せしもの一二種あり】後には春画めき    たる猥褻の画さへ摺出せしかば、その筋なら役人より、あなぐり禁じて、みだりがはしきものならぬも、    彼が姿絵は皆絶版せられにけり〟とある〉